颯、凪、あきらが歌っていた曲が終わり、三人はステージ裏に捌けていく。
わっ! と会場は盛り上がり、依然として熱気は落ちないままだ。
そして次の曲のイントロがスピーカーから鳴り響く。
フェスに合わせた新曲で、ファンの誰も聞き覚えの無いものだったので、ざわざわとギャラリーの前列が特に騒めき出したが、直後に迫から勢いよくポップアップした詩緒と千夜の姿を見て騒めきは歓声に変わった。
曲に対する理解や練度は詩緒よりもちとせの方が圧倒的に深く、詩緒は何とか千夜に付いていくのが精一杯であったが、ちとせの想いを背負っている分、陳腐なステージにするわけにはいかない。
詩緒は意識を集中させる。
身体に叩き込んでいるとはいえ、次の振り、次の歌詞、次のメロディーをより良くするにはどうすればいいのか、千夜のポジションや表情、会場全体をよく見るように努める。
カメラに抜かれ、アップでモニターに映ることを考慮すると、曲に合わせた表情づくりも必要となる。
ただ覚えたこと以上を本番でやるとなると、緊張感もグッと上がった。
千夜と合わせて、歌声も強く、他には、他には……今までこんなに意識して本番と向き合うことは無かった詩緒は考えることを止められない。
今までが天性の才能であったかのように、無意識にファンへアピールしていたのが嘘のように、しっかりと後ろの方まで伝わるようにパフォーマンスを届けていた。
ちとせさんがやっていたのはこういうことなんだ、と詩緒は理解する。
むしろ千夜を引っ張る立場にいるちとせが全神経を使って会場の中心になり、一体となるように努めていたと考えると、リーダーがちとせであることにメンバーやファンの誰もが何の疑問も抱かなかったのは、その存在感を十分に示していたからに他ならなかった。
今もまだ他のステージに負けず劣らずの歓声が沸き上がっているのは彼女が立て直した序盤の空気をメンバーたちで支えているからだ。
もう一歩先へ行くには、ちとせだけでは足りない。
詩緒は一瞬だけ歯を食いしばると、自分の指先まで神経を集中させてパフォーマンスがより良くなるように思考した。
練習でやっておけばよかったと後悔が動きや表情に出そうになるが、すぐにそれを引っ込める。
今大事なのは如何にファンの皆様に満足していただけるか、そうでなくとも興味の無い人間を惹き付けられるか、心の底から感動を与えられるか。
一生懸命にやるしかない。努力したことを結果として見せ付けるしかない。
バカにされても、認められなくても、それでもやるしかない。
詩緒はアイドル活動をやってきて、ここまでしんどいのは初めてかもしれないと思った。
最初のライブ前のレッスンで上手くいかずに泣いたことがあったが、そんなことよりも沢山しんどい。
ミスしないように、というのを心がけていた時とは比べるべくもなく辛いことなんだと実感していた。
自分が満足とする結果が分からない。観客の心が分からない。ミスをしないなどの明確なゴールが無い。
分からないことはしんどいことだった。
ふと、千夜さんは何を考えているのだろう、ということが詩緒の頭を過った。
ちとせと二人のために用意された楽曲なら、ちとせと組むのが最高のパフォーマンスを発揮できるはずだ。
物足りなく思っているだろうか、合わせるのに必死なのだろうか、それとも自分が怒りを露わにしたことに嫌悪感を抱いているのだろうか、と様々な憶測をしてみるが、心の内を知ることなんて詩緒には叶わない。
あるいはちとせなら以心伝心もあり得るのだろう。
その時、詩緒は千夜とぱっちりと目が合った。
様々なことを考えたが、彼女の目を見たら意識していたことの諸々が吹き飛んだ。
千夜のその目は獲物を狩るような鋭い眼差しをしており、明らかにステージ上の主役は私だと詩緒に主張しているようだ。
彼を一瞥して、ふいと顔を逸らす千夜は詩緒とのコンビネーションなどお構いなしに、その存在感を示していく。
詩緒の言葉を千夜は自分なりに解釈した結果が、言葉通り千夜自身を一番だと認めさせることだった。
このステージにいる詩緒より、他のステージにいるどのアイドルより、そしてずっと傍で支えてきたちとせよりも。
詩緒は千夜から強いプレッシャーを感じてわずかに戸惑ったが、彼女の意図がすぐに伝わって気持ちを引き締める。
かつて千夜が本気を出すということを目の当たりにしてこなかった分、今の彼女の背中が詩緒の目には大きく映った。
詩緒を叩き潰すつもりで戦いを挑んでいるのは明白で、詩緒もそれに合意したようにステージ上の前方に出る。
どちらがより大きく魅せるか、存在感を示せるか、常にサポートを生業としてきた千夜がガンガン前に出る光景は観客からしても異質に感じるようだったが、やがて会場中で一番の盛り上がりに変わる。
詩緒と千夜は会場全体の中で最大の注目を浴びていた。
他のステージにいる観客もモニター越しに詩緒たちのスプラッシュステージを視界に収めていた。
アイドルやスタッフもその異常に気が付いて意識がそちらに割かれていた。
詩緒と千夜の二人は常に笑顔を崩さず、お互いに顔を突き合わせた時は仲間でありながらも敵意を剥き出しにし、バチバチと火花が出そうなほどの空気感を纏っている。
ステージ裏のメンバーはハラハラとしながらも目が離せない。
現時点でどっちに軍配が上がるなど想像も付かない。
とにかく先ほどまでのちとせのようなステージの盛り上げ方をしている千夜が別人に見えるくらいだ。
「千夜ちゃんはもう、ただの私の僕ちゃんじゃないんだね……」
体力回復のために休憩しながら、いつ復帰しようか窺っていたちとせはステージ裏から彼女たちのステージを覗き見て呟いた。
千夜だけでなく、詩緒の成長にも目を見張る。
男子三日会わざれば刮目してみよ、とはよく言ったものだと感慨に耽るが、それ以上に自分が作り上げたステージを二人によって新しく塗り替えられてしまったことが悔しくてしかたがなかった。
いつも飄々としていた分、それを表に出すにはプライドが邪魔をしてしまう。
自分の病弱な体質をこれほどまでに呪ったことも初めての出来事であった。
「千夜ちゃん、すごい……」
颯がぼそっと呟く。
誰かが固唾を呑んで見守っていた。
曲の終盤、盛り上がりはピークを極める。
いつの間にか他のステージからも観客が流れてきていたようで、スプラッシュステージ周辺はとてつもない熱気を帯びていた。
詩緒も千夜もどちらも引かない。
パフォーマンスが崩壊寸前のところまで主張し合うが、均衡を保つ。
私が目立つ、僕がアピールする。
僕が一番、私が最高。
今、千夜はちとせの代わりではなく、誰の代わりでもなく、自分自身のすべてを全面に押し出しているのだ。
こんなことは彼女も初めてで、どうしてそうしたかったかも今となっては分からない。
ただ詩緒に負けたくない気持ちがあったような気がしたし、自分の存在感を示したかっただけなのかもしれないが、そんなことどうでもよかった。
千夜は高揚していた。今までに感じたことのない気持ちを楽しみ、充実している。
アイドル活動をやってきて初めての感覚。
やがて感情は感謝へと切り替わり、迸るような空気が、ストンと落ち着いたものに一変する。
曲の終わりにモニターの中心に抜かれていたのは、千夜だった。
☆ ☆ ☆
パフォーマンスを終えた二人はお互い別々の袖口から裏へと捌ける。
歓声は鳴り止まず、詩緒たちのことをスタッフやメンバーがじっと見つめていた。
こんなにも会場は盛り上がったのに詩緒の表情は晴れない。
対照的に千夜は清々しい表情をしており、二人の中では完全に勝敗が決着していた。
すぐに次の曲のイントロが流れてメンバーが入れ替わるのだが、りあむは詩緒に手を伸ばしてハイタッチのポーズを構えた。
頑張った! あとは引き継ぐ! と言わんばかりの決意に満ちた表情。
詩緒はハッとして、まだ全然イベントは終わっていないのだと気持ちを切り替える。
パシッと小気味よい音を立ててりあむがステージへ向かう。
向かい側の袖口ではあかりが同じように千夜にハイタッチをしてステージへ向かっていた。
しばらく、ぽかんとステージを見ていた千夜は手の平に視線を落としてグッと握る。
詩緒に真正面から競り勝って、今になって嬉しさが込み上げてきたのだった。
思わず目尻に涙が溜まったことに、千夜は自分で驚いた。
こんなに熱くなれることが今まであっただろうか……。
「千夜ちゃん、やればできるじゃん♪」
「お嬢様……」
口元に笑みを浮かべる主を見つめ返す。
ちとせが千夜に向けたことのないその表情に一瞬ドキッとしたが、彼女もまたアイドルなのだとすれば、その表情にも納得がいった。
気が付かないように引いてあった白線を越えたような気がして、様々な感情がない交ぜになったが、瞑目した後にしっかりとちとせの瞳を見据える。
「ええ、主の期待に応えるのが従者の役目ですから」
澄ました顔でいつも通りに言いのける千夜に、ちとせは口元の笑みをより深くした。
それは、もう主従だけの関係じゃないことを意味する笑みだった。
千夜はその後詩緒に目を向ける。
いつになく沈んでいたように見えたが、大丈夫だろうかという心配から様子を窺ってみたが、普段の彼に戻っており、初めて魅せる彼の姿を思い出すと、そのギャップや切り替えの早さに背筋がゾッとする思いもあった。
その気持ちを胸に、千夜は今後も邁進あるのみだと考え、このステージに対して集中しなければと詩緒に倣って気持ちを切り替えるのだった。
一方で詩緒は、会場の盛り上がりに驚いていた。
千夜が仕掛けた戦いに乗って、集中力がこれまでにないほど高められていて、あれだけ周囲の様子に意識を向けていたのに、他の一切がシャットアウトされたかのような、まるで千夜と二人だけの空間に切り取られたみたいだった。
自分としては反省点しかなかった。
お客さんのことは頭から出ていっていたし、笑顔が作れていたかもわからないし、本当に一切合切を千夜との空間から切り離してしまったことで、反省するべき点を明確にできなかったことに対する反省だ。
そのうえで千夜に負けたと感じた。
負けたと思ったのはパフォーマンスのレベルだけではない。
特にその心の強さに圧されてしまった。この状況をより良いものにできるのは私だけだという強い意志が、詩緒の気持ちを後ろへと圧しやったのだ。
結果、モニターが中心に映したのは千夜だった。
立ち位置も、詩緒がわずかに千夜より後ろにいたし、ファンのコールも千夜を呼ぶ声の方が大きかった。
明日以降、尾を引くなと思いながらも詩緒は今日のイベントをしっかり完遂しようと気を引き締め直した。
だが、次に仕掛けられたら敗ける気はない。たとえ今日また戦うことになっても同じようにはいかないと考えたのは、単純に負けず嫌いなだけだからではなく、自分の好きな分野で敗けたくないという意地から来るものでもある。
千夜をチラリと見る。
さっきまでとは違う、普段通り無表情な千夜がこちらを向いている。
内心ではもっと意識してほしいなと思う詩緒であったが、千夜の様子からはそんな雰囲気を感じることができず、軽く頬を膨らませるのだった。
☆ ☆ ☆
現在のステージは、あかりとりあむが二人で披露する状況となっており、千夜対詩緒の熱気を引き継いで、会場のボルテージが下がらないような安定したステージを送っていた。
りあむは最近では徐々に知名度を伸ばしており、SNSやライブパフォーマンスでの飾らない在り方が話題になっているらしい。
飾らないと言うのはかなりオブラートに包んだ表現であるが、とにかくキャラが濃いと一部では絶大な支持を得ているのも確かである。
その隣に並ぶあかりも実家の林檎農家というアイデンティティと、りんごろうという自作マスコットを駆使して徐々にその人気を伸ばしている。
特に語尾に付く『んご』というネットミームを、都会の流行り言葉だと間違えながらも使用しているところが可愛らしいとの評判。
彼女たちの魅力でもって会場の観客を各々のファンにしていく。
あきらは元々配信者ということがバレると一気に配信者の界隈に周知していったが、意外にも好意的な意見が多く、アイドル砂塚あきらを推す配信者も多いとの噂が彼女の知名度を引き上げているところだ。
颯と凪は、双子ということで注目を集めつつも、容姿が似ている割には中身が全く似た感じではないと評され、二人の仲が良いやり取りも好意的に受けとめられている。
ちとせ、千夜もその関係性から憶測が飛び交うこともあるが、プロジェクトのリーダーとその参謀のような立ち位置からファンより厚い信頼と支持を得ている。
特に今回のイベントでその存在感を示せており、頼れるお姉さんとしてメンバー内で位置付けされているようだ。
詩緒は唯一の男子として活動当初より界隈から注目がされており、日々成長し、女性のメンバーとも上手くやっていけていることから、これといったスキャンダルはなく、実績が認められている。
憶測だけで練り上げられたゴシップ記事は出回ることもあるが、本人は特に気にしていないようでメンタル面での強化も著しいものとして、ファンの間ではプロジェクトの頑張り屋さんなマスコットキャラクターというポジションである。
そんなメンバーたちが作り上げたスプラッシュステージも暑い気温の中、終わりを迎えるに至っていた。
残りは投票を残すのみで、初日昼の部スーパーライブの時間を得票数の多いステージで披露することになる。
初めての事態も多く、体力的にもそろそろ限界を感じているメンバーたちの最後の楽曲になる。
数十分の投票時間を設けて、その後数十分の開票が行われる。
疲労からか、集計中の出来事を詩緒は覚えておらず、あるいは眠りについていたのかもしれない。
自己評価としては、かなり頑張った方である。
それは詩緒だけではなく、ちとせを始めとした全メンバーの総意だったのだが、アイドルの投票を左右する最たるものが何だったのかということである。
それでは結果を発表いたします、というアナウンスが会場全体に響き渡る。
パフォーマンスの出来ならば間違いなくミーティアが務めたスプラッシュステージだと誰もが言うだろうが、そのステージ名はスピーカーから聞こえてこない。
代わりに大きく映し出されたモニターには他の二ステージと大差を付けられての三位だった。
詩緒はドキドキと内側から聞こえるほど響いていた胸の音が急に小さくなったのを感じ、一位のパステルステージへと振り向いた。
パステルステージの上では小学生アイドルたちがしきりに喜んでおり、譲って上げられて良かったと思うと同時に、今まで何をやっていたんだという悲しい思いが込み上げてくる。
だがイベントは終わったわけではない。
頭を振ってステージを降りる。
ファンの人とハイタッチを交わしながら、真ん中のステージへと駆けていった。
ファンの人たちからは、良かったよ! と励ましの言葉をかけてもらい、目の奥から溢れてくる涙を抑えながらも詩緒はお礼を返す。
意気消沈しているのは皆も同じだったが、ファンには感情が表に出ているのがバレないようにしようと努めた。
足りないものは明確だった。
これまでテレビへの出演などが皆無だったことによる圧倒的なまでの知名度の差。
有名と無名が戦った結果、知ってる方に情が湧くのは当然の結果であった。
しかし詩緒だけでなくメンバーの切り替えは凄まじいもので、そんなことは分かり切っていたとばかりにステージへと駆け上った。
知らないのならば、教えればいいだけの話であり、今こそが無名が有名を食らう最高の舞台だと言えるのだ。
結論からすると、パフォーマンスはプロジェクトミーティアが圧倒的な支配感を見せつけたため、他ステージのアイドルを飲み込むような形で幕を下ろした。
実質の人気投票というよりもプロジェクトの起爆剤としてこのイベントは扱われることになるのだが、プロデューサーの神保だけが、そのイメージをしっかりと描いていたのだった。
☆ ☆ ☆
閉演し、観客が後ろの方から順番に会場を後にする。
スプラッシュステージに戻ってきたプロジェクトミーティアのメンバーはそれを見送りながらも、ファンとの交流に時間を費やすことを惜しまない。
彼女たちも会場を後にするためのタイムリミットはあるが、一言でもいいからできるだけ声をかけてあげたいと思っていた。
そうすればファンが喜んでくれるからというのが根底にあり、神保から直接言われているわけではないが、ファンを大切にすることが第一であるということを遠回しに伝えられていた。
その教えをなるべく守りたかったのは彼女たちの意志であり、ファンへ笑顔を与えている分、ファンから笑顔を貰っていることも自覚していたのだった。
あまり時間が取れない中でも最低限の対応をしてファンに手を振ってもらいながらステージ裏へと移動した。
スタッフが忙しなく動く中、メンバーの間には沈鬱な空気が流れている。
もちろん今回の結果について分かってはいたことだったが、頑張った分の結果があまりにも追い付いていないような感覚がして、やるせない気持ちだけが残る。
「詩緒くん」
汗でベタ付いた身体を拭きながら着替えをしていたところ、すでに衣装を着替えていた千夜が詩緒に声をかける。
「今日は初めて、何と言いますか、充実していたと思えました」
その後、ありがとうございます、とお礼を付け足す。
詩緒は少しきょどってしまったが、こちらこそと頭を下げる。
それから沈黙が続き、気まずい空気が流れていく。
千夜が離れていかないので、着替えをしたいのに着替えられない状況の詩緒はあっち行ってください、とも言えず曖昧に笑顔を浮かべていた。
「……どうでしたか?」
突然投げかけられる千夜の不明瞭な質問に、詩緒は小首を傾げたが、恐らくは今日のライブでの出来事を気にかけているのだろうかと予想してその感想を述べることにした。
「今日はびっくりしました! 千夜さんがあんなに前に出てくるのも初めてでしたし、僕なんかが敵うわけないなって感じで、とても勉強になりましたし、やっぱり千夜さん凄いなって……」
千夜は特に反応せずに黙って聞いている様子だったので、質問の内容に対する回答に齟齬はないと判断したが、少しずつ悔しさが込み上げてきて最後は結局、涙目になりながら、悔しいって思いました、と話していた。
「私も、貴方に発破を掛けられなかったら、きっと今日の私はいないと思います。だから、その感謝です」
ぴしっと綺麗にお辞儀をした後、悔しい思いをさせてすみません、と言った。
自分より年上の人に頭を下げられることなどないので、詩緒はあたふたと戸惑うばかりである。
ただ、千夜の態度が他人行儀で少しだけ不服だったのもあり、詩緒は意識して砕いた態度を作ると、着替えるのであっちに行っててください、と声を弾ませる。
千夜は詩緒の格好をあらためて見る。話を切り出すのでいっぱいだったのか、彼が下着姿の事に今更ながら気が付くと、頬を朱に染めて一度咳払いをした。
「ん、今日の詩緒くんがあんまり女性らしいので気が付きませんでした」
失礼しましたと謝り、千夜は踵を返した。
普段から『詩緒くん』と呼んでいるから、てっきり男性であることを念頭に置いているものだと思っていたが、案外呼び方だけでは認識を変えることは難しいのかもと考える詩緒であった。
☆ ☆ ☆
色々と帰る準備を終える頃にはあっという間に夕刻を過ぎており、夜の部のアイドルもすでにスタンバイを始めている最中である。
詩緒は行くときと同様にバスに乗り、適当な座席に腰を下ろして待っていると、目の前には今朝話しかけてきた小学生のアイドル、橘ありすが詩緒をじっと見ていた。
あまりにじろじろと見られるので、どうしたのか、と声をかけてみると、今日のライブでの出来事の話になった。
「プロジェクトミーティアでしたっけ? ……水上さんも白雪さんも、とても凄かったです。ライブパフォーマンスはデビュー前にもやっていたのでしょうか?」
詩緒は首を横に振り、やっていないと答えると、ありすはより驚愕の表情を浮かべて口元を手で押さえた。
それから二人でライブの反省などを話し合っていると、詩緒のことを話しやすい人だと思ったのか、最初は男性だからと遠慮していた様子だったが、すぐに遠慮などがなくなっていくと、そのままありすは詩緒の隣の席に座った。
「うんうん、今日のライブではあんまり他のステージを見る余裕がなかったんだけど、ありすちゃんは他のステージにまで気を配れて凄いなぁ」
そんな風に詩緒が褒めると、ありすは普通です、と得意げな顔をして言う。
詩緒は本心から言っているので、あからさまなご機嫌取りというわけでもなく、ありすは先輩として扱われることで悦に浸っていた。
ちなみに彼女は下の名前である『ありす』と呼ばれることを嫌がるのだが、仲間に対しては呼ぶことを許している。
つまり詩緒はすぐに仲間であることを認定されたというわけであり、ありすのプロデューサーからは羨望の眼差しで見られることになるが、また別のお話。
そうしてありすとお仕事の話や、彼女の好きな物、主に苺の話で盛り上がっていると、不意にドサッと荷物が落ちたような音が聞こえてきた。
詩緒が音のした方を確認するとりあむがバスの通路で詩緒たちを見下ろしながら突っ立っていた。
「おい、ウタちゃんの隣はぼくの席だぞ!」
小学生相手に言う台詞として、ファンが聞いていたらまたボコボコに炎上させられそうな小言をりあむが吐く。
ありすはしらっとした視線を向けると、どこの席に座るとかは自由でしたよね? と正論で返すので、りあむは何も言えない。
こういうのって行きと帰りで一緒だろうという固定観念を持つりあむは目から鱗のような思いで詩緒とありすを見るが、結局のところ詩緒の隣に座りたかったという理由で難癖をつけていたようだ。
詩緒はりあむに気の毒だと思い、ありすと仲良くしてもらおうと席を立つが、ありすが彼の袖を引いて止めた。
「ウタさんとまだ話していたいので、私の隣に居てください」
そんなにストレートに言われてしまうと小学生相手と言えども顔が熱くなっていった。
りあむには、戻ったら一緒に帰りましょうね、と伝えるとぶすっとしながらも了承して、別の席に向かう。
去り際に、ウタちゃんの浮気者! と言われた詩緒は本気で落ち込んでしまったので、勘違いされるからやめてください、と沈鬱な表情で力なく笑うと、りあむは慌てて訂正していた。
つまり、りあむは小学生相手に嫉妬するような面倒くさい人だったのである。
帰りのバスの後方の席では、やむー、という鳴き声が発せられていたそうだ。
読んでいただきありがとうございます。
前回誤字が沢山あったみたいでお話に集中できなかった方、申し訳ありません。
先生のような、あるいは編集者さんみたいなユーザーさんに読んでいただいて、言葉の誤用や文の構成までチェックしてもらっており、大変助かっております。
訂正箇所は自分でも調べ直し、学ばせていただいてます。ありがとうございます。