We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life.   作:Towelie

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 良く分からないままに夏は終わって。

 柔らかく色づく秋の気配が山肌にほんのりと朱色を落としそうな頃のことだった。

 何でだったのかは覚えてはいない。
 
 けもの道とも呼べる小径をひとりで歩いていた。
 そうといっても休日は一人になることが多いのだが。

 空は高く。

 抜けるように広い。

 魚の鱗のように連なった細い雲の広がりに、夏の終わりを如実に感じさせた。

 駆け抜けて、そして終わってしまった夏。

 今年も大して変わらないと思っていた。

 けれどわたしは本当の夏がくるその前に、大切な、とても大切なものを失ってしまった。

 失いたくなんてなかった筈なのに。

 今まで大切にしてきたつもりだった。

 そのつもりだったけど……。

 家族も、親友も、大事な人も。

 そして……自分自身でさえも。

 全てが壊れてしまった、バラバラと音を立てて。

 あの出来事が全て悪い訳ではない。

 そう、思っている。

 あれはただのきっかけに過ぎなくて本当はもう、取り返しのつかない所まできていたんだと思う。

 分かっていたことだった。
 傷つきたくないから触れなかっただけのことで。

 誰だって傷つきたくなんてないから。

 でも、わたしは弱いから自分で傷を広げていって。
 そして最後は砕けてしまった。

 それでもこうして移り変わる直前の山の景色を見ている。
 
 自分の足で、ひとりきりで。

 確かにこの世界から消えてしまったのに。

 遠くの山を眺めている。

 ……
 ………
 …………

 暑いと思ったら急に気温が下がったりと安定しない日々が続いたが、ここにきてようやく季節が落ち着くことができたようで、ちょうどよい散歩日和だった。

 風がほんの少しひんやりとしてたけど、ちょっとした山歩きにはちょうど良い。

 トレッキングとか高い山に登るとかはまだしたくはなかったから。

 ひとりで行動するのが怖いわけじゃないと思う。
 まだちょっと慣れてないだけで。

 でも孤独が怖いわけじゃない。

 自由。
 一人でいる自由に戸惑いをもっているんだと、そう思う。

 それに、やることがない日は家にこもりがちだったから母親が要らぬ心配して、なんて……外に出たのは多分そんな理由だろう。

 だけど、部活では常に体は動いているし、家でだってゴロゴロしていることなんてない。

 店の手伝いはしょっちゅうだったし、無免許運転……もとい! まだ日が昇る前から起きて、隣県にまでパンの配達をしたりと、常に予定はいっぱいいっぱいだったから。

 たまには家に籠る日があってもいいとは思っている。

(まあ、心配なのは良く分かるんだけどね)

 半ば追い出されるように家を出た。

 あの人()はこういうこと強引だったから。

 渋々だったけど、外に出て良かったと今は思っている。

 秋直前の野山の景色は目にも心にも極上の癒しになっていたから。

 紅葉する前の穏やかな緑、まだ自分の中に少しの期待が残っていることの表れのように思えて、綺麗だけどちょっとだけ寂しく感じた。

 何も知らずにいられたら、なんて……そんなことを今更思い返してみたところで何の慰めにもなりはしないから。

(時間を巻き戻したって、きっとどうにもならないよね……)

 なぜだろう、それだけは確信ができた。

 運命とか絶対なんて言葉は使いたくはないが、抗いようのないことだったんだと思っている。

 そう思い込むことで、納得しようとしているのかもしれないが。

「はぁ」

 気分を少しだけでも変えようと、ずっと愛用していたアウトドアウェアや道具を丸々一式処分した。

 引っ越しの際の荷物を減らす目的もあったけど、本当のところは別にあった。
 我ながら思い切ったことしたと、つくづくそう思う。

 何かを察した母親に眉をひそめられたが、もう持っていても意味のないものだったから取り繕った顔でなんとか乗り切った。

 自分で買ったものばかりだったけど、思っていたほど未練はなかった。

 でも、あの時のピンク色のトレッキングシューズとバックパック。
 そして、そこに括り付けられて揺れている小さなお守り。
 それだけはまだ、捨てずに残しておいたままだった。

 そして、今もこの時も身に付けている。

 ピンクのトレッキングシューズはもはや完全に自分の足となっていた。
 これを履かない生活なんて考えられないし、考えたくもない。

 きっとボロボロになるまで使い続けるだろう。

 バックパックだって今だ通学用のカバンとして持っている。
 まだしっかりしてるし、とても気に入ってるデザインだったから。

(でも、このお守りは……)

 もう未練はないと言っていたのに、どうしても捨てることが出来なかった。

 それは忘れがたい苦い思いからくるものなのか。
 それともまだ、期待している……の?

 あの人はわたしから離れてしまったのに。

 ついでに髪の毛も切ってしまおうかと思ったが。
 当てつけみたいに思えてこれも止めた。

 けれど母には”パン職人なら髪の毛はより短いほうがいい”と散髪を勧められた。
 ついでに運動部なら髪は短くて当然だとも言われたけど。

(これ以上短くしたら、ベリーショートになっちゃうじゃん。それにパン職人になるなんて一言も言ってないしっ)

 憮然とした表情のまま、雑木林に囲まれた裏山を散策していた時。

 それは不意に起こった。

 がさがさっ。

 考え事をしながら歩いていたせいか一瞬反応が遅れてしまった。

 なにかの前触れのように草むらの影が揺れ動く。
 その奥の灌木の裏側辺りに何かがいるようだった。

(な、なんだろう? この辺りって何の動物が居たんだっけ?)

 まだ陽が高いからと油断していたのもあったと思う。

 熊や猪のような野生動物なんてこの辺りではそうそう出てくるものではないと思い込んでいたから。

 アウトドアではその思い込みからの油断が一番危ないのだ、と散々言われてきたのに。

「くっ……!」

 今すぐ逃げ出した方が良いのだろうか。
 でももし、相手が熊だったのなら、本能的にこちらを追いかけてくる可能性もある。

 こんな時に限ってクマ除け用の鈴は持っていなかった。

 近所の山をちょっと歩くのにそんな大げさなものは必要ないと、自分で家に置いてきたのだ。

 ”備えよ常に”。

 誰かのお節介な言葉が嗜めるように頭の中で何度も響きまわる。

(今更、そんなこと言ったって)

 前にもわたしは同じことを言った。

 多分、きっと。

 がさがさっ!

 余計な事に頭を使っていると、それはこちらが身構えるも早く、草むらから飛び出てきてしまった──。

 灌木の影から出てきた姿にわたしは驚愕した。

 だって出てきたものは。

「わんっ!」

 白い……犬だった。
 
 まるであの時の再現をしているかのような状況に、わたしは口を大きく開けて膠着していた。

 それは時が止まったように。

 あまりにもそうとしか思えなかったから。

「さ、サト……くん? なの……??」

 何気ない午後の休日。

 わたしは全く予期せぬ形で一匹の白い犬と再開を果たした。


「わんっ!」

 こちらの呼びかけに答えるかのように、白い犬はまた一声鳴いた。

 何処か愛嬌のあるその吠え声は正しく”サトくん”だった。

 だってサトくんには()()が出来るから。

 ちゃんとわたしの言葉を聞いていてくれてたから。

 出会ったときからずっとそうだった、サトくんは。

「サトくんっ!!!」

 感情に突き動かされたようにわたしはサトくんに抱きついた。

 もふもふの毛に覆われた少し太め首に手を回して小さな体を抱きしめた。

(あたたかい……)

 柔らかい毛並みはひだまりを万遍なく含んでいるようなお日様の臭いがした。
 それはわたしの心をふぅわりと包み込んで、安らぎと安堵を与えてくれた。

 土と獣と陽だまりと。

 ()い交ぜになった香りは確かにサトくんだった。

(でも、なんだろう、何かが……違う……?)

 匂いも容姿も確かにサトくんになのに、何がが引っ掛かる。
 何の要素が違うと言うのか。

()()()、サトくん……なんだよね?」

 こちらをじっと見つめる犬にもう一度尋ねてみる。
 見間違え、とは思えないが。

「くーん」

 サトくんは鼻を鳴らすと、ぺろぺろと手を舐め始めた。
 
 まさしく犬の仕草だったのだが。

 その無邪気な様子に少し困った顔で眺めていたとき、ふとあることに気が付いた。

 というより、なんでこんな分かりやすいことに直ぐに気づかなかったのかが不思議なぐらいだった。

「そういえばサトくん。首に巻いてた青いバンダナはどうしたの? どこかで落としちゃったのかな?」

 両手で顔を覆い隠すように持ち上げて、頬の辺りをむにむにと擦りながらサトくんに尋ねた。

 しかし、サトくんは目を細めてされるがまま何も答えてはくれない。

 それは犬だから当然なのだけど。

「そういえば……”右目”も治ってるね。良かったね、サトくん」

 初めて会った時からサトくんは怪我をしていたらしく、右目に包帯を巻いていた。
 
 それは後になってオオモト様が処置したからだと分かったけど。

(あの時は”左目”って言っちゃったけど)

 わたしは何を勘違いしたのか、左目を怪我してるって言ってしまった。
 勘違いにしては、(年齢的に)かなり恥ずかしいものだったが。

 あれはある意味では正しかったのかもしれない。
 サトくんから見たわたしを無意識に見ていたのかも。

 あの時”左側に居たわたし”を。

(……我ながら苦しい言い訳だとは思うけど)

「くーん、くーん」

 尻尾を左右にぱたぱたと振っているところをみるとサトくんは喜んでいるらしい。

 犬の様と言うより、獣特有の表現に安堵した。

「なんだ、やっぱり言葉分かるじゃん」

 わたしは安心しきった笑みをサトくんに向けた。

 忘れかけていたほんものの笑顔。
 陰りの無い本当の笑顔で。

 サトくんだったからこうして笑えたのだろう。

 わたしの本当の顔を知っている人はこの世界にはもう誰もいないと思っていたから。

「わんっ!」

 サトくんは軽快な声でひとつ鳴くと、わたしの手からするりと抜けだして、尻尾を振りながら急にトコトコと歩き出した。

 サトくんのこの突飛な挙動には見覚えがあったから、わたしも素早く立ち上がって戸惑うことなくその後についていく。

「わたしについて来いって言いたいんだよね、サトくん」

 白い犬は何も答えずただ歩いていく。

 わたしにピッタリのちょうどいいテンポで。

 ──サトくんの行く先に何かがある。

 わたしは確信めいたものを胸中に感じながら、まだ真新しいカフェオレ色のジャケットのチャックをぎゅっと引き上げた。

 ────
 ───
 ──




Ultramarine

 ────

 ───

 ──

 

「ねえ、燐」

 

「………」

 

「燐ってば」

 

「……あ、あれっ」

 

「どうしたの燐。ぼーっとして」

 

「あー、ごめん。そのぉ……不思議だなぁって思って」

 

 慌てたように言葉をつくる燐。

 

 その時、燐の口から一際大きな泡がこぼれてだしていく。

 それは生きている証でもあったし、ここに囚われていることも示していた。

 

 ベルベットのような青の残像。

 それは天井だけでなく、二人の全身をも包み込んで離さないようでいた。

 

「え、何が?」

 

「なにがって……今、こうしていること、だよ」

 

 小首を傾げる蛍に燐は脱力したように小さく笑みを見せる。

 と、同時に呆れたようなため息もついた。

 

 言葉に続くように、ぽこりと丸い泡が浮かび上がりひとりでに上へと向かっていった。

 青い空の待つ地上へと。

 

 こぽり。

 

 自分で作った気泡をただ見送る。

 

 空まで浮かび上がった言葉は誰に届くのだろうか。

 

「……」

 

 なにかがおかしい世界だとは思っていた。

 空も太陽もプラットフォームも普通そうに見えて、普通のものではなかった。

 

 けれどここまで現実と剥離したことはない。

 

 つまり、物事の(ことわり)を超えている。

 

 不思議の概念そのものだった。

 

 この広大な水たまりはいつ、どうやって出来たものなのか。

 

 ()()()()では、ここまでの規模ではなかったはず。

 

 今のこれはあのウユニ塩湖よりも深く広い湖だと思う。

 

 行ったことはないけど。

 

 その湖の中に引き込まれて、二人とも溺れてしまったはず、だった。

 

 螺旋階段から転げ落ちるようにあっけなく深い底まで。

 

 為す術もなかった。

 

 水を沢山飲んでしまったはずなのに、その水の底で息をして、そして普通にお喋りまでしている。

 

 まるでこの水の世界が日常であるかのように。

 

 どう考えてみても不自然で不思議だった。

 それ以外の説明の仕様がなかったから。

 

 でも、まだ生きていることには感謝した。

 

「ああ、そういうこと」

 

「なにか他に気になることでもあるの、蛍ちゃん」

 

「そういうわけじゃないんだけど……わたしはそれほど違和感がないから。ここにいることに」

 

「思ってた以上に居心地いいっていうか……燐の言うように先祖返りしてるのかもね」

 

 蛍はとつとつと話を続けながら困ったように苦笑いした。

 

「あはっ、蛍ちゃんもそうなんだ、実はわたしも。初めの内はどうしようかと思ったけど意外と悪くないよね。ちょっと宇宙空間っぽくない?」

 

 そう言って燐は水中で膝を抱えると、反動を利用してその場で一回転してみせた。

 

「うん。なんか月の上にいるみたいだよね。この砂だってなんか星の形みたいだし」

 

 蛍は足元に広がる無数の砂を一つまみすると、青い宇宙の中に放りなげた。

 

 さらさらした砂の粒子が、青いスクリーンをバックに流星へと変化していく。

 

 二人の目の前で水の星空が瞬いていた。

 

「綺麗だね」

 

「うん、とっても」

 

 地上と全く違うのに、同じように息をすることが出来る。

 

 でも、それしかできない。

 けれど、ここでしかできない事もあった。

 

 それはほんの些細なことしかないけど。

 それでもどこか楽しい。

 

 それと引き換えに何か大切なものを失っていくような、そんな不安はないわけではないけど。

 

 それでも友達と一緒にいる。

 

 一番大切な友達と一緒に見ているから。

 

(綺麗なんだと思うよ。そうだよね、燐……)

 

 水の青と空の青。

 二つの青が交じり合った青のパッチワークが群青色の半球を描き出していた。

 

 そこからこぼれる光が、穏やかな青の世界を作っていた。

 

 上を通りすぎる真綿のような雲は、時折底の方までもその滲んだ影を落としていた。

 

 雲の切れ間から覗く光はどこかぼんやりとして頼りないが、それでも懐中電灯の明かりなんかよりもずっと眩しかった。

 

「なんかさ、すごく大きいプールにいるみたいだよね」

 

「分かるー、わたしプールの底を歩いたことあるよ」

 

「あ、わたしもやったことあるよ、でも直ぐに浮き上がっちゃうんだよね」

 

 小首をかしげる蛍に燐は苦笑いすると、蛍の胸の辺りを指さした。

 

「蛍ちゃんはほら、色々と大きいから浮きやすいんだよ、きっと」

 

「大きいせいだから、なの? それってなんか不公平じゃない?」

 

 蛍は自身のバストをぺたぺたと触りながら言った。

 

「ここではそんなに体が浮き上がらないから良いんじゃないかな」

 

「まぁ、そういうことになる、のかなぁ……なんだか納得できないところもあるけど……」

 

 何度も首を傾げる蛍に燐はあははと苦笑するしかなかった。

 

 ────

 ────

 ────

 

「ちょっと暗いけど、そこまで視界は悪くないね」

 

 ざくざくと、砂と石の大地を踏みしめながら蛍は感嘆するように言った。

 頭上から伸びる光の柱は、夜道の街燈のように常に二人を照らし続けていてくれてたから。

 

 満月のような、ほどよい明るさで。

 

「うん。確かに良い明るさだよね。暗くも眩しくもなく。なんか水族館の中にいる気分だよ」

 

「水族館か……そういえば燐は水族館に行ったことある?」

 

 隣で手を握る燐に尋ねた。

 

「あれ? 蛍ちゃんと一緒に行ったことってなかったっけ? ほら、あのちょっと古い感じの水族館に」

 

 入り江の中を渡り廊下みたいに進むからちょっと怖い感じもするんだけど、イルカのショーやペンギンなんかもいて、見た目以上に楽しめたあの……。

 

 燐はしきりに説明するも、蛍には初めて聞くことだったので首を傾げるだけ。

 

「ごめん、わたしは一緒に行ってないね。子供の頃の遠足で行った記憶しかないし」

 

「ごめんごめん。そっか、わたしも小さい頃家族と行っただけだったみたい。ごめんね蛍ちゃん」

 

 燐は反省するように蛍の前で手を合わせた。

 

「ふふ、いいよ。でも、いつか燐と一緒に水族館に行きたいな」

 

 燐があんなに必死に説明してくれるなら行ってみたいと思うのは蛍にとって当然のことだった。

 

 そして、はにかむような笑顔を見せる蛍に燐は大きく頷いた。

 

「今度のお休みにでも行ってみようよ。蛍ちゃんと一緒ならきっと何倍も楽しいよ」

 

「でも、燐。来週試合って言ってなかった? 予選を決める大事な試合なんでしょ」

 

「あ、そうだった。あ~あ、せめて魚でも泳いでくたら水族館気分に浸れて良かったのにねぇ」

 

 魚どころか動くもの一つもないけれど。

 それでも何かがいることを願ってしまう。

 

「敵意があるものはお断りだけどね」

 

 考えを見透かすように蛍は小さく舌を出した。

 

「だよね。もう少し明かりが下まで届いてれば見通しが良さそうなんだけど……?」

 

 深い水の底は濁っているのか、それとも澄んでいるのか。

 どちらとも判然が付かないほど濃く、何かがわだかまっているかのようだった。

 

 頭上からの細い光だけを頼りに進むしかないのだが、それでもあの漆黒の世界に比べたらずっとマシだった。

 

 ただ、この青の水がもっと濃く、そして先が全く見通せないほどの濁りだったのなら、きっと直ぐに水面まで逃げ泳いだに違いない。

 

 そういう意味では何らかの意図がある気もする。

 

 あの小平口町の歪みのように。

 

(……ん?)

 

 蛍はふと気配のようなものを感じて、何気なく後ろを振り返る。

 

 けれどそこには何もない。

 

 揺蕩うような静けさと砂漠のような砂地が無限に広がっているだけ。

 

 ただ、恐ろしく静かだった。

 

 黒いわだかまりの様な思いは蛍の中でどんどんと膨らんでいき、やがて影を作り出す。

 

 そこには何もいない。

 

 だからこその恐怖もあった。

 

(あの時、何かがわたしを掴んだんだ。そのせいで燐と一緒に底にまで……)

 

 はっきりとは見てない。

 と言うより何も見えなかった。

 

 ただ、足が抜けてしまうほどの強い力で引っ張ってきた。

 それは燐と一緒でもお構いなしに。

 

 ぬめっとした感触が一瞬あっただけで、後は訳も分からずに水中へと引き込まれてしまったから。

 

 蛍は首を振って踵を返すと。

 

(もう後戻りはできないんだきっと……)

 

 二人だけの世界だと思っていただけに蛍はショックを隠し切れず、燐の元まで駆け寄るとその小さな手をぎゅっと掴んだ。

 

(燐っ……!)

 

 自分では強く握ったつもりだったが、水の中だからか思ってたよりも力が出ない。

 だから燐はそれほど気にすることもなく。

 

「どうしたの蛍ちゃん。何かあったの?」

 

 急に手を握られて驚いた燐が顔を覗き込んできた。

 

「あ、えっと……」

 

 何の穢れもない燐の瞳に、安堵を覚えた蛍はホッと胸を撫で下ろす。

 

 せめて燐だけでも何も知らないままでいられるのならそれでよかったから。

 

「な、なんでもないよ。それより燐、もうちょっと先へ行ってみようよ。もしかしたら何かみつかるかもしれないし」

 

「え、うん。そうだね。せっかくだしもう少し進んでみてもいいよね。こんなこと滅多に出来るもんでもないし」

 

 燐と蛍は確認するように頷き合うと、夜の砂漠を彷彿とさせる群青色の先へと足を進めた。

 

 ……

 ……

 ……

 

 

「この世界の終わりってあるのかなぁ……」

 

 かなり歩いたつもりだったが、さっきから景色が変わっていないことに燐はげんなりとした様子を見せる。

 

「どう、なんだろうね。でも緑のトンネルの時みたいに、いつかは終わりが来ると思うよ」

 

 先へ急ぐようにと促した蛍だったが、少し後悔をし始めていた。

 池や湖に相当する、岸のようなものが見つかりそうになかったからだ。

 

「そうだよね、このままずっと続いてるなんてことはないよね」

 

 どんな道にも必ず終わりはくる。

 それが辛く険しい道だったとしても。

 

 逆に楽しくてずっと歩いていたいと思う道にも終わりはくる。

 

 始まって、そして終わる。

 それが美しいということだろう。

 

「もしかしたらここってアレかも……」

 

 やや疲労した顔の蛍が唐突に呟いた。

 

「アレって?」

 

 青一色の景色に飽きてきた燐は興味深そうに蛍の言葉を待った。

 

「燐は”天動説”って聞いたことある? 地球は平らで宇宙の中心にあって、世界の果てがあるって言う、昔の人の論説」

 

「わたしも知ってるよ、それ。海は滝みたいに途中で無くなってて、大地を大きな亀が支えてるだったっけ? あ、もしかして蛍ちゃんが言いたいのは、この世界はその天動説だってこと?」

 

「うん、荒唐無稽かとは思うけど、なんとなくそんな感じなのかって……」

 

 蛍は恥ずかしそうに小さく頷いた。

 

「じゃあこのまま進んでれば行き止まりじゃなくて、水の切れ目があるの?」

 

「分からないけど……」

 

 この世界の果て。

 それを確かに見たことはない。

 

 線路の先に続く世界だって結局見ることは出来なかったから。

 

 あの現実こそが先と捉えることも出来るが。

 

(でも、あの風車だらけの世界は? あそこと繋がっていたんじゃないの?)

 

 だって──オオモト様も来ていたし。

 

 燐は頭を巡らせる。

 世界の謎じゃないけど、世界の繋がりが見えなかった。

 

「わたしはどこだっていいんだけどね、燐と一緒に居られさえすれば」

 

「蛍ちゃん……」

 

 二人は同じ考え、同じ方向だった。

 

 緑のトンネルの時とは違い出ることだけになら、多分簡単だとは思う。

 

 青の天井はずっと開け放たれているのだから。

 

「それは……わたしもだよ。蛍ちゃんと一緒にどこまでも行ってみたい」

 

 今度も本心からの言葉。

 

 友達に対して偽りの言葉なんて一度も言ったことがない。

 だって、とても大切な人だったから。

 

「うん」

 

 きっと、まだ楽しみたかったんだと思う。

 

 理由がないからこそ楽しい。

 そういう時間こそが幸福なのかもしれない。

 

 わたしたちは何かしらに理由を求めてしまうものだから。

 

「そういえばさ、蛍ちゃん、からだ重くない? なんだかんだで水の抵抗ってあるよね」

 

「あ、うん。でもまだ大丈夫だよ。軽いジョギングをしているような感じと似てるかも」

 

 燐の言うように水の中ではただ歩くだけでも結構な体力を消費してしまう。

 息も出来て、濡れることもないのに、”そういうところ”は法則に乗っ取っていた。

 

「ねえ、蛍ちゃん。やっぱり服、脱いじゃってもいいんじゃない? どうせ誰も見ていないんだし、そのほうが体動かしやすくなるよ」

 

 燐の突然の提案に蛍は驚いて口をあんぐりと開けた。

 

「えっと……別に、いいよ。せっかく濡れないんだから脱ぐ必要なんてないと思うよ」

 

 困った顔で蛍は苦笑した。

 

「えー、でもさ、服着てるとなんだかゴワゴワしてこない? あの夜のプールみたいにさ裸になってみようよ。きっとすごく気持ちいいよー」

 

 なにかこだわりがあるのか、燐は食い下がるように再度提案してくる。

 その意図が読めた蛍はあえて口にする。

 

「それって、燐がわたしの裸をみたいだけなんでしょ?」

 

 燐は虚をつかれたように一瞬押し黙ると。

 

「そそ、そんなことないよー。蛍ちゃんの体はすっごく綺麗だけどぉ……ご、合理性からそう言っただけっ、他意はないからねっ」

 

 そういった燐の目は周りの背景よりも緩やかに泳いでいた。

 

(はぁ……)

 

 蛍は胸中でため息をつく。

 

 でも、嬉しくないわけではなかった。

 だって、燐が綺麗って言ってくれたのだから。

 

 好きな人にそう言われて嫌な人なんていない。

 たとえそれが届かない人であっても。

 

 燐が最初に告白してくれたのは、歪んだ夜のプールでのことだった。

 

 二人とも当然水着は持っていなかったので、燐はともかく蛍はしぶしぶ裸になったのだったが、確かにあの時はとても素敵で気持ちのいい一夜だった。

 

(燐とわたし。二人だけの夜だったね)

 

 お互いの気持ちを告白して、そして認め合った。

 あの時初めて燐と気持ちが一つになった、そう蛍は思っていた。

 

 だから燐が言いたいことは良くわかる。

 あの充足感は何事にも代えがたいものだったから。

 

 けれど。

 

「でもさ、燐。脱いじゃった後、その服ってどうするの? 持ったまま歩いたりするほうが面倒なんじゃない?」

 

「あ……」

 

 確かにそうだった。

 燐は鳩が豆鉄砲を食ったような顔でポカンと口を開けていた。

 

「……だよね。服をその辺に捨てちゃうのもなんか悪い気がするもんね」

 

「うん。それに濡れないんだからこのままでいいんだよ」

 

「まあ……蛍ちゃんがそういうのならいいんだけどさ」

 

 腑に落ちないのか燐は少し口を尖らせた。

 

「うふふ、燐がどうしても脱ぎたいっていうなら止めないけどね」

 

「えー、わたし一人だけなんてなんか嫌だなあ。こーゆーのは二人一緒じゃないとね」

 

「じゃあ、今は諦めてね」

 

 蛍はそう言い切ると、元気よく腕を振って歩きだした。

 燐はガッカリしたようにその後に続く。

 

「やっぱり不思議だよね。まるで山の上を歩いているみたい」

 

 酸素不足というわけではない。

 それぐらい歩くのが険しいと言う意味だった。

 

 燐はホッケー部の部長になったことでこれまで以上に部活に専念するようになった。

 そのせいか休日はトレーニングと称して、また山に登るようになっていた。

 

 蛍も一緒に登ってみたのだが、ペースについていくのが精一杯で景色を楽しむ余裕すらなかった。

 

「結構、膝にくるね。本当に山に登ってるみたい、だよ」

 

 蛍は息が上がってきたのか、疲労感を隠すことなく息を吐いた。

 

(なんでわたしだけローファーなんだろう。アウトドアシューズだったらまだマシだったのに)

 

 ローファーは学生らしく可愛いので好きなのだが、今、一番履きたくない靴でもあった。

 

 砂の上を歩くたびに砂が靴の裏に絡みついて、その度に足が何倍にも重く感じる。

 いっそのこと脱いでしまおうなんて思ったりもしたのだが。

 

「やっぱり体が重いんでしょ蛍ちゃん。わたしが服を脱ぐ手伝いしてあげよっかぁ?」

 

 指を蠢かしながら燐が茶化すように言った。

 

「もう、燐は裸が見たいだけなんでしょ。お風呂でもわたしの胸ばっかり見てるし……燐ってもしかしてオッサンなの?」

 

「そんなことないよおー。それにわたしオッサンじゃなくて女の子だし。ただ蛍ちゃんとっても綺麗だからー」

 

 燐は両手をぐっと握って、相変わらずな言い訳を言った。

 

「燐ってば、またそういうこと言う。燐だって可愛いじゃない」

 

 蛍は素っ気ない素振りで呟いた。

 

「うー、可愛いじゃなくてさぁ。これでも体系気にしてるんだよ~、一応部長さんだしさ。可愛いじゃ威厳ないでしょ」

 

「燐は可愛い部長さんで良いじゃない。わたしはそれが似合ってると思うな」

 

「この場合の”可愛い”は誉め言葉になってないよー」

 

「ふふふ、ごめんね」

 

 燐と他愛無い話を続けていた。

 それだけで少し疲れが解れた気がした。

 

 きっと燐に気を遣われている。

 蛍はそう思ったが、燐のその優しさが嬉しかった。

 

「なんか上の方渦巻いてない? 穂波が立っているみたいに見えるよ」

 

「ほんとだ、ここって海流もないのに不思議だよね」

 

「風も吹かないしね」

 

 燐と蛍は、水と水とが出会うところをぼんやりと眺めていた。

 

 水中からみる空はそれだけでもう、異世界のようであった。

 

 筋の様な模様がマーブルのように広がって、空とは異なった青の文様を浮かび上がらせている。

 

 青と白の境界線は山の頂で見る光の流れの様だった。

 

「ねぇ、蛍ちゃん。やっぱりちょっと休憩しよう。水の中じゃただ歩いているだけでも体力を使うし、それに息が出来ても倒れちゃったら意味ないし」

 

 燐は一つ息を吐くと、蛍にそう提案した。

 

「えっと……」

 

 蛍は困ったように目元を下げると、口元に拳を持っていき、ささやくようにごにょごにょと口を濁した。

 

 燐に気を遣われていることが如実に分かるからこその返答に困っていた。

 

(確かに疲れてるけど、まだ歩けるような気もするし。でも、せっかくの燐の好意を無下にするのは何か悪い気もする……)

 

 蛍は結論が出せず、一人頭を悩ませた。

 

 考え込む蛍に、燐は困り顔で見守っていたのだが。

 

「ねぇ、蛍ちゃんはわたしを守ってくれるんでしょ? だったらちょっとだけわたしにも気遣って欲しいな」

 

 蛍の手をとった燐は、微笑みながら言葉を紡ぐ。

 

 やわらかい燐の手。

 触れられただけで蛍は少し強くなれた気がした。

 

「……燐」

 

 俯いていた蛍が顔を上げる。

 

「ね。ちょっとだけでいいからさ」

 

「うん。燐、ありがとう」

 

「お礼を言うのはわたしの方だよ。ごめんねワガママ言っちゃってさ」

 

 手を取り合った少女達は互いを見つめ合う。

 

 二人の頭上のその更に上から降り注ぐ細やかな光の柱。

 

 その一つが二人の柔らかい影を砂上に描き出していた。

 

 ────

 ───

 ──

 

「あれっ」

 

 何もない殺風景な水の世界だとそう思っていた。

 休めそうな場所なんて到底ないと。

 

 緑のトンネルの時のように都合よく現れるわけがないと。

 

 けど、そんな予想を反した登場に蛍は困惑の声を発した。

 

「ど、どうかしたの?」

 

 燐は心配そうに蛍に駆け寄る。

 

「燐、ほら、あれを見て!」

 

 蛍はそこに指をさす。

 ちょっと自信なさげだったが、思い切ってそれを指し示した。

 

 あたかも現実であることを自身に言い聞かせるかのように。

 

「え、どれっ?」

 

 蛍が指さす方向に燐も視線を送る。

 

「うん? なんだろうねあれ。何かの建物……?」

 

 その方角には四角い何かがあるようだった。

 揺らぎによって何かはわからないが、何かがあることだけはわかる。

 

「わたしにもそう見えるよ。けど、なんの建物だろうね……岩みたいに下から突き出てるみたいだし……珊瑚……とはちょっと違うかんじ」

 

 蛍は小首を傾げる。

 

「まあ、海じゃないからサンゴはないと思うけど……でも、なんなんだろうねアレ」

 

 燐も頭を捻って考え込む。

 

 青い背景の中では対象との距離が掴みづらいが、結構な大きさがあるような気はしていた。

 

 燐はなんとなく打ち捨てられた工事現場のプレハブ小屋を思い出して、少し嫌な予感を感じたりもしたのだったが。

 

「ねぇ、燐……傍まで行ってみない? 何かあるかもしれないし。そこで休憩できそうかも」

 

 好奇心を含んだ蛍の声。

 

「確かに気になるもんねぇ。でも……んー、わかった。じゃあ、行ってみよう」

 

 始めは否定的な意見を言おうとしたのだが、燐は考え直して蛍に同意した。

 

「うん」

 

 蛍は大きく頷くと、燐と手を取り合いながら目標まで歩いて近づくことにした。

 

 何らかの危険はあると思う。

 けれど、そんなことをいちいち気にするのは、止めた。

 

 リスクを気にして動かないのなら、こんな水の中を歩く事なんてしていないし、とっくに水面まで泳いでいるだろう。

 

 それこそ閑散とした砂漠に突如して出来たオアシスみたいに現れたのだから、行ってあげないと悪い気すらする。

 

 好奇心にころされる可能性もあるが。

 それだって覚悟の上だったと思う。

 

 あの逃げることに精一杯だったときはもう違う。

 

 純粋に二人でいることが楽しかった。

 

 平坦な道を平坦に歩いていても、危険はないが楽しみもないのだから。

 

「燐は何に見える? わたしは何かの小屋っぽく見えるんだよね。わたしと燐が隠れた時みたいな小さな小屋」

 

 二人は歩きながら推測を続けていた。

 楽しみを少しでも味わい尽くすように。

 

「あ、わたしもそんな感じかな。おっきな冷蔵庫っぽくも見えるけど」

 

「じゃあ今度はなにか入ってるといいね」

 

 蛍はくすりと微笑む。

 

 さっきから全然お腹は空いていないし、水なんで浴びるほど飲んでいると言うよりも、もうすでに溺れているのだけれど。

 

 それでもなにかを期待する楽しみ。

 それは普通にあった。

 

 燐と蛍はその建物のようなものを当座の目的地にして、歩を進める。

 

 もう少し進めば何か判別できるだろう、と燐が一歩足を踏みだした時、焦燥感に駆られたような声を蛍が上げた。

 

「燐! あれって列車じゃない? ほらあの形!」

 

 蛍に急かされて燐も目を凝らす。

 細長いその姿は、確かに電車の車両の様に見えた。

 

「確かに、電車みたいだね。でも……なんでこんな所に」

 

 車体の殆どが砂と砂利に埋もれていて、どこの車両かは判断がつかない。

 ただ、どことなく見覚えのあるフォルムな気はした。

 

「随分前からあるみたいだね。色々錆びついているし」

 

 更に近づいていくと、その微細が分かるようになってきた。

 

 金属が錆びてボロボロに崩れた箇所がところどころに見受けられ、かなり前から放置されている印象を受ける。

 

 けれど塩分など微塵もないこの水の中でここまで錆びついてしまうものなのか。

 

 それを検証する術は今のところ二人にはない。

 もっともそれを確かめるにはかなりの時間が必要になるとは思うが。

 

「事故か何かあったのかな……電車、ボロボロになってるね……」

 

 錆とは別に強い衝撃を受けたのか、鉄製のフレームが折れ曲がっていて、車体の半分ほどから”くの字”に曲がっていた。

 

 相当な衝撃だったようで、直せるとかそういうレベルではなかった。

 

「事故っていうより、落下して潰れた? とか」

 

 蛍は自分で言ったことに急に違和感を覚えて首をかしげる。

 その事に何かしらの心当たりがあると思ったから。

 

 切り捨てられてボロボロの車体は、要らなくなった抜け殻(casket)みたいだと燐には思えてしまった。

 

 あのカタツムリの抜け殻のように。

 

「どっちみちこの電車はもう動かないね」

 

「うん……けど、なんか可哀そうだよね」

 

 蛍は静かにその亡骸を見つめた。

 

 少女達の呟いた声はシャボン玉のようにふわりと浮かび上がってやがて一つの泡になって消えていった。

 

 それぐらい静謐で透明な場所だった。

 

「ここからじゃ良くわからないから、上からも見てみようよ」

 

「え。う、うん」

 

 燐は蛍の手を握ったままその場でぴょんと飛び上がる。

 それは思っていたよりもずっと簡単に二人の少女を浮き上がらせた。

 

 まるで月面にいるみたい。

 

 蛍は不思議そうな目で見下ろしながら、自分と燐に起きたことに改めて驚いた。

 

「……やっぱり燐は凄いね。なんでも簡単にやっちゃうんだから」

 

「? わたし何にもやってないよ。ただこの世界がおかしいだけで」

 

「それは分かってるよ。でも燐は凄いなって思っただけ」 

 

 蛍の告白に純粋なものしかないことを感じ取った燐は照れたように笑って言葉をつづけた。

 

「えー、凄くないけどなあ、わたし。至って普通だよ。あ、今は普通じゃないんだっけ……やっぱり実感がまだないね。座敷童だなんて」

 

 急に自覚せざる状況になってしまったけど、ここには座敷童しか居なかった

 それは今始まったことじゃなく、多分、去年の時からだったのだろう。

 

 選ばれてしまったのはきっと偶然。

 そうじゃないと色々と尖った目で見てしまいそうで。

 

「大丈夫だよ。わたしだって慣れたんだから燐だって直ぐに慣れるよ」

 

 そう言って蛍は何故だか足をバタバタと動かした。

 

「……何してるの蛍ちゃん」

 

 燐は率直な疑問をぶつける。

 

「何って、燐。わたし泳いでるんだよ。これでも50メートルを泳ぎぎったこともあるんだから」

 

 必死に足をばたつかせる蛍だが、とてもじゃないが前に進めそうな動きではなかった。

 それが蛍ちゃんらしいな、と燐は思った。

 

「ここは蛍ちゃんにとってちょうどいい特訓場所かもね。ここなら絶対に溺れないし」

 

「まぁ、溺れないという意味では確かかもね。でもね燐、わたし小さかった頃水泳のアンカーに選ばれたこともあるんだよ」

 

 小学生の頃だったか、蛍は確かにアンカーを務めたことがあった。

 

 蛍としては自分と他者との違いを知る絶好の機会と思っていたらしいが。

 

 けれど、水に浮くことは出来ても蛍の泳ぎは全く前に進んでいかなかったので、それまでの大量のリードを逆転されて負けてしまったのだが。

 

 それからの蛍はそういった競技には選ばれなくなってしまった。

 

 蛍は確かに他者とは違っていた。

 

「蛍ちゃんがアンカー、ねぇ」

 

 蛍の今の泳ぎを見て、燐は察したようにうんうんと頷いた。

 

「燐、信じてないんでしょ」

 

「そんなことないよ、わたし蛍ちゃんを信じてるから。だからさ、先ずはゆっくりと泳いでみよう」

 

 燐は優しく蛍の手を取ると、水泳のコーチのように背後から蛍を支えながら、横たわる車体の上部に近づいた。

 

「これ、もしかして、あの時の電車なのかな」

 

 燐は確かめるように車体をつぶさに眺めながら一言つぶやく。

 

「どの時の電車のこと?」

 

「ほら、わたしたちがあの時一緒に乗っていたあの電車のこと。”なにか”に襲われて、その時に出来た大穴に落ちちゃった、あの……」

 

「あっ……!」

 

 燐が喋っている途中だったのだが、蛍は何かに気付いたように、藻掻くような複雑な動きで電車のそばまで近寄った。

 

 蛍の急な動きに燐は呆気にとられるも、直ぐに蛍の傍まで泳いで行く。

 

 二人は朽ちた車体のすぐ傍の水の空にいた。

 

 錆びた車両は窓のある緑色の側面を上に向けて横たわっていた。

 

 ぐにゃりと曲がった窓枠は一部残っていても、窓ガラスはその破片すら残っていない。

 ガラスだけ綺麗に無くなっているかのようだった。

 

 燐はそのことに違和感を覚えた。

 が、蛍は違うことを考えていた。

 

(だったら、まだ残ってるかな)

 

 蛍は車体のトン、と軽やかに着地すると、ガラスの無くなった窓の傍にしゃがみ込み、空洞の窓から中をしげしげと覗き込んだ。

 

 燐も窓があるその下に着地して、蛍の様子を不思議そうな目で眺めていた。

 

「蛍ちゃん、何か見えるの?」

 

 燐は表面では普通に。

 でも内面では恐る恐るに尋ねる。

 

 もしこれがあの時の電車だったとしら、あの”なにか”も一緒に乗っていたから。

 あれは小平口町の住人の変わり果てた姿だと思っていたけど、やっぱり良くは分からない。

 

 町の人もみんな無事みたいだったし、巻き込まれた従兄も一応無事……だったのだから。

 

 蛍ちゃんやオオモト様の説が間違っているとは思っていない。

 けど、それを裏付けられるものは、二人の記憶だけしかなかったから。

 

 限りなく薄い、でも簡単には割れない薄氷の記憶だけしか。

 

「……ううん」

 

 蛍は落胆したような軽いため息をつくと、ふるふると首を横に振った。

 

「やっぱり見つからなかったみたい」

 

 そう言って蛍は小さく微笑んだ、諦めたように。

 でも、どこかほっとしてるようにも見えた。

 

「見つからなかったって?」

 

 何のことか燐には見当つかなかったので再度聞き返す。

 

「通学の時に使っていたわたしのカバン。ほら、あのとき慌ててたから座席に置きっぱなしにしちゃってたけど。もしかしたらって思って見てたんだけどね」

 

 蛍は少し残念そうに微笑んだ。

 

「ごめんね蛍ちゃん。わたしが蛍ちゃんのカバンも取ってくればよかったんだね」

 

 燐からの謝罪の言葉に蛍は慌てて訂正した。

 

「あ、ううん、燐を責めている訳じゃないよ。だって燐はあの時わたしを助けてくれたんだから。それに二人とも逃げるのに夢中だったから仕方がないことだよ」

 

「そうだけど……でも残念だったね」

 

「でも、そこまで気に入っていたわけじゃないから落ち込むほどじゃないの。でももしあったら、あの事の証拠になるかなって思って」

 

「そっか」

 

 燐は曖昧な笑みを浮かべた。

 

 蛍のいう証拠はあの夜のことだろう。

 燐にだってそれはすぐに分かった。

 

 二人の頭の中でしかあの夜のことを証明できるものはないのだったし。

 それだって、いつ消えたっておかしくないほどの曖昧なものだったから。

 

 些細なもので良いから手掛かりが欲しかったのだと思った。

 

 燐は青と白の波形が被さる空を一瞬だけ見ると、蛍の隣にそっと腰をかけた。

 

 あの時、線路が陥没して列車が本当に落ちたのかはよく分かってない。

 車体も瓦礫も黒い闇に飲まれてしまっていたから。

 

 小平口駅のホームも特に異常はなかったようだし。

 さらに今は改装工事も済ませて、全てが新しく生まれ変わってしまったのだから。

 

(あの時の大穴がここに通じていて、電車がここまで落ちたってこと? じゃあこの水って……?)

 

 その穴から決壊したダムの水が流れ込んできて、この世界に大きな水溜まりを作った???

 

 辻褄が合うような、違うような。

 

 なんとも判然が付かない仮説を蛍は頭の中でぐるぐると回していた。

 

「思ってたよりも座り心地いいねここ。ちょっとは休憩できそうだね」

 

「あ、うん。こういうの渡りに船って言うのかな」

 

 燐の提案に蛍は素直に従ったが、まだ頭の中では疑問がぐるぐると回っていた。

 

 ……

 ……

 

「んーっ、こうしてみるとやっぱり綺麗だよね。池っていうか湖っていうか良く分からないんだけど」

 

 燐は鉄の車体の上ごろんと仰向けになりながら、プリズムの混じった青の情景を焦がれるように感嘆した。

 

「うん確かに綺麗な”水”だよね」

 

 もしかしたらあの時のダムからあふれ出た雨水かもしれない。

 そう思っていた蛍だったが、それをいま燐に言おうとは思わなかった。

 

 仮説というより妄想に近いことだったから。

 

 ぽこぽこぽこ。

 

 二人が喋るたびに小さな気泡がこぼれ出る。

 

 それはどんなに儚い大きさでも確実に地上までは行ってしまう。

 

 幸せか悲しみか。

 空気の代わりになにかの思いが地上へとまっすぐに上がっていく。

 

 わたし達はどうしてここにいるのだろうか。

 

 全てを吐き出したって、もう胸中には何も残っていないのに。

 

「ここってさ、体温と同じぐらいの温度なのかな?」

 

「それってどういうこと?」

 

 燐が何気なく呟いた言葉に蛍は即座に反応した。

 

「前にね何かの本で読んだんだけど、鼻とか目に水が入って痛みを感じるのは、塩分濃度が人体よりも濃いからなんだって。それに人体と同じ温度の水だとより痛くないんだってさ」

 

「へぇー、でもそういうのって理に適ってるよね。痛みって悪いことじゃなくて、そういった人体に危険なものを痛覚で知らせてくれるんだね」

 

「うん、だから痛くないのは成分が近いってことじゃないかな」

 

「人に近い水か……」

 

 蛍はぼんやりと考え込む。

 

 雨水やダムの水にそんな成分は含まれていない。

 

 だとしら。

 

(結局ここってなんなんだろう。ここだけじゃなく、”この世界全体”がおかしいんだろうけど……)

 

 鼻も口も目の色さえも全て青に染まっている。

 

 青しかない世界。

 

 水の中では空も雲の流れも全てが別世界の遠い出来事のようだった。

 

 遠いと言うよりもとても遠くて届きそうにない。

 

 あの瞬間は、空をとても近くに感じたのに。

 

 また遠ざかっている。

 

 それが愛おしくて、とてももどかしい。

 

「あ、そうだ、羊水……燐、もしかしたらここの水って羊水に近い成分なのかも……」

 

 なにかを閃いたように蛍がぱっと口を開いた。

 

 燐は瞳をぱちぱちと瞬かせると、頭の中で蛍の言葉をもう一度整理した。

 

「羊水かぁ……なるほどー、そういうのもアリだね。蛍ちゃんの考えで正しいとわたしは思うなあ。息が出来るかはわからないけど、わたしもその説でしっくりくる」

 

 しみじみと、深く浸透するように燐は頷く。

 

 燐自身もなんとなくその答えではないかと思っていたところがあったから。

 

 でも即座に別の疑問が沸き起こる。

 

「燐……わたしたち、誰の中にいるのかな……」

 

 不安げな表情で蛍がつぶやく。

 

「誰って……誰ってことはないんじゃない? たまたま成分が似ていただけとかもあるかもだし」

 

 蛍の揺れ動く瞳をみて燐は優しく微笑むと、蛍の手をそっと握った。

 少し、震えているようだった。

 

 蛍の視線に穏やかな燐の顔が映る。

 大きな瞳の奥にはマリンブルーの揺らぎが彩光に小さく映る。

 

「燐、燐って……」

 

 全てが青に染まって、何もかも溶かしてくれるなら。

 あなたと一体になれるのなら。

 

 それはもう幸せに近いことだった。

 

「でもさ……あんまり難しく考えない方がいいよ、蛍ちゃん」

 

「どうして?」

 

「だって、ここは……夢の中だし」

 

「やっぱり、そう、かな」

 

「きっとそうだよ」

 

「そうだね。夢じゃなきゃこんなこと起こるはずはないもんね。でも……素敵な夢だよね」

 

「うん……素敵だよね」

 

 夢だからこそ綺麗で色づいているんだろう、燐はそう思っていた。

 

 現実は綺麗な面ばかりが強調されるけど、どうしても灰色な部分はあるし、それはどうしようもないこと。

 

 綺麗だから大切にしたい。

 夢だからずっと見ていたい。

 

 けど、夢は思っている以上に思い通りに行かないから。

 

 だから時折変なことになってしまう。

 

 予期せぬ出来事に。 

 

 

「燐。なんか……光ってない? アレってわたしの勘違いじゃないよね?」

 

 蛍は頭上からの光──陽の光とは違う光を見て唇を震わせた。

 

「やっぱり蛍ちゃんにも見えるんだね。わたしだけの見えるわけじゃないよね」

 

「う、うん」

 

 燐は自分だけが見える幻だと思ってあえて蛍には聞かないでいたが、蛍から尋ねてくれたことに安堵からの息を吐いた。

 

 大きな泡の塊は燐の不安の大きさを如実に表しているようだった。

 

「何だろうね、あれ。お化けか、火の玉かな」

 

 興奮したように顔を近づける燐に、蛍は何度も首を上下に振った。

 

「なんかちょっとづつだけど動いていない? 移動しているみたいに見えるよ」

 

 ”それ”は水面近くにいるようで、ぼんやりとした光も放っていた。

 

 その物体はこちらを気に掛ける様子もなく、蛍の指摘したように確かに移動していた。

 

「動いているなら魚か何かかな? 一応水の中だし」

 

「だったら淡水魚かもしれないね。光ってるからアンコウとか?」

 

「蛍ちゃん……アンコウは淡水魚じゃないと思うよ」

 

 確か深海魚だったと思う。

 

「じゃあ、燐は何だと思う?」

 

「うーん、そうだなぁ……」

 

 燐は考え込みながら蛍の顔を覗き込む。

 

「な、なに、燐」

 

「くすっ、”ホタルイカ”なんてどーかなって思って」

 

 からかうような眼差して笑う燐に蛍はぷくっと口を膨らませる。

 

「ホタルイカって言いたいだけなんでしょ」

 

「にゃはは、ごめんごめん」

 

 抗議の目で見つめる蛍に燐は頭をかいて謝罪した。

 

「けど、本当に生き物なのかな。光っているからって生き物とは限らないんじゃない?」

 

 ここから離れた場所に居るため全体像はつかめないが、単純な生き物とは違う気はする。

 青いスクリーンの中では何もかもが機械的で簡素なものに見えてしまうから。

 

「じゃあ、潜水艇とか。あれも一応光ってるよね?」

 

 絶対にあり得ない話ではないが、その場合誰が運転しているのかが問題だったし、結局は生物がいるということになってしまう。

 

 もっともあのハーベスターの様に無人で動いている可能性もあるわけだが。

 

 どの道、どの仮定でも確認しないと証明できないわけで。

 

「ここからじゃ遠くて判断は付かないよね。どっちにしてもさ」

 

 自分の意見も含めて否定とも肯定とも取れるような言葉を燐は発した。

 その表情は心なしか楽しそうだった。

 

 燐の中の好奇心が湧いたのかもしれない。

 未知のものに対する興味はやはり燐の方がほんの少し強かったから。

 

「じゃあ、確認しに行ってみようよ燐。追いつけるかどうかは分からないけど」

 

「えっ」

 

 蛍の提案に燐は意外そうに口を開けた。

 口の形の大きな泡が一つ上がって行った。

 

「あ、わたしがそこまで泳げるかなんて分からないけどね。でも見に行ってみようよ。どうせ行く当てなんてないんだし」

 

 なんだか定職にもつかないでフラフラしている人みたいな言い方に、燐はつい笑ってしまっていた。

 

「あはははっ、蛍ちゃんは相変わらず大胆だよね。まあ、そんなところが好きなんだけど」

 

「くすっ、わたしも燐の事好きだよ。だから行ってみよ」

 

 まっすぐに目を見ながら蛍は言うので燐は困ってしまう。

 蛍の”好き”は、燐と同じだけど、ほんの少し違うものが入っているのを知っているから。

 

「もー、”だから”が繋がってないよ蛍ちゃん。でも、まあ良いけどね。じゃあ行ってみる?」

 

 蛍に好意を持たれることは本当に嬉しかったから。

 こんなに素敵な人を独り占めしていることに罪悪感があったけど。

 

「うん。燐と一緒だからだよ。他の人とは違う燐だから」

 

 二人は確認するように顔を見合わせると、ゆっくりとこちらから遠ざかっていく光る物体を眺めた。

 

 青い世界に赤い光を放つその動きは、星の流れのような神秘的なものを感じられて、思わず見とれてしまうほど綺麗な光景だった。

 

「青い宇宙の星みたいだね」

 

「うん」

 

 蛍は思ったままを言葉にして宙に浮かせた。

 

 舞い上がる泡の群れは確かに青い宇宙に散りばめた透明な星のようにも見えた。

 

 一際光を放つ赤い星は留まることなく、どこかへと去っていく。

 巨人のように特に何も考えてなさそうな動きで。

 

「んー、じゃあちょっと怖いけど追ってみようか、蛍ちゃん?」

 

「えと……」

 

「どうしたの?」

 

「あそこまでちゃんと泳げるのかなって、わたし燐の足手まといになりたくないから」

 

 蛍は正直に口にした。

 けれど言葉には迷いはない。

 

 気持ちが同じだったから。

 大切な友達と想いは同じだったから。

 

「大丈夫だよ、蛍ちゃん」

 

 二人の指が絡み合う。

 そこに所在があるように指と指、その間の小さな隙間に過不足なく収まっていく。

 

 そうなることが必然であるかのように。

 

「蛍ちゃんと一緒ならきっとどこまでも行けるよ。だから一緒に行こう。今度は絶対に蛍ちゃんを守るから」

 

 燐は笑顔でそう答えた。

 

 周りの背景よりもずっと澄みきった燐の笑顔に、蛍は少し切ない気持ちで笑みを返す。

 

 それはあの別れの時と似ていたから。

 

(わたしはあの時何もしてあげられなかった……それは今だって)

 

「そうじゃないよ燐」

 

「えっ」

 

 蛍は燐の片方の手も繋いで胸の上で紡ぎ合わせた。

 

 二人は水の中でお互いのことを見つめ直す。

 回転し、天地が逆になってもその視線を逸らすこともなく、ただ真っ直ぐに。

 

「今度こそ、今度こそわたしが燐を守ってみせる。何があっても絶対、絶対にだよ」

 

 強い決意の色。

 燐はそれを垣間見た。

 

 同時に燐はサトくんの事を思い出した。

 言葉ではなく、目で通じ合ったあの白い犬のことを。

 

 瞳の色は決して違うが、思いの強さは良く似ていたから。

 そしてそれは繋がれた手からも感じ取ることが出来る。

 

 ──ずっと、ずっと好きだよ。

 

「……っ」

 

 何かの音、声のようなものを感じ取った。

 

 思いが水を滑り、波紋となって広がって、燐の心の奥底まで浸透するように。

 

「燐!?」

 

「ど、どうしたの蛍ちゃん」

 

 自分の名を急に呼ばれて慌てて声をかけた。

 

「今、頭の中で燐の声が聞こえた気がしたから……」

 

「それってわたしもだよ。蛍ちゃんにも聞こえたの?」

 

「うん……」

 

「そ、そうなんだ……あはは」

 

 

 そこからどう言葉を作ったらいいか分からず、燐も蛍もただ見つめ合うばかりだった。

 

 気まずいと言えばそうだが、逃げ出したいほどではなかった。

 

 その間、遥か上を漂うようにして進む物体は二人からどんどん遠ざかっていく。 

 

 けれども二人の視界にはその姿は入っていなかった。

 互いを見つめることに精いっぱいだったから。

 

 

「わたしが蛍ちゃんを守るし、蛍ちゃんはわたしを守ってくれる……それってただ守り合ってるだけじゃないの?」

 

 燐はあえて”声”の事は聞かずに先ほどのまでの話に戻った。

 

「それもいいんじゃないかな。わたし達って自分の事なると割と疎かになっちゃうよね」

 

 気遣いが分かった蛍も燐の話に合わせた。

 

「それもそうだね。自分の事は自分が一番良く分かってるっていうけど、実のところそんなでもないもんね」

 

「うん。わたしは燐以上に燐のことを思っているつもりだよ」

 

「わたしも蛍ちゃんのことすっごく大事に思ってるからね」

 

 二人は本心からの言葉でお互いを慰めあった。

 

 不器用だと思う。

 

 けれどこれしか方法を知らなかったし、二人にとってこれが最善であると思っていた。

 

 燐と蛍。

 輪郭を失ったふたりだったから。

 

「あ、喋ってたら大分離れて行っちゃったね。蛍ちゃん行けそう?」

 

「う、うん」

 

「まだ気になることであるの」

 

「あのね、燐。やっぱり、服を脱いじゃおうかって……」

 

「ええっ!? 蛍ちゃん、本気? だってさっき──」

 

 あれほど嫌がっていたのにどうして。

 

 燐は目を白黒とさせた。

 

「水の底歩くだけなら問題ないけど、ちゃんと泳ぐなら話は別でしょ。何も着ていないほうがどう考えても泳ぎやすいしね」

 

「まあ、それはそうだけど……いいの蛍ちゃん?」

 

「うん……燐と一緒だったら恥ずかしくないと思う」

 

「分かった! じゃあぱぱっと脱いじゃおうか」

 

 燐はぱちんと指を鳴らすと(小気味よくは鳴らなかったが)、制服のスカートを緩め始めた。

 

「あ、待って燐!」

 

「え、どうしたの? やっぱり恥ずかしくなっちゃった?」

 

「そうじゃなくて、せっかくなら電車の影で脱ごうよ。そこに制服を置いておけば目印になるし」

 

「あぁ、なるほどね。さっすが蛍ちゃん頭いい!」

 

「もう、燐の方が成績良いでしょ。それより早く追いかけよう」

 

 蛍は可愛らしく口を尖らせると、燐の手を引いて車両の影まで強引に引っ張った。

 こういう時の蛍はやっぱり大胆だった。

 

 

 

「そういえばさぁ」

 

 服は乾いているのに何故か脱ぐのに苦労している蛍に燐が尋ねる。

 

「ガラスの破片って周りに全然落ちていないよね。綺麗になくなっている感じ」

 

 燐は殆ど脱いでいたが、下着とアンダーウェアをどうしようか悩んでいた。

 

「うーん、なんでだろうね。この電車があの時のものなら破片が散らばっていてもおかしくないよね」

 

 その破片を気にして靴は最後まで残しておくつもりだったのだが。

 

 その必要はないようだった。

 

「……結局下着も脱いじゃったね」

 

「うん……中途半端なの嫌いだし」

 

 蛍と燐は全裸で向かい合う。

 

「でも蛍ちゃん、髪飾りは付けたままにしておくんだね」

 

「燐だって、カチューシャ付けたままでしょ」

 

「これは……一応お気に入りだから」

 

「わたしだって、そうだよ」

 

「じゃあ同じだね」

 

「うん、同じ」

 

 少女たちは一糸まとわぬ姿のままで笑い合うと、畳んだ服の上に靴を重し代わりに置いた。

 

「誰か取ったりしないよね?」

 

「燐じゃないんだから」

 

「だーかーら、わたしは制服フェチじゃないんだってー!」

 

「はいはい」

 

「それじゃ、行くよ蛍ちゃん」

 

 こくり。

 蛍は無言のまま頷いた。

 

 二人は制服を守ってくれる錆びついた列車の残骸を蹴って、青い宙の中を漕ぎ出した。

 

 青い青い、どこまでも広がっている淡く青い空の先へと。

 

 そのまま陽の射す方に戻ることもできたはず。

 それなのに。

 

 二人の少女は真っすぐにその物体へと足を動かす。

 

 ──水を飛んでいる。

 

 蛍はそう感じた。

 

 そんな感傷に浸りながら泳いでいると、前を泳ぐ燐との差がどんどんとつきはじめてしまい。

 

「あっ……」

 

 燐の姿は蛍の視界から消えてしまっていた。

 

(予想通りとは言え……)

 

 燐との速さは全然違っていた。

 同じ泳ぎ方をしているつもりなのに。

 

 ”特別”と”違い”は別物だと、幼心に悩んでいた時期もあったのだが。

 

(やっぱり燐は”特別”だよね。クラスでもこんなに速い子っていないもん)

 

 他の部から勧誘を受けるほどスポーツ万能な燐に水泳で追いつこうなんてことは土台無理な話だった。

 

 地上での走りでも全く追いつけなかったけど、水の中なら少しはマシかなと思った自身の見通しの甘さを蛍は恥じた。

 

「蛍ちゃん大丈夫~!」

 

 蛍はもやもやした気分のまま結局いつもの調子の泳ぎを続けていると、燐が手を振って待っていてくれていた。

 

「はぁ、はぁ、ごめんね燐。服を着ていなくても、泳ぐのって結構、疲れるね」

 

「まぁそれはね。それよりごめんね蛍ちゃん。一人で飛ばし過ぎちゃって」

 

「ううん、いいよ。それより今は燐が一人で行ってて、後から追いつくから」

 

「だーめ、蛍ちゃんと一緒じゃないと意味ないでしょ。さ、手を出して蛍ちゃん。わたしが引っ張ってってあげるから」

 

 思わずそのまま手を出そうとした蛍だったが。

 

「燐。手を繋いだまま泳げるの?」

 

 蛍は心配になって聞き返す。

 

「まあ、()()じゃちょっと難しいけどぉ、ここなら多分大丈夫っぽいかなって。それに溺れることもないしね」

 

「たしかにそうだけど……」

 

「じゃあ行こうか。もうちょっと行けば何か判別がつきそうだしね」

 

「わ、ちょ、ちょっと燐──」

 

 燐は蛍の手を取りながら片手だけを使って泳ごうとした。

 

 だが、蛍の準備がまだ整っていなかったので、それはちぐはぐな泳ぎになってしまって。

 

「あっ!」

 

 蛍は思わず手が離れてしまった。

 

「蛍ちゃん!!」

 

 翻弄されるかのようにふらふらと蛍は水の中で舞っていた。

 

 燐はすぐにその手を掴もうとする……が。

 

「ち、ちょっと蛍ちゃんっ。どこ掴んでるのっ」

 

「どこって……燐の、足だけど」

 

「そんなところに掴まらないでよー! ほらわたしの手にちゃんと掴まってて」

 

 燐は身体を折り曲げながら変わった体制で手を差し出した。

 

 けれども蛍は首を振って拒むと、もう片方の手でも燐の足首を掴む。

 

 全く予想だにしていないことの連続に燐は思わず体をくねらせた。

 

「ど、どうしてなのっ!?」

 

「このまま泳いだ方がいいと思うんだ。わたしバタ足だけは得意だし」

 

「えぇー」

 

 燐はあからさまな拒絶の反応を見せる。

 

 何が問題があるのだろうか? 蛍は本気で分からなかった。

 

「どうしたの燐。やっぱりダメ?」

 

「ダメっていうかぁ……うー、下からだと色々見えちゃうじゃん! 今、裸なんだしぃ……」

 

 赤面する燐を見て、蛍はあぁ、と合点がいったように手を叩いた。

 

 確かにこの体勢だと燐の恥ずかしい所とか全部蛍に見えてしまうことになる。

 

「大丈夫、わたしは気にしないよ」

 

「んもー。わたしが気にするのっ!! こんなことなら下着だけでも履いておくんだったぁ……」

 

「今から取りに戻る?」

 

 蛍の視線の先には先ほどの朽ちた車両が粒ほどの小さくなっている。

 

 その大きさから見ると、結構泳いできたらしかった。

 

(今から取りに戻ったら確実に見失っちゃうしぃ……)

 

「も、もうこのままでいいよ。その代わり蛍ちゃんは目を瞑るかどこか違う所を見ててよねっ」

 

「うん」

 

「あ、あとそれと……へ、変な事しないでねっ!」

 

「変な事って?」

 

「それはそのぉ、って……わ、わたしに言わせないでよー」

 

「ごめんごめん、絶対変な事しないから大丈夫だよ。それより燐」

 

 足を掴んだままの蛍が目で合図してきたので、燐もそちらの方を見た。

 

「わ、また遠ざかってるよぉ」

 

「早く行った方がいいよ燐」

 

「う、うん」

 

 蛍に促されて燐は慌てて泳ぐ姿勢をつくる。

 けれども羞恥心の方が勝っているのか、すぐに泳ぎ出すには至らかった。

 

(うー、相手が蛍ちゃんとは言え恥ずかしいよぉ)

 

 燐はぎゅっと目をつむって恥ずかしさに耐えるようにすると。

 

「蛍ちゃんっ。あ、あとで責任とってよねっ!」

 

「え……う、うん……」

 

 恥ずかしさのあまりつい意図せずして燐が放った言葉だったが、蛍は呆然としたように目を瞬かせた。

 

(あれ? わたし変な事、言ったかな?)

 

 蛍の態度が急に変わったことに燐は首をかしげる。

 

 蛍も燐と同じように赤面させていた。

 そして燐の目を見つめながら何かを言いたいように口をもごもごとさせていた。

 

「え、えっとぉ……」

 

 なんとなく察したのか、燐はばつが悪そうに瞳を逸らした。

 

「燐……わたし、頑張るからね」

 

 何かこう決意したような声色で蛍が宣言した。

 

「あ、うん。わたしも、が、がんばる……って変なところ見ながら言わないでよー!」

 

「くすくすっ。うん、そうだね」

 

「はぁ、行こうか……」

 

「うん」

 

 燐は大きなため息を一つ付くと、今度こそちゃんと泳ぎ出した。

 

 流石に息が合いづらいかと思ったが、意外なほど早く泳ぐことが出来た。

 

 燐はどうにも腑に落ちなかったが、蛍は少し楽しそうな表情で足を必死に動かしていた。

 

 

 

 ────

 ───

 ──

 

 

 

 






 むぅ──、先日遂に一回目のワクチン接種に行ってまいりましたよ──。
自分としてはまだ良いかなって思っていたのですが、結構周りの人も接種してますからねぇ……こればっかりは仕方ないかなーとはおもいます。

それで、ネットで予約──したのですが、モデルナ製とファイザー製から選べることが出来たので、先に予約できるモデルナ製ワクチンにしました。
てっきり予約者殺到で回線が繋がらないかと思ってたのであっさり予約出来て拍子抜けでしたねー。っていうか、モデルナワクチン人気ないっぽい?まあ副反応が重いって言われてますからねー。その代わりワクチンとしての能力が高いみたい? 誤差の範囲かもしれないですが。

会場は医療機関ではなく大きなホールで行うようで、何かのイベントのようでちょっと楽しみだったり……。
べ、別に病院が怖いってわけじゃないんだからねっ! 勘違いしないで(r

……まあ、他のワクチンでも病院以外の場所で接種出来るみたいですし、自分に合った場所と時間で接種するのがいいと思います。

モデルナは大規模接種とのことで休日に予約してたのですが、思っていたほど混んではなかったです。むしろ流れ作業のようにスムーズでした。 
例えるなら、選挙の時や免許の更新のようでしたねぇ。けど、本人確認は徹底しているらしく、受付のようなのは複数回ありましたし、その度に今の体調や本名を聞かれました。

で。肝心の注射なのですが、チクッ、となっただけであとはそれほどーでしたねぇ。むしろ”もう終わりなの?”ってぐらい呆気なかったです。
その後は待合スペースみたいなところで10分ほど休憩待機して、後は各自お帰りーでしたね。

その場ではなんともなかったのですが、後になって注射を受けた左肩がずっと痛かったですねー。動かせないほどではないのですけれど。

渡されたペーパーによると、副反応は二、三日後とかにもくるみたいですから、まだ予断は許さないーのかな? それでもまだ一回目ですしねー。二回目は結構ヤバそう?? 念のためのアセトアミノフェン錠や冷えるシートは用意してますけどもー。

ワクチンを打ったからといっていきなりどうなるわけでもないですけど、少しだけ安心かなーとかとか。

と、ちょっと余裕ぶっていたのですが……翌日になっても接種した箇所はずきずき痛むし、どうにも気怠いし、結局発熱しちゃうしと、副反応が出まくりでしたよ~~。やっぱりモデルナは強かったかぁ……薬飲んで寝たら大体治まりましたけどねー。

それではではではでは────。

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