「坂野さん、手をどけて下さい。止血します!」
スマートフォンで救急車に通報しつつ、立香は『カルデア式探偵七つ道具』の入ったトランクの中から非常用救急キットを取り出した。使い捨てのゴム手袋を装着してから応急処置に入る。
痛みに喘ぎ苦しむ坂野は、右肩を負傷して大量出血していた。反射的に傷を押さえる左手を退かせるとべったりと血が付着しており、赤黒い血が滾々と湧き出ている。
右肩の傷は思わず目を反らしそうになった。鋭い刃物によって右肩の肉が大きく削れていたのだ。
「婦長! 止血の指示を下さい!」
『承知しました、マスター。出血多量、負傷時の精神的ショック、パニックの兆候が見られます。私の指示の通りに手を動かしてください。患者が暴れましたら、殺してでも黙らせて救いなさい!』
通信から聞こえるナイチンゲールの言葉に従い、彼女によって与えられた救急キットで坂野の止血を開始する。まずはハサミを手にして邪魔な「信長」仕様の着物を切っていると、他にも坂野の悲鳴を聞き付けた者が現場へと駆け着けた。
「坂野さん!? 立香さん、何があったの?」
「コナン君! 見ちゃ駄目だ!」
何と、真っ先に現場に駆け込んで来たのはコナンだった。
この出血量は小学生にショックを与えるだろうと、立香は咄嗟に彼を遠ざけようとする。しかし、彼は苦しむ坂野の姿と会議室を一通り見回すと、現場を飛び出して行ってしまったのだ。
誰か大人を呼びに行ったのか……否、違う。彼は気付いたのだ。床から壁、壁から窓に続く血痕を見て、坂野を刺した凶器があの窓から外に出て行ったことを。
立香が坂野の応急処置の間にエドモンは外へと走った。華やかな商業施設の裏側……灰色の壁やエアコンの換気口が轟々と音を立てる裏側の壁一枚を隔てて、立香による坂野の処置を行われている現場。アスファルトの地面には血痕が点在している。
「脚立……わざわざ運んだのか」
現場の外にあったのは、坂野を刺した凶器から滴り落ちた血痕だけではなかった。少々古びた1mほどの高さの脚立が置かれている。
この脚立に乗って高窓を開けた。凶器は、坂野の見間違えでなければ槍ということになる。
エドモンは地面に落ちる血痕を追った。まだ乾ききっていない赤黒い染みは人通りの多いショッピングエリアへと延びており、犯人は雑踏の中へと逃亡しているのだ。
血痕を追っていくと、徐々にそれは小さくなっていく。武器から血を拭いながら隠そうとした形跡が見えて来るルートに沿って角を曲がると、人影と鉢合わせてしまった。犯人ではなく、エドモンと同じく犯人を追っていた探偵とばったり対面してしまったのだ。
「エドモン、さん」
「名探偵の愛弟子か。おまえも坂野の悲鳴を聞き付けたのか。現場を目にしただけで気付いたか、犯人は壁一枚を隔てて坂野を突き刺し、逃げたと」
「えーと……犯人は窓から逃げたと思って、追いかけて来たんだ」
「……そうか。だが、犯人にも凶器にも逃走を許してしまった」
そう言って、火の点いていない煙管を吹かす仕草をしたエドモンの視線の先には、『ミスター信長コンテスト』で賑わう空間と人々の波しか映っていない。槍という悪目立ちをする凶器を持った人間など、最初からいなかったかのような光景が広がっていたのだ。
立香の通報によってすぐさま高木、千葉を引き連れた目暮警部を始めとした警視庁捜査一課の捜査員たちが臨場。坂野は救急車で運ばれ、『ミスター信長コンテスト』は中止を告げるアナウンスが流れた。
「被害者は、モデルの坂野孝一郎さん。本日、イベントエリアで行われている『ミスター信長コンテスト』の参加者の1人です。右肩を鋭利な刃物で刺され出血多量の重傷ですが、命に別状はないとのこと。救急隊の話によると、適切な止血処理が行われたお陰だそうです」
「現場に居合わせ、被害者の応急処置を行ったのが……君か、藤丸君」
「はい」
「君、医療関係の学生かい?」
「いいえ。高校の頃に参加した海外ボランティアで一緒になった看護師の方から、緊急時の応急手当のやり方を習っていたので、それを思い出しながら無我夢中で……」
「そうか。君のお陰で助かったよ。君たち『カルデア探偵局』は、主催の司馬波出版からの依頼で脅迫事件の捜査と監視を行っていた。脅迫犯は捕まえたが、坂野さんは負傷している」
「それじゃあ、脅迫犯はまだいるということですか?」
「否、違う、違う! 坂野「信長」襲撃は、内部の犯行だ」
そもそも、会議室の高窓は内側からでしか施錠・開錠ができない造りだ。つまり、内側から鍵を開けない限り外から窓を開けることはできないのである。勿論、窓ガラスは割れておらず鍵は壊れておらず、無理矢理窓を開けた形跡は皆無だ。
「この部屋の窓の鍵を開けておき、坂野が1人になったタイミングで外から窓を開け、槍で刺した。ご丁寧に、足場となる脚立を用意して」
「槍?! 被害者は槍で刺されたんですか?」
「そう証言していた。被害者の見間違いでなければ、だが」
「凶器の形状はともかく、被害者を刺した刃物が窓を通ったのは確実ですよ。床や窓の下の壁、窓のサッシに被害者の血液が落ちています。外に置いてあった脚立は、元々この施設の点検用に使用されていたもので、いつの間にか倉庫から消えていたそうです」
トメさんと呼ばれた鑑識官が白いテープで囲まれた壁の血痕を指さした。
床には、坂野の大量の血液に彼が落としたスマートフォン。倒れたパイプ椅子。付近には、今日のために持ち込まれた姿見鏡が設置されている。
「しかし、何故犯人は槍などという扱いにくい物を凶器にしたんだ?」
「窓の位置を見るに、坂野がこの場所で静止することを知っていたのだろう」
「この場所で? つまり、姿見の前ですが……」
「全身の自撮りをしようとしていたのではないでしょうか」
襲撃寸前までの坂野の様子を再現するように高木が姿見の前に立つ。確かに、姿見の前の立ち位置ならば、負傷した右肩が開いた窓に向いており、窓から一直線上にある。それどころか、坂野の頭も狙えるポジション取りだ。
だが、そう都合よく静止させることができるのか。という疑問が出て来たが、それを解いたのはエドモンに呼ばれた探偵助手ことジャンヌだ。彼女の背に隠れるように、園子がひょっこり顔を出している。
「自撮り?」
「ちょっと立香! どうしたのよ、血塗れじゃない!」
「あ、坂野さんの止血をしていたら血が付いちゃった」
「おじ様に連絡して着替えを買って来てもらいましょう」
「あのー、被害者は自撮りをしていたんですか?」
「坂野さん、自分のSNSに今日のコンテストのお知らせを載せていたんです」
ジャンヌの替わりに答えたのは、スマートフォンを操作した園子だった。画面には坂野のSNSが表示されている。
投稿された内容は、高圧的な文面で今日のコンテストに投票して自分をミスター信長にしろ、というファンに向けての俺様発言だった。文面の他に、「信長」衣装を着付け中の上半身だけの自撮り写真が載っていた。
「全身の写真はまた後でと投稿しているので、そのための全身自撮り写真をあの姿見で撮ろうとしたのではないでしょうか。着付け中の写真も、この姿見で撮ったみたいですし」
「つまり、犯人は知っていた。全身の自撮りのために姿見を使い、この位置からしばらく動かないことを」
高木よりも坂野の身長に近いエドモンが姿見の前に立つ。身長180cm以上ある坂野と窓の距離は約120cm……つまり、槍のようにリーチのある得物ならば、ゆっくり自撮りをしている坂野を窓の外から刺し殺すことができるのだ。
「手元が狂ったか、坂野が何かの拍子に身体を動かしたため肩を削り、殺し損なったのか。坂野が「信長」の写真を撮るためにこの姿見を使うと知っていて、尚且つ窓の鍵を開けることのできた人間」
「この会議室は、坂野君と駒木君、三浦君の3人の楽屋です。メイクさんやスタイリストさんも出入りをしましたが、殆どは女性です。私も、彼らが楽屋入りする前に確認のために……」
「つまり、容疑者は貴方たち3人ということか」
坂野の他に会議室を使用していた2人の「信長」と、会議室を手配した者。
俳優の三浦秀穂
会社員の駒木雄太
『歴史旅帖』編集長の洲道清治
坂野「信長」襲撃の最有力容疑者は、この3人だった。
この中に犯人がいるはずだ……否、犯人が
犯人を告げる声が立香の耳だけに聞こえた。美天島では聞こえなかった声が、今ははっきりと犯人を教えたのである。
「……何で、また」
「ん、園子君がいるということは、まさか……」
そのまさか。目暮が廊下できょろきょろと警戒しながら周囲を見渡せば、いて欲しくなかった少女と少年――蘭とコナンを発見。今日は小五郎ではなく、妻の英理が一緒だと聞けば複雑そうな苦笑いをしていた。
彼らだけではなく、少年探偵団の子供たちもいると聞いたら更にどんな反応をするのだろうか?
「……ニャーーン」
コンテストの中止に困惑する観衆の中で、猫が鳴いた。
一旦切ります。ここまで前編!
・洲道清治(52)
司馬波出版の刊行雑誌『歴史旅帖』の編集部長であり、今回のカルデアの依頼人。「清洲」
・生島忠寿(24)
今人気の俳優。先代のみならずミスター信長を三連覇した信長オブ信長だったが、事務所の意向&多忙を理由にコンテスト不参加。話題だけに出て来て本人は不在。信長の息子「織田信忠」と母親の生家「生駒氏」
・坂野孝一郎(24)
ミスター信長コンテストの参加者。粗暴だがそれが俺様系オラオラキャラとして売れている。信長の息子「織田信孝」と母親の生家「坂氏」
・三浦秀穂(20)
ミスター信長コンテストの参加者。『仮面ヤイバー』に出演しており、子供たちの知名度が高い。生島の事務所の後輩。信長の孫「三法師」こと「織田秀信」
・駒木雄太(27)
ミスター信長コンテストの参加者。モデルや若手俳優ばかりのコンテスト本選出場者の中で、唯一の一般公募。本業は会社員。信長の息子「織田信雄」と母親の生家「生駒氏」