波乱の面接から数日が経過した。
その日のうちに合格通知があり、家族会議や詩緒本人が悩みに悩んで、ついに回答の期限日がやってきたのであった。
メールで回答してほしいとのことだったが、どうしようかと未だに悩む詩緒の姿が彼の自室にある。
ベッドの上に寝転がり、右に左にと忙しなく寝返りを打っている。
右を向けばお部屋の空間が視界に入り、アイドルとして有名になったり、人気者になるようなポジティブな夢想を描き、左を向けば目の前に壁があり、ネットでの罵詈雑言や酷く汚いと言われる芸能界の闇などのネガティブな思案をし、それを交互に繰り返しているのだ。
まるで天使と悪魔の天秤にかけられているような気分であった。
ついには期限も迫ろうとしていたのだが、一通のメールが届く。
その差出人を詩緒は知っている。
ここ数日間悩み続けた元凶であり、アドレスの登録はしていないものの、件名を見れば『美城プロダクション』の文字が含まれているのだ。
『夜分に失礼いたします。私、先日より兼てご連絡させていただいております美城プロダクション アイドル部門プロデューサーの神保でございます。』
とても丁寧な書き出しであり印象は悪くない。実際には無駄があり一般的に事務連絡等には向かない駄文であるが、むしろ懐柔されてしまいそうなほどに、その丁寧な文面は詩緒の琴線に触れる。
これが立派な社会人の図なんだな、と脇の甘い感想を抱き、神保さんがこんなに言ってくれるならアイドルをやろうという天秤に重りが乗せられてしまうのも無理はない。
『水上様、回答の期限を本日とさせていただいておりますが、本日ご回答いただけますでしょうか。是非とも弊社のアイドルとして活動していただければと存じます。まだお悩みでいらっしゃる場合、期限日に関係なくご一報くだされば幸いです。』
何て丁寧な文なのだろうかと軽く感動を覚える詩緒であったが、逆に『やります』の一言で返すのが心苦しく、『期限日に関係なく気の向いた時期にご一報くだされば幸いです』の一文に甘えて保留にしようかな、なんて考えも沸き出でている頃だ。
ただ、実のところ内心ではほとんど選択を決めており、結論を言うとアイドルをやるのだが、どんな風に返信すればいいのかがなかなか決まらず、あれこれと考えてしまう状態が続く。
しかしこうして神保さんを悩ませるのも悪いと思うと、返事が変わらないのであればメールを送った方が良いに決まっている。
拙い文章でも神保さんは許してくれるし、そんなに器の小さな人ではないだろうから大丈夫だと自分に言い聞かせると、なぜだか気分が落ち着いてメールを送信することに抵抗が無くなっていくのだ。
そもそも送られてきたメールにも、『考えさせてください』やら何かしらの返事を行わないといけないのだ。一週間くらいかけて出した選択を今さら変えるなんてこともしないし、やはり、ここはすぐに所属する旨の回答をするべきだと、ずっと悩んだ挙句にようやく選択することができた。
どうして一度選択したことに対して、何度も何度も反芻して同じ問いに悩み続ければならないのか不思議だと思ったが、彼はそもそも自分が優柔不断であることを思い出す。
「きっと他の人はすっぱりと決断できるんだろうな」
誰に聞かせるでもなく、一人声に出した。
☆ ☆ ☆
『美城プロダクション 神保様』
両親に聞いたり、ネットで調べたりしてメールを作成していき、自分が打った文章の頭がこれだ。敬称で『様』と付けるのは若干高校一年生にして初めての試みである。
『水上です。ご連絡ありがとうございます。考えを重ね、私自身アイドルとして御社に所属したいと考えております。どうぞよろしくお願いいたします。』
及第点かな、と自己評価できるような文章で送信のボタンをタップした。
『送信しました』のメッセージを見て、あ、と一瞬心臓が止まりそうになったが、そんな気持ちを一蹴するように早鐘を打ち始めた。
アイドルをやるって言ったんだ、と思うと何をどうすればいいか分からない不安や緊張に苛まれる。
何をするんだ? どうするんだ? と頭の容量が現状の不明点に対して莫大なリソースを割き始めてあわやパニックになりかけたが、ごろんとベッドに寝転がってみると意外と冷静さを取り戻し、自分は未成年だし必要なことはプロデューサーである神保が導いてくれるに違いないだろう、と思考を放棄することに成功した。
とにかく返事を待てばいいのだ。
返事を待ち始めると、気が気でなくなりお風呂もご飯もどこか上の空で時間を過ごしてしまっていた。
彼から返事が来たのは意外にも早く、夜の七時過ぎくらいであった。
ここだけの話、週末なのにこの時間まで彼が仕事を行っているのは詩緒のせいでもある。
文章の内容はそれなりに簡素なもので、詩緒がすでに見慣れてしまっただけかもしれないが、言葉遣いの丁寧さには特別に感情が揺さぶられることはもう無かった。
自分もこうして大人になっていくんだな、と見当違いな感想を抱いた詩緒であったが、内容にはしっかりと目を通す。
まずは宛名と差出人の名前があり、飛ばすようにさっと読む。
『ご連絡いただき、ありがとうございました。また弊社への所属をお選びいただき、誠にありがとうございます。つきましては書類の記載をお願いしたく存じますので、大変恐れ入りますが、保護者の方と弊社までご足労いただけますでしょうか。』
うぅー、と呻きながら文章を読んでいく、読み物を理解するときに彼がよく発するのが呻き声であった。
文章には続けて、『都合の良い日程をご連絡ください。』と書かれていたので、親に相談することにした。
結局、土日である明日か明後日の昼頃に希望を出した。
親にも負担をかけるので、大丈夫かなと思った詩緒であったが、どうやら両親には気にする様子は見受けられない。むしろ少し誇らしそうなくらいであった。
☆ ☆ ☆
翌日、美城プロダクションへは母親と訪れる詩緒。
自分ではおそらく着ないようなちょっとお高めな服に身を包みオシャレに気を使っているのは姉の配慮である。
まあ配慮と呼べるかは怪しいが、芸能人の巣窟に行くならそれなりの格好しておいた方が良いという謎理論の基、姉のコーディネートによって幾分よりはオシャレな装いになっているようだ。その証拠に詩緒とすれ違う人たちから結構な割合で視線をもらう。
しかしながら詩緒はレディースで組み合わせられていることにあまり納得いっていないようで、できればユニセックスの服を貸してほしかったと思っていた。
タイトなズボンと片側オフショルダーのシャツを男性が着るにはどこか気恥ずかしく感じるのだ。
最初にスカートを出された時はどうしても履けないと言い、次に出てきたホットパンツも勘弁してくださいと断った。しょうがないと言われて出されたこのコーデで妥協したものの、股間の辺りがわずかに膨らんでいるのを気にしてしまい、詩緒は少しばかり羞恥心を覚える。
ただし他人からは、よく見てみないと分からないといった程度でバレることはないだろう。
男性からの熱い視線を受ける度に、僕は男なんです、と言い訳をしたくなる彼だが、話しかけられることもないので黙っておいた。おそらく母親と一緒に歩いてなければ何度も声をかけられていたであろうが、母が年相応に見られていることに詩緒は失礼ながらも安堵した。
まあ騙しているというか、勘違いをそのままにしておくのはどこかもどかしく感じたりもしたが……。
待ち合わせ場所となる美城プロダクションのオフィスビルに入る。
活気があまり無いのは今日が土曜日だからだとすぐにわかった。週休完全二日でホワイトと語る美城プロダクションではあるが、芸能人はその限りではなく、必然、関係者は土日にも出入りしていることが多い。
受付のお姉さんはそれと関係なく仕事を行っているみたいで、詩緒は神保の名前を出して話をする予定があることを伝える。
「少々、お待ちください」
そう言って内線を繋いで神保のオフィスに電話をかけると、数コールの内に彼は出たらしく、受付の女性は用件を伝えていく。
「お待たせいたしました。神保はただいまこちらに向かっておりますので、その間に入館証を発行いたします。そちらにお掛けになってお待ちください」
穏やかな笑顔で受付の女性が椅子を示す。
いくつかテーブルと椅子がセットになった場所で、待ち合わせや休憩として使えるスペースのようだ。普段も利用している人は少ないし、今日に至っては誰もいない。
詩緒はスマホをポチポチしながら母親と待っていると、程なくして神保が姿を見せる。
「ご足労頂きありがとうございます。お待たせして申し訳ございません。私、美城プロダクションアイドル部門プロデューサーの神保と申します」
丁寧なお辞儀をすると流れるような所作で名刺を取り出して、詩緒と彼の母に手渡した。
詩緒の母も神保に合わせて挨拶を返す。ちなみに彼女から手渡す名刺は無い。
「ご案内いたします。どうぞこちらへ」
神保は柔和な笑みを浮かべると踵を返して詩緒たちを先導する。
これから向かうのは三十階にあるというアイドル部門のオフィス。そこの応接室。
先ほど発行した入館証を受付で受取り、エレベーターの前のゲートでバーコードを読み込ませると、ピッと電子音が鳴り、ゲートが開く。
複数あるうちの一つのボタンを押せば、これまた複数あるうちの一つのエレベーターが音を鳴らして開く。
三十階ともなるとエレベーターの初速も早く、身体にかかる負荷もやや重たく感じるほどだった。
到着すると神保がまず降りて、詩緒たちが続く。
土曜日といっても社員は若干名常駐しており、すれ違う人には挨拶を交わしていく。
その時に詩緒は自分がやけに注目されているように感じられ、居心地が良いとは言えなかった。
オフィスの一室に入り、その部屋の応接室へと案内されるところでも詩緒に向けられる奇異と言うべきか、興味を向けられたと言うべきか、妙な視線にさらされ、応接室のドアを閉めたところで彼もたまらず、神保さんと声をかけた。
「どうしましたか?」
「僕の気のせいならいいんですけど、他の人からの視線をやけに感じたような……」
気がします、という言葉には繋がらず、ごにょごにょと尻すぼみに言葉が切れていく。
神保は何かを察したのか呆れたようにああ、と苦笑をする。
詩緒は怪訝な表情で神保を見つめた。
「すみません、さすがに気が付きますよね」
しばらく言いづらそうにしていたが、詩緒が注目されている経緯を、神保は説明する。
曰く、オーディションで他のアイドルと共に詩緒を合格させるかどうか、という議題でアイドル部門では会議を行っていたらしく、いろいろ問題点は指摘されたそうだが神保の説得によって、詩緒を合格とすることができたのだ。
そのことがすぐ社内に広まり、今日出社している社員は、神保と一緒に歩いている子が例の美城プロ初の男性アイドルなのか、と注目せずにはいられなかったのである。
それ以上に詩緒の容姿の女性らしさに驚愕していた社員が大多数だったのだが、それは知る由もない。
「どうしてそこまで? 僕、一度断ったんですけど」
詩緒がそう答えると神保は真っ直ぐに彼を見て、言った。
「その方が絶対に面白くなるからです」
今までの人のいい笑顔はどこへ行ったのか、オーディションの時も見たことのなかった神保が初めて見せる自信に満ちた表情。
『面白くなる』と確信して発したその言葉に、微塵の偽りもないのだろう。
「それに、水上さんみたいに才能のある人を、他のプロダクションが黙って見過ごすはずがありませんよ。アイドルという道以外に、歌手としても高いポテンシャルを秘めているとオーディションの時に感じましたし、ぜひ私の手でプロデュースさせていただきたいと考えております」
彼のその野心溢れる眼差しと、誠実な態度が詩緒の母を安心させたらしく、詩緒よりも先に息子をよろしくお願いしますと頭を下げていた。
さすがに速いんじゃないかな、と詩緒は思ったが、結局変更することのない選択のため一緒に頭を下げておいた。
そこからは事務的な作業であり、必要書類の記入などを行った。
その後、施設を一通り案内してもらい、来月から早速契約開始ということで、またプロダクションに来ることを約束して解散となる。
☆ ☆ ☆
「ただいまぁ」
詩緒が帰ってくれば、少し小走りで時雨がやってくる。
「どうだった?」
弟を勝手にアイドルにした責任を少なからず感じているのだろうか、と詩緒は思ったが、それはどうしようもなく杞憂であった。
目を輝かせて、美城プロダクションでの様子を探ってくる姉の時雨は、芸能人の姉という肩書きに心躍らせているのだと、顔に書いてあった。
「どうもないよ」
わずかばかりの苛立ちを覚えた詩緒は、彼女を適当にあしらって自室へと引っ込んでいく。
バッグからスマホを取り出すと通知が入っていることに気が付き、確認してみればそれは神保からのメッセージであった。
『詩緒さん お疲れ様です。これから一緒に頑張っていきましょう!』
その一文だけで、詩緒はアイドルを頑張ろうと思ったのだった。