そう謳い、経営されている雑貨屋があった。
その店の名は『必需堂』
どこにでもあってどこにもない、何かを必要とする人の前に現れる不思議なお店である。
日本のどこか、とある通りに面した場所に、その店は建っていた。
現代では珍しい瓦葺の屋根に白い壁のお店は、外観の見た目に反して、伝統工芸品ではなく様々な物を取り扱う雑貨店である。
その店の看板に掲げられた名は【必需堂】
不思議な定員が営む。不思議な雑貨店である。
――☆――☆――☆――
その日は、厄日だったのだろう。
普段は躓かない沓摺につま先が引っ掛かり、転びかけた。
慌てて家を出ようとして、ドアロックのせいで顔を打った。
陸橋で、最後の数段を踏み外してたたらを踏んだ。
そういう、特別ではない小さな積み重ねが、大きな変化をもたらしたのかもしれない。
俺の名前は誠司。関東の大学に通ってる、普遍的な大学生だ。
……だった。というのが正しい表現かもしれないが、とにかく俺は普通の、どこにでもいる大学生だったんだ。
今朝、この時までは。
通い慣れた駅のホーム。
いつも同じ時間に、一緒の列車に乗る目鼻立ちの通った高校生の少女に、いつも通り見惚れながら、変わらぬ毎日を過ごすはずだった。
見惚れる――というように、ずっと見ていたからだろう。周りの人のようにスマホにばかり目を落としていたら、事が起こってから気付いただろうその事故に、俺は彼女と同じタイミングで気付いた。
少女の後ろを日傘をさした女性が通ったタイミングで、狙いすましたかのように強風が吹いた。風に煽られた傘を持っていた女性はバランスを崩し、近くの柱に手を着いた。
――つもりだったのだろう。
俺には、全てがスローモーションのように見えた。ホームに突入してこようとする駅を通過する貨物列車も、線路には落ちなかったものの、胸から上がホームの端から飛び出す形で倒れ込んだ少女の姿も。
少女が倒れかけた時、既に俺は駆け出していた。けれど、一瞬で少女の身体を跳ね飛ばすであろう鉄の塊は、無情にも後数秒という所まで迫っていた。
無我夢中で、届きもしないであろう手を伸ばして、毎日の癒しが無くなることを恐れた俺は、ただ必死に願おうとして――やめた。
叫んだのだ。心の中ではあったけど。時よ止まれと。
そのせいで……そのせいで!
俺は、解除方法も分からないまま、止まった時間の中に取り残された。
あの時は、何が起こったのか分からなかった。無我夢中で少女の元に辿り着いて、彼女の身体を抱え込んで、ホームに引き戻して、気付いた。
音がない。風の音も、悲鳴も。先程まで煩いくらいに響いていた音が一切聞こえなくなっていた。
助けた少女も動かない。痛そうに顔をしかめたまま停止していた。
俺が、時間を止めたのか……?
そう思ったことでテンションが上がったのも、最初の内だけだった。
何せ、解除する方法が分からない。
解除したら二度と止めることができないかもしれないから、今の内に楽しんでおこうなんて、考えもしなかった。
自分が止めたという確信もあったし、止まった時間の中で自由に動ける俺が、停止と解除を自由にできないはずがないと。止まれと思ったら止まったから、動けと思えば動くだろう。
――そんな甘い考えはあっさりと覆された。
動かないのだ。何をやっても。
指を鳴らしたり、手を叩いたり、叫んだりしたけど、一向に。
もしかしたら、時間経過で自然に解除されるかもしれない。
そう考えて少女を泥臭く助けたポーズのまま、ぼーっと待っていた事だってある。
このまま解除できないまま、一人取り残されて死んでいくのだろうか。
そんな絶望は、さらなる絶望でうわ害された。
――お腹が減らないんだ。
それどころか、喉さえ乾いた気配がない。
ああ、死ねないのか。
もはや静観するしかなかったね。今でこそちょっと前向きになってはいるけど、当時は精神崩壊して、酷い八つ当たりをしてしまった記憶もある。
結局、あれはどのくらい前になるんだろうか。
ずっと秒数を数えておくなんて異常な事、できる訳もないし。俺以外の時間は一秒も経っていないのに、俺の時間は数時間は経っていただろう。
どうでもよくなって、もう死ぬつもりで、ビルの屋上から飛び降りたのに、空気が水のような密度となって、ゆっくりと地面に着地できてしまった。
溺死しようと川や海に向かっても、もはや空腹も脱水もない身体が酸欠になる訳もなく、空気が速度によって水のような状態になるのなら、水は固まりかけのコンクリートのようで。
海洋恐怖症になる前に、上れるところを探したっけ。
結局、あれからどのくらいの時間が経ったのだろう。
半年? 一年? 少なくても、日本一周ができるくらいには時間が経ってる。観光しながらだから、三年くらいかもしれない。
未だに、時間は止まったままだ。
俺がこの時まで正気でいることができたのも、精神的な時間がゆっくり流れているからだと思う。
もしかしたら、死のうとした時点で狂いに狂っていたのかもしれないけど。
「……ん?」
ガッサガサの声らしきものが出た。
けど、そんなことを気にしてはいられない。
コーヒーのような匂いがした。
止まった時間の中では音も匂いもしないはずだ。試したから間違いない。
なのに、匂う。
思わず駆け出す。
速度が上がるにつれ、粘度を持ってからみ着いてくる空気をかき分けながら進むと、そこには一軒のお店があった。
伝統的な瓦の屋根の上に、大きな木材に墨で掘ったのだろう文字で、必要堂と書いてあった。
恐る恐る扉に手をかけて、横へ開くと、
カランカラン。とドアベルの音が鳴った。
「な…った……」
「――いらっしゃい」
え? ヒトのコエ?
思わずドアベルから目線を外し、店の奥に顔を向ける。
そこには、カウンターの奥でコーヒーを片手に新聞を読んでいたであろうお爺さんが、さも当然のようにこちらを見ていた。
「お客さん、何をお求めで?」
まるで、当然のように動いて話すそのお爺さんに、俺は数年ぶりの涙が溢れ出るのも構わずに、叫んだ。
「時間を! 止まった時間を動かす物が欲しい!」
変な店ではあった。
でも、だからこそ。縋ったんだ。この地獄を終わらせてくれる可能性がある事を。
「……7,500円だ」
「えっ。はっ…あるん…ですか……?」
「お客に必要なものは取り扱っているさ。これでも、必要堂だからね」
震える身体をなんとか支えてカウンターまで行き、久しぶりに取り出した財布から一万円を出す。
「まいど。それじゃあお釣りの2,500円と…。君が持ってるそれが君の欲しいものだ」
「えっ!? あっ?! いつの間に……?」
お釣りを受け取ろうとした時、俺の手の中にはチェーンがあって、一つの懐中時計がぶら下がっていた。
恐る恐るそれを手に取った時、自分の力の全てがわかった。
――そんな気がした。
「次は普通に雑貨を買いに来とくれよ。幻想遣いの相手は面倒なんだ」
「…そんな言い草――! あれ?」
気づけば、店はどこにもなく、俺は見知った道へと放りだされていた。
夢…じゃない。レシートと、懐中時計がちゃんとあった。
「はは……」
あの日常に還れる希望が湧くと同時、初心を思い出した。
駅に戻ろう。
戻って、あの少女のヒーローになるんだ。
――☆――☆――☆――
必需堂は、何かを「必ず要する」人の前に現れる。
本来は、そんな切迫した状況になどならない方が良い。
故に、一度訪れた者誰しもが再び必需堂を訪れることはない。
ただし。
この文章の再読は、いつでも心待ちにしております。