粧説帝国銀行事件   作:島田イスケ

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小説

「古橋さーん、電話だよーっ!」

 

と長屋のおかみさんが自分を呼ぶ声がしたとき、古橋は部屋で小説誌を読んでいた。

 

午後6時過ぎ。1月の日が暮れたばかりで夜は若く、古橋は29歳だった。読んでる話はおもしろかったが、苦々しい気分でもいた。アメリカのニューヨークを舞台とするサスペンスもので、無実の罪で死刑判決を受けた男が牢の中で〈その日〉を待ってる。外では彼を救おうとする女が事件を追っている。

 

のはいいのだが、男がかけられた濡れ衣が25くらいのまだ若く美人の妻を殺した罪で、彼を救おうとしているのが20くらいのよりピチピチした女なのだ。どうしてそういうことになったかのいきさつが書かれてないのだが、しかし冤罪死刑囚氏は、事件の前により若い女の方に『妻と別れてキミと結婚するヨ』とかなんとか言ってたらしい。だから彼女は不倫の恋の相手であるそいつを救おうとしているのだ。

 

そこが古橋は気に入らなかった。そのうえ、なんとこの男は、妻が殺されていた時刻に別の女をナンパして、街で遊んでいたのである。だからボクは無実です、ナンパ相手を見つけてください! というので不倫相手の子は幻のナンパ相手の女を探す。

 

という話なのだがつまり全体が古橋の気に入らなかった。こんな男は無実でも別に死刑でいいんじゃないか。見捨てろ。浮気とかナンパとか、することのない男を見つけろ。それがキミのためじゃないかと、ヒロインに対し言いたくなる。殺しはともかく、キミはこの男に騙されてるんじゃないかな。一緒になってもすぐ正体を現して、5年後にキミは捨てられるんじゃないのか。

 

だから真犯人(ホンボシ)を捕まえるのは、こいつの死刑が執行された後の方が良くないか――そんなふうに思えてならない。この小説がアメリカで出たのが今から6年前。1942年らしいがあの戦争中にこんなものが読まれていたのか。まだ日本が太平洋でバカスカ勝ってた頃ではないか。

 

なんでそんな時勢にこんな――ガダルカナルの兵隊も、これを楽しんで読んでいたのか? としたら、どうも理解に苦しむ。こんな野郎はこの島のジャップに渡して銃剣で突かれ、丸焼きにされて食われてしまえばいいんだと読んで思わなかったのだろうか。

 

そんなふうに感じてならない。国が存亡の危機にあるとき女をナンパし浮気している男は死刑だ! それでいいではないか。しかしその男は、ボクは妻を殺してません無実なんですと言って泣く。事件の前にボクは妻と不仲でしたが、だからと言って殺してません。

 

どうして不仲だったと言えば、ボクは何も悪くなく、妻の方にすべての原因がありました。ボクを愛してないくせに、『別れよう』と言うと『イヤだ』と応えるのです。ボクをバカにして笑いながら、『絶対に離婚してあげないわ』と、毎日がその繰り返し。

 

そういうやつだったんですよあいつは! ですが殺してません、信じてくださいと男は言うが、刑事としては殺人事件そのものよりも、そこが『なんで』と問い詰めたいところだった。なんで奥さん、あんたとの離婚を拒んでいたわけなのさ。しかしそれは説明されず、刑執行の刻限が迫る。果たしてその日その時までに、〈幻の女〉を見つけられるか?

 

どうでもいいと思いながらもおもしろく読んでたところに呼び出しだ。警視庁で刑事をやってりゃ非番取り消しはいつものことだ。「はーい」と言って受けに行く。

 

それが今年の1月26日だった。(おもて)に出ると地面には雪。昼間に降って止んだものが解けずに残っている。おかみさんに「寒いっすねえ」と言いながら受話器を取った。

 

「古橋です」

 

『殺しだ。10人ほど死んでる』

 

「10人? ヤクザの出入りかなんか?」

 

『いいからすぐに来い。場所は――』

 

言われて椎名町(しいなまち)へ。古橋が住む目黒から、池袋で西武線に乗り換えてすぐ一駅だった。駅前に交番があったので、警察手帳を出して言った。

 

「本庁の一課です。殺しの現場(ゲンジョウ)への道を……」

 

「ご苦労様です。その先の角を曲がってすぐですよ」

 

地図を見せて教えてくれる。歩いても1、2分の距離らしかった。

 

「ありがと」

 

言って飛び出した。けれどもすぐ『あれ?』と思った。〈その先の角〉と言われたその角を曲がろうとしたその時だ。

 

道が入り組んでいる。先でいくつもに分れていて、それぞれにカーブしていて見通しが利かない。地図ではさほど感じなかったが、実際に眼にしてみるとまるで迷路だ。

 

とは言っても下町の道はどこでもこうだろうが、電話では殺しの現場は銀行だと聞いていた。こんなところに銀行の支店?

 

そんなものを建てる場所かな、と見て思う。民家が並ぶ裏通りで、見える範囲にあるのは塀や庭木ばかり。銭湯でもやるには良くても、銀行が支店を構える道のようには見えなかった。

 

ほんとにここでいいのかよ、と思いながら足を進める。宵闇に雪をまぶして道は白黒のまだら模様だ。木の板塀に《YANKEE GO HOME》と書いた紙が貼られていたりするが、これはつまりその家に出入りしてるヤンキーさんがいるってことか。

 

たぶんそうなんだろうな、などと思いつつ歩いて行くと、カーブを抜けたところで行く手に人だかりが見えた。この寒空にまたずいぶんな人数だ。事件と聞いて集まってきた野次馬だろう。

 

なら現場に違いない。古橋は雪にぬかるむ道を急いでそこまで行った。

 

「警察です。通してください」

 

言って人を掻き分ける。その先では警察の人間とわかる者らが何人も立ち働いていた。どうやら到着――というところで、しかしまた『あれ?』と思う。

 

ほんとにここで間違いないのか? そんな疑問をまず感じる。目の前にある建物は、古橋には銀行の支店のように見えなかった。




W・アイリッシュの『幻の女』が〈宝石〉に掲載されたのは1950年。従ってここで古橋が読んでいるのは別の作家の別の作品ということになります。
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