石は飛んでこなくなった。『火ぃ点けてやる』という声や、『出てこい、ブッ殺してやる』という声や、『引きずり出して木に吊るそうぜ』という声も聞こえなくなった。別に弁護士が叫ぶ言葉に外の者らが納得したわけではない。
『あの事件はGHQの実験だーっ! あんたらにそれがわからんのかーっ!』
そのように叫ぶ新たな勢力が来たからだ。家の前に群れる者らは、その者達に左右から挟まれる形となった。だから石を投げたりできない。
というだけの話である。後から押し寄せてきた者達は、『実験、実験』とコールを始めた。
『ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ!』
『ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ!』
そして衆を率いる者が、
『帝銀事件はGHQの実験であーるっ! やったのは〈七三一〉の隊員であーるっ! だから平沢が詐欺師であろーと、過去に放火をしていよーと、この七か月北海道で人目を避けて暮らしていよーと無実なのは無実なのだーっ!』
と叫んで皆が、
『おーっ!』
と応える。いつもであれば閑静な中野の夜の住宅街に、そんな声が鳴り響いた。
『たとえ
『そうだーっ!』
「どっちにしてももうこの家に住めないわね」
とマサが言う。平沢は新聞を読みながらに「うるさい」と応えた。
「横でゴチャゴチャ言うな。新聞が読めんじゃないか」
「あなたこの状況でそんなもの読めるの?」
『ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ!』
群衆のコールが聞こえる。対して昼からいた者達が、
『ハン、ニン、だ! ハン、ニン、だ! ハン、ニン、だ! ハン、ニン、だ!』
と返し始めた。中に混じって、
『お前らバカじゃねーのか? 変な噂を信じてるだけだろ!』
と叫ぶ声も聞こえる。平沢は言った。
「おれにはな、お前の声がいちばんうるさく聞こえるんだよ」
『ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ!』
『ハン、ニン、だ! ハン、ニン、だ! ハン、ニン、だ! ハン、ニン、だ!』
「そーでしょーねえ。この七か月、よっぽど静かに心安らかに暮らしていたんでしょーねえ」
『出所不明の大金を持ってたからってそれがなんだーっ! 春画を描いて一年間忘れていたものでないとは言い切れなーいっ!』
『バカかーっ? だったらそんなもん、なんで偽名で預金するんだーっ!』
「なんで偽名で預金したの?」
「うるさい。だから新聞を読ませろとおれは言ってるんだ」
『詐欺師だから犯人と言えなーいっ! あんなものは詐欺とも言えなーいっ!』
『じゃあ小切手の主は誰だーっ! 〈幻の男〉を見つけてみろーっ!』
「アイリッシュの小説みたいになってきたね」
「誰だそいつは。おれは知らん。なんにも思い出せん」
「自分に都合悪いことは」
「だからうるさいんだよ。新聞を読ませろと言ってるだろう」
『ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ!』
『ハン、ニン、だ! ハン、ニン、だ! ハン、ニン、だ! ハン、ニン、だ!』
『ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ!』
『ハン、ニン、だ! ハン、ニン、だ! ハン、ニン、だ! ハン、ニン、だ!』
「黙っていたけど、読めましたか」
「だーっ!」
と言った。新聞をビリビリ破る。
「あなたが悪いのよ」とマサが言う。「放火に横領、詐欺、放火。あなたがさんざん悪いことしてきたのは知ってるけど」
「今『放火』って二度言った」
「何度もやってんでしょうが。それは知ってるけど、あたしに言わせりゃこの七か月よ。北海道でなーにをやっていたわけなの。建築中のこの家ほっぽり出しちゃってさあ」
「だからそいつは親父が死にかけてだな」
「おとーさま。あなたが破いた新聞には『元気だった』って書いてあるけど読まなかったの?」
「お前が横で邪魔するから読めなかったんだ」
「おとーさまは元気なのよね」
「ああ、ピンピンしているよ。おれはどういう嘘が書いてあるのか知りたくてだな……」
そこでハッと気づいた。慌てて言った。
「いや、死にかけていた。今日明日にも危ないんじゃないかな。そんな話聞いてないか」
「『元気だ』という話以外聞いてません」
「そうか」と言った。「ええと、新聞……」
それは破いてしまった。しかし、
「ほら」
言って渡された。ドンと分厚い新聞紙の束。平沢が警察に捕まっていた二週間分だろう。
「好きなだけ読んでれば?」
外からはまだコールが聞こえ、『平沢のやつはこの七か月、北海道で何をしてたと言うんだーっ!』という声がする。対して、
『そんなのは関係なーいっ! GHQの実験なのが確かだから画家の平沢は無実なのだーっ!』
『バカのひとつ覚えはやめろーっ! 病気の親を看病してたとでも言うのかーっ!』
そこでピタリと止んだ。中野の街に今なぜか、急に静寂が戻ったようだ。平沢は新聞を広げて自分について書かれている記事を探した。
だが静けさは続かなかった。十秒ほどでまた声が聞こえてくる。
『そんなのは関係なーいっ! GHQの実験なのが確かだから画家の平沢は無実なのだーっ!』