「何のご冗談かしら? 夫は病死ですよ。診断書も出ています。インフルエンザを拗らせての肺水腫です」
肺水腫とは、肺に水が溜まって呼吸ができなくなる病気だ。インフルエンザウイルスによって肺が炎症を起こしたと、医者が診断を出しているのだ。
年齢も年齢、仕方がないだろうと家族はその死因に納得していた。
だが、その家族が直接手を下していたのだ。
「貴女は知っているでしょう。肺水腫は人為的に起こせるということを」
「……」
「テフロンなど、フッ素樹脂加工がされた鍋を一定時間以上加熱させると、約470度の温度でパーフルオロイソブテンという猛毒ガスが発生する。このガスは、悪寒・発熱・咳とインフルエンザに酷似した病状を引き起こし、最終的には肺水腫を発症させる」
「紋代氏が療養していた離れのキッチンにテフロン加工された鍋のセットがありましたが、本来あるはずの中型の鍋がありませんでした。その中型の鍋を火にかけて、ガスを発生させたんですね」
立香がコナンの推理を補足するように口を開いた。
紋代氏を殺害した
しかし、何せ4か月前の事件だ。凶器は処分され遺体は既に荼毘に伏されている。直接的な証拠は何もない。
なので、藤絵に付き付けるのは状況証拠しかない。彼女がしらばっくれれば追及の余地はないのだ。
当然、藤絵は表情を崩さず動揺もせず、小五郎の真正面のベンチに腰を下ろした。
「何故、わたくしは夫を? まさか、今更あの人の節操のなさに痺れを切らしたとか?」
「違います! 奥様は犯人ではありません……犯人は、私です!」
コナンの推理を遮るように響いた声は、エドモンと清水に連れて来られた天木だった。彼女は藤絵を庇うように小五郎の前に出て、自分が紋代氏を殺害した犯人だと主張したのである。
「紋代立郎を毒ガスで殺害したのは私です! 私は……私は、紋代立郎の娘です! 母と私を捨てたあの男に復讐するために紋代家に潜り込み、あの男を殺害する機会を伺っていたのよ! 違う! 奥様は……」
「……お止めなさい、南実! もう、良いわ……良いのよ」
「奥様……」
まさかまだいた隠し子の存在には驚いたが、彼女の乱入が藤絵を観念させたのである。
天木の肩に手を置いて押しのけた藤絵は、先ほどとは違う、慈愛に満ちた表情で彼女を一瞥すると、探偵の前に出て来たのだ。
「ええ、そうです。あの男を殺したのはわたくし。40年連れ添った夫を殺したのは、わたくしです」
「やはり、天木さんと貴女が険悪な関係だというのは芝居だったんですね。険悪な関係である彼女を、紋代氏の愛人だと噂されている蛇浦さんを、貴女は「あの子」と呼んでいた。コナンに言った、「紋代家の男は馬鹿ばかり」という台詞。見方によっては、紋代家の
「本当は、愛人も、愛人が生んだ子供も恨んではいないのだろう。むしろ、守ろうとしていた」
天木を連れて来たエドモンがスマートフォンを取り出した。そこには、麟を送って行ったサリエリから先ほど着信が入っていた。
無事に麟を家に送り届けた彼らも、トロピカルランドへ向かっているようだ。
「楽長が三谷夫妻……麟嬢の祖父母から聞き出した。紋代家の奥様に頭を下げられたそうだ」
どうか、直桜ちゃんを麟ちゃんの妹として、一緒に育てて下さい。彼女が成人するまでの養育費はこちらで出します。あの子たち姉妹を、引き離さないでください。
そう言って、大企業の会長が頭を下げて懇願した。麟の祖父母は、問い質したサリエリにそう証言したのだ。
コナンもスマートフォンを確認する。つい先ほど、服部平次から連絡が入っていた。
コナンは平次にちょっとした頼み事をしていた。京都在住の彼女――片場希海を調べて欲しいと。
平次は京都へと赴き、片場希海と会っていた。何故、紋代立郎の葬儀にやって来てDNA鑑定をして欲しいと言い出し、親子関係が認められたのに何もアクションを起こさなかったのか。
「DNA鑑定をお願いしたのは、ただ、自分のルーツが知りたかっただけだったんです。自分が何者なのか、父親はどんな人だったのか。ただ、それだけだったんです」
彼女にとってはそれで十分だった。だけど……。
「関西にちょっとした伝手がありましてね。大阪の探偵が希海さんに会い、全てを語ってもらいました。藤絵さん、希海さんに大学の学費と卒業するまでの生活費を負担する代わりに、紋代家と関わらないようにと頼み込んだのでしょう。直桜ちゃんと同じだ。隠し子である子供たちを極力、紋代家から遠ざけていた」
「あの家は、金と権力があるだけの地獄です。いくら血筋とは言え、紋代家に関わるとみんな不幸になります……わたくしの祖父も、どうしようもない男でした。あの男と同じ。権力を振りかざして女を屈服させて、子供のことなんかまるで考えていない。その子供であるわたくしの父も同じ。子供ができ難い体質だと知ってからはより見境なく手を出して、わたくしや母のことなど丸きり眼中にはありませんでした。挙句の果てに、分家からあの男を呼び寄せて後継ぎにした……!」
藤絵が憎悪に塗れた表情で憎々しく吐き捨てた。
40年連れ添って、散々好き勝手やっていた紋代氏に今更になって痺れを切らしたから犯行に及んだ。とは、ちょっと考え難い……とも言い切れるが、今更になって憎悪と殺意を抱く出来事があったと考えれば説明がつく。
何故、老齢に差し掛かった夫を殺害したのか?
「あの男は、あの年齢で直桜の母親に手を出しただけではなかった。病床にいたあの男は、蛇浦を襲ったんですよ!」
インフルエンザに寝込み、藤絵に甲斐甲斐しく看病されていた紋代氏は、仕事の理由をつけて蛇浦をあの離れに呼び出した。彼女の身体目当てに直々に秘書に採用したのは間違いなかった。手を出した現場が離れだったのだ。
幸いにも、藤絵が騒ぎを聞き付けたことによって未遂に終わった。衣服をはぎ取られた状態で藤絵に保護された蛇浦は、恐怖に震えてわんわんと泣いた……襲われかけた蛇浦を目にした藤絵は、夫の殺害を決意したのだ。
「もうすぐ寿命が来る? 黙っていればその内に死んだでしょう……でも! 待てなかった! 積年の恨み、南実や他の子供たちがした苦労、あの子の涙……思い知らせないと気が済まなかったのよ!!」
「奥様……」
「ええ、そうです。わたくしが殺しました。これ以上、歪ませたくありません。紋代家は息子たちの代で終わりにします。あの男のお陰ではありますが、あの子たちは結婚に興味を抱いてはおりません。後は、わたくしが全ての責任を取りますので、どうか直桜たち他の子たちには何も語らないでください」
「駄目です!」
「っ!」
藤絵は悟ったようにいつも手にしているポーチを開いた。だが、瞠目して顔を上げると、立香が持つ液体入りの瓶を目にして小さく声を上げた。
「藤絵さん、貴女が隠し持っていた毒はポーチから抜きました」
「いつの間に……何故、わたくしが毒を持っていたと分かったの?」
「コナンがポーチを拾った時の貴女の反応は尋常じゃなかった。不自然な行動だと思いましてね。常に自害用の毒を忍ばせているのではないかと思い、『カルデア探偵局』の協力を得て抜き取らせていただきました」
コナンが立香にした“お願い”とは、藤絵のポーチから瓶入りの毒薬を抜き取って欲しいというものであった。
藤絵の自殺を防ぐため。犯人を追い込んで、探偵の前で自ら命を絶たせないために彼らに協力してもらったのだ。
どうやったかは分からないが、立香は毒薬を抜き取ることに成功していた。彼らなら
彼が手にする瓶を目にした藤絵は、今度こそ観念したかのように腰を抜かし、天木に沿われてずるずるとベンチに座り込んだのである。
「藤絵さん、貴女には生きて罪を償ってもらいます。紋代立郎氏殺害の犯人としてね。だが、貴女は直桜ちゃんを誘拐していない」
「ええ、そうです。蛇浦は、奥様の言い付けで直桜ちゃんをトロピカルランドで遊ばせて、その帰りに三谷家へ送り届ける計画だったのです。あちらが直桜ちゃんを引き取りたいと言って来たと、色々と理由をつけてそのまま紋代家を出す予定でした……なのに、何で誘拐事件なんかに」
トロピカルランドの後には、ここよりももっと素敵な場所に直桜を連れて行くはずだった。直桜にとって、トロピカルランドよりも素敵な場所……それは、大好きな麟がいる場所。姉と一緒に暮らせる三谷家だったのだ。
藤絵が直桜の不在の
では、蛇浦を騙って身代金を要求し、誘拐事件に発展させたのは誰なのか?
現場を混乱させた、ある意味真犯人と言える存在もトロピカルランドへやって来ていた。全身真っ黒な影に覆われた真犯人は、名探偵による推理ショーを静観していたが、コナンにその正体を突き止められて遂に姿を現したのだ。
「この事件を、直桜ちゃん誘拐事件だと言い出し、紋代家に10億円の身代金を要求した犯人は……アンタだ!」
ポーチの中の毒は犯人じゃない方の黒い人が抜き取りました。
「気配遮断がないから苦労したぜ」
【ちょっと補足】
・紋代藤絵
実は非常に慈悲深い人物。天木が殺害の罪を被ろうとしたのを見捨てることができなかった。
個人資産を崩してまで、できる限り夫が捨てた愛人や隠し子たちを援助し続けていた。
金目当てで名乗り出て来た隠し子たちには、穏便に……本当に穏便にお引き取り願い、紋代家の真実を曝して関わらないようにと遠ざけていた。全ては夫の被害者たちが不幸にならないため。
そんな活動を続けて40年……遂に、堪忍袋の緒が切れた。
・蛇浦明紗
自分が“女”として秘書に指名されたのには気付いていたが、まさか70歳近い爺にガチで襲われるとは思っていなかった。侮っていたところで事件(未遂)である。
あの事件の後に紋代氏が亡くなり、まさか藤絵が殺したのでは……と気に病んだが、藤絵からはこれからも直桜と仲良くしてくれと頼まれた。
トロピカルランドで遊んだ後、三谷家の祖父母が寝静まった夜にこっそり麟に会いに行こうと言って直桜を連れ出した。本来の計画では、遊び疲れて眠ってしまった直桜をそのまま三谷家に連れて行き、起きたら麟がいたというサプライズにするつもりだった。
ちなみに、スマホが壊れたのはただの偶然。一時的な連絡手段として玩具のスマホを使用していた。
・天木南実
実は彼女も紋代立郎の隠し子。父に捨てられ、母にも捨てられて施設に入った彼女を藤絵は探し出し、学費諸々を援助した。
その恩を返そうと、高校卒業と同時にメイドとして就職。以来、険悪な関係を演じつつも、藤絵が最も信頼する右腕として彼女の活動のサポートを行って来た。
メイドにも手を出していた紋代氏だが、生前は彼女を女として見向きもしなかった。彼女が娘であると気付いていたのかもしれない。
・片場希海
本編で語った通り、自身のルーツを知りたくて紋代家に凸した。藤絵に頭を下げられ、金銭的援助の申し出に戸惑ったが根負けして承諾した。
息子たちが先走って小五郎へ依頼をした様子……藤絵と天木で色々と誤魔化そうとしたが、誘拐事件の騒ぎになってしまった。
彼女の母親(故人)は愛人たちの中でも珍しく紋代氏を恨んでおらず、その精神性は彼女にも受け継がれている。
本当に、紋代家の女性は有能である。
『三毛猫ホームズの失楽園』のように、「お前もかブルータス」状態でポンポン隠し子が登場するのは……何て言うか、テンポが良いですよね。