上手くいっただろうか?
無理矢理だった自覚はある。だが、咄嗟にこれしかできなかったのだ。
「慶君、お水飲む?」
「ありがとうございます」
「さっきの、何かを伝えようとしたんでしょう。
「……はい。でも、下手なメッセージだったので、ちゃんと伝わったかどうか」
「大丈夫だよ。だって、立香君がいるもの」
清水にミネラルウォーターを手渡した武蔵は、彼の隣に座り込んで慣れた手つきでペットボトルの蓋を開ける。犯人が飲み物を求めたため、北見が厨房の冷蔵庫に入っていた物を出して人質たちにも配られたのだ。
レストランバーの中は空調が故障しているため暖房が効いておらず、ちょっと肌寒い。吹き出し口が天井から外され、その下には業者が持ち込んだ2mもの脚立が放置されている。
寒さと緊張感で背中が凍りそうな空間で、清水は見てしまったのだ。立て籠もり事件を突破する糸口を……しかし、それはただ盗聴されれば良い物だけではなかった。現状を突破するための証拠を、探偵たちに見付けてもらわなければならなかったのだ。
なので、暗号の真似事をしてみた。暗号にもなっていないかもしれない。
それでも信じた。立香が受け取ってくれると信じたのだ。
「
「役目……本当は、その役目さえも忘れていますが」
「そんなもんよ。その時が来るまで悟ることさえできない……私も、自分にどんな役目があるのか、どうして様々な世界を放浪しているのかさえまだ分からない。だからさ、できることは全力でやってみたら? 信じて託せるマスターがいるんだもの」
「……はい」
武装している立て籠もり犯が目を光らせている空間で、武蔵と清水は随分と呑気な話をしていた。あくまで小声で、刺激しないようにコソコソと。
犯人は復讐のために事件を起こした。だが、岩代の殺害には奔らなかった。
殺したいが、死んでほしい訳ではない。
死ぬよりも辛い、絶望的な状況に陥らせるつもりなのだ。
「ねぇ、2人とも何を話しているん?」
「んー、和葉ちゃんは可愛いね~って。慶君も気になるよね~?」
「えっ! でも、遠山さんには服部さんがいるのでは」
「ちゃうちゃう! アタシは平次の幼馴染で、お姉さん役やって!」
「ええー本当~? ほんとにござるかぁ?」
「……お前ら、人質の自覚あるのか」
犯人の眉間に青筋が浮かんでいたが、この人質の自覚がなさそうなやかましい連中への発砲までには至らなかった。
一方、レストランバーの外。警察の調べにより人質全員の身元が判明した。
ホテルの従業員である北見と共にいた業者は、
看護師の資格を持っているという中年女性は、
そして、残る1人は
『もしもし、立香君? 立て籠もり犯の言っていた、近江千鶴のネットニュースを発見したよ。スマホに送るね』
「ありがとう、ダ・ヴィンチちゃん」
『娘が亡くなった翌々日に、トラックに撥ねられて事故死している。ニュースには、自殺かもしれないと書かれているが……』
ダ・ヴィンチちゃんが送って来たニュース記事によると、亡くなった近江千鶴(26)は府内の介護施設に勤める介護士。娘の有弥(4)が急死し、自暴自棄になった故の自殺ではないかと報道されていたようだ。
轢いてしまったトラック運転手は、「フラフラと急に道路に出て来た」と証言していた。
「患者を救うはずの医者に足蹴りにされ、絶望する間もなく娘は天に召された。憎悪を抱けるほどの女ではなかったのか」
「近江さん母娘は岩代さんに殺された。診察を断られて有弥ちゃんは亡くなって、千鶴さんも自殺のように事故死した。岩代さんに殺されたようなものだと、犯人は考えたんだね」
「ニャーーン」
「プルートー?」
「ニャーーン」
エドモンの肩に乗ったプルートーが、ひらりとテーブルに飛び乗った。監視カメラの映像が映し出されているモニターの前を行ったり来たりしながら、鳴いたのだ。
「ニャーーン」
「どうしたの?」
「ニャーーン」
「黒猫」
「ニャーーン」
「……まさか」
人質たちが身を寄せ合うモニターの中。黒い身体は狭いテーブルの上をゆっくり闊歩し、五回鳴いた。
「犯人の身元はまだ分からんか!?」
「前歴者データーベースに記録はありまへん。
「近江千鶴、有弥の調べがつきました。2人とも本籍は滋賀県、実家もそちらです。近江千鶴は地元で結婚していますが、娘が産まれて半年も経たない内に離婚しとります。元夫が今、どこで何をしているかは調査中です」
「大滝警部! 遠山刑事部長がお見えです!」
刑事たちが忙しなく出入りする本部にやって来たのは、大阪府警刑事部長であり府警本部長の片腕であり、和葉の父親である遠山警視長だった。普段は現場に出ることのない管理職であるが、流石に娘が立て籠もり犯の人質になっている現状では、悠長にデスクで指示を出してはいられない。
しかも、前歴者ではない別方面から犯人の身元を特定したという手土産まで持って来てくれたのだ。
「犯人の名は
「若狭……その名前、どこかで……! 遠山のオッチャン、まさかあの若狭か? 剣道世界大会三位の」
「ああ。高校時代から全国大会の常連で、大学の時には世界大会で三位に入賞した凄腕の剣士や。近江千鶴は高校の同級生で、若狭が所属していた剣道部のマネージャーやった。もしかしたら、かつての交際相手だったかもしれへん」
武蔵の言った通りだった。犯人は相当な実力を持つ剣士だったのだ。
捜査本部の机の上に並べられたのは、警備員の制服を着た精悍な顔立ちの男性の写真と、剣道着姿の少年少女たちが写る高校時代の集合写真だ。その中で唯一ジャージ姿の女子生徒……彼女が、高校生時代の近江千鶴だ。
黒髪を真っ直ぐに伸ばした、儚い雰囲気の可憐な少女だった。
更に、近江千鶴が勤めていた介護施設から提供された、彼女の履歴書が捜査資料に加わった。離婚した後は実家も頼らず、有弥の治療のこともあり大阪に引っ越して母娘2人だけで暮らしていたようである。
犯人の正体は分かった。しかし、拳銃を所持している上に、剣の実力者ときたもので機動隊も易々と突入することはできない。いざとなったらホテルの外で待機している狙撃手による実力行使もあり得る話だが、如何せん人質が多すぎた。
若狭の要求が岩代の謝罪であるため、警察との交渉も上手くいっていない。事件は停滞していた。
「蘭姉ちゃん、ジャンヌさん。どうしたの?」
「ええと……今、こんなことを言っている場合じゃないんですけど」
「さっきの清水の発言で、おかしなところがあったのです」
「おかしなところ?」
蘭とジャンヌがガイドブックを開きながら何やら話をしていたのを、コナンが興味深そうに声をかけた。
確かに、あの状況での清水の発言は場違いであった。そこも十分おかしかったが、彼女たちが不審に感じたのは彼の発言の内容だった。
「清水が言っていたお店、エメラルドスノウ。そこでは、エクレアは販売していないんです」
「わたしもテレビで観たことがあります。このお店はシュークリームだけの専門店で、他のお菓子はないんです。だから、オルタちゃんと何だかおかしいねって話していて」
「そんなの、ただ間違えただけじゃ」
「いや、昨夜もその店について彼と会話を交わした。混乱のために名前を誤ったということはないはずだ」
「どうして清水は、エクレアと言ったのかしら?」
ジャンヌが見せたガイドブックには、アイシングがされたシュークリームの写真が載っている。店舗の情報によると、販売しているスイーツはシュークリームのみ。同じシュー生地のスイーツでもエクレアは取り扱っていない。
しかし、清水はエクレアと言った。ガイトブックの頁にはしっかりと付箋が貼られているため、聞きかじりの情報で間違えた訳ではないだろう。
一体、どうして「エクレア」と言ったのだろうか?
「フィナンシェ、アップルパイ、栗かのこ。そして、エクレア……っ! そうか、「E」が欲しかったのか」
微かな違和感と綻びを探り、
立て籠もりの渦中にいる被害者が探偵に向けて送ってきたメッセージだ。それを解けば、事件解決の重大なヒントになる。
一旦切ります。ここまでが前編!