夏の夜を少し歩く。少しも風の通らない、まるで人のことを考えなどしないデザインをした高層ビルに囲まれたその無機質で町並みは、そこにすむ人々の冷えきった喧騒と合間って、ほんの少し歩くだけで汗を身体に滲ませる。まるでこの街の陰鬱を反映ささせたかのようなじっとりした空気は退魔師のために作られた対悪魔戦闘用のスーツを包み込み、まるで僕らに逃げ場はないのだと囁くように不快感を全身に伝えてくるようだ。汗が身体に塗りたくるように張り付き不快感を増大させてくる。
出来ることならストレスになるものは少しでも排除して、どうにか快適に退魔師をしていたいけれど、生存に必要な最低限の快適さを少し越せばそういうものはわりと無視されがちだ。
とはいえ、それを間違いとは言えない。汗がうっとうしい何て言う小さな問題は生きてさえいれば帰って家のシャワーでいくらでも釣り合いは取れるし、そんなものを重視しすぎて最も大切な機能を見失ってしまえば本末転倒ではある。生存とその場の快適さ。その二つを天秤にかけてしまえば、どう考えたって釣り合わないのはわかっている。わかっているのだがもう少しなんとかならなかったのか。ならなかったのだろうな。なっていたのなら僕はそもそもこんなスーツを着ていない。
生きていれば良いことあるさ、とは言いきれないけれどもし死んでしまったのならその先はないのだということだけは言いきれる。 だから、このスーツは手放せない。生きるために、人は多少の自由を世界に捧げる。何かの小説で見た、ドミノ・ピザの普遍性だったか、そういうのとは少し違うか。
たいした意味を持ちやしない取り留めないことを考えながら人気を溢れさせた不気味な街を歩きつづける。今通りがかった彼女を見かけたのは今日でだいたい五回目。決まって憂鬱そうに僕を挟んで道路の反対側の、通りがかりの服屋のショーケースを羨ましげに見ている。お金はあるようで左手に持つ鞄はブランドものだ。それでも羨望の眼差しで見ているのだ。
人がこんなにもいるのに人が見るものはいつだって無機物だ。無機物に何を求めるのだ。彼等はいくら尽くしても何もくれはしないじゃないか。例え、そのさきに幸福を感じてもそれに意味はないように思える。そこに生産性はない。
僕らがそうやって、無機物をまるで無意味に見ている間に、大切な人々は簡単に無機物になっていくというのに、失うまで僕らは気づきもしない。
そんなこと、考えながらも路地裏に入る。
退魔師を知りたければ悪魔とはなにか、それを理解しなければならない。オカルト的に、あるいは科学的に、様々な科学者がその実態を解明しようとしてきた。その上で、現在の世界の認識は人の負の感情が具現化したもの、それが悪魔だとされている。
大抵とは言わないけど彼等は、悪魔は暗い路地裏だとか、開発途中のビルとか、夜の公園とか、そういうところにわりかしいがちだ。悪魔が人の負の感情の具現化、であるならば人が不気味だと思うところにいるのは何も不思議ではないのだろう。
夜道を歩き感じる不穏、まるで誰かに見られているような、追いかけられるような、覗かれているような、振り向けば誰かいるような、そんな感覚を幼いうちに、あるいは今も時おり感じることがあったはずだ。結局のところそれが正しいのか否か、実際に誰か見えない亡霊がそこにいたりして、僕らのことを覗いていたりするのかは全くもって定かではないのだけれど、ともかく、そんな恐ろしさを感じる場所に奴等はいるのだ。もっとも、確証はないけれど。
結局のところ、路地裏のその奥、都会の沈んだ澱みのようなそこにそれはいた。
1mほどの華奢な体躯、潤んだ瞳がいくつもあって黒い肌は目立たなそうだ。人が椅子に座っているように見えなくもないのだが脚はなくワーキングチェアのようなそれ。背中にはエナジードリンクの缶がエネルギータンクのように無数にはえて背筋は不気味に曲がり前のめり、腕はいくつもある。そしてその腕の先、指は無数にある。不気味で恐ろしい、けれどあまりにチープだ。まるでB級の、雑なCGが売りと言ったようなどうしようもない洋画に出てくるクリーチャー、そんな感じのようなそれはいっそのこと怖さを越えて可笑しさを感じて、何だかどうしようもない笑いさえ込み上げてくる。
とはいえ、笑う暇もなくて相手の憎たらしげな瞳が僕の瞳と重なった瞬間には既に互いが動いていた。数多の腕がこちらへと伸びる。指先がさらに伸びてまるで軟体生物のようにくねくねと動き迫る。
退魔師が退魔師足る所以、それは、奴等と戦う技術があること。そして、その技術こそが退魔師の切り札。我等退魔師は神々との契約を経て神威と呼ばれる異能力を得る。神威とは精神を根源とするエネルギーを対価にして発動できる異能力で、悪魔や堕ちた神に対しての数少ない有効な対抗手段である。
そして、僕の神威は霊力を具現化し、操ることが出来る。
狭い路地裏を動くのにむいてない両腕、白兵戦を意識から外せば神威を展開、相手の指から逃れるように霊力で球体に自身を覆う。ガラスのような自身の霊力で構築した壁にひたひたと指が張り付く。いまいち自身の壁を壊しきれないそれ。無数の腕が積み上げられて重さを以て壊そうとする。対応は難しくない。壁を厚くすれば良いだけ。けれどそれは相手の攻撃への対応策でしかない。
退魔師の仕事は魔の者達を退けることだ。故に退魔師なのだ。ただひたすら自身の命を守るのは、僕らの使命ではない。
左手にこれまた神威を以て霊力を操作する。刀を形成。青く輝く一刀。これひとつあれば十分だ。自身を保護していた防壁を霊力を放出させる形で四散される。それにより発生した衝撃波が無数に覆い被さる悪魔の腕を、手を弾き宙に浮かせる。再び攻撃に移るまで一秒程だろうか。一瞬の判断が、行動が左右される戦闘においてそれはあまりにも、致命的な隙だ。続いて刀を以て腕を切り落とす。血が溢れてまるで夕立のように体を濡らす。あまり心地よいとは言えないその状況に、思わず不快になるけれど目の前にある勝機に比べれば些細なことである。悪魔の背中に刺さっていたエナジードリンクの缶が炭酸の抜けるような音と共に悪魔に取り込まれれば腕が再生、させるより先に断ち切る。腕は傷口の先からしか作れないのだからそんなに難しくはない。何度再生しようとしても作り直し続ける。
切り落とし続けた先にもう一度、悪魔と目が合う。目の底にいつもいろんな感情を感じる。悔しさ、憎さ、苦しさ、悲しさ、そのどれもが負の感情だ。彼等が生まれてきてしまったことに、未だに憐憫を消すことはできない。
僕はまだ思う。この憐憫を消してはいけないのだと。
最後の一太刀を以て悪魔を殺す。今日の仕事は概ねこれで終わりだ。あとは退魔師が活動する本部へと報告して、それで帰れる。戦えなくなるまで命を奪い合う。これが仕事だ。魔の者を退けること、それは今のところ、どうしたって生まれてしまった負の感情を、あるいは悪魔達を無理やり捩じ伏せて殺すだけ。そこにあるのは救いだとはどうしたって思えない。けれど、見逃してしまえば愛すべき全てが奪われる。寄り添う道はあるのだろうか。
答えはどこにも見つからない。