クルマはピカピカのパッカードだった。今の日本で自動車と言えば、進駐軍の兵士が乗るジープか、オンボロのトラックか、バスだ。泥がこびりつき、
〈乗用車〉というものはこの国の道を走っていない。けれどもそいつは乗用車で、夏は終わったがまだ強い九月初めの陽射しを受けて輝いていた。黒塗りの車体にクロームの飾り。すべてが磨き上げられている。
だが乗るまでが
「平沢さん、何か
てんでに
平沢はその中を弁護士団に護られながら抜けてパッカードに向かった。カボチャの馬車に乗るため急ぐ
車道に止まるパッカードまで10メートルもありはしない。だがその距離を遠く感じた。近くに見えてもたどり着くことのできないもののように。
「平沢さん! 建築中の家を放って七か月も――」
などと怒鳴るブン屋の声。対して弁護士が、
「平沢
とかなんとかと叫び返す。だが平沢はただただこの場を逃げ去りたかった。それ以外に何も考えることができない。
弁護士の後に続いてクルマに乗り込む。後に別の弁護士もまたクルマに乗り込んでくる。報道陣が道の先を塞いでいるが、
「いいから出すんだ!」
弁護士のひとりが言った。パッカードが人波を掻き分けながら発車する。
車内は席が向い合せになっていた。前に三人、後ろに三人が膝突き合わせて座る格好だ。運転席との間はガラスで仕切られている。平沢は後列の真ん中で、弁護士五人に取り巻かれるかたちとなった。
「いやあ良かった。危うく事件の犯人にされるところでございましたね、平沢先生。しかしわたしが弁護人になりましたからは、どうぞご安心ください。官憲どもにはこれ以上、指一本でも触れさすものではありません」
とひとりが言う。平沢が「はあ」と応えると、
「えーえー、そうでございますとも。わたしが弁護人になりましたからは、大船に乗ったつもりでいてくださいませ。てんぷら
「平沢先生、わたしは先生の無実を固く信じておりました。平沢先生ほどのお方が、人の道に外れることなどするはずがない。ましてや帝銀事件などと。有り得ぬことだ。不心得な探偵どもが、なんというたわけたことをと怒りに震えておりました。しかしわたしが弁護人になりましたからは……」
「これは人権侵害です。民主国家の名に恥じることです。平沢先生。わたしは今度の件について、堪忍袋の緒が切れました。警察が先生にしたことは許せない! 許しては決していけないことなのです。わたしは戦います、先生。先生のために、先生のために、平沢先生のためにです。たとえ国家権力が相手だろうとわたしは
「先生。わたしが弁護人になりましたからは……」
と他の四人もまくしたてる。全員、しゃべるのを止めたなら途端に死ぬ病気でもあるかのように口を休めることがなかった。『お前はそういう病気なのか』というのは平沢自身が人生の中で人から言われ続けてきたことだが、その平沢が、『あ』とか『い』とか口を挟む隙も余裕も暇もなかった。さすがにそれを
ただ、弁護士の話というのは、聞いておもしろいものではなかった。五人が五人、同じ主張をひたすらエンエン繰り返すだけだ。彼らの話は〈話〉ではなく、自分の頭で考えて出す言葉はひとつもなく、他人にもらった決まり文句を大声でツバを飛ばしてギャンギャンギャンギャン喚き散らすだけなのわかる。
2分もすると平沢は彼らのツバでビショ濡れになった。この連中が自分を釈放させたものとは思えなかったが、
「しかし平沢先生、ひょっとすると今度のことは、先生にとってかえって良かったかもしれませんよ」
とひとりが15分ほどがなり続けた後でようやくちょっと疲れた調子に言った。他の者らが「なにおうっ?」と血相変えてまた怒鳴ったが、
「考えてもみてください。先生の名がこの件で広く知られるようになったのです。日本だけでなく海外の新聞にまで平沢
と彼が続けて言うと、他の四人の顔つきが変わった。
「おお、そうだ!」とまたひとり。「これまでは、日本はともかく外国では先生の名は知られてなかった。しかしこれからは違う!」
「そうだ! きっと世界中から、先生の絵を求める人間が我も我もと集まってくる! オークションで何万ドル、何万ルーブルの値が付けられて――」
「おお! そうだ!」「そうですとも!」
クルマの中で五人が手を振り回し、席からぴょんぴょん飛び上がって天井に頭をぶつけたり、その場でグルグルグルグルとでんぐり返したりし始めた。うちひとりは右の窓からニョロニョロと走るクルマの外に出て行ったかと思うと屋根の上でタップダンスでも踊るらしい音をしばらくさせてから左の窓からまたニュルニュルと戻ってきた。ついてはわたしを法律上の相談役に。何を言うんだこのわたしがと、互いに押しのけ合いながら狭い車内でさらに平沢にくっついてくる。全員が平沢の靴を今にも舐めそうだ。
平沢はただ茫然として、そんな彼らのさまを眺めるばかりだった。ついさっきまで絞首刑で死ぬのはもちろん、画家としての生命も絶たれたものと思っていたのだ。それがこうしてこんなクルマに乗ってることも信じられない。頬をつねれば目が醒めてすべては夢であったということになるのじゃないか。このクルマもカボチャに変わってしまうのではないかと怖くてならなかった。
が、それも
そうだ、そうなるに決まっている! 勝ったぞ、と平沢は思った。画家生命は終わりだと思わされた瞬間は、手錠を掛けられ、東京まで連れてこられたこのあいだが初めてじゃない。12人が死んだと知ったあの日から。いや、それより前からずっと、何年も十何年も毎日がその繰り返しのようであったが、しかしこれからは違う。遂におれは勝ったのだ。
そう思った。「そうだ!」と叫んだ。体の奥から次々に言葉が溢れ出るのを感じ、平沢もまた弁護士達に負けない声で勢い良くしゃべり始めた。パッカードはまだ見ぬ彼の自宅がある
「これからはぼく自身は絵を描かず、若いもんを十人ばかり雇って出来のいいやつにぼくの銘を入れて出す。それでやっていきたいですね。絵描きどもには一割もくれてやればいいだろうから……」
「ほう、なるほど、そんな手が。さすが
「うわはっは。『ぼくが描いた』とぼくが言ったらぼくが描いた絵になるでしょう。それは
「素晴らしい。そのときはぜひわたくしに……」
などと話しているうちに、
「おや、どうやらそろそろですね」
とひとりが言った。気づけばクルマは中野の道を走っていて、平沢の家への角を曲がるところになっていた。すると通りの先にたくさんの人がいる。
「おお、先生、ご覧ください。先生のためにあんなに人が……」
二百から三百人はいるだろうか。確かに平沢の家の前だ。大群衆と呼ぶべき人で道が塞がっている。平沢の帰宅を知って出迎えに来た人々に違いなかった。
弁護士達が両側の窓から身を乗り出した。「やあやあ皆さん、どうもありがとうございます。平沢画伯がここに帰ってまいりましたあーっ!」などと叫んで笑顔で手を振る。
そうしてクルマは進んでいった。その先にいる人々も応えるように手を振り上げる。
が、次の瞬間に、飛んできたのは歓声でなかった。何か実体のあるものだった。何百という小さな物体。
それが雨か
石だった。無数の石を群衆がパッカードに投げつけてきたのだ。フロントガラスに蜘蛛の巣状のヒビがバチバチといくつも入る。まともに喰らった弁護士達がぎゃっと叫んで身をハネさせる。車体にもガンガン当たって傷や凹みだらけになったものらしい音と振動が伝わってきた。
そして、声だ。「人殺し野郎ーっ!」「町を出てけーっ!」そう叫ぶ声。自分を迎える者達が