一つ、昔話をしよう。
この身がこの世界に降り立ったのは、今から十数年前にまで遡る。
睡眠から起き上がるようにして体を覚醒させたのは、このアルザーノ帝国と呼ばれる大都市の辺境の地であった。
「───ここは、一体……?」
儚く散った記憶を探る。
見たことも、聞いたことも無い、科学と魔術の共存様式を為せたこの世界を、衛宮士郎が知っているはずが無かった。
しかしこの身が、抑止力から派遣され、霊長の守護者としての肉体が結ばれたのであれば、為すべき事象は一つのみ。
奇跡の具現とも呼ばれし高尚な一幕だろうと、その瞳に眠るのは機械の如く惨殺を為す機構のみ。
───故に、こうして知性を以て顕現すること自体が異常であり。
前例のなき非現実が、これまで積み上げてきた経験を伴って酷く警鐘を鳴らしていた。
「何がどうなっている? 私は、何の為にこの世界に呼ばれた───?」
過ごしやすい気候だったのは覚えている。
季節にすれば、春だろうか。
温かく天上を照らす日光が、この身に浸る泥ごと癒してくれるのではないかと錯覚してしまう程に。
「……とにかく、動き出さねば始まらない、か。私が呼ばれた以上、この世界に危機が迫っているのは、覆しようのない事実だ───」
その光を振り払うように、衛宮士郎は具現化した両足で動き出す。
この身が現世に呼ばれる理由としては、大きく分かれて二つある。
一つは、嘗ての風景と共に乗り越えた濃い数週間。
聖杯からの知識と、隣で歩むマスターと共に戦場を駆ける。魔術師同士の殺し合い、聖杯戦争。
だが、これは違う。
元より聖杯からの知識は感じられないし、何より体を構成する魔力の先がこの世界であることは使者である衛宮士郎自身が一番良く理解していた。
「故に、私が具現化された理由はもう一つ。守護者としての、仕事のみ」
踏み込む足に力が入る。
鷹の顔は鋭く輝き、両手は既に双剣を握るが如く閉じていた。
質素なマントを首にかけ、体を包む漆黒の軽鎧。
千里眼が覗く果ては、世界が認めた病巣へと向けられる。
「前提情報も皆無。人理破壊の寸毫前と言う訳でもない。この景色は、至って普通だな……」
だが、この日常が数刻先には紅く染め上がると思うと、酷く心が押しつぶされる。
根源へと到達か。
地球規模での大量虐殺か。
神霊クラスの顕現は、この身では対処できないので除外とする。
理由は分からないが、その最悪がこの地を支配する前に、癌を取り除かねばならない。
───深呼吸。
既に答えは得た。錬鉄の足跡は、既に揺るがず。
「では、始めようか───」
辺境の地で為された、ただ一つの奇跡。
誰も知らない幕開けが、静かに為されたというのに、役者は悠々と日常に呑まれたまま。
緊張感を纏うのは衛宮士郎ただ一人。
誰も知らなくて良い。関係の無い一般人にとって、知らず知らずのうちに終わっている刹那の殺戮。
歩みだした両足が止まる事は無く、永久に荒野を目指すであろう───。
だが、こんな結末を一体誰が望んだのだろうか。
守護者としての任を受けて、派遣されたのは十数年前。
情報を集める為にこの世界に溶け込み、何の因果かとある戦争の英雄に見込まれて幾星霜。
帝国宮廷魔導士団特務分室という、魔術専門の執行部隊に組み込まれてしまい、後戻りの出来ない陥穽に陥ったのに気づいて幾ばくか。
最後の切り札として、悪行が為される寸毫前に投入されるはずの存在なはずなのに。
既にこの身を包むのは非日常の血みどろの空気ではなく、穏やかな日常の香りとなっていて───。
「そして今や、魔術学院の非常勤講師になっているとはな……。全く、十数年前の自分に聞いたら、なんと言うんだろうな」
思考を戻す。
セリカとの約束から一週間後、エミヤはアルザーノ帝国魔術学院の門の前に立っていた。
今日から三週間、世話になる仕事場だ。
内容が魔術学院の教師と言うのは納得していないが、引き受けてしまったのだからやれることはやらなければならない、か。
エミヤは己の脳裏に笑みをこぼす。
「随分と考えが甘くなったな、オレも」
衛宮士郎がシロウ=エミヤとなったのは、どれほど前の出来事だったか。
それすらも克明に覚えていない程度には、この地の空気に慣れてしまっていたようだ───。
***
「おお、待っていたよ。君が、シロウ=エミヤ君……だね?」
エミヤが案内された学院長室の扉をノックし、中に入った瞬間、大きな机に座る初老の男性がいた。
彼は人のよさそうな笑みを浮かべている。
「はい。私が、シロウ=エミヤです。短い期間ですがよろしくお願いします」
エミヤは簡単に挨拶をすると、頭を下げた。
ここが学院長室で、その中央の執務机に腰を掛けている姿からその役職は容易に想像できる。
セリカが事前に作成したというエミヤのプロフィールであろう紙と、本人を見比べながら朗らかに微笑む彼こそ、アルザーノ帝国魔術学院学院長リック=ウォーケン。
三週間と言う間だが、エミヤの上官となる男だ。
「む? 短い期間……とな?」
「? 何か間違ったことを?」
「……ああ。そういうこと。んや、何でもないわい。君はただ仕事を全うしてくれればそれで良い。して、すまないが期間をもう一度君の口から教えて欲しいんじゃが?」
「三週間、ですが」
「おお。そうじゃった、そうじゃった」
年はとりたくないわい、と苦笑いを浮かべるリック。
既に永久の時を駆けたエミヤには想像もできない悩みだが、終わりがあるというのは案外苦しくないものだ。
不老不死という理想を人間は抱くと聞くが、永遠に終わらない地獄を見せつけられてきたエミヤにとっては理解できない理想だった。
しかし、今は違う。この身には明確な答えがある。
その輝きが色褪せなければ、この足はきっとまだ走っていけるはずだ。
「……ふむ。で、一つ質問をしても良いかな?」
「なんでしょうか」
「実はのう……セリカ君から君の事を、少々態度の悪い男、と聞いていたんじゃがな……。もしや、無理をしてるんじゃないかの? そうであれば、別に気にせんでも良いぞ。なにせ、セリカ君が直々に推薦する男だ。普段通りにしていればお互いに話しやすいじゃろう」
「……なるほど。では、普段通りの口調で問題ないかな?」
ニヒルに口を歪ませる。
仮にも日本人としての教養を披露したエミヤだったが、本人がそう申し出るのであれば、こちらもそれで構わない。
それに、年功序列の考え方で言うのであれば、エミヤはリックよりも遥か彼方の存在である。
外見からは想像もできないだろうが。
「おお……結構な変わりようじゃな」
「嫌であれば、先ほどの口調に戻しても構わないが?」
「いーや、構わん。口調一つで機嫌を害するような器は持っておらんからのう」
そう大仰に笑いながら、リックはエミヤの瞳を鋭く穿つ。
彼は彼なりのやり方でシロウ=エミヤという男を測ろうとしているのだろう。
無論、その程度やってもらわないと、アルザーノ帝国魔術学院という巨大な組織を司る職務は全うできないだろう。
「して、エミヤ君。君の経歴を見させてもらったんじゃが……」
満足したのか、エミヤから視線を落とすと、リックは手に持っていた紙を見つめる。
透けている裏面から分かるように、その一枚の紙はエミヤの履歴書みたいなものだ。
出身地や生年月日から、学歴や経歴が事細かに書かれている。
セリカが事前の用意したものらしいが、本人であるエミヤもその内容は知らない。
しかし、しょうがないだろう。
この場所で、私は軍人ですと言う訳にも行かない。
故にこの学院でそれなりの地位を築いているセリカに偽装をお願いしたのだ。
懸念点としては、内容をエミヤも知らないという事であり、質問されたら流れに合わせて返答するしかないという事だ。
まあ、最悪カンニングも出来るが。
「魔術学院を卒業した、というわけではないんじゃな」
いきなり痛い質問だ。
だが、そこらへんはセリカなりに配慮したのだろうか。
これで魔術学院の卒業生と言ってしまえば、それだけエミヤへの期待値も高まってしまう。
……そんな子供みたいなことを言っている場合ではないか。
ここはアルザーノ帝国魔術学院。帝国最高峰の魔術学院だ。
仮にもそこの講師になろうとする男が、魔術学院卒業でなければ色々と問題はあるだろう。
「……それに関しては、私も懸念材料になるであろうとは思っている。私は、セリカに半ば強引に組み込まれたようなものだ。問題があるのであれば、すぐさまこの学院から立ち去る用意は出来ている」
「む? それに関しては心配いらんぞ。セリカ君の推薦があれば、非常勤という形式になってしまうが、如何な経歴の持ち主だろうと魔術講師になることは可能じゃ」
確かに問題は無いだろうが、色々と反乱がおきるのではないだろうか。
今更ながらに、面倒事に巻き込まれたという自覚を得る。
「ふむふむ。特に問題は、無さそうじゃな」
紙に目を通していたリックは頷きながら一通り流し目で、文字の羅列を読んでいく。
「よし、大丈夫じゃな。では、シロウ=エミヤ君。君を新たなアルザーノ帝国魔術学院の講師として、歓迎しよう」
「……期待に応えられるように最大限の努力はしよう。だが、過剰な期待は止してくれ。セリカの推薦とはいえ、私は底辺の魔術師だ。やれることはやらせていただくが、面白い結果にはならんと思うがな」
「そうかのう……? 確かセリカ君は、アイツほど面白い教師になれる人間もいない、と笑いながら言っておったんじゃがな」
「教師に面白いも面白くないも無いと思うが……と、失礼。実用的な話をしよう。私が赴任するクラスと、受け持つ授業内容を教えて欲しい」
逸れそうな話を再び軌道へ。
確かセリカの話であれば、エミヤにはクラスが振り分けられるはずだ。
そのクラスの子たちとうまくやりつつ、可でも不可でもない授業をすれば大丈夫だろう。
あくまでエミヤは繋ぎだ。本命は後任の方なので、遅れた分はそちらに一任することにしよう。
「君が赴任するクラスは二年次生二組じゃ」
「ふむ。二年生、か。中堅学年とは、中々に難しいクラスじゃないか。それで、私が受け持つ授業内容は何だろうか? できれば、黒魔術関連は避けてくれると嬉しいのだが」
「む? 君は二組の担任じゃからな。必修科目は全て、君がやるんじゃよ?」
瞬間、両者の間に絶望的なクレパスが出現した。
エミヤは泰然とした風貌を保ちつつ、額に汗を浮かべている。
無論それを認識できない学院長ではないが、面白いのでちょっと黙っていた。
「……少し待て。必修科目を全て、私が受け持つだと……? 何を言っている。そんなこと、私が出来る訳なかろう。良いか、もう一度聞くぞ……
「
どこからともなく冷徹な風が吹く。
少しはこれからの生活に思いを馳せていたエミヤではあったが、その一言でこれから為すべき行動が決まった。
必修科目を三週間、それも普遍的な魔術も使えないような三流以下に教えられる生徒の身にもなってみてほしい。
それに加えて、彼等生徒はアルザーノ帝国魔術学院に入学するような秀才。つまりは、並み以上実力を有する者達だ。
学生の身でありながら魔術師としての格はエミヤ以上、というのが常識となるであろうその世界で、必修科目を全て受け持つのは酷な話だろう。
エミヤは学院長の前だから、と下に置いていたリュックを再び肩にかけると、後ろを振り向く。
「すまない、リック。どうやら私には荷が重すぎる話だったようだ。忘れて欲しい」
「コラコラコラ。勝手に帰っちゃ駄目じゃろう?」
「セリカには悪いが、君から説明をしてくれると助かる。もう一度旅に出るから、探さないでくださいと私が言っていたといって欲しい」
余裕そうな口調だが、心象の硝子は粉々に砕けている。
こう見えて実は一週間、ちゃんと魔術学の予習をしていたのだ。
どうすれば学生に伝えられるか、原理を言葉で表すには如何なる方法で伝えればよいのか。
存外に真面目に取り組んできたエミヤだからこそ、その話の非現実感は刹那で感じられたのだ。
だが、リックは食い下がる。
「こちらとしてもセリカ君に嫌われたくないんじゃよ。頼む、どうかあの子たちの担任の先生になってくれないか」
リックは頭を下げる。
それは、エミヤには印象的な光景だった。
嘗て帝国宮廷魔導士団特務分室、という組織に在籍していたから分かるのだ。
高尚な魔術師という存在は、悉くが一定のプライドを有している。
前代未聞の下級魔術師としてこの世界を生きてきたエミヤだからこそ、その事実は克明に映った。
なのにも拘らず、彼は遥か下の存在であるエミヤに対して頭を下げたのだ。
その理由は何か。もちろん、生徒の為だろう。
前任の先生が忽然と姿を消し、唐突に後任の存在が必要になった現状において、一番あってはならないのが、生徒達の学習意欲の低下だ。
魔術を学問として学ぼうとしている彼らにとって、魔術講師の存在は自分達を導いてくれる存在であり、無くなってはならない存在なのだ。
「───頭をあげて欲しい。学院長が私程度の人間に頭を下げるべきではないだろう」
鷹揚に頭をあげるリック。
恐る恐る、という感じでエミヤを見る彼の姿は、この瞳には無視できなかった。
「私程度の魔術師で良いのであれば、是非やらせてほしい」
「おお……っ! やってくれるんじゃなっ!!」
するとリックは椅子を飛ばして立ち上がると、エミヤの前まで歩み寄る。
そしてその武骨な両手を、大切そうに両手で握りしめた。
「ありがとう……っ。君がいなければ、あの子たちにまた、悲しい顔をさせなければならなかったんじゃ……っ」
学院長として、一人の指導者として。
満足に教育を施すことが出来ないという事実が、どれほどの苦痛になるのか。
未だ正式な教職に就いたことが無いエミヤからすれば、分からないことだ。
それでも、嬉しそうに微笑むこの顔を、護りたかったのだ。
「よろしく頼むぞ、エミヤ君……!」
「手を尽くせる限りは尽くそう。期待に応えられる自信は無いが、この職務を全うすることを約束する」
包み込むように握られていた手は、今では握手に変わっていた。
互いを理解し、信頼する。
一見普通の握手のように見えるが、その両手に込められていた願いは当人同士にしか感じることは出来ないのだろう。
「では。君はこれから、エミヤ先生じゃな」
リックの弾けるような笑みに対して。
エミヤは全力を尽くすことを、その握手を通じて約束した。
本格的に本編の流れに入ってきましたね。次回からはエミヤ先生として、彼にしか出来ない先生になってくれるのではないか、と期待しています。
また、一番初めに少々過去について触れましたが、まだまだ語っていない過去は多いです。ですが、話が進む過程で明かされる事実も色々とあります。ですので、どうか原作と似て非なる物語を楽しんで頂ければ幸いです。