<章=怪人二十面相>
「いや……」と言った。「ちょっと待ってくれ」
「ほう」とセバスチャン。「まあこんなこと、急に言われても困るでしょうね」
当たり前だ。独自に事件の捜査をしろ、マッカーサーの名のもとに? そんな話をいきなりされて困らぬやつがいるものか。
これは手の込んだ冗談で、おれはかつがれてるんじゃないかと思った。しかしここは〈ダイイチビル〉で、窓に皇居と議事堂が見える。頭の上ではファンがグルグルと回っている。こんなことが江戸川乱歩の小説で怪人二十面相が子供を騙す仕掛けみたいにできるわけがない。
ならば、これは本当なのか。しかし〈帝銀〉の捜査と言うが……。
「あれは平沢のやつがホシだ」
「あなたはそう思ってるんでしょ」
「それでいいのか? 『別のやつを捕まえろ』とか言うんじゃ……」
「犯人が別にいるならね。わたしはどうでも構わない。あなたはどう思うんですか」
「絶対に平沢だよ」
「結構。それでやってください。できる限りのバックアップをさせてもらうことにします」
「いや、しかしそうは言うが……」
「平沢貞通は釈放された。『犯人ではない』とされてね。
「いや、そう言うけどだな」
「『簡単なことじゃない』。簡単とは思ってませんよ。でも、あなたならできるんじゃないかと思って頼んでるんだ。わたしの話がちゃんとわかってなかったですか」
「いや。しかし、しかし、しかし……」
頭上でファンがグルグル回る。古橋も、それにつられて首がグルリと一回転しそうな気がした。
マッカーサーの名入りの
みじめだった6月の旅を古橋は思い出した。そして、その後の苦しい捜査。キチガイ呼ばわりされながらにやっと捕まえた平沢貞通。
けれどもその平沢を、検事はアッサリ釈放した。おれはあいつの取り調べもさせてもらえることがなかった。
なのに新聞にはおれが拷問をしたと書き立てられて……だが、けれども今ここでパスをもらえばそれが覆せるのだろうか。
「GHQと言えども無論絶対の権限は持たない」セバスチャンは言った。「平沢をまた捕まえて、起訴し有罪にしてしまえ、と警察や検察や裁判所に言うことはね。できない。
「まあ」
と言って頷いた。アメリカでは殺しがあれば、街で適当な黒人をしょっぴいてきて殴って吐かせ、12人の陪審員すべて白人の法廷で有罪・死刑。それが日本が手本とすべき理想の司法だと弁護士は言う。
「この日本ではそうはいかない。たとえば『霧山警部補にもう一度逮捕状をくれてやれ』なんていうのを裁判所に言ってやることはできんのです。それは越権行為だし、そうでなくてもいろいろとまずい」
「まあ」と言ってまた頷く。
「わかるでしょう。そこであなただ。ひとりの刑事をマッカーサーの特命捜査官として指名し、日本警察とは別に独立して動く権限を与える。我々にできることはその程度。あなたが誰に目星をつけて事件を追うかは知らない、ということにする」
「は?」と言った。「いや、そんなこと言うが……」
「そう。名刺班の一員で、平沢に手錠を掛けた刑事のひとりであるあなたを選んでその言い分は通らんでしょう。しかし、事件解決には、これしかないと判断した。これはほとんど達成不可能な
そんなこと言いながら、セバスチャンはニヤニヤと楽しそうに笑っている。
「だが、あなたは刑事の仕事を命懸けだと言うんでしょう。『俺はいつも命懸けでホシを挙げてきたのだし、平沢を捕まえて東京へ連れてきたのも命懸けだった』と」
「それは……」
と言った。それ以上に返す言葉はなかった。確かにそんなことを、平沢を護送したとき津波のように押し寄せてきたブン屋に向かって大声で叫び立てた覚えはある。
セバスチャンは、「それならひとつ、命懸けの仕事ができるところを見せてくれませんか。ことがこうなった以上、平沢をまた捕まえるには決定的な証拠が要る。これはほんとに命懸けになるかもですが、あなたにそいつを見つけてきてほしいわけです」
「わかるよ」と言った。「だが……」
「とても難しい。それもわかっているつもりです。おまけに、何を見つけてもGHQのデッチ上げに違いないと言われるでしょう。となれば……」
「なんだ?」
「それを元に平沢から全面自供を取らねばならない。マッカーサーの委任状があればあなたが取り調べられる。その邪魔だけは、今度は誰にもさせずに済むというわけです。〈マムシのナナ〉と呼ばれる腕でナントヤラ病の嘘つき男を落とせるか、という話でもあるわけだ。フルハシサン。これもあなたに命懸けでやってみせてほしいんですよ」
この作では〈キチガイ〉という言葉を頻出させることになりますが、帝銀事件のGHQ実験説を信じる者が平沢犯人説を取る者達をそう呼んだ事実を描くに必要なものです。