We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life.   作:Towelie

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「蛍ちゃん。これからデートに行かない?」

「でぇと? いまからゃ?」

 蛍は目を丸くする。

 だって、燐の頼みで仕方なくハラペーニョ味のピザをちょうど口に入れたところだったから。

 案の定、真っ赤に染まった舌と唇を金色のしゅわしゅわで癒しているときに突然燐が言ったことだったから。

 だから燐の言っていることがよく理解できなかった。

「うん今からデート。お腹も膨れたし、後は寝るだけってなんか勿体ないじゃない、せっかくのクリスマスだし。それとももう、眠たい?」

 燐は意地悪そうな笑みでそう提案してくる。
 確かにもう一般的には十分寝る時間になっていたが。

「んんー」

 蛍はコップの中で子猫のように小さな舌をぴちゃぴちゃとさせながら思案する。

 シャンメリーはコップの中でぬるくなっていたし、炭酸泡がぷちぷちと弾けて、火傷に余計なことをしている気がしてきたが。

 今はそれほど眠気はないし、蛍とすれば燐と一緒に居られればなんでも良かった。

「無理にとは言わないけどね」

 燐は念を押すように言った。

「あ、燐。ちょっと見て」

 蛍は腫れが引いたことを確認してもらう為、燐の前でべぇーと舌を出す。
 蛍の珍しい仕草に燐はくすくすと笑って、オッケーの合図(サイン)を指で作った。

「火傷してる感じはないみたいだったよ」

「そう……だったらいいんだけど……」

 燐に笑われるほど恥ずかしい思いをした蛍だったが、それでもまだしっくりこないのか、気難しそうな顔を浮かべながら口内で何度も舌を転がした。

(これが治らない事には行けそうにないなぁ……あ、そうだ!)

 燐はパッと目を輝かせると、何か閃いたのか手を叩く。

「蛍ちゃん、ちょっと冷凍庫借りるね」

 燐は蛍の返事を待たずに冷蔵庫の下の冷凍室の扉を開けた。
 中は何も入っていなかったが、それでもお目当てのものは見つかった。

 トレイを取り出して中を確認する、ちゃんと出来ているようだった。

「はい、氷。しばらくこれをしゃぶってればいいよ」

 燐は製氷皿から四角い氷を一つ取り出すと、蛍の口の中にころんと入れた。

「もぐもぐ……ひゃりがと燐。ひゃじめ(始め)からこうすればよかったねぇ」

 蛍は口の中をもごもごさせながら奇怪なお礼を言った。

「くすっ。ん、じゃあ行こっか、”善は急げ”ってねっ」

 言うが早いが、燐は蛍の手を引っ張った。

「ち、ちょっと待ってよ燐。テーブルの上、このままにしておく気なの」

 蛍の視線の先には白いテーブルクロスいっぱいに食べ散らかした後が散乱していた。

「あっ、だよね。食べ終わったら片づけるのが鉄則だよね。うっかりしてたよ」

 二人が食べ散らかしたテーブルは飲みかけのペットボトルやビニール袋が散乱していた。

 燐があっさり手を離したことに蛍は一抹の寂しさを覚えたが、顔には出さなかった。

「ちゃちゃっと片づけちゃおうか。蛍ちゃん、残りのピザはラップに来るんで冷蔵庫の上の棚に入れて置くからね。後でレンジかトースターで温めたら食べられるから」

「うん。わかった」

「あとは、ケーキだけど……これも冷蔵庫だね。飲み物も……冷蔵庫だね。ごめんね、残り物ばっかり入れちゃうけど、ちょっと持ち帰ろうか?」

「ちょっとづつ食べるから大丈夫だよ」

 燐は蛍と手分けして残り物をあらかた冷蔵庫に押し込んだ。
 物がなくなったテーブルクロスの上を燐はウェットティッシュで手早く拭く。

 家が接客業を始めてから、燐は以前よりもこういった家事に精を出すようになっていた。

 気になる汚れでもあったのだろうか燐は関係ないところまで掃除しだした。
 蛍はその様子に少しの違和感があった。

(あれ……今日ってなんだったっけ?)

 蛍は壁に掛けてあったカレンダーに今更のように目をやった。

 12月……25日……クリスマスか。

 本当に今更の事だったが今夜はイブでクリスマス当日だった。

 だから、燐はこんなにはしゃいでいるのかと理解した。
 まるで小さい子供みたいに。

 蛍は急に納得した気分になって、母親のような気持ちで(本当の母親の心情は分からないけど)テキパキと動く燐のことを見守っていた。

「これでいいかなっ。どう? 蛍ちゃん」

 テーブルの上どころか、床や冷蔵庫まで綺麗になっていた。

 短時間の間の燐の働きっぷりに蛍は感心しきりだった。

「あれだよね。燐って部室の掃除を一人でやってるんだよね。だからかな、掃除するのすごく上手くなってる」

「もう……それは言わないでよー、この前お母さんにも言われたしー」

「それは良いことだよ燐。掃除が得意なのは家政婦さんの第一条件だって、吉村さんが言ってたし」

「いやいや、家政婦さんとかないから。メイド服ならちょっと着てみたいけどね」

 燐は短いスカートを摘まんで気品がある風に持ち上げてみせた。
 スカートが短すぎて、しましまのパンツが少しだけ見えてしまっていた。
 
「燐がメイドになってくれるならわたしが雇ってあげるね」

「……蛍ちゃんち広すぎるから却下」

 サンタ姿のメイドはその見習いにすらならずに秒で退職した。

 ………
 ………
 ………

「燐、やっぱり車で来てたんだね」

 蛍はコートを着込んで外に出ると、自宅の家の門の前に止めてあった軽自動車を指さした。

「うん、なんかあれもこれもって持っていくことにしたら結構な荷物になっちゃったからつい
……」

 なぜか少し照れたように笑う燐に、蛍もにこっと微笑む。

「サンタさんの格好をしてるんだから、全部袋に詰めてくればいいのに」

 蛍の意見はある意味もっともだった。
 
「えー、そんなの恥ずかしいよー。それ完全に不審者じゃん」

「自分からそんな恰好しているのに?」

 蛍はわざとらしく首を傾げる。

「いやー、これは無理やりに、ね……それにこの恰好、蛍ちゃんに一番最初に見せたかったから、車で急いで来たのっ。なのにさ……」

「なのに?」

 拗ねた口調の燐に蛍はわけを尋ねる。

「なのに、蛍ちゃんってば、SADAKOみたいな恰好で出てくるんだもん。すっごくビックリしちゃったよぉ」
 
 SADAKOとは燐が良く見るホラー映画の主役兼、悪役のキャラで、人気作だからか続編が何本も作られていた。

 外伝やスピンオフも作られたが、どの作品も主役はSADAKOだった。

 燐はそのSADAKOを真似して、前髪で目元を隠しながら、両腕を、ぞぞーっと前に突き出した。

「あれは……ごめん。でも脅かすつもりはなかったんだよ。玄関先で物音がしたからそのまま出てきちゃっただけで」

「わたし恐怖で腰が抜けちゃったよぉ~」

「あはは、だったらお化け屋敷のアルバイトしようかな。燐が怖がるぐらいだし」

「あ、それいいね。夏休みに一緒にやろっか?」

「……うん」

 二人は約束をした。
 クレープの時は違って、まだ当分先のこと。

 よほどのことがない限り叶えられそうな、ごく自然な約束。

 それは蛍の心をほのかに温かくした。
 例えそれが叶わない遠い未来の話だったとしても。

 それでも嬉しかったから。

「で、燐は何のお化けの役がやってみたいの?」

「えっとぉ、わたしはねぇ……うーん色々あって迷っちゃうなあ。そうだ! 蛍ちゃん、わたし似合いそうなお化けとか妖怪って分かる?」

「うーん、そうだねぇ……」

 蛍が考え込む仕草をしていると、燐が好奇心のある眼差して見つめていた。
 その瞳を見て蛍はある妖怪の姿が浮かんだ。

「燐は、どっちかっていうと猫っぽいから……」

「うんうん」

 蛍の答えをワクワクしながら覗き込む燐は、サンタの格好をしているのにプレゼントを待つ子供のようだった。

(猫っぽい妖怪って言ったら猫又かなぁ? それとも猫娘?)

 猫のフレーズから導き出される妖怪は燐の知識では精々そのぐらいだろう。
 二体とも可愛い系の妖怪で通っているので、燐はどちらでも嬉しかった。

 だが、蛍の答えはあまりにも予想外だった。

「燐は……”ぬりかべ”とか似合いそうじゃない、見かけの割にしっかりしてるし」

「えぇー、ぬりかべー!? 猫要素全然ないじゃん」

 燐はあからさまに嫌な顔をした。

「でも、可愛いと思うよ。燐のぬりかべ」

「ぬりかべなんて可愛くないもん。ただの壁だもん」

 無邪気に笑う蛍に燐はぷいっと頬を膨らませた。

 へそを曲げる燐を見て、蛍は”天邪鬼”っぽくて可愛いなあと思ったが、本人には言わないでおいた。

 ………
 ………
 ………

「蛍ちゃん、ガス使ってなかったよね? 一応元栓は閉めたけど。エアコンもファンヒーターも止まってたし、水道は……さすがに破裂することはないとは思うけどちょっとだけ水、だしておこうか?」

「うん。そのほうがいいかも」

 燐は、分かった、と返事をすると、走って蛍の家の玄関に戻ると、キッチンの蛇口を捻った。
 ちょろちょろと細い水の線が排水溝へと流れていく。

 庭にある蛇口は前もって布が巻き付けてあるので、そう簡単に破裂することはないと思う。

 あらかた点検し終わったのか、燐が髪を揺らしながら玄関から出てくる。

「後は、燐がちゃんと確認したなら大丈夫だよ。わたし燐のこと信用してるし」

「あはっ、蛍ちゃんに頼りにされるのは嬉しいんだけどね、今日みたいなのがあったらやっぱり心配だよ~。何かあった後じゃ大変なんだし」

 顔は笑っていたが、蛍の思っている以上に燐は心配なようで、蛍の家の周辺をペンライトで照らし出していた。

「今日はたまたまだから」

「本当に?」

「本当だって。それより燐、早く行こう。早く行かないと夜が明けちゃうよ」

 蛍が手に持った水筒を前後に揺らしながら、少し急かすように燐の背中に呼びかける。

「まだ夜明けはそこまで近くないよ蛍ちゃん。冬だからね」

 燐は玄関扉が開かないことをもう一度手で引いて確認すると、ようやく門の外まで戻ってきた。

「はい、家のカギ。門のカギは蛍ちゃんが閉めて」

「うん」

 蛍は通用口の門を手わされたカギで締めると、きちんと閉まっているか燐が動かして確認した。

「これで大丈夫だね」

「そうだね」

 蛍と燐は顔を見合わせた。

「燐、デートっていうかこれってドライブだよね。どこまで行くの?」

 夜と変わらない色をした深い青と白のツートーンカラーの軽自動車を見つめながら蛍が尋ねる。

「それは着いてからのお楽しみ、だよ」

「お楽しみ……?」

 人差し指を立ててウィンクする燐はやはり楽しそうだった。

(でも、はしゃいでいるのは燐だけじゃないね。わたしだって楽しんでいるんだこの時間を)

「どうしたの蛍ちゃん。やっぱり眠い?」

 顔を覗き込む燐に、蛍は慌てて首を振る。

「だから大丈夫だって言ってるでしょ。それに燐が運転するんだからわたしが仮に眠っても問題ないでしょ」

「それってフラグ?」

「もう、行くなら早く行こ。燐にはそう言ったけど雪が降らないとも限らないし」

「そ、そうだねっ、山の天気は変わりやすいっていうもんね」

 慌てた燐の言葉に蛍は一瞬眉をひそめる。

「今から山に行くの?」

「山っていうか、なんと言うか……」

 燐ははにかんでほのめかすと、運転席のドアノブに触れる。

 ぴっ、と小さな音がして、ドアミラーの開閉と共に車内から生き返ったような明かりがぱっとこぼれおちる。

 それを合図に少し気を遣ってドアを開けると、燐と蛍はコッソリと車に乗り込んだ。

 ()()()()()()と車に乗るのはこれが初めてということはなく、月に一度程度は助手席に乗せてもらっていた。

 だが、まだ燐は無免許なので日中を大っぴらにということではなく、もっぱら夜、それも今日のような深夜で、決められたルートだけの限定的なドライブだった。

 だから、きっと今夜も同じルートなのではないかと思っている。
 それでも蛍は燐と一緒のドライブが好きだったから同じ場所でも問題はなかった。

 
 燐はシートベルトを締めると、運転上の不備はないか指先で一つづつ確認をする。

 これは無免許運転を許可してくれた母親との約束ごとだった。
 蛍は大変そうにその様子を固唾を飲んで見守っていた。

 でもこれは、教習所では必ずやることであり、別段おかしい訳ではない。

 むしろこういった運転前の点検を疎かにするからパンクやエンジントラブルのような単純なミスが起きるのだ。

 燐だってあの時みたいなガス欠はもう懲り懲りだし、十分に点検をするのには異論はない。

 その為の自家用車なんだし、ただ闇雲にアクセルを吹かして乗り回せばいいというわけじゃない。

 そういった基本的なことを燐は免許を取る前から学んでいたので、その時が来たら免許は簡単に取得できるだろう。

 もっとも免許を取るのにはお金が掛かるし、何より時間が必要だった。


 フロントガラスの余白に月が映り込んでいた。

 蛍は安心しきった顔で月を見上げると、シートベルトの帯を締める。
 バックミラーで自分の顔を覗き込むと、前髪が少し気になるのか、指で軽く横に流した。

 燐も懐かしい眼差しで月に微笑んだ。
 だって月はいつでも二人の味方だったから。

 燐はスタート前の安全点検を終えると、サイドブレーキを外して、シフトレバーをドライブに入れる。

 こんな当たり前なことさえあの頃は知らなかった。

 あの時はまさか自分がこうやって日常的に運転することになるとは夢にも思わなかった。
 だからまだ、夢の続きをしているような気がしている。

 現実を忘れているわけじゃないけれど。

 もう一度、後方確認をした燐は車の周辺に誰もいないことが分かると、少し慎重にアクセルを踏み込んだ。

 寝静まった住宅街に、低いアクセル音が唸り声をたてる。

 車はやや緩慢な速度で蛍の家の前から発進する。

 流れる黒い背景に蛍は自分の家を見る。

 何の思い入れのない黒い屋根の家があるだけ。
 他は取るに足らないものしかない。 

 歪に繋ぎ合わされてやたらと部屋が多くなっただけの母屋。

 歪んだ情念を吸い込んだ奇妙な形の面が飾られていた、冷たい廊下(面は今はもう飾っていない)。

 何かをひた隠すように、遠くに作られた離れ。

 それらが視界から黒く遠ざかっていく。
 あたかも時の流れから切り離されていくように。

 近いうちにこの家から自分は出ていくだろう、でも、何の後悔もない。
 自分が住みたい家ではなかったのだから、至極当然のことだった。

(わたしは三間坂家を捨てて、燐と一緒に暮らすんだ……)

 それは望んでいたことだったが、なぜだか急に寂しくなった。
 この家に住んでて良かったことなんてそれこそ一つもないのに。

 でも、もう少しだけ。

 その時が来るまでは大事に使っておこう。
 この家には新たな役割があるのだから。

 ………
 ………
 ………

 迷路のような黒い垣根の間を軽自動車が通り抜ける。

 深夜の走行は、”あれ”に追われた時のことを思いだして、まだ少し気味の悪い思いがする。

 でも、脇から這い出てくるものも、下卑た視線でこちらを睨むものもいなかった。

 信号機のない十字路を右折して県道に出ると、燐は蛍の予想とは違う方向にウィンカーを出した。

「あれ? 燐」

「あ、ごめん。忘れ物しちゃったから先に家に寄ろうと思って」

「そういうことなら、わかった」

 燐は蛍に頷き返すと、細い路地に向かってステアリングを切る。

 角を曲がってすぐに分かるぐらいにきらびやかな照明の家があった。

「やっぱり、すごいよね」

「あはは、恥ずかしいからスイッチ切っちゃいたいんだけどね」

 他人事のように呟きながら、照明で飾られた自分の家の前で軽自動車を停めた。

 月明りよりも一際明るいイルミネーションの光景に、燐とは真逆の胸の高鳴りを蛍は感じていた。

「ちょっと待ってて、すぐに戻ってくるから」

「うん」

 燐は素早く運転席から降りると、エンジンを掛けたまま家の玄関の方へと駆けて行った。

 一人取り残された蛍は窓の外に意識を向ける。

 青白い月とイルミネーションに彩られた、クリスマス仕様の可愛い青いドアのパン屋さん。

 それはおとぎ話の一ページのようだった。

 だが、じっとイルミネーションを眺めていると燐の指摘した通り睡魔が襲ってくる。
 
 瞼が妙に重い。
 蛍は唇を噛んでなんとか耐えしのいだ。

(燐……忘れ物って言ってたけど、一体なんなんだろう)

 なんとなく分かってはいたが、深くは考えなかった。
 それよりも睡魔の方が数段手ごわかったから。

 ──どれぐらい待ったのだろう。

 蛍は何度も欠伸をかみ殺して燐が戻ってくるのを今か今かと待っていた。
 駅前で待っていた時は全然苦じゃなかったのに……。

 きっと眠気のせいだと蛍は目を擦りながら思った。

「燐……わたし、もうダメ、かも……」

 蛍がとうとう睡魔に負けそうになり、うとうととし始めたとき、微睡んだ脳裏に急に浮かびあがった疑問。

 それは友達の家のことなのに、何故か今まで考えたことのない事柄だった。

(燐の家って前に誰が住んでいたんだっけ……?)

 小平口町はさほど人口の多くない町だ。
 町に関心のない蛍でも住んでいた人の苗字ぐらいは覚えているはずだった。

 なのに不思議と思い出せない。

 名前でなくても顔、もしくは性別ぐらいは普通に分かりそうなものなのに。

 引っ越しをしたとか、持ち主が亡くなったとかも聞いたことがない。
 それどころかいつから空き家になったのかも。

「そういえば、この町の人口って、あんまり変わってないんだよね」

 中学校の図書室にあった郷土史の本で初めて知ったことだ。
 あの時は優先したいことがあったので、特に気にも留めなかったけれど。

 新しくこの町に越してきた込谷家と、いつの間にか住人が居なくなって空き家となった家屋。

 ……このことはなにか関連性があるのだろうか。

 霞がかった今の蛍の思考では何も形作ることができなかった。


 そうこうしていると、蛍の視界の先にサンタ姿の少女が息を弾ませているのが見えた。

 何か荷物を抱えながらこちらに近づいてくる。
 それは紛れもなく燐だった。

「ごめんー、待った?」

 燐はまず蛍の安否をウィンドウ越しに確認すると、荷物を持ったまま、トランクのドアを器用に開けた。

「ん……だいじょぶ、それほど、待ってないよ……」

 明らかに眠そうな声を出す蛍を見て、燐は小さく微笑む。

「ごめんね、準備に手間取っちゃって」

「ううん、平気だよ」

 燐に気遣ってもらえるのは素直に嬉しい。
 
 本当の意味で気を遣ってくれるのは燐だけだったから。

 だからこそ蛍は完全には眠ろうとはしなかった。
 けれど、ちょっとだけうたた寝してしまったかもしれない。

 そこのところは胸中で反省した。

「じゃ、今度こそ行こうか。蛍ちゃん」

「うん」

 燐が運転席に乗り込むと、玄関の外からこちらを見る人影に蛍は気が付いた。

 イルミネーションが逆光になって顔は見えないが、多分、燐のお母さんだろう。
 
 こちらに向かって大きく手を振っていた。
 蛍も窓越しに小さく手を振り返す。

 大した挨拶はできなかったけど、どうせ後数時間後にはパン屋のバイトで会うのだから、その時にすればいいと思っていた。

 だから今は手を振るだけにした。
 燐はため息をつきながら、小さく手を振った。

 軽自動車は再び走り出す。
 
 月が照らす、その道の先へ。




For example, on the moon stairs again.

「はっ、はっ、はっ」

 

 紅白の派手な格好の少女が走っていた。

 白い息を弾ませながら、ちらりと後ろを振り返る。

 

「はあっ、はあっ、はあっ」

 

 そのすぐ後ろを同じ格好した少女が懸命についてきていた。

 

 雪の様に白い息を宙に何度も吐きだしながら、少女たちはホテルの脇の駐車場まで小走りで戻ってきた。

 

 軽自動車のエンジンはかかったままになっており、二つの丸いヘッドライトがサンタ姿の少女たちを正面で捉えていた。

 

 先に着いた燐はドアを開けると、すぐさま運転席に滑り込む。

 少し遅れて蛍も助手席のドアを開けて乗り込んだ。

 

 それぞれ乗り込むとすぐにドアを閉める。

 

 狭い軽自動車の中はエアコンが効いていて、外とはまるで別世界だった。

 

 ベージュのファブリックシートに突っ伏した燐は、やっと一息つくことができた。

 

「ふわぁー、やっぱり外は寒いよねぇー。顔に針が刺したみたいだよ~」

 

 燐は凍り付いた顔をもみほぐすように頬を手で包み込んだ。

 

「だ、だよね。やっぱり山の上って、だいぶ寒いんだね。さっき、雪、みたいの、あったし」

 

 蛍は荒い息をつきながら、胸の中心に手を乗せていた。

 冷たい風が肺に苦しかったのか、豊かな胸を上下させていた。

 

「えっ、雪!? それってマジなのっ!?」

 

 燐は素っ頓狂な声を上げて、窓にへばりつくようにして辺りの様子を窺った。

 

 だが、蛍の言うような雪のようなものは今のところ軽自動車の周りには見当たらなかった。

 

「ごめん、見間違いだったかも」

 

 燐の慌てっぷりに気を悪くした蛍がすぐさま訂正する。

 

 本当に残雪があるのなら、峠を登る前に何らかの注意喚起がなされているはずだし。

 

「あはは、まあそうだよね。わたしも雪は見てみたいけど帰り道にはあって欲しくないなー。この車ってまだ冬用のタイヤじゃないしね」

 

 暗い空を燐はガラス越しに睨む。

 今のところ雪が降ってくる兆候は見られなかった。

 

 安堵の息を吐くと、燐は焦燥感に駆られたように素早くシートベルトを締めて、車の周辺をミラー越しに確認する。

 

 駐車場には宿泊客と思われる車が数台あるが、白い帽子を被った車は今のところ見当たらない。

 

 蛍の勘違いでつい焦ってしまったがただの杞憂ではないと思う。

 

 特に、峠の頂上付近は地上と違って寒さが全然違っていたからこれからどう崩れるかは分からない。

 

 ここから早めに抜けるのが得策だと思った。

 

 サイドブレーキに足を掛けようとしたその時、ポケットの膨らみが熱を帯びているのを感じとって、燐は慌ててそれを取りだした。

 

(あ、これかぁ。そういえば帰り際に渡されたんだった)

 

 燐の手の中のそれは配達先のホテルの従業員から渡されたもので、手に取るとそれは熱いぐらいに温められていた。

 

「蛍ちゃん、はいこれ。差し入れでもらったんだ」

 

 燐は労いの言葉と共に、まだ温かい缶コーヒーを蛍に手渡した。

 

「燐、ありがと……きゃっ!」

 

 蛍は燐が普通に手渡したので何気なく缶を掴んでしまい、予想外の熱さに思わず缶を放りなげてしまった。

 

「あ……」

 

 狭い車内を200グラムのスチール缶が宙を舞っていた。

 

 なすすべなく、そのまま弧を描いて後部座席まで落下していくと思われたが。

 

「っと」

 

 燐は手を伸ばして見事にキャッチすると、軽く微笑んでもう一度蛍に手渡す。

 今度は気遣うように掌の上にそっと乗せた。

 

「熱いなら手の中で転がすといいよ、蛍ちゃん」

 

 ちょっとした注釈も添えて。

 

 蛍は申し訳ない気持ちで頷くと、燐に言われた通り、掌に馴染ませるような動きで、両手のあいだで缶を転がした。

 

 燐も同じように手の中で缶を転がす。

 二人はしばらくの間缶を回すことに没頭していた。

 

 手のひらがだいぶ熱さに馴染んだ頃、燐は先だってプルタブをそっと開けるとコーヒーをひとくちだけ飲んだ。

 

 程よく甘いが、少しがっかりした。

 外はまだ熱いのに、中の液体はそれほどでもなかったから。

 

 それを見た蛍も缶を両手で持って、恐る恐る口に近づける。

 

 蛍も同じ反応だったようで、缶のラベルを眺めながら小首を傾げた。

 

「缶コーヒーってそれほど熱くないよね。缶は持てないぐらい熱くなってるのに」

 

「ねー。缶が熱いから中も熱々なの期待しちゃうよねー。火傷寸前の熱いコーヒーが飲んでみたいんだけどね」

 

「わたしはそこまでは求めてないかなあ。でも温いよりかはいいかもね」

 

 少し過激な燐の意見に蛍はくすっと苦笑してもう一口飲んだ。

 

「あ、蛍ちゃん。クロワッサンあるけど食べる? 焦げ目がちょっと気になっちゃったから回収してきたんだけど」

 

「うん。燐も食べるでしょ」

 

「わたしは……今はいいや。雪が降る前に帰りたいしね」

 

 そういって燐は車を発進させようとした、だが目の前に半分こになったクロワッサンを差し出される。

 

「もう、蛍ちゃん」

 

 少し呆れた顔で蛍を見る燐。

 

「大丈夫だよ。まだ雪は降りそうにないし、燐もちゃんと休んだほうがいいよ」

 

「そう、かな?」

 

 燐はもう一度空の色を見る。

 上の方が濃い藍色になっているが、ちらちらとするものは落ちてこなかった。

 

「まあ、蛍ちゃんがそう言うなら間違いないね。蛍ちゃんの()()()()勘って大抵当たってるもんね。そういえば前の勉強会の時だって……」

 

(勘、か……そういえばこれも座敷童の力だった、のかな? だとしたらわたしはまだ……)

 

「………」

 

「蛍ちゃん?」

 

 急に黙りこくった蛍に違和感を覚えた燐が顔を覗き込んでいた。

 

「あ、ううん。なんでもないよ。さ、燐。ちょっと休憩しよ」

 

「う、うん」

 

 慌てた様子の蛍が少し気になったが、燐は蛍の提案に賛成した。

 

「かんぱいー」

 

 カンッ!

 

 スチール缶を重なり合わせた軽い金属音。

 それがベルの様な音色で車内に木霊した。

 

 蛍の家でもグラスを合わせなかったのに、何故か車の中でそれをやっていた。

 缶コーヒーを片手で持って。

 

 ぱりぱりと香ばしい音とふくよかな珈琲の香りが二人の間に広がって、それはふんわりと車内にも充満する。

 

 暖かな味と香りが燐と蛍の口内を幸福にさせた。

 

「んー、労働の後のパンは格別だねぇ」

 

「ふふっ、本当にね」

 

 小さな軽自動車の中は二人だけのささやかなカフェテリアとなっていた。

 もっともメニューは、缶コーヒーと半分の焦げたクロワッサンだけだが。

 

 ミルク少な目の微糖のコーヒーはさっくりとしたクロワッサンととても相性が良かった。

 

 燐はコーヒーを飲み干して空き缶をドリンクホルダーに置くと、助手席の蛍に向かい直して申し訳なく両手を合わせた。

 

「ごめんね。普通にパンの配達を手伝わせちゃって。後でちゃんと埋め合わせするから」

 

「いいよ燐。車で来たって言ってたから、もしかしらって思ってたし、それに」

 

 蛍も最後に残ったクロワッサンを口に入れると、少し温くなったコーヒーをこくこくと飲み込んだ。

 

「それに、結構楽しかったから。まあ、ちょっと恥ずかしかったけどね」

 

 蛍はスカートの先をちょっと摘まんでみせる。

 

 紅白のスカートから覗く、蛍の健康的な太ももを包み込むストッキングが、艶めかしい陰影と色気を醸し出していた。

 

 燐はいつものワンポイントのあるオーバーニーではなく、服とお揃いの紅白のオーバーニーを着用している。

 

 普段の制服と比べて二人とも少し丈が短いスカートを着用していた。

 夜であったせいかそれほど気にならないようだった。

 

「その割には結構ノリノリだったんじゃない? ()()()()()()()()挨拶も出来てたみたいだし」

 

「あれは……燐がいきなり言うからつい、つられちゃっただけで……」

 

 燐は届け先のホテルに着くなり、焼きたてのパンを乗せたトレイを持ちながら、ホテルのロビーで開口一番。

 

「Merry Christmas!!!」

 

 やたらと良い発音で燐が叫んでいた。

 

 打合せなしの突然の出来事に蛍はホテルの従業員と一緒に呆気に取られていたが、燐が隣で合図を送ってきたので、仕方なく蛍も続いた。

 

「め、めりーくりすます……」

 

 蚊の鳴くような声。

 それが蛍の聖夜の挨拶だった。

 

 燐のおかげで顔から火が出そうなほど恥ずかしい目に合ったが、蛍は今日がクリスマスであること、そして特別な日であることを嫌というほど理解することが出来た。

 

 実際、子供の頃と違ってもうそこまでの特別感がなかったから、これは色々な意味での思い出になったと思う。

 

 それに燐とクリスマスはさらなる特別感を出していた。

 またこうして一緒にいることが奇跡に近いことだったから。

 

 それは(なお)の事だった。

 

 神のなど、まったくと言っていいほど信じていない蛍だったが、この日だけは特別に神に感謝した。

 

 この幸せが永遠であることをそっと願った。

 

「じゃあ、すごーく嫌だった?」

 

 見透かすような素振りで燐が聞いてくるので、蛍はちょっと言葉を詰まらせると。

 

「すごーくじゃないけど……燐が一緒だったから、それほどでもなかったけどね」

 

 四角い窓から外を見ながら、蛍は顔を赤くしてそう言った。

 

「本当? じゃあ来年もやろうねっ」

 

 燐は待ってましたとばかりに微笑むと、一度外したシートベルトを再度締め直した。

 それが出発の合図だと思った蛍は同じようにシートベルトを締め直す。

 

 蛍がシートベルトを締めたのを見て、燐はサイドブレーキを外した。

 

 軽自動車は人気のないホテルの駐車場からようやく動き出した。

 

 蛍は黒い景色を遠くに眺める。

 浮かんでいる月の上側がほんの少し欠けているのが見えた。

 

 きっと昨日の晩、ウサギに齧られたんだろう。

 ウサギは見た目と違って少し気が強いから。

 

 少し気の毒な月のことを蛍は、燐の次に慮った。

 

 

 ────

 ────

 ────

 

「なんかさ、食べてばっかりだよね。わたしたち」

 

 蛍はお腹が見えそうなほど大胆な紅白の服の上から少しお腹を摘まんで言った。

 

 冬の月は全てを見透かすように白かった。

 白い月が照らす道を、LEDのヘッドライトが走り抜ける。

 

 まだ街燈すらない下りの峠道は、そのまま落ちてしまうのではないかと思うほどの高さと闇が連なっていた。

 

「クリスマスだからいいんじゃないの? あとから運動すればいいわけだし」

 

 蛍につられて燐も片手でお腹の辺りを撫でてみる。

 視線は前に向きっぱなしなので、多分ここがお腹だろう。

 

 燐が想像してよりも少しぽよっとしていたので、少し顔が青くなった。

 

 真っ暗な道を燐はいつもの感じで車を走らせている、時間に正確なバスの運転手のような繊細さでもって。

 

 蛍は、助手席に身を預けながら安心しきった顔で燐の横顔を眺めていた。 

 

 真剣な燐の顔は、運転中だというのに思わず抱きしめたい衝動に駆られるほど綺麗だった。

 

 この頃の燐は走りに大分余裕が出てきたのか、ときおりこちらを見ながら冗談を言ったり、走行中に飲み食いが出来るほどにまでなっていた。

 

 燐の卓越した(と思われる)運転技術(ドライビングテクニック)は蛍だけではなく、母親も殆ど信用していた。

 

 まだ免許もなく、街灯もない真っ暗な峠道なので不安要素が全くないわけではないが、それでも特に注意するような点は見当たらない。

 

 燐は元から空間認識力が高かったのかもしれない、蛍はそう思っていた。

 

 部活の時なんかでも燐はエース級の技術を持ちながら、チーム全体を把握する司令塔の役割も兼ねていた。

 

 キャプテンになるのだけは頑なに拒んでいたが、それもきっと時間の問題だろう。

 

 夏の頃とは違った安定感が蛍をまた眠りの園へと誘おうとしていた。

 

 登り道ではなんとか耐え忍ぶことが出来たが、身体を動かした後、軽食までとってしまったので、また睡魔が蛍を襲ってきていた。

 

 燐は、何度も瞬きをする蛍の様子に気が付いて、軽い口調で声をかける。

 

「蛍ちゃん、寒くない?」

 

「ん。だいじょうぶだよ。だってこの車……あ、なんか別の名前があるんだっけ?」

 

 蛍は眠気を誤魔化すように違う話題を燐に振った。

 

「ノクちゃん。ノクターンブルーの色だから」

 

 あの夜の世界で、勝手に使ってしまった軽自動車と同じ車種を燐──込谷家は購入していた。

 

 偶然かどうかは分からない、もしかしたら燐が薦めたのかもしれない。

 

 燐は運転したことがあるから。

 同じ車種の車を。

 

 燐は母よりも少し早くこの軽自動車(グレード)に乗りなれていたから。

 

 だが、全て同じというわけではなく、フロント周りや内装、あと何よりボディーカラーが違っていた。

 

 畑の横で乗り捨てられていた車はミントグリーンの美しい光沢が印象的な車だった。

 

 込谷家が所有して、燐が運転している車はホワイトの2トーンルーフであることは変わらないが、メインカラーは深海や夜を思わせる深い青、”ノクターンブルー”。

 

 その色でコーディングしてあった。

 

 燐が言うには、母が甘い感じのパステル調カラーが好きではなく、大人っぽい落ち着いた感じ(モノトーン)が自分に合っているとして選んだものらしかった。

 

 だが、車種もモノトーンなボディーカラーもパンの配達には適しているとは言えない。

 そもそもそんな気は初めはなかったのだから当然なのだけれど。

 

 定番の白のライトバンにすればよかったと母は後悔していたが、まだこの車のローンが残っている内は買い替えることも、新たに車を買うこともできなかった。

 

 大して荷物は積めないと思われたが、後部座席も利用すれば意外と容量はあるみたいだし、運ぶ量を考えたら、今のところ問題はない。

 

 この先、注文が増えなければの話だが。

 

(燐はあの時の車、結構気に入っていたよね。出る時お礼言っていたし)

 

 燐だけでなく、蛍もあの車が気に入っていた。

 

 だからこそ燐が同じ車を選んでくれたことが嬉しかった。

 

「やっぱり4WDは坂道楽だよね。セカンドに入れる必要もないし。代わりに燃費は落ちるってお母さんはちょっと神経質になってるけど、その分安定性はあるし、しかもこの車はシートがぽかぽかのヒーターになるしね」

 

 カタログのような燐の言い回しに、蛍はつい眠気を忘れて噴き出してしまう。

 

 燐の言う通り、ベージュとネイビーのファブリックシートの底面は何もしていないのに、ほんのりと暖かくなっていた。

 

 運転席と助手席だけに備わっている機能だが、おかげでそこまでエアコンを強くする必要がない。

 

 冷え性の蛍にはうってつけの機能だった。

 

「燐。ずいぶん運転に慣れたよね? さっきから楽しそうだし」

 

 穏やかに運転する燐の横顔に、蛍が最近思っていたことを口にした。

 

「あ、分かる? 最初の頃、お母さんになんでそんなに運転が上手いのかって聞かれたこともあったんだよ。今は何も言わないけど」

 

「それは、そうだよね」

 

 軽く言う燐に蛍は苦笑いする。

 

「だからゲームでちょっと慣らしたんだって言って、ごまかしたけどね」

 

 燐は舌を出してゲームのようにステアリングを軽く左右に揺らした。

 車も反応して小刻みに揺れる。

 

 蛍は困った顔でシートベルトを握っていた。

 

「でも実際に免許を持っている人ほど、車のゲームはあんまり上手くないんだって。でも不思議だよね、ゲームの世界の方が色々無茶な運転出来そうなのにね」

 

 少し寂しそうに言うと、燐はアクセルを気持ち多めに踏んだ。

 

 ぐうううん。

 

 エンジンの回転数があがって、音が少し変化する。

 

「あの夜もゲームみたいだったよね。燐じゃないけどわたしだってホラーゲームか映画みたいって思ってたよ」

 

「うんうん、かなりの無理ゲーだったよね」

 

「無理っていうかクソゲーだったよね……」

 

 感情のこもった蛍の呟きに燐は声を上げて笑った。

 

 二人っきりになるとこの話しばかりになってしまう。

 燐と蛍はあの三日間の事ばかり話し合っていた。

 

 あの時のあれはどうだったとか、あれはやっぱり違っていたとか、今となっては夢のような、それこそ取り留めのない話。

 

 でもそれは生きているからこそできることであって、そういう意味では今の二人は幸せだろう。

 

 今更話し合ってどうにかなるわけでもないが、それでも気持ちを共有できるのは二人だけだったから。

 

 二人はいくらでもこの話をすることが出来た。

 

「燐は、さ、その……小さい頃のオオモト様に出会ったでしょ。ほかに気になることあった?」

 

 蛍は少し言葉を選んで話しかけた。

 

 蛍が記憶している幼い頃のオオモト様は、男たちに乱暴されていた姿だったから。

 

 オオモト様に問題があるわけじゃないことは分かっているけど、この話になると蛍は決まって憂鬱そうな顔になった。

 

「うーん、そうだなぁ……パンを食べて、シナモンの粉が掛かっちゃったときは笑ってくれてたけど、後はねぇ……蛍ちゃん、オオモト様に何か聞きたいことでもあるの?」

 

「あ、うん……」

 

「例えばどんな事?」

 

「そうだね……じゃあオオモト様の名前とか」

 

 蛍が聞きたいことは別にあった。

 

 でも、上手く考えがまとまっていなかったので、とりあえず当たり障りのないことを口にしていた。

 

「名前ってオオモト様の?」

 

「うん、そう」

 

 素直に頷く蛍をちらりと見て、燐は考えを巡らせた。

 

(本名が”オオモト様”じゃ流石におかしいもんね。”座敷童”は概念って言ってたし)

 

 ”オオモト様”の呼び名はどちらかというと敬称な恭しい感じがするけど、”座敷童”の方は妖怪扱いというか、町の人に忌み嫌われている感じがする?

 

 どちらの呼び方も正しかったから、燐は困惑した。

 

「むー、毬に名前でも書いてあれば良かったんだけどねー」

 

 燐の家の玄関前にまだ手毬は置いてあった。

 オオモト様の毬で間違いないはずだが、何故か持って行かなかった。

 

 名前は……当然書いていない。

 その内取りにでも戻ってくるのだろうか?

 

 そしてそれは──()()姿で。

 

「燐~、オオモト様はそこまで子供じゃない気がするよ」

 

「えー、子供っぽかったよ。なんか気難しそうなお嬢様って感じだったし」

 

「へぇー、大人の方のオオモト様はお淑やかなのにね」

 

 蛍も燐も良く知っている”青いドアの家にいたオオモト様”は大人の女性だった。

 だが、燐が家に招待した”オオモト様”は幼い少女の姿だった。

 

 どちらも”オオモト様”に違いはない、同一人物なのだから。

 

(同じ人、かぁ……)

 

「どうしたの燐」

 

 燐が顎に手を当てて考え込む仕草をしたので、蛍は少し気になって声をかけた。

 

「あ、いやぁ。なんでもないぃよ~」

 

 何でもなくはない笑顔を作ると、燐は前を前を向いてステアリングを握りしめた。

 

 ここからはカーブが連続するはずだ、よそ見をしている余裕はなんてなかった。

 

(でも、町でぶつかりそうになったのって”大人のオオモト様”だったよね? 顔はよく見えなかったけど……)

 

 町で着物を着ている人なんてそうそう居ないはず。

 だからこそ印象に残っていた。

 

 顔は覚えてなくとも、着物はあの時と同じ柄だった……?

 

 写真でも撮って置けば蛍に見せることも出来たけど。

 

 もし、あれが()()()オオモト様だとしたら?

 

 そこに何の意味があるのだろう。

 

 わたしに……何を伝えようとしたんだろう。

 

 燐はつい運転中にも関わらず、答えの出ない考えに嵌まって頭を逡巡していた。

 

 そのせいでブレーキを踏むのがいつもより少し遅れてしまった。

 

「燐っ! 前っ!」

 

 蛍の叫び声で燐ははっと我に返る。

 

 白いガードレールがすぐ目の前に迫っていた。

 

「くぅっ!」

 

 燐は歯噛みしてブレーキを踏むと、ステアリングを目いっぱい切り出した。

 

 闇を切り裂くようなブレーキ音が峠に響き渡る。

 

 それでも燐はステアリングを切ることを止めず、なんとか切り返そうと懸命にコントロールする。

 

 その甲斐あってか、車は済んでのところでガードレールの接触を免れることが出来た。

 

 蛍はシートベルトを掴みながら、放心したように前を眺めていた。

 心臓の音がどくんどくんと早鐘のように鳴っていた。

 

 車が立ち直ったことに燐は安堵すると、平静を装うように蛍に笑いかける。

 

「ごめんごめん、つい考え事しちゃってた。蛍ちゃん平気?」

 

「う、うん」

 

 そう言いながらも蛍の手はシートベルトをぎゅっと握っている。

 

 燐は心の中で自分を軽蔑しながら、再度愛想笑いを浮かべた。

 

 …

 ……

 ………

 

 軽自動車は緩やかにカーブを曲がっていた。

 

 燐は運転に集中するため余計な事を考えない様、唇を軽く噛んでいた。

 

 蛍は眠気と少し重い空気を紛らわすべくラジオをチューニングしていた。

 軽快でハスキーな女性DJのトークと低いBGMが暗い車内に少しだけ色を付ける。

 

 蛍は一瞬燐の顔を見た後、独り言のように前を向いてつぶやいた。

 

「あのDJって結局誰だったのかな」

 

 二人の間でもう何度もした憶測。

 

 あの世界で燐と蛍以外、唯一会話が成立していた気のする、あの不思議なDJのこと。

 

 ”DJゴドー”と名乗っていた奇妙な男のラジオをクラスメイトに聞いてみたが、やはりと言うか誰も知らなかった。

 

 ネット上のラジオでも該当するものもなく、SNSで呟いてみてもそれは同様だった。

 

 燐の持っていた携帯ラジオは壊れてしまったのか、電池を交換しても音すらならなくなっていた。

 

 だが、周波数はあの時のままで止まっていたので、その周波数は覚えているのだが。

 

「やっぱり、なにも聞こえないよね」

 

 蛍はもう一度チューナーを弄ると落胆するように言った。

 

 けれどもそれはもう幾度となく試したことだったから期待もなかった。

 

「だね。だってあれはあの世界、あの時だけのラジオだったんだろうし」

 

 燐は小さく肩をすくめる。

 それももう今更のことだった。

 

「”例えば月の階段で”、素敵な曲だったよね」

 

 蛍が紡いだ言葉はあの時初めて聴いて、そして二人で歌った曲のタイトル。

 

 悪夢の思い出の中の細やかな1ピースだった。

 

 何かしらの引っ掛かりがこっちの世界に残ってはないかと、燐と蛍は文化祭の時みんなの前でこの歌を披露してみることにした。

 

 二人の頭の中で歌詞とメロディーは大体残っていたが、それだけでは曲になりそうになかったので、足りない所は意見を出し合って独自で曲を形にした。

 

 何で二人で歌を披露することにしたのかとクラスのみんなに聞かれたとき燐は。

 

 ”それは、わたしと蛍ちゃんの復活祝いだからだよ”と、さも当然のように答えていたが、本人たち以外のクラスのみんなは訳が分からないみたいに首を傾げていた。

 

 その代わり何かを祝福するような微笑ましい感じの拍手を貰えた。

 

(まだ何の曲やるか発表してないんだけど……)

 

 燐は不思議そうに首を傾ける。

 蛍は俯いたまま燐のスカートの端を掴んでいた。

 

 皆の前で発表した以上、やれる範囲の妥協はしなくないと思った二人は、(蛍は成り行きから仕方なくだったが)手芸部の子に頼み込んで今時のスクールアイドルのような、レースがかったお揃いの衣装を身に纏って、当日壇上に現れた。

 

 燐はみんなの声援に手を振って答えたが、蛍は恥ずかしがって手をもじもじとさせているだけであった。

 

 だが、スポットライトが二人を照らし、半分は自作した”例えば月の階段で”のイントロが流れ始めると、意外なほど蛍の緊張は和らいだ。

 

 それだけこの曲は好きだったし、このためにいっぱい練習していたのだから。

 何より燐と一緒に歌うことに蛍は充足感を見出していたから。

 

 ──だから声は少しも震えなかった。

 

 蛍と燐はお互いの手を取って声を合わせた。

 

 練習したときとは違って、大勢の前で歌う緊張感に蛍は何度かキーを外すことがあったが、その度に燐がフォローした。

 

 蛍は感謝の念を心の中で燐に送った。

 想いが届いたのか燐はそれを情熱的な歌声で返す。

 

 二人の合唱は盛大な拍手の中で幕を閉じた。

 

 当然の様にアンコールの声が上がったが、他にレパートリーを考えていなかったので、また同じ歌を歌った。

 

 今度はみんなにも覚えてもらったのか、最後の方は大合唱になっていた。

 

 その日限りのデュオだったが、意図せずして週明けは二人の話題で持ちきりになっていた。

 

 結局この曲を知っている人は誰もいなかった、ということが分かった。

 

 収穫はそれだけだった。

 

「あの時はすごく興奮したよねー。もっと歌いたいぐらいだったし」

 

 燐はステアリングを握りながら、軽く鼻歌を鳴らす。

 

 それを微笑みながら助手席で聞いていた蛍だったが、やがて燐のメロディーに合わせて口ずさむようになった。

 

「答えは──いらない」

 

「光が──ゆれて夢のせかい──」

 

 二人のハーモニーが夜に染められた車内にしっとりと流れる。

 

 伴奏も観客もない二人だけの二人のためだけのライブ。

 

 蛍は缶コーヒーの空き缶をマイクに見立てて歌っていた。

 燐も真似して片手で……は、止めておいた。

 

 蛍がスチール缶のマイクを燐に寄せる。

 

 二人は頬が密着するほどの近さで歌を奏でていた。

 

 終わらない夜の車内のラジオから流れてきた抒情的なメロディーは、今や二人だけの新たなメロディーとなっていた。

 

 それは初めて歌ったと同じ高揚感を確かに思い起こさせていた。

 

「いえーい! はい、蛍ちゃん!」

 

 燐と蛍は今までで一番の歌声を響かせると、感極まった燐が左手を差し出してくる。

 蛍は一瞬考えたのち、おずおずと燐の手ちょこんと触れた。

 

 そっと触れるだけの勢いのない軽いハイタッチ。

 けれども二人の絆は確かなものだった。

 

「ねぇ、蛍ちゃん。この曲でアイドルデビューしてみない? 蛍ちゃんとなら結構いけると思うんだけどな」

 

「アイドルなら燐ひとりでやればいいと思うよ。わたしは燐と違って歌も踊りも自信ないし可愛くもないから」

 

 燐が()()その話をするので、蛍はため息交じりに答えた。

 

「蛍ちゃんは可愛いし、やればなんでも出来るっていつも言ってるのに。それに文化祭の時だってちゃんとやれてたじゃない」

 

「あれは燐と一緒だったからだよ。わたしひとりじゃ何もできないよ」

 

 蛍は膝の上で指を弄ぶ。

 

 その様子に蛍は案外満更でもないものを感じとった燐は、もう一押ししてみた。

 

「でも蛍ちゃん。最近ひとりで山に行ったりしてるじゃない。山登りもアイドルも同じだって。初めはすごく億劫でも登ってしまえば案外楽しいもんでしょ」

 

「それは……否定しないけどね」

 

 ちょっと雑な燐の言い回しに、蛍は困惑しつつも理解を示していた。

 

「でしょ? だからダメもとでオーディション受けて見ない? 学生限定のご当地アイドル募集してるって学校の掲示板に貼ってあったし」

 

「わたしもそれ、見たよ。クラスでも話題になってたよね」

 

「そうそう。優香が一緒にやらないかって誘ってきたけど、わたしは蛍ちゃんとじゃないと出ないって断ったけどね」

 

「えー、優香ちゃんとなら良かったんじゃない。わたしと違って優香ちゃん物怖じしないし」

 

「ダメダメ。優香と組んだら結局漫才になっちゃうしね。わたしは……おっとと、蛍ちゃんと、一緒にアイドルやってみたいんだ」

 

 燐は慌ててハンドルを右に切った。

 またおしゃべりに夢中になっていたせいか反応が遅れてしまっていた。

 

 蛍は思わず助手席の手すりにしがみ付いてバランスをとる。

 下り坂で少しスピードが乗り過ぎているかもしれないと思った。

 

 車が無事に曲がれたことにほっと胸を撫で下ろすと、手を元の膝の上に置き、小さく笑って燐に答えを返す。

 

「燐がそこまで言うなら、いいよ。でも、オーディションに落ちても恨まないでね」

 

「大丈夫だよ。わたしと蛍ちゃんなら絶対にオーディション受かるって!」

 

「それも直感?」

 

「うん!」

 

 迷いなく即答する燐に蛍はやれやれと肩をすくめた。

 

 でも、少し胸が暖かくなった。

 

 

「ねぇ、燐。わたしは”普通”になれると思う?」

 

「蛍ちゃんは別段”ふつー”って感じはしないなぁ。だってすごく綺麗だし、性格もとっても可愛いしね」

 

「もぅ、燐……そーゆーことじゃなくて」

 

 蛍が顔を赤くして反論する。

 

「わたしが言いたいのは”普通の子”、のことだよ」

 

 そう言うと蛍は顔を赤くしたまま押し黙ってしまった。

 

 やっぱりそっちの事かと燐は小さく息をつくと、その先が直線であることを確認したのち、少しスピードを緩めて蛍に笑いかけた。

 

「オオモト様が言ったことだったよね、確か」

 

「うん」

 

「座敷童の力が発揮されるのは少女のうちだけ、だから座敷童って呼ばれてるって……」

 

 青いドアの家でオオモト様が蛍と燐の前で話してくれたこと。

 それは二人の脳裏に鮮明に残っていた。

 

「でも……わたしにはその実感がないの。普通に近づいていることにも幸福を呼ぶ力がなくなっているかどうかも自分じゃわからない」

 

 そう言って蛍は燐の顔を覗き見た。

 

 蛍に見られていることは知っていたが、今の燐には蛍の方だけを見ることが出来ない。

 

 前方に意識を集中しながらも、蛍の言いたいことを理解した燐は、言葉を選んで話すことにした。

 

「ごめんね、わたしも蛍ちゃんのこと見た目だけじゃわからないんだ。芯の強い頑張り屋さんなのは分かってるんだけどね」

 

 燐の精一杯の気遣いに蛍はくすっと微笑む。

 

 でもきっと燐は分かっている。

 それを言わない燐の気持ちも分かるから、蛍もそれ以上は追求しなかった。

 

「そっか、じゃあさ、もしなにか変化があったら教えてほしいんだ。どんな小さなことでもいいから。だってわたしは燐しか頼れる人がいないから……あ、友達としてでね」

 

 蛍も気を遣った言葉を返す。

 そこには口外の想いも含まれていた。

 

「うん、分かってるよ蛍ちゃん」

 

 燐も蛍の目を見て微笑み返すと、すぐに前方に視線を戻した。

 下るだけの帰り道はさすがに早いが、それでもまだまだカーブはあるから。

 

 小さいカーブをひとしきり下った時、ふとバックミラーの蛍が目に入った。

 

 シートを少し倒した蛍が、頭を窓に当て、首を傾げていた。

 気持ちをひた隠すように黙ったまま流れる景色に目をやっていた。

 

 燐は、複雑な想いでその姿を見ていた。

 

 ………

 ………

 ……… 

 

 青白い月が軽自動車を照らし出している。

 

 夜の峠を走り続けた軽自動車はちょうど峠の中腹あたりで停車していた。

 ハザードランプを焚きながら、主人が戻ってくるのを静かに待っている。

 

 燐と蛍は車から外に出て、冷たい夜風に身を震わせていた。

 

 眼下に広がる景色は空と地上の境目さえも分からないほど真っ暗で、このまま夜が明けないのではと思わせるほどの怖さがあった。

 

 でも、夜明けは必ずやってくる。

 どんなに拒んでもそれは必ずやってくる。

 

 それはあの夜を知っている二人だからこそ分かることだった。

 

「蛍ちゃん、なんでここに来たかったの?」

 

 寒さで唇を震わせながら訊ねる燐。

 

 ここからの眺めは確かに良いが、峠の頂上の方がもっと高くて見下ろすことが出来た。

 だから蛍がわざわざここに来たい意味が燐には分からなかった。

 

「燐は……聞いてないの?」

 

 蛍はやや驚いたような顔を向ける。

 その視線はどこか落ち着かなかった。

 

「聞いてないって……?」

 

 蛍は何のことを言っているのだろう。

 燐には思い当たる節がなかった。

 

「そう……」

 

 蛍はなぜか寂しそうに呟くと、また崖の方に目をやっていた。

 

「蛍ちゃん、危ないよ!?」

 

 崖下から吹き上げる風に太ももを煽られた燐はたまらず声を上げた。

 

 ただでさえ冷たい冬の風が燐のオーバーニーと下着の間の僅かな隙間に刺すような冷気を送り込んでくる。

 

「大丈夫だよ燐。(前と違って)今はちゃんと手すりがあるから」

 

 怖くないのか、蛍は振り返って小さく微笑んだ。

 

 その言葉に燐は引っ掛かりを覚えて眉をひそめる。

 蛍はここに来たことがあるのだろうか。

 

 燐は降参とばかりに鼻を啜りながら、弱々しい声で蛍に声をかける。

 

「ほ、蛍ちゃん……そろそろ車に戻ろう。このままじゃ二人とも風邪ひいちゃうー」

 

 蛍は燐の声が届かないのか、柵にしがみ付いたままその真下に広がる崖を見つめていた。

 

「さっきからどうしたの、何か見える?」

 

 燐は蛍の傍まで寄るとおっかなびっくり崖下を覗き込んだ。

 

 視界のせいだろうか、崖下の景色は漆黒の闇に全て飲み込まれてしまったように、木々も山肌も黒々としている。

 

 吹き上がる冷たい風が地の底からの叫び声のように痛みとなって肌に纏わりつく。

 それは氷というより血の通っていない手に掴まれているようだった。

 

 燐は不可視の恐怖に慄いて、その場から思わず一歩下がった。

 

 そんな燐にも目もくれず、蛍は闇を凝視している。

 何かに魅入られたみたいに、一心に。

 

「蛍ちゃん……?」

 

 別人のような一途さの蛍に、燐は両手を胸元で合わせながら恐る恐る尋ねた。

 

「ここには何もいないよ、ただ……」

 

 そこで言葉を切ると、蛍は急にその場でしゃがみ込んだ。

 燐は慌てて傍まで駆け寄ると、蛍は他愛もない素振りで微笑んだ。

 

「ただ……ここから飛ぼうとしたことがあっただけ」

 

「……そうなんだ」

 

 蛍の告白に燐は一瞬目を見開いて膠着したが、すぐに表情を戻して小さく笑い返した。

 何でもない日常の出来事を聞いた時のような何気げなさをもって。

 

 燐の様子は明らかに初めて知ったものだ。

 だから蛍は燐に尋ねずにはいられなかった。

 

咲良(さくら)さん……燐のお母さんからは何も聞いてないの?」

 

「えと、うん」

 

「だからなんだ……」

 

 違和感の正体はこれだった。

 

 あの時、あの人は気付いていたはず、それなのに。

 

 蛍は胸の内で燐の母──咲良(さくら)にそっとお礼を言った。

 

 知らない所で気を使ってくれていたんだんだ。

 そう思うと、鼻の先が少しツンとなった。

 

 想いが溢れてこぼれ落ちそうになり、目元をそっと拭った。

 

「蛍ちゃん、やっぱり寒いんでしょ。さ、早く車に戻ろう」

 

 小刻みに震えながらも先に立ち上がった燐が蛍に手を差し伸べる。

 蛍は切なそうな瞳で燐を見上げると、冷たくなったその手をとった。

 

 そして蛍は燐の隣に立って、暗い冬の景色を眺めた。

 

 周りには立ち入り禁止の看板がそこかしこにあった。

 崖の周りの柵と同じく、蛍が夏の日に訪れたときにはなかったものだった。

 

 何とは言わなかったようだが、通報というか注意喚起のようなものはしてくれたようだった。

 

 蛍は改めて感謝した。

 友達とその友達の母に。

 

「だいじょうぶ?」

 

 その優しい友達が心配そうにこちらを見つめていた。

 

 自分の方がずっと辛いはずなのに、周りの事ばかり気にする優しい人。

 真っすぐで不器用で壊れやすくて、でもそこがすごく綺麗で。

 

 だから守ってあげかった。

 

 彼女を苦しめる全てのものから。

 

 なのにわたしは無力で、結局何も成しえていない。

 

 想いはここに置き去りになっているのに。

 それを取り戻しに来たいとも思わなかった。

 

 せっかく手に入れた幸せが失われるのが怖い。

 

 その弱さが再びここに来ることを躊躇させていた。

 

 蛍は確かめるように燐の手をとる。

 

 燐は少し驚いた顔をしたが、優しく握り返してくれた。

 

「なんでもないよ。ここからの眺めっていいなって思っただけ」

 

「そう? でも、うん……綺麗だよね。これと言って目に付くものはないけど。でも、こういうのって詫び錆びって言うんだっけ?」

 

「そうかもね」

 

 固く繋ぎ合った手は何よりも暖かった。

 あのまま全てを終わらせなくてよかった、蛍は本当にそう思った。

 

 手を繋いだまま車に戻ろうとしたとき、もう一度だけ蛍は振り返った。

 

 あの夏の日、今のような身を切るような寒さじゃく、うだるような暑さの後の、生ぬるい風が吹きつけていた時の事。

 

 ここでもう一人の人と出会ったこと。

 さりげない気遣いでわたしを導いてくれた人がいた。

 

(でも、あの人はきっとわたしの前に姿を現さない。それがあの人なりの優しさなんだろう)

 

 姿の見えない人に向けて蛍はそっと感謝の言葉を転がした。

 

 冷たい風がそれを拾って暗い空へと運んでいく。

 

 そのまま思いがあの人に届けばいいなと蛍は思った。

 

 

「そういえば蛍ちゃんこんな話知ってる?」

 

 蛍はぼんやりと月明りに浸っていた。

 だが、燐が無邪気に話しかけてきたことで現実に回帰してそちらに振り返った。

 

「あのね。お母さん夏ごろここら辺を通りがかったとき幽霊を見たんだって。蛍ちゃんはそういうの見たことある?」

 

 さも信じていないような顔で笑いかける燐。

 

「え、えーっと」

 

 それはきっと自分のことだとは言い出せず、蛍は困惑した表情で笑みを返す。

 

「わたし、蛍ちゃんが幽霊になったら嫌だからね」

 

 燐は蛍の両手を握って真っ直ぐに見つめる。

 

「燐」

 

 燐の瞳は月明りよりも綺麗で。

 蛍は目が離せなかった。

 

「だからもし幽霊になりたくなったら言ってね。わたしも一緒についていくから」

 

 燐はいつでも優しかった。

 

 その優しさが彼女を苦しめているのに、それでもその生き方を止めようとはしない。

 

 自分自身が幽霊になったというのに。

 

 少しだけ月に嫉妬した。

 月に染められた燐はすごく綺麗だったから。

 

 わたしは、そんな燐が好きだった。

 

 

 …

 ……

 ………

 

「ねぇ、蛍ちゃん……ものは相談なんだけどぉ……」

 

「ん、なぁに燐」

 

 燐が運転しながら、ちらちらとこちらを窺ってくるので、蛍は困ったように聞き返す。

 

「あのさ、手を繋いでも……いいかなぁ」

 

「えっ、手って。どういうこと!?」

 

 蛍は落ち着かせるようにシートに座り直すと、顔を赤くしてうつむく燐を少し訝し気に見た。

 

「なんか今日は蛍ちゃんとずっと手を繋ぎたい気分なんだ。自分でも変かなーって思ってるんだけどね」

 

「………」

 

「あ、でもでも。運転中は我慢するから。でも今日はなるべく手を繋いでいたいなーって」

 

 燐は愛想笑いを浮かべると、手を引っ込めてステアリングに乗せようとした。

 

 ──その時左手を温かいものが掴んでいた。

 

 蛍の手だった。

 

「ほ、蛍ちゃん……?」

 

「偶然だね、燐。わたしも今日はずっと燐と手を繋ぎたいって、思っていたから」

 

 離さないとばかりに燐の左手を強く引っ張った蛍が、照れたような表情で見つめていた。

 

「本当に、いいの?」

 

「うん」

 

 燐は蛍の目を見て確認すると、どちらともなく手を握り合った。

 

 互いの細い指先が絡み合い、パズルのピースが嵌まった時のような手に馴染むような、握り心地のよさを二人は同時に感じていた。

 

 燐と蛍は互いの存在を無言で確認し合うと、再び町を目指して車を走らせた。

 

「もし、万が一燐が事故を起こしても、わたしは、後悔しないから」

 

「うん……」

 

「……あ、一応言っておくけど()()じゃないからね」

 

「もう、わかってるってばぁ。ちゃんと運転するよぉ!」

 

 蛍が珍しく低い声を出したので、燐は慌てて返事を返す。

 

 暗闇からカーブが迫ってくる。

 

 燐が少し強く手を握ってきた。

 柔らかい燐の手は緊張の為か少し汗ばんでしっとりとしている。

 

 緊張を解す様に、蛍はもう片方の手も燐の手に乗せた。

 

 その事で安心したのか、燐は覚悟を決めて右手だけでステアリングを切る。

 

 意外なほど安定して車は曲がっていた。

 

 何事もなくカーブを曲がりきると、二人は同時にため息を漏らした。

 

「なんか、上手くいったね」

 

「うん……もっと激しく揺れるかと思ったんだけど意外だね」

 

「二人の愛の力、とか?」

 

「あはははっ、もう燐ってば」

 

 ──冗談ばっかり。

 

 でも。

 

 この手の温もりは本当だったから。

 だから、このまましんだって構わない、

 

 どうせ終わりは必ずやってくるのだから。

 

 

「冗談なんかじゃ、ないよ」

 

「燐?」

 

「わたしは蛍ちゃんと本当に」

 

 燐が強く手を握る。

 蛍も負けないよう強く握り返した。

 

 道の先は大きくカーブを描いていて、その先には巨大な脚でひび割れたはずのトンネルが、大きな口を開けていた。

 

「本当に一緒にしあわせになるために戻ってきたんだから」

 

「……燐」

 

 蛍はこの手が溶けて燐と一緒の一つになりたかった。

 そうすれば二度と離れることはない、どこまでもどこまでも一緒に居られる。

 

 魂だけじゃ寂しかったから、だから全部。

 

 二人で一緒の。

 

 かんぺきな世界。

 

 ………

 ……

 …

 

 

 後部座席の窓の隅で風車がこちらを覗いていた。

 

 深夜だと言うのに風車が回っている、ゆっくりとした速度で。

 

 それがどういうことなのかは分からない。

 

 燐にも蛍にも。

 

 オオモト様はどうだろうか。

 あの人は何か知っているかもしれない。

 

 ()()()()()()()()()あの白い風車の真下だった。

 

 辺りには置き去りにした数冊の日記帳とカメラ。

 

 そしてそれを見つめる少女──燐がいた。

 

 ”燐”はそのことをまだ蛍に話してはくれない。

 

 なぜあの時、あの場所に居たのかを。

 なぜあそこに自分が居ることを知っていたのかも。

 

 ”遺書のようなもの”は部屋に戻ってきた時は無くなっていた。

 

 吉村さんか燐が見たのかもしれない。

 でも場所は書いてなかった、もちろんあそこで”落ちている”ことも。

 

 でも、そんなことはどうでもよくて。

 

 ただ。

 

 風を受けて風車がまわっていた。

 

 誰にも気づかれることなくただひとりぼっちで。

 

 

 ────

 ───

 ──

 

 




・ゆるキャン△ 2(ドラマ)も滞りなく最終回を迎えしましたねー。
個人的に思うことは、コロナ禍でのドラマ撮影は見た目以上に厳しかったのかなーって印象でした。とくに初回のSPを挟んでの磐田──浜松の時ロケで予算を使いすぎた気がします。ドラマ版はそこが個人的ピークでした。
あとは、全体的にそれほど寒さっていうか冬を感じなかった気がしますねー。寒そうだなーと思ったのは最終話での薪を取りに行く件だけだった気がしますー。まあ、去年の冬は比較的暖かかったから、仕方ないのかもですねー。

・そして伊豆キャンは予告通りなしぃ……でも実写で伊豆キャン、というか伊豆のジオスポット巡りを忠実にするとなるとやはり予算が……それだけで二時間サスペンスドラマぐらいの予算が必要な気がします。
あと、原作からしてそうなんですけど、アニメもドラマも二期は静岡キャン△ になってますね。思ってたよりも山梨はキャンプ地が少ない……わけじゃないと思いますけどねー。でも原作だと次は大井川沿いでのキャンプ(静岡)ですからねー。
仮に三期があったとしても静キャン△ がまだ続くねん……。


・ゆるキャン△ ×厚生労働省ポスターが配布? されてますねー。
色んな意味でエコでしたねぇ、無償で印刷しても良いみたいですし。画像もアニメからの流用でしたしねー。


・どうやら今、”DL版青い空のカミュ”がサマーセールで50%OFFみたいですよー!
さらに! まとめ買いセールというものも同時にやってるようで、”触手作品10本まとめて1万円セット! ”というものに青い空のカミュもラインナップしてるんですよー!! ということは1本あたり千円ということになるわけでー、そうなると青い空のカミュが実質”千円”と言うことにぃぃ! これは、超! お買い得なのではー!!!

ちなみに7月19日まで限定セールなので気になる方はお早めに──! あと、他にも”ハーレム作品セット”や”孕ませ作品セット”なんかもあるようです(孕ませ作品って言うパワーワードが凄いですが……)

・実は一万円セットよりも、”青い空のカミュが触手ゲージャンル”だったことが地味に気になったとこだったりしますー。
あまり意識してなかった事ですけど触手ゲーと言われれば触手ゲーなのか、なぁぁぁ……間違ってはない気がしますけども……。
まあ、青い空のカミュに至ってはこれだ、っていうジャンルはあってないようなものですしね──。

・先日、うちの地域でも真夜中過ぎに防災サイレンというか防災無線の放送がありまして、こちらの方ではそこまでの被害は出なかったみたいです。ですがそのせいで寝不足に……ZZZZ

ではでは──。



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