『な、何を言っている……? 殺人なんて、そんなの、間違いだ!』
『覚えていないのか。お前にとっては、記憶にも引っ掛からない些細な出来事だったんだな……もう一度聞く。母娘の名は
『嘘だ! そんなことあるはず……』
配信中のLIVE中継で告発された岩代は、犯人の言葉に全て否定を返した。殺されたという母娘の名を出されても何も反応を見せない。岩代は顔色が悪く、相当疲弊しているように見えた。
犯人は岩代の反応を想定済みだったのか、慌てもせずに次の一手を繰り出した。握った拳銃はそのままに、取り出したICレコーダーの音声を最大にして、証拠を突き付けたのだ。
『……お願いします! 娘が、有弥が!』
『五月蠅い! 今日はもう仕事終わったの! これから用事があるからね。医者も休まないといけないんだよ!』
『待ってください……先生! お願いです、心臓外科の先生は、今は貴方しか……!』
『聞こえなかったの? 業務時間外!』
切羽詰まって懇願するのは女性の声。それを足蹴りにするかのように拒絶した声は、震える岩代の声によく似ている。
「……機械越しではあるが、このレコーダーの音声は岩代とかいう男の声で間違いないだろう」
「だとしたら、岩代さんは助けを求める患者を見捨てた?」
サリエリの耳が、レコーダーの音声が捏造ではないことを聞き取った。
だとしたら、岩代は業務時間外を理由に藁にも縋る思いで懇願する母親をバッサリと切り捨てた。一昨年のクリスマスイヴに、この音声通りの出来事が起きていたというのか。
犯人は、母娘は岩代に殺されたと言っていた。だとしたら、この2人は今……。
『有弥はこの後、府立病院に駆け込んだが翌日……クリスマスに死んだ。母親も、失意のうちに事故死した。お前があの時、有弥を診ていれば! 2人は死ぬことはなかった!!』
『デ、デタラメだ! 私を嵌めるための、捏造だ! わ、私は、そんなこと……』
『しらばっくれる気か!』
耳を劈く銃声が聞こえた。それと同時に、ガチャン!と落ちて割れる音と、女性の悲鳴が動画に割り込んだ。
犯人が手にした拳銃を背後に向けて発砲したのだ。
盗聴器から聞こえた清水の声によれば、花瓶が割れたとのこと。犯人が撃った拳銃は、レストランバーに飾られている花瓶を撃ち抜いたようだ。
犯人は拳銃を発射するのに躊躇しない。それどころか、竹刀袋の中から一振りの業物を取り出して鞘から抜いた。切れ味の良さそうな刃が岩代の首元に添えられたのだ。
『ひ、ひぃぃぃ……!』
『殺したくないんだよ。殺したいほど憎たらしいけどな! 自分の罪を受け入れて、誠心誠意、謝ってもらおうか』
『……ううっ』
ガタガタ震える岩代が胸を抑えてソファーから転倒した。それを見た犯人はLIVE中継を中断し、レストランバーの状況が把握できなくなってしまった。
「なぁ、秘書のアンタなら知っとるんやないか? 一昨年のクリスマスイヴに、何が起きたのか」
「……犯人が言ったことは、本当です」
平次がかまをかけてみたら、冷や汗をかいた秘書が素直に証言した。
一昨年のクリスマスイヴの夕方、岩代が業務を終了して帰宅しようとした矢先に、小さな女の子を抱えた女性が近畿堺大学付属病院に駆け込んで来た。それが、近江千鶴と有弥の母娘だったのだ。
有弥の主治医は別の手術の最中で、他に心臓外科の医師は岩代だけ。千鶴は岩代に懇願しながら玄関の外まで追いかけて来たが、岩代はレコーダーのやり取りをして帰宅したのである。
「副院長はあの日、個人的な会食の予定が入っていました。それで急いでいたので、あのような対応に……」
「つまり、犯人の動機は母娘の復讐か。何らかの手段でレコーダーのやり取りを手に入れて、ネット中継までして岩代副医院長を追い詰めるつもりや」
犯人の目的が判明し、捜査本部の刑事たちが捜査に動き出す。犯人が言っていた、近江千鶴・有弥という母娘の情報を急ぎ蒐集するのだ。
「あの犯人の正体は、亡くなった近江千鶴さんの夫。つまり有弥ちゃんの父親ではないでしょうか?」
「あるいは、その身内。拳銃まで
「マスクを着けた状態ですが、犯人の顔は分かりました。今、
大滝の言葉に、その場の探偵たちも同意する。だが、犯人は岩代を殺すつもりはない。要求は、岩代が自身の非を認めた上での心からの謝罪だ。謝罪をする前に死んでしまったら意味がない。
すると、ホテルの支配人が捜査本部にやって来た。立て籠もりの現場となっているレストランバーの内線で、犯人が要求を出してきたというのだ。
『も、もしもし。私、北見です』
「人質になっている、当ホテルの従業員です」
『犯人からの要求です。岩代様の薬をよこせと』
「北見ハン、犯人に伝えてください。薬の代わりに人質たちの安否を確認したい。全員、レストランの防犯カメラに映る位置に移動させてくれへんやろか」
『少々お待ちください』
犯人の要求を伝えたのは、空調修理に付き添っていたホテルの従業員、
紙袋を抱いたままの和葉に、彼女の隣にいる清水。2人を背に隠すように立つ武蔵。
彼女たち以外の人質は清水の情報通りだ。ホテルの従業員の北見に、作業着姿の修理業者の男性。眼鏡をかけた中年女性に、タクシー運転手の制服姿の男性。
岩代はソファー席に横になっている。その横には、犯人がぴったりとくっついていた。
警察側も人質の人数と顔を確認し、レストランバーの入り口に詰めている突入班がインスリン注射を用意する。微かに開いたドアからは、内線と同じく北見が顔を出してインスリン注射を受け取った。
『オッチャン、注射が来たで。打てる?』
『う、うう……』
『どなんしよ。誰か、他にお医者さんとかおらへんよな?』
監視カメラが和葉の姿を捉えた。インスリン注射を岩代に渡すことはできたが、憔悴している彼は自分で注射を打てるような状況ではない。
かと言って、糖尿病患者に注射を打てる人間が、そう都合よくいるはずもなく……。
『あ、あの。私、看護師の資格を持っています』
いた。
運良く、人質の中に看護師の資格を持っている者がいた。中年女性が手を挙げてインスリン注射を手にすると、岩代に投与したのだ。
『急激に血糖値が下がりますから、何か甘い物を口に含んで低血糖症を抑えないと』
『なら、アタシフィナンシェ持っとるで』
『僕も。チョコレートのフィナンシェなので、糖分の吸収には問題ないと思います』
『……っ! あー! 崩れてボロボロや! あん時、踏まれたからか……せや、ぶつかられてフィナンシェ踏まれたから、一言文句言ったろ思て追いかけたんや』
「和葉ちゃん、それで人質になっちゃったんだね」
「アホくさ。何やっとんねん、自分」
『パティスリー満月兎のフィナンシェは有名ですからね。怒る気持ちも分かります。僕も楽しみにしていましたから』
清水がショコラオランジェフィナンシェを岩代に差し出し、ついでに和葉にも甘いスイーツを手渡した。
すると、彼は少し声を大きくして……まるで、監視カメラ越しにこちらの様子を窺う探偵たちへ何かを訴えかけるように、好きなスイーツの話を始めたのだ。
『満月兎のフィナンシェもそうですが、イヤリングルビーのアップルパイも、大阪を訪れたなら絶対に食べたいと思っています。後は、撫子堂の栗かのこに、エメラルドスノウのエクレア!』
『そこ、五月蠅いぞ!』
『す、すいません!』
「……?」
「……」
「清水さん、どうしたんだろう?」
「そうね。いくらスイーツが好きでも、この状況でお喋りをする子には見えなかったんだけど」
「極限の緊張状態の中にいるんだ。きっと、自分で感じている以上にパニックになっているんだよ」
「いや……慶君のことだ。何か意図があるはずです」
「俺たちの知る清水慶という男は、このような渦中で
ただのスイーツの話に聞こえる。だが、立香もエドモンもどこか違和感を覚えた。
彼はただ敏いだけの少年ではない。真名を忘却していても、その正体は英雄の座に名を刻む英霊だ。きっと、何か意図があって口を開いたのだ。
『お願いします。マスター』
盗聴器が傍受した、立香にしか聞こえない清水の声……彼は探偵に、何かのメッセージを託したのだ。
殺したいけど死んでほしい訳ではない。
(拳銃と業物の武装で何を言っている??)