We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life.   作:Towelie

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 どうしよう。

 絶え間なく足を動かしていたせいか、感覚がなくなりそうになっていた。

 ──なんでこんなに必死に。

 必死になって燐と一緒に泳いでいるんだっけ。

 確かに誘うように光っていたけれど。
 それだけの事がその理由だとは思えなかった。  

 ”セントエルモの火”、なのだろうか。

 ぼんやりとした光は、そのようにも思わせる。

 特殊な条件が重なった時に起こる発光現象……だった気がする。

 小説などでは聞いたことがあっても、それを現実的に目の当たりにしたことはない。
 けれど、こんな摩訶不思議な世界でまともに航行する船がいるとも思えなかった。

 それに、天候もさして悪くはなく見える。

 水中では地上の詳細は分からないけど、モザイクの様な水面の内側を光の線がなだらかになぞっていて、こぼれ落ちた光の柱が白い神殿のようなモニュメントを作っていたから。
 
 快晴であるとは思う、きっと。

 もっともこの世界では天候が崩れることなんてありえなさそうだけど。

 だとしたらあれは一体?

(わたしの足を掴んだのが”アレ”だったとしたら)

 わたしはどうするだろうか。
 自分だけでなく、友達も──燐も一緒に水中に引きずり込んだアレを。

 蛍の頬が水中でもわかるほど上気していた。

 けど、なんにしてもその正体を見ない事にははじまらない。

 ソイツは何のために進んでいるのかは不明だが、何かの意思を持ってどこかを目指しているみたいだった。

 消えたり点いたりと、ゆらゆらと発光しながら、わたしたちの数メートル先へと行った謎の物体。

 それを追って懸命に泳いでいる燐と蛍。
 殆ど裸と言ってもいい、何も身に着けていない状態で。

 二人には羞恥心よりも気にしていたことがあった。

 それは単純な好奇心。
 燐は少なくともそうだった。

 蛍も少し渋っていたがやっぱりちょっとは気になってはいた。
 この世界で二人以外に動くものがあったのなら、気になるのは当然だった。

 それだけ他の生き物の証を見ることがなかったから。

(鬼火とか……燐火とか……そういうもの、かも?)

 漁火、とか言ういい方もあった。
 火の玉から連想される、どこか朧げな炎のかたまり。

 あの光はそう言った霊的な……オカルト的なものに見えた。
 蛍はそういった事は一切信じていないつもりだったけど。

 オオモト様もそう言っていたし。

(でも、座敷童ってやっぱりオカルトだよね。それが良いとか悪いとかではないけど)

 オカルトを否定してもその存在は変わることはない。
 それは蛍とオオモト様、そして燐が証明していた。

 オカルトに縋るつもりは毛頭なくとも、何かが常に寄り添っている。

 世界がわたし達二人を中心に渦を巻いているかのように。

 あの時の巨人と似ていると思った。
 あまりにも巨大で非現実的だったけど、あれは確かに実在していたから。

 誰かに話したら、想像上のものかCGでしょとか言われちゃうとは思うけど。

 けどあの異質とも言える質量の塊は確かにあったのだ。

(あれもオカルトなんだろうね……)

 お化けや妖怪、火の玉など、これまで蛍の人生でわりかしどうでもいいと思っていたことばかりが目の前に現れてきた。

 そして自身も座敷童──つまり妖怪……純粋な人間ではないらしい。

 燐にああは言ったが、まだ自分の中で納得が言っていないことの一つだった。
 最も重要とも言っていいぐらいの。

 オオモト様の説明は時に曖昧だったから、自分なりに解釈してしまったけれど。

 ()()()()()()を知っているものはもう誰もいない。

 まあ知ったところで……なんだけど。

(でも燐だって座敷童なはず……)

 実のところそれは蛍の直感だけだった。

 座敷童の力は目に見えないものだし、もう少しわかるレベルの幸運が何度も起きないと、ただの偶然で済まされてしまう。

 しかし蛍はその偶然こそが座敷童の持っている力だと思っていた。

 偶然が偶然を呼んで大きな偶然となる──それが幸運の本質。 

 それだけ当時の小平口町は良いことに恵まれていなかったんだと思う。

 そうでなければ幸運と少女を結び付けるだけの像も、その概念も生まれることはなかったのだから。

(不幸が幸運を呼んで、その幸運が今度は不幸を呼び寄せてしまう?)

 結局ただの堂々巡りだった。

 それじゃあ、座敷童とは一体何なのか。
 結局それに行きついてしまう。

 答えのない問題を胸中で抱え込みながら、蛍は周りを取り囲む青のスクリーンに複雑な視線を向けた。

 いまこうしていることは幸運なのだろうか。

 呼吸が出来ていることは幸運だと思う。
 羨ましいという人がいてもそこまでおかしいとも思わないし。

 けれどもし、このまま水の中から出れなかったら。

(多分、不幸だって思われるだろうな)

 不幸も幸運も何かしらの条件がいるとは思う。

 ”見方によって”とか”この時代は”みたいな、ちょっとふわっとした感じで。

 例えばこの場所だって、”息も出来て食べられる広大なゼリーの水槽に閉じ込められています”って言われたらどっちになるだろうか。

 不幸かな?
 それとも幸運?

 まだ閉じ込められたとは思ってはいないけど。
 良くも悪くもないみたいな曖昧な捉え方をされると思う。

 まず最初に、その質問に呆れられそうな気もするけど……。

(あ、ゼリーでもいいんだけど、ババロアでも良さそうだよね)

 ババロアの上にチョコソースをたっぷりとかけて、その中で泳ぐのも悪くはない。
 もし寒天だったらカロリーを気にすることもないかも。

 蛍は想像だけで口の中を甘くすることができた。

 きっとこういうのが幸運……なのかな。

 いい使われ方じゃない気もするけど。

(でも、幸福も不幸もなかったら、全部が味気ないものになっちゃうよね。じゃあこれで良いのかな?)

 何度自問自答しても納得のいく答えは出ない。
 燐と話してもこれとった結論は出たことがなかった。

(とりあえず今は……)

 あれに追いついてみようとは思う。

 それが不幸なのか幸福なのか。
 定義を下すものは多分誰も居ないだろうけど。

「はぁ、はぁ、はぁ」

 少女たちはそれぞれが前後となって、空色の水の中を泳いでいた。

 水の中での息切れってなにか変。
 蛍はそう思ってはいたが、それでも疲労はどんどんと溜まっていく。

 青と白だけの地上もそれなりに味気ないものだったが、青一色の水の世界もやはりそう大差のないものだった。

 どんなに綺麗な景色でも見続けてみればその内当たり前になってしまう。
 それにしたって蛍は少し早い気もするが。

(でも、燐が一緒なら問題ないね。燐とならどこだって楽しいし)

 必死に手を動かしている燐にそっと微笑む。
 この位置ではお尻しか見えないけど。

 こっちを見ちゃダメと燐に言われているけど。

(ちょっとだったら良いよね? 燐だってわたしの体、割とみてるし)

 それでも、こんなに近くで見たことはなかった。
 しかも人に見られたくはない大事な場所を。

(別に隠さなくていいと思うよ。燐の”ここ”とっても綺麗だし)

 本人が聞いていたら赤面ものだろう。
 けれど蛍は素直にそう思っていた。

 燐は身体も心もすごく綺麗だと思っている。

 壊れやすい部分はあるとは思う、けれどそれでも燐の輝きが失われたと思ったことは一度としてなかった。

 自分が今こうしていられるのは燐が居てくれているから。

 居なかったときもあった。
 けど燐は来てくれた。

 燐はわたしを見つけてくれたんだ。
 例えどんな状況であったとしても必ず。

(でも……わたしは燐を見つけられなかった。わたしだってどこに居ても見つけられる自信があったはずのに……)

 燐に出来てわたしに出来ない事。
 それはすごくいっぱいある、両手じゃ足りなくなるほどに。

 逆にわたししか出来ない事って……なんだろう?

 馬鹿馬鹿しいと思った幸運を呼ぶ座敷童の力だって、特別かどうかを認める前に殆ど失われてしまったようだったし。

(わたしだけの……特技か……)

 それは一体なんだろう。
 今後の課題になるとは思った。

「見て、蛍ちゃん、あれっ!!」

 一心不乱に泳いでいた燐が急に言葉を出したので蛍は思わず身を震わせて驚いた。
 燐の声は音叉の様に水に反響して、蛍の体全体から伝わってくるようだったから。

 燐が片手だけを器用に動かして、指さす方向に蛍も目を凝らす。

「あ……!」

 息を呑んだ。

 あの例の発光体がすぐ目の前、視界から届く範囲にまで迫って来ていたからだった。

 結構な距離があったのにいつの間にか追いついてらしかった。

 光る物体はこちらに気付く様子も、逃げるような素振りもみせずに、相変わらず進みたい方向に進んでいるようだった。

(とうとう追いついちゃったんだ……!)

 対象に近づいたことに焦燥感を駆られたのか、蛍の胸がどきどきしだした。

 その激しい鼓動は燐にも聞こえたのか、蛍の方を振り向くとその目を見ながら優しく微笑んでくれた。

 安心させるような優しい笑みで。
 蛍はそれだけで急に心が落ち着いたように感じられた。

(じゃあ、ゆっくりと接近するよ蛍ちゃん)

 燐はそっと小声で(水中では対して意味がないかもしれないのだが)ささやくと、一漕ぎ二漕ぎとゆっくりと距離を詰める。

 蛍もそれに合わせてゆっくり足を動かす。

 誰も後ろを見ていないことを良い事に全裸のまま、蛙のようなはしたない足運びをしていた。

 燐がそれを知ったらすごく怒られるだろうなとは思ってはいたが、こっちの方がまだ楽だった。

 きっとこの分だと、明日は筋肉痛で動けなくなるだろう。

 燐は大丈夫だとは思うけど、蛍は登校できるどころか普通に生活ができることを心配にしてしまうほどだった。

 もっとも、まだちゃんと元の世界に戻れるかどうかわかっていないので、今の時点では無駄な杞憂なのだけれど。

 それでも心配なのには変わりはなかった。

(それにこのまま続けてたら太ももが太くなっちゃいそうだし)

 水泳はダイエットに効果的なのは分かるが、足が太くなってしまうのだけは避けたかった。

 蛍の要らぬ心配をよそに、燐は密やかに確実に相手との差を詰めていった。

(それしても、随分遠くまで来ちゃったなあ……)

 あの先を行く物体が羅針盤だったとしても、かなりの距離を泳いでいた。

 よく似た列車の残骸はきっともう見つけることは出来ないだろう。
 もう服を着ることは出来ない、燐はそう推測していた。

 そもそも水の中だし、女同士なのだからそこまで気を遣うことはないと思うけど。

(にしても、こう見回してみても他に何もないね。てっきり”栓”ぐらいはあるかと思ってたんだけど)

 燐はこの巨大な水溜まりを大きなバスタブか水槽のように思っていた。

 だから水を抜く栓があるかと思って、泳ぎながらずっと下方向を注視していたのだが。
 そこまで予想通りにはいくはずもなかった。

(まあ、仮に巨大な栓があったとして、それを抜いたら……)

 どうなってしまうのか。

 燐は自分のバカげた妄想に自分で戦慄をしてぶるぶると首を振った。
 それを見た蛍は何事かと小首を傾げる。

 そうこうしていると……。

「光の球だ……」

「うん……光ってるね」

 二人はついにその姿を間近に捉えた。
 どちらが前か分からないが、それはふよふよと水中で漂っている。

 更によく見ると、光は一色だけではないみたいだった。

 緑や赤、青や紫など、様々な色が交じり合って、大きな白い光を作り出しているみたいだった。

 光の集合体。
 それは虹のように様々な色を纏って出来ていた。

 だが、その中心には何がいるのかは分からない。
 正体は杳として不明のままだった。

 燐はもう少し近寄ってみようと腕を漕ぐ。
 蛍も頑張って足を動かした。

 近くまで寄ってみると、改めてその大きさに驚いた。

 光の半径は2、3メートルはあるだろうか、そのぼんやりとしたままの光を放ちながら進んでいる。

 こちらが近づいてきてもその光球は色を変化させることもなく、ただ前へと進んで行った。

 すいすいとしたその動作は、それこそ回遊魚や、イルカの類のようだった。

(やっぱりクラゲ? でもクラゲってこんなのだったっけ?)

 蛍は図鑑でのクラゲを思い返してみたが、その絵と泳ぐ姿が一致してくれなかった。

「蛍ちゃん、どうしようか。正面に回ってみる?」

 燐が耳元でぼそぼそと耳打ちをしてくる。

 ”アレ”には耳という器官がないのかそれともどうでもよいのか、燐と蛍が話している間に、また先へと行ってしまった。

「いいよ、燐。ちょっと怖いけど」

 蛍は正直に言うと、ややあって二回ほど大きく頷いた。

 蛍の強張った顔を見て燐は一瞬難しい顔をするが、蛍の固い意志を瞳に感じ取った。
 燐はにこっと微笑むと、蛍の手をぎゅっと繋いだ。

「このまま行くよ、蛍ちゃん」

「うん」

 二人は顔を見合わせると、そのままクロールの要領でもがくように進んだ。
 バランスは確かに悪かったが、それでも二人の目線は一緒だったから。

 左右のバランスの悪いボートのように体を左右に揺らしながら、冷たくも温くもないどろっとした水の中を泳ぎ続けた。

 意外と早い光の物体に蛍はつい音を上げそうになる。

(……息は出来るのに、息がきれそう、だよ……)

 矛盾しているのかどうかすら分からないほど、蛍は身体の限界を感じていた。
 
 水面でぷかぷかと浮くのが好きだった蛍にこれはあんまりな仕打ちだった。

 プールでも泳ぐことはせずただ浮いているだけで満足だったのに。
 こんなに、それも必死になって泳ぐことになるなんて。

 蛍は元の世界に戻ったら、まず最初に湿布薬を探すところから始めないといけないようだった。

 二人は右往左往しながらなんとか発光するものの真下に潜り込むと、一気に泳いでその真ん前に回り込むことに成功した。

 光の球は真っすぐにこちらに向かってくる。

「燐っ……!」

 蛍は燐の身体に手を回してぎゅっとしがみ付くと、恐怖耐えるように目をつぶった。
 燐も蛍の手を固く握りしめると、その正体を探るべく、目をカッと見開いた。

 太陽みたいな眩しい光。

 二人の身体よりも大きな光が少女たちを飲み込んで行く──。

 瞳には真っ白な世界。
 感じるのは蛍の、熱く脈打つ鼓動だけ、だった。

「うわっ!」

 声を出したのは燐だった。

 小さな光の粒。
 それが目の前に広がっていた。

 それらはぶつかってくることもなく、二人の体を通過していく。
 
 光の粒は色を変えながら燐と蛍の間を器用にすり抜けて行った。

 明らかにこちらを避けているような動きに、燐はその光に生命のようなものを感じざるを得なかった。

 原子か、粒子なのかもしれない。

 あの時、異形の姿になった町の人達が姿を変えた光のかたまり。
 それと似ている気がした。

「………」

 燐の声に反応したのか、いつの間にか目を見開いていた蛍だったが、その光景に圧倒されたされたように呆然で立ち尽くしていた。

 色んな色の小さな光が星のようにキラキラと瞬きながら、二人の周りをすり抜けていく。

 数えきれないほどの光の群れは星屑で出来たシャワーのようだった。

(あれは星? いきている星……なの?)

 その時の蛍は何も特別な事物を考えていなかった。
 ただ好奇心の惹かれるがまま、その光の事象を捕まえようとしていた。

 物理的か霊的なものかすらも考えてもなく、無防備に手を伸ばす。

 それはあまりにも短絡的すぎる行為だったが、その無謀さが功を奏したのか、一つの光の粒が蛍の白い手の平に当たって落ちた。

(嘘……拾っちゃった!?」

 軽い衝撃が掌の中心にあっただけで、思いのほか簡単に手の中に収まってくれた。

 蛍はそれを傷つけないように素早く手の中で軽く握りしめると、昆虫を捕まえたときのようにもう片方の手も添えて、中に居るであろうそれを覗き見た。

 手の中には──小さな球が一つ入っていた。

 それは星というよりも、宝石のようで。
 つるんとした丸いガラス玉のようだった。

 動いていたのが嘘のように静かに蹲っている。

 ただ、全体は脈打っているかのように淡く発光していて、まるで”ホタル”を捕まえた時のようなものを髣髴とさせた。

「これって……!?」

 蛍はまざまざと見ながら、その表面をみて驚きの声を上げた。

 光を放つ、ガラスのような表面には小さく細かい模様が施しており、その模様(パターン)の感じに確かに見覚えがあったからだ。

「蛍ちゃんどうしたの?」

 燐が蛍の方を覗き込んできた。

 蛍は目で自分の手の中を見るように合図を送る。
 燐は察したように頷いてみせると、蛍の手の中のものを見ようと目を凝らした……。

「ああっ!」

 蛍が手の中のものを燐に見せようと傾けたとき、隙間からこぼれ落ちてしまった。

 拾い上げようと咄嗟に機転をきかせた燐が慌てて手を伸ばしたのだが。

「あっ……?」

 止まってしまったとばかりに思っていた光球は確固たる意思を持っているように燐の手を躱すと、他の光の球と同じ方向へと消え去ってしまった。

 それは本当に一瞬の出来事だった。
 水中で呆然と立ち尽くす二人の少女。

 だが蛍にはあれが何だったのかが分かってしまった。

 かと言ってそれが何の解明になるのかは分からないが。

「あれは毬、だったよ。すごく小さな手毬だった」

 蛍は自分の言葉が信じられないとばかりにぶっきらぼうに呟く。

 燐にもその声は確かに聞こえたのだが、返すだけの言葉もなく、呆気に取られたようにぽかんと口を開けているだけだった。

 二人は無言のその光景を見送っていた。

 泳ぐことも瞬きすらも忘れているような時間。
 それはどれぐらいだったのだろう。

 恐らく一分にも満たないその光景は、一切の余韻もなく駆け抜けてしまった。
 
 燐は、従兄と一緒に見たワタスゲの原での光景を思い返していたのだが、あまりにもすぐ終わってしまったのでその一かけらすら、思いに浸ることはなかった。

 蛍は何も考えずに燐の隣でその光景を見ていただけだった。
 ただ燐の手の温もりはずっと掴んだままだった。

「ねぇ、燐。燐がいま言いたいこと、当ててあげようか?」

 最初に口を開いた蛍が唐突に燐に尋ねる。
 燐はすぐに苦笑いで返した。

「わたしも、蛍ちゃんが言いたいこと何となく分かるよ」

「じゃあ、せーのーで言ってみよっか?」

「うん。せーのっ!」

 二人が同時にあげた名前。
 それは小さな魚が主役の有名な絵本のタイトルだった。

「燐も”スイミー”って思ってたんだ」

「うん。小さい頃お母さんによく読んで貰ったし。小学校の頃も図書室でよく読んでたからね」

 二人は顔を見合わせて微笑んだ。
 気持ちが言葉がシンクロするのは気持ちとても良かったから。

「でもさ、スイミーって真っ黒かったよね。で、赤い魚と混じって泳いだから大きな魚に見せることできて難を逃れることが出来たって話だったけど」

「さっきのはみんな違う色だったよね」

「うん……だからスイミーとは全然違うよね。外敵みたいなのもいなかったみたいだし」

 行ってしまった小さな光の集合体を振り返る。

 二人の心配をよそに、小さな発光体の群れは丸い形のまま、そのぼんやりとした灯りを照らしながら、青暗い世界へと進んでいった。

「でもさ、蛍ちゃんさっき”手毬”って言ってたよね?」

「あ……うん」

 曖昧な笑みで蛍は答えると、行ってしまった方向を見ながら話を続けた。

「捕まえた光が小さな手毬のように見えたの。はっきりとは分からなかったけど、わたしにはそう見えたんだ。逃げちゃったから分からないけど……燐は、どう見えた?」

 顔を覗き込む蛍に燐は困った顔で返す。

「わたしも、良く分からないや。一瞬の出来事だったし、それに……」

 燐は言葉を詰まらせた。
 その変化に蛍は気づかうように燐を見つめる。

「あ、ごめんそうじゃなくてさ、ただ、あの時の事を思い出しただけだよ。光の球で満ちたあの転車台の事を」

「燐……」

 全てが月光の下に晒された後のこと。
 原子へと還った町の人達が、新しい、完璧なせかいへと昇って行ったときのことだろう。

 その一部始終を蛍と燐は確かに見ていた。

 すべてを捨て去ったあと、どこか寂しくてきれいだった光景のことを。

 光の球が次から次へと薄暗い空へと還っていくあの姿を。

 地上に落ちた星が空に戻っていくように、それは夜鷹と同じように意味はなかったけど、だからこそ美しかった。

 なんのしがらみもない純粋な姿だったから。

「後、ついて行ってみる?」

「ううん、もういいよ」

 蛍の提案に燐は軽く首をふる。
 一応目的は果たしたし、それに。

「あの子たちには、きっと行きたいところがあるんだよ」

 燐はそう言ってその背に手を振った。

 あの時は何も出来なかったけど、今なら自然と普通にできた。
 サトくんもヒヒもその輝きはとても綺麗だったから。

「そうだね」

 蛍も手を振って見送った。


 ふと気が付くと、静寂が戻ってきていた。

 青い世界。

 進むことも戻ることもままならないマリンブルーの箱の中は。

 また、二人ぼっちのアクアリウムに戻っていた。


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Postlude

 全く知らない道ではない、前に歩いたことのある道だったと思う。

 

 それに山道と言ってもすぐ横には県道が並行して走っているから、仮に道に迷っても大丈夫。

 

 まだ日も高いし、程よい風も吹いている。

 

 気持ちよく歩けそうだった。

 

 少なくともそう、思っていた。

 

「はぁ、はぁ」

 

 あれからすっと休まずに歩いている。

 ペースは割と速いとは思う。

 

 それにしたって疲労が来るのが早かった。

 

 ──おかしいなぁ。

 

 これでも色んな山を歩いてきたはずなのに。

 富士山にだって登ったこともあるのに。

 

 体がやけに重く感じる。

 

 確かに山登りはご無沙汰だったけど、それにしたってこれは。

 

 久しぶりなんてレベルではない気がする。

 

(わたし、ちょっとの間にすっかり鈍っちゃったの、かな……?)

 

 自分の身体じゃないみたい。

 

 部活だって二学期から休まずやってるはずなのに……これぐらいでもうペースを落としている。

 

 それは体感だけではなく、その事は時計でも示していた。

 

「はっ、ほっ、はっ、はっ」

 

 息を短く吐いて、一定のペースを保つようにする。

 平地でなら造作もないことでも、山道ではこれが結構難しい。

 

 とにかく焦らないで進むことが重要だった。

 

(それにしても暑いなあ……今日って最高気温何度だっけ?)

 

 秋も半ばだというのにこの暑さは異常だった。

 木漏れ日の下を歩いていても、さっきから汗が止まらない。

 

 軽い山歩きだと思って適当な格好で出てきたことが、仇になってしまった。

 

 それに燐はまた同じミスを犯してしまっていた。

 

(わたしまた、ろくに試さないでトレッキングに来てるなぁ。まあシューズと違ってジャケットだからそこまで問題ではないけど……)

 

 試しというか慣らしにはちょうどいいかもしれない。

 もう少し後のシーズンを考えての装備だったのだけれど。

 

「ご、ごめん~。ちょっと休憩させてね……」

 

 一言そう呟くと、燐は勝手に近くの木にもたれ込んで、バックパックの横に下げたペットボトルで喉を潤した。

 

「はぁ……」

 

 正直、だらしない身体だなあとは思った。

 少しの間、山に登らないだけでここまで鈍るとは思ってなかったから。

 

 部活で体を動かしていても使っている筋肉に違いはあるのか、山歩きにはそこまで役には立ってくれないようだ。

 

 今まで平気だったのは、やっぱり日頃から山に登っていたおかげらしい。

 

 止めたおかげでそれがやっと分かった。

 

(トモが言ってたように真剣さが足りない部分もあるのかなあ、わたし……)

 

 休み中、一度も練習に顔を出さなかったので、部活を辞めたとばかり思われていたらしかった。

 

 だから普段のように部室へ行ったとき、かなり驚かれてしまったんだけど。

 

(すっごく怒られちゃったんだよね。わたしだってそんなつもり毛頭なかったのにさ)

 

 ぐびっと、もう一口水を飲む。

 少し硬めのミネラルウォーターは、喉にも心にもそれほど優しくはしてくれなかった。

 

「なんで、こんな水選んじゃったんだろ? トレッキングだったらもう少し──」

 

 自分で選んだ飲料に対して、腹いせのように悪態を付いていると、ふいに袖の辺りを引っ張らられた。

 

「くぅーん」

 

 もう先に行ってしまったとばかり思っていたサトくんがいつの間にか戻ってきて、燐の袖を口でぎゅっと咥えていた。

 

「あ、と……ごめんごめん。サトくんもお水が欲しいの?」

 

 燐は取り繕った笑顔を向けると、サトくんに向けてペットボトルの飲み口を差し出す。

 サトくんはわん! と一声鳴くと、燐が使った飲み口から水をぺろぺろと舐めだしていた。

 

 その無邪気な仕草に燐は自然と笑みがこぼれる。

 

「よっぽど喉が渇いていたんだねぇ、サトくん。よしよし、いっぱい飲んでいいからね~」

 

 水を飲ませながら片方の手で頭を撫でてあげる。

 

 白く柔らかい毛並みは、何も変わってはいない。

 温かな安心感をわたしに与えてくれる。

 

 サトくんはやっぱりサトくんのままだった。

 

 だからどうしても聞きたくなる、あの時のことは結局何だったのか。

 

 ”巻き込まれたもの同士”。

 何かの意見が聞きたかった。

 

「ねぇ、サトくんはさ、わたしの事まだ覚えてる? わたしはちゃんとサトくんのことを覚えてたんだよ」

 

 ぺろぺろ。

 サトくんはこちらを見ながら、ずっと水を飲み続けていた。

 

 その視線は燐に注がれているかは分かってはいない。

 ただの獣のように一心不乱に水を飲んでいた。

 

「覚えているわけ、ないよね? だってサトくんは、”おにいちゃん”じゃないんだもんね」

 

「わんっ」

 

 サトくんがいいタイミングで吠えたので燐はがくっと肩を落とす。

 何でそういう所だけ返事が早いのか。

 

「もう、サトくんってばもうちょっと含みを持たせてよぉ! ロマンスが足りないなあサトくんは……ってかお水、無くなっちゃったんだね。まあいっぱい飲んでくれたからいいけどね」

 

 情緒が足りないサトくんだけど、また頭を撫でてあげた。

 目を細めて尻尾を振っている様子は犬のそれとしか言いようがなかった。

 

 サトくんは犬だからそこに問題はないのだけれど。

 

(犬であって犬じゃなかったよね、サトくんは。でも、お兄ちゃんはお兄ちゃんだったし……)

 

 顎のあたりをもしゃもしゃと撫でつけながら燐は頭を悩ませる。

 

 そういえば包帯だけでなく、サトくんが首に巻いていたあの空色のバンダナも無くなっていた。

 

「バンダナどうしちゃったのサトくん。誰かにあげちゃったのかな?」

 

 サトくんは何も答えず、舌を長く伸ばして少し息を荒くさせていた。

 

 サトくんだって暑いんだな、と燐は思った。

 

 包帯もバンダナもないサトくんは、既に違う犬にしか見えなかった。

 今思えばあれは両方とも異変の時に付けるようになったのだろう。

 

 本来のサトくんは首輪もリードもない自由な存在。

 そんな気がした。

 

 勝手な解釈かもしれないけど。

 

 でもそうなると、あのヒヒは? 巨大な猿は今頃どうなったんだろう。

 

(まさかこの辺の山奥で生きている。なんてことはないよね、流石に……)

 

 あれは想像上の生き物であって、山というより現実には居ない存在だと思いたい。

 あんなの巨大な猿が山に居たらと思うとぞっとするだろうし。

 

 と、言うよりあれは本当にヒヒだったのか。

 その根本からしておかしかったから。

 

 燐はぶるぶると首を振ると。

 不吉な考えを打ち消すようにサトくんの体をぎゅうっと抱きしめた。

 

(もうお兄ちゃんじゃないことは分かってる。だけど……)

 

 今、従兄の代わりをすることが出来るのはサトくんだけだったから。

 燐はしばらくの間、従兄の香りがまだ残る白い犬を抱きしめ続けた。

 

「わんわんっ」

 

 それまで燐がしがみ付いているを黙って見ていたサトくんだったが、急に鳴きだすと身を翻して、先へと進みだした。

 

「あっ!」

 

 燐の思っていたよりもサトくんはずっと力が強く。

 

 しがみつく燐の身体を引きずるようなものではなかったが、それでも簡単に振り解いて自分の行きたい方向へと歩いていった。

 

「サトくん~。待ってよー」

 

 燐は慌てて立ち上がると、その後を追う。

 けれど白い犬はその声に振り返ることもなく、とてとてと歩いていく。

 

「むー」

 

 素っ気のない態度に、燐は不満げに口を尖らして唸った。

 

「んもう、サトくんたら、わたしが名付け親だったのを覚えてないのぉ? サトくんだってあんなに喜んでいたのに」

 

 燐の記憶の中では喜んでいることになっていた。

 むしろ諦めたように渋々返事をしていたはずだったのだが。

 

「おーい、サトくんー!」

 

 燐がいくら声を張り上げて呼んでみてもサトくんは振り返らない。

 可愛らしい声色で呼んでみても結果は同じ。

 

 人の言葉が分かるような感じはもうどこにもなかった。

 

「………」

 

 燐は不意に悲しそうな顔を一瞬だけ向けた。

 

(これで良いんだよね。サトくんはサトくんとしての生き方があるわけだし)

 

 人間には人間の。

 犬には犬の生き方がある。

 

 それは誰にも押し付けることは出来ない。

 

 それぞれに合った生き方、歩き方があるはずだから。

 

(でもサトくんは野良犬って言うか地域犬になっちゃうのかな? やっぱり可哀そう気もするな。出来たらわたしが世話してあげたいけど……)

 

 その時、燐の脳裏には母親の顔が真っ先に浮かんだ。

 

 マンションから一軒家に越してきたからペット禁止とかの制約はないけど、肝心の母親が苦手としていたから。

 

 厳密にはそこまで嫌いではないとは思うけど、まだ生活の基盤も安定していないのに犬を飼うなんてことは、その苦労を知っている燐には到底言えたものではなかった。

 

 そのことで家族がギスギスするのはもう嫌だし。

 

「誰かもらってくれる良い人が居ればねぇ……」

 

「わんっ!!」

 

 くるりと向き直ったサトくんがせっつくように吠える。

 

 どこまでついていったらいいのだろう?

 先の見えない道行に燐は肩をすくめて息を吐いた。

 

「もう、サトくんたら~。キミの為を思って色々と考えてあげてるんだよっ」

 

 ぐちぐちと言いながらも燐はサトくんの元へと駆け寄る。

 

 振り回されているとは思うが、それでもサトくんが何処に連れて行ってくれるのかを燐は期待していたから。

 

 だからまだ、帰るようなことはするつもりはなかった。

 

 サトくんは安心したように尻尾を一振りすると、またてくてくと山道を歩き出した。

 

 まったくもって無慈悲で無表情なサトくんに燐は不満の色を見せるも、その進んで行く方向に違和感を覚えて首を傾げた。

 

(あれ? こっちの道って通ったことない……よね?)

 

 燐の予想とは違ったルートを進むサトくんに困惑を隠せないでいた。

 

 その道は廃線跡と言うよりももう完全なけもの道で、その証拠に背の高い藪が頭の高さまで生い茂っていた。

 

 人の踏み入った形跡は殆どと言っていいほどない。

 

 これにはトレッキング経験の多い燐でもげんなりしてしまう。

 

 こういった背の高い藪を払うような道具を一切持ってこなかったのもあるし、せっかくの新しいウェアが汚れてしまうのは必至だったから。

 

 当然サトくんは躊躇もなく進んで行く。

 けもの道とは本来そういう道なのだから当たり前と言えば当たり前なのだけど。

 

 普通の人間の燐にはちょっと厳しい道だった。

 

 方角さえ合っているなら、もっと歩きやすい別の道を使った方がいいとは燐は思ったので。

 

「ねぇ、サトくん。どうしてもこの道じゃないとダメなのぉ? 道なんて殆どないじゃない」

 

 燐のぼやきも聞こえないほどの高い藪の壁は、あの時の県境での緑の壁と同じような威圧感を燐に錯覚させてしまう。

 

「サトくーん!」

 

 燐は緑の中に消えて行った白い犬の名前を呼ぶ。

 

 がさがさと草をかき分ける音はすれどもその姿は見えない。

 緑で覆われた壁が、一人と一匹の間に立ちふさがっていた。

 

「はぁ……っ」

 

 深いため息。

 そうする他なかった。

 

(もうサトくんは犬に戻っちゃったんだから、これ以上ついていく意味なんてないのかなぁ? まあ、それはそれで寂しいんだけど、でもねぇ……)

 

 どうしても納得がいかないことがあった燐は。

 

「サトくんっ!!」

 

 その名前を大声で呼んでみるのだった。

 

「……」

 

 帰ってくるのは葉ががさがさと揺れる音か、虫の音色だけ。

 

「もー、忘れちゃったの? キミはサトくんでわたしが名前を付けてあげたんだからねっ!」

 

 サトくんの後についていけない事よりも名前を呼んで振り向いてくれないことの方が寂しかった。

 

 燐は、むーと頭を巡らせると……突然ある考えが思いついた。

 

(まあ、ものは試しだね)

 

 捻った頭を元に戻して、思い切って呼びかけた。

 

 それは全く別の名前で。

 

「──シロッ!!!」

 

 なんでその名前で呼んだのか、その時は良く分からなかった。

 ただ、急に頭に浮かんできたのだ。

 

 燐は叫んだ後、急に恥ずかしくなって顔を赤くする。

 

 こんな”ありきたりな名前”でなんて呼ぶなんて自分でも信じられなかったから。

 

「わぉんっ!」

 

 燐の思いを裏切るように、あっさりと返事が返ってくる。

 

 ”そう呼ばれることを”待っていたように。

 

 燐は呆気に取られたようにしばらくの間凍り付いていた。

 

「なんだかなぁ」

 

 拍子抜けしたように肩をすくめると、姿の見えない”サトくん”に呼びかける。

 

「なんでそれで答えちゃうのっ!? キミはサトくん! サトくんなんだからっ!」

 

 念を押すようにそう言って聞かせる。

 

 しかし、それに対しての返答は当然なく、葉擦れの音だけ虚しく響いた。

 

「んもぉ……」

 

 燐は深いため息をつきながらも、なぜだかちょっとだけ嬉しそうだった。

 

 いつまでもこうしていても仕方がない、サトくんは戻って来そうにもないし。

 

 燐はバックパックを下ろすと中から白い軍手を取り出した。

 

 それを両手にはめると行く手を阻む背の高い藪をかき分けながら、シロ──もとい、サトくんの通った道を一歩一歩手探りに進み始めた。

 

 サトくんの通ったルートには決まった目印があるわけではなく、それこそ本能のままに進んでいた。

 

 燐はただひたすらにサトくんの後を追いかける。

 それはあの時出来なかったことだった。

 

 言い訳をして追わなかったけど、だからこそ今追いかける意味があった。

 

(わたしはサトくんを、お兄ちゃんを信じきれていなかったんだ)

 

 そう、怖かったのは彼の瞳じゃなくて、変わることの出来ない自分の心の有り様のほうだった。

 

 ──簡単なことのはずなのに難しいこと──。

 

(人を信じるのはとても難しいことなんだね)

 

 今度は今度こそは最後まで信じてみたい。

 もう好きだった人の心は入っていなくとも。

 

 何かがある。

 それだけを信じて。

 

「はあ、はぁ……」

 

 けもの道というか道ですらない藪の中をどんどん進んで行く。

 

 まだ日は沈んでいないはずなのに辺りは夜のように薄暗くて、小さな木漏れ日さえ届いてはくれなかった。

 

 先に進むたびに森はどんどんと深く濃く、そして険しくなっていく。

 完全に道に迷ってしまわないよう、スマホを片手に道なき道をひたすら進んだ。

 

 ときおり確認できるサトくんの白い尻尾を目印(コンパス)にして。

 

 にしても──。

 

 一人で登る山ってこんなにも寂しいものなんだと思う。

 誰か一人居ないだけで何か起きたらどうしようなんて、不安に駆られてしまうのだから。

 

(わたし、何やっているんだろう……? お休みに近所の山をちょっと散策しようとしていただけだったのに……)

 

 ひょんなことからちょっとした冒険になってしまった。

 

 そのことがなんだか可笑しくて、少し口元が緩んでしまう。

 楽しい感じではなく、自虐の入った微笑み。

 

 あの夜のはじまりと良く似ていたからと思う。

 

 普通に電車に乗ってちょっと乗り過ごしただけの夜と。

 

 たったそれだけの事なのに、人も町もめちゃくちゃになって、いるはずのないお兄ちゃんまでも巻き込まれてちゃって……。

 

 ちょっとした偶然の重なり合いが、わたしとわたしの周りの人達を根本から歪ませてしまったのだから。

 

 ()()()三日間の出来事がわたしの全てを壊して、そして……。

 

(っ……!)

 

 つい感情が高ぶってしまう。

 辛いことを思いだしたって、何もいいことなんてないって分かっているのに。

 

 サトくんと出会ったせいなのか、燐は歩きながら涙ぐみそうになった。

 辺りには誰もいないからまあいいけれど。

 

 知らないふりで済ませることが出来たはず、それなのに。

 

(偶然だったのに、どうして?)

 

 その偶然がまたわたしを呼び寄せていた。

 それは良い事なのか。

 

 或いは……()()直視したくはないことなのか。

 

 どちらにしても、(サトくん)の進む先に何があるかなんて自分には分かりようがない。

 

 サトくんはもうそういうのではないと思うし。

 

 それに偶然はいつだって目の前に押し寄せてくる。

 わたしの感情なんていつも無視して全てを飲み込んでしまうのだから。

 

 それに抗う手立て何て殆ど存在しない。

 備えなんて出来やしないんだ、いつも。

 

 だからって投げやりになんてなってはいないとは思う。

 

 ……たぶん。

 

 まだ起こっていないことを考えてもどうにもならないので、別の事を頭に思い浮かべて山道を登る。

 

 なるべく楽しいことが良いなぁと燐は思った。

 

(そういえば、なんで”シロ”って呼んだんだろう? ちっとも可愛くなんてないのに)

 

 楽しい事とは真逆の、心に疑問を生じさせながら、燐は辛うじて残っているサトくんの足跡を懸命に追った。

 

 

 ────

 ───

 ──

 

「ふぅーっ……」

 

 ため息ともつかない声を上げて、燐は大きなそれを仰ぎ見ていた。

 

 ここがサトくんの案内したかった場所みたいで、犬は歩くことをすっかり止めていた。

 後ろ足で自分の頭を掻いたりして、くつろいでいるようだった。

 

「サトくんは、この辺りに住んでるの?」

 

 通じているかどうかは別として白い犬に尋ねてみる燐。

 

 でも、住処の様なものはどこにも見当たらなかった。

 

「それにしても、またこの場所かぁ……」

 

 聞こえるかどうかの小さな声で呟く。

 

 森を切り取ったように開けた場所。

 それがこのちょっとした冒険の終点だった。

 

 周りは深い山に囲まれていて、まだ葉や木々が色づくほどではないが、すでに秋を感じさせた。

 

 植物には詳しくはないが、もしかしたらこの辺りには何か食べられそうな実をつける木があるのかもしれない。

 

 それならばサトくんが案内してきた理由も十分に分かるのだが。

 

「サトくんはこの場所に縁があるみたいね。もう二回……三回目になるのかな」

 

 確かめるように見渡した。

 

 燐が初めて来たときは常闇と雨が包んでいたから、辺りの景色ははっきりとは分からなかったけれど。

 

(それでもまあ。()()があるから間違いようがないよね)

 

 白い風車。

 

 開けた森の中に一基の風車だけが立っている。

 

 山の中腹に建てられた風車は発電の為のものだった。

 

 それはもう分かっていた。

 それだけに悲しくも切ない場所であった。

 

 なんとなく近寄りがたいものを感じとった燐は、遠巻きに風車を眺める。

 

 別にこの風車が悪いわけではない。

 ただ、ここですごく悲しいことがあっただけ。

 

 風車は相変わらず一基のままで、その大きな羽はなぜか動いてはいなかった。

 動かすだけの風が吹いてないからだと思うが、果たしてそれだけなんだろうか。

 

 振り仰いでみてもその全体を視界に収めることが出来ないほど高い風車は、今日の役割を終えてしまったかのように静かに佇んでいる。

 

 相変わらず人気はない。

 賑わうような場所ではないから当たり前だけど。

 

 それは朽ち果てて捨てられた灯台みたいに。

 

「ここにあったんだよね?」

 

 それを見つけ。

 そして知ってしまった。

 

 知りたくはない、けどとても大切なこと。

 

 その事を思い出して風車の周りの影の部分に燐は目を向ける。

 

 ここにはもう何もないとは思う。

 

 目を凝らして探しても、何の情報も落ちてはない。

 既に役目は終わっているはずだから。

 

「さて、と……」

 

 いつまでも感傷に浸るほど、心と時間に余裕があるわけでもないので、さっさと目的を達成することにした。

 

「サトくんが案内してくれたんだけど、何も変わったところはないよねぇ。どうしてここまで来たかったの?」

 

 その顔をチラッと見やる。

 サトくんは犬らしく伏せの姿勢で大人しくしていた。

 

 瞼が大分下がっているところを見ると、眠そう、もしくは寝ていた可能性が高い。

 

 自分から案内しておいていい加減だなあ。

 と思うけれど、燐が勝手についてきただけだったからサトくんは何も悪くはなかった。

 

 燐は身勝手な理由でため息をつくと、両手をぶらぶらとさせながら風車の周りを一周してから帰ることにした。

 

 お参りするような名所のようなものもないし、風車に手を合わせてもなんのご利益もなさそうだったし、せめてこれぐらいはしておきたかった。

 

 特にこれと行った考えがあるわけではない。

 すぐに帰るつもりだったし。

 

 ここには正直長く居たくはなかった。

 

 秋の気配と人気もないことが相まってとても物悲しく感じる場所だったし。

 

 それに何より。

 

 冷たい雨に当たった場所、だったから。

 

 だから、もう何も見つからなくても問題はなかった。

 

 本当に……そのはずだった。

 

「…………!!!」

 

 両手で口元を押さえてしまった。

 けど、肝心の声が出なかった。

 

 本心から驚いたときには声なんて出ない、そう言われていたけど、それは本当に”ほんとうのこと”だった。

 

 別に忘れていたわけじゃない。

 ただ、思い出そうとしなかっただけ。

 

 心の奥底から。

 

 その綺麗な髪を知っていた。

 綺麗な性格も知っているつもりだ。

 

 好きなもの、嫌いなものだってある程度分かっている。

 客観的にどういう子だってことも知っている。

 

 けど。

 

「蛍……ちゃん……」

 

 今の今まで名前が出てこなかったことが不思議だった。

 

 とても綺麗で、大切にしなければならない人、だったのに。

 

 心から話すことが出来る、唯一と言っていい親友。

 その稀有な存在をすっかり忘れていた。

 

 ノートのページを破いた時の様に、その事だけ頭からすっぽりと抜け落ちていたのだ。

 

「………」

 

 今でもきれいだった、()()は。

 

 だからなのだろうか、意外なほど燐の表情は変化がなかった。

 

 現実感がないというよりも、誰も見ることの出来ない夢の世界にうっかり足を踏み入れてしまったときのような完全な場違い感。

 

 そんな感じだった。

 

 周りには色とりどりの花の代わりにカラフルな表紙のノートが散乱していた。

 勉強で疲れた後の夢で見るような、窮屈さを濃縮したような。

 

 そんな現実と夢の狭間で蛍は横たわっていた。

 

 普通なら頬を触ったりして息づかいを確かめたりするのに。

 

 燐は何故かそうしようとは考えなかった。

 

 余りにも無防備で無邪気だったから。

 しばらくの間、燐は蛍の穏やかな顔に釘付けになってしまっていた。

 

「ワンワンワン」

 

 急な吠え声で少女ははっと目を覚ます。

 それは蛍ではなく、立ち尽くしていた燐の方だった。

 

 大きな声だったのだが、それでも蛍が起きることはなかった。

 

 穏やかなリズムで胸を上下させている。

 可愛らしい寝息は確かに眠り姫のようだった。

 

 意識を戻した燐は、夢から覚めたばかりように目を赤くしながら、頭を振った。

 

「え、えっとぉ……サトくん?」

 

 燐は少し大げさに白い犬を二度見して尋ねる。

 

 あれだけの声で鳴くのだから何かあったと思うのは当然だった。

 

「………」

 

 サトくんは惚けた素振りを見せるように明後日の方を向くと、緑の大地にその頭を突っ伏していた。

 

「んー……なんだかなぁ」

 

 演技のようなその仕草に燐は頬を膨らまして呟いた。

 

 人の言葉が分かっているはずがないのに、妙に人間臭い仕草を見せるサトくん。

 

(ワザとなのかなぁ? もうそういった意識はもってないと思ってたけど)

 

 ”残っているはず”はないけど、それでも燐はちょっとだけ期待した。

 

 おかげで目の前の事にピントを合わせることが出来たから。

 

 だから素直に感謝した。

 

「ありがとうサトくん」

 

 お兄ちゃんの居ないサトくんは、ただのサトくん。

 誰のものでもない。

 

 それは自分も同じで。

 

 自分が居て、従兄は遠くに行って。

 

 そして……友達が、蛍がいた。

 

 戸惑うことなんてないはず。

 きっと二人はずっと友達だったから。

 

 偶然から始まった事が偶然のまま続いていく。

 それは例え肉体がなくなったとしてもずっとそのままで。

 

 同じ気持ちのままで。

 

「ん~~~っ!」

 

 手を差し出さそうとしたのだけれど、出たのは間抜けな自分のうめき声だけ。

 

 ことのほか、燐の手は重く鈍かった。

 

 それは触れたら泡のように消えてなくなりそうな。

 そんなおとぎ話みたいな悪い予感をしたからだった。

 

 蛍は、そのままお伽話に出てきても遜色のないほど綺麗で透き通っていたから。

 

 でもかけがえのない、たいせつな友達でもあった。

 

 その友達が地面に寝そべって寝息を立てている。

 

 特に理由もなく。

 

 だから燐はまだ分かりやすい、蛍の周りに散らばっているノートの一冊を手に取って拾い上げた。

 

 綺麗な表紙のノートは特にタイトルがついているわけではなく。

 ただナンバーが無造作に振ってあるだけだった。

 

 ただ、何故この場所にあるのか。

 そしてやけに汚れていないのはどうしてだろう?

 

 いつからここにあったのかは分からないが、差し出されたみたいにノートは綺麗だった。

 あの従兄のノートと全く同じように。

 

 そしてそれは、蛍自身でさえも。

 

 艶やかな長い黒髪もそして何故か来ている制服も、全てが洗い立ての様にきれいなままで。

 

 全てが嘘か幻のようだった。

 

(わたしが来ることを待っていたっていうの? でも、そんなこと……)

 

 燐はノートを手にしたまま、いつまでも寝ていそうな蛍から少し目を離すと、サトくんの方をもう一度振り返った。

 

 何かの答えを尋ねるような縋りつく目線で。

 

 サトくんは尻尾を左右に揺らしながら関係のない遠くの空を見ていた。

 自分は何も知らないと言わんばかりに。

 

 燐は深いため息をつくと、蛍の寝顔を見ながら訊ねる。

 まだ起こさないよう、そっと小声で。

 

「ごめんね、蛍ちゃん。ちょっとだけ見させてもらうからね」

 

 燐は囁くような謝罪を口にすると、「1」とだけ書かれたノートのページを開いた。

 

 なんだろう、ページを開くだけなのにすごくドキドキとする。

 

 見てはいけない秘密を覗き見てしまうような、甘い背徳感が燐の小さな胸をチクリと刺した。

 

「あ……これ、日記、だ……」

 

 ノートを開く燐の手が小刻みに震える。

 何となくそんな気はしていたけど、実際に目の当たりにすると結構な衝撃があった。

 

 可愛らしい文字で書かれた日記には、蛍の想いがページいっぱいに詰まっていた。

 悲しかったこと、辛かったこと、ちょっとだけ良かったことなど全部。

 

「うっ……」

 

 文字を辿るその瞳が滲んでいく。

 それでも燐は食い入るようにページをめくった。

 

 自分にはそれをする理由と責任があるみたいに。

 

 あの時だって兄が残したノートを勝手に見たが、今はそれとは違う感情がページをめくる手を止めなかった。

 

「はぁ……」

 

 一通りノートを読み終えた燐は、疲れたような息を吐く。

 意識して出したわけではなく、無意識からくるものだった。

 

「そういうことだったんだ……」

 

 ノートには蛍の感情が赤裸々に記してあった。

 まだ一冊しか読んではいないが、恐らく他のノートも同じような感じだろう。

 

 彼女の本心。

 それ知ってしまった。

 

「どうしてわたしはお兄ちゃんだけじゃなく、蛍ちゃんの事も……」

 

 そうすることで何の意味があるのとか、そんなことを追求してもどうなるわけでもないし、そもそも知りたかったわけではない。

 

 秘められた思いを知ったって、結果それは辛いことだと分かっているから。

 

(けど、わたしは知ってしまったんだよね……)

 

 もう戸惑う理由もなかった。

 それがきっと彼女と、彼に対する責任。

 

 何もできなかったわたしが出来ることはこれだけだった。

 

「ごめんね遅くなっちゃって。わたし、蛍ちゃんにもすっごく迷惑かけちゃったよね」

 

 蛍がどんな思いであったかは、このノートが全部語ってくれた。

 本当言うと、何も言わなくとも分かっているつもりだった。

 

 ()()()()数か月経ち、久しぶりに見たはずの友達の顔はそこまでの懐かしさを覚えなかったから。

 

 ずっと近くで寄り添ってくれていた。

 会えなくとも一緒だったんだと思う。

 

 その思いの方向は。

 

 いつもと変わらない雰囲気がそうさせているかもしれない。

 たおやかな寝息は燐が良く知る蛍のまんまだったから。

 

「蛍ちゃん起きないの? もう”終点”なんだよ」

 

 確かに終点だった。

 

 ローカル線の終わりの駅。

 周りを山々に囲まれたのどかな町。

 

 蛍の最寄り駅であり、今は燐の最寄り駅でもある小平口駅。

 

 ここから偶然に始まったことは、偶然のまま終わってしまった。

 

 良いことも、悪いことも。

 

(こうしてまた会えたことは”良いこと”なんだよね?)

 

 わざわざ自問するまでもなかった。

 

 もしこれが悪いことだとするのならば、わたしの心は今度こそ粉々になるだろう。

 ナノレベルの粒さえも残さずに。

 

 今こうして彼女を眺めることが出来ているのは奇跡というか、きっとそのおかげ。

 

 ()()()がまだ残っていたから。

 

 絶対に消えることがない胸の奥の心のしこりが。

 

「さて……どうしたものかなぁ」

 

 わざとらしく声を上げてみても蛍ちゃんは起きてくれそうにない。

 

 このまま起きるまで隣で寝顔を見ていても全然構わないんだけど、それはいつまでになるのやら。

 

「ずっとこのままは……流石にないよね、蛍ちゃん?」

 

 耳元でそっと囁いてみても反応はかえってこない。

 

 蛍は、自身でその気になればいつまでも寝ていられると、冗談交じりに言うこともあったが。

 

 流石にそれは冗談だと思いたい。

 仮に本当ならば、無理やりにでも起こすしかないことになるのだが。

 

「……」

 

 燐は今だにその気にはなれなかった。

 

 明らかに寝心地が悪い緑の上で横になっているのに、気持ちよさそうな寝息を立てる蛍がちょっと不憫で愛おしく感じるからだろうか。

 

 それとも、まだどこかで何かを警戒している。

 このことに何かの作為的なものがあるのではと。 

 

 燐はやはりサトくんの方を振り返ってしまう。

 今この場に居るのはサトくんしか居ないからなんだけど。

 

 こちらの視線に気付いているのかいないのか。

 サトくんは暢気にあくびをしていた。

 

(サトくんはやっぱり犬だね……)

 

 今更だけどそれを感じた。

 

 このことは燐は一人で結論を出すしかなかった。

 答えはほぼ出ているのだが、それでもまだ考えるだけの余地がある気がしていたのだった。

 

「あ、そうだ!」

 

 燐は妙案を思いついたのか、パンと手を合わせる。

 が、あまりに現実離れしているので途中でばかばかしくなった。

 

「サトくんに運んでもらう……のは流石に無理があるもんねぇ」

 

 いくらなんでも無茶すぎるなと、燐は自分で呆れてしまった。

 

 例えサトくんが大型犬だったとしても多分無理だろう、マンガじゃないんだし。

 

(わたし一人じゃ多分無理だし、やっぱり救急車を呼ぶしかないのかな。ここからならそんなに時間はかからないとは思うし。でも……)

 

 ──ほんとうにそれでいいのかな?

 

 何かが引っ掛かってしまう。

 

 トゲのような痛みは、少し甘くて、そして切ない。

 でも、嫌いというわけじゃない。

 

 キャラメル風味のポップコーンを奥歯で噛んだ時のようなほろ苦い甘さ。

 

 何度でも味わいたい、けど。

 どこかで止めなくちゃという思いもあった。

 

(わたし、忘れられないんだね。きっと)

 

 それは今だに迷っていること。

 蛍ちゃんの事だけじゃなく、ぜんぶに。

 

 それぞれの事柄に理由なんてないと言われていても、その全てに折り合いをつけられるほど器用じゃないから。

 

 だってわたしはまだ、子供(女の子)なんだし……。

 

 良かれと思ってしたことが、後になって問題となってしまう。

 

 つまり──お節介。

 

 そういう類のものになってしまう気がした。

 

 山小屋の時だってそうだった。

 あの時の浅はかな衝動が、従兄との仲を決定づけてしまった。

 

 良好だと思っていた関係に楔を打ってしまった。

 そしてそれはお互いに。

 

 どうやっても取り返しのつかないことだったし、その後は凄惨な光景でもってわたしは嫌というほど分からされてしまったから。

 

 あんな思いはもう二度と、したくはなかった。

 

 ”好き”に違いはないと言ってくれたように、その想いに違いはないと信じたい。

 

 例え一方的な思いであったとしても。

 

「よしっ!」

 

 燐は自分の両頬をパンと叩いた。

 その音に反応をしたサトくんが片耳をぴくっと持ち上げる。

 

 誰の為、何の為に迷ってたんだか。

 

「今は蛍ちゃんが優先。わたしのうじうじした悩みなんて、それこそ犬も食べないんだし!」

 

 ここは切り替えどころ、だよね。

 

 別に携帯の電波が届かない場所でもないし、充電だってまだ半分以上もあるし。

 いざとなれば、蛍ちゃんの頬っぺたをつねってでも起こせばいいわけなんだから。

 

 じゃあ、直ぐにそうすればいいだけなんだけど……。

 

「うー、なんでそんな簡単な事が出来ないんだろう、わたしってこんなに優柔不断だったっけ?」

 

 一体何の躊躇(ためらい)が出るんだろう。

 こんなことをしている間に陽はどんどんと傾いてきているのに。

 

 薄色の空は、白い風車の陰の柱を山の後ろに追いやろうとしていた。

 季節の移り変わりは、燐が考えているよりもずっと早く夜を呼び寄せていた。

 

「と、とりあえず」

 

 燐はそこら中に散らばってるノートを拾い集めた。

 

 誤魔化している気もするけど、これだって蛍の大事なものなんだろうし。

 持って帰ってあげないと。

 

 あとは、カメラだけ……え、カメラ?

 

「玩具じゃなく、本物のカメラ、だね」

 

 年代物の様に見えるカメラは、燐が今まで見たことのないものだが蛍のもので間違いないだろう、ノートと共に置いてあったし。

 

 手に取った時になんとなく彼女の──蛍の温もり、匂いを燐は肌で感じ取った。

 

 何を撮影していたのかは当然気になる所ではあるのだが、今時珍しいアナログなので現像に掛けるしかない。

 

 もしかしたら、あのだだっ広い蛍の家の中にはそういったことが出来る部屋があるのかもしれないが。

 

「こういったカメラって見た目は地味でも結構高いんだよね、確か。お兄ちゃんも何個か持ってたし」

 

 カメラの事は詳しくはないが、登山の時、聡は思いのほか楽しそうにアナログなカメラで写真を撮っていたのを思い出した。

 

 ただ登るだけじゃなく、綺麗な風景も一緒に撮るから楽しいんだと。

 

 燐も真似して写真を撮っていたが、精々スマホで撮るぐらいだったので、いつかは聡と同じように黒くて武骨なカメラを担いで登る日が来るかと思っていたのだが、それは結局なくなってしまった。

 

(わたし、また余計な事を考えてる……今考えるのはそんなことじゃない筈なのに)

 

 頭を軽く振って考えを打ち消すと、燐はストラップを首から下げてきちんとカメラを構えてみた。

 

「結構……ずしっとだね。これこそカメラって感じ」

 

 角ばったデザインのカメラは使いやすさよりも機能性を重視しているようで、ちょっとでも気を抜くと手から落ちそうなほど大きくて重い。

 

 ついでに付いているボタンもやけに多かった。

 

 ただ持っているだけでも燐は何故か緊張感を感じてしまう。

 それは作りのせいなのか、それとも値段か。

 

 とにかく丁寧に扱ったほうが良いのは確かだった。

 

 カメラを持つとついやりたくなってしまうことがある。

 それは燐とて例外ではなく、ついきょろきょろと辺りを窺ってしまう。

 

 つまり、何でもいいから撮ってみたくなる欲求だった。

 

 手短なところでサトくんを撮ってみようと、燐はファインダーを覗き込んだ。

 

 だが、ファインダー越しの景色にはサトくんは映っていなかった。

 

(あれ、サトくん?)

 

 燐はファインダーから目を離すと、サトくんがついさっきまで居た所を肉眼で確かめる。

 サトくんは本当にこの場から居なくなっていた。

 

「サトく──ん!!」

 

 大声で呼びかけてみるも、返ってくるのは遠くの山肌に反響した自分の声だけ。

 もしくは、ざわつきだした鳥や虫の音だけだった。

 

(サトくん……いつの間にかいなくなっちゃうなんて……)

 

 まだお別れの挨拶もしていないのに。

 置いてけぼりにされたみたいで堪らなく寂しかった。

 

(お兄ちゃんもわたしを置いて行っちゃったよね、ここからずっとずっと遠い場所にひとりで……)

 

 それは悲しいと言うよりも驚きの方が強かったけど、それでも胸は痛んだ。

 細い針のようにぷすぷすと、わたしの心を苛ますように。

 

「サトくん……きっとまた会えるよね?」

 

 燐は空を見上げてもう一度だけ呟く。

 

 さよならは言えなかったけど、きっとまた会えることを願っていた。

 

 また会えたら、今度はなにか食べ物をもってこよう。

 余ったパンでよければいくらでもあげられるから。

 

(サトくんが気に入ってくれればいいけどね。そうすれば余り物も片付くし、サトくんが味を覚えてくれたら、わたしの家までついてくるかもね)

 

 あとは母親を説得するだけだけど。

 結局それが一番難しいだろうとは思っていた。

 

「あ。そうだ。せっかくだから蛍ちゃんの寝顔を撮っちゃおうかな」

 

 燐はワザとらしく大きく声を張り上げると、カメラのファインダーを寝息を立てる蛍の方に向ける。

 

 すごくいけないことをしているみたいでちょっとした罪悪感もあったが、それでも気を紛らわすのにはちょうどいい、美しい被写体だった。

 

「あ……っ」

 

 ファインダー越しに眠る蛍の顔は正しく眠り姫で。

 それは燐でも息を呑むほど綺麗だった。

 

 綺麗としか言いようがなかった。

 

「ごめんね蛍ちゃん、はいチーズ!」

 

 蛍の返事を待たずして、シャッターが切られる。

 

 心の中で謝りながらも、燐はファインダー越しの蛍を眺めていた。

 それなりな重さのあるカメラだったが、この時は何故だかそれが気にならなくなっていた。

 

「ほらほら、蛍ちゃん。起きないといっぱい写真撮っちゃうよー」

 

 蛍が起き出さないことをいいことに、燐は夢中でシャッターを切っていた。

 

 それが一体何になると言うのかは、燐自身も分かってはいない。

 

 そんなことをするより、一刻も早く蛍を起こして一緒に帰った方が絶対良いはずなのに。

 

 分かっているがゆえの興味というか体のいい先送りだった。

 

 何かの決断を下すのはやっぱりまだ、怖かったから。

 

「はぁー、満足したー!」

 

 フィルムが切れるまでシャッターを切って燐はようやく満足したのか、堪らず声を上げた。

 

 気づけば辺りにはオレンジがかった赤みが、緑の葉や広がる茶畑を照らし出していた。

 

 風車も半分ほどが朱色に染まってきていて、白と橙のコンストラクトがとても雄大で美しかった。

 

「遊び終わっちゃったし、もう帰らないと、ね」

 

 燐は前方にバックパックを背負うと、その滑稽な格好でもう一度辺りを見まわした。

 

 もう何も落ちてはいない。

 ただ一つのものを除いては。

 

「蛍ちゃん、結局起きなかったね。よっぽど疲れていたのかな。それとも……?」

 

 燐は今だ小さく寝息を立てる、蛍の綺麗な形の耳元にそっと口を寄せる。

 

「……寝たふりしてたりして」

 

 燐は微笑みながらそうささやくと、蛍の耳にふっ、と軽く息を吹きかけた。

 

 蛍の体がビクッと微かに震えた気がしたが、その事は燐の視界には入っていなかった。

 

(そういえば……)

 

 燐は蛍の顔をまざまざと覗き込む。

 その視線は蛍の閉じられた瞼の下の唇に寄せられていた。

 

(眠り姫は王子様のキスで目覚めるんだったっけ? それって白雪姫の方だったかなぁ?)

 

 魔法か何かで眠らされた姫は王子のキスで目覚めるとかいう、お伽噺での定番の起こし方。

 それを実践してみる?

 

 じっと見つめていると、鼓動が早くなってくる。

 

(わたしする気なの? 蛍ちゃん相手なのに? でもなんでだろう)

 

 小さく開けられたピンク色の可憐な蛍の唇をじっと見ていると、つい吸い込まれそうになってしまうのは。

 

 柔らかそうとは思う。

 それは女の子であっても触れてみたいほどに。

 

(だからっていやいやいや、あり得ないよ。そんなことは全然健全じゃないし!)

 

 燐は僅かに湧きあがった淡い思いを無理矢理打ち消した。

 

 でも。

 

(ひょっとして蛍ちゃんも期待していた、とか? そんなわけはないか。わたし、ちょっとおかしくなっちゃったのかもね)

 

 燐は指で蛍の唇をちょんと触る。

 その程度の事で魔法が解けるはずもなく。

 

 けど、その確かな柔らかさに、安堵と憂いの混ざった深い息を吐いた。

 

 …………

 ………

 ……

 

「さて、今から帰るからね、蛍ちゃん。ちゃんと背中に掴まっててね、落ちちゃうと危ないから」

 

 燐は入念にストレッチを繰り返した後で、そう言った。

 

 ずっと眠りこけている蛍の両腕を自分の首元に回すと、両足をぐいっと持ち上げて自身小さな背中に蛍をおぶさった。

 

 結局起こすことも、誰かの助けを呼ぶこともなく、自分の力だけで蛍を運ぶことに決めた。

 

 とても不器用で非効率的なやり方だけど、今の燐にはこれしか考えられなかった。

 

「よっとととと、やっぱり、重いよねえ。一度立ち上がってしまえば後は楽だよって言ってたけど……あ、蛍ちゃんが重いわけじゃないよ。このカメラとリュックが重たいだけだから」

 

 息を荒くしながらも背中越しに笑いかける燐。

 ただおぶさるだけじゃ不安定だと思ったので、二人の細い体を一本のロープで括り付けた。

 

 麻で出来たロープは蛍のバックパックから見つかったもので、何のために用意していたかは燐には分からないが、そのおかげで蛍を背負っていくだけの目処が出来た。

 

「ロープってね、案外役に立つんだよ。ロープワークが出来るかどうかで、山登りの上級者かどうか分かるんだって。そう言ってたんだ」

 

 燐がこうして立ち止まっている余裕はなかった。

 もうしばらくもすれば辺りは真っ暗になってしまう。

 

 そうなると下山はより困難になってしまう。

 

 すごくキツイが、本格的は山登りは蛍の体重よりも同じ荷物を背負うこともあるから。

 

 そう思えばまあ、なんとかなるかなと思っていた。

 今までやったことはないけれど。

 

 燐は持っていたヘッドライトを頭に付けて、暗くなってきた峠道を下り始める。

 

 帰りは下りだから行きに比べたら楽だけど、”荷物”がある分、気を付けて降りる必要があった。

 

 時折降り注ぐ、烏の不安を煽るような鳴き声にびくりと肝を冷やしながらも。

 燐は一歩ずつ慎重に足を運んだ。

 

 背中の壊れ物に傷が付かないように。

 

「はぁ、はぁ、それにしても人を背負って歩くのって、こんなにも重くて辛いんだね。おにいちゃんに、悪い事しちゃったなぁ、いまさらこんなこと言うのなんだけど」

 

 ほんとうに今更だった。

 でもそれに気付けたのは良いことだと思う。

 

 それだけでもここにこうして”戻ってきた”かいがあったと言える。

 

 何かを犠牲にしないと分からないこと。

 それを教えてくれたあの夜はやっぱり夢だったのかもしれない。

 

 けれど、夢かどうかなんてもう問題ではなくなった。

 

 今は背中で寝ている大事な人を、一つの傷もなくちゃんと家まで届けてあげたい。

 綺麗だけど透明で壊れやすい、儚さを感じさせる大切な人を。

 

 それまではまだ、わたしはわたしのままでいられる。

 

 あのときのように、自分の存在意義を感じ取ることが出来るから。

 

 ……

 ……

 ……

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ、やっとここまで来た……」

 

 無理だろうとは思っていたことだったが、蛍を背負ったまま山を下りることが出来た。

 

 ここに来て体が解れてきたのかもしれない。

 週末となれば従兄と共にどこかの山へ出かけていたあの頃の自分のように。

 

 ほんの少し前のことなはずなのに、とても昔のことのように思える。

 

 この”吊り橋”を一緒に渡ったことでさえも。

 

「あとは吊り橋を渡るだけ、だったよね?」

 

 燐はことさら明るい声で背中に問いかける。

 

 蛍は目を閉じたまま燐の背中にしがみ付いていた。

 小さな呼吸音に燐は安堵する。

 

(あとちょっとだからね)

 

 蛍と自分にそう言い聞かせるように呟くと、蛍を気遣うよう慎重に吊り橋を渡り始めた。

 

 ぎいっ、ぎいぃぃぃ。

 二人分の重さを受けて、小さな吊り橋が鳴いている。

 

 一人で渡った橋が、帰りには二人になっていた。

 

 あれから改装などはされていない吊り橋だったが、それでも何年かに一度は安全点検をしているらしかった。

 

 小平口の観光スポットとしてもそこそこ人気が出てきているらしい。

 燐が引っ越してくる少し前から町は少しずつ別の変化を辿るようになってきていた。

 

 ざわざわざわざわ。

 

 吹きおろしの風が葉や木々を、そしてどこか頼りない吊り橋を軽く揺らす。

 少し狼狽えたが燐だが、それでも足はビクともせずしっかりと木の板を踏みしめていた。

 

 とん、とん、とん。

 

 燐は少し早く、吊り橋を渡っていく。

 別に追ってくるものは居ないが、やはりどこか恐怖を感じる部分もある。

 

 もっと軽快に渡ることが出来るが、蛍をおんぶしたままではこの速度が限界だった。

 

 けれど足取りはずっと軽い、自分でも驚くほどに。

 

 不思議だったのだが、歩くたびに力がついてきているというか。

 戻ってきている感じというか。

 

「……ついたぁ!」

 

 橋の反対側まで着くと、燐は大きく息を漏らした。

 

 吊り橋を渡りきる際、やはり緊張感があったのか、燐はしばらくその場から動けないでいた。

 

「意外となんとかなるもんだねぇ。ダメかと思っちゃった」

 

 燐は小さく微笑みながら蛍の方に顔を向ける。

 汗ばんではいるけれど、充足したようなそんな爽やかな笑顔。

 

 部活の時の燐の顔とそっくりだった。

 

「よっ、と」

 

 蛍を背負い直すと、燐は足を進める。

 

 半分に切り取られた月が少女たちの横顔を白く照らしていた。

 

「月が綺麗だね、蛍ちゃん」

 

「……うん」

 

 燐と蛍は自然に会話を交わしていた。

 

 燐は驚いた素振りを特に見せなかった。

 

 蛍は、いつものように答えていた。

 

 なんてことない一日。

 

 でもちょっと違う、二人の始まりの日。

 

 燐はそう認定した、頭の中で。

 

 止まった時計が動きだす時のように、今日から違う世界の一日がはじまるのだと。

 

 ──けど、全てが元通りとは思ってはいない。

 

 時は現実に進んでいるし、とても大きな引っ掻き傷を”ふたり共”つけたままだったから。

 

 あとちょっと深くなったらきっと砕けてしまいそうなぎりぎりの傷跡。

 それをひた隠しにしている、それはきっとお互いに。

 

「ねぇ、燐はいつから知っていたの?」

 

「何のこと?」

 

「何のことって……ううん、なんでもない」

 

「そう」

 

 雑木林の間を小道をゆっくりと進んだ。

 

 言いたいことはお互い山ほどあるのになぜだか言葉は出てこない。

 

 燐は無言のまま歩き。

 蛍はそのまま燐の背中の上で揺られていた。

 

 どちらがと言うわけではなく、どちらも等しい同じ想いのままだった。

 

 もうしばらくすれば二人は別れてしまうだろう。

 そして同じように元気な朝の挨拶を交わすのだ。

 

 何事もなかったようにして。

 

 今はそれでよかったんだと思う。

 まだ時間はあるのだから。

 

 消えて、そして戻ってきた友達。

 

 そして、かけがえのない人。

 

 もし夢なら永遠に覚めないで欲しい。

 

 そう、願うほかなかった。

 

 

 あの。

 

 ひときわ大きく輝く星に。

 

 ────

 ───

 ──

 

 





さてさて、ようやく2回目の接種も終わったのでとりあえず一安心──だったのですけど、副反応がとても重くて辛かったです~~~。

そういえば、最近ゴルフボールっぽいデザインのシューズを譲り受けました。でもゴルフ用のシューズじゃないみたいなんですよね。

で、これも靴紐がない──っていうかそもそもそういう部分すらない。だからなのか履くときに少しキツイ印象なんですよねー。雨の日だと濡れにくいから良いみたいです?
素材はストラップサンダルのようなクッション性のある感じで、ちょっとふわっとした履き心地かなぁ? まだちょっと慣れない感じですねぇ。


ではではーー。

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