――思い出の箱に収まらないのなら、きっとまだ恋してるのだろう。
パースに恋をしたデ・ロイテル。
デ・ロイテルに恋をしたパース。
すれ違い、傷つけた二人の、涙と再会のお話。
※
パース×デ・ロイテルの百合です。パーロイ。
とある方に影響を受けて書いたパーロイ百合です。
壁のスイッチを入れると、薄暗い夕闇の部屋を、情緒のない人口の光が照らしだした。黄昏にぼんやりと輪郭を溶かしていた部屋は、一瞬にして白い光に支配される。曖昧だった夜との境界線が、すっかり私の前に明らかになった。
やたらとくっきりした光景に二の足を踏む。自分の部屋なのに、踏み入るのを躊躇ってしまった。もしかしたら、間違った部屋に入ろうとしてるんじゃないか。そう思って、部屋の入り口にかかる名札を確認する。そこには確かに、「デ・ロイテル」と片仮名で書かれた私の名前がかかっていた。
ここはやっぱり、私の部屋だ。それだけ認識した私は、名札の上の、日焼け後に触れる。丁度、私の名札と同じくらいの大きさで、そこには白い部分が残っていた。
私の部屋は、実にシンプルだ。木張りの床の、壁際にベッドと机、衣装ダンス、化粧台、小さな本棚。それ以外には、特に物もない。部屋は随分広くて、半分は全く物も置いていなかった。あたかも最初から、そこには何もなかったように、ぽっかりとただのがらんどうな空間が鎮座している。
「……ただいま」
がらんどうなだけあって、音がよく響いた。ほんの少し、唇の間から漏れるくらいの呟きすら、部屋のあちこちに虚しくこだまする。ただいつもの癖で呟いた言葉に意味も感情も何一つなくて、実に無感動だった。歌の一つでも口にすれば逆に爽快かもしれないけれど、今はそんな気分にはなれない。何もない空間を見つめるほど無意味なこともなくて、私は溜め息とともに部屋へ上がった。その息すらも部屋中に立ち込めて、深く後悔する。
これほど疲れた気分であれば、いつもなら真っ先に自分のベッドへ倒れこむ。柔い布団へ、滑らかなシーツへ、弾むマットへ、この身を預けた時の快感と言ったら、これ以上のものはない。実際、体はベッドの安らぎを強く求めていて、覚束ない足を、そちらへと向けようとしていた。
でも。私が体を預けたのは、お日様の香りがするふわふわのベッドではなく、それとは対照的な、固い板張りのがらんどうな床の上だった。
ついさっきまで陽が当たっていたのか、腰を落とした床はほんのりと暖かかった。壁に背中を預けて、息を吐く。何もない、寂れてくすんだ部屋が、ここからは一望できた。平坦で面白みのない家具たちが並ぶばかり。いつか相談した通り、観葉植物の一つでも置いておけば、味わいも変わっただろうか。
ううん。それはきっと、無理な相談だ。ほんの少し前まで、この部屋は鮮やかさで満ちていて、どんな観葉植物だって霞んでしまうような輝きがあって、だから私は、別の何かでこの部屋を彩ることなど思いつきもしなかった。
今、座っている床に、触れる。寝転べば、丁度私一人が収まり、生活できそうな場所に、指先を這わせてみる。ほこり一つ転がらない床に、求める温もりは、残ってはいなかった。残っているはずがなかった。
「……なんだか、寒いよぅ」
夏も終わったばかりの、陽も沈みきっていない部屋が、寒いはずもないのに。冷房だって、予約設定を忘れたから、ついていない。そもそもやり方を知らなかった。いつも代わりにやってくれる人がいた。
だから、この部屋が寒いなんてはず、ない。
両の膝を胸元へと引き寄せる。そうすれば、少しは暖かいかもと思った。あるいはこの、ぽかりとがらんどうな胸を、自分を小さくすれば埋められるのではとも思った。
腕の中に体を抱えて、全ての感覚をシャットダウンすると、必然的に思考の海へ沈んでいった。けれど、考えることなんて、一つだけだ。昨日からずっと、同じことばかりぐるぐると、何度も何度も止めどなく、考えてしまっている。……この、どうしようもなく空っぽな部屋に、昨日までいたはずの、大切な人のことを、ずっとずっと考えている。
「……パース」
小さな自分の膝の内に、彼女の名前を呟いた。
◇
彼女と出会った日のことは、今でも鮮明に思い出す。
その日はとにかく暑い日で、後から聞いた話だと、なんでもその年で一番暑い日だったらしい。そんな、記録に残る猛暑日が、私が日本にやって来た日で、そしてパースに初めて会った日だった。
祖国オランダの、期待の星と呼ばれた私は、その誇りと威信を一身に背負って、日本にやって来た。とは言っても、私自身は極々ありきたりなただの少女で、期待と不安とその他諸々を、一抱えでは済まない大きな鞄にぎゅうぎゅう詰めこんで、日本という地に足を降ろした。うだるような暑さと、サウナにいるような気だるさ、そしてやかましいを通り過ぎたセミの大合唱に歓迎され、すでに参る寸前だった私の前に、彼女は鎮守府の案内係として現れた。
綺麗な艦娘だと、思った。溶けてしまうほどの暑さにも表情を変えず、金糸の髪を涼やかに揺らし、きりりと凛々しい目にヴァイオレットの宝石を輝かせる。息を飲むほど、声を失くすほど、心を奪われるほど、可憐な美貌がそこにはあった。
「はじめまして。私はパースよ」
しかし、差し出した手で握手を求める笑顔は、凛々しい印象と鈴の音の声とは打って変わった、温かく愛らしいものだった。まるでずっと私を待っていてくれたような、そんな錯覚を覚えて、私は妙な鼓動とともに手を重ねたものだ。
細くしなやかで柔らかい手が、私の手を取り、しっかりと握った。揺れるリズムに、彼女の喜びが乗っていた。
「デ・ロイテルよ。よろしくね、パース」
「ええ、よろしく、デ・ロイテル」
私が答えると、彼女は一層笑みを深めて、二度三度と手を揺すった。その手を、彼女は半ば強引に引っ張るようにして、歩き出した。
「ここの鎮守府、日本の艦娘ばかりだったから。デ・ロイテルが来てくれて、嬉しいわ」
オーストラリアから来たという彼女は、そう言って微笑んだ。彼女が笑うたびに、長い睫毛が金砂をまとった。色白の肌が桃色に染まって、艶やかな色香を醸し出した。形の良い唇が緩むたびに、私はほうっと溜め息を吐いていた。
「貴女となら、きっと仲良くなれる気がするわ」
「うん。私も同じことを思ってた」
出会ったばかりなのに、私はすっかり、彼女の虜になっていた。この愛らしい艦娘と、友達になりたいのだと、心の底から思っていた。
同室となったパースとは、それからもよく、行動を共にした。最初の頃は、提督も色々と気を遣ってくれていたらしく、出撃や演習まで、それこそ一日中朝から晩まで、彼女と一緒だった。
しばらくして、日本にも馴染んでくると、さすがに出撃や演習で一緒になる機会は減っていった。それでも、例えば朝の支度の時間、例えばご飯を食べる時間、例えばお風呂に入る時間、例えば重なった公休の時間、多くの時間を彼女と過ごした。私がそうしたいと望んで、彼女の隣にいることを選んだ。彼女とともに消費する時間は、大切な思い出に還元されて、私の中に積もっていった。
仲良くなればなるほど、彼女はたくさんの表情を私に見せてくれた。寝坊癖のある私を起こす時の、少しだらしのない寝起きの表情。休日に訪れた遊園地のお化け屋敷にて、恐怖でガチガチになった表情。話題の恋愛映画に感動し、ハンケチを口に当てて涙を零す表情。幼稚な悪戯を仕掛けて脅かした私に、頬を膨らませて抗議する表情。
凛々しく生真面目という最初の印象は、日ごとに、不器用で愛らしいという印象に変わっていった。私が思ったままに「パースは可愛いね」と伝えると、「そうかしら」と毛先を弄って照れるものだから、益々可愛らしく思えた。
もちろん、彼女の笑顔は、変わらずに素敵で綺麗だった。二人の時間が長くなればなるほど、その輝きは増しているようにすら思えた。眩い太陽のように、大きな向日葵のように、夜明けの海原のように、その笑顔は美しく、鮮やかで、何度も私の心を鷲掴んだ。そんな笑顔を向けてくれるほど、私に心を許してくれているのだと思うと、頬の熱を自覚せざるを得なかった。
いつしか――いいえ、最初から、私は彼女の虜になっていた。日がな一日、彼女のことを考えていた。彼女に思いを馳せない日はなかった。彼女の微笑みに心は蕩けて、あらゆることを彼女に結び付け、浮き立つ心に口笛を吹いた。
それを、恋心だと自覚したのは、いつだっただろうか。二人で月を見上げた、晩秋の夜だろうか。炬燵に身を寄せ合った、年の瀬だろうか。初めての雪を踏み締めた、真冬の朝だろうか。舞い散る桜に心を奪われた、春の訪れだろうか。
違和感はなかった。むしろ、とても自然に、私はその感情を――恋という名前の付いた感情を、受け入れた。ああ、私は恋をしているのだと、そう思うたびに心が震えた。初恋の相手が、大好きな彼女であったことが、無上の喜びだった。
ただ……この感情を、私が恋と思い浮かれているものを、わざわざ言葉にして、彼女に伝えようとは思わなかった。もうすぐ一年になろうとしていた彼女との関係を、壊すようなことはしたくなかった。そんな勇気はなかった。
彼女が私を慕ってくれている自覚はあった。しかし、それが恋慕なのか、親愛なのか、経験のない私には全く判別もつかなかった。
それ故、私は日和ったのだ。もう少し、この甘酸っぱい心地を楽しみたいと、そんなことさえ考えていた。
……だからこれは、そんな風に日和った私への、罰だったんだろう。
「今日くらい、交代してもよかったんじゃないか」
珍しく私たちの帰投を出迎えた提督は、艤装を脱ぎかけていた私にそう話しかけた。何のことかわからなかった私は、首を傾げ、彼に率直に訪ねた。
「どうして?私なら、すこぶる元気だよ?」
私の答えにおかしな点でもあったのか、提督の方が首を傾げてしまっていた。彼はとても不思議そうな顔をして、それからこう言った。
「今日はパースがオーストラリアに帰る日だろう。てっきり君は、見送るものかと思っていた」
彼の言葉を理解するのに、相応の時間を必要とした。
そこからのことは、よく覚えていない。彼は何かを言っていたようだったけれど、話の内容は全く頭に入らなかった。
気づけば、部屋の前に立っていた。夏の暑さとは関係ない汗が制服を湿らせていて、息は切れるほどに上がっていた。痛む心臓のすぐ上を両の手で押さえ、肺を無理矢理こじ開けて酸素を送り込んだ。どうやら自分は、ドックからここまで走ってきたのだろうと、ようやく思い至った。
息を整える間もなく、扉を開いた。そこは、よく見慣れた私の部屋で、けれどどうしようもなく、私
彼女は――鮮やかな笑顔の、愛らしい表情の、麗しい金髪の、眩い私の恋物語は、忽然と、全くの唐突に、私の前から姿を消したのだった。
全身の力が抜けて、床にへたり込んだ。もう一歩たりとも、部屋には踏み入れなかった。パースのいない部屋に立ち入る勇気が、私にはなかった。
追いかけてきたらしい提督が、私に尋ねた。
「パースからは、何も聞いていなかったのか?」
「……うん」
「そう、か。……すまない。パースは『自分で伝えるから』と言っていたから、私からは何も言わないようにしていた」
彼女の転属は、一か月前から決まっていたことだと、提督は言った。それを、自分で告げるからと、彼女が私に伝えないようお願いしたことも。
提督の声を、ただ呆然と、聞いていた。私にとっては、目の前にある薄暗いがらんどうの部屋こそが現実で、しかしそれは、どうしても受け入れがたい、現実味のない事実だった。
◇
彼女との思い出を手繰り、膝の内に意識を沈めている間に、太陽はすっかり姿を隠していた。窓の外に夜の気配を感じて、顔を上げる。星か月でも見えないだろうかとぼんやりそんなことを願っていたが、真っ暗な窓には背中を丸める私が映るばかりで、外の様子は全く窺えなかった。部屋の電気を点けたことを、今更ながらに後悔する。
……今日。パースのいない一日を、たった一人で過ごした。
朝。私は一人で目を覚ます。毎朝声をかけてくれた寝ぼけ眼は、どこにもない。私は一人で身支度を済ませ、一人で部屋を出て、たった一人食堂で朝食を採る。
昼。演習を終えても、出迎えてくれる笑顔はない。一人ドックを後にして、残った時間を、ボーっと報告書を書きながら過ごす。彼女お気に入りのお菓子をかじった。
そして、今は夜。一日を終えて、温もりの残らない部屋に、やっぱり私は一人。
「……ねえ、パース。どうして?」
どうして。どうして。どうして。何百、何千と疑問が浮かんで消えていった。どうして言ってくれなかったのと、何も告げずに去ってしまったのと、ここにはもういない彼女に、いくつもいくつも質問を投げかける。けれど当然、その答えを得ることはなくて、問いかけは私の映る窓の、その向こうの夜へと吸い込まれていくばかりだった。
「私のこと、嫌いになったの?」
そうして、最後にその問いが残った。
何も告げず、何も残さず、言葉すら交わすことを許さず、ただ黙して姿を消そうと思ったのは、私を嫌いだからだろうか。もう、私の顔など見たくないと、そう思ったから、彼女は去っていったのだろうか。
そんなことを思ったのがいけなかった。気づいた時にはもう手遅れで、目の端からぼろぼろと大粒の水滴が零れた。味気のない、風情のない、情緒の欠片も宿らない蛍光灯の光が、雫に光を当てる。歪んだ液面には、私だけが残された部屋が映り込んでいて、ひどい顔で涙を流す一人の艦娘の姿をまざまざと見せつけた。
心臓が痛い。走ったからではない。心が痛い。胸のそこに心はないとわかっていても、胸が痛くて、心が痛くて、押さえても押さえてもどうにもならなかった。
涙を止めようと、唇を噛む。目元を袖で乱暴に擦る。ワサビを食べたみたいに、花の奥がツーンとして、天井を振り仰いだ。視界はまだ歪んだけれど、涙は少しずつ収まっていった。
涙を流したからだろうか。ほんの少しだけ気だるさが抜けた私は、もう陽の温もりすら残らない床から腰を上げて、自分の机へと近づく。もうすぐ、夕食の時間だ。何だかうっとおしい髪をまとめようと、机の上に乱雑に置かれたゴムを手に取った。
ふと、机の上に、本が置かれていることに気づいた。
パースが置いていったのだと、すぐにわかった。数日前、私がおすすめだからと半ば強引に貸した、最近流行りの恋愛小説。それを律儀にも、彼女は私の机の上に置いていったのだろう。
なぜ気づかなかったんだろうと思って、しかし昨日の自分の行動を振り返ると納得する。いるはずもない彼女を探して、あてどもなく鎮守府を彷徨い、そして挙句疲れ果てベッドへと倒れこんだ。自分の机に目を遣る時間はなかった。
表紙に触れる。そこにはまだ、彼女の温もりが残っている気がした。それを追い求めて、本を手に取り、ページを開く。何度も読み返した箇所には癖がついていて、自然とそこが私の目に入る。食い入るように、興奮気味に、何度も読み返したのは、告白のシーン。
綴られた文章をなぞる。揺れ動く心を、緊張の瞬間を、呼吸もできない息苦しさを、鮮やかな言葉と描写で書き連ねる。「誰かに恋をする」ということの、酸いも甘いも痛みも喜びも苦しみも幸せも、全てをひっくるめて「好きです」と口にする主人公に、何度も心を奪われた。
こんな風になりたいと思った。
こんな風になれたのだろうかと思った。
想いを確かめて、祈りを噛み締めて抱き締め合う二人。そこまで読んで本を閉じようとした、その時。何かが背表紙と最後のページの間に挟まっていることに気づいて、手を止める。彼女に貸した時には、そんなものはなかったはずだ。
どくり。心臓が鳴る。恐る恐る本の最後のページを開くと、そこには白い封筒が挟まれていた。律儀にノリで封がされていて、差出人欄にはパースのサイン。彼女からの手紙だった。
ペン立てからペーパーナイフを取る。慌てていて、手元が覚束なくて、二度三度と取り落としそうになり、空中でお手玉をした。ようやく手にしたナイフで、封を開く。
中から出てきた紙は、折った角が微妙に揃っていない。はみ出した端に指をかけると、二つ折りの紙はすんなり開いた。
そこに並ぶのは、パースの文字。あまり綺麗でないからと、私には見せたがらなかった彼女の筆跡を、しかし私はとても気に入っていた。丸みを帯びた特徴的な文字は、どこか彼女の祖国にいるコアラに似た雰囲気があって、一目見れば彼女のものだとわかった。
『親愛なる、デ・ロイテル。
まず、この手紙を見つけてくれて、ありがとう』
手紙は、そんな言葉から始まっていた。ううんと、私はそれに首を振る。折角残してくれたのに、気づくのに一日もかかってごめんねと、内心で謝罪を口にする。
繊細な筆致で書かれた文章を、読み進める。
『貴女には、たくさんたくさん、謝らないといけないわ。貴女が許してくれるかはわからないけれど、それでも謝らないといけない。
ごめんなさい。本当にごめんなさい。何も言わないで、貴女の前からいなくなってしまって、ごめんなさい』
……うん、そうだよ。本当に、パースの言う通りだよ。
どうしていなくなったの。いいえ、それ自体は、まだ受け入れられる。けれど、何かを言って欲しかった。せめて出発の日を教えて欲しかった。そうすれば、残された時間を一杯一杯、彼女と過ごそうと思えた。いつか彼女とお出掛けしようと思って溜めて置いた公休を、目一杯使ってたくさんたくさん、それまで以上に思い出を作った。
もしかしたら、恋の告白を、したかもしれない。私を置いて祖国へ帰るという彼女に、ほんのちょっぴりの傷跡を残したくて、そんなことをしたかもしれない。
ねえ、どうしてパース。あなたはそれを、許してくれなかったの。
答えを求めて、手紙を読み進めた。彼女が綴った文章を。決して整っているわけではなく、所々にはほつれがあって、けれど不器用なりに一生懸命に彼女が書いた文章を、私は追いかける。時間も忘れて、読み更ける。
手紙を掴む手に、少しずつ、力が籠る。手紙が終わりに近づけば近づくほど、逃げ場のない熱が、力となって手に加わる。最後の一文字まで目が追い付いた時、震える手で、手紙に皺を作っていた。
気づいた時には、私の体は部屋を飛び出し、長い庁舎の廊下を駆けていた。ただ我武者羅に、足の向かうまま、体の動く限り、走る。昨日とは違う、行く当てもなく、行く先はなく、ただ追い駆けるものだけが明確で、すでに彼方に去ってしまった影を追いかけて、私は走っていた。
途中、何人かの艦娘とすれ違った。何か声を掛けられた気がするけれど、その声は耳に残らなかった。今はただ、短い手紙を置いて去っていった彼女を、追い駆ける以外のことは考えていなかった。
走った。走って走って走って、息なんてとっくに切れていて、心臓は早鐘のように打っていて、強張った足はもつれる寸前で、実際何度か絡まって転びそうになって、それでもただ、前だけを見て、そこにないはずの彼女の背中を追いかけて、ひた走った。追いつくことはないと知っていても、遮二無二走った。走る以外のことを、知らなかった。
庁舎を駆け抜ける。渡り廊下を、司令部施設を、ドックを、工廠を、次々に景色が後ろへ流れて、最後に辿り着いたのは、港の入り口を示す灯台の下だった。テトラポットに波が割れる。艤装を背負っていない私の、ここが限界点だった。ここから先に進む術を、私は持っていなかった。
膝に手をついて、大きく息を吐き出し、それ以上の勢いで肺に空気を送って、呼吸を整える。声を出そうにも、喉が貼りつくほどに息の上がっている今、まともに言葉は出てこない。肩を激しく上下させて、真っ暗な水平線を、灯台の光のその先を、彼女の去っていったその方向を、見つめる。
読んだばかりの手紙の内容を、幾度となく思い出していた。
『貴女は何も悪くない。悪いのは私よ。私はオーストラリアへ帰るのだと、たったそれだけのことを、貴女に言えなかった私が全て悪いわ』
なんで。なんで。なんで。そんな言い方をするのだ。
息が整うより前に、屈めていた上体を起こす。呼吸の度に、まとわりつくほどの重い潮風が、私の中へと入ってくる。気分は優れなくて、吸った息をすぐに吐いて、またどろどろとした空気を吸い込む。それの繰り返しだった。
『どうしても言えなかった。言えなかったのよ。
もし、貴女に、「私はいなくなる」のだと、「もう二度と会えない」のだと、そう告げてしまったら。私はその先に、何を口走るのだろう。きっと余計なことを言って、貴女を傷つけて、今よりもっと貴女を怒らせたかもしれない。そう思うと、どうしても言えなかった。短い言葉なのに、たったそれだけを貴女に伝えることが、私は怖くて堪らなくなってしまった』
胸に手を当てる。そこで、私の心臓が、力の限り脈を打っている。それは、力の限り走ったせいなのか、彼女の手紙を読んだせいなのか、それともその両方か。熱くなる一方の体に巡るのは、血ではなく言葉にならない感情で。いまだ声を紡いではくれない口に変わり、私はその捌け口を両の手に求めた。手にした彼女の手紙を、強く、握っていた。
『今朝が、最後のチャンスだったわ。いつものように貴女を起こして、いつものように貴女とご飯を食べて、いつものように貴女を見送って。それだけで、とても幸せだった。朝陽のように貴女が笑ってくれるのが、私の一番の、幸せだった』
奥歯を噛み締める。貼り付いた喉の堰を破り、零れ出ようとする声を、いまだ口にすることはできない。ただ、感情が先に目から零れ落ちるのを、それだけを、意地でも堪える。この感情を吐き出す前に、この海の向こうへ伝える前に、私を残して去ってしまった彼女へぶつける前に、この地に零してなるものかと意地を張る。言語にならない感情は、あと少しで、声になるはずだった。
『もう一度謝ります。ごめんなさい。この先に私が書くことは、きっと貴女を傷つける。こうして書いていても、読まないでと願っている自分がいる。それでも、ねえ、どうかお願い、デ・ロイテル。これは私のわがままだけれど。どうか、どうか、こんなことを書いて、こんなことを貴女に残して、一方的に去ろうという身勝手な私を許して』
大きく、大きく、息を吸う。
覚悟して、聞いて欲しい。
私は、これまでにないくらい、大きく激しい感情を、彼方の貴女に投げつけよう。
『――デ・ロイテル。私、貴女のことが、好きよ。
朝焼け色の髪も、トパーズのような瞳も、踊るようなお話も、眩しいほどの笑顔も、全部全部、大好きよ。きっと、貴女と出会ったその日から、貴女のことが大好きよ』
「――ばか」
最初の一言は、自分の声を測るように、掠れて小さかった。口から出た声は、びょうと吹いた潮風に流されて、消えてしまう。おかげで、遠慮というものが、すっかり消え去った。
「ばか」
今度はよりはっきりと、声に出す。貼り付いていた喉はすっかりはがれて、もう言葉を紡ぐのに支障はない。ようやく吐き出し口を得た感情が、形をもって湧き出してくる。
「ばか。ばか。ばか」
それなのに、私の口は同じ言葉を繰り返してる。込み上げる感情を、彼方へ届けたい心を、今更伝えることの叶わないこの恋を、叫ぼうとすればするほど、言葉は形を失っていった。ただ、ただ、訳もなく、意味もなく、さして私の感情を伝えることのない、短い罵倒を反復した。零したい想いは、その欠片すらも言葉に乗らなくて、自然、私の声は大きくなっていった。
「ばか!ばかっ!ばかぁっ!」
夜の海に、私の声が吸い込まれる。いつか行った山と違って、声は決して帰っては来ない。行くばかりの言葉は正しく「投げつけている」だけで、決して帰ってこないという虚しさがさらに心臓を締め付ける。
痛い。痛い。痛い。心が声にならなくて、痛い。言葉が感情を語らなくて、痛い。届かない想いを抱え続けて、痛い。
ああ、彼女の言った通りだ。これは傷。彼女が残した傷。私では、どうしても拭い去れない、傷。
そうして、同じくらい、彼女も痛いのだと思い知らされる。
「ばかばかばかっ!」
痛いいたいイタイ。
痛くて死んでしまいそうなほど。これほど痛いのなら、いっそ消えてしまいたいほど。この痛みを癒せぬなら、このまま海に身を投げてしまいたいほど。けれど、そんな勇気も覚悟も度胸もなくて、だから私は、泡沫と消えるよりも辛い道を選ぶ。
「パースの、ばか!」
ようやく、彼女の名前を呼ぶことができた。途端、いくつもの光景が、頭を過った。
木漏れ日を宿す髪。アメジストの瞳。軽やかなステップを踏む会話と、春の日和を香らせる笑顔。
「……きらい」
叫びすぎて機能不全を起こしかけている喉から、なおも言葉を絞り出す。「ばか」と言うのにも飽きてきて、結局口から出たのは一番遠い言葉。
「きらい。きらいっ。きらいっ!」
そこまで叫んで、視界が霞んでいることに気がついた。口から吐き出せなかった感情が、私の意志に関係なく、頬を流れていた。それが悔しくて、情けなくて、なおも言葉を吐き出した。
……ほんの少し、本当に少しだけ、本音だった。こんな気持ちの私を、たった一人残して、遠くへ去ってしまった彼女への、身勝手極まりない不満。
けれど、それ以上に。
「きらいっ!」
手紙を握り締める。彼女が残してくれたものを、たった一枚の紙切れを、あたかもそれが彼女自身であるように、その存在を確かめて、握り締める。
いつか、こうして手を繋ぎたいと、願っていた。
「だいっきらいっ!」
これで最後だ。あと一声叫べば、この声は枯れるだろう。ただの一つも、私の気持ちを吐露することなく、喉はその役目を終えるだろう。
だから目一杯、息を吸った。この叫びが、波を超え、海を越え、彼方の彼女へと、届くことを願いながら。それが叶わないと知りながら。
「パースなんて、だいっきらいっ!」
それが私の限界だった。
辛うじて立っていた足から、力が抜ける。海の先へ旅立った彼女のもとへ、この身を運んではくれなかった、役立たずの足。この灯台の麓に立ち尽くすことしかできなかった足。崩れて折れて、私は膝をつく。
泣き叫んでも、声は出ない。たった今、私の声は潰れたのだから。叫びにすらならない掠れた音を吐き出して、視界がぐしゃぐしゃになるまで涙を流した。
手にした手紙を、暗闇の中で、見つめ直す。強く握りしめたせいでしわくちゃになっている手紙の、最後の一文を、何度も何度も読み返す。
「……き」
嗚咽に遮られて、言葉は声にならなかった。けれど、衝動に任せて叫んだ言葉より、掠れて囁くだけの言葉の方が、ずっと多くの、そして大きな、私の感情を乗せていた。
これだけは、なんとしても、声にしなければならない。そう思って、しゃっくりの間に息を吸う。
「……すき、だよぉ」
ああ。
やっぱり。
この言葉が、一番しっくりくる。
「……だいすきだよぉ」
ぼたぼたと大粒の雫が紙面に落ちる。滲んでいた文字の上に涙が重なって、それもやがて吸い込まれ、小さな染みになった。
『遠い海から、大好きな貴女の幸せを、祈っています』
その言葉だけを大切に、胸に抱き締めた。
◇
気づくといつも、水平線を見つめていた。
「どうかしたかい、パース?」
ぼうっと意識の遠のく私に声をかけたのは、私の配属された基地を統括する提督だった。オーストラリア海軍ではただ一人の女性提督。私を秘書艦にしている彼女は、愛用のペンをくるくると空中で弄んで、私に問いかける。
「パースはいつも、海を見ているね」
「……そう、ね」
返事は曖昧になった。
海を見ていた訳ではなかった。いつも、私が見ているのは――見ようとしていたのは、水平線のその先、遥かな波の向こうで、その手前に広がる祖国自慢の豊かな海は、あまり目に入っていなかった。
……思い出すのは、目の前の海よりも、ずっとくすんだ蒼をした、遠い異国の海ばかりだった。
決して、長い時間を過ごした訳ではなかった。時間にすれば、たった一年ほどの、ほんの一瞬の出来事だ。けれどその一日一日を、半年が経った今でも、鮮明に思い出す。色彩豊かだった季節の一つ一つを、そしてその中で、一際美しく輝いていた彼女のことを。
抱えていた書類を棚に戻し、溜め息を一つ。何かに没頭している間は、ほんの少し、海の向こうの未練を忘れられる。けれど、こうして、特に何をするわけでもなく、ふと過ぎていく時間の中に、彼女の姿を垣間見る。目の前の情景に、いつかの彼女が重なって見える。
こと、今日みたいに夕焼けの綺麗な日は、あるいは朝焼けの綺麗な日は、尚更。窓の向こう、随分と水平線へ近くなった太陽に手をかざす。眩しさに目を眇めると、日没前の一番の輝きを見せる光に、私の手が包まれている。あまりの美しさに、胸が締め付けられた。
これは未練だ。自分で選んだ――いいえ、選べなかったことへの未練。中途半端なままで、全てを投げ出した私への罰。
罰、といえば。日本にいる彼女から、一切何の便りもないことも、きっと罰なんだろう。
手紙を残した。手紙を残してしまった。傷つけるとわかっていて、怒らせるとわかっていて、嫌われるとわかっていて、だからそれを恐れて、何も告げまいと決めていたのに。
――「行ってくるね、パース」
キラキラとした笑顔を残して出撃した彼女に、いつもと同じように手を振って。それで全部終わりにするはずだったのに。
全ての支度を終えて、何も残さない部屋に、彼女と二人で過ごした部屋に、私が残れない部屋に、言いようのない寒さを感じた。いつの日かこの部屋に、私以外の誰かが住まうのだろうかと。私でない誰かが彼女と出会って、私でない誰かが彼女と過ごして、私でない誰かが彼女と仲良くなる。それを、堪らなく嫌だと思ってしまった。
……彼女に恋をしていたのだと、ずっと前から、気づいていた。それがいつからだったのかは曖昧で、もしかしたら出会ったあの日からなのかもしれなくて、そうするとほんのちょっぴり恥ずかしくて、けれどその何十倍も何百倍も嬉しかった。
私の初恋。それが、春の太陽が作る陽だまりのような、そんな風に暖かで鮮やかな彼女であったことが、無上の喜びだった。
どうせ届かぬ恋ならば。きっと敵わぬ想いならば。傷でもいい、彼女に何かを残したいと、そんな身勝手なことを思った。
そうして書いた、私のエゴのような手紙に、返事をもらおうというのが烏滸がましい。
「――今日はもう終わりにしようか、パース」
提督の声が、また私を現実へと引き戻す。眼鏡の奥の目を困ったように細めて、彼女は立ち上がった。慌てて頷いて、私は彼女に続き部屋を出る。
「そだ。お迎えだけ、頼むよ。大事な客人だから、案内してあげて」
執務室を出た提督が何気ない風に呟いたのは、今日到着するという日本からの客人のことだった。もうすぐ基地に到着するはずで、宿泊する部屋への案内を頼まれている。
廊下の途中で提督と別れた。さして長くもない廊下には、大きな窓から溢れんばかりに陽射しが差し込んでいる。
もうすぐ、夕陽は海にキスをする。すると、それほど時間を置かずに、夜がやって来る。またあの光に会えるのは、半日ほど後のことだ。
暗く寂しい、陽の当らない時間が、またやって来る。
いつも願っている。幾度も幾度も祈っている。愚かなことに、太陽に彼女を重ねて、どうか沈まないでと乞うている。全く、意味のない、願いだと知っている。
まだ、陽の温もりを残す窓に手を触れた。何だかそこに、遠い彼女の体温が宿っている気がして、けれど決してそんなことはないと理解する。無機質なガラスの手触りに、勝手な寂しさを感じていた。
「ロイテル……」
ぼやける指先に、彼女の名前を呟いた。呟くたびに、しまったと思う。感情を表す言葉ではなくて、それは彼女の名前。それなのに、どうしてこれほど、私の感情を乗せてしまうのだろう。無情にも、その響きを虚空へ溶かしてしまうんだろう。
気づけば涙が滲んでくる。いけない、これではいけないと、何度も思う。しかし一度、彼女の名前を呟いてしまえば、その涙を止める術を、私は持ち合わせていなかった。
湿った唇から、再び、彼女の名前を呟きかけた。
「そんなところに、私はいないよ」
陽射しの向こうに、鐘の音が、鳴り響く。
聞こえるはずのない声に、茜差す廊下の向こうを見遣る。幾筋もの、オレンジとも、赤ともつかぬ、薄く広い、カーテンの向こう。誰かが、そこに、立っている。
夕陽に照らされるのは、朝陽と見紛う鮮やかな赤毛。
オレンジを受けてなお輝きを増す、すっと通った顔立ち。
夜の気配が近づく中、星すら隠す煌めきをしたトパースの瞳。
「……うそ」
ああ、これは夢だ。きっと夢だ。終わったはずの物語を、都合よく思い描き続ける私が見た、自分勝手な夢。
だって。だって。だって。貴女がここに、いるはずないもの。貴女がここへ、来るはずないもの。身勝手な理由で、一方的な言葉で、エゴイスティックな感情で、貴女を傷つけようとした私のところへ、貴女が現れるはずないもの。それは、世界中の、どんなに寛容な神様だって、赦しはしない。
こつり。私の見ている偶像は、殊更大きく足音を鳴らして、一歩を、私の方へと踏み出した。「歩く姿は百合のよう」とは、日本で知ったことわざだっただろうか。殊更ゆっくりと、一歩一歩を確かめるような彼女の歩みは、そのスラリとした姿もあって、思わずポーっと意識が薄らぐ。「きれい」と、夢見心地で呟いて、私は廊下に立ち尽くしていた。
そして、気が付けば、目と鼻の先に、彼女が立っていた。
「ロイ、テル」
夢ではない。ようやく、目の前の出来事を、受け止めた。そうして同時に、私はまた動けなくなる。やや不機嫌な表情のまま、真っ直ぐに私を見据える瞳に射竦められ、体が言うことを聞かない。
「ロイ、テル」
霞んだ声で、彼女の名前を呼ぶのが、精一杯だった。
次の瞬間、彼女が私の視界から消えていた。はらりと揺れる朝焼けの髪。旅行鞄を廊下に投げ出して、彼女は私に抱き着いた。柔らかな香りが、朗らかな体温が、穏やかな感触が、私を包んでいた。
「ロイテル……本当に、ロイテル、なのね」
「……もう、私の顔、忘れちゃったの。どこからどう見ても、私はデ・ロイテルでしょ、パース」
耳元で、彼女が囁く。ああ、彼女だ。間違いない。いつも私に微笑んだ、デ・ロイテルだ。楽しかったこと、面白かったこと、色彩豊かな毎日を、音楽でも奏でるように語ってくれた、私の友人。たった一年の時間を、こんなにも鮮明に焼き付けてくれた、私の初恋の人。
視界がぐにゃりと歪む。夕焼けの廊下にはすでに焦点が合わなくて、ただただ、金縛りにあったように、震える体で、私は立ち尽くす。持ち上げた手を、彼女の背中に回す勇気は、私にはなかった。
何を言えばいいのだろう。こんなにも会いたいと願った。二度と会えぬと諦めた。きっとたくさん怒らせて、たくさん傷つけて、たくさん嫌な思いをさせて、散々身勝手な言葉を、感情を、想いを、一方的に投げつけてしまった彼女に、何を言えばいいのだろう。言いたい言葉はいくつもあるように思えたのに、けれど今この瞬間に、何を伝えなければいけないのかが、わからなかった。
彼女は何も言わない。ただ、背中に回った腕に力が籠って、より強く、抱き締められたことがわかった。彼女の温もりが、香りが、感触が、より鮮明になる。彼女の命のリズムすら、はっきりと感じている。それと反比例するように、私の視界は滲んで、霞んで、歪んで、ぼやけていった。今は、私を抱き締める彼女だけが、私の現実だった。
「……手紙、読んだよ」
どれくらいが経っただろう。噛み締めた歯の合間から、小さな嗚咽を漏らす私の背を、赤子でもあやすみたいに撫でながら、ロイテルは言った。
ああ、あの手紙は、読まれてしまったのか。私の感情は、彼女に知られてしまったのか。そう思うと、無性に恥ずかしくなった。頬の熱は、太陽の残り香なんかじゃない。
「でも、返事は書かなかった。パース、ひどいもん。私、いっぱい傷ついたんだから。……だから、返事をもらえなくて、貴女も傷つけばいいと思った」
ええ、貴女の言う通り。やはり、それは私の罪で、私への罰。
「……ごめん、なさい。ごめんなさい。ごめんなさいっ。勝手にいなくなって、ごめんなさい。何も言えなくて、ごめんなさい。あんな手紙を残して、ごめんなさい」
「……そのごめんなさいは、もう、聞いたよぅ」
くすりと、初めてロイテルは笑った。彼女の手が、ポンと私の頭を叩く。優しい響きに、ぽろぽろと零れていた涙が、止まっていた。
「私も、パースにたくさん、ごめんなさいを言わないと」
「いいえ、いいえ。何も謝ることないわ。悪いのは私よ」
「ううん、それは違うよ。違うんだよパース」
彼女の声が、耳をくすぐる。その調べに、私は意識を傾ける。
「ごめんなさい。何も気づけなくて、ごめんなさい。お返事を書かなくて、ごめんなさい。貴女に――貴女に、好きと言わなくて、ごめんなさい」
「……え」
涙の残る目を見開いた。彼女は今、何と言ったのだ。
「手紙ね、すごく嬉しかったよ。パースの気持ち、たくさんたくさん、伝わったよ。だから、今ね、私もちゃんと、貴女に伝えます」
ぐいと、ロイテルの体が離れた。日本にいた頃だって、こんなに近づいたことはない。鼻と鼻が触れるほどの距離。彼女の長い睫毛に触れるのではという距離。貴女の吐息すら感じる距離。穏やかな微笑み。茜の差す頬は西日かとも思ったけれど、もうすでに、陽は水平線へと沈んでいた。
きっと同じような顔を、私もしているんだろう。
「パース。私、貴女のことが好きです。それを伝えに、ここまで来ました」
……ああ。ああ。ああ。なんて、なんて。貴女は、そんな言葉を、私にくれるというのか。
この感情を、一方的なものだと思っていた。
私だけが抱き続け、身勝手にも彼女に押し付ける感情だと思っていた。
届くことはないと、伝えることはないと、叶うことはないと、そういう感情だと思っていた。
……ねえ、この気持ちは、この感情は、この心は、この願いは、この祈りは。
叶って、いいの。
「…ごめんなさい」
うまく、言葉が紡げない。そんな私に、ロイテルは眦を下げる。夕陽を残す、そして朝陽を先取る、そんな微笑みを、私へ向ける。
「もう、何のごめんだよぅ。パースの『ごめん』は、もう一生分聞いたって。……ねえ、だからお願い。『ごめん』以外のパースの言葉を、聞かせて?」
彼女に求められて、胸に手を当てる。私の語るべき言葉を、伝えるべき言葉を、探している。
……ううん。ううん。そんなの最初から、決まっていた。
涙が零れる。収まったはずの雫が、ぽろりぽろりと、干上がりかけた川を流れていく。けれど、その涙の色は、さっきまでのものとも、またこの半年で流したものとも違ったはずだ。
私の恋は、叶ったのだろうか。
いいえ、きっと叶えてみせる。一度は叶わなくて、届かなくて、伝えられなかった想いだから。たくさん傷つけて、傷ついた。
もう二度と、ごめんなんて言わないように。
貴女に伝える言葉を、そんな言葉で終わらせないように。
だから。彼女に言うべき言葉は、きっと最初から――ずっとずっと前から、決まっていた。
涙は止まらない。けれどようやく、私はまた笑って、貴女の名前を呼べるのだ。
「貴女のことが好きです。ロイテル、私は貴女に、恋をしています」
ロイテルの腕が、私へ伸びる。彼女にまた、抱き締められる。ふわりと包み込む香りに、温もりに、そして想いに、幸福の限りを感じている。
今度はその背中に、私も手を、伸ばすことができた。
百合においてパースさんは受け。