一切記憶にございません。
実に腹の立つ言葉である。お前の記憶に引っ掛かることのない、矮小で些細な出来事だったと言うのか……彼女たちの必死な叫びは。
「一昨年のクリスマスイヴは、私は休みを取っていて病院にはいなかった! 君の言う、オウミさん? は、全く記憶にない!」
「……自分、ええ加減にせぇ! 俺はな、見てたんや! 苦しそうなあの子に目もくれず、さっさと出て行って俺のタクシーに乗ろうとしたアンタをな!!」
「……っ! ま、まさかお前、あの時の」
「やっと思い出したか。そうや! あン時、有弥ちゃんたちを病院に送って行ったタクシーの運ちゃんや!!」
苛立つ三河が、シラを切り続ける岩代の胸倉を掴んだ。
彼は見ていたのだ、ICレコーダーの音声のやり取りの一部始終を。病状が急変した有弥を抱えた千鶴に呼び止められ、急ぎ近畿堺大病院に向かったタクシーの運転手はやはり彼だったのだ。
「お前、病気の子供を見捨てて……何が医者や!」
「あ、あの子供は、後でカルテを見たが手術をしても持って6歳まで生きられるかどうかの疾患だったんだ!
「貴様ァ!!」
「キャァ!?」
岩代の言葉に、山城までもが掴みかかって来た。2人だけではなく、犯人――若狭も激高し、業物を鞘から抜いて刀身を露わにしたのである。
一触即発の事態に和葉の悲鳴が木霊すると、彼女の悲鳴に紛れるようにバリケードが張られた扉が打ち壊され、機動隊が雪崩れ込んで来た。
「突入ーー!」
「っ、若狭君!」
「っ!?」
突入して来た機動隊に気を取られた若狭に一瞬の隙ができた。武蔵はその隙を見逃さず、瞬時に駆け出して没収された竹刀袋から刀を抜いた。
剣豪たちの放つ殺気――否、剣気に充てられたのか、剣を握る者同士に通じるナニかを察知した若狭の刃が向かった先は岩代でも、機動隊でもなかった。
レストランバーの中で、剣戟の音が轟いた。
「邪魔を、するな! あいつは、「たかがあと2年」と言いやがった……! 有弥は、あの子は! あんなに一生懸命に生きていたのに!!」
「ええ、そうね。そうよ! 確かに、あいつの言ったことは許されることじゃない!」
だけど、その剣を向ける相手ではない。
若狭は感情のままに剣を振り続けるが、その太刀筋に迷いはない。一見すると、武蔵との斬り合いは互角に見えるが……怒りに染まって我を見失った若狭に余裕などはない。
憎悪と憤怒に振り回されて、武蔵の実力を測ることができずにただ振り回すだけの剣。武蔵から放たれた一刀で大きく薙ぎ払われ、真っ二つに折られたのである。
「……っ」
「怒りに染まっていない貴方と、斬り合いたかったわ」
「た、助かった……た、助けてくれぇ!」
折れた刀を手に呆然とする若狭は、即座に機動隊に確保された。
岩代は床を這い蹲りながら助けを求めてさっさと逃げ出したが、その時……山城が持ち込んで放置していた2mもの高さの脚立に接触し、脚立が倒れてきたのだ。
倒れるその先にいたのは和葉だった。背後から接近する脚立の影に気付いて振り返るが、咄嗟に逃げる暇もなかったのである。
「キャアァァ!!」
「遠山さん!」
「和葉ァ!」
脚立が倒れる大きな音が響くが、和葉は無事だった。清水が咄嗟に駆け出して和葉を庇い、2人揃ってゴロゴロと床に転がり、事故は防がれたのである。
予期せぬ事故の元凶となった岩代は警察に助けを求めるが、彼の前に出て来たのは巨大な犬だった。低く唸り声を上げるロボを前にして完全に腰が抜けたようである、床に座り込んで立ち上がれなくなっていた。
「岩代さん、ご無事ですか? えらい災難でしたな」
「そ、そうだ、酷い目にあったんですよ!」
「病院までお送りしましょう。こちらは立て込んでいましてなぁ、二課のモンに送らせます」
「え……」
手を差し出した遠山警視長の言葉に、今度はサァっと蒼褪めた。忙しい元凶である。
岩代は捜査二課の刑事たちが徹底的に絞ってくれるだろう。ネット中継が功を成したのか、世間も大騒ぎになっているのだ。逃げ場はない。然るべき手段で罪を裁いてもらおう。
機動隊が突入した後に飛び込んで人質たちも解放され、コナンや平次たちも現場へと駆け込んで来る。和葉を心配してやってきた平次が見たのは、清水に肩を抱かれて床に倒れ込む和葉の姿だった。
「大丈夫ですか? 和……っ」
「いっ、
「和葉! どなんした、どこか怪我したか?」
「平次! 大丈夫、膝を擦り剝いただけや。清水君、おおきに」
「服部さん、早く遠山さんを病院に」
「せやから、アタシは大丈夫やって! それより平次、事件を解決したのは平次なんやろ」
「……ああ、ここから推理ショーでも始めよか」
探偵として現場に乗り込んで来た平次は、和葉が大好きなキラキラした顔をしていた。
「ネタは上がっとるんや。アンタら5人が共謀して、近江母娘のために岩代さんを人質に立て籠もり事件を演じたんやろ」
「違う! 犯人は私だ。若狭君は私に唆されて実行犯になっただけで、主犯は私だ! 姪とその娘を見捨てた岩代を追い詰めるために!」
「いいえ、山城さんだけじゃありません。私も協力しました。岩代がこのホテルに隠れているのを教えたのは私です!」
「違う、違う! これは、俺が1人でやったんだ! 千鶴とは結婚の約束をしていた、有弥を本当の娘のように思っていた……だから、一言謝って欲しかったんだ!」
若狭は山城と北見の加担を否定した。だが、彼1人だけの犯行では説明がつかない部分が多すぎるため、取り調べ室でその主張をしても通ることはないだろう。
そして、若狭が自分は犯人だと主張しても共犯者たちがそれを許さなかった。次々と、自分が自分もと名乗り出て来たのだ。
「あの子が、顔を真っ白にして苦しそうにしていたのを、俺は病院に運ぶことしかできんかった……お母さんまで事故で亡くなったって、あまりにも酷すぎるやろ!」
「有弥ちゃんは、年少さんになってからやっと園の行事にも参加できるようになったのに。みんなと一緒にクリスマス会に出たいからって、手術も頑張って……運動会もお遊戯会も、これから参加できるようになるって言っていたのに!」
「千鶴は、あの子は金と引き換えに嫁に出されて、産まれた有弥に心臓の疾患があると分かったら役立たずと慰謝料もなしに離婚され、実家にも見捨てられた! なのに、あんなことに……あの子たちが何をしたっていうんだ!」
後に、大阪府警の事件調書に記される内容は以下の通りだ。
一昨年のクリスマスイヴ、三河は近江母娘をタクシーに乗せて近畿堺大病院へと向かった。だが、担当医が不在という理由で診察を断られ、同じ専門医である岩代に懇願したが突き放された。
三河が待機していた正面玄関前のタクシープールの付近でそのやり取りが行われていため、彼はその一部始終を目撃し、タクシーに設置されていたドライブレコーダーに録音されていたのだ。
しかも岩代は、三河のタクシーに乗って帰宅しようとした。その行動で三河の怒りは頂点に達し、岩代を跳ね除けると同時にこの母娘にとことん付き合うと決めたのだ。
近畿堺大病院で受け入れられなかった近江母娘を乗せて府立病院へと駆け込み、山城と若狭が到着してもずっと付き添っていたが……有弥は翌日のクリスマスに4歳で息を引き取った。
その後、千鶴まで事故死したと新聞で目にした。2人の葬儀には、三河だけではなく、他の4人も参列していたのだ。
この時に、三河はこっそりコピーしておいたドライブレコーダーの音声を4人に聞かせた。復讐に逸る若狭を山城が咎め、彼らは岩代への復讐の機会を窺っていた……そして、それはやってきた。
岩代が北見の勤めるホテルに隠れていると知り、今が好機だと計画を実行したのである。
計画を立てたのは山城、実行犯は若狭。サポートは北見がする。拳銃は音の出るモデルガンしか用意できなかった。
三河は、しらばっくれられた時のための証人として。志摩は、持病のある岩代の体調にもしものことがあったときのための看護師として計画に加担した。
最初は、人払いをしたレストランバーで岩代を問い詰める気だった。もし万が一、途中で岩代が騒いで周囲にバレてしまったときは、自作自演の立て籠もり事件にするプランだった。
岩代を絶望に叩き落してやりたい……一言だけでも、千鶴と有弥に謝って欲しかった。
トラブルにより後者のプランになってしまったが、まさか無関係の人質が増えてしまい、ホテルに探偵がいたなんて……誰も、想定はできなかったのである。
「確かに、岩代さんは近江さん母娘に酷いことをしたかもしれへん。アンタらが彼女を大切に思っているのも本当のことや。でも……犯罪はアカン。下手したら、機動隊の狙撃手が若狭さんの頭を撃ち抜いていたかもしれへん。有弥ちゃんが一生懸命に生きていたことを知っているんなら、犯罪に命かけるんやない!!」
「あなたたちは、千鶴さんと有弥ちゃんを本当に愛していた。愛情は憎悪と表裏一体だ。愛情がなければ、こんなにも憎悪を抱かない。だから、その感情は愛情のままにしてあげてください。愛情だけを、彼女たちに与えてください」
平次と立香の言葉に、志摩が両手で顔を覆って泣き出してしまった。他の犯人たちも各々鼻を啜り、目頭を押さえている。
現場に放り出されていた若狭の黒いリュックサック。その中に、可愛いラッピングがされた玩具が入っていた。
キラキラ光るコンパクトミラーは、一昨年のクリスマスの時期に放送されていた女児向けアニメの玩具だった。
こうして、思わぬところで発生した立て籠もり事件は幕を閉じたのだった。
「ったくよー。大阪に来る度に、妙な事件ばっか起きんじゃねーか」
「そりゃ、探偵いるところに事件ありって言うやろ。それか、オレらのところに事件が集まっているンかもしれへんな。ちゅうか、工藤。お前が一番事件を引き寄せとるやないか」
「バーロー。ンな訳ねぇだろ」
人のいないホテルの廊下で軽口を叩き合うコナンと平次の姿は、年齢も身長もまるで違うのに対等に見えてしまう。そりゃそうだ、中身はどちらも高校生なのだから。
往来の場で「工藤」と呼ぶなと口酸っぱく言っても、平次は改める気がない。今だって、他に誰もいないのだからそうピリピリするなと、悪友に向けるような口調でコナンをどついた。
端から見れば仲の良い兄弟のようでもある。
そんな、本来の年相応な光景を見られていた……偶然、廊下の近くのトイレから出るタイミングを逃してしまった立香が、一部始終を聞いてしまっていたのだ。
「今、服部君がコナン君を「工藤」って……」
「工藤新一」……?
アカンて工藤