「わたしは、この学院に来れて良かったと思ってる。それは、システィーナやルミア、クラスの皆と会えたことは勿論だけど、もう一度エミヤと再会できたことも、理由」
リィエルは釣り糸を水面に垂らしながら、揺らぐ水鏡に映る己を見る。
「でも、わたしはシスティーナやルミア達とどう過ごしていけば良いのか分からない……。最近まで違う場所に居たわたしは、本当にここに居ても良いのかって思う時がある……。ねえエミヤ、わたしは本当にここに居ても良いの?」
非日常に慣れ過ぎて、逆にそれが日常となってしまった。
故に途端に触れさせられた日常に戸惑ってしまっているのだ。
こちらを心配そうに覗くように見るリィエル。痙攣したかのように震える彼女の瞳は、彼女の恐怖を具現化していた。
「大丈夫だ。君を受け入れていない者など私のクラスに居ない。とはいえ、君自身がどう思っているのかは別だがね」
「わたしが、どう思っているか……?」
「システィーナやルミアを筆頭に、多くのクラスメイトと共に過ごした日常は、君にはどう映った?」
まるで別世界だろう。
血と硝煙が日常を彩る風景だったのに、今彼女を彩るのは談話と温和の温かい風景だ。
エミヤの問いを嚙み締めるように熟考していたリィエルは、思考の為に下ろしていた視線を上げる。
「困っていない、と言えば嘘になる。でも、システィーナやルミア、そしてクラスの皆と居るのは、悪い気はしない」
「それは、心地良いということかね?」
その問いに温かく頷いたリィエル。
既に視線は下ろし、釣り糸を静謐に見つめる彼女だが、その横顔は仄かに微笑んでいた。
「そうか。ならば悩む必要は無い。君が体験した風景が日常であり、友達だ。それを心地良いと感じられたなら、君は立派なそちら側の人間だ」
思わず過去の話を思い出す。
この世界におけるイレギュラーが、決して邂逅し得ぬ奇跡を果たしてしまった日を。
雪原が舞台の、連綿と続く兄妹の絆を───。
少し感傷に浸り過ぎたか。静かに目を閉じていたエミヤが再び視界を取り戻すと、その先にはリィエルの顔面があった。
「ねえ、エミヤ。わたしは、そちら側って場所に居るの?」
「形而上の話さ。物理的に距離が離れているとか、そう言う訳では無い」
「じゃあその、そちら側って所にエミヤは居るの?」
真剣な瞳に、嘘は許されない。
だからこそエミヤは伝える。
「……私は、そちら側に居てはいけない存在だ。だが、君はそちら側に居るべき人間だ。ならば、そこを離れない方が良い」
「じゃあ、わたし以外にそちら側って場所に居る人は居るの?」
「無論いるとも。君だけじゃない。システィーナやルミアは勿論、グレンやアルベルト、イブやセラ、他の特務分室の面々も、皆そちら側の人間だろうな」
「なんでエミヤは居ないの?」
「───」
何で居ないのか。
その問いへの答えは、やはり位置する位相が違うという言葉が正しいのだろう。
彼らは未来ある人間で、この身は既に停滞を位置づけられた英霊だ。
先の戦いで歩んできた道程は間違っていないと思い出せたが、他人にそれを強要しようとは思わない。
───大きく二酸化炭素を吐きだし、思考を切り替える。
リィエルに言うべき言葉は、きっと違う。
「君達は日常の風景で笑っている姿が似合っている。これが理由では駄目かね」
するとリィエルは観念したのか触れ合いそうにまで近づいていた顔面を引っ込めた。
見渡す先は再び夜風が起こす漣の揺れる水面。
暫く釣りに戻った両者だったが、リィエルが突然独り言のように口を開けた。
「……エミヤに昔、どうして強いのかって聞いた事があったの覚えてる?」
「懐かしい話だな」
「その時にエミヤは、『皆を守る力』が欲しかったから強くなったって言ってた。だからわたしも、皆を守れるように強くなった。今は、システィーナやルミア、クラスの皆……友達を守れるようになったと思う」
リィエルの強さは本物だ。
それに、友達を守ると自分から口にすることが出来たという成長の事実に、エミヤは感慨深げに頷いた。
まあ、一つだけ訂正することがあるか。
「とはいえ、友達とは一方的に守る対象ではない。助け合うものだぞ。それは普段の生活からそうだ。君は何度も周囲の友達に助けられているだろう?」
「ん。そして、緊急事態の時はわたしが助ける」
それが分かっているのなら大丈夫だろう。
「さあ、既に夜も遅い。そろそろホテルに帰るとしようか」
そう呼びかけ、帰り支度を始める為立ち上がったエミヤを、リィエルは手で引っ張った。
「どうした?」
「エミヤも皆に助けられてる。だから、友達?」
「友達、は少々語弊があると思うが……まあ似たような関係だな」
体幹で持ちこたえたが、リィエルの引っ張る力はどう考えても普通の力ではない。
それだけエミヤを止めたかったということだろうか。
内心困惑しているエミヤとは対照的に、リィエルはその言葉を聞いてやっぱりと頷いて勝手に納得した雰囲気を出していた。
「それをエミヤは、心地良いと思ってるんだよね?」
「そうだな」
当たり前の事に頷いたつもりだったが、リィエルは突然悪戯をする弟を見守る姉のような、そんな温かい視線でエミヤを見る。
「───じゃあ、エミヤもこちら側の人間。わたしが友達と関わる日常を心地良いと思うように、エミヤもまた心地良いと思ってる」
ふふんっと満足そうに口にしたリィエル。
それを聞いたエミヤは極限にまで目を見開いた。
普段から彼の表情を知っている人間であれば、間違いなく驚くような形相をしていることだろう。
「それに、エミヤも日常の風景で笑っている姿が似合ってる。さっきのビーチバレー大会も、楽しそうだった」
「ああ───とても楽しかったとも」
そう言って苦笑いを浮かべる。
「参ったな。まさか、君に言い負かされる日が来ようとは───」
「わたし達と過ごす日常が心地良いと言ったエミヤは友達。なら、わたしはエミヤを守るし助ける」
リィエルの為の言葉が、最後には全て己に降りかかってくるとは。
流石にエミヤも笑うしかない。
最後にせめて、こちらを仲間と改めて話してくれた彼女に自分も恩返しせねばならないか。
「ああ。それは、とても心強いな」
エミヤは愛おし気にリィエルの青い髪の毛を撫でる。
最初は擽ったそうにしていたが、特に反発することなくされるがままにされていた。
その光景を見て、エミヤは思う。
───こういう日常が許されたのなら、どれほど楽だったのだろうか。
***
翌日。楽しかった自由な一日が過ぎ、エミヤ達は見学場所である白金魔導研究所へ向かっていた。
島の中心部にある研究所は、開発が進んでいる北部沿岸部とは異なり鬱蒼とした森が立ちはだかる場所に位置している。
早朝から宿舎を出発したエミヤ達は、自然の起伏を感じながらも一応舗装されている石畳の上を歩いていた。
人の手が加えられていない自然に囲まれる感覚は、エミヤからすれば楽しみながら視界を回転させることも可能だが、都会暮らしの長い生徒達には違うように映ったようだ。
「大丈夫か? 辛いようであれば、無理する必要は無いからな」
「あ、ありがとうございます……先生。ですが、これぐらい……!」
最後尾から声をかけるが、返ってくるのはどう考えても無理をしているとしか思えない返事ばかり。
道中で無理をして、本番である見学の時間に集中できないという事態は避けたい。
だが、彼らの努力を反故にしたくはない。
どうしたものかと思考を張り巡らせていると、前の方から興味深い会話が聞こえてきた。
「あんまり無理すんなよ? ほら、フラフラじゃないか。荷物ぐらいなら持つぞ?」
そこには仲間に声をかけるカッシュが辛そうな生徒の荷物を受け取っている場面であった。
以前から思っていたが、彼は周囲を気に掛けることが出来る生徒だ。
規則を破るというデメリットを被る可能性を認知しながら、女子部屋に突入を計画・実行した嘗ての男子達を率いていたのもカッシュだった。
そのカリスマ性や、積極性は彼の長所だろう。
するとその姿に感化されたのか、リィエルも動き始めていた。
「大丈夫、ルミア? 辛いなら、荷物持つ?」
「ありがとう、リィエル……じゃあ頼もうかな?」
「ん。任せて」
リィエルは近くで大変そうにしていたルミアの荷物を持っていた。
昔は独りよがりな行動が目立った彼女だが、日常に触れて友達を大切にする姿勢を会得したようだ。
昨日の言葉もそうだが、本当に成長したな。
その光景を見て、エミヤは敢えて何も動かないことにした。困難を共に乗り越えるのもまた、大切な授業だ。
既に歩き始めて数時間。カッシュとリィエルが荷物を積極的に持っていたという功績もあり、誰一人ダウンすることなく歩き続けることが出来た。
「さて、研究所まで峠は越した。残り少しだ、もうひと踏ん張りだぞ!」
エミヤの声に終わりを認識した生徒達が振り絞るように最後の気力を足に込める。
希望はすぐそこだ。もう、手を伸ばせば届くところにまで近づいてきているぞ。
***
先の声掛けから十数分後。
一行はとうとう白金魔導研究所に到着したのだった。
倒れ込むようにして休憩する生徒を全員いるか確認してからエミヤは思考を切り替える。
「……さて、警戒せねばな」
一瞬、リィエルと視線を交わす。
互いに為すべき事を理解し、それが表沙汰にならないよう尽力する。
そして視線を外すと、エミヤは改めて視界に収めるようにして白金魔導研究所を見る。
周囲の自然から切り拓かれるようにして広がるその場所は、まるで神殿と錯覚してしまうような偉容だった。
前後左右敷石の合間を潜り抜けるようにして水が浅く流れる光景は、研究内容故に必然なのだが、意図せずとも目の前の神殿じみた研究所の神秘さを引き立たせていた。
滝壺から常に上がる水煙が研究所の足元を曇らせているというのもまた、研究所という単語と背反するような光景だ。
何も知らずに連れてこられたら、観光地と勘違いしても不思議では無かった。
「何も知らずに、か」
その言葉に闇側面の内容も内包してしまっているのは、非常に残念だ。
偉容へ疲れを忘れて好奇心の視線を向ける生徒を尻目に、エミヤは精悍な瞳で周囲を一望する。
そこに、一人の初老の男が背後に手を組みながら近づいてきた。
「お久しぶりです、エミヤさん。以前相対したのは、さて何年前の出来事でしたかな?」
「さあな。あれは互いに忘れた方が良い過去だろう? 無理に掘り返す必要は無い」
「ええ、そうですね。私もあれ以降はすっかり足を洗いました。そう言う意味では、大事な分岐点でありますが、先生として今を生きているエミヤさんは既に忘却の彼方へと置いた記憶でしょう。気分を害されたようであれば謝罪を」
「不要だ。これ以上は生徒に怪しまれる」
エミヤの突き放すような言葉に、初老の男───白金魔導研究所所長バークス=ブラウモンは朗らかに笑いながら首肯した。
その姿に彼は本当に心まで濯いだのかと勘違いするかもしれないが、それは違う。
エミヤとの会話。その全てで彼は、エミヤの瞳を通過して後方にいるルミア=ティンジェルに下種な視線を向けていた。
間違いない。この男は───クロだ。
偽りの仮面を被りながら生徒達に挨拶や、今後の流れ、普段は見せないような立ち入り禁止区域への見学を許可するバークスは、最後にエミヤに向き直った。
「よろしくお願い致します、エミヤさん」
「こちらこそ。有意義な時間となることを願っています」
握手をする二人。
仮面の笑顔をするバークスと、獣の如く刃を瞳に込めたエミヤ。
一見温厚な握手をしているだけだが、内包された意味は決して日常の二文字ではない。
非日常。これは、バークス=ブラウモンからの挑戦状にも似た宣戦布告であった。
本当はここで三巻を終わらせる予定だったのに、気が付けば文字数が五桁になっていたという恐怖。急いで切り分けて、今日はここまでとさせていただきます。続きは明日ね!
さて、終盤に突入した第三巻。個人的にはリィエルに母性を感じた一話となりました。おのれ……エミヤママに続いて、ここにはリィエルママも登場するのか……!
……それも良いなと思ったのは秘密です。新たな境地、拓いちゃったかぁ。