ボーイ・イン・ザ・シンデレラ   作:しらかわP

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気付けば半年経っており、すみません。
前回の予告通り美優さんが吐きますので汚い描写にはお気を付けください。
長くなってしまったので、お時間がある時にお読みいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

おまけに、大学二年の詩緒と高校生になったありすのお話を書いてみました。


10th extra stage : “How to spend idol's time on a comfort trip.” #Part2

時間は十九時を回っている。

ありすの私服を預かっているので、一度彼女を部屋まで送り届けてから、軽くシャワーを浴びてから夕食を摂る予定だ。

詩緒の泊まるホテルから離れた所にある旅館で会食があると聞いており、詩緒の食事もそこで用意されているらしい。

 

大浴場もあるので、ついでに寄っていく算段も立てておく。

 

「今日はありがとうございました」

 

「こちらこそ、付き合ってくれてありがとね。楽しかったよ」

 

ありすの部屋の前でそんな挨拶をして別れる。

彼女も旅館の方でご飯を食べるということだったので、また会うかもしれないことを頭の片隅に入れながら詩緒は自分の部屋へと戻っていった。

 

あまり無理はせず、心地よい疲労感の中でシャワーをさっと浴び、十分足らずで風呂場を出る。

洗面台に備え付けられた大きな鏡に自分の裸体が映っている。

線が細く華奢な体型だが、アイドルになってから始めたトレーニングは徐々に成果を出しているようでお腹を手でさすってみると、以前よりも硬くなった腹筋の感触が手に伝わる。

硬くなったと言っても当人比であり、しっかりと鍛えている人からすればまだまだ柔い。

 

身体と髪の毛をバスタオルで拭き終えて、高級感のあるドライヤーを手に取った。

さすがVIPルームだなとわずかに優越感を覚える。いつもより風当たりが良く感じたのはきっと気が大きくなったせいだ。

 

もう十分かなとドライヤーを止めた。当て方が甘く、少しだけしっとりとした髪。

再び手に取るのも億劫になり、タオル一枚で部屋を歩く。

 

下着と靴下を履き、寝る時用のTシャツを着て、クローゼットに置いてある部屋着を見繕う。

ホテルの部屋着のはずだがいろんなタイプがあり、これから旅館に行くので迷わず浴衣を選択した。

ガウンやセパレート、ロングシャツタイプの部屋着もあったが、旅館の和室でご飯を食べることを想像すると、それらの服ではとても浮いているように見えそうだと彼の感性が訴えていた。

 

そんなことを考えながら浴衣を着て帯を締め、羽織にも袖を通した。

洋風なVIPルームの雰囲気には似つかわしくないと思っていたが、宿泊施設へ外泊するとなれば浴衣との相性もそう悪いものではない。

 

必要なものを鞄に詰めて準備が整ったところで、旅館に温泉があることを思い出す。

せっかくなら食事の後で温泉にも浸かっておこうと考え、バスタオルなどお風呂に必要なセットも持って行くことにした。

 

☆ ☆ ☆

 

ホテルから歩いて数分の離れた場所に旅館があり、見知った顔とも何人かすれ違う。

食事を終えてホテルへ戻る人がちらほらいるようで、詩緒は少しだけ歩を速めた。

 

辿り着いた旅館は思ったよりも大きい。

そんな旅館が二日間貸切となっていることに、改めて美城プロダクションの資金力の高さを実感した。

 

玄関で靴を脱ぎ、スリッパに履き替えると従業員の女性が声を掛けに来てくれた。

詩緒は食事をしに来た旨を伝えると女性は、用意できているのでお持ちします、と言ってから大広間へと案内してくれる。

大広間はすべて畳になっていて、多くの人数が集まっていることが分かるくらい大量のスリッパが外に並べられていた。

 

部屋の中をチラッと覗くと、子供から大人、社員からファミリーまでワイワイと楽しんでおり、食事を終えた人から自分の部屋に戻っているはずだが、それでも未だに人数が多い。

一部の社員やアイドルはお酒を飲んで、いわば出来上がった状態になっている人たちもいるみたいで、あんまり関わり合いにならないようにしようと内心で呟き、息を潜めて適当な座席に座る。

 

程なくして先程の従業員が食事を持ち、詩緒へ配膳していく。

美味しそうな料理にさすがに胸を躍らせて、ついスマホで写真撮影をしてしまう。

 

いただきます、と手を合わせて呟いたところで、彼の周囲に人だかりができていることに気が付いた。

 

「ウタおにーさんでごぜーます! 今からご飯を食べやがるですか? これがちょー美味しかったですよ!」

 

仁奈が指差しながら料理の感想を教えてくれる。

 

「本当に? じゃあ最初に食べてみようかな。……あ、美味しい! 仁奈ちゃんの言ったとおり!」

 

人だかりには一瞬動揺したが、仁奈や薫など大人組とは部屋の逆側にいた子供たちが詩緒を見つけて寄ってきたようだ。

 

「薫もそれ好きー! あと、こっちも美味しいよ!」

 

「みりあはこっちがおすすめ!」

 

子供の天真爛漫さといったら癒し以外の何でもない。

詩緒は一人で食べるよりも楽しく感じ、自室で頼んだりしなくて良かった、と心底思った。

彼女たちのおすすめ料理を口に運ぶ度に羨ましそうな眼差しとリアクションに期待する瞳が詩緒を襲い、落ち着かない様子だ。

ちょっとだけ、やっぱり自室で頼めば良かったかも、と内心で前言撤回しそうになったものの一人寂しさと比べれば現在の方が十分に価値のある状況だ。

 

「じゃあ僕一人だと食べきれそうになくて、残しちゃうのも勿体ないしみんな一緒に食べてくれる?」

 

痺れを切らしたように詩緒はそう提案する。

一瞬だけ、いいの!? と目を輝かせた年少組だが、おねだりしていたみたいだったことを自覚して、バツが悪そうに目を伏せた。

 

そんな彼女たちの気持ちを汲んでか汲まずか、仁奈が美味しいと言っていた料理をお箸で摘まんで、彼女の口の前に運ぶ。

 

「あ~……んっ」

 

詩緒の掛け声に仁奈が釣られて、ぱくりといった。

食べさせてもらう形となり、つい食べてしまったと反省する前に、口にした料理の美味しさが舌に広がった。

 

「うんめ~ですよ!」

 

テンションが上がる仁奈を見た他の子どもたちも皆一様に、いいなぁ、と羨ましがって詩緒に近付き口を開けて待っていた。

 

「薫も~! あー……」

 

「みりあも! あー……」

 

「千枝もいいですか?」

 

「ウタさん、私もたくさん自主練したので……」

 

「え、ありすちゃんまで!?」

 

集まっていた小学生組の中にいたありすも練習のご褒美と称してちゃっかりおねだりをしており、困惑しつつも結局は、しかたないなと笑って集まってきた全員に詩緒が食べさせていた。

人に食べさせるのも楽しくて悪くないなと思いながらも自分の分の食事を終えて、綺麗に空の食器が残る。

後で従業員の人に片付してもらおうと思いながら、しばらく食後の休憩をかねて年少アイドルとの話に花を咲かせていた。

 

ありすが夕方に自主レッスンをしたことを皆に話しているのを聞いて、相槌を打っているといつの間にか詩緒の隣に移動してきていた片桐早苗に肩を組まれる。

早苗は美城プロダクション所属の先輩で、小さな体躯に似つかない抜群なセクシーなスタイルが特徴の元警察官という属性をたくさん備えたお姉さんアイドルである。

 

「ウタちゃん来てたんだ! お姉さんたちに挨拶はないわけぇ~?」

 

顔の真横で話しかけられる距離感の近さだが、それとは別の理由で詩緒が明らかに表情を歪める。彼女から漂ってくるお酒の匂いが詩緒のしかめっ面を引き出した。

このだる絡みも、お酒に酔った時の症状だろう。

 

「早苗さん、お酒臭いですよ。大丈夫ですか? あと、肩組んじゃってますけど……」

 

飲み過ぎじゃないかと言外に注意を入れつつ、一体何の用だろうかと遠回しに尋ねてみたところ、ちょっと来て、とだけ繰り返し言われて、肩を組んだまま連行されていく。

酔っぱらいに拉致されることほど恐ろしいものはなく、元警察官だけあって人を連れ去るのはお手の物らしい。

 

どんな無理難題を吹っ掛けられるのかとビクビクしながらも、詩緒はなすがままに連れ去られる。

 

「早苗おねーさん! ウタおにーさんをどこへ連れて行きやがるですか!?」

 

すかさず小学生組が早苗を取り囲んで詩緒に危害を加えさせまいと立ちはだかる。

自分を助けてくれようとする子供たちに心がぽかぽかしたが、早苗は逃がす気はないらしい。

 

「お姉さんたちね、ウタちゃんの力がどうしても必要なの。これはウタちゃんにしかできないことで、あなたたちには危険すぎるからウタちゃんが無事に戻って来るまでこの場所を守っていてもらえる?」

 

大人の汚い言いくるめ。

何が危険か、どうして詩緒なのか一切語らずに迫真の演技だけで乗り切ろうとしている大人の汚さに白い目を向ける詩緒。

その視線に居心地を悪くした早苗は彼を視界から外す。

 

「やっぱりウタちゃんってすごいんだ!」

 

「早苗さんにも頼られるなんて!」

 

「えぇ……。ウタさんにあんまり無茶なことさせないでくださいね……」

 

言いくるめられた小学生はなぜか詩緒を称賛し、言いくるめられなかったありすは早苗に釘を刺すだけに留めた。無理に引き留めようとしても反感を買いそうな流れだったこともあり、あまり強く引き留められなかったのである。

 

「それじゃあ、ちょっとウタちゃん借りてくわねー」

 

早苗自身酔っぱらっている中、詩緒を引っ張って連れていくも真っ直ぐには歩けないようで、逆に詩緒が彼女を支えるようについて行く形になっていた。

 

「早苗さんも飲み過ぎじゃ……?」

 

「私なんかよりもヤバい大人がいるのよねぇ……」

 

連れて来られた先で詩緒が目にしたのは、顔色を悪くしてぶっ倒れている三船美優であった。

美優に対していつもはしっかりしたイメージを持っている詩緒だが、飲みの席だと早々に潰れるという噂を聞いたことがあり、その噂通りの姿を目の当たりにして少しだけがっかりしたことは表に出さないようにしようと努めた。

 

「あのー……大丈夫ですか、美優さん?」

 

詩緒が声を掛けるも、唸るだけではっきりとした返事がない。

この状況を何とかするには医者でも呼んだ方が早いんじゃないだろうか、と自分が連れて来られたことを疑問に思った。

 

「美優ちゃーん。ウタちゃん連れてきたわよ?」

 

「あぇ……詩緒くん……? どこ……?」

 

早苗の声というより、彼の名前に反応して美優が少し意識を取り戻す。

 

詩緒は美優と何回か共演した程度の仲なのだが、どうやらその時の振る舞いなどから彼を気に入っており、本人としては妹や弟の面倒を見る程度の感覚なのだろうが、周囲から見ればもはやファンと呼べるくらい詩緒を気に掛けているように見える。

 

「ここにいますよ~。大丈夫ですか? 飲み過ぎちゃいました? お薬飲んだ方がいいんじゃないですか?」

 

彼女の目の前で手をひらひらさせながら問いかけてみるが、美優の焦点は合っていないみたいで気持ち悪そうに眉間に皺を寄せていた。

さすがに心配になってきた詩緒は、一度どうにかした方が良いと思い、早苗の手を借りてお手洗いへと向かうことにした。

 

詩緒は、酔っぱらった後に気持ち悪くなった相手の対処方法を自分の姉で何度か経験しており、意識がなければ救急搬送だが、あるならば吐かせてしまえばよいと考えた。

 

「気持ち悪いですか?」

 

「うん……気持ぢ悪い……」

 

ある程度覚醒した美優はおぼつかない足取りではあったものの、多少は自分の足で歩けるようなので、詩緒はそんな彼女を支えつつ男女兼用のトイレまで辿り着いた。

早苗もしっかりした足取りではないにしても、ちゃんと歩けており美優を心配してか同伴してくれるようだ。

 

「吐けそうですか?」

 

「……気持ぢ悪いぃ……」

 

美優が便器にしがみつきながら、到底アイドルとは思えない汚い問答を繰り返す。

一度吐いたらスッキリするというのは詩緒の姉である時雨の談だ。

それからしばらく、うぅ~……と唸り数分が経過した。

 

「……気持ぢ悪いけど、吐げないぃ……」

 

「美優ちゃん、自分で吐くの苦手なのよね」

 

情けない宣言をする美優を見て呆れつつ、フォローなのかよく分からない情報を付け加える早苗。

早苗の情報によって、嘔吐を見られることは己のプライドを傷付けるからといった理由で吐きたくないのではなく、単純に胃腸に溜まったものがせり上がって来ないため吐けないのだと理解した詩緒は一瞬険しい顔をしたが、覚悟を決めると袖を捲って美優の口に手を突っ込んだ。

 

「ふぇ、うああうん!?」

 

美優は手を突っ込まれたことで『詩緒くん』の発音ができず、その後すぐにえずいた。

詩緒は舌の根の方を人差し指と中指でトントン叩き、えずいたタイミングで彼女の口に突っ込んだ手を抜く行為を繰り返す。

 

「今は苦しいけど頑張ってください。美優さんならできます。大丈夫」

 

詩緒は美優を励ましながら、口に突っ込んでいない方の手で彼女の背中を何度もさする。

 

美優は何度も詩緒にえずかされて涙目になりながら、いや、すでに涙を流しながら、ようやく嘔吐した。

これまたアイドルとは思いたくない、吐瀉物を便器の中にぶちまける音が盛大に響き渡り、胃液の刺激臭が詩緒の鼻をツンとつく。

 

「頑張って美優さん! あとちょっとゲェして!」

 

もう開き直ったのか、詩緒は自分の手に美優の胃液やその他諸々が付着することも厭わず、彼女の胃の中がすっからかんになるまで口に手を突っ込み嘔吐させ続けた。

何度か彼の姉で経験している対処方法だからかとても手慣れており、それを見ていた早苗は感心したように吐息を漏らす。

 

「はぁ……はぁ……」

 

彼女は吐き切ったことで心身的な疲労が溜まり、大きく息を切らす。

口の中は最悪な味と臭いが立ち込めているが、先程までの気持ち悪さはほとんど無くなり一安心だと美優自身ほっと胸を撫で下ろしていた。

 

「美優さん、頑張りましたね。えらいです!」

 

「……あ、ありがとう」

 

歳が逆転しているかのように詩緒が美優を褒めながら、また背中をさする。

 

「落ち着きました?」

 

「うん、だいぶ楽になった」

 

よかった、と言ってその場から立って手を洗いに行く詩緒。

少なからず不快感を覚えているはずだ。臭いが付いていないかも気になるだろう。

ハンドソープで入念に洗い、アルコール消毒も欠かさない様子を見て、申し訳なさと情けなさで今にも消えてなくなりたいと美優は思った。

 

「美優さん、これで口濯いで。あとは水分補給をしっかりしなきゃダメですよ!」

 

早苗に持ってきてもらっていたのか、ミネラルウォーターの入ったペットボトルを美優に手渡し、お説教と介抱が少しだけ続く。

 

美優は、詩緒くんってば食事の直後なのにこんな思いをしてよく平気でいられるなぁと、自分のせいで詩緒がこんな目にあっているのを棚に上げて他人事のように考える。

彼自身、他人の機微には敏感なのに、そういった感覚には鈍感なのだろう。

 

「ちゃんと聞いてますか?」

 

上の空になっていたことも詩緒に注意される。

怒った顔も可愛らしいが、怒られている本人としては嫌われていないか気が気でない。

 

「気を付けます……」

 

一回りくらい年下で見た目美少女のような少年に恥ずかしいくらい注意された美優はしょんぼりしながらも詩緒の言う通りにして、今後はお酒を控えることにしようと決めた。

今さら自分の押しの弱さにここまで辟易する時が来るとは……とネガティブになりつつも詩緒が未だにあれこれと心配してくれるので、この役回り自体は損ではなかったかもしれないと元凶の一人でもあるはずの早苗にこっそりと感謝した。

 

「ちゃんと口濯いで、歯磨きして、お風呂にも入って、それから寝なきゃダメですよ!」

 

「うん、分かりました。本当にごめんね。ありがとう」

 

未だに顔色は悪い美優だったが、詩緒の言うことに対して素直に感謝する。

 

「また手伝えることがあれば頼ってくださいね。僕じゃ頼りないと思いますけど」

 

「そんな! 私の方が十歳もお姉さんなのに介抱させちゃってホントごめんね……。凄く頼りになったし、カッコ良かったよ。今度お礼させて」

 

詩緒にとって『頼りがいがある』『カッコいい』などは普段の活動とは対極にある誉め言葉なので、満更でもなさそうな反応をする。傍から見ればちょろそうだった。

 

「えへへ、そうですか? 美優さんにそう言ってもらえると自信になります」

 

今の美優が何を言ったところで何も説得力は無さそうなものだが、他人をさらりと上げてくれる詩緒の言動は大人の美優にも嬉しく届く。

 

「僕はこの旅館の温泉に入ってから戻りますけど、美優さんは無理しないように気を付けてくださいね。今からまたお酒飲み始めたら……うーん、呆れちゃいます」

 

考えてからマイルドに発言する詩緒。本当は『お馬鹿さん』くらいの悪口は出そうになっていたが何とか留まった。

 

「いや、さすがにもう無理……」

 

弱弱しく呟く美優を見ながら大変だなぁと、まるで共感もしないで他人事な感想を抱いたのは、お酒に溺れる大人に対して少なくとも尊敬の念を抱かなかったからだろう。

彼がこの出来事から唯一受け取ったものは、お酒を飲みすぎて他人に迷惑をかけるような大人にはならないようにしようという教訓だけである。

 

しかしながら、詩緒は今の美優を尊敬してはいないものの心配はしていた。

仕事の時はしっかりテキパキ、頼りになるみんなのお姉さんという印象を抱いているため普段の彼女を尊く思っているが、いつもは見せない仕事のストレスを抱えているのか、ド友人付き合いから空気を読んでキャパシティ以上に飲んでいるのか、詩緒には計り知ることができないが大人の事情があるのかもしれない。

 

そんな美優が口ではスッキリしたというものの、明らかに顔面蒼白で髪や服装も乱れていると、本来彼女の持つ落ち着いた雰囲気と相まってやや病的な痛ましさを感じる。

 

「本当に心配です。またちょっと横になりますか? 僕の膝ならいくらでも貸しますよ。……男の膝はあんまり嬉しくな――」

 

「ちょっと横になりたいから膝枕してもらっていい?」

 

詩緒の提案にかなり食い気味に乗っかる美優。

やはりそんなに人肌が恋しくなる程度には弱っていたのかと彼女への心配が止まらない詩緒。

 

もう遠慮という言葉を忘れるくらいやけっぱちになったのか、吹っ切れたように寝そべろうとする美優だったが、詩緒が少し待ってと彼女の肩を押さえた。

一瞬だったが、美優が寝ようとする力に詩緒の抑える力が負けていて、男子なのにか弱い女性アイドルよりも非力というのが絶妙に情けない。

 

「急に寝ようとするからびっくりしました! そんなにくしゃくしゃなまま横になったら服とかシワになっちゃいますよ」

 

美優の着ている浴衣の襟を正して、緩くなった帯を締め直す。

男性が女性にやるその行為は物議をかもしそうなものだが、詩緒がやるとどうにもそんな雰囲気にはならない。彼に下心が無いことが客観的にもよく分かる。

ただし彼に下心が無いと言っても、男子高校生という肩書を持つ男の子に介抱されるというシチュエーションは美優に多少の背徳感を与えていた。

例えば好みな男性のタイプと違ったとしても美少女のような見た目がマイナスに作用されることはなく、むしろキレイな容姿はプラスであり、そんな子のピュアな瞳で見られると正直に言ってやましいこともちょっとは考えてしまう。

 

「髪も整えて……はい! これで、どうぞ」

 

詩緒はとても慣れた手つきで美優の髪に臆せず触れて手櫛で軽く整えた後、ペタンとその場に座って少し膝を開く。

 

彼の膝と膝の間、あるいは太ももと太ももの間に後頭部を収めてもいいと考えると不思議と背徳感のようなものが美優の心の奥底から這い出してくる。

 

いやいや、これは彼の好意だし、大丈夫って言ってくれているのだからアイドルとか関係なしに男子高校生に甘えちゃってもいいんだよね……と自分を正当化しようと思考を巡らせる。

 

男子高校生と言っても男子に見えないし、同じ事務所のアイドルだし、仲悪いよりは仲良しの方がファンも助かるだろうし、ウタちゃんの太ももは男の子って信じられないくらい柔らかかったし、男子高校生に堂々と甘えられるし……。

 

言い訳をぐるぐると考えていたが、いつの間にかミキサーに入れたかのように欲望と混ざり合わさって、美優の思考はぐちゃぐちゃになっていた。

 

「美優さん、やめます?」

 

さっき食い気味に返答したのに瞳孔が渦を巻いているように見えてしまうくらい考えすぎて動けなくなった美優に対して、きょとんとした顔の詩緒が美優の表情を下から覗くように首を傾げて尋ねる。

 

その仕草がやけに様になっていてキュンと胸が高鳴る美優は即座に、やめません、と答えてまずはゆっくりと腰を下ろした。

 

「それじゃあ、どうぞ美優さん」

 

おいでと言わんばかりに両手を広げて受け入れてくれる詩緒に、可愛い以外の感想が浮かばず、冷静ではいられないほどの気分の高まりに身を任せながら詩緒の太ももの間に自身の後頭部を収めた。

 

良い感じにフィットし、性別を偽っているとしか思えない太ももの柔らかさが気持ちいい。

詩緒に包まれるような感覚に身を任せると、お姉さんとして親しまれている自分に甘えたがりな一面があったのだと自覚せざるを得ない。

 

仰向けになると部屋の灯りが少し眩しく目を細めたが、詩緒が美優の方に顔を向けるとそれが陰になり、ちゃんと目を開けるようになったことで視界も開けた。

しばらくの間じっと見つめ合っていると詩緒は大人の女性に心の中まで見透かされそうな気持になってきたため顔を逸らし、代わりに美優の頬や髪を優しく撫でる。彼の触れる指先が温かく、幸福感に満たされた美優は無意識に微笑みを浮かべる。

 

さっきまでグロッキー状態で詩緒にお世話をされていた大の大人が急にお姉さん然として微笑ましく見つめてくることが少しだけ詩緒の癪に触る。

ちょっとだけ意地悪してしまおうと思い、美優の頬や髪を撫でていた手を止めて、眼球を圧迫しないように彼女の目を手で塞いだ。

再び視界を奪われた美優は一瞬驚いたように口を開けたが、詩緒の可愛らしい悪戯だと気付くとすぐにだらしない笑顔を見せる。

 

口元だけしか確認できない詩緒でも分かるほど笑顔になっているため、視界を塞がれたりするのが好きなのかなぁと考えてしまい、美優に対して少し引き気味になったが嬉しそうならいいやと、あくまで相手の気持ち優先で行動する。

 

「真っ暗だと眠くなってきちゃうね……」

 

口元に手を当てて軽く欠伸をする美優。

 

「眠くなったらいつでも寝ていいですよ」

 

優しい声音で睡魔を助長する詩緒。

 

「いいの? ありがと」

 

適当にお礼を述べた美優はあからさまに思考が鈍くなっていき、ふわぁ~と先ほどよりも大きい欠伸をした。

その行為に恥ずかしいという気持ちがほとんど無いことから睡魔の方が大分強くなっていることが窺える。

 

美優は詩緒の手首、腕あたりに手を添えて彼がさっきまで彼女にしていたように、柔らかく撫で返す。

大人でも人肌恋しいことがあるんだなぁ、と考えていると程なくして美優の寝息が聞こえてきた。

 

「寝ちゃった。温泉行きたいんだけどなぁ……」

 

膝を貸すなんて提案するんじゃなかったと今さら後悔しながらも、人力アイマスクは外さない。

寝ることで、せっかく良い状態へ向かっているのだから彼女の回復のためにも寝かせたままにしておこうと、詩緒はじっとしたまま体勢を変えないことに決めた。

頭を持ち上げて座布団に移し替えるとしても非力な彼では骨が折れるし、きっと起こしてしまうから、という理由もある。

 

詩緒の腕に触れる美優の手の力が抜けたのを感じ、しっかりと寝ている様子だと分かったので、温泉に行くまで最低でも十五分はかかりそうだと思った。

アイドルとしての日常に戻った時に体内時計はしっかりしておきたかったところではあるが二泊三日の旅行なので、今日は夜更かししてもまあいいか、と深くは考えないことにした。

 

しばらくじっとしつつ美優の寝息を聞いていると、徐々に詩緒にまで睡魔の手が忍び寄ってくる。

昼からありすと遊んで、夕方に自主レッスンを行い、夕飯後に美優の介抱となれば、詩緒に蓄積された疲労もそれなりのものであり、気を抜けばうとうととしてしまいそうだった。

 

ここで寝ると美優さんに負担がかかりそうだなと、自分より他人を優先しがちな詩緒の思考が目を瞑ることを辛うじて拒否している。

 

ここで詩緒はさっきまでいたはずの早苗さんがいなくなっていることに気が付く。

キョロキョロと見回しても見当たらない。

アイドルなので目立つ人ことは間違いなく、こうして探しても見つからないのであれば、既にこの場を離れたに違いない。

ペットボトルに入ったミネラルウォーターを持ってきてくれていた時は詩緒に手伝ってもらったうえでメインの介抱は早苗がやってくれると思っていたのだが、体よく使われただけだったようだ。

 

やられたなぁ、と特に怒りもがっかりもしなかったが、そこそこ思考を巡らせたことで眠気は吹き飛んだ。

美優にばかり気を取られていて周囲をよく見ていなかったが、近くにいた女性社員のグループが興味深そうにこちらを見ていたので、早苗の所在について軽く尋ねてみる。

 

「彼女は三船ちゃんがこっちに戻って来たあたりで温泉に行ってくるって言ってたわね」

 

「結構自由な方なんですね」

 

「早苗って警官からアイドルに転職しちゃうような人だからプロデューサーの私に免じて大目に見てあげて。あと三船ちゃんからのご指名もあったことだし」

 

どうやらたまたま話しかけた社員が片桐早苗の担当プロデューサーらしいということが分かり、詩緒は意外そうな表情を見せた。

婦警さんをスカウトするような人なので、失礼ながら職質でもされた男性かと思っていたのだが、早苗と同じく低身長なうえに未成年と見間違えてしまいそうなルックスでもあった。フランクな口調も早苗に似た部分がある。胸部は似ても似つかないが……。

話を聞いたところ、二人の出会いは私服でタバコを吸っていたところに早苗が職質しに来たためスカウトしたという経緯らしい。

スカウトするようなプロデューサーっていうのは誰も彼も行動力がある人ばかりで、神保にも備わっていた能力だったなと共通点を見つけて心の中でこっそりと納得した。

 

「ところで美優さんはなぜ僕を?」

 

本人に聞いた方が早いだろうが、時間を潰す目的として適当にそんな質問を早苗の担当プロデューサーに投げかける。

 

「うーん、絶対にこれ以上飲ませてこないし、むしろ止めるし、優しいからじゃない? 気に入ってるからってのもあるでしょ。あと若い異性だからっていう理由もありそう」

 

そうですかね、と詩緒は疑問符を浮かべる。

 

「美優さんくらいの大人の女性が僕みたいな子供を相手にするって思いませんけど。それに異性として意識されるような見た目じゃないって自覚していますし……」

 

「いいのいいの、そんな複雑に考えなくて。水上詩緒は見た目美少女なのに実は男の子っていうだけで他人の興味をそそるし、今や売れっ子アイドルなんだからもっと多くの人が君のこと気になってるんだよ。……にしても神保はよくこんな逸材拾ってきたよねぇ」

 

神保を呼び捨てするあたり、幾らか先輩のようである。

年齢は神保の方が上に見えるので、詩緒も少し驚いた様子だ。

客観的に考えれば詩緒自身がある種のビックリ人間なわけで、あなたが他人の見た目に関して驚いているんじゃないよと言われてしまいそうなものだ。

 

「僕が間違えてオーディションに参加しちゃった時に審査側にいたみたいです」

 

「あー、知ってるよその話。今や伝説。オーディションに来て途中で帰っちゃう子をその日のうちにスカウトする人間なんか普通いないよ。ましてやアイドルでは女性しか在籍してない美城プロに男性を入れてアイドルとして活動させてくれ、なんてさ。プロデューサー成りたての社員相手に許可出す上も上だけど……。それでこんだけ成功させちゃうんだから、悔しいけど彼の慧眼よね」

 

元警官の早苗さんを引っ張ってきちゃう貴女もとんでもないケーガンをお持ちだと思いますけど、と詩緒は思ったが、自分がアイドル業界でも色物枠の最たる例だということは自覚しているのであまり口に出せることではないのだ。なぜ美城プロにはこうも個性的なアイドルが多いのか……。

 

しかしそんな彼も今や王道アイドルの一人として数えられているのは神保の手腕でもあるのだろうから、改めて少しだけ心の中で感謝しておいた。

 

「まあ、三船ちゃんが起きるまでは話にでも付き合ってあげるよ、て思ったけど……」

 

言葉を濁した片桐早苗のプロデューサーの視線の先には詩緒を見下ろしているちとせが立っており、従僕としての佇まいなら右に出る者がいないであろう千夜が、居たたまれなさそうにその側に控えている。

ちとせは右手にワイングラスを持ち、珍しくお酒を嗜んでいるようで和室と赤ワインのミスマッチ感といったらない。とはいえ、ちとせと和室という組み合わせが思ったより馴染んでいるのは、彼女の羽織る浴衣が崩れずにきっちりと決まっているからだろう。

 

彼女から放たれる気品溢れる雰囲気はスポットライトでも当てられたかのように輝いており、周囲の人間は思わずかしずきそうになる。

全員の視線が一点に集まっていることに気付いた詩緒も首を回して振り返ってみると、視界の端にちらりとだけ彼女が映ったようで、花が咲いたように表情を明るくさせる。

 

「ちとせさんと千夜さんも来てたんですね!?」

 

彼の膝の上で幸せそうに眠る女性の存在は気になったが、自分に気付いて嬉しそうに笑顔を見せる詩緒を前にすると、彼を愛おしく思う以外の感情は全部捨てさせられてしまう。

 

「やっほー、ウタちゃん。まあ、こんな集まりそうそう無いから、たまにはねぇ♪ ……ところでそれは何をしてるのかな?」

 

詩緒の傍で腰を下ろし近い距離で尋ねたが、彼の膝と膝の間で人力のアイマスクを施されながら眠る美優を見て、ある程度は状況を察する。

 

「僕は今、酔っぱらってしまった美優さんのお世話をしてまして……ちとせさんもお酒を飲んでるみたいですけど、くれぐれも体調に気を付けて用法と容量は厳守してください!」

 

詩緒からの改めての説明と、まだ何もやらかしていないのに注意が入る。

こういうことに関して普段はあまり強く言わない詩緒だが、先程の美優の惨状を目の当たりにしたことや同じプロジェクトの仲間であり、身体の弱いちとせを大切に思っているからこその言葉でもある。

 

「大丈夫だよ~、私も命知らずなつもりじゃないからさ」

 

「それならいいんですけど……」

 

今度は心配そうに見つめる詩緒。

大丈夫と言いつつもどことなくふわふわしているような、舌足らずのような話し方で

 

ころころと百面相のように表情が変わる彼を見た周囲の社員たちは、この感情と動作の連動、その移り変わりが舞台やドラマの演技にも活かされているのか、とすっかり仕事脳に切り替わってしまうほどだ。

俳優としても高い評価を受ける理由の一端を見たようで、確かに運動以外のポテンシャルは芸能向けの能力であると分かり、自分もオーディションにいればなぁと内心で愚痴を漏らさずにはいられない。

 

「私がいるので詩緒くんが心配することは起きません」

 

「千夜さん頼りになります!」

 

表情の硬い千夜が見せるクールな笑みに周囲からは軽くどよめきが起こった。

千夜が見せたその表情だけで、千夜と詩緒の間にも厚い信頼関係があることが分かり、彼らを多少なりとも知っている人からすると思わず胸が熱くなる。

 

「ねぇねぇ、私は? 私のこと好き?」

 

ちとせが対抗するようにして問いかける。

酔っていないとは言っていたものの、グラスを持っていない方の手を詩緒の肩に回して身体を密着させている。

詩緒は、彼女からわずかにお酒の匂いを感じたが、いかんせん美優のお酒臭さが印象的だったのでほとんど気にならなかった。

 

「もちろん、チームのリーダーなんですから。体調がちょっと心配なところもありますけど、最近は大丈夫なんですよね?」

 

「うん、大丈夫だよ」

 

他人が見ている前でも詩緒へのスキンシップをエスカレートさせていくちとせに少しだけ危機感を覚えた彼は、うまく話を変えて周囲に互いの気持ちが気取られないように気を遣う。

 

そうだ、と思い出したように声を出し、千夜の方を向く。

 

「千夜さん、僕そろそろ温泉にでも入りたいなと思っていたので、美優さんのことお願いしてもいいですか?」

 

「え? あ、ええ、いいですけど……」

 

千夜は察しておらずやや困惑しながらも、詩緒のお願いを断る理由もないため、彼も次の目的があるのならと快く引き受けた。

 

詩緒はお礼を述べて、美優を起こさないように気を付けながら千夜の膝に移し替える。

その過程で美優は半分くらい覚醒していたが、波打ち際のように睡魔が返ったと思えば再び寄せてきたので、その波に抗えず溺れてしまい、また寝息を立て始めた。

 

詩緒は美優が寝たことを確認して慎重に立ち上がる。

 

「あれ、温泉行っちゃうの?」

 

ちとせが不満気な顔をして詩緒に尋ねる。

 

「はい。今日は色々と疲れちゃったので、早めに寝ようかなって……」

 

「ふーん。もうちょっと話したかったけどな」

 

本当に申し訳なさそうに拒否するので、ちとせも多少酔っているとはいえそれ以上引き留められずに少しだけ不満を口にした。

 

詩緒もちとせと一緒にいたいのか少し名残惜しそうな表情をする。

ここだと人の目が多く、どうしても注目されてしまうため気が休まらないという判断でもあった。

楽しくなさそうな表情を一切隠さずにムスッとするちとせを見て、先程立ち上がった詩緒は彼女の高さに合わせるようにしゃがみ、口元に手を添える。

耳打ちをする時の仕草だったので、ちとせも彼の口に耳を寄せてなんだろうか? と聞く態勢だ。

 

「ここだとちょっと……あとで僕の部屋に来てください」

 

一瞬目を丸くするちとせだったが、すぐ嬉しそうに白い歯を覗かせる。

周りから見れば無邪気なようにも恐ろしいようにも感じるが、詩緒からすれば特段気にすることでもなく、同じようににこりと笑う。

 

「じゃあ、戻ったら連絡しますね」

 

「うん、待ってるね♪」

 

美優の様子が少し気に掛かるが、介抱を変わった千夜が問題ないから行ってこいと目で語りかけてくれたため、安心してすっくと立ち上がり、手を振ってその場を後にする。

 

千夜は徐々に遠くなる彼が大広間を出るまでにいろんな人に話しかけられる光景を見つめながら、美優の頭を軽く撫でた。

起きた時に詩緒が千夜に替わって驚くであろう美優を見るのが、その場に残された人たちの今の楽しみになっていたのだった。

 

☆ ☆ ☆

 

大広間を出る前に、律儀に居場所を守ってくれていたありすたちに温泉へ行くことを伝えた。

そういうことなら、と彼女たちは部屋へ戻り寝ることにしたようで広間を出てすぐに詩緒と別れる。彼女たちのご両親など、保護者も数名付いていたので帰り道は心配ないだろうと安心した様子でちびっ子たちを見送り、詩緒は大浴場へと向かった。

 

大浴場は大広間と同じ一階ではあるものの端から端ほどの距離があり、思ったよりも時間がかかるようだが、温泉に入ったであろう人たちとすれ違ったり、大浴場の手前にあるスペースで小休憩しているであろう人と軽く挨拶を交わしているうちにあっという間に辿り着いた。

女湯、男湯でそれぞれ赤と青の暖簾に分けられており、詩緒は当然男湯の暖簾をくぐる。

 

それをたまたま見ていた女性たちは女子が男湯に入っていったように見えたので、驚いて休憩スペースの他の女性社員やアイドルに言いふらしてしまったが、詩緒だと説明されて得心がいったようだ。

ただ、このことは何となく男性には話さないようにしようと決めた。あくまで何となくだった。

 

その一方で詩緒はたまたま利用者が少ない時間帯に来たようで幸運だと思いつつも、時間帯的には込みそうなものだが、あまり入ってないんだと不思議にも思っていた。

 

「ラッキーなのかも」

 

誰にも遠慮することのない声量での独り言。解放感に少しだけ気分が大きくなったようだ。

帯を緩めてまずは着物、次にズボン、靴下、Tシャツと順々に脱いで簡単に畳んでから籠に入れる。

上下のアンダーウェア姿になると解放感も少し増してくるようで鏡を見たり、自分の肌を触ったりしてアイドルとして体型や質感に問題が無いか確かめたりもするものだ。

 

あとは胸に脂肪を纏えば、女性の理想のような申し分ないスタイルであることは明白だが如何せん彼は男性であり、自分の理想と世間が考える詩緒との乖離が激しいことも彼自身十分に理解しており、筋肉を付けて男らしくなってみたいと思う一方で、ファンの理想とする今の体型も維持していたいという常人には到達できない悩みも抱えている。

 

悩んでいると言っても、体質的に筋肉が極端に付きにくい詩緒は一生懸命トレーニングした結果が現状の体型のため、肥大化させるにはかなりの時間を要しそうである。

 

ふぅっと生意気にも憂いを含んだ溜息を吐きながら下着を脱ぎ、籠に入れて温泉タオルを取り出した。

素っ裸になった詩緒は温泉用のタオルを手に取り、軽くストレッチをしていると不意に大浴場側の戸が開いた。

 

温泉から誰か上がってきたようで、詩緒は慌ててタオルで身体を隠す。

別に隠す必要はないのだが反射的に身体の前を隠したことで、目が合った男性は怪訝な顔をして数回瞬きする。

 

「あの、ここ男湯ですよね?」

 

恐る恐るといった様子で詩緒に声を掛ける男性。

 

「はい、僕男です。水上詩緒って言います」

 

詩緒がそう言うと男性は、あー! と納得したように声を荒らげた。

アイドル部門の社員ならば水上詩緒を知らないはずはないが、目を細める所作から視力が悪いことが窺える。

 

現在、唯一の大浴場利用者だったらしく、ちょうど温泉から上がってきたところだったようだ。

びっくりしたと言いつつ裸の詩緒をチラチラと見る。

 

「ここの大浴場で何が良かったですか?」

 

意識しているであろう美城プロダクションの男性社員に自ら話しかける詩緒。

意識されていることを感じ取るとついつい話しかけずにはいられない。少しでも緊張をほぐして気まずくならないように心がける。

話しかけられた男性は戸惑いながらもどんな種類のお風呂があったのか話し始めるあたり、さすがに社会人として最低限のコミュニケーション能力を備えている。

 

「それなら露天風呂かな。今日は月が綺麗だし気持ち良かったよ。でも少し温度高めだったから長風呂にはちょっと注意した方が良いかもね」

 

「へぇ~、そうなんですね。僕、ちょっと逆上せやすいから気を付けないと。露天以外では何かありました?」

 

「これといって無いかな。普通の旅館よりは広いくらいで、あとはオーソドックスな感じ。小さいけどサウナと水風呂もあるから結構長い間入っちゃったよ。詩緒くんはサウナ好き?」

 

「サウナは……あんまり得意じゃないかもです。以前、サウナに数分入っただけで視界がパチパチしたことがあって。それで、あんまり僕には合わないのかなって……」

 

「そうなんだ。結構暑いの苦手なのかもね。逆上せないように気を付けて」

 

「はい、ありがとうございます。じゃあ行ってきますね!」

 

少し気まずかった空気をあっさりと解消した詩緒は、話をそこそこに切り上げて浴場へと向かう。

ごゆっくり~、と男性が声を掛けてくれたので、お兄さんもごゆっくり! と手を振って応える。

最後はにこやかな表情になってくれて良かったなと思いながら詩緒は早速、外の様子を見に行くため露天風呂に繋がるガラス戸を引いた。

 

確かに十分な解放感がある広さで、引き戸側の壁には室内と変わらないシャワーが数台設置されていた。

 

屋根も付いており、せっかくなら室外で身体を洗おうかなと考えた詩緒はお風呂の椅子に腰かけて、シャワーを手に取る。

冷たい水を警戒していたため、シャワーを目の前の鏡に向けた状態で水栓を開き、お湯が出るまでしばらく待つ。

 

お昼時には残暑を少し感じるような気温でも、清秋の候、夜間は風が吹けば思ったよりも肌寒く、露天ともなると寒がりの詩緒にはブルッと身震いしてしまうくらいの感覚である。

 

身体が冷え込む前に温かいシャワーをまずは首から下に掛けて全身を濡らしつつ温めた後で、髪を濡らす。

毛量の多い髪全体を濡らし、手櫛で軽くもつれを解く。その後、シャンプーをワンプッシュして手の平で軽く泡立ててから髪を洗う。詩緒は初めに髪から洗うようだ。泡が足りなくなれば追加でシャンプーを半プッシュする。

シャンプーで髪が泡泡になってきたところで、今度は指の腹で頭皮を優しく揉み込むように丁寧に洗い、シャワーで髪を何十回とすすぎながら泡を流す。

 

詩緒は髪を下ろすと鎖骨や肩甲骨程度までの長さがあるので、髪を洗うのに少し時間がかかる。

夜間の大浴場ともなるとそれなりに人は入ってくるようで、泡を流している最中に室内とを繋ぐガラス戸が再び開いた。

ガラガラと開閉する音だけ聞き取り、誰か入ってきたな、と詩緒は扉の方を見ないで髪をすすぎ続けていると、露天のエリアに入ってきた人が自分の横の風呂椅子に座る気配を感じる。

 

その人物を特に気にすることもなかったが、詩緒、と声を掛けられると気にしない訳にもいかず、シャワーを浴びながら声を掛けられた方に顔を向ける。

聞き覚えのある声だったので、顔を確認する前に詩緒をアイドルの世界に引きずり込んだ張本人であるプロデューサー、神保勇美だということを理解した。

 

「あ、お疲れ様です。プロデューサーさん」

 

「お疲れ。一瞬女の子が入ってると思ってびっくりしたよ」

 

そう言った彼とはかれこれ長い付き合いになるし、自分がスカウトしたアイドルを一瞬で判別できていないことに対して、詩緒は少しムッとした。

先ほど詩緒が会った男性と比較して、神保は男湯に入っている美少女を詩緒だと判断できるだけでも一つ上のステージに立っているはずなのだが、詩緒の評価は厳しい。

 

「いい加減、慣れてくださいね」

 

笑顔を浮かべつつも少しチクチクした言葉を並べるのは、彼が神保に対して信頼や期待を寄せている証でもある。

踏み込んで文句を言える、あるいは本音を話せる相手はプロダクション内でも少なく、同性ということもあって、二人は非常にラフな関係でもある。

 

「ごめんって。そんなに怒らないでよ」

 

へらへらしながら謝罪を述べており、心証は良くなさそうだが詩緒がそこまで本気にしていないと分かっているからだ。上辺だけでも一言謝っておけば許してくれる懐の広さを、詩緒が持っていることを神保は知っている。

 

「そんなには怒ってないですよ」

 

「多少は怒ってるのね……。でも、綺麗さに磨きがかかったんじゃない? 本当に一瞬分からなかったよ」

 

髪もさらに伸びて女性らしさが増したというか……とは言わずに心の中で呟くに止めた。

綺麗や美しいはまだしも、女性らしいと表現するのは詩緒が嬉しがる内容ではない。

いや、彼のことだから嬉しそうな態度でお礼を言うに違いないが、内心では複雑なはずだということを神保は心得ている。

 

「そうですか? 前より綺麗になりました?」

 

慣れているとはいえ、褒められることが嬉しくない訳もなく、歳相応に相好を崩す。

ニコニコと上機嫌そうな詩緒は不意にハッとした表情に変えて神保へと顔を向ける。

 

「そうだ! プロデューサーさん、背中流しっこしませんか?」

 

唐突なその提案に神保は吹き出しそうになったが、まずはどういった意図なのか冷静に考えるよう努めた。

 

「あー、うん……いいけど、何で?」

 

もしかしたら神保に対して弱みを掴もうとしているのかとも思ったが、そこまで思慮深いというか狡猾な性格ではなく、彼の提案の意図をいくら考えても分からないので直接本人に聞くしかない。

 

「何で……って仲良い人と温泉に来たら、背中流し合うじゃないですか。小学、中学の頃に修学旅行とかでクラスの仲良しな子たちが大勢でやってて、少し憧れてたんですよ。僕は何故かそういうのにあまり参加させてもらえなかったので……」

 

小中学校時代と結構円満な人間関係だったはずなのに、なぜか内輪に入れてもらえなかったことも多かったと語る詩緒だったが、美少女のような見た目をしていた彼に触ることを恥ずかしがっていただけではないかと神保は推察した。

 

「詩緒はアイドルで、女性と同じくらい男性のファンがいることを理解してる?」

 

「え? それはありがたいことに……そうですね」

 

詩緒は一瞬きょとんと小首を傾げたが、言葉を額面通りに受け取ったようでだから何だと尋ねるようなことはせず、泡を纏ったボディタオルを神保に手渡すと背を向けてうずうずしている。

まるで彼の背中には『早く!』と書いてあるように見えることと、担当プロデューサーではあるものの一介の成人男性が、世間から愛されるアイドルの背中を流すなんてことをしてよいのか、という板挟み状態だ。

 

ファンには少し悪いと思いながらも、詩緒が望んでいることの方に天秤が傾き、仕方なく彼の背中を流すことにした。

 

「んっ……もうちょっと強く洗ってもいいですよ?」

 

洗い方に関する詩緒からのオーダーだったが、彼の身体をごしごしと擦るわけにもいかず、遠慮がちに洗うと詩緒はくすぐったそうに身を捩った。

 

「うぅ……くすぐったい……」

 

「ごめんごめん。でも、アイドルとしてファンの前に出るからには身体を大切にしないとね」

 

神保の言い分も確かに分かるのだが、大切に扱うにしても大げさすぎると詩緒は思った。

 

「それはそうなんですけど、いくらなんでも優しすぎですよ。泡と指先だけで洗ってますよね。指先が触れるくらいなら手の平も当ててもらっていいですか? さすがにぞわぞわしますし……」

 

以前は神保の優しさを無下にできないと感じて何も言うことはなかっただろうが、今では自分の意見や要望をしっかりと伝えることができるくらいの関係性である。

 

そんな意見を受けた神保はべったりと手の平で触ってもいいのかと思案したものの、身体を強張らせる詩緒を見て現状では無駄な力を使わせてしまうのかもしれないと考えて詩緒の言う通りにしようと構える。

 

神保が呼吸を整えて、さてと意気込んだ瞬間、露天と浴場の引戸がガラガラと音を立てて開いた。

 

数名の男性社員が入ってきて、彼らと目が合った。

ちょうど神保が詩緒の背中に指を這わせており、彼らからは成人男性が未成年の少女の身体を強張らせているように見えた。

まず男湯に少女がいると錯覚し、空気がそのままピシッと固まったような緊張感に包まれたが、男湯にいる美少女はすなわち水上詩緒であるということはアイドル部門に身を置く人間としては想像に難くないため、すぐに少女ではなく少年と認識を改めることができたが、神保の行いは理解ができない。

 

距離感があまりにも近いプロデューサーと担当アイドルの関係について、今入ってきた神保の同僚と思われる彼らは余計な詮索をせずにいられないが、同時にアイドル部門の同僚から逮捕者が生まれる未来も頭を過った。

 

「あー、どういう状況?」

 

一人が意を決して尋ねる。

 

「お疲れ様です! 皆さんで一緒にやりますか?」

 

緊張とは裏腹に詩緒はいつも通り元気で愛想が良いのだが、やりますか? と問われて最初に浮かんだ光景が美少女のような少年との性交渉と考えるとやはり冷静ではいられなくなりそうだ。

 

その提案を受け入れたであろう神保をひどく軽蔑したが、あられもない姿の詩緒に誘われたら断り切れる自信があるかと言えば、彼の男性器を直視した後だとしても正直怪しい。

実際に、たった今彼の裸体を直視してそんな提案をされている訳で、二言目にすぐお断りしますとは言いづらかった。

断るにしても言葉を選んで傷付けないようにしなければいけないと、無駄に紳士な一面も持っているし、そもそも詩緒が入っているという情報を聞いてある程度の下心を持って大浴場へ来たということもある。

 

そんな戸惑っている彼らを詩緒は不思議そうに見て、声が聞こえなかったのかと思い至り、再び声を掛けた。

 

「一緒にしないんですか? 修学旅行とかでお互いに背中流すやつ!」

 

先程よりも声を張ったことで静かに流れる水の音以外にも露天風呂エリア全体に音が伝わった。

 

彼らが何をしていたのかが明らかになり、安堵したと同時に気を落とした。

ただ、詩緒が乗り気ということなら断る理由もなく、男子中学生のようにノリだけで背中を流し合うことになった。

 

その後も新しく露天風呂に入ってくる人が増ええていき、最終的には世話焼きで人の喜ぶことをするのが好きな詩緒が全員の背中を流して回るという神対応と言われる詩緒のファンサービスも霞むほどのイベントが始まっていたのだった。

 

「ウタちゃん、次こっちもいい?」

 

「はい、お待ちください!」

 

いつの間にか順番待ちができており、詩緒がひたすら男性社員の背中を流していくのだが、逆に詩緒の背中も流すことが可能であり、ほとんどの人は詩緒と背中の流し合いを楽しんでいる。

 

詩緒を含めた全員のテンションも上がっていき、声も大きくなってくる。

次第にもともとおかしい詩緒の距離感もさらにおかしくなり、脇腹を指で突いたり、筋肉を触ったりとちょっかいをかけ始める。

 

おそらく本人は修学旅行のような気分でいるのだろうが、詩緒からのスキンシップが激しくなってくると男性社員からのスキンシップも同様にエスカレートしていき、同じく脇腹をつつかれたり、上腕や腹部、胸部に太腿など際どい箇所も触られる。

時折、艶っぽい声を出しつつ頬を紅潮させてはいるものの楽しそうに笑っており、取り囲む男性も嫌がらずにきゃっきゃっとはしゃぐ彼の反応に甘えて、くすぐるなどのちょっかいをかけ続けていた。

 

そんな怪しげなイベント会場と化した男湯で全員の背中を流し終えた詩緒は温泉に浸かりながら社員たちと文字通り裸の付き合いをしていた。

物理的な距離感や同性から触れられることの抵抗の少なさから夜のお店を彷彿させるような詩緒の対応に、慰安旅行や夜のテンションによって羽目を外してしまった男性が見た目美少女な詩緒に群がるという異様な光景。

囲まれた彼は当然何もされないはずもなく、本人は嫌がっていないようだが傍から見たらセクハラと認定されてもおかしくない行為の数々。

 

水温の高い温泉に対してあまり耐性の無い詩緒は逆上せ上がってしまったようで、すでにふにゃふにゃに蕩けており、飛び交うリクエストにすべて応えた結果がこの惨状である。

けたたましい程の歓声が響き、かなりの盛り上がりを見せていた男湯の中で不意に大きな怒声が温泉の仕切りの向こうから聞こえてきた。

 

「男湯の方、うるさいぞ!! 水上、そっちにいるか!?」

 

かなり通る怒鳴り声が聞こえてきて一瞬で静まり返る男湯の露天風呂。

こちら側もよく通る声の詩緒が嬌声や笑い声を大き目のボリュームで発していたため、どうやら女湯の露天風呂にも彼の声が聞こえていたらしい。

 

「あ、はい! います~!」

 

一緒に温泉に入っていた男性たちと同じように、仕切りを跨いで発せられた大声にビビって硬直していた詩緒だったが、自分の名前が呼ばれたことを認識して何とか返事をした。

 

「大丈夫!? 変なことされてない!?」

 

先程とは別の声の主に心配される。

まずいと思った男性社員はほぼ全員が捕まる前に逃げようと、そそくさと撤退準備をしており、更衣室へとなだれ込む。

 

女湯から聞こえる怒号と安否確認で、詩緒は一気に冷静になると同時に逆上せた状態を自身で認識し、その途端、目の前がチカチカと明滅し始めた。

詩緒自身も逃げ出した男性社員たちとは別の意味でまずいと思ったが、時すでに遅く、暗転した視界と共に後ろにひっくり返り、温泉の中に沈んでしまうのだった。

 

☆ ☆ ☆

 

逆上せて気を失っていた詩緒が目を覚ますと、すでにそこは温泉ではなかった。

 

「……うぅ……どこ?」

 

まだぼんやりとした視界の中、光の眩さと併せてしっかりと覚醒するまでには時間がかかるが、どうやら室内であるらしいことは分かった。

 

温泉で倒れたことを何となく覚えていたので、誰かが運んできてくれたのだろうという思考に繋がり、また自分が今生まれたままの姿なのではないかと思い、慌てて起き上がる。

 

「きゃっ! おはよう、ウタちゃん」

 

急に起き上がった詩緒に驚きの声を上げたが、すぐに平静を装い起床の挨拶をしてきたのは美城プロ専属トレーナー四人姉妹の末っ子である青木慶であった。

 

彼女の挨拶に対して詩緒も、おはようございますと返事をしたものの急に起き上がったせいか目が眩み、寝ていたソファからふらっと落ちそうになった。

慶は詩緒が落ちないように慌てて抱き寄せると再び自分の膝の上に詩緒を寝かせる。

 

「ダメだよウタちゃん、まだ大人しくしてないと」

 

どうやら先程まで、美優にしていた膝枕を自分が受けていたことを知り、人のことどうこう言えないなぁとわずかながらに自責の念に駆られる。

 

「すみません、慶さんもゆっくりしたいはずなのに……」

 

「大丈夫! 私、なんだかんだ人のお世話するの好きだし、ウタちゃんが困ってたら助けてあげたくもなるよ」

 

四人姉妹の末っ子と言えど詩緒にとっては実の姉とはさほど変わりない年齢のお姉さんであり、他の三姉妹と比べると頼りなく見えるかもしれないが、彼はとても頼りにしているようだ。

 

「ありがとうございます。それより、あの状況は?」

 

面倒を見てもらっていることにお礼を述べつつ、先程から離れた所に正座をした男性集団と仁王立ちしている女性集団が視界にちらちらと映り、気になりすぎて思わず慶に尋ねる。

 

「あー、あれはウタちゃんと一緒に温泉に入った人たちがウタちゃんにいかがわしいことをしていないか取り調べしてるんだよ」

 

それを聞き、自分のせいで招いた状況であることを理解した詩緒は、こうしてはいられないと再び起き上がり、慶の制止を振り切ってふらふらとしながらもその場へ向かった。

飛び出すしていく詩緒を見て、慶も慌てて追いかける。

 

取り調べされている男性側は意気消沈しており、お通夜ムード。

対する女性側はトレーナー四姉妹の長女、次女、三女である青木麗、聖、明に加えて、見ただけで怒りが伝わる態度の木場真奈美、呆れたように軽蔑の眼差しを向ける東郷あい、ドン引きしている衛藤美紗希、月宮雅、岸部彩華。

その他にも何が起きたていたのか状況を掴みかねているアイドルたちが野次馬として取り囲んでいて、取り調べというよりかは軽くイベントの様相を呈していた。

 

そんな人の円をかき分けて詩緒がひょこっと顔を出すと、一斉に視線を注がれ、男性陣は救世主がやって来たと言わんばかりの安堵の表情が溢れる。

 

「皆さん、何やってるんですか?」

 

大の大人がこんなことになって、と言外に指摘しているかのごとく鋭く責めるような詩緒の声色で、少しだけ空気がピリつく。

 

「温泉で逆上せていたみたいだが、もう大丈夫か?」

 

そんな空気の中でもお構いなしに詩緒を心配して、話しかけたのは長女の麗だ。

現在は少しぼーっとする程度ですでに意識も回復しているので彼は、問題ないです、とふにゃっとした笑顔で答える。

 

「それなら良かった。確認したいんだが、彼らと何していたか話してもらえないか?」

 

詩緒は温泉で気を失う直前の記憶が曖昧ではあったが覚えていたことを出来る限り話すと、みるみるうちに女性陣は呆れが四割、怒りが六割、男性陣は焦りが四割、罪悪感が四割、諦めが二割といった割合へと感情が推移していった。

 

詩緒の証言により身体の接触が多々あったことが赤裸々になっていく。

彼自身は、裸の付き合いで絆を深めた美城の社員たちの誤解を解きたくて、彼らは何もしていないということを説きたかったのだろうが、出てくる証言や質問に対する回答があまりにも彼らに不利なため、最終的には十割の諦観へと思考が遷移していったことが明確だと外から見ていたものは語った。

 

さらに詩緒自身にも非があると結論付けられ、大浴場に詩緒用の時間を設けるか、自身の部屋の浴室を利用するかの二択を迫られたあげく、誰にも迷惑が掛からないということで自室を選択する詩緒であった。

 

☆ ☆ ☆

 

みんなで仲良く入っていた温泉から出て、これまた仲良く受けた説教を終えた詩緒のテンションはひとたびどん底へと叩き込まれていた。

庇ったはずが自身含めて大層叱られたもので、自分のせいだとしきりに謝る。

 

同じく説教を受けた男性社員一同は詩緒との交流はこれが最後になるであろうという悲しみに暮れつつも、詩緒を悲しませたくないという想いのため何とか気丈に振る舞って励まそうとしていたのだが、詩緒を取り囲もうとするとトレーナー四姉妹や複数のアイドルがそれを阻む。

 

獣には近付けさせまいとする意志が伝わってきて、しばらくして蜘蛛の子を散らしたように男性陣は踵を返して、この場は何とか収まった。

 

「それじゃあ、僕も……。皆さん、ご迷惑をおかけしました」

 

内心で早く部屋に帰りたい気持ちの詩緒は、ぺこりとお辞儀をしてこの場から逃げ出したが、お姉さまたちに回り込まれてしまった。

 

「あの……まだ何かありますか?」

 

遊び呆けた後の自主レッスン、夕飯をとって温泉で失神の流れで、詩緒はすでに身体的疲労がピークを迎えており、これ以上お説教を聞くのはちょっと辛いと思いつつもにこやかな表情は崩さずに応対する。

 

「すっごい疲れてるみたいだから、こっちで休んでいくといいよ」

 

そう提案したのは先程まで詩緒を介抱していた慶であり、詩緒が手を引かれて案内された先には周到にもマッサージ台が複数用意されているスペースだった。

大浴場近くにマッサージを行える場所があるとは、芸能活動する者のサポートには余念がないらしい。

さすがは美城プロだなぁと、詩緒が所属する前から常に第一線で活躍し続けている老舗事務所には未だ驚かされる。

 

「お姉ちゃんたちがマッサージしてくれるって」

 

本当は早く部屋に戻ってゆっくりしたいところであったが、確かに今一人で部屋に戻れるかと言われても無事に帰れる自信がなく、せっかくの厚意を無下にしたくもなかったのでお礼を言ってその提案に乗ることにした。

 

「ありがとうございます。こんな豪華なマッサージ無いですよ」

 

ここで少しでも疲れをとって帰りに事故らないようにする方が良いと判断したが、トレーナーたちが直々にマッサージしてくれるという機会に対して、彼が言葉にしたこともまた本心であった。

 

「はい、じゃあここに横になってね」

 

言われるがままにうつ伏せになり、マッサージを施される。

慶以外の三人は専門家ということもあり、かなり本格的な内容だ。

 

時短のため複数人から同時に施術をしてもらっており少し肩身が狭く感じる部分もあるが、気持ち良さが勝る。

今日遊んだ分の疲れも不意に襲ってきて、ついうとうとしてしまう。

 

「今日、たくさん足を使ったな。ダンスも結構やったか?」

 

詩緒の身体に触った麗が彼の今日の運動を当てる。

 

「……分かるんですね。さすがです」

 

「足以外の筋肉も多少張ってるからな。それに君は、歩く以外の運動はダンスしかしないだろう」

 

「……その通りです」

 

運動音痴の詩緒が唯一、他人を魅せることができる運動がダンスであり、それ以外からっきしであることは周知の事実であったので、ダンス以外何もできないことを認めたくない気持ちを抱きつつも、その言葉は素直に受け入れる。

 

実際、他のスポーツをやったとして、やった内に入るくらいの動きができるか怪しい所ではあった。彼は特に球技が駄目なのだ。

麗の言い方は、まさにダンス以外の運動はできないだろうと言っているのと同じであった。

 

「そこも魅力の一つと受け入れられているのはアイドルとしては申し分ないことだと思うぞ」

 

聖は、欠点がアイドルとしての長所に反転していることを引き合いに出したことで、意図したかどうかは不明だが結果的に姉の失言をフォローする形になった。

 

誉め言葉には、ありがとうございますと素直にお礼を言う。

話を膨らませようとしたが、トレーナーたちがマッサージに集中し始めたことを察して彼も黙ったまま施術を受けることにした。

 

頭と首、上半身、下半身とおおまかに三つのブロックに分けて三人それぞれに担当してもらっており、黙っていても自然と吐息が強く漏れてしまうが、蓄積された疲労と気持ち良さが相まって吐息は自然な寝息に替わる。

 

次に詩緒の意識がハッキリした頃にはちょうど施術が完了しており、身体が軽くなったことを確かめつつ立ち上がって伸びをする。

 

「うーん、スッキリしましたぁ。ありがとうございます」

 

「あまり無理しないように。女所帯の環境でも君が頑張っていることは知っているからな」

 

トレーナーの中では詩緒と一番付き合いの深い聖が彼の肩に手を置いて力強く声を掛ける。顔立ちが整っており、姿勢もキレイでカッコいい。詩緒の憧れの人の一人である。

 

「私も相談くらいならいくらでも聞いてやる。……まあ、何かあれば同性のプロデューサーを頼るのがいいな。他の男はダメだぞ」

 

先程のこともあってか、神保プロデューサー以外は警戒されているようだ。

詩緒の介抱をしたのは神保だが、話を聞いたところによると最初に詩緒と戯れていたのも神保らしい。

ただし、元凶というならば詩緒自身があの状況を作り出した張本人であるということを洗いざらい自分の口から話したので、詩緒を信用するならば神保は無罪ということになった。詩緒は他人からの信頼が厚い男の娘なのである。

 

そうしてトレーナーやアイドル達は詩緒を心配しながらも解散し、ようやく彼自身も部屋へ帰れるのだと肩の荷が下りたような感覚を味わいつつ一息吐いた。

 

荷物を持って旅館を後にしようと歩き出してふと三船美優が頭を過った。

すでに二十二時近くになっているものの宴会場前に書いてあったスケジュールによると二十四時まで開放しているようだ。

いつまでもお酒を飲みたい人がいるんだろうなと思ったが、詩緒にはなかなか理解が及ばない話である。

 

頭を過ってしまった手前、美優の様子を見に行かないと落ち着かなくなってしまった詩緒は、自室に帰る前に先程の宴会場へ再び顔を覗かせる。

 

酔っぱらいの大人たちに絡まれるとややこしいので遠目で美優の存在を確認しようと試みるも件の彼女は視界に映らず、彼女が寝ているであろう場所にわざわざ近づかざるを得なかった。

 

「お疲れ様です」

 

「あ、ウタちゃん♪ 長風呂だったね。どうしたの?」

 

ちとせがアルコールで頬を紅潮させながら嬉しそうに詩緒に声を掛けた。

 

「やー、大変なことがありまして……。それより美優さんは?」

 

詩緒は大浴場での出来事を『大変なこと』の一言で済ませると、酔っ払い共の中でもアルコール耐性最弱の美優を見つける。

先程よりも血色が良くなっていたことに安心したが、まだ寝ているため睡眠が深くなっていないだろうかと心配になった。

睡眠が深くては起こすのも一苦労だし起きた後もしばらく辛いだろう。

ただ、それほど千夜の膝枕の寝心地が良かったのだろうかと推察する。

 

「寝てるんですねぇ」

 

「三船さんって意外とだらしない人なのですね。前見た時はしっかり者な印象を受けましたが……」

 

千夜もこれにはやや幻滅といったところだが、お酒に溺れる大人がだらしなくなるというのは自身の姉で散々経験していたため詩緒にとっては許容範囲内であり、普段の美優はスケジュール管理も完璧で大人としての責任感も強いので、こういった隙を見せられると彼はついついお世話をしたり、甘やかしたりしたくなってしまう。

 

「とりあえず、起こしてお部屋まで送ってあげますか。ここで寝ちゃうと風邪引きますし、ちゃんと疲れもとれなさそうですから」

 

詩緒がそう言うと、得心いったような無造作に千夜が立ち上がろうと膝を上げようとしたのを見て、彼は慌てて千夜を止めた。

 

「なぜ止めるんですか? 起こすのでしょう?」

 

「美優さんの頭を落とすの間違いですよね?」

 

「千夜ちゃんの足が限界なんじゃない?」

 

起こすまいとずっとその体勢だったことに気が付いた詩緒は、千夜に謝るが、なぜ謝るのかと逆に問い返される始末だ。

 

「とにかく、起こしてから膝外しましょう。……美優さん、起きてください。こんなところでぐっすり寝たらダメですよ」

 

ゆさゆさと肩を揺する。

やはり深めの睡眠なのか呻き声は上げるものの覚醒までには至らない。

 

「もう十分ぐっすりでしたけど」

 

珍しくチクチクと愚痴を吐く千夜に対して、長い時間膝の上で寝たことを根に持っているのかな、と詩緒は考えたがその思考は彼女の態度から読めなかった。しかしながら、神保プロデューサーに不満がある時あからさまに嫌そうな表情をしているので、多分今回はそこまで怒っていないのだろうということは何となく分かった。

 

詩緒が何度肩を揺さぶり呼びかけても起きない美優に痺れを切らしたのか、とうとうちとせが動き出す。

 

「こういう時は、力技~♪」

 

そう言ってちとせはぎゅっと美優の鼻をつまむ。

呼吸が苦しくなってきたのか、徐々に険しい顔になっていき、薄っすらと目が開き始める。その後、ズゴッと一瞬いびきのような音を発してから美優は飛び起きた。

 

「わっ! おはようございます。ちとせさん、この起こし方はさすがに可哀想ですよ……」

 

詩緒は、じとぉ、と責めるような視線をちとせに向けるが、彼女はそれを笑って流す。

 

「まあ、起きたし、ワインぶっかけるよりはいいでしょ?」

 

起こし方の候補にそんなものも含まれていたのか、と呆れて溜息を吐く詩緒。

状況をある程度把握した美優は息を切らしながらなんとか一言絞り出す。

 

「……お、おはよう」

 

「はい、おはようございます。お部屋に戻りましょう?」

 

詩緒が美優の挨拶に再び挨拶を返した。

現在の彼女のオアシスは彼だけである。

 

「あ、うん、戻る」

 

頭は完全に覚醒しきっていないのか言語野が大分やられてしまっており若干幼児退行のような症状が見られる美優だが、千夜は子供たちの扱いにもなぜか長けている詩緒に後を任せる気満々である。

 

「部屋に戻るくらい問題ないと思いますので、あとは詩緒くんに任せてもいいですか?」

 

「お任せください!」

 

元気良く返事をする詩緒。

こういう返事をする彼は、事ライブや人の世話に関しては頼もしい。

 

「美優さん、立てますか~?」

 

詩緒は美優の手を掴むと、そのまま引っ張って上体を起こさせる。

 

「実はさっきまで千夜さんに代わってもらってたんですよ」

 

「え、そうなの!? ……千夜ちゃん、ありがとう」

 

ようやく美優の意識も戻ってきたようで千夜にお礼を言ってから立ち上がったが、急に立ち上がったことが良くなかったのか、立ち眩みを起こしてよたよたとバランスを崩した。

 

「わ、大丈夫ですか?」

 

詩緒が美優の脇に腕を通して抱き留めるように支える。

向かい合ったままでは戻ろうにも戻れないので、彼女の隣にピタリとくっ付き、肩を寄せて少しだけ体重が詩緒の方に乗るように姿勢を整えた。

 

酔って背中を丸くしていたので気が付かなかったが、そういえば美優は意外と身長が高いことに気が付き、男として一七〇センチくらい身長があればなあと思ったが、早熟だった詩緒は高校に上がる頃にすでに成長が止まっていたため無いものねだりをしても仕方ないのであった。

ちなみに中学一年くらいまでそれなりに身長が高い方だったが、中学二年から高校一年にかけて周囲のほぼ全員から身長を抜かされるという悲しみを背負っている。

 

身長が低いだけでなく非力な詩緒は美優を一生懸命に支えてようやく安定させた。

美優の意識も覚醒に向かっているため、二人三脚よろしく二人して転ぶなんてことはないだろう。

 

「じゃあ先に失礼しますね。美優さん、行きますよ~」

 

「うん、ありがとね」

 

微笑ましい光景ではあるが、面白くないと思っていたのはちとせである。

美優の介抱にやる気を出している詩緒をわざわざ邪魔する必要はないと思っていたが、好きな人が他の女を介抱し、笑顔を見せて、いい雰囲気になっていることはとてもイライラするものだ。

 

まず、二人の距離が近すぎる。

美優も恋心とは違うが、詩緒に好意を寄せているようだし何がきっかけで恋愛に繋がるなんてことになるか分からない。

あと、二人の距離が近すぎる。

 

そういうわけでちとせはムスッとしながらグラスに入っている高級な赤ワインを煽る。

美優のことも嫌いなわけではなく、むしろ好き寄りなので嫉妬の感情をどう処理していくべきかあまり見当が付かないのだ。

 

「信じてるからね、ウタちゃん……」

 

好き同士だと分かった時から心変わりしていないことを信じるしかない。そう思ってちとせは誰に聞かれることもなく小さく呟く。

 

とは言っても気になるものは気になる。

数分後、詩緒のことで頭がいっぱいになってきたちとせはもうお酒の味も忘れて立ち上がり、千夜を連れてその場を後にする。

先程まで酔っ払いの大人に囲まれて、相手をしていた千夜はようやく帰れると安堵した。

 

「お嬢様、体調は大丈夫でしょうか?」

 

宴会場を後にすると、千夜はちとせを気遣ってアルコールの影響を確認する。

 

「問題ないよ、ありがと♪」

 

顔が赤くなってはいるが意識もはっきりしており、呂律も回っていることから確かに問題無さそうだと千夜はホッとした。

 

「では戻りますか」

 

「何言ってるの千夜ちゃん?」

 

帰り道に向かって一歩足を踏み出した千夜はぴたりと止まる。

たった今私の後ろに立っているこのご主人は自分の部屋に戻る気はないという宣言したと、千夜はちとせの一言をそう解釈した。

 

つまり帰れず延長戦。

千夜は大きな溜息を吐き出しそうになったが、何とかこらえてその溜息を深呼吸へと修正した。

 

「ウタちゃんの部屋に行くんだよ」

 

お嬢様はやはり酔っている。この社員旅行で詩緒くんと過ごすという特殊な状況に……。

そう結論付けて、千夜は渋々ちとせの我儘に付き合うことにするのだった。

 

☆ ☆ ☆

 

ホテルまで戻ってきた詩緒は自身の部屋のベッドに飛び込むように倒れ込んでいた。

 

「ふかふかだぁ……」

 

すぐにでも眠りに落ちそうな疲労の中、数刻前の出来事を思い出す。

 

美優を連れてホテルまで戻ってきた彼は宴会場から一足先に帰っていた早苗たちと遭遇。

高垣楓や川島瑞樹、佐藤心などお馴染みと思われるメンバーの中に高峰のあ、財前時子、柳清良と大人アイドルの面々がロビーにたむろしており、何やら談笑しているようだ。

 

楓あたりはお酒の席にいるものだと思っていたが、珍しくそこまで酔ってはいなさそうである。

そんな彼女たちに美優が詩緒と手を繋いで帰っているところを見られてしまえば無事で済むわけもなく、速攻で早苗に逮捕される。

 

「アウトアウトアウトー! いやいや、美優ちゃん何やってんの? 未成年淫行なんて本気で人生終わるわよ? それとも歳の差なんて愛があれば関係ないって? いやいや、さすがに擁護できないから」

 

「か、勘違いです! 優しい優しいウタちゃんが酔った私を介抱して心配だからってここまで一緒に付いて来てもらったんです!」

 

めちゃくちゃに声を荒らげるなぁ、と他人事のようにやり取りを見る詩緒。

 

「うーん、じゃあ美優さんは早苗さんに引き渡しますので、僕はもう部屋に戻りますね」

 

彼自身も疲れていたので、美優もだいぶ元気になったし、あとは早苗に引き渡すことにした。

美優の手を離そうとしたところで、あ! と彼女が声をあげて詩緒に何かを伝えようとしていることに気が付いて、彼女の手を握り直した。

 

「ウタちゃん、本当にありがとうね!」

 

美優は両手でぎゅっと詩緒の手を包み込み、嬉しそうな笑顔を見せる。

 

「あ……」

 

詩緒まで嬉しくなるような美優の笑顔を見て、仕事やファンのことを考えてしまう。

あの時プロデューサーにアイドル誘ってもらえて良かった。間違ってオーディションに応募させられたのは……まあ結果的に良かった。

 

ついでに姉の暴走を許した詩緒は胸に熱いものが込み上げてくるのを感じて涙を流す。

 

「あ、あれ? 変なの……美優さんが喜んでくれて嬉しいのに……」

 

頬を流れる涙をいくら手で拭っても、さめざめと止まらない。

 

「あー、美優ちゃん泣かした」

 

「え? え? ごめんね!」

 

途端に泣く詩緒に焦りが止まらず、眠気なんかはとうに吹き飛んだ美優は何とか泣き止ませたいと思い落ち着くまで詩緒を抱きしめて彼の頭を撫でる。

 

詩緒はその好意にほんの少しだけ甘えてから、すぐに彼女から離れた。

 

「……僕も急にごめんなさい。美優さんの笑顔が素敵だったので、何だか込み上げてきちゃいました!」

 

いろいろと端折った結果そのような言い回しになってしまったが、沢山の大人に見られて恥ずかしくなったのかさっさとその場を離れて、こうして自室へ戻ってきたのだった。

 

「はぁ……何で泣いちゃったんだよぅ……でも、本当に良い笑顔だったな。早く次のイベントでファンのみんなの笑顔が見たい……」

 

大きな部屋で独り言を呟く。

睡魔が徐々に詩緒を蝕んでいるが、美優には寝る前にちゃんと身体を綺麗にしておくように言った手前このままベッドで寝るわけにはいかない

 

「歯、磨こ」

 

むくりと起き上がり、置いてあるアメニティの中から歯ブラシを開封し、歯を磨き終わって寝ようというところで部屋のインターホンが鳴る。

 

こんな時間に誰だろうかと、寝ようとしていたこともあって出るのが億劫になる。

居留守を使おうかとも思ったが、急な入用であれば困るのは訪ねてきた人か自分になるので、渋々と玄関を開ける。

 

「ウタちゃん、やっほー♪ 来ちゃった」

 

「え、ちとせさん!? ……と千夜さんも!」

 

どうしたのかと尋ねる前に二人を部屋にあげる。

 

「遅くにどうしたんですか?」

 

現在二十三時を回ったところなので、人を尋ねるにはだいぶ遅い。

この時間まで起きているのはお互いに珍しく、健康を気遣うアイドルにとっては大敵となる。

 

「これから何かしようとしてた?」

 

逆にちとせに聞き返された詩緒は頭にクエスチョンマークを浮かべながら、寝るだけと答える。

 

「じゃあ一緒に寝よ」

 

「え、一緒に? 千夜さんもいいの?」

 

急な提案に困惑気味の詩緒は千夜にも確認し、ちとせの我儘に付き合わせて申し訳なさそうな顔をしていた。

詩緒くんも突然の申し出だし嫌だろうなと思っていたが、彼の表情が明るくなったことを千夜は見逃さなかった。

 

「やったー! こんな広いのに一人なの寂しかったんですよね。旅行だしみんなでお泊りしたかったんですよ」

 

ノリノリだったのが意外な反応で、千夜は呆気に取られてしまったが、確かにこのだだっ広い部屋に一人は寂しいのかもしれないなと詩緒の気持ちを慮る。

 

そこからはさっさと寝る準備をして三人で同じ大きなベッドに入って少し話した後、特に何か起こるわけでもなく、すぐに眠りにつくのであった。

 

 

【おまけ】

「ウタさん、待てますか」

 

橘ありすが中学一年生に上がった頃、詩緒は彼女に見上げられながらそう言われた。

 

「え、どうしたの?」

 

最近読んだミステリー小説の一節だろうか、と詩緒は推察した。

 

「いいから待てるか答えてください」

 

『待てるかどうか』という問いにどう返していいものかと思案しながら、彼女の様子を窺ってみる。

どうやらふざけて質問しているわけではなさそうだったので、そのセリフがミステリー小説の一節だろうがそうでなかろうが、詩緒としても誠実に返答する必要があると考えてから一言。

 

「待てるよ」

 

安心させるような笑顔を携えてありすに応える。

ありすは歳相応に顔を綻ばせたが、詩緒が見ている手前すぐに緩んだ表情を引っ込めると満足だと言わんばかりに腕を組んだ。

 

あの問いにはどんな意味が含められていたのか、あるいはあの表情や仕草にどんな想いが込められていたのか、詩緒が疑問に感じたものは全て彼の脳裏に焼き付いて離れることなく、数年が経過した。

 

☆ ☆ ☆

 

詩緒はアイドル業を続けながらも何とか大学受験に合格、さらに入学してからも最低限の出席と必修の単位を何とか取得したうえで学生生活二年目へと突入した。

 

美形で愛想が良く、有名人で忙しいのに頑張って大学へも通っているという他人に好かれやすい特徴をフルで取得している詩緒は、教員からも好かれているため本来ギリギリで不合格になるであろう授業も特別におまけしてもらい、最低ラインで合格としてもらっていた。

 

もちろん、中にはそのような特別対応を認めない教員もいるわけで、出席日数が足りなかったり、テストの点数が合格点に達していなかったりで単位を落としてしまった授業も少しあるが、彼自身は概ね満足していた。

 

高校一年でアイドルデビューしてレッスンに追われる日々かと思いきや、わずか半年ほどであらゆる番組に引っ張りだことなり、受験期には仕事量を減らしてもらったとはいえアイドルの仕事をずっと続けたうえで苦手な勉強も頑張ってきたのだ。

 

大学に入学してから仕事量を徐々に増やしているとはいえせっかく入学した大学は卒業しなければ勿体ない。

千夜にもたくさん勉強を手伝ってもらったので、彼女の恩にも報いたいと考えている。

 

ちなみに一年次終了時点でGPAは1.0を割っており、特待生となるには絶望的だが特筆すべき芸能活動がある。彼の影響力だけで大学にはお釣りがくるレベルなので上層部もどうにかして平穏無事に卒業してほしいと考えているに違いない。

 

話を戻すと、詩緒は現状で学生生活と芸能活動の二足の草鞋を上手いこと履いており、大学を修了できる最低限の勉強と世間に広く認知される程度の仕事量を大学一年次に何とかこなしたことで、二年次からは学生生活に多少の余裕ができ、自由な時間も徐々に作れるようになったのである。

 

自由な時間を何に充てるかというと、友人との遊びに費やすことが多い。

この日も、前々から連絡を取っていた橘ありすが高校入学したお祝いを兼ねて遊びに行こうということになっていた。

 

彼女が小学六年の時に初めて出会い、それから会うたびに話すようになり、連絡を取り合って休みが合えば外に遊びに行くような仲である。

 

昨年はありすの、一昨年は詩緒の受験が被っていたこともあってお互いになかなか時間が取れなかったが、今日ようやく久しぶりに直接会うのだった。

 

それにしても、たまに一緒の仕事現場で会うこともあり、直近ではありすが中学二年生の冬頃に出会ったのだが、ありすが自分の身長を今にも越えてしまいそうなほど成長しており、まったくもって目線の高さが一緒だったことが情けなくもあったし、感慨深くもあった。

 

今日は久しぶりに会うものの、SNSなどで様子を見る限りでは詩緒の身長は越えてしまっているようだし、年下の女性を見上げなくてはならないと思うと一人の男としては億劫である。

 

本日、ありすは入学式を昼頃に終えるとのことだったので、詩緒は彼女の通う高校へ足を運んでいた。

式には新入生の保護者しか参列できないため、詩緒は入学式が終わるタイミングに到着し、正門前で彼女が出てくるのを待つ。

 

ありすと二人でお出かけするため詩緒はバッチリとお洒落してきており、正門前ではありえないくらい目立っていた。

 

「めっちゃ可愛い人いる!」

 

「誰かのお姉さんかな?」

 

「え、嘘、あれってウタちゃんじゃない?」

 

「わ、本当だ。多分、水上詩緒だよ!」

 

彼を見た生徒や保護者がざわつくほどなので、あっという間に正体はバレてしまったが、さすが人前に立つ仕事を生業とし、豊富な経験値を持っているだけあって、じろじろと見られることに対して動揺や抵抗感はまるで無い。ただ、神保がこの様子を見たらクドクドと説教を始めそうではあった。

 

気が付けばコスプレで言うところの囲みが発生しているものの、写真撮影を無許可で行う者はいない。

当の詩緒本人は気にせずにスマホをいじいじしており、ありすの両親と連絡をとったり、スケジュールやSNSのチェックをしたり、ソシャゲをしたりと適当に時間を潰す。

 

しばらくすると、今度は正門の向こうの方から一際大きなざわめきが起こる。

ここの学校の制服を着た息を飲むほど見目麗しい少女が両親と思わしき男女と正門を出るところであった。

彼女も知る人ぞ知る美城プロ所属のアイドルであり、高校内では有名人が入学するということで少し話題にもなっていた橘ありすその人であった。

 

高校に進学したことで今までよりも落ち着いた雰囲気が増し、高校生らしからぬ大人びた女性へと変貌していた。

 

そこまで華美なオーラを纏わせていれば、詩緒もさすがに手元の端末から目を離して、ありすの姿に目を向けてしまう。

大人っぽくなったなぁ、と親戚のお兄さんたるや温かな眼差しで見ていたが、彼女が近付くにつれてどんどん首を上に傾けていく。

 

「こんにちは、ウタさん。お久しぶりです」

 

挨拶する距離まで近づいた頃には完全にありすを見上げる形になっており、詩緒もその成長ぶりに目を丸くさせた。

 

「久しぶりだね、ありすちゃん。めっちゃ大きくなったよね……」

 

年下の女性を見上げて複雑な感情に苛まれたが、以前会った時にはその片鱗を既に感じていたし、これまでも見上げて来た女性はたくさんいたのですっぱりと切り替えることができた。

 

「あと綺麗で大人っぽくなった!」

 

語彙力は相変わらずゼロだが元気な笑顔を見せる詩緒に安心したのか、ありすはクールな雰囲気と対照的な悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 

「ウタさんは子供っぽくなりました?」

 

冗談も言うようになったなぁ、と自分たちの仲が深まっていることを今更感慨深く思う。

 

「ちょっと! 僕より高くなったからって馬鹿にしてるでしょ!?」

 

「まさか、馬鹿にしてないですよ。ウタさん、相変わらず可愛いなって」

 

クールキレイ系の女性に成長したありすには年上のような魅力があるということは、つまり詩緒が憧れを抱くタイプの女性に変化したということでもあり、今まで妹のように接してきた子に対し、成長して雰囲気が変わったからといって憧れの感情を抱いても良いのかと葛藤せざるを得ない。

 

「もー、梨沙ちゃんの悪いところばっかり受け継いじゃって……。あと、そんなストレートに可愛いとか言うの禁止! 照れるから!」

 

という発言も照れ隠しだったりするわけで、その後詩緒は話題を変えるためにせっかくの入学式だということで両親とありすの三人で立て看板をバックに写真を撮る提案をし、カメラマンを買って出る。

 

ありすは後で詩緒とも写真を撮るということを条件に詩緒にカメラを任せ、その様子を見た周囲からは水上詩緒をカメラマンとして扱えるほど仲の良い謎の美少女新入生というレッテルを貼られていたが、同じ所属のアイドルだと聞けば納得するだろう。

世間のありすに対する認知度は詩緒に比べるとそこまで高くはないのである。

 

「詩緒くんも入って入って」

 

ありすの母親が詩緒を手招きして今度は四人で撮る。

撮影は近くにいた人に詩緒がお願いし、スマホを渡した。

 

四人で撮った後は詩緒とありすのツーショットで撮影する。

隣同士で並ぶとありすの身長の高さが際立ち、詩緒はまるで人気モデルと並んでいるような気分だった。

 

一、二枚目は凛とした佇まいで。知らない人からすれば特別な撮影かと見間違えてしまう。確かに特別な撮影ではあるが、決してメディアに載ることはない。

三、四枚目はよくお互いが見せるような柔らかい笑顔で。先ほどのキリッとした表情とは対照的だが、お互いの信頼感や素の部分が見えるようでこちらも画になる。

五枚目は、ありすが大胆にも詩緒の腰に手を回してお互いの顔を寄せ合う。ありすが頭を傾けて詩緒の頭にこつんと自分のこめかみ辺りをぶつける。

 

不意を突く仕草に一瞬驚いた詩緒であったが、彼女に合わせるように彼もぐいとありすに少しだけ体重を預けてその好意を受け入れる。

自分から仕掛けたはずのありすは思わず頬を紅潮させて、そういうところですよ、と心の中で呟いた。

 

一通り写真を撮ったありすはこれから詩緒と遊びに行く予定であり、つまりはデートをすることになっている。

お互いに制服でのデートとはいかないが、長身の女子高生アイドルと低身長の男の娘アイドルという特殊な組み合わせである。

 

彼の見えないところで小さく気合を入れると、ありすの父親が車で彼女たちを送ってくれるということだったので、駐車場へ車を取りに行っている間、正門前で待つことになった。

 

相変わらず、アイドル二人の注目度がとんでもなく、ついには詩緒に話しかける人も現れる始末だ。

プライベートなのになぁ、とありすは詩緒のファンが彼の時間を取ることに多少なりともやきもちを抱く。

 

それにしても、笑顔で握手して、お話して、サインまで書いて、ファンからしたら神対応以外の何物でもない。

詩緒のついでと言わんばかりにありすにもそういった対応を求めるファンが現れて、彼に対する悔しさと尊敬の念が同じくらい沸いてくる。

 

しばらく主に詩緒のファンの対応を二人がしていると、ありすパパが車と共に戻ってきたようで、ありすママが手招きしているのを詩緒が見つけると、ファンの対応を中断した。

 

「あ、お迎えが来ちゃったみたいです。対応できなくてごめんなさい。良かったらイベントとか会いに来てくださいね。ホームページに情報載ってますから」

 

詩緒に対応してもらったファンは最後まで印象が良い彼の姿を目に焼き付けて、その場にいたすべての人がポジティブな気持ちになれたようだった。

 

「ウタさん、やっぱりすごいですね」

 

「やー、そんなことないよ。それより楽しみだねぇ。一緒にお出かけなんていつ以来だろ?」

 

車内ではそんな雑談をして、それぞれ運転席と助手席にいるありすパパとありすママが微笑んでいた。

 

しばらくして繁華街に到着したありすと詩緒は車から降りる。

 

「送っていただいてありがとうございます」

 

「いいのいいの、ありすのことお願いね?」

 

「はい。楽しい思い出にしますね」

 

自分も含めて楽しい思い出にすると言うのは何とも頼もしいことだった。

両親も安心し、後は若い二人でと言い残して帰路へ着いていった。

 

「じゃあ今日は楽しもうね」

 

「はい! じゃあウタさん、離れずに付いてきてくださいね!」

 

ありすは強引に詩緒の手を引く。

 

「あはは、僕がエスコートしようと思ったのに」

 

詩緒も強く握り返して付いていく。

 

少し成長した二人の思い出作りは始まったばかりであった。

 




社員旅行2日目に続く予定です。力尽きたらすみません。
できるだけキリが良いところまで書いているつもりですが、短くても投稿頻度を早めた方が良いかもしれませんね。

おまけの方は気分で続きを書きます。
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