〈乗用車〉というものは今の東京を走っていない。走っていても日本人は普通乗れない。〈戦後〉の道を
接収住宅に住む白人が家族で乗るものと決まっている。そうして日本の道を走る。町のようすをのんびりと眺められるスピードでだ。町と言っても並ぶのはどこへ行っても露店であり、人がものを買っているのが輪タクの席から見て取れる。戦勝国の人間が馬に劣るが馬より安い労働力の
日本は敗戦国であり、
「そのくらいにしといた方がいいでしょう」
「まだ二杯しか飲んでない」
「二杯
古橋が黙っていると、
「わかってくださいよ。ウチは別に酒を飲ます店じゃない。うどんを食わせる店なんですから」
「じゃあ、うどん」
と古橋は言った。刑事になってからずっと、麺を口にしたことはない。それは長シャリというものであり、事件捜査を長引かせるものだからだ。もしもうっかりサア食べようとしたところで、『殺しがあった』といって呼ばれでもすれば、丼を置いてすぐさま
これまでは。けれど、構うものかと思った。どうせこれから先に
「あいよ。うどん一丁ね」
言って店主はうどんの玉を鍋に入れて湯がき始めた。それから、「一緒にタマゴはどうです」と加える。張られた札に眼を走らすと、うどん一杯が
「いいよ別に」
と古橋は言った。振り返って通りを眺める。路面電車が警笛を鳴らしながら過ぎていく。街は宵の口だった。九月の初めともなれば、昼の間は暑くともこの時間には涼しく感じる。
こんな露店の中にいれば尚更だ。古橋は肌寒いほどに空気を感じた。
平沢の野郎、今頃どうしていやがるんだろうなと思う。おれと違って勝利の美酒に酔いしれているわけだろうか。しかしあいつは捕まえたとき、
だからええと、うどんは七杯しか食えない。タマゴ付きなら三杯しか食えない。それでどうするつもりか知らんが、あいつのことだ。また人をだまくらかしてうまいことやっていくのに違いなかろう。
この事件はGHQの実験であるがゆえに解決不能。検察までがそんな結論を出してしまったからにはもう……。
「うどんお待ち」
丼が卓に置かれる音とともに声がした。古橋はどうもと言って向き直った。箸を取る。蕎麦なら刑事になる前によく食っていたものだが、しかしうどんというものを食べてみるのは初めてだった。
これがうどんか、ずいぶんと太いもんだなと思いながら箸でつまんで、まず一口食べようとする。そのときだった。
「ミスター・フルハシ?」
背後から声が聞こえた。英語らしい。ガイジンさんがいつの間にかすぐ後ろに立ったらしいなと思ったが、自分に関係あることとまったく考えなかったので気にせずそのままうどんを食べることにした。一口目を口に入れる。
その途端だ。「ヘイ」という声とともに背中を小突くようにされた。うどんをすすり込もうとしていたところだからたまらない。
古橋は汁とうどんにむせてゲホゲホと咳き込んだ。振り返ると男がひとり困ったような顔で立ってる。
白人だ。いくら涼しくなり始めたと言ってもほんの少しでしかない時節にスーツにネクタイ姿。
そしてその後ろにジープが一台止まっていた。運転席にもうひとり、《MP》と書いたヘルメットを被った軍服姿の白人。これは
「なんだ?」
と古橋は、丼と箸を手にしたまま言った。スーツの男はペラペラペラと何か言ったが古橋には何かわかるはずもない。
そこへうどん屋の主人が、「『ミスターふぐ刺し』とかなんとか言ってるみたいですけれど」
「おれは食ってるとこだと言え」
「知りませんよそんなもの」
ペラペラペラペラ。
「お客さん何か悪いことしたんじゃないですか」
「だからおれは食ってるとこだ」
古橋は箸と丼を持ったままに男を睨みつけた。男はスーツの内側に手を突っ込んだ。進駐軍の人間はそこにコルトのなんとかいう拳銃を仕込んでて、何かといえば抜くという話を聞いたことがある。
だからひょっとしてそれかと思った。しかし違った。その男が取り出したのは紙幣を束ねてクリップで留めたものであり、一枚抜いて卓に置いた。
聖徳太子の百圓札だ。それから男はうどん屋の主人に向けて何か言った。古橋にはもちろん理解できなかったが、しかし今度はなんとなく意味が理解できるような気がした。うどん屋もまた男の言葉を理解したように古橋に見えた。
『この男を丼ごともらっていくぞ。これで足りるな』と言ったのだろう。もちろん足りるに決まっていた。