ニコチン。煙草に含まれる説明不要の有毒物質である。子供による煙草の誤食や、作物としての煙草の収穫中の経皮吸収による急性中毒事故も少なくない。
それを成人の致死量にまで高濃度に凝縮して針にたっぷりと塗り込み、その針で被害者を刺して中毒死させたというところか。
「ニコチン針は、エラリー・クイーンの小説『Xの悲劇』でも用いられている古典的な凶器です。不整脈、呼吸困難、痙攣などの症状を引き起こすため、司法解剖や血液検査をしなければ自然死と診断される確率が高い殺害方法ですね」
立香と共に情報を共有したマシュが考え込む。
凶器はニコチンを塗った針と仮定し、相馬氏を自然死に見せかけて殺害したとしたなら犯人の動機は何か?
被害者は近隣の評判も良く、ご近所トラブルとも無縁だ。家族の仲も悪くない。自宅の金品にも、そこら中に設置されている最新家電も手付かずだ……怨恨の可能性も、物取りの可能性も低い。
「デュフフフフ! 考え込むマシュ殿も非常プリチーでござるけど、この事件の犯人はもう分りきっているじゃないですかヤダー!」
「え!? ティーチさんは犯人が分かったんですか?」
「黒髭の名にかけて、犯人の正体はまるっとスリットエブリシングお見通しでござるよ。あの令子とかいうヘルパーでち」
少年探偵団の少女2人が登場した瞬間に湧いて出て来た黒髭ことティーチが、どっかで聞いたことのあるような決め台詞とともに犯人を突き付けた。ちなみに、本日の姿は絶対にどこかで見たことがあるデザインに似た白Tシャツとジーンズである。
「どこかに決定的な証拠が?」
「証拠とかなくても、見てはっきり分かるでござるよ~だって、ねぇ……
一瞬、極悪非道な海賊としての顔を見せたティーチの声は、通信機を通して立香にも聞こえていた。
ティーチの言う蔵田令子犯人説には、証拠がなくとも頷かなければならない。だって、彼女が登場した瞬間に聞こえたのだ。
犯人を告げる猫の鳴き声が。
『やはり記録には猫の鳴き声らしき音が確認できません。しかし、先輩のバイタルには確かな反応があります。何かに驚いたような心拍数の乱れ……先輩にだけ聞こえているのですね。猫による犯人の告発が』
「これで三度目だ。でも、やっぱり動機も殺害方法も分らない」
さて、蔵田が犯人であることを前提に情報を整理してみよう。
【被害者・相馬陣吉の状況】
・死後数日経過(隣人が留守のため発見が遅れたと思われる)
・VRゴーグルを装着したまま亡くなっていた。傍にはVRテニスで使用するテニスラケットが落ちている。
・右手人差し指の付け根と第二関節の中間の位置に針の刺し傷がある。
・刺し傷からは高濃度のニコチンが検出されたため、死因は中毒死とされる。
「ニコチン針で相馬さんの指を刺して殺害した。でも、何で指? 刺し難いよね。首とかの方がもっと簡単に刺せるはずなのに」
『もしかしたら……先輩、蔵田さんはお休みを取っていたと言っていました。ニコチン針をこの家のどこかに仕掛け、自分は仕事を休んで相馬さんの家を離れてアリバイを作ります。標的である相馬さんは家に仕掛けられたニコチン針で指を刺してしまい、そのまま亡くなったのでは? 万が一、殺人と疑われても死亡推定時刻に遠方にいて、物理的に殺害が不可能だと判断されれば、容疑者から外れることができます』
「マシュの推理が正しいなら、凶器の針がこの家にあるはずだよね」
だが、凶器はどこに?
既に警察の捜査によって家の中は隅から隅まで調べられている。勿論ゴミ箱の中も掃除機の中も調べたが、不審な物は見付かっていない。
犯人は分かっている。だが、殺害方法も動機も分らない。
本日の事件現場には「探偵」であるエドモンが不在のため、立香だけでは役不足だった。ヘシアンも偽造した頭を傾げているし、アンリマユは推理をする気はないし、ロボはそもそも興味がない。
畜生、ホームズの助言がなければ探偵にはなれないというのか。
「お、美味そうなお菓子発見!」
「元太君! 勝手に開けちゃ駄目だよ」
頭から煙が出そうな勢いで考え込んでいたら、足元からそんなやり取りが聞こえた。
見てみれば、元太が廊下に置かれていた紙袋の中から箱入りのお菓子を取り出して包装紙を破いている。
有名な九州地方の銘菓だ。恐らく、蔵田が渡しにきたというお土産だろう。それを食べようとした元太が、歩美に注意されていた。
「食べて良いわよ。そのお土産を渡す相手が、いなくなっちゃったから」
「死んだ爺ちゃんへのお土産か。じゃあ、いいや。爺ちゃんのお菓子だもんな」
「蔵田さん、九州に行っていたの?」
「そうよ。妹の結婚式だったの」
「ふーん」
何の変哲もない九州銘菓である。コナンも紙袋の中を覗き込んでいるが、お土産のお菓子を食べたいと思っている訳ではないようだ。
「……ねえ、コナン君」
「何、立香さん?」
「君、何でこんなに事件現場に慣れているの?」
「え……」
「遺体を目の前にして、あんなに冷静に脈を取って死亡を確認して。警察が来る前に、他のみんなと聞き込みまでしている。初めて会った時も証拠を見つけたのはコナン君だし、この間の那須野さんの偲ぶ会でも凄く鋭いことを言ったよね」
「えーと……ボク、親戚に探偵のお兄ちゃんがいるんだ。そのお兄ちゃんや小五郎おじさんに、探偵としての心得とか知識をいっぱい教えてもらっているから、それを実践しているだけだよ。ボクもいつかは小五郎おじさんやホームズみたいな名探偵になりたいんだ。それで、小五郎おじさんの真似をしているの」
「そっか。ごめんね、変なことを言って。まるで若返りの秘薬を飲んで縮んだ、大人の探偵に見えたから」
「ボクはホームズが好きなただの小学生だよ。そんな物がある訳ないじゃん、ゲームじゃあるまいし」
名探偵の愛弟子、探偵としてのエリート教育を受けていると言ったところか。
コナンとの会話もまた、子供の姿をしているが中身は大人なサーヴァントとのやり取りを思い出す。しかし、神秘の気配が非常に薄いこの特異点で、若返りの秘薬が存在する訳がない。パラケルススが召喚されているならば話は別であるが。
「実はね、立香さん。その探偵のお兄ちゃんにこの事件のことを相談したら、色々教えてくれたんだ。ボクはお兄ちゃんの指示で事件を解決しようとしているんだけど……証拠を見つけることができなくて。手伝ってくれる?」
「証拠……あるの? この家に」
「うん、あるよ」
『先輩、ミスター・ホームズからです』
マスター、お手並み拝見といこうではないか。
名探偵の言う“お手並み”とは、コナンに指示を出しているという「探偵のお兄ちゃん」の推理なのか。それとも、名探偵の愛弟子である彼の証拠探しなのか。
恐らく、カルデアにいるホームズには既に答えが分かっているのだろう。勿論、解答だけではなく途中の計算式も全部お見通しのはずだ。
ここは、名探偵の言葉に従おう。
犯人を追い詰める探偵のお手並みを拝見といこうじゃないか。
「彼の言う証拠とは、凶器であるニコチン針のことですね。一体、どこにあるんでしょう?」
「ミス・キリエライト、気付かないかい。あの家において、あるはずの物が未だ見付かっていない。恐らく、意図的に隠されているのだろう」
「あるはずの物?」
「そう。流行りの家電に目がない被害者なら、確実に所持している物だ。あの掃除の行き届いたリビングの床を見たまえ」
中央制御室のモニター画面をホームズの腰から伸びるルーペが凝視する。掃除の行き届いたリビングだ、埃も髪の毛も落ちていない。ここ数日、掃除をする人間はいなかったというのに。
ホームズの言葉を聞いた立香は、コナンが捜している証拠の正体が分かったようだ。捜索の動きが変わった、捜さなければならない物を知っている動きだ。
そして、見付けた。
「目暮警部。やはり、家の中に被害者の指の傷ができるような物はありません」
「うーむ。ならば、あの傷は家の外でできたものかもしれん」
「目暮警部! ボク、見付けたよ。相馬さんの指を刺した針を」
「何! 一体どこに」
「ちょっと待ってて。今、自分からやって来るから」
証拠が自分からやって来る。否、正確には、証拠を回収した装置が自分からやって来るのだ。
コナンが目暮たちを引き留めてから30秒ほど。機械音を伴ってリビングに入っていたのは黒い円盤――ランプをピカピカと点滅させながら床の掃除をする、ロボット掃除機がやって来たのだ。
「ロボット掃除機?」
「うん。こんなにたくさんの家電があるんだから、ロボット掃除機もあると思って捜したんだ。相馬さんって、ロボット掃除機とスティック型の掃除機を使っていたんだよね、菊美さん」
「ええ、そうよ。あれは確かにうちのロボット掃除機です」
「この掃除機、収納棚の奥に隠されるようにしまわれていたんです」
ロボット掃除機の後から立香がリビングに顔を出す。
このロボット掃除機を発見した収納スペースは外から分り難く、足元にある隙間に気付かずにただの壁だと思ってスルーしていたのだ。隠し収納のスペースの奥には、充電器に接続されたスリープ状態のロボット掃除機があった。
立香は床の掃除を続けるロボット掃除機の電源を切る。この機体は、内蔵されているダストボックスにゴミが溜まるタイプだ。ダストボックスを開いて紙の上にゴミを広げれば、埃や髪の毛の中に混ざって、一本の短い針が鈍い光を放っていた。
・相馬陣吉:被害者。元電器メーカーの開発部に所属しており家電や最新ゲームが好きだった。「掃除機」
・千谷菊美:被害者の娘。関西在住でアポなしで父を訪ねて死体を発見してしまった。「洗濯機」
・蔵田令子:相馬邸の通いのヘルパー。料理上手で気に入られていた。犯人?「冷蔵庫」
・白野:被害者の隣人で親しい間柄だった。先週から海外へ旅行に行っており、現在も不在。「白物家電」