そもそも、呉井という人物は鳥矢町図書館の利用者ではなかった。元々は、米花市の中央にある米花図書館の利用者だったらしい。
しかし、米花図書館で年の初めに事件が起きた。館長が密輸した麻薬を図書館内に隠し、それを発見した職員を口封じのために殺害して死体までも館内に隠したというとんでもない事件が起きてしまったため、長期間の休館を余儀なくされたのだ。
呉井はその休館期間中に鳥矢町図書館に流れて来た。そして、米花図書館が再開しても何故か通い続けている。
文句ばかり言うのなら米花図書館に戻ればいいのに……職員間でそんな愚痴を零しながら毎日の嫌味をやり過ごしていたのに、田辺の日常にもクレーマーが侵食してきたのだ。
「住んでいるアパートを出たら、呉井さんとばったり出くわしてしまったんです。どうやら、呉井さんの自宅の近所だったみたいで」
「住居を知られたということか」
エドモンの言葉に、田辺は俯きながら小さく頷いた。
職場に来るクレーマーに住居を知られてしまった。そのせいで、次の日からまるで田辺を待ち伏せしているかのように、毎日呉井と出くわすようになってしまったのだ。
ばったりと対面しても何かアクションを起こしてくる訳ではない。アパートに入って行く田辺を睨み付け時には舌打ちをして見送り、しばらくしたら去って行くらしい。
だが、その行動もエスカレートし始めた。仕事帰りの田辺が惣菜を買って帰宅して、やはり呉井と出くわしてしまった。エコバッグの中からする匂いで気付かれたのか、アパートに入る彼女の背に向かって「女の癖に料理もできないのか」と、嫌味を言ってきたのである。
もっと決定的なのは、先週の出来事だった。
「先週、家の用事で実家に一泊したんです。アパートに帰ってきたら、やっぱり呉井さんがいて……そうしたら、「男のところにでも泊って来たのか」と、言ってきました。私が不在の時も、ずっと見張られていたのかと思って、怖くて……」
立香も背筋にゾっと悪寒が走った。
好意から来るストーキングではなく、呉井の行動には悪意が満ちている。どうすればあいつを追い出せるのか、失脚させられるのか、中傷できるのかという、粗探しの粘ついた執着を感じた。
「警察に相談しようにも、直接的な誹謗中傷や迷惑電話とか、一般的なストーカーの行動がないので相談できなかったんです。それに……警察に相談に行ったところを万が一見られでもしたら、行動がエスカレートするんじゃないかと不安で」
「決定的な証拠が欲しい、との依頼でよろしいか。呉井が貴女と出くわすのは“偶然”ではないと証明し、告発の警察へ駆け込むまでが我々の仕事と受け取っても?」
「はい。お願いできるでしょうか?」
物理的な実害が出ていない状況で警察に駆け込んでも、相手が“偶然”だと白を切られてしまったらこちらが逆に攻撃される危険がある。
必要なのは、呉井が田辺に対してストーキング行為をしているという証拠だ。証拠を掴むことができたなら、警察も動く口実ができるのだ。
「ご自宅にお送りしましょうか? うちには、警護担当のスタッフもいますよ」
「否、他人の影をちらつかせるのは拙い。ここで男の送迎を目撃されたら、相手は嬉々として攻撃してくるだろう。謗る目的で異性の影を嗅ぎ回る奴なら猶更だ。呉井の行動はこちらで調べます。しばらくは、普段通りに生活をしてもらえるだろうか」
「はい。よろしくお願いします」
田辺は微かに鼻を啜りながら深々と頭を下げた。頼る者もおらずに怖い思いをしていたのだろう。彼女を見送った後、早速、呉井という男を調べることにした。
元市議会議員という肩書故に、調べればすぐに見付かった。過去の市議会録に載る写真には、微かに微笑みつつも神経質そうな四角い眼鏡の老人が写っている。
「元米花市議会議員、呉井真一郎(73)。当選五回、かつては議長も勤めたが老年を理由に任期満了後に退職している。議員としては、主に土地の再開発に係る実績が多い。現役時代は多くの支持者がいたようだ」
「権力者然とした顔をしているわね。外面は良いけど、陰では女子供に対して悪態を吐いているタイプよ、きっと」
「まずは、この呉井を調べてみないと。田辺さんが言っていた図書館での行動が本当なのか」
「あの女性、罪の臭いはしませんでしたね。この方を陥れようとしている気配はなかったです」
プルートーによる「犯人」判定もクリアした。此度の依頼人、田辺深月は信用していい人間だろう。
それでは、調査に移る。まずは呉井の普段の様子を実際に確認するため、田辺の職場である鳥矢町図書館へ直接乗り込もう。
なるべく目立たず、調査対象である相手を刺激しないようにと、立香が夏休みの大学生を装って来館する手筈となった。
「鳥矢町図書館って、米花町からちょっと距離があるな。ヘシアンとロボに送ってもらって、アンリマユとプルートーと一緒に図書館に入るよ」
「よろしくお願いします。マスター」
「……マスター、ちょっと良いかしら」
「どうしたの、ジャンヌ」
「実は……いえ、気のせいかもしれませんが」
翌日、プルートーを背負ったリュックの中に入れて、鳥矢町図書館へと向かった。
移動手段に使ったのは大型バイクだ。運転するヘシアンの後ろに立香が乗り、サイドカーはロボ専用席だ。
バイクのサイドカーにカッコいい大型犬……随分と、絵になる光景だ。
「そうだ。鈴木さんのルパンが、ゴーグルを着けていてカッコいいと思っていたんだ。ロボも、これ着けてみない? 犬用ゴーグル」
「……ガルルルル!!」
「わ゙ーーー?!」
次郎吉が連れていたルパンという犬を見て、ロボも着けてくれないかと思って購入してみた。が、差し出した瞬間にゴーグルは木っ端微塵に噛み砕かれた。
お気に召さなかったようである!
「ご、ごめんなさい……人間の都合による愛玩は迷惑でしたよね。以後、気を付けます。調子こいてすいませんでした……」
「ねぇ、オレの席は?」
「定員オーバーだから、アンリマユは霊体化でお願いします」
「扱い!」
なんやかんやで、鳥矢町図書館へやって来た。
米花市立鳥矢町図書館は、住宅地の合間にある小規模の図書館だ。二階建てで、二階部分は市民に貸し出しできる集会室や展示スペースであり、実際の図書館は一階のみである。駐車場もそう広くはない。
ヘシアン・ロボに駐車場で待機してもらい、立香はアンリマユとプルートーを連れて図書館に入った。猫を連れているのは秘密である。
入り口から入って右手側が児童コーナー、左手側の学生用の学習室。真っ直ぐ進めば、新聞や雑誌のコーナー。もっと奥に向かえば、一般図書のコーナーになっている。
まず気付いたのは、館内に真新しい張り紙が多いことだった。
『館内ではお静かにお願いします』
『新聞、雑誌は静かにめくってください』
『資料をめくる時は、滑り止めクリームをお使いください』
『資料のコピーはお1人様50枚までです』
つい最近作成したと思われる注意喚起の張り紙。しかも、内容に酷く覚えがある。
張り紙に気を取られてしまい、立香は椅子に足をぶつけてしまう。「ガタン」と、静かな館内では目立つ大きな音がした。その時だ……向かいのソファー席から、椅子の音よりも大きな舌打ちが聞こえて来たのは。
「……マスター、標的がいたぜ」
「うん……」
舌打ちが聞こえた方へこっそりと視線を移すと、1人掛けのソファー席で新聞を広げている老人がいた。標的こと、呉井真一郎だ。
見ず知らずの少年に悪辣な態度を取った癖に、自分はバサバサと音を立てて新聞を読んでいる。周囲の利用者の視線も、カウンターにいる職員の視線も気付いていない。否、そんな視線など痛くも痒くもないのだろう。
新刊コーナーや本棚を行き来して本を吟味するフリをしながら標的を観察すると、呉井は立香が来館してから10分ほどで図書館を出て行った。去り際に、カウンターにいた女性職員に対してクレームを吐いて行った。立香の母親と同年代ぐらいの職員だ。
「新聞に皺が寄っていたぞ。管理をしっかりしろ」
「申し訳ございません。みなさんがお読みになる新聞ですから」
「まったく。管理もできないとは、最低の図書館だな。冷房も効きすぎている。私を凍えさせるつもりか!」
「申し訳ございません」
ぶつぶつと小言を呟きながら出て行く姿は、田辺の説明通りだった。これは厄介な相手になりそうだ。
恐らく、館内の真新しい張り紙は呉井対策なのだろう。直に注意したら逆ギレされたので、当てつけとして貼ったのだ。きっと。
呉井が出て行ってしばらくしてから立香も鳥矢町図書館を出てヘシアンと合流すると、彼はスマートフォンの画面を見せた。呉井の車のナンバーの撮影に成功したのだ。
「呉井の図書館内の態度は、田辺さんの話の通りだったよ。話の通り、クレーマーだった」
「猫的にも、決して近付きたくない人間の鑑のような人でした」
「藤丸さん!」
「……清水君?」
「ニャア」
リュックから身を乗り出していたプルートーが急いで猫を被った。
図書館を出た立香を追いかけて来るように、昨日、カフェで出会った清水が声をかけてきたのだ。
「清水君、どうしてここに?」
「僕、近所に住んでいるんです。藤丸さんは……もしかして、探偵のお仕事でしょうか?」
借りた本を手にした少年は、恐らく館内で立香の姿を見たがそこで声をかけるのは拙いと瞬間的に判断したのだろう。探偵の仕事でやって来ているのなら、下手に声をかけて目立ってはいけないと考えたのだ。
そうだ、ジャンヌが言っていた。
清水慶は、非常に敏い少年であると。
よくよく考えたら、事件の内容的にも滅茶苦茶怖い『図書館殺人事件』