練習直後はもう何も食べられないくらいかと思ったが、車内で寝て起きたらお腹はペコペコになっていた。
隣の席で寝ているりあむの涎が詩緒の腕に垂れており、ちょっと嫌な気分になったので、彼女の袖を使って拭いておく。少しだけスッキリとした気分になった。
「んぉ……ふぁ~~~」
りあむはその拍子に起きて、ぼんやりした表情で詩緒を見る。
詩緒は、おはようございますと挨拶をすると、りあむはへらっと人畜無害そうな笑顔を浮かべて、おはよーと返事をする。
詩緒は何となく罪悪感を覚えたが、疲労やら空腹やらで、それはすぐに霧散した。
車で旅館に戻ってきた頃にはすでに午後の七時を回っており、何時間くらい練習していたんだろう、と詩緒はふわふわする頭で考えていた。
部屋に戻り、さっさと準備をしてから浴場へ向かう。
湯船にゆっくり浸かっていたら昨日みたいに逆上せてしまうし、それ以前に眠ってしまうと思い、温泉に浸からず髪と身体を洗うだけにしておいた。
食堂では朝の時のようにメンバーのいる卓だけ一様に静けさが広がっていた。
要因は純粋に疲労の蓄積であったが、口に運ぶ箸を動かす手は止まらず、咀嚼音だけが静寂の中に音を刻んでいた。
詩緒はサクサクと食事を終えると、小声でごちそうさまでしたと言い、手を合わせる。
まだ食べている人がいる中、先に戻ります、と律儀に告げて部屋に戻った。
部屋では神保が未だに仕事をしているらしく、ノートパソコンとにらめっこしている姿が窺える。
「ああ、おかえりなさい」
神保は詩緒に気が付くとそう言って笑顔をつくった。
「……ただいま、です」
なんて言ったらいいか分からなかった詩緒は、たどたどしく答えた。
神保の少し疲れた様子の眼が気になり、少しお休みになられたらどうですか? と尋ねると、彼は呆けたような顔をしてからくすくすと微笑む。
「そう言って、また夜に抜け出すつもりですか?」
ダメですよ、と優しい声音で神保は言った。
詩緒はまさか神保から弄られるなんて初めてだったものだから、面食らってしまう。
そのあと冷静になって、違います、と抗議をするように返事をし、神保の様子をちらちら観察しながら、寝る準備をするのだった。
☆ ☆ ☆
三日目の朝、メンバーの全員の身体が悲鳴を上げるスタートとなった。
「全身が痛い~」
朝食のため、食堂に集合したりあむが開口一番で愚痴をこぼす。
よろよろとした足取りではあるが、そこまでやわではないのを全員が知っているので、特に肩を貸すようなメンバーもいないが、詩緒だけは見抜けなかったようで非常に心配した様子だった。
「りあむさん、大丈夫?」
本当に心配そうに声をかけてくる詩緒に申し訳なく感じたのか、りあむは何事もなかったかのようにしっかりと背筋を伸ばして歩き出す。
「もちろん大丈夫! 心配してくれたのはウタちゃんだけだよ、マジ天使」
「さすがはマジ天の異名を持つウタちゃん」
凪の言う異名がどこから来たのか分からない本人であったが、適当に言ってるだけ、と颯が気にしないことを推奨する。
「まー、でもりあむサンの言ってるとおり、結構キツイかも」
あきらが弱音を吐いているのは珍しいなと思った詩緒だが、実際全員の疲労は抜けきっていないし、筋肉痛という形で尾を引いているのも確かであった。
「初めて実家の手伝いをした時の辛さを思い出すんご……」
あかりも過去の出来事とレッスンを重ねて、昨日の練習を思い出したのか、げんなりとしており、ともすれば口から魂が抜けそうな勢いである。
千夜はちとせに付いている時間があったのでそれなりに余裕があるようだが、ちとせが昨日の練習でも相当へばっており、レッスンしたくなーい、と今日の予定に気が滅入ったのかリーダーの癖に駄々をこねていた。
「ちとせさん壊れちゃった……」
「お嬢様は壊れておりません」
颯がちとせを視界に入れて、その瞳に可哀想な色を浮かべるも、千夜がすぐに否定に入る。
ちなみに詩緒と久川姉妹もしっかり筋肉痛になっており、表に出さないように我慢しているようだった。
「今日撮影って、こんなコンディションで大丈夫なんでしょうか?」
あかりが顔を曇らせて不安を吐露する。
他のメンバーもそのことに気が付いていたようで、伝播するように顔色が悪くなる。
「こんなんもう部活の合宿じゃん……」
りあむはげっそりとした様子で言ったかと思えば、すぐに表情が明るくなる。
「ヤバ、そう考えたら今めっちゃ青春してる。もうリア充だよこれ。遅れた何かを取り戻してる」
いきなり元気になり始めたりあむに詩緒以外が半目を向ける。
呆れているのもあるが、可哀想な青春時代もとい高校生活を送っていたのだろう、と半ば同情じみた気持ちになっているようだ。
「りあむさん、まだ数日あるから思い出たくさん作りましょうね」
嬉しそうに詩緒が言うのは、彼も中学卒業までにこれといった思い出が無いからである。
女子の一部からは少々疎まれ、男子からも距離を取られていた中学生活は充実していたと呼べるものではなかったらしい。彼自身は特に気にしていないようだが、今を一番楽しんでいるのも事実である。
「やっぱウタちゃんなんだよなぁ……」
詩緒とりあむの絆が深まっていく中で、他のメンバーはレッスンだけの辛い思い出が残りそうだと考えたが、それを頭から消して撮影の話へと戻す。
天気も良いし、間違いなく海での撮影になる。
宣材写真の撮影以降は特に仕事に関係する写真は撮ってこなかったので、わずかに緊張した空気が漂っていた。
ただし、颯はどんな水着を着れるのか楽しみにしているようだったし、ちとせは体の節々が痛くてそれどころではない、と緊張感の無いメンバーもいる。
意外にも仕事をそつなくこなせそうな千夜が一番緊張しているようだった。
「千夜サン、まだ始まってないのに緊張してるの珍しいデスね」
あきらが千夜の顔を見てそう言ったが、いえ別に緊張していません、と強がっている。
ちとせはそのことについて特に気にしていないし、当然だとも思っている。何せ千夜が撮影を好まないことは知っているし、表情を作れと言われて作るのも得意ではない。
ちとせの世話以外のことを極力排除したら自分のことも二の次になった結果である。現在は、アイドルになった際に自身を顧みるようにちとせから言い付けられているため、千夜はちとせに関すること以外で自分の意志が何かを探っているのである。
「詩緒くんが変な写真を撮られないか心配ですが」
無理にでも話題の方向性を変えようとして千夜は詩緒を人柱に選択した。
急に振られて詩緒は食事を喉に詰まらせる。
隣の神保が背中をさすって落ち着かせながら、慌てなくても大丈夫ですよ、と言葉をかけた。
慌ててないです、と状況を分かっていない神保を睨み、千夜に振り返る。
「変な写真って、どんな写真ですか?」
詩緒が聞いたら、ちとせが噴き出すようにして笑った。
案の定というか、千夜は瞑目して返答に困っている様子で、ちとせがすぐにそのことを察して笑いが抑えられなかったのであった。
「皆さん、詩緒くんのイメージにそぐわない撮られ方をしないか、心配しているんですよ」
助け舟を出したのは神保で、それ以上この会話を進展させる気はないとばかりに食事に戻る。
詩緒は納得せざるを得なくて、自分のイメージとは、と検索一覧に出てきそうなワードを呟く。
それから談笑をしながら全員が食事を終えると、部屋に戻り早速移動の準備に取り掛かるのであった。
☆ ☆ ☆
海には昨日もやって来ていた一行だが、今回は心持ちが違う。
早速いくつか日除けのパラソルを設置したり、簡易のパーテーションと着替え用のポンチョで、更衣室まで行かなくてもいつでも衣装の変更が可能な状態にしておいてある。
そことは少し離れたところに、スタッフ用のスペースを用意してあり、カメラマンやプロデューサーが待機している。
撮った写真はすぐに確認できるようノートパソコンも持ってきていた。
さらにそこから少し離れて、詩緒の着替えスペースも確保している。
あまり知名度は無いので騒がれたりはしないものの、そこら一体の周囲には、これから何が始まるんだと一般のお客さんもギャラリーよろしく立ち止まって注目している人もいる。
海での撮影には場所の確保、一般の邪魔にならないようにする配慮、海や天気の状況など、気にする点も多く、本当は撮影で使われるような場所を確保するのが定石ではあるが、知名度が少なく、予算も無駄にしたくない神保が考えた作戦、というよりアシスタントの千川がスタジオは高くつく、と愚痴をこぼしていたのを聞いて、この選択へ至ったと言える。
そのことを思い出した神保は小さくため息をつくが、スタジオで水着撮影して背景を足すよりも、実際の現場で撮影した方が良いだろうと考える。ともすればクリエイター気質と言えるような人柄なのである。
こうして撮影の準備をしている傍ら、神保がジェンダーレスを目指していると告げた詩緒の水着について、性差を感じないほど良い衣装とは何かということで頭を悩ませていた。
実は、神保はあっさりと判断を決定しているように見えてこうして悩んでいる時間もしっかりと多いのだった。
まるで沼の中を歩くように考えが纏まらないこともある。
今回もそのような沼にハマっているのだった。
「詩緒くんの水着、どういうのが見たいですか?」
そんなことをカメラマンや他のスタッフに聞いたりもしていたが、時間は待たずに撮影は始まるので、とりあえずいろいろ試してみることになった。
少し離れた詩緒のお着替えスペースで、女性スタッフが詩緒の着替えをお手伝いしている。
彼は男子なので下だけ見せなければいい話なのだが、なぜかパーテーションに区切られたうえ着替え用ポンチョも身に着けるよう言われていた。
可愛らしく整った顔と、妖艶に引き締まった美しい肉体、スラっとした綺麗な四肢、上半身の下着を簡単に脱いでしまう男らしく無防備な感じだが、まじまじ見ると照れてしまうあどけなさもあり、女性スタッフは初めて近くで見る詩緒に困惑や驚愕の色を浮かべながらも、丁寧に仕事に取り掛かる。
同時にいろいろ仕切りを設けておいて正解だ、とプロデューサーである神保の評価も意図せずに上がっていた。
「僕は男物の水着一つでもいいんですけど」
トランクスタイプの水着を着て、どうですか、と身体を回してその姿を見せる。
とても良い、と小学生並の感想を抱いた衣装回りのスタッフたちだが、確かに性差の無い彼の上半身は一般の商業誌に載る写真としては不適切である可能性を感じた。
しかし、たとえ全裸にして成人向けの商業誌に載ることがあっても芸術性の方が上回ってしまうだろうという謎の確信も同時に抱く。
成人向けのことはさておいて、とりあえず男性っぽい詩緒、女性っぽい詩緒を演じ分けてもらい、どっちの衣装も試してもらうことになる。
詩緒があれこれメイクや髪のセット、水着の着こなしやらをスタッフ一同からプロデュースされている隙に、海辺では波と共に被写体となっている他のメンバーが、周囲のギャラリーと化したお客さんに見守られていた。
お客さんの目は先ほどわずかにあった奇異な視線から、憧憬や恋慕に似たものへと変わっていっている。
それほどまでにメンバーの水着姿は可愛く、美しい。
写真撮影は許可しており、スマホやカメラを構えるお客さんが多い。
あかりや颯のアピールも手伝い、アイドルとして応援したくなるような人も増えていることだろう。
「あー、身体痛ぁ……」
とはいえ、昨日の疲労が消えたわけではなく、あきらからはぼやきが聞こえてくる。
仕事として我慢しながらカメラマンやプロデューサーの要望に応えていたのだ。
「あきらちゃん、お仕事お仕事!」
颯が慌ててあきらに注意する。
「はーちゃん、こういうオンオフの切り替えってお客さんも好きだから、これでいいんだ」
分かってるといった風にあきらはにやりと笑って、大丈夫と言い切った。
颯は疑いながらもギャラリーと化している一般の人に目を向けると、意外と悪くは思われていないようで一つ学びを得た気分になるが、自分はやらなくていいや、とも思った。
ところで、と颯は千夜がいつも通りにこなせていないのを見て、確かに緊張していたんだなという意外性を感じながらも、大丈夫かなと心配してもいた。
「千夜ちゃん、笑顔笑顔! もっと笑って!」
カメラマンにそう言われても、眩しい笑顔は作れていない。
綺麗だと思わせるようなクールな微笑みか、不気味だと思わせるようなぎこちない笑顔のどちらかが返ってきて、掲載に使えそうなのはクールな表情のものだけだ。
他のメンバーが笑わそうとしたり、励ましたりしてもそんなに笑うことはなかった。
ちとせも、緊張しすぎだと活を入れてはみたが、特に改善されることがない。
詩緒以外のメンバーが一旦撮影を終えると、詩緒の用意ができたらしい。
詩緒専用のスペースから出てくると、周囲で見ていた女性の客が色めき立った。
何事かとメンバーやスタッフも確認してみると、誰だ? と一瞬疑問符を頭に浮かべたが、珍しく男っぽくメイクされた美少年の詩緒で、髪は後ろで一つに縛り、男性用のトランクス水着にパーカーを羽織った衣装で現れた。
周りの客に手を振りながら愛想を撒き散らす姿を見て、メンバーはいつもの詩緒だと認識する。
「すっごぉ! ウタちゃんめっちゃカッコイイよ!」
あかりのストレートな感想に、そうかな、と照れる詩緒だったが、いつも褒めるよりも格段に嬉しそうで笑顔も普段とは比べ物にならないくらいニコニコとしている。
「いつもとは違うギャップというより、違い過ぎて最初分からなかったけど……いいね」
あきらもそう言ってスマホを持ってくると、ぱしゃりとカメラ機能で撮り始める。
「今日はウタくんか。男女をリアルで使い分けられる、詩緒二分の一」
名作をもじって適当な表現する凪だが、胸が無いのが普通な分負けた、と意味の分からないことを呟いていた。
「ウタちゃんすごい! ていうかずるい! 身長高くないけど!」
颯は詩緒の変身ぶりに驚愕して、嫉妬にも似たような感情が生まれて最終的に貶してしまう。詩緒は気にしてるのに、とちょっと落ち込んだ。
りあむはただ見惚れており、普段とのギャップに脳が追い付いていないようだ。
コミュニケーション能力が著しく低下し、言葉を紡ぐことができなかったが、りあむさん? と詩緒の声で言われると、脳が活動を再開した。
「ガチ恋いいっすか?」
捻り出した言葉に対して、詩緒はいつものようにダメです、と答えたことにりあむは少しだけホッとした。
ちとせも珍しく目を見開き吃驚している様子で、詩緒の身体をぺたぺた触って本物かどうかを確かめており詩緒に、本物ですよ! と叫ばれている。
詩緒は千夜の前に来ると、どうでしょうか? と意見を求める。
彼の中で近しくてカッコいい人と言えば千夜が真っ先にあがるので、思わず聞いてしまったのである。
おそらく、過去一番カッコいいと言われて陶酔してしまったようだ。
千夜はいつもの詩緒が、いつも通りじゃない自分のことを楽しんでいることを、少し可笑しいと思てしまった。
「全然、私の好みじゃありません」
クールな表情は鳴りを潜めて、可愛らしい表情になったのを初めて見たであろう詩緒は少しドキッとしたが、何かに気が付いたように、あ、と声を漏らした。
「千夜さんが普通に笑いました!」
普段なら彼が言わないであろうことだが、だいぶ調子に乗ってしまったらしい。
私も普通に笑うことはあります、と言われて怒られる詩緒だった。
それを見たカメラマンが、いったん詩緒を後回しにして千夜を再撮影する。
詩緒はこの姿を早く撮りたかったのか、少し不満に思ったが、しばらくこの姿でいられるならいいか、と考え直した。
それから撮影は順調に進んでいく。
メンバーの別衣装や詩緒の女性衣装も撮影し、良い写真が沢山撮れたとカメラマンや先方の責任者も満足げな様子であった。
神保の求めるジェンダーレスな一枚は撮影できなかったが、詩緒が男性にも女性にも振り切れることはある意味収穫だと彼の可能性を探る良いきっかけにはなったと神保も実感する。
☆ ☆ ☆
撮影が終わるとメンバーはすぐにメイクを落とし、着替えて撤収、遊ぶ時間もほとんどなく、軽食を車内で食べて昨日の施設へ赴いた。
スタッフやお客さんともあんまり挨拶できなかったな、と詩緒が反省する中、先方の責任者がレッスン風景も撮っておきたいと言ってカメラマンと付いてくることになった。
写真を撮られながらのレッスンは何となくやりづらかったが、昨日と同じようにこなしていく。
合宿ということもあっていつもより厳しい練習メニューではあるが、午前から行っていた撮影のおかげでレッスンの時間は昨日より短い。
そのことが少しだけ彼らの心の支えとなったが、今日ファンになってくれたお客さんのことを思うと、レッスンを受ける姿勢にも自然に力が入る。
合宿の目的は夏フェスでの体力作りではあったが、詩緒の目標は直近のライブに向いている。
いろいろと研鑽を積まないといけない、と合宿を通してまだ三日目だが、自分の向上に意識を向けるのである。
今回も厳しい暑さの中、レッスンは夜まで続いた。
書きたいことは決まっていますが、細部を整えるのが難しいです。
合宿編が長くて自分で困惑してます。
白雪千夜ちゃんはクール(キュート)