We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life. 作:Towelie
新学期最初の日。
ぼやけた頭を揺らしながら、玄関の戸を開ける。
真っ青な空に入道雲。
……暦の上では今日から秋のはずだったが、空はまだ夏の様相をしていた。
朝から蒸し蒸しとしていて、さっそくげんなりする。
やっぱり……休もうかな。
晩夏の気怠さに、甘い考えが頭をよぎる。
(いやいや、まだ病人というわけじゃないんだし)
一時期、あまりに酷い顔をしていたから母に病院へ行こうか相談されたこともあったけれども。
きっともう大丈夫。
これといった根拠はないけど。
わたしは頭から甘えを追い出すように頭を振ると。
「……行ってきます」
自分に言い聞かせるように声をだした。
それは思ってたよりも覇気のない、例えるなら目に見えない精霊の言霊のようだった。
無理しなくていいからね、と廊下の奥から声が帰ってくる。
そこまで聞こえたのがとても意外だった。
おかげで家を出るしかなくなってしまったのだが。
──だからと言って無理はしていないつもりだけど。
別に学校に行くのが嫌なわけじゃない、まだ眠気は残っていてもなんとなく大丈夫な気はしていた。
だってまだ若いし、学生なんだし。
一、二時間程度でも寝れたからきっと大丈夫、放課後には部活もあるけどきっとそれも何とかなる。
前にもっと辛い思いをしたからこれぐらいは平気なつもりだった。
「行ってきますー」
念を押すようにもう一度玄関先で声をかける。
ため息のようなかすれ声がしたが聞こえない素振りでやり過ごす。
ピンク色のトレッキングシューズの踵を土間でとんとんと叩いて、足に馴染ませる。
そしてもう一度靴紐を締め直してぴょんと立ち上がると、下駄箱の上の”それ”が不意に目に入った。
どういう経緯でウチにあるのか、刺繍糸でかがられた手毬が朝の陽だまりの中で輝きを放っていた。
あの人が持っていたものに間違いないと思う。
毬自体にそこまで詳しくはないけど。
複雑な模様は見間違えようがないほど緻密で可憐で、それは運命のようでもあったし、地下鉄の路線図のようでもあった。
かなり昔のもののような風合にも見えるけど、これといって色あせてもいないしほころんだり傷んだりしている部分もない。
家宝にでもなったみたいに母親が手を合わせているが、今のところ特に恩恵なども見られない。
当然、夜に動き出すとかそういった事もない、はず……。
大丈夫……だよね?
玄関先で取り留めのない想像に頭を膨らませていると、こちらにやってくる母の足音が聞こえて、慌てて玄関扉を閉める。
何やら叫んでいる声がする。
扉越しに振り返って小さく手を振ると、逃げるように家の門をくぐった。
たったそれだけの事なのに額はもう汗ばんでいた。
………
………
………
家から最寄り駅まではそんなに遠くはない。
目と鼻の先というほどでもないが、それでも前に住んでいたところよりかは大分近かった。
まだ夏であることを主張するかのように蜩が鳴いている。
(でも、ヒグラシって秋の季語だから間違ってないのかな)
どうでも良いことに頭を悩ませながら、朝の道を一人歩いていく。
……なんかまだ落ち着かない。
朝早い時間だと、まだそこまで慣れ親しんでいないこともあって、どこか別の国に来た気分になってしまう。
前の家からそこまで離れていない場所なのに。
どこか異邦人のような面持ちで、新しい通学路をギクシャクと歩く。
電車通勤する人だろうか、幾つもの人影がわたしの傍を足早に通り過ぎていく。
わたしもその後に続いて駅へと向かう……つもりだった。
とある道に差し掛かった時、わたしは思わず足を止めていた。
視線の先には、山の中腹へと続く道があった。
それなりの勾配のある坂道はまだ朝も早いせいもあってか、靄のようなものがたちこめているように見えた。
何かを期待しているようにしばらくそこで待っていた。
自分で確かめに行けばいいだけなのに、ただ待っていた。
携帯の電波よりも近い距離なのに。
意気地の無さに失望したように溜息をついてその場から離れる。
そこから数歩離れたとき、こちらへと向かってくる足音がして思わず振り返った。
(まさか──と思った)
けれども、それは希望していた人じゃない。
ただのサラリーマン風の男性。
慌てた様子で簡単に追い抜いていく。
複雑な表情でそれを見送ると、その後を追うように静かに歩き出す。
まだ開いていない携帯電話のショップの前を通り過ぎると、小さなロータリーと駅舎が街へ行く人々を待っていた。
小平口駅。
ここまで一本道だから迷いようもなかった。
新しい最寄り駅の事も当然知っていた。
年間何万人が利用して──とかは知らないけど。
それでも何線が乗り入れて、行先は何処だとか、平日と休日の始発と最終の時刻は──とかはアプリを見ずとも覚えていた。
まだお父さんのようにはなれないけど。
駅の前には小さなロータリーにはワゴン車のような小さなバスが一台停車していた。
周辺には日常的な商店や飲食店等ががほどほどに連なっている。
ウチの店も駅前のこの辺りに出店したかったようだが、空いた土地もなく、さらに賃料が高いこともあって結局住宅街の古民家に店を構えることになってしまった。
そのせいで客足に大きな差が出ることは必至だったが、まだオープン前ということもあってか、母はまだ強気でいた。
(その強気が裏目に出なければね)
オープン前のパン屋には既に暗雲が立ち込めている、ような気がする。
杞憂ならそのほうが良いんだけれど。
──この町に越してきてから数週間が経過していた。
まだどこか夢の中にいるようなふわっとした曖昧な感じは残っているけれど、時間は一向に待ってはくれなかった。
夏の長期休みは全く休めた気がしなかった。
やることはいっぱいあるのに、意識は別のところに行っている。
そのちぐはぐな感じが、心と体を休ませてはくれなかった。
家族も、家も、生活さえも一変してしまった。
苗字こそ変わってはいないが、予想だにしないことの連続に今も戸惑いが付きまとう。
──あの出来事がわたしの全てを変えてしまった??
それだけじゃないことは自分が一番よく知っている。
あの時の事だけを責めても何の意味もない、それに時間を戻したいとも思わなかった。
とはいえ、やることが多すぎて感傷に浸る暇さえない。
けれど大切な事は今でもずっと覚えている。
それは言葉に出来ない想いの境界線。
忘れているわけじゃない。
あの坂の上の大きな家のことだって。
ただ、なにかの取っ掛かりがほんの少し足りなかった。
それだけ。
………
………
小平口駅は絶賛改装工事中のことだった。
ところどころが白いテントのようなシートに覆われていて、どこかの基地か、病院のようにも思わせる。
テントで思い返したことと言えば、この町にもついにキャンプ場を作る予定があるらしい。
小平口町はどちらかと言うと、
ちょうどキャンプがブームになっているので、今からでもあやかろうということだろう。
安易な計画かもしれないが、それだけに早く
今はアウトドアをする気分じゃないけど、もしもキャンプ場が出来たらちょっとやってみるのも良いかもしれない。
特に今流行りのソロキャンプなんて、今のわたし的にはピッタリな気がした。
これから先もずっとソロかもしれないし、その辺は慣れておいた方がいいのかもしれない。
モヤっとした気持ちを抱えたまま改札を抜けると、プラットフォームには既に電車が待機していた。
型は知らないが、他所で使い古された電車を改装して使っているらしい緑色の電車。
今の自分の状況とちょっと似ていて妙な親近感が湧いた。
でもこの電車は
完全に同一のものではないと思うが、それにしたってよく似ている。
形も色も、四両編成な所までも。
行先までは書いてなかったが、あれはやっぱり同じものだったのだろうか。
普段、利用しているのに比較できるほどの知識はなかった。
ただ吃驚するほどよく似てただけ。
それに今更、だよね。
きっともう乗ることもないだろうし。
(わたしは……乗らなかったけど……)
これ以上考えても意味はない、そんな気はする。
わたしは頭を一振りすると、”現実”の方の電車に乗り込んだ。
朝一番の電車の車内は、得も言われぬ新鮮さがあった。
冷房も程よく効いていてとても心地が良い。
このまま誰も乗らなければいいな、そう思うほどのときめきを感じていた。
車内を物珍しそうに見渡していると、発射の合図を促すベルが鳴り響く。
ちょうどのタイミングで乗れたんだと、安堵の息を吐いた。
このまま突っ立っているのもなんだし、適当な席に腰を下ろすことにする。
始発だからか空いている席はそれこそ、より取りみどりだった。
何かを探す素振りをしながら良さそうな席を物色する。
二両目。
三両目。
と、心の中で数えながら歩いたところで、直感的な何かを感じ取ってそこに腰かけた。
前から三両目の座席。
何の変哲もない三人掛けの座席はまだ誰も座ったような感じもなく、とてもキレイだった。
ちょうど日も差し込んでおらず、この場所だけ切り取られたような居心地のよい特別感があった。
隣にはまだ誰も座っていない。
僅かな違和感を覚えたが、一息ついて背中のバックバックを下ろすと、席の空いている左側、ではなく膝の上にとすっと置いた。
列車が発車するまであと少しの時間。
わたしはドアの方を凝視していた。
駆け込んでくる乗客が居ないか、ただその一点だけを。
”何か”ではなく”誰か”を待っていた。
ドアが閉まるその直前までずっと。
買い替えたばかりの真新しいスマホに気をやることもなく。
再度チャイムが鳴り響くと、空気の抜ける音がしてドアが閉まる。
『おはようございます。本日……鉄道をご利用いただきありがとうございます。この電車は──』
流れるような音と車内アナウンスに耳を傾けながら、わたしは少し残念な気持ちで窓の景色を遠くに眺めた。
まだ夏は終わっていないのに、なぜだか秋の終わりを感じるような切なさが胸にチクリとした痛みを与えていた。
────
────
────
がたん、ごとん。
いつの間にか深く寝入っていたみたいだった。
寝不足でもなんとかなると思ったのはきっとこういうことかもしれない。
古ぼけた列車は、朝の陽光の中をなだらかに走行している。
隣に知らない人が座っていた。
それは向かいの席にも。
膝の上のバックパックを抱き枕代わりにして寝入ってたようだった。
うっかり涎を垂らしていないだろうか。
制服の下に着ている長袖のシャツでそっと口元を拭ってみる。
幸運なことに湿ってはいなかった。
「ふわぁぁ……」
ほっとしたせいか、思わず欠伸がこぼれ出たので、慌てて手で抑える。
首を引っ込めて周囲に目を配ったが、みんな自分の事に集中しているようでこちらを気に留めるものは誰もいない。
それはそれで少し寂しかったりもする。
もう一度口に手を当てて欠伸をかみ殺すと、ポケットからスマホを取り出して時間を確認する。
(まだ余裕あるなぁ……もう一度寝直そう……)
再び重くなった瞼と線路のミニマリズムな音を意識的にシンクロさせながら、再び眠りにつこうと、バックバックに首を預けようとした時──。
どしん!
何かがぶつかったような重たい音がして、強制的に眠気から覚まされた。
と、同時に甲高い金属音が耳障りな音を立てる。
どうやら急ブレーキを掛けたようで、それまで静かだった車内は、ちょっとしたパニックになっていた。
電車が完全に停車してしまうと、落ち着きを取り戻したのか車内がざわざわし始める。
わたしはバックパックを抱きかかえたまま、首だけを伸ばして窓の外に目をやってみる。
停車した場所は駅ですらなく、周りには何もなく、ただ一本の線路だけが伸びていた。
皆が一斉にスマホで状況を確認したりしていると、察したように車内アナウンスが流れてきた。
『──駅構内で起きた人身事故の影響で……』
それを聞いて、またか、とか、最近多いね、とかもっともらしいことを呟いていた。
一方のわたしはこれで遅刻したら遅延証明書を発行してもらわないと困る、なんて割とどーでも良いことに頭を悩ませていた。
(人身事故……わたしも危うくそうなりそうになったんだっけ)
あの時は本当にびっくりした。
だってずっとあのままだと思っていたから。
それは。
幽霊のままだと。
………
……
…
意識だけとなった”わたし”は線路を通過する電車をただ見送っていた。
電車は”わたし”の中をすり抜ける。
だから何があってもしぬことができない。
空腹でも渇きでもしぬことが出来なかった。
それにすり抜けていくのは電車だけではなく、風も雨も、日の光も。
聞こえてないから分からないけど多分音だって、全部わたしの中をすり抜けて行ってしまう。
もうそんな概念は既に通り過ぎてしまってるのだろうけど。
ただ、代わり映えのない景色は、あの世界を垣間見ているようで。
もしかしたらあのテレビの映像は、自分の未来の姿だったのかもしれない。
そう思うほど酷似していた。
退屈を紛らわす為、行き交う電車を数えたり、日が沈む回数も数えたりした。
星の瞬きも数えてみたし、何かを感じとっているのか
色々なのを数えたが、記録することも、誰かに話すこともないので何の意味もなさない。
そんな退屈を紛らわす日々にも飽き飽きとしていた。
しぬにせよ生きるにせよこんな生殺しのままでは狂ってしまう。
狂う頭すらもないけど。
永遠このままかもしれないし、やがて空に還るかもしれない。
何より彼女はもう行ってしまったのだから。
自分の存在価値はもうないと思っている。
でも、彼女に想いを託すことだけはできた。
上手く伝わったかどうかは分からないけれど。
それでも実感があったからそれでよかった。
後は彼や彼らと同じで、光の粒となって向こう──完璧な世界に行くだけ。
憧れていたもう一つの世界……待っててくれてるだろうか。
(お兄ちゃん………)
それは、本当に意外な形で裏切られた。
すっ──と、何かが崩れ落ちるような感覚。
やっとこの日が来た。
待ちに待った日。
おわりの日。
空に還るのではなく、地に沈んでいくのかと少し残念だったが、この意味のない不条理が終わるのならそれでもよかった。
初めに輪郭を失ったときとは違った力の流れ。
ほんとうにしぬっていうのはこういうことなんだろう。
あの時は、重力から解き放たれた感じだったけれど。
これはただ落ちていくだけ。
暗い地の底へと。
なすすべもなくわたしは翻弄されていく。
それももう終わり。
わたしはもう──おわり。
──ありがとう、……ちゃん。
最後にもう一度言いたかった言葉。
言葉は形を作ってはくれないけど。
わたしは最後にもう一度言えたんだ。
だからもう──。
でも中々終わってはくれない。
それどころか。
わたしの身体は。
羽の様にゆっくりと。
地が。
足についていた。
それは確かに文字通りに。
無重力から急に解放されたような鉛の重さを体の隅々に感じた。
靴底は砂利を踏みしめているみたいだが、生まれたての様にぷるぷると脚が震えて、真っすぐにさえ立つこともままならない。
力の、筋肉の入れ方を忘れてしまったようだった。
でも、ちゃんと立てたこと、大地を踏みしめること感覚に歓喜した。
そんな束の間の喜びは本当に一瞬。
これまで止まっていた刻の流れが一瞬でわたしの中に入り込んでくる。
まるであの町の様な刹那的な速さで。
「……っ」
生きているはずなのに死ぬほどの苦しみや痛みが二重三重に襲い掛かってきて、わたしの身体を貪るように這いずり回る。
渇き?
空腹?
それとも酸素??
どれだかわからないが、内側から沸き起こるマグマの様な欲望が渦になって苛まれる。
──何から解消すればよいのか。
──どれから選んだらいいのか。
答えが分からず、頭はパニック状態で今にも割れそうだった。
せめて、水が飲んでみたい。
深い海の底から戻ってきたばかりのように酸素を求めて口をパクパクとさせる。
ただ息を吸うだけでもこんなに辛いなんて。
喉の渇きを潤したい。
そう決めた直後、視界の奥からからけたたましい音がした。
始めは何の音が分からなかった。
獣の鳴き声の様な感じ。
そう思っていたのだが。
「プォーン!!!!」
もう一度音がする。
忘れていた感覚が蘇りそちらに首を動かした。
耳をつんざく音と共に電車がすぐ目の前まで迫っていた。
運転手からは人が突然出てきたと思われたのか、明らかにブレーキが間に合っていない。
金切り音がして、線路から火花が飛び散る。
わたしは状況が吞み込めず、”いつもの癖”で突っ立っていたのだが、鈍くなっていた五感が今頃になって重大な危険を知らせてきたので、慌てて線路から飛びのこうとする。
だが──。
足がまだ上手く動かず、自分では必死に走っているつもりだったのだが、あちこちの関節が言うことを聞いてくれなかった。
「っ……!!」
だらしなく線路の上に倒れ込んだわたしは這いつくばるようにして、その身体をなんとか外に投げ出した。
わたしの思考は完全に停止していたらしい。
なぜならば。
「………!」
線路の外は土手、だったから。
わたしの身体は無様にごろごろと転がっていく。
なすすべもなくごろごろと。
傍には川が流れているようで、無邪気なせせらぎを聞かせていた。
だが、先日の雨で川は増水しており、音と違って濁った川の水は急な流れを作っていた。
わたしは転げ落ちそうになる体をなんとかしようとその辺の草を掴んだ。
ぶちぶちと、草は呆気なく千切れていく。
滑り落ちる体を支えるにはその草はあまりにも脆弱すぎた。
ざざざざっ。
背の高い草がクッションになり、少しだけ勢いが弱まった気もする。
それでも止まらず、身体は斜面を転がり続ける。
とても長い時間転がっているように思えたが、終わるのは一瞬だった。
光を反射した水面はもう目の前だったから。
気持ちよさそうとか、やっと水が飲めるなどと暢気な考えばかりが浮かんでくる。
わたしは覚悟を決めて、川に落ちる運命を受け入れた。
まだ体に馴染みがないがきっとなんとかなるだろう。
前は水泳、得意だったはずだし。
それに体がわたしを裏切るわけがないと思ってたから。
だから着水したときのことだけを考えていた。
けれど──。
体は落ちる数センチ手前で何とか止まってくれていた。
何のおかげなのかは分からないが、ともかく川の
両手で草を握っていた。
指が切れて、爪が剥がれ落ちそうなほど痛かった。
「おおぉーーい!」
一息つく間もなく、頭上から声がする。
多分鉄道の関係者だと思う。
車掌か運転手だろう。
凄い音がしていたから、電車を緊急停車させたのかもしれない。
それは運行上当然の対応だったが、わたしには招かざる来客だった。
わたしは返事を返したほうがいいのかそれとも黙っていた方がいいのかと、蹲って考え込んでいると。
「大丈夫なのかーー!?」
返事を催促するように声がまた掛けられる。
「だ、だ、大丈夫ですー!!」
わたしはつい思わず返事を返していた。
その時のわたしは列車を止めてしまったことの罪悪感や、ダイヤを乱してしまったことへの賠償金? 的なものはまったく頭に浮かんでいなかった。
そんな事よりも。
(声……出た……? わたしの声、だよね?)
ただ声が出たことへ歓喜。
これまで出来なかったことが出来たことの喜びの方が何倍も強かった。
その声はちゃんと耳に届いたのか、帽子を被った男性は声がしたこちらの方をつぶさに見下ろしている。
その姿で、結構な距離を転がり落ちたことが理解できた。
見下ろす人がかなり小さく見えたから。
だが、向こうからはこちらが見えていないようで、背伸びをするように覗き込む仕草で見ているようだった。
「……っ!」
急に全身に痛みが走った。
落ちる際、どこかにぶつけたのだろうか、右肩のあたりがずきずきと痛みを訴えている。
声を出したことで無理が出たのか、痛みはどんどんと大きくなってくる。
「”本当に”大丈夫なのかーー!!?」
運転手だか車掌だかの人はもう一人増えていて、本部に連絡しようかどうか迷っている様子だった。
「ほ、”ほんとうに”大丈夫ですー! ごめんなさいー!!」
黙っているわけにもいかず、もう一度だけ声をだす。
出来れば救急車を呼んで欲しいぐらいだったが、迷惑を掛けたくない気持ちの方が勝っていたので、真逆なことを言ってしまった。
けど、謝ったのは本心からだった。
わたしは言葉だけじゃ足りないと思い、左手をひらひらと振ってみた。
それだけで激痛が走る。
見えているかどうかは分からない。
ただ、ここへ降りて来てほしくはなかった。
事を大げさにしたくないし、何より恥ずかしかったから。
こちらが手を振ったのが見えたのか、帽子を被った二人はなにやら話す合うと、これ以上深い入りする必要がないとみなしたのか、連れ立って視界の奥へと消えてしまった。
急に辺りが静かになる。
川のせせらぎだけが時の動きを教えてくれた。
ややあって、電車の警笛だろうか、びりびりっとした音が二回鳴り響く。
安心の合図を返してくれたのだろう。
そのまま電車は何事もなかったかのようにゆったりと線路の上を進んで行った。
戻ってきて直ぐの危機的状況は、ローカル鉄道のあやふやな対応のお陰で事なきを得た。
静けさが戻ってくる。
わたしはすぐに動かずにその身を横たわらせたまま、悠然と流れる雲を見送っていた。
白い雲が流れる。
わたしは河原で一人ぼっちだった。
制服もバックパックもお気に入りのトレッキングシューズもあの頃のままなのに。
そのところどころが泥と青に染まっていた。
けど、草の香りを嗅いで、頬を撫でる少しぬるめの風に目を細めていると徐々に実感していく。
荒い息づかいも、ドキドキと鳴っていた心臓も一定のリズムに落ち着いていく。
わたしは痛む肩を抑えながら、ゆっくりと上体を起こす。
「空が、高い……」
扉の向こうから見ていた客観的な景色は、この瞬間はっきり自分の目でとらえることができた。
確かめるように息を吸い込むと、両手を水平にしてゆっくりと息を吐いた。
右手は痛くてまだそんなに上がらなかったけど、確かな息吹を感じる。
生きている全てを五感で感じ取っていた。
まだふらつく体を無理矢理立たせると、体中の泥を緩慢な動きではたき落とす。
あらかた綺麗になったと思う、そこまで気を使うだけの余裕はまだなかった。
わたしはそのまま川沿いの細い道を引き摺るようにして歩きだす。
肩や足の痛みは痛みを増すが、なんとか歩けそうではあった。
むしろ歩くほかなかった。
(重いし、痛いし……苦しい)
これまで出なかった汗が、額や腕から流れ落ちる。
これは本当に自分の身体なんだろうか。
そう疑いたくなるほど、言うことを全く聞いてくれない。
生きることをサボっていた”ツケ”が回ってきたということか。
ともかく、”自分の体なんて何も思い通りにならない”、それが良く分かった。
道を踏み外さないよう、一歩ずつ足の感触を確かめるように小径を進む。
最後に見た彼女のように、足元を繊細に気を配りながら一歩ずつ。
あの時はおっかなびっくり線路を歩く彼女を笑っていたけど、今のわたしは線路どころか、ただの道を歩くことさえもおぼつかない。
ただ、ゆっくりと進めばいいんだ。
焦る必要なんて初めからなかったんだし。
結論を早めても結果は特に変わらない。
ただ先を知るのが怖かっただけ、ただそれだけのことだった。
何もかもが偶然いう概念だとするのなら、わたしはどこまでも巨人に追いかけられるんだろう。
(わたしは巨人に踏みつぶされたんだ、そう思ったんだけど……)
わたしは立ち止まって首を横に向ける。
川面に揺れる姿は確かにわたし──燐、だった。
……
………
…………
(わたし自身と……世界に対する無関心……か)
最近、本で見た言葉を頭で反芻していると、確認が取れたのか列車は運行を再開していた。
がたん、ごとん。
乗客に気を使っているのかやけに謙虚な走りを続けていた。
でもしばらくするといつものリズムに戻っていくだろう。
実際ダイヤは遅れているのだから、それは仕方がなかった。
列車の景色は徐々に早送りのような勢いで早くなっていく。
さざなみが大きな波になっていくように。
時間は日常で最も大切な事だから。
それを守って平穏無事に過ごせればそれで万事良いのだ。
わたしだって例外じゃない。
色々なものに無関心になったけど。
それでも父や母、幼い頃から一緒だった従兄だって、同じ時間の中で生きている。
もう元には戻らないとしても。
そして一番大切な……友達。
好きの反対は嫌いじゃなくて無関心、らしい。
でも無関心で居られたからこそ、こうして学校にも行くことが出来る。
わたしは人や物にちょっとだけ執着しすぎてしまったようだ。
その事がわかっただけでも、あの時の事に少しの意味を見出すことが出来る。
例え人が生きていることに意味などなくとも、それでも何かが欲しかった。
それにはまず自分を認めてあげること、それが第一歩じゃないかと思う。
誰かからの評価なんてその後なんだろう。
だから平等に無関心。
肉体があることの有難みや、モノが食べられることの喜びなんてすぐに慣れてしまったし。
順応性なんてものが自分にあるとはおもわなかったけど、これもまた現実だった。
喉元過ぎればなんとやらで、執着なんてものもそこまで持続性がないものなのかもしれない。
なにかがぽっかり空いたような寂しさはあるけれど、あとは至って平然。
まだ無関心のままでいられる。
なにかが変わっても、目的はなにも変わってはいないのだから。
だからわたしはもう少し夢の続きを楽しむことにする。
この無関心を殺してくれる何かが待ってる。
その時を願って。
………
……
…
「おはよ、蛍ちゃん……生きてる、よね?」
頭上から投げかけられた目覚めの挨拶は可愛らしい口調なんだけど、やや辛口だった。
「……うん、ちゃんと生きてる、よ……ほら」
楽しそうに頭を撫でている燐の手をふわりと握った。
それは思っていたよりも冷たくて気持ち良かった。
起き抜けの体温にしっとりとした燐の手の冷たさがなんだか心地よくて、蛍はもにもにと揉み解すように触り続ける。
燐は小さく笑みを見せると同じような強さで手を握り返しながら、もう片方の手で蛍の髪をさらさらと撫で上げた。
蛍はうっとりと目を細める。
燐はそのまま蛍が二度寝してしまうのかと少し気になった。
「おはよ燐……今日も洗濯ものは?」
「うん、ダメだったよ。今日も乾燥機使ってる。少しうるさかった?」
「ううん。大丈夫、それより燐……今何時? ずっと雨だと感覚がおかしくなっちゃって……」
寝ぼけ眼で燐の顔と壁を交互に見比べる。
「燐、も。あんまり寝てないの?」
蛍は燐の顔を無造作に触りながら、確かめるように目の下の膨らみを少し伸ばしてみた。
蛍の言うように燐の瞳は少し充血しているように見える。
燐は蛍にべたべた触られても嫌な顔一つせず、困ったように答えた。
「バレちゃったか。なんか寝付けなくてさ、朝から色々やってたんだ。でも、蛍ちゃんはちゃんと眠れたみたいだね」
「うん。わたしも最初は寝つきが悪かったんだけど、いつの間にか寝ちゃってたみたい」
蛍は素直にそう告白して、改めてベッド脇の自分のスマホを手に取った。
……既にお昼を回っていた。
「うん。実はもうお昼なんだ。さすがにお腹空いたでしょ? もう朝と昼が一緒になっちゃうけど何か食べるよね」
燐がからかうように蛍に微笑みかける。
その笑顔で自身の空腹感に蛍は今気付いた。
「ごめん。すっかり寝過ごしちゃったね。でも、燐。いつもみたいに起こしてくれればいいのに」
蛍は俯き加減に尋ねる。
「なんか、蛍ちゃん気持ちよさそうに寝ていたから。それにせっかくのお休みだし、無理矢理起こしちゃ可哀そうと思って」
「燐は、わたしの寝顔が見たいだけでしょ?」
「あたり! だって蛍ちゃんの寝顔、すっごく可愛いから」
蛍の指摘に燐は指を鳴らす。
「もう、燐ってば……でも、わたしいつまで経っても子供みたいだよね。一人だと中々起きられないし……」
顔を赤くした蛍がもじもじしていると、ベッドの横にいた燐が首に手をまわして抱き着いてきた。
「でも蛍ちゃん今日は自力で起きれたじゃない。無理矢理起こすんじゃなく、起きたい時間に起きるのが自然で良いんじゃないかな。今日は特に予定もないしね」
慰めになっているのかは分からないが、燐の言葉は蛍を心を暖かくした。
燐はいつも優しいから、つい甘えたくなってしまう。
いけないことだとは分かってはいても。
「ありがと……燐」
二人は顔を見合わせて微笑んだ。
もう遅い時間だけど、それでも目覚めは笑顔だった。
とても幸せな時間。
これで雨が降っていなければと思ったが。
(でも、こうして燐とだらだらするのも嫌いじゃないんだよね)
むしろずっとこうしていたいぐらい。
雨を降らす灰色の空を蛍は複雑な想いで眺めた。
「さて、改めてお早う蛍ちゃん! えっと……何食べたい? 今日は蛍ちゃんの好きなのなんでも作ってあげるっ!」
燐はベッドからぴょんと立ち上がると、エプロンを直しながらキッチンへ向かった。
「燐。ほんとに何でもいいの?」
「ま、まあ材料があればだけど、ね。でも、なるべくリクエストには答えるよ」
「ふーん」
「ほ、ほんとだってぇ! 今のわたしは、蛍ちゃんに料理を作ってあげたい欲に駆られてるんだからぁ」
蛍に疑いの眼差しを掛けられた燐は慌てて弁解した。
「じゃあ……”よだれ鶏”でもいいの?」
「うぐっ! よだれ鶏かぁ……冷蔵庫に材料あったかなぁ……」
思いがけない蛍のリクエストに燐は不意を突かれたように膠着した。
とりあえず冷蔵庫を開けて材料を確認してみる燐。
ソースは調味料を混ぜ合わせばなんとかなりそうだが、肝心の鶏むね肉がなかった。
(あれ? 先週買っておいたと思ったんだけど……?)
冷凍庫も開けてみるもそれらしいものは入っていない。
豚肉ならあったが、それだと”よだれ豚”になってしまう。
それは流石にイレギュラーすぎるとは思った。
(でも蛍ちゃんにそう言っちゃったしなぁ……うむむむ)
「蛍ちゃん。鶏肉がなかったからちょっと買いに行ってくるね」
燐はそういうとエプロンのヒモを緩め始めた。
「あ。ごめん」
「え?」
「やっぱりよだれ鶏はいいよ。ちょっと意地悪言ってみただけだから」
「でもぉ……」
「ごめんね燐、適当なこと言って。わたしは
「
「うん。朝から重いのはちょっとね。しびれ鶏は今度で良いよ」
蛍は上目遣いで燐の顔を見る。
窺うような蛍の瞳に燐はにこっと微笑む。
「くすっ、実はそういうんじゃないかって思ってた。だから大丈夫だよ蛍ちゃん」
「そうなの? 燐は凄いね。わたしの考えなんてなんでもわかっちゃうよね」
「流石にそれはないよー。でもいつものってことはトーストとサラダで良いのかな? あ、蛍ちゃんチーズは? とろけるやつあるよ」
燐は薄いチーズをひらひらとさせて尋ねる。
「じゃあ、とろけるのでお願い」
「オッケー。じゃあ出来上がるまでちょっと待っててね」
蛍の要望に軽やかに答えると、燐は厚切りのトーストにバターを塗り始めた。
その間、蛍はいつもの様にパジャマのボタンを外して、体温計を腋にあてた。
パンをトースターに入れると、燐はたっぷりのレタスに皮を剥いたアボカドとプチトマトを添えた。
更に冷蔵庫からミルクと無糖ヨーグルトを取り出して鼻歌を口ずさみながらトレイの上に乗せた。
これが蛍のいつもの朝のルーティーン。
少し早めに起きた燐が諸々の家事をやって、少し遅めに蛍が目を覚ます。
今日は休みのだからかなりのんびりだが、いつもは朝から割と気ぜわしかった。
ハウスキーパーの人でもここまで甲斐甲斐しくなかったので、蛍は初め戸惑っていたが。
今は燐が常に一緒に居る日常にもすっかり慣れていた。
「ふわぁ……」
蛍は体温計が鳴るのをかみ殺しながら待っていた。
寝すぎたせいか、また眠気がぶり返して頭をこくっと下げる。
再びの眠気に誘われそうな時、小さな電子音が蛍の耳朶を打った。
36.5℃。
低血圧の蛍にしてはやや高めの数値だったが平熱の範囲だった。
蛍はのそのそと這い出るようにベッドから出ると、窓の外を見ながら軽くスクワットしてみた。
これも一応ルーティーンだが、そんなに長くは続かない。
20回もすれば息も絶え絶えになってしまうだろう。
だからその半分程度を目標としていた。
「いち、に……」
窓の外ではどんよりとした曇り空にしとしとと雨が降り注いでいる。
ここ何日かはこの調子だった。
「あれ?」
起き抜けで張り切りすぎたのか、まだ数回しかやってないのに目の前が急にぱちぱちとなって視界がぐるぐると回転する。
ベッドもその脇の小さなタンスも天井も蛍の視線の中でぐるぐると回っていた。
「蛍ちゃんもうすぐ出来るよ……って、どうしたの?」
ベッドに手をついて頭を抱える蛍に燐が不思議そうな顔でたずねる。
「うん……昨日飲みすぎちゃったみたい」
涙目になりながら変なことを言い出す蛍に、燐は呆れ声とため息をつく。
「飲み過ぎたって、昨日寝る前に飲んだのは烏龍茶でしょ? 蛍ちゃんまでお父さんみたいなこと言うなんて……」
目を回した蛍がシーツをぎゅっと掴んだ時、トースターがきぃんと音を立てた。
………
…………
……………
「ちゃんと全部食べられたみたいだね。うんうん、感心感心」
綺麗になったお皿を見て、燐が満足そうにうんうんと頷く。
起き抜けのだったけどちゃんと食べてくれたことが嬉しかった。
最近、蛍の食が細くなってきて少し心配だったから。
燐は空になった食器をトレイごとキッチンに運ぶ。
蛍がなにか言う前に燐が片付けだしたので、慌てて呼び止める。
「あ、燐は休んでていいよ。後片付けはわたしがやるから。燐ばっかりさせちゃって悪いし」
「気にしないでいいよ蛍ちゃん。食べ終わったばかりだしね。それに」
燐は食器をシンクで洗うのではなく、食器洗浄機の中に並べると扉を閉めてスイッチを入れた。
ごうん、と音がしてケースの中の食器に水が吹きかけられる。
小さなケースの中でも雨が降っているようだった。
「こうやってボタン一つで食器を洗ってくれるんだから誰だって出来るしね。ほんと楽だよねー」
「そんなに気に入ったのなら、燐の
「うちは洗い物が多すぎて逆に役に立たないんだよね。業務用のは結構するしぃ……」
パン屋になって分かったことは、次から次に欲しいものが出てくると言うことだった。
調理道具や設備だけではなく、レイアウトや看板、照明に至るまで、あらゆるものに不満を覚えそれを改良をしたくなる。
基本的に母の店なのは分かってはいるが、それでも何かしらの手を加えたくなってしまう。
「燐も自分でパン屋さん始めそうだよね」
「それはないなー、多分。まだうちの店だって全然安定してないし、それにわたしは職人に向いてない気がするんだよね……なんていうか集中力が足りない、みたいな? あ、蛍ちゃん食後のコーヒー飲む? ちょうどお湯が沸いたから淹れようと思うんだけど」
「じゃあ少しだけ。燐の半分程度でいいから」
こぽこぽと珈琲のドリップパックにお湯が注ぎ込むと、こうばしい香りに包まれる。
蛍は淹れたての香りを楽しみながら、スマートフォンをとんとんと叩いていた。
「蛍ちゃんの方が向いてる気がするなぁ。何にでも一生懸命だし」
燐は蒸らす時間を量りながら、こまめにお湯を注いだ。
「何みてるの蛍ちゃん?」
燐は淹れたての珈琲を入れたマグカップを両手に持ちながらキッチンから出てくると、その一つを難しい顔をしてスマホを見ている蛍の前に置いた。
「ありがと燐」
蛍は燐の目を見てお礼を言うと、すぐにはカップに手をつけなかった。
代わりにスマホを画面を燐に差し出す。
「避難勧告が出てる地域って結構あるみたいだね。この辺はまだ大丈夫みたいだけど」
「避難指示は小平口町にも出てるみたいだよ。ほら」
燐は蛍の液晶を操作して小平口町のハザードマップを出す。
小平口町周辺は一部を除いて全体的に赤──氾濫危険地域になっていた。
蛍より数時間前に起きていた燐は一応実家にも確認の電話をしていた。
「まだ、”避難命令”までは出てないんだって。でもやっぱり心配してるみたい」
「それはそうだよ。ダムの水位だって気になるだろうし」
蛍は燐から携帯を戻してもらうと小平口ダムの水位をHPで確認した。
燐も珈琲を片手に液晶画面を眺める。
「流石に放流まではいかないみたいだね」
「うん、良かった」
ダムの水位が思ったほどでもなかったので、蛍はほのかに湯気を立てる珈琲にようやく口を付けた。
砂糖多めのエスプレッソは、苦みを抑えて蛍にちょうどよい甘みを与えていた。
糖分が記憶を呼び起こしたかのように、蛍はあのラジオの事を口にした。
「ねぇ。燐、あの時ダムってどうなったのかな? ラジオでは小平口ダムが決壊して全域が浸水したって言ってた気がするけど……」
蛍がやけにはっきりとあの放送のことを口にしたので、燐はカップをテーブルに置いて、記憶を呼び戻すように天井を見つめた。
「うーん、もしそうなってたらすぐに騒ぎになってたと思うよ。線路の陥没もそうだけど、被害の規模が大きすぎるからね」
「そうだよね。でももしも本当に決壊してたら小平口町は流されちゃったのかな?」
ラジオでもそんな風なことを言ってた。
けれど実際は流されていなかったし、陥没もしていなかった。
「蛍ちゃんちは残ってるかもね。町でいちばん高い所にあるんだし」
「そうかな? でも多分、うちもダメだと思うよ。ダムが決壊したときの勢いって相当すごいみたいだし」
「そっか……じゃあ、何事も起こらなくて良かったね」
「うん……」
燐の言葉に蛍は少しぎこちなく頷く。
「蛍ちゃん。ちょっと心配?」
心を見透かしたように燐が気遣った言葉をかける。
「まぁ、やっぱりね。一応生まれ育った場所だし。吉村さんもいるしね。それに燐だって心配でしょ。燐のお母さんも小平口町に残ってるんでしょ」
「うん、確かにね。ちょっと心配。でも……大丈夫だと思うよ。きっと」
「……燐がそう言うなら間違いないよね」
蛍はにっこり微笑むと、再びカップを手に取った。
燐も蛍に微笑むと、珈琲を飲みながら、皿の上のクッキーを手に取った。
ただの気休めでしかないが、それでも蛍は燐を信頼していたし、燐も蛍にいい加減な事をいうつもりは無かった。
だからきっと大丈夫。
それが二人の真理だった。
──
───
────
蛍と燐はこの春から一緒に住んでいた。
高層マンションの一室。
そこが二人の新しい住まい、Respawn point.
建物自体は春先には完成していたが、施工業者の小さなミスが発覚して、実際に入居できたのは五月の頭まで待たなくてはならなかった。
要するにまだ越してきてひと月余りだった。
だが、引っ越し日がちょうど大型連休の時だったので、その日のうちに全部終えることができたのは良かった。
とりあえずな日用品と、トランクに詰められるだけの衣類。
あとは学校に必要なものぐらいだった。
蛍の家──三間坂家は、まだ手放してはないのでこれは蛍の第二の家……つまりこのマンションは三間坂家の別荘みたいなものだった。
燐もそんな感覚であり、どこかリゾートのような気分で住んでいた。
クラスのみんなには同棲してるってからかわれたけど……。
実のところ間違っていなかった。
だからかそんなに悪い気はしなかった。
燐はボディーガード兼、家政婦の名目で一緒に居てくれるし(本人は嫌がるけど)、なにより学校に近いのは良かった。
ぎりぎりまで布団に入っていられるのは至福のひと時だったから。
マンションからは大きな駅のターミナルを真下に見下ろす眺望だったし、よく晴れた日には海や富士山だって拝むことが出来る。
駅前でイベントがあれば特等席で見られるのが嬉しかった。
でも、今は大きな駅も、穏やかな海岸線も雨霞に煙ってしまっている。
せっかくの眺望もこの雨の前では形無しだった。
雨足が強くなったのか、ゴーっという音と共に大きなガラス戸にばちばちと滴が付く。
このまま漂流してしまうのではないかと錯覚するほど雨はずっと続いていた。
分厚い雲はどっしりとしていて、動くことを忘れてしまったかのように上空に広がっている。
何かの小説で見た、人体に影響を及ぼす濃度の強い雨。
それを彷彿とさせた。
「ふああぁぁ~」
蛍ではなく、燐が大きなあくびをする。
情感に浸っていた蛍は驚いて燐の顔を見るとくすっと笑った。
「やっぱり燐も眠いんじゃない」
「うん……かもね」
カフェインを摂取して蛍の眠気は収まったようだが、今度は燐が眠気を訴えていた。
無邪気に目を擦る燐の姿が愛おしくて、蛍はまたくすっと笑みをこぼす。
「雨音を聴くとなんか眠たくなるもんね」
「何もない休日だと余計にね」
燐は話半分と言った感じで窓の外に目をやっていた。
蛍も滴り落ちる雫の行方を目で追っていた。
「……なんかさ、変な感じだよね」
「ん? 何が」
「燐とこうして二人で住むのって」
「それは、確かにね」
燐は三つ足のスツールから立ち上がると、ネコの顔が付いたスリッパをパタパタ鳴らしながら、大きなガラス戸の前に立った。
蛍も静かに立ち上がると自然にその隣に立つ。
「こう高い所から見下ろすとなんかさ”勝ち組”って感じしない?」
眼下に流れる車の波や、色とりどりの傘の群れ。
それを見下ろすのが勝者、なんだろうか?
蛍は苦笑いして燐の腕をそっと取った。
「勝ちとか負けとかどうでもいいよ。燐とこうして一緒にいるだけでわたしは幸せだし」
「それはわたしも。蛍ちゃんと一緒だから良いんだと思う」
蛍の言葉に燐はあははと笑顔でこたえた。
「あのときさ……」
「なに蛍ちゃん」
燐は小首を傾げて蛍の方を向いた。
蛍はどこか物憂げに重い空を見ながら言葉を繋ぐ。
「燐が……町になにかしてくれたの?」
無垢な瞳が燐を捉える。
燐は一瞬言葉を忘れてしまった。
蛍の瞳は純粋で少しの濁りもない、あのときのままだったから。
「いやぁ、そのぉ……」
だから燐は魔力にかけられたように本音を話すしかなかった。
大切な人の前で嘘なんかつけるはずがなかったから。
「ごめん蛍ちゃん、自分で分からないんだ。オオモト様にもそれっぽいこと言われたけど、まるで見当がつかなくって……」
燐の正直な告白に、蛍は理解したように微笑む。
「ごめん、燐。変なこと、言ったよね」
蛍は自分で言葉をしまうと燐の肩口に首をぴたっと置いてきた。
少しもたれるようにして密着する蛍に燐は戸惑うような笑みを浮かべてその華奢な肩をそっと抱いた。
蛍の付けているオーデコロンの香りが二人の少女の間を包み込む。
香水は童話と同じ名前の銘柄であり、その名の通りキラキラとした星の匂いがした。
冷たい雨音が二人の気持ちをゆっくりと冷ますようで。
このまま外に出て二人で濡れるのもいいかな、と燐はちょっと思った。
「ふあぁー」
窓ガラスに燐の口の奥まで映り込んでいた。
奥まで容易に見渡せそうな燐の大きなあくびに蛍は困った顔を向けた。
「やっぱりわたし眠いみたいだね。午後になって眠気が活発になったみたい……」
流石に二度目は掌の下で噛み殺すと、眠気を覚ますように燐は顎の下あたりの肉を親指と人差し指でむにむにと摘むように伸ばした。
「そういうのよくあるよね。わたしは丸一日寝てたこともあるよ」
「流石に、そこまではないけど……でも、寝たいのに中々寝れないっていうのも辛いんだよね。昨日だって夜中に掃除をしてみたり、身体を動かしたりしたんだけどてんで効果がなくてさ、仕方がないから朝までずっと起きてたんだよね」
燐は蛍の言葉を軽く流しながら、軽い欠伸をした。
「燐も大変だね。じゃあ、わたしと一緒に寝ようか? どうせやることもないし」
蛍は燐だけでなく自らも寝ることを提案した。
「確かにそうだけど……でも、折角のお休みに午後から寝ちゃうのってなんか勿体なくない?」
「寝るのは大事だよ、燐。なんたって……」
「人間の”三大欲求”だって言うんでしょ? 確かに、このままだと何もやる気が起きないね……蛍ちゃん、ごめんだけどちょっと横になってくるよ……」
「うんうん。燐、ベッドはこっちだよ」
いつの間にか蛍と一緒に寝ることになってしまっていたが、今の燐は手を引かれるがまま、寝室に入って行く。
(夜あれだけ寝れなかったのに、なんで今頃……)
腑に落ちない身体を少し恨めしく思いながら、燐はベッドにぽすっと横たわる。
蛍も向かい合うようにしてベッドに横になった。
クイーンサイズの真新しいベッドは燐と蛍が一緒に寝ても、まだまだスペースに余裕があった。
人生の半分はベッドの上なんだから良いのを買わないと、と蛍の弁だったが、それにしたってこのベッドは大きすぎた。
寝室の大半を巨大なベッドが占めていて、後は小さなタンスを置くスペースしか残ってない。
そのため普段はリビングで過ごしていた。
2LDKの角部屋は部屋と呼べるのものは実質一部屋だけで。
もうひとつは壁が取っ払われてリビングと一体化してあった。
おかげで景色の奥行きを楽しむことが出来るし、何より二人っきりだったから、問題がないというよりもむしろ都合が良かった。
「ねぇ、燐」
「……うん?」
目の前の燐の髪を撫でながらく蛍が囁くようにつぶやく。
しとしとと降る雨音のような、細やかな声色で。
「燐の髪って随分長くなったよね。もうわたしと変わらないぐらいじゃない」
「まだ蛍ちゃんほど長くはないと思うよ。でも、確かに伸びたかもね」
自身の髪を撫で上げる。
栗色の髪はロングと言っても差し支えないほどの長さになっていた。
「もう切ったりしないの? 前の髪型、燐によく似合ってたと思うけど。ここまで長いとさすがに部活の時、邪魔にならないの?」
「縛ってるから、へーきだよ」
燐は後ろ手で髪を握ってポニーテールをつくって見せた。
「あ、いっそのことわたしの同じ髪型にしてみるとかは。燐ならきっと似合うよ」
蛍はすっかり元の長さに戻った、二つの結わいた髪をふわりと持ち上げてみせる。
「蛍ちゃんと一緒かぁ……」
燐はたゆたいながら、蛍の髪型、所謂ツインテール姿の自分を想像してみる……。
それは子供っぽく、大分年下な感じだった。
「あはは、わたしにはちょっと難しいなぁ。でも何か……あ、三つ編みならどうかなっ?」
「燐のみつあみかぁ……」
何気なく燐に却下されて、少し残念な蛍だったが、燐に言われて三つ編み姿を想像してみた。
燐も再び想像上で髪を整えてみる。
「……わたしは可愛いと思うけど、燐は?」
「う~ん、まあ、まだ今のままでもいいかな。ストレートは結構好きだし。それにしても確かに伸びたよねぇ。もう、一年近く伸ばしっぱなしだしね」
「うふふ、うん。そうだね……あれから一年だもんね。やっぱり髪も伸びるよね」
「一年ってすっごく早いよね」
「うん。あっという間」
燐は半分ほど瞼を開いて蛍を見つめていた。
子守歌のような蛍の声に耳を傾けながら。
「燐の手ってあったかいよね」
「でも、蛍ちゃん。さっき冷たいって言ってなかった?」
「今はあったかいよ。ほら」
蛍が手を強く握る。
確かに蛍の暖かさが手に伝わって来ていた。
「今はあったかいね。主に蛍ちゃんのおかげで。でもわたし、蛍ちゃんとはずっとこうして手を握っていたいんだ」
燐は半分ほど微睡んだ思考で微笑む。
蛍もそんな燐の顔を見ながら笑みを返す。
「それはわたしもだよ、燐とずっとこうしていたい」
二人はお互いの名を呼びながら両手を握り合った。
あの時離れ離れになった温もりが確かであることを確認するように。
「話変わるけど、”青パン”ってさ、今日も営業してるの?」
「あ、うん。お母さんああ見えて頑固だから。”一人でもお客が来るならその為にパンも焼くし、店を開けるんだ”、って」
「咲良さん、相変わらずだよね」
「まあね。わたしが家を出る時はあんなに寂しそうにしてたのに、今じゃケロっとしてるよ。むしろ足手まといが居なくなって清々するって言ってたぐらいだったし」
「あはは。その方があの人らしくていいよ」
「もう、蛍ちゃんはお母さんの肩持つからなあ。前なんて、わたしよりも蛍ちゃんの方が娘に欲しかった~、とか言ってるんだよっ。こんなに出来た娘がいるのにまったく、ねぇ」
「燐……自分でそんなこと言っちゃう?」
「言っちゃうよぉ」
「あはははっ」
季節が過ぎ、環境が変わっても二人は変わらず友達であり続けていた。
ふざけて笑い合うことも何も変わっていない。
それでも……何かが音を立てて崩れていく気がする。
絶対なんてものはこの世にはないのだから。
「ねぇ……蛍ちゃん。どこか悪い感じする?」
「え? なに突然? えと、なんともない、よ……?」
燐の唐突な質問に蛍は横になったまま首を傾げる。
だが燐の声色が真剣だったので、蛍は今の自分の調子を正直に答えた。
「吐き気は? 気持ち悪い、とかは」
「平気だよ。いちおう熱も測ってみたけど平熱だったし」
矢継ぎ早に質問してくる燐に疑問を感じながらも、蛍は淡々と答えた。
「ちょっとごめんね。ふむふむ……確かに熱は……ないっぽいね」
燐は腕を伸ばして蛍の額に手のひらを当ててみる……蛍の言うように熱はないみたいだった。
「ね。普通でしょ」
熱はないはずの蛍だったが、頬は少し赤くなっていた。
「あとはそうだなぁ……あ! 酸っぱい食べ物は? レモンとか、スダチとか酢ダコとか食べたくならない?」
「酢ダコって……燐。ひょっとして」
蛍はピンと来たのか少し声を潜めて、燐に聞き返した。
「ん?」
「わたしの事……妊婦さんか何かと勘違いしてない? さっきからそれっぽい気遣いしてるし」
「そんなつもりは……ないんだけど」
「ほんとに?」
「うんうん。ほんとだよ」
「……じーっ」
じとーっとした目つきの蛍に見つめられる。
無垢な瞳は燐の邪な考えを見透かすようだった。
「うっ、蛍ちゃんそんな目で見ないで~」
たまらず燐は声を出す。
「じじーっ」
さらに蛍が見つめてくる。
「はううっ」
燐は小動物のような瞳をつくって体を丸めると、照れ笑いを浮かべた。
「あはは、ごめんね。蛍ちゃんが可愛かったからちょっとからかっただけ」
蛍の視線に耐えきれず燐はあっさりと自供した。
「燐ってば……わたしにいつもそんなことばっかり言うんだもん。可愛いっていえば何でも許されると思ってるんでしょ?」
「そ、そんなことはないよ。わたし蛍ちゃんはいっつも可愛いなあ、綺麗だなあって思ってるしっ」
「もう……」
「あはははっ、ごめんね蛍ちゃん」
「いいよ、燐。気にしてないから。だってわたしたち友達でしょ」
「うん。そうだね」
「それに……燐とだったらそうなっても別にいいし……」
蛍は自分の下腹部の辺りを見ながらそっと呟いた。
「……あのー、蛍ちゃん。目の前にいるから全部聞こえちゃってるんだけど……」
おずおずと声を掛ける燐に、蛍は何も答えず笑みを作った。
だから燐も何も言わず目を細めて蛍を見つめ返した。
滝のように流れる雨がほんの少し弱まったような感じがした。
………
………
………
「ただいま~」
水玉模様のポンチョを羽織った燐が、玄関先で滴を零して帰ってた。
「お帰り燐。どこか行ってたの」
蛍が目を覚ました時、目の前にいたはずの燐が消えていた。
携帯にメッセージが残してあったので、特に心配はしなかったけど。
それでも無事に戻ってきてくれたことに心中でそっと感謝した。
蛍はダイニングテーブルに寄りかかりながら小説を開いて燐の事を待っていた。
傍らにはグラスに注いだ(ペットボトルの)紅茶を置いて。
「うん。半額になるまで待ってたの」
そう言ってエコバッグに入った半額シールの貼られた弁当を見せる燐。
その上からビニール袋が掛かっていて、雨から守っていた。
中身は半額シールが貼られた弁当とお惣菜。
賞味期限は全部今日までだった。
「あ、よだれ鶏もあったよ。ついでにスイーツもっ」
燐はもう一つの袋から二つ入りのケーキの包みを取り出す。
蛍に配慮してモンブランをチョイスしていた。
これにも割引シールが貼ってあった。
生クリームが苦手な蛍だったが、モンブランは何故か大丈夫というより好物だった。
「ちゃんと料理すればいいのにね」
他人事のように蛍はつぶやく。
実際大半の料理をするのが燐なので間違ってはいない。
「たまの休みぐらいはゆっくりしたいしね。あ、なんか社会人っぽい?」
「もう……」
蛍はくすくすと笑うと、傘があまり役に立たなかったのか、ずぶ濡れの燐を見てタオルを渡すと、直ぐに給湯器のスイッチを入れた」
「燐。先にシャワー浴びておいでよ。ご飯の準備はわたしがしておくから」
「サンキュー蛍ちゃん。じゃあお言葉に甘えちゃうね」
「うん……と言っても、温めるだけなんだけどね」
困った顔の蛍に燐は、あははと笑いかけると、すっかり濡れそぼった上着や下着を臆面もなく脱ぎ捨てた。
「燐。ちゃんと畳んでから洗濯機に入れてね。でないと皺になるよ」
「はいはい。もう、分かってるってばぁ。あ、蛍ちゃんも一緒に入る? 二人で洗いっこしよっか?」
燐は言われた通りに服の皺を伸ばして洗濯槽に入れると、誘うような口調で蛍をからかった。
「わたしは、まだいいや。燐が先に入って」
蛍は一瞬考え込んだが、すぐに思い直してそう答えた。
「あーあ、蛍ちゃんと一緒に入りたかったなあ。普通に洗いっこしたいだけなのにー。変なところとか触ったりしないんだけどねー。特に胸とか」
わざとらしい燐の言い方に蛍はため息をつく。
「変な事言ってないで早く入った方がいいのに。本当に風邪引いちゃうよ」
「はぁーい」
間延びした返事を返すと、観念したように燐はお風呂場の戸を閉めた。
(燐ごめんね。せっかく誘ってくれたのにね)
すりガラス越しの燐に心の中で謝罪すると、燐の着替えとバスタオルを棚の上に置いた。
「燐。ここに着替え置いておくからね」
「あ、うん。ありがとう」
燐は高らかに奏でていた鼻歌を止めて、軽やかなリズムでドア越しに答える。
燐の楽しげな返事にやっぱり一緒に入れば良かったかな、なんて蛍はちょっと思ったりもしたのだった。
───
──
─
夕食後、蛍と燐は窓際に椅子を並べて雨音に耳を傾けていた。
雨に濡れた街頭やネオンは宮殿のように煌びやかで。
いつまでも眺めていたいほど美しかった。
「今日って、何もしてなくない? わたしなんて食べて寝るしかしてない気がするよ」
残念そうに口をこぼす蛍。
「いいんじゃないかな。何もしない事が一番の贅沢って聞いたことがあるし」
燐は明日からの練習のスケジュールをノートに書き込みながら、蛍のぼやきを軽く流す。
休み前に大事な試合があるのでプランを入念に練っている最中だったから。
「燐は色々動いてるからいいんだよ。わたしが具体的にしたことって小説をちょっと読んだぐらいだったし」
燐に軽くあしらわれたと思った蛍は不満げに口を尖らせた。
「それでもいいんじゃない。蛍ちゃんは本読んだり曲聞いたりして、いつもリラックスしてるイメージがあるなあ」
「それって人としてダメっぽい感じじゃない? これと言った生産性がないっていうか……」
「気にしすぎだよ。蛍ちゃんはその自由なところがいいんじゃないかな。わたしと違ってあくせくしてない癒し系な所が、ね」
燐はペンを回すと、一段落ついたようでノートを閉じた。
「燐。それって褒めてるの? なんか複雑な気分なんだけど……このままだとどんどん太ってきそうで……」
蛍は脂肪の付き具合を近頃、妙に気にしているようで、お腹をむにむにと触ってはため息をついていた。
「もう、蛍ちゃんはプロポーション良いんだから、気にする必要なんてどこにもないでしょ」
やや呆れたような声の燐に、蛍はそっと胸の内を明かす。
「だって、燐。太ったら幻滅するでしょ? わたしに燐に嫌われたくないもん」
悩める乙女の吐露に、燐はぽっと顔を赤くする。
「そんなことないよ。わたし蛍ちゃんが仮に”こーんなに”太っても嫌いになんて絶対ならないからっ」
燐は大きく手を広げて”こーんなに”を表現した。
その広さは蛍の体系の二倍以上はあった。
「そこまでは流石にならないけど、本当、燐?」
「うん。だって蛍ちゃんは蛍ちゃんでしょ。わたしはどんな蛍ちゃんでも愛せるよ」
燐の素直な告白に蛍は目をぱちぱちとさせた。
「それは……嬉しいけど、ちょっとフクザツな気分かも……外見だけじゃなくて中身も好きになって欲しいな……」
「蛍ちゃんの中身も……って、言い方は良くないけど、もちろん好きだよ。それはずっともうずっと前から」
「だったら、嬉しいな。わたしも燐のことずっと前から好きだよ」
蛍は素直な気持ちで燐に告白した。
「あはっ、なんか面と向かって言われちゃうと照れちゃうね」
燐は照れくささを誤魔化すように、自分の髪を何度も触っていた。
「うん。でも、本当のことだから」
顔を赤くした二人は顔を見合わせる。
少し微妙な、土砂降りの外とは真逆の空気が流れた。
「あー、じゃあさ。踊ろうっか蛍ちゃん!! 楽しいし、痩せられるしで、一石二鳥だし!」
「えっ!? 突然何言ってるの燐」
さも名案とばかりに手を叩く燐に、蛍は困惑の顔を向ける。
新築のマンションだから、防音等はしっかりしているとは思うけど。
だからって今ここで踊るなんて……。
燐の提案は、蛍にとってあまりにも突飛すぎた。
わけが分からないまま燐に手を引かれて立ち上がると、蛍はたどたどしい足取りでダンスのようなものを踊らされていた。
ダンスの課題でも上手く踊れない蛍が燐に手を引かれただけですぐに踊れるはずがない。
それが当たり前だった。
「なんかちょーっと、動きがぎこちないね……あっ、そうだ! 蛍ちゃん、何か曲があった方が踊りやすいよね?」
燐は一旦踊るのを止めて、テーブルの上の自分のスマホを操作し始めた。
音楽系のアプリだろうか、あれでもないこれでもないと燐は試行錯誤している。
すると、お目当ての曲が見つかったのか、燐は目をぱっと輝かせてスマホを叩くと、再び蛍の手を取って踊り始めた。
ピアノのイントロが静かに流れる。
蛍はその曲に聞き覚えがあった。
二人は曲に合わせてゆっくりと踊りだす。
蛍が唯一と言っていいほどリズムに乗れる曲、だから燐は選んだんだろう。
”例えば月の階段で”を。
案の定、燐は歌い始める。
ちゃんと自分のパート、リズムをつくって。
こうなると蛍も黙って聞いていることは出来ない。
蛍も自分のパートで歌いだす。
声だけじゃなく手も足も自然と動く。
それはどっちかというと曲というよりも条件反射、に近かった。
伸びのある燐の歌声に、蛍も声を重ね合わせる。
ただの軽いダンスのつもりが何時しか本格的なライヴになっていた。
しだいに二人の息がぴったりと合ってくるようになり、足取りも当初とは見違えるような軽やかさになっていた。
だからか間奏の間、少し話す余裕が出てくるようになった。
「ねぇ、燐、なんで……踊ろうと思ったの? しかも、こんな雨の日の夜なのに」
二人ともパジャマ姿のまま、引っ掛けたスリッパで踊っていた。
ぺたぺたと暢気な音が床を鳴らす。
コメディチックな足音に自然と笑みが出ていた。
「こういうの、憧れだったんだ。マンションで踊る二人っていう、シチュエーションに」
燐は蛍の手を取ったままくるっと翻る。
そのしなやかな動きに蛍は目を奪われていた。
燐は授業のときのダンスでも別格の上手さがあった。
歌も踊りも完璧な燐はアイドルの素養が最初から合ったとも言える。
対して蛍は歌も踊りもどこかズレていた。
少し前にあったアイドルオーディションの時もこの歌で二人はエントリーしていた。
どこかちぐはぐなデュオだったのに、そのギャップが受けたのか、何故か最終選考までは行くことが出来た。
でも、結局辞退した。
蛍は上手くやれる自信がなかったからこの事に安堵した。
燐は店の手伝いだけでなく、年明けからホッケー部のキャプテンになっていたからとてもじゃないけど無理だった。
勿体ないとみんなに言われたが、蛍はともかく燐は意外にもそうは思わなかったようだった。
その事を蛍が尋ねた時、燐はあっけらかんと言った。
「蛍ちゃんと一緒に歌えたからそれで十分だよ」
と。
満足そうに微笑む燐を見て、蛍はぽかんと口を開けていた。
でも実際、燐は十分だったんだと思う。
不可解な事象、不条理な目に遭ったのだから。
多くは望まない、きっとそういうことなんだろう。
それは蛍も同じ気持ちだったから。
燐の気持ちが分かることが嬉しかった。
「ねぇ、燐。もし明日が晴れになったらどこか行かない?」
蛍は、もつれ込みそうになる足をわたわた動かすと、微笑んで燐にそう提案した。
「別に、いいけど……学校は?」
「学校も、たまのお休みで事でいいんじゃない。燐はいつも、頑張ってるんだし」
蛍が珍しいことを口にしたので燐は目を丸くした。
それでもステップは軽やかに刻んで。
「蛍ちゃん。悪い子だー」
くすくすと笑う燐に蛍も笑みを返す。
それだけでお互いの気持ちがすぐに分かった。
瞳を見るだけ、手を握るだけで分かる。
それは二人だけしか分からない事だった。
「いいよ。でも、晴れたらだからね」
「きっと、晴れるよ」
そう──明日は晴れになる。
蛍は予感があった。
だからこそ燐と約束したかった。
もう時間は殆ど残っていないと思うから。
ちょうど曲が終わったところで、蛍は足を止めて燐の顔を見た。
燐も蛍の顔を見つめる。
二人は今、お互いのことだけを見ていた。
燐と蛍、傷だらけだけど綺麗でどこか儚い少女たちを。
「あのね。燐」
蛍は一度呼吸を整えるように息をのむと、覚悟を決めたように口を開く。
本当は何も言うつもりはなかった、せっかくの幸せな気分に水を差したくなかったし。
このまま自分が黙っていればいいと思っていたから。
でも、燐は何を言うか分かっているみたいに、純粋な瞳を向けて見つめていた。
だから躊躇いは確かにあるけど、後悔はないつもりだった。
蛍の言葉を燐が静かに待っていたとき。
──それは起こった。
「えっ!? なに?」
燐は自分の周囲を見渡して大きな声を上げていた。
蛍も同じように困惑した表情で燐と自分とを見比べている。
この前兆には確かに覚えがあったから。
それが今頃になって起きるなんて夢にも思わなかった。
もう無くなったものとばかりと思っていたから。
目を見開いて手を取り合っている二人の中心で風が吹いていた。
全ての窓は閉め切っているし、空調は動きを止めていたにも関わらず。
──風がどこからか吹いていた。
風は森のような香りを運んで小さな渦を作り、天井に吊り下げられている照明をかたかたと揺らし続ける。
燐の部活のノートがぱらぱらとめくり上がり、しだいにその強さを増していった。
「これって!?」
蛍は声を荒げて尋ねる。
燐は深く頷く。
もう二度と起こらないと思ったこと。
それがなぜ、このタイミングでなったのか。
渦はどんどんと大きくなり、壁に掛けてあったカレンダーやリビングの隅の大きな観葉植物さえも揺らし始めていた。
二人は覚悟を決めたように頷き合うと。
「燐。行こう」
「うんっ」
行く意思を決めたのは蛍の方が若干早かったが、燐も特に迷いは見せなかった。
二人は瞼を閉じて、同じような呼吸で肩の力を抜いた。
風と光に身をまかせるように。
思いを汲み取ったように真っ白い光の渦が二人を包む。
けれどもその手は固く握られたままで。
白い光は一切強く輝くと、二人のいたマンションの一室をぱっと照らすと。
淡い光の粒を放ちながら、打ちあがった花火のように収束していった。
二人が消えたリビングは照明が点いたままになっていた。
少し前の生活感を残したまま、しぃんと静まり返っている。
その行先は様として誰も知らなかったが。
一部始終を見ているものはいた。
白い影──。
けれどもそれはとても小さくて、何も語るようなこともなく、ただ見ているだけの白い人形。
その人形は二体いた。
軒先に括りつけられていたそれは、雨が止むようにと首を縛られた哀れな少女の姿を模していた。
頭をツインテールにしているテルテル坊主は燐が作ったもので。
ちょっと形は悪いが、それでもどこか愛嬌のある顔と、カチューシャを付けているテルテル坊主が蛍の作ったものだった。
二人はお互いのテルテル坊主を作り、それを軒先につるしていた。
晴れが来るその日を願いながら。
でも二人はその晴れを拝むことなくどこかへと行ってしまった。
吹き上げるビル風がテルテル坊主を強く揺らす。
けれども二人は寄り添ってその風に耐えていた。
その真下で、色とりどりの車の波が水浸しの町をじゃばじゃばと泳ぐように走行していた。
まるで夜の海、夜のプールを泳いでいるように。
それはちょうど夏の蛍の様にとても綺麗で。
優雅で、そして儚かった。
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──
雨続き……と思ったら今度は猛暑が続くことに……。そしてまた雨が続くみたいですね。
なんかもう冬が恋しくなってきたかも……? そういう時はゆるキャン△ を見ると少し涼しくなる、かも?(ダイレクトマーケティング)。
先日、コインランドリーに入れてそのまま履かない放置していたシューズが見つかったので久々に履いてみようと思ったらば……すごくボロボロになってるし……。
このまま捨ててもいいかなと思ったんですが、せっかくなので家にあった”結ばなくてもいい靴ヒモ”を装着してみることにする──。
うん、これは中々……ダメな感じだなぁ……シリコン製だと思うけどやっぱりどこか変な感じになりますねー。でも脱ぎ履きは確かに楽なんですけどねー。
でもこれを装着したらどんなハイブランドのシューズでももれなく魅力半減になりますねぇ……靴紐も立派なシューズの一部ですねー。
さてさて、首都高値上げ前に、親戚の家にネコをもふもふしに行ってみました(それだけじゃないですけども)。
前に比べて大分懐くようになってきたので、かまいがいがあるなあ。ちょうど生え変わりの時期なのか猫の毛びっしりになるのがちょっと難ですけどもー。
ではではー。