We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life.   作:Towelie

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「はぁっ、はぁっ、はぁっ」

 また……こんな事をしてる。

 前にもこんな苦しい思いして歩いてた……よね。

 いつだっけ……?

 あぁ、そうだ去年だ。
 去年は本当に色々な事があったなぁ。

 特に夏はそれこそ渦を巻いた歪みの奔流が怒涛の様に流れて行ったから。

 逆に記憶からすっぱり抜け落ちていたこともあった。

 もう、そんなに経ったのかと月日の流れに感慨深くなってしまう。

 それまで運動というか、自主的に動き回る事にはもともとご縁がない、そう思い込んでいたから。

 疲れるのは普通に嫌だし、それに運動神経抜群な友達ならともかく、自分なんかがやったって意味なんてない、そう思っていた。

 そんなわたしが、山道を長距離歩いたり、ローファーのまま走ったりだなんて。
 面倒ごとから逃げていたわたしがそんなことをするとは思ってもないことだった。

 そうせざるを得ない状況は確かにあった。
 
 何の前触れもなく日常は変化して、町も人も変わってしまったのだから。

 逃げるしかない、そう思った。
 事物だけでなく、全ての、何もかもから。

 今は……どうなんだろう?

 それまで漠然として分からなかった事が今では分かる様になったから面倒ごとは増えたけど、それが楽しくもあった。

 前とはちょっと違う日常が穏やかに流れていた。

 幸福なんだろうか、これが。
 その順調さが怖くもあって。

 時折確かめたくなってしまう、本当に幸せかどうかを。

 だからこれはその一環なのかもしれない。
 幸せな人ほど非日常、少し危険と思う事に挑戦したくなるらしいから。

(でも辛いものは辛いよね……?)

 嫌な事、苦しい事は極力避けるようにしてきたつもりなんだけど。

「へぇ、へぇ、へぇ」

 明らかに変な声を上げて苦しんでいた。

 苦しくて辛い、そして暑いしで、幸福とはとても呼べない状況だった。

(最初はそこまででもなかったんだけど……)

 現地に着いた時、看板もない鬱蒼とした登山道口を少し疑いの目で見ていた。

 ──こんな所本当に登れるものなの? と。

 前人未踏と言ってもいいぐらいの名前のない、誰も寄り付かないほどの山だったし、それ故に何の危険があるかも分からなかったから。

 だから今日は朝からテンションは下がっていた。

 情報だけは知っていたけど本当にこんな所を登るだなんて。

(遭難だけはしないようにしよう……)

 まだお日様が登り切っていなかったせいもあり、歩き出しは暗く重いものだった。

 でも、少し進むと思っていたよりも歩きやすく、またその未開さが意外なほど新鮮で楽しかった。

 辛うじて人が通れる程度の山道しかないので確かに不安もあったけど、専用の道みたいな特別感があったし、人の手が加わっていない木々や森にはどんな昆虫や動物がいるのか、そういった物との出会いへの期待もあったから。

 よく見る山とは少し違う、自然の織り成す風景にワクワクしていたはずだったのに。

 これぐらいなら直ぐに登っちゃいそうだと、ちょっと残念がる顔を見せていたはずだったのに。

 あの時の余裕は一体どこにいってしまったのか。

 カモシカの様に軽かだった足取りは、きつい斜面と岩場のせいでまた重い足取りに戻っていた。

 一度鈍くなった足取りはそれが本来の姿だと言っているかのように、軽くなるようなことは無く、むしろ歩くたびにその重さを増してきているように感じられた。

 思う様に動いてくれない事に叱咤しても、わたしの性格と同じで意固地な足は結局最後まで言うことを聞いてくれなかった。

(やっぱり……止めればよかった)

 今日、何度目かのため息をつく。

 自分で行くことを決めたことのはずなのに、それでもため息をつくのは往生際が悪いということなんだろう。

 ただ足を前に出しているだけなのに、目の前でちかちかと星が浮かんでいる。
 まだ昼前だと言うのに。

 道に立ちふさがるように転がっていた大きな岩を何とか無理矢理に乗り越えると、傍にあった大きな木の下で立ち止まった。

 ここに来てもう何度目かの休憩。

 少し勾配のきつい坂道を越えたり、ある程度の障害物を越えただけでこのありさまだった。

 ミネラルウォーターを吸いつくように飲んでいると、弱気な気持ちがすぐに湧きあがって頭の中をぐるぐると駆けまわっていた。

 流石にもう帰りたくなった。
 そう思うのも本当に何度目なのか。

 けど実際に下山するようなことはなく(踵を返しそうになったことはあるけど)、答えはないまま、なんとか踏みとどまっていた。

 もうちょっと、あとちょっとのはずだからと呪文のように繰り言を唱えながら、心と体を宥めすかして。

「はあぁ……」

 溜息さえも億劫でつらいものになっていた。

 限界が近くなってきている。
 いくら誤魔化しても蓄積された疲労は隠しようがなかった。

 思っていたよりも頼りにならないトレッキングのポールを挟み込むように持って頭を俯かせていると、ほんの少しだけ楽になれた気がした。

 何の気休めにもならない事だけど。
 ただ突っ立っているよりは少しはマシになった。

 それにしても……。

(どうしてわたしは、わざわざ山になんか来たんだっけ……)

 思い出せないと言うよりも。

 何も考えたくなかった。
 疲れたから。

 ────
 ────
 ────

「──これぐらいなら、何とかなりそう、かな。わたしでも登れそうな山道で良かった」

 数時間前の自分は何かを読み違えていた。
 楽な山道なんて都合の良いものなんかあるはずないのに。

(浅はかだったなぁ、本当に)

 今なら、うんと叱ってあげたいぐらい。

 山を歩くときはなるべくペースを守った方がいいと言われてはいるが、それは口で言うよりも難しいことだった。

 明らかにペースが遅れているので、気持ちだけが前にいってしまい身体が全然付いていかなかった。

 気ばかり焦ったって山頂はおろか、背中を追うことすらも出来てないのに。

(あの時もそうだったよね。気持ちだけで進んでいたから……)

 自分で自分を追い込んで、もう戻らないと約束して家を飛びだしていたあの日。

 一縷の望みを掛けて夜の山道を駆けずりまわった挙句、結局何も成しえないまま家まで戻ってきてしまっていた。

 それが友達に会うどころか、自分自身すらも無くしてしまうことになるなんて。
 おおよそ想像もできない。

 まさか自分もそうなるとは思ってなかった。

 本当に意味のないことだった。
 
 だって幸運は、すぐ近くにあったのだったから。

「はあっ……」

 少し、頭が重くなっている気もする。

 気圧の変化が影響しているせいか、それとも頑張り過ぎ?
 まだ、山頂に辿り着いてさえもないのに?

 そこまで高い山じゃないから大丈夫って言っていたのにどうして。
 辛さからかつい心に暗雲が立ち込めていた。

 こんな日に限って空は雲一つない完璧なブルーなのに。

「きゃっ!!!」

 ぼんやりとしていたせいか、支えているポールとのバランスを崩して頭から倒れ込みそうになった。

 舗装もされていない雑木林と岩だらけの山道でもし転んだりでもしたらどうなるのだろう……とても想像がつかない。

 ほっと胸を撫で下ろしたその時、良く通る声がどこからから聞こえてきた。

「蛍ちゃーん、大丈夫~!! 上がってこれそう~!?」

 先行して進んでいた筈の燐の声だった。

「あ、うん! なんとか頑張ってみるー!」

 心配そうな燐の声。
 でもそれを聞いて蛍は少し安心した。

 けれど、目を凝らしても燐の姿を見つけることが出来ない。
 蛍は何となくで燐の声がしたと思われる上の方に返事を返した。

 けれど、無理に声を張り上げたせいか、思わず咳き込んでしまい、慌てて水を取り出して口に含む。

 水筒の水はまだ冷たさを保ってはいた。
 そのせいでつい余計に飲んでしまったけど。

(燐は……わたしのいる場所が見えているの? わたしは燐の事なんて全然見えないのに……?)

 上下に視線を動かしてみても燐の姿どころか、その影さえも見えない。
 
 ここよりもかなり上のところまで登っていることは分かるが、それにしても全然見えないなんて。

 蛍は少しだけ不安な気持ちになった。

「りーん!!」

 蛍は潤した喉で叫ぶ。

 声だけだとどうしても不安になってしまう。
 あの時のことを思い出してしまうから。

「何かあったのー?!」

 良かった、燐の声が返ってくる。

「そーゆーわけじゃないけどー!!」

 こっちまで戻って来て欲しいなんて言えなかった。
 一目姿が見たいなんてそんなこと。

 燐の足手まといになりたくないから、一人で最後まで歩くって決めたのに。

(それになんか未練がましいよね。これじゃまるで恋……)

「ん? 恋がどうかしたの蛍ちゃん?」

「ひゃっ!?」

 ずっと遠くにいると思っていた燐の顔が急に目の前にあった。
 驚いた蛍は思わずポールから手を離してしまった。

 ポールにはストラップがついており。本来ならそこに腕を通して使用するのが基本なのに、蛍は何故か外して使用していた。

 疲れのせいなのかは分からないが、そのせいで大変な事になってしまった。

 二人はあっ、と声を合わせて叫ぶ。

 だがもう遅く、蛍の手から解き放たれたトレッキングポールの片方が林の下へと転がって行ってしまった。

 反射的にそれを拾おうとした事は更なるミスを呼んでいた。
 
 その時、蛍は自分の状態を顧みなかった。

 そのおかげで見事にバランスを崩してしまい、蛍は頭から地面へと倒れ込む。

 目の前に広がるのは白く尖った岩肌。
 それが蛍が意識を失う前に見た最後の光景……のはずだった。

「むぎゅぅ」

 本当に頭が割れるほどの衝撃を覚悟していた蛍だったが、予想とは違った柔らかさに呆気に取られる。

(あれ、何で? でも確か、むぎゅって) 

 思わず目をつぶってしまった蛍。
 恐る恐る瞼を開くと、その理由が分かった。

 燐が倒れていたからだった。

 正確に言うと、バランスを失った蛍が燐に倒れ掛かったおかげで蛍は無傷で済むことが出来ていた。

「だ、大丈夫、燐!?」

 自分の身体の心配よりも先に燐に声を掛ける蛍。
 もし燐に怪我なんてさせてしまったらと、気が気じゃなかったから。

「あ、う、うん。一応……大丈夫みたい。カエルにもなってみたいだし」

「え、かえる?」

 蛍は首を傾げる。
 倒れるのと蛙に何の関係があるのだろう。

 燐は少し目を回してはいるが、意識はちゃんとしているようだった。
 蛍は燐にずっと抱き着いていたことに気付いてぱっと身を起こした。

 どこも痛くないのは燐が庇ってくれたからだと思う。
 でも燐はその事に気づいていないようだった。

「頭とか打ってない? 痛いところとかは?」

「え、えっとぉ……」

 蛍に言われて軽く頭を触ってみるがコブの様なものも、鋭い痛みもない。
 血、みたいな赤いものもついてないみたいだ。

 燐は手のひらを食い入るように何度も見つめると、やがて安堵の息をついた。

「立てる?」

 心配そうに見つめてた蛍だったが、とりあえず燐が無事みたいなので、手を差し出して起こしてあげた。

「ありがと、蛍ちゃん」

 燐は小さく笑みを見せてお礼を言った。
 綺麗な栗色の髪が転んだせいで少し汚れているようだった。

「ごめんね。燐に酷い事しちゃったよね」

「大げさだよ~。わたしはほら、この通りだから大丈夫だよっ。蛍ちゃんは大丈夫だった?」

 頭を下げる蛍に燐は軽く微笑んだ。

「うん。燐のおかげで汚れてもいないよ」

「そっか、それなら良かった、って……わたしは結構泥だらけになっちゃったみたいだね……」

 服についた泥を落としながら、燐はどこかに傷がついていないかを確認する。

 結構前から使っているアウトドアウェアは見た目もそうだが、その機能性にも燐の選んだ理由があった。

 外で使う以上汚れはついてしまうのは仕方がないけど、かなりラフに扱っても簡単に破れたりしないタフさが一番のお気に入りだった。

 燐がウェアをもう何年も買い替えていないのは今着ているものが気に入っているからであって、それから成長していないと言うわけではないはず……多分。

「いやぁ、ごめんごめん。ちょっと驚かそうとしただけだったのにわたしが驚かされちゃったね。でも、蛍ちゃんに怪我がなくて本当に良かったよ~」

「う、うん。ありがと、って言うかごめんね。わたし、あのままスイカとか苺みたいになっちゃうって思ったから」

「???」

 燐も首を傾げる。
 蛍の例えが抽象的すぎて上手くは伝わらなかったようだった。

「えっと……と、とにかくふたりとも怪我なくて良かったよねってこと。けど……燐は本当に大丈夫なの? わたし、結構勢いよく倒れちゃったから……ストックをしっかり持ってさえすれば良かっただけなのにね」

 危うく大変な事になりそうだったので蛍は自責の念に駆られた。

 燐がわざわざ自分の所にまで来てくれたことは嬉しかったけど、そのせいで怪我をさせてしまったのならば話は別になってしまう。

 自分がちゃんとした使いかたでストラップを腕にはめて置けばと酷く後悔した。

「気にしないでも大丈夫だよ蛍ちゃん。わたしこうみえて頑丈だしね。それに蛍ちゃんってほら、柔らかったから。だから全然痛くなかったよ」

「それって……わたしの胸がってこと?」

 密かなコンプレックスとなっている平均よりも大きめの自分のバストを蛍は思わず見下ろしていた。

 同性からでもじろじろと見られることがあるので大きくて良いことなんてなく、むしろ恥ずかしいと思うことの方が多かったから。

「胸だけじゃなくて、蛍ちゃんは全体的にふわっとして柔らかいんだよ。あ、性格もそうだね」

「もぅ、燐ってば……」

 からかわれたんだろうなと思ってはいるが、それでも蛍は少し嬉しかった。
 それは決して自分の事ではなく、もっと大事なこと。

(燐は元気そうだし、この分だと本当に怪我してないみたいだね。良かった)

 蛍は小さく微笑みながら胸中では胸を撫で下ろしていた。

「そういえばさ、燐は一度山頂に着いてからわたしのところまで戻ってきてくれたんでしょ? そこで待っててくれても良かったのに」

 燐がいつも使っているバックパックは今日は担いでいなかった。

 代わりに別のもの、それは燐の身体よりも一回り大きいサイズのバックパックを背負っていたのだ。

 何でそんなに大きな荷物なんだろうと蛍は首を傾げていたが、燐は意味深に微笑むだけで中身を教えてはくれなかった。

 中身はともかく、あんなに大きなものを今は持っていないと言うことは、上まで行って戻ってきたんだろうと蛍は推測していた。

「うーん、まぁね。でもねこんなこと言うのもなんだけど、一人でぼーっと待ってるのって結構退屈なんだよね。他に誰も登ってくる人もいないしさ」

「それに、ほら、わたしにはブランクがあるから。だからこれはちょうどいい運動なんだよね。あっ! 決して蛍ちゃんが心配になって見に来たわけじゃないからねっ」

「う、うん」

 最後の方は燐は何故か腕を組んでいた。

 蛍は困った顔で頷く。
 要するに燐は一人で寂しかったんだと、そう思った。

 でも、マンガみたいな台詞も燐が言うと何故か普通の自然な言葉に聞こえてくるのが不思議だった。

 確かに燐はあの時から比べると全然山に行かなくなったが、それでも運動部に所属しているのだから、蛍よりは断然体力はあったのだけど。

「だからさ」

 そう言って燐がそっと手を差し出してくる。
 蛍は少し首を傾げたが、何となく察してその手を取って軽く握った。

「あ……ちょっとごめん。ここで待ってて、すぐに戻ってくるから」

「えっ」

 言うが早いか、燐は自分から差し出した手をそっと離すと、突然林の中に降りてしまった。
 呆気に取られた蛍の手のひらには燐の小さな温もりがまだ残っていた。

「燐、何か、あったの!?」

 一瞬の出来事に焦燥感に駆られた蛍は、燐が降りて行った雑木林に駆け寄ると、下を覗き込んで呼びかけた。

 燐の姿は意外なほど直ぐに見つけることが出来た。
 それほど下まで降りたわけではなかったらしいが、燐は何かを拾い上げるとそれを手に笑顔でこちらに声を掛けた。

「蛍ちゃん。ほらっ、あったよっ!」

 燐はついさっき何処かへ行ってしまったとばかりの蛍のトレッキングポールを持ちながら、手を振っていた。

 燐は素早くこちらへ戻ってくると、今度は燐の方から蛍の手を取った。

「荷物、持ってあげようと思ってたんだけど……まあ、これでもいいよね。二人一緒で登ろうってことで」

 燐の提案に蛍は頷く。

「うん。こっちのほうが良いよ。荷物まで持ってもらったら流石に悪いし。それに燐と一緒の方が実力が出るみたいだから」

 これ以上されたら足手まといどころか完全に”お荷物”だったから。
 それでも蛍には十分すぎるほどの助けだったが。

「くすっ、それなら試験とかも二人で手を繋いで受けてみようか? あ、でもどっちかは左手で書くことになっちゃうからダメだったね」

 燐が心配するところはそこではない気もするが。

「だったら、抱き合えばいいんだよ。わたしが燐のテストに答えを書くから、燐がわたしの答案用紙に書けばいいんじゃないかな」

 燐の突飛な妄想に蛍はつっこみを入れるどころか更におかしな提案をしてきていた。

「それって完全にカンニングっぽくならない? それに、クラスのみんなに何言われるか分かったもんじゃないし」

「でも、まあ、それは今更じゃない? わたし達、仲がいいってみんなに良く言われてるし……」

「そうだけどぉ、それはなんか違う気がするよ」

「そうかなぁ?」

 何でこんな話になったのか、燐と蛍は不思議そうに顔を見合わせて首を傾げていた。

「とにかくっ! このまま一緒に頂上まで行こう。この先ちょっと険しい所もあるし、まあ、そこはわたしがフォローするから」

 燐は本来の目的に立ち返るよう話をもとに戻した。

(険しいところか……)

 蛍は口元に拳を寄せて少し考え込んだ。

 燐でさえ険しいと言う場所なら蛍には尚の事険しいだろうと。
 燐の助けを借りたって結局は自分で登るしかないのだから。

(登れるのかな、こんなわたしでも)

 蛍の心に一抹の不安がよぎる。
 ここまで来るのだって正直いっぱいいっぱいだったのに、これ以上もっときつくなるなんて。

 想像しただけで気が遠くなりそうだった。

「蛍ちゃん大丈夫? 顔色がちょっと良くない、かも?」

「だ、大丈夫だよ。ちょっと暑いなって思っただけ」

 燐に顔色を訊ねられ、蛍は慌てて手をぱたぱたと振った。

「確かにねー、それでも大分暑さは和らいだみたいだけど、まだまだ夏って感じだよね」

「う、うん……」

 山の中とは言え暑い事には変わりない。
 首に巻いたタオルのおかげで日焼けは避けられてはいるが。

(ここに来て逃げるなんてことなんてしたくない……そんなことしたら燐に嫌われちゃうよ)
 
 蛍は無理矢理心を奮い立たせると、覚悟を決めたように燐の顔を真っ直ぐ見た。

「わたし、頑張ってみるよ。最後まで自分の力で登ってみせるからね」

 ガッツポーズの代わりに燐の手を強く握る。
 燐とこうして一緒ならどんなことでも出来そうな気になってしまう。

 山だって何とか越えられるかもしれない。
 そうであって欲しかった。

「そんなに肩肘張らなくても大丈夫だよ。わたし蛍ちゃんなら登れるって信じてるから」

「燐、ありがとう。期待に沿えるよう頑張るね」

「もう、蛍ちゃんは」

 燐はどうやっても頑張る気でいる蛍に苦笑いした。

 それはまるで昔の自分を見ているような気になったからだった。

 聡の後ろにくっついて、はじめてトレッキングをしたときの幼い頃の自分の時みたいに。

(あの時はお兄ちゃんについてきちゃダメだって言われてたなぁ……それでもわたしは無謀にも着いて行っちゃったんだよね……)

 何も知らなかったから出来たことだった。

 幸い大事には至らなかったが、その事で二人とも怒られてしまった。

 けれど、おかげで憧れだった従兄と仲良くなることが出来たんだけど。

(あの時は本当に楽しかったなぁ)

 山もお兄ちゃんも、興味あることは何でも。
 分からない事を知る事が楽しくて仕方がなかった。

 でも、今は違う。

 むしろ知る事で傷つくのが、怖かった。

 ……
 ……

「ねぇ、燐。山頂まではあとどれぐらい? もうちょっとだとわたしは思ってるんだけど……」

 燐が急に考え始めてしまったので、蛍はそっと声を掛ける。
 なるべく無理のない自然な会話を言葉の糸で紡ぎ出すように。

「あっ、ご、ごめん。えっと、山頂までだったよね」

 蛍の声で意識を戻した燐は、慌てたように蛍に謝罪した。

「うん。でも大丈夫だよ燐。わたしもようやく息が落ち着いてきたぐらいだから」

 燐のおかげで少し気が紛れたのか、蛍は自分でも驚くほど落ち着くことができていた。
 呼吸も心構えも何もかもが普段以上に落ち着いている。

 ついさっきまで帰りたいと嘆いていた弱気な心は、トレッキングポールよりもどこか遠くへと吹き飛んでしまったようだった。

「えっと、確かに山頂まであとちょっとだよ。40分ぐらい歩けばつけると思う」

「え、まだ後40分も歩くの?」

 蛍は信じられないとばかりに目を見開いた。

 ここまで来るのだってかなりペースを使ってしまっている。

 燐が山頂で退屈だったのは、蛍が遅いと言う意味であると蛍は解釈していた。

 だから燐の言う40分とは蛍にとっての一時間半。
 もしくはそれ以上だった。

 しかも険しい道らしい……。

 元気になった蛍だったが、また心が委縮しそうになっていた。

「でもあとちょっとなのは間違いないよ。大丈夫、いざとなったらおぶってでも山頂に連れて行ってあげるからね」

 燐は片手でガッツポーズを作る。

「そこまではしなくてもいいよ。なるべく自分の足で登る様にするから」

「そう? でも辛くなったらいつでも言ってね」

「うん。その時はね」

 蛍は困った顔で微笑んだ。

 燐ならばきっと本当におぶってくれるだろうと思っていたから。
 でもそれだけは絶対にさせてはいけないと強く思ってもいた。

 ……
 ……
 ……

「ふぅー、今日もやっぱり暑いよねぇ~。誰も見ていないし、上着脱いじゃおうかなぁ」

 昨今は夏が妙に長く感じる。
 終わりが近づくほど暑さがぶり返してくるようで、冬服にするタイミングがなかなかつかめなかった。

 燐はベージュの半袖のウェアの下に、燐にとっての定番のベースレイヤーを重ね着していた。

 その為上着を脱いでもすぐに下着にはならないが、黒色のベースレイヤーは生地が薄くみえることもあって、殆ど下着と変わりはなかった。

「でも、どこで誰か見てるか……分からないよ……」

 辛そうに息を吐きながらも、なんとか燐との会話を続けていた蛍。
 休憩をとったおかげで足は大分楽にはなったが、それも長くはもたなかった。

 岩をよじ登らないといけないような場所は、本格的な登山に不慣れな蛍の体力を確実に奪っていったのだ。

「蛍ちゃん、ゆっくりでいいんだよ。焦って登ると余計に危ないんだから」

 柔らかい燐の声はどんなせせらぎよりも涼やかで、心地よかった。

 大きな石の上にうつ伏せとなって、目いっぱい腕を伸ばして燐は蛍の手を引っ張り上げていた。

 その背中にはいつしか蛍のバックパックが背負われていた。

 結局燐が担ぐことになってしまって蛍はとても申し訳なく思ったが、このままリタイアするよりはマシだという燐の提案を呑んで断腸の思いで頼んだことだった。

「う、うん……」

 岩をよじ登ってまで山に登るなんてこと、それこそフィクションか有名な登山家しかやらないと思っていた。

 それを自分もやることになるなんて。

 非現実的と言ってもいいぐらいだった。

(熱いし、つらいなぁ……トレッキングってこんなに辛いものだったっけ? もっと気楽に自然を愛でながら……とかそういうのじゃなかったの?)

 蛍の頭の中は後悔と愚痴でいっぱいになっていた。

 やっぱり無茶だったのかもしれない。
 燐の真似をして恰好だけ揃えても、いきなり体力がついてどんな山にも登れるなんてことはありえないのに。

「はあぁぁーっ」

 蛍はわめくように叫ぶと燐の居る岩の上へと転がるように這い上った。
 そこはとても狭く、そして不安定だった。

 立ち上がる事すら怖い場所に燐が待っていた。

「蛍ちゃん、お疲れ様っ。よく頑張ったね」

 燐に褒められたことで蛍はようやく苦しみから解放されたと思った。

 けれどこの先にも似たような場所がまだあるらしいが、その事は蛍の耳にはまだ届いていなかった。

 蛍はその場で膝をつき、力尽きたみたいに首を垂れていたからだった。

 頂上まで後、数メートルのところまで来ているのだが、後40分ほど掛かると言うのはつまりそう言うことだった。

「ふう……」

 少し落ち着いた蛍は一度大きく深呼吸すると、火照った体を冷やすべく、自然の声にしばし耳を傾けていた。

 夏はまだ終わる兆しを見せてはいない。
 小鳥も蝉も元気に泣きわめいていた。

 ここからでも怖いぐらいに絶景で、吹き上がる風がとても気持ち良い。

 燐の言う所だと、山頂はここよりもっーと景色が良いらしく、”楽しみにしててね”とのことだった。

 蛍にしてみればそこまでの道のりこそが楽しくはないのだが……。

 こんなときに限って沸き立つような雲の姿はなく、じりっとくる夏の日差しが目に痛いほどだった。

 額にこぼれる汗を手で拭う。
 帽子の下は嫌になるほど濡れているだろう。

 一度取ったほうが良い気もするが、それさえも億劫だった。

「なんか、ここで満足しそう……」

 蛍はぼそっと呟く。

 燐はそれを聞いて困ったように微笑んだ。
 まだ一つ難所を抜けただけと言わんばかりだった。

 ──改めて山に来ていると思った。

 今、登っている山の事は正直良く分かっていない、けれどここに来る目的はあったのだ。

 最近の地図にさえ詳細は載っていなかったが、蛍と燐が町の人から聞いた話だと昔はそれなりにこの山に登る人がいたらしい。

 修業とかそういうのではなく、単なる趣味なのではとの事だった。
 おかげでこの山の登山道は一応出来てはいるのだが。

(これが登山道なの? 山って言うより崖を登っているみたい……)

 蛍にはそうとしか思えなかった。

 以前に比べたらずっと外に出る機会も増えて山歩きを嗜むようになった蛍だったが、ここまできつい思いをしたことがなかったから。

 行くのはもっぱら低山か、丘ぐらいなもので、それにわりと整備された場所を選んで行っていたのだから。

 この山は整備なんて何もされていない。
 風車へ続く道だってここまで鬱蒼としていなかった。

 もし燐がいなければここまでだって辿り着けないだろう。
 むしろ遭難していた可能性は十分にあった。

 蛍の実家からそんなに離れていないところの山なのに、だ。

「ひぃ……はぁ……」

 空気の漏れた音を口から吐き出しながら、蛍と燐は再び崖の様な山道を登っていた。

 そこまでの標高ではない筈なのに無性に酸素の薄さを感じとってしまう。

 燐に手を引かれながら何とか登ってはいるものの、それでも頂上までは一向に辿り着きそうにない。

 見上げれば手の届くような場所までもう来ているはずのに。

 道を阻むように岩や傾斜が邪魔をしていた。
 そして燦々と陽を降り注ぐ太陽も。

 その位置から見て、ちょうどお昼時だとは思う。

 けれどそんなことよりも、はるかに高い場所から焦がすばかりの強い光を照らし続けている事が無性に腹立たしかった。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

 呼吸を整えようと懸命に努力する。
 息を吐く頻度を抑えられなくて、胸が苦しくなる。

 ()()()()の水溜まりで揺蕩っていた時には起こらなかったのに。

 肺に送るだけの酸素の供給が足りていないようだった。
 それはすごく耳障りなのに、自分で止めることが出来ないのがとてももどかしい。

 何でこんなに辛いんだろう。
 幾度となく自問自答しているけど、答えは最初から分かっていた。

「後ちょっとだからっ」

 燐が心配そうにこちらを振り向きながら何度目かの声を掛ける。

 その燐も大分息を荒くしていた。

 けれど蛍を気遣う気持ちに変わりはなく。
 重い荷物を引っ張る様に懸命になって蛍を何とか頂上へと連れて行こうとしていた。

(燐……)

 燐は何でそんなに一生懸命なの?
 そう尋ねようとしたのだったが、口が上手く動かない。

 視線だってさっきからずっと俯きっぱなしで、顔を上げるどころか足元しか見ていない。

 早く、早くとそれだけを頭の中に浮かべて足を動かしていた。

 これは多分逃避なんだと思う。

 本当に辛い事。
 現実からの……逃避。

 どこまで逃げても追ってくるあの顔のない怪物のように、いくら頭を巡らせてもこの苦しさが緩和されることはなかった。

 僅かな希望でさえ残ってはおらず、頑張って登りきるか、苦しさに負けて下山するかの分かりやすい二択だけ。

 燐がこんなに頑張ってくれているのだから下山の選択肢は既になかった。

 例え足が砕けても山頂まで行く。

 その、つもりだ。

 本当に大事と一緒に山頂まで。

 でも、現実はいつだって無情で無慈悲で。

(遠いなぁ……山頂……本当に遠い……)

 何度も休憩を繰り返して遂にここまでやってきたが、蛍は既に限界だった。

 限界を超えるなんて簡単に言うけれど、自分にはその素質はないみたい。
 ここまで来たことで蛍はやっとそれが分かった。

(わたしって、本気になったことってないんだね……何に対しても)

 だからどこかで諦めてしまう。
 それが勉強であったり人間関係だったりと。

 燐は折り合いをつけられないと言っていたが、自分は折り合いをつけるのが早すぎるのだと思う。

 面倒になる前に諦めてしまっていた。

 燐と出会ったことで少しは変わったかなと思ったけど。
 こう言った精神的に追い詰められたときに本音が本性が出てしまう。

 図書室であの何かに追い詰められたときも。

(自分の事だけしか……考えてなかった……)

 すぐ傍にもっとも頼りになる人がいたというのに。

 燐はいつだってわたしの事を気にしてくれていたのに。
 
 わたしは肝心な時に自分の事しか考えていない。

 それは今だって。

(もう、足がまともに上がらないよ……)

 燐が引っ張ってくれてるのに、肝心の自分の足が動かないなんて。

 目に見えて遅くなっているのは分かっている。
 でも、それでもちょっとづつしか動かせなかった。

 弱い身体を持っていることが情けなくて、また涙が溢れ出てきそうになる。

 つい少し前にも辛くて、その場でしゃがみこんで泣いてしまったが、燐が懸命に慰めてくれたおかげでまた歩き出すことが出来た。

(でも、また辛いよ燐。燐はどうして山なんかに登るの?)

 こんな辛い思いまでして。

 二人は山に何しに来たのか。
 それは、ちょっとした好奇心。

 家の整理をするために燐と一緒に物置部屋をひっくり返している時に偶然見つけたものだった。

 あの時、物置部屋から一体の人形が見つかった。

 確かに衝撃的なものだったが、見つかったのはそれだけじゃなかった。

 そのせいでわざわざここまで来ていた。
 それだけの価値がある、そう二人とも思ったからだった。

 けれどそれはまだ、”本当に良いものどうかは”分かってはいなかった。


 ──
 ──


Billedbog uden Billeder

「蛍ちゃん、これってやっぱり()()だよねぇ!? わたし、こんなの初めてみたよー」

 

 やっぱりと言うか、燐は一目見るなり子供の様に興奮して目を輝かせていた。

 蛍は自分で用意した冷たい緑茶を一口飲むと、木製のテーブルの上にことりと乗せた。

 

 二階から見える空と景色は、彩る間際の繊細さでまだ終わることのない夏の情景をガラス窓に描いていた。

 

「うん、わたしもだよ。今まで全然知らなかったんだけど、この家の物置って結構変わったものが眠ってたみたい」

 

 だからこそ新しい郷土資料館として抜擢されたのだとは思うけど。

 それにしても、ガラクタばかりだと思っていた物置部屋からこんなものまで見つかるとは。

 

「へぇー、蛍ちゃんちって何でも置いてあるねぇ。やっぱり大きなお屋敷はこう……格式が違うみたいだね」

 

「格式は関係ないとは思うけどね」

 

 感嘆としたため息をつく燐を見て、蛍は困り顔で苦笑いを浮かべた。

 

 燐がまあ、そんな感じになるだろうとは思っていた。

 あまりにも予想通りすぎたので、蛍がそれほど驚くことはなかったけど。

 

(それにしたって食いつきすぎだよね。誰がどう見たって眉唾ものだし)

 

 蛍が妙に冷静なのは家が裕福だからとか、こういう類のものは見飽きているとかと言うわけではなく。

 

 今になって急に色々見つかるのは余りにも都合が良すぎる。

 なんて言うか少し胡散臭い感じがしたからだった。

 

 町の異変の後だからだろうか。

 

 全ての事はただの偶然からのものだったとしても、何かしらの条件もしくは概念を求めたくなってしまう。

 

 懐疑的すぎるとは思っているけど、勝手に期待したあげく裏切られたというのは何かが違うと思っていたから。

 

「でも燐。なんか、こう怪しいとは思わない? 裏がある、みたいな感じとか」

 

「うら?」

 

 思ってもみなかった言葉に燐は目を丸くした。

 

「うん。その、どう思っているの? 見た目通りのものだと思ってる?」

 

「う、う~ん。わたしには何ともなぁ。だってこれってそういう事、なんでしょ。だからそうとしか思えないっていうかぁ……あ、でも、蛍ちゃんの言いたいことも何となく分かるよ」

 

 蛍が真剣な口調で聞いてくるので、燐はさっきまでの興奮がすっかり冷めてきってしまった。

 

 言われて燐は逡巡する。

 

 確かに今時こういうものが家から出てきたなんて話はどこからも聞いたことがない。

 聞いたととがあったとしても興味は湧くけど多分、それほど信用はしていないと思う。

 

 それこそフィクションとかそう言った()()なんかでは割と良く出てくる小道具的なものだから。

 

 冷静に考えてみると蛍の言う様に怪しい感じもしてくる。

 

 けれど蛍の家、”三間坂家”だからこそ信用できるという考えもある。

 三間坂家は旧家だし、そういった物があってもおかしくはない。

 

 それに。

 

()()()()だってあったもんね)

 

「そんなに古い感じがしないんだよねこれって。あの時の人形と同じぐらいのものだと思うの」

 

 燐の考えを見透かしたように蛍はテーブルの上に人形と”それ”を並べていた。

 

 ものは全然違うが、何となく同じような時代のものに思えてくる。

 

 匂いと言うかそういうのが似ている気がした。

 

「実はね。これって人形と同じ所で見つかったの。正確に言うと人形の箱の中に隠してあったみたいなんだ」

 

 蛍は意を決したように告白する。

 燐は一瞬、蛍が何を言っているか分からず、ただ口をぽかんと開けていた。

 

「これって……この地図が?」

 

 そう、箱から見つかったのはたった一枚の古い地図。

 

 そこには()()()()が記してあった。

 だからこそ悩んでしまうのだったが。

 

 ──どうせ質の悪い悪戯か何かに決まっている。

 

 興味本位で見つめる燐とは対照的に、蛍はそう思い込んだままだった。

 

 ──

 ───

 ────

 

 半袖とスカート姿が違和感なくなった頃、物置部屋から見つかったものがあった。

 

 それは箱に収められた一体の日本人形。

 

 愛らしい顔立ちは、幼い頃の少女──幼いオオモト様にとても良く似ていた。

 顔立ちだけでなく、着物や手毬などの小物に至るまでの全てが。

 

 それらは手作りであり、人形と同じぐらいに精巧な技術でもって作られていた。

 まるで少女が人形に乗り移ったかのように。

 

 けれどそういった呪いとか恨みの様な嫌な感じは、人形の色相からは見えてこない。

 

 むしろ作りての純粋な想いが込められている、というか少なくとも人形を見て悪い感情を起こす人はいないだろうと思う。

 

 単なる人形遊びの為に作ったものなのか、それとも何か別の意図があるのか。

 

 何にしても、オオモト様──座敷童様に好意を持った人が作ったものだと思っている。

 

 ただ──この人形をオオモト様が見つけたかはよくわからない。

 

 今だって手付かずだった物置部屋から発見したものだったし、中は綺麗なままだったけど箱を包んでいた布切れはカビと埃でボロボロになっていたのだから。

 

 そして多分、オオモト様は見てもいないだろうし、知らないだろうと思う。

 

 それは人形だけでなく、()()()()も偶然見つかったからだった。

 二階の物置部屋という場所だけでなく、この人形に近い所。

 

 もっとも近いところで見つかったのだから。

 

 ……

 ……

 ……

 

 ”濡れないプール”の世界から帰ってきて、”普通に濡れる学校のプール”から帰ってきたときのハナシ。

 

 二人の通う学校は、二度目の長い休みに入っていた。

 

 蛍は実家に置いてきたあの人形の事が妙に気がかりとなって、その日はマンションには戻らずに、長い時間揺られてまで小平口町まで戻ってきていた。

 

 相変わらず家は手付かずのままで、郷土資料館となって明け渡す約束までは良かったのだが、いくらやっても片付かないので、一部の部屋以外は足の踏み場もないぐらいに散らかったままだった。

 

 まるで荒らされたあの時の様に、雑然としている一階を見ないようすり抜け、蛍はさっさと二階へと上がった。

 

 オオモト様によく似た人形は元あった物置部屋ではなく、今は蛍の部屋に置いてあった。

 

 もう誰も蛍すらたまにしか訪れない自室は、勉強机こそまだ置いてはあるが、教科書を含めた学校関係の書類や道具は全てマンションへと移してある。

 

 クローゼットにしまっていたお気に入りの服やタンスの中身の下着類もなくなっていて、今やほとんどが空っぽだった。

 

 それなりに大事にしていたクマのぬいぐるみは、ベッドの上を住処にしてこちらを見守ってくれていた。

 

 もっともこちらもマンションの大きなベッドの上へとお引越しさせているのだが。

 

 殆どもぬけの殻となった蛍の部屋で、その人形だけが小さな存在を誇示するようにテーブルの上にぽつりと置いてあった。

 

 一人ぼっちで可哀そうだとは思うが、まだ二人で住むマンションには何となく持っていきずらかった。

 

「好きだったのかな、オオモト様の事が……」

 

 人形を似せて作った理由(わけ)を蛍はそのように考えていた。

 

 少女漫画のような甘い考えを頭の中で抱きながら、人形をもう一度見てみようと、蛍は桐で出来た木製の蓋を開いた。

 

(……あれ?)

 

 蛍は何かの違和感を感じとった。

 

 けれどその理由が分からず、蛍は小首を傾げる。

 

 何が変なんだろう?

 

 疑問に思ったが、やはり理由は分からなかった。

 蛍は箱から人形を取りだして、テーブルの上に立たせる。

 

 置かれた人形をしげしげ眺めても人形が蛍に語り掛けるようなこともなく、ただ時間だけがこつこつと流れていった。

 

「……」

 

 製造した日付がないのでいつ作られたものかは不明のままだが、それにしても状態は良い。

 でも、それ以外の感想が出てこない。

 

 トンボ玉の様な黒いガラスの瞳と目を合わせてみても、これといって何も映してはくれなかった。

 

「髪の毛が伸びたりは……流石にしないよね」

 

 人形に語り掛けるような仕草で、蛍は囁く。

 

 さらりとした人形の黒髪は生きているかのように艶やかだったが、伸びるようなことも当然なく、ずっと変わらぬあどけない表情のまま、白い顔の人形は黙りこくっていた。

 

「オオモト様はどうしてわたしの前に出てきてくれないのかな……わたしが嫌いになっちゃったから?」

 

 蛍は頬杖をつきながら、物言わぬ人形の頬を指でちょんとついた。

 

 燐は引っ越したばかりの頃の家で見たと言っていたオオモト様を、蛍は今だに見たことがない。

 

 それはこの人形の様に幼い姿であったようだけど。

 

(わたしだってまだ座敷童だと思ってる。けどもう力なんて殆ど残ってない……)

 

 だから別の座敷童なんだろうか。

 

 蛍が力を無くしたから、代わりに出てきてくれたと考えることも出来る。

 

 けれどそうなると……。

 

「わたしはどうなっちゃうのかな。()()()が次の座敷童になるの? それとも燐、なの……?」

 

 人形が的確な答えを持っていることは無く、無言のまま蛍を見つめ返していた。

 

 どれぐらい時間が経ったのだろうか。

 

 しばらくの間人形を見ていたが、何か分かりやすい変化が起きるようなことはなく。

 いつの間にか日も傾きだしたのか、人形の横顔に橙の斜線が頬紅のように射し込んでいた。

 

 遠くの方で振り子の音がかちかちと鳴っていた。

 

 結局、違和感の正体を最後まで掴めず、諦めた蛍は人形を元に戻そうと床に置いた木箱に手を伸ばした時のことだった。

 

(まさかとは思うけど)

 

 蛍は半信半疑で木箱を両手に取るとまざまざと見つめる。

 僅かな傷や箱の四隅までも隈なく全部。

 

(あるはずないよね)

 

 蛍はまた深いため息をつこうとした……が。

 木箱の底に僅かな隙間を発見することができた。

 

 素手ではあまりも隙間が狭すぎるし手を痛めかねないと思った蛍は、一階に降りて工具箱を持ち出すと、その中の道具で何とか開けようと試みた。

 

 こういう時の蛍は普段のおっとりとした姿と違ってとても大胆でそして決断も早かった。

 

 木箱は人形と同じく状態が良く少し勿体ない気もしたが、蛍はその隙間に向けてあてがった鑿をハンマーで振り下ろす。

 

 かつん、かつん。

 

 木箱の下にタオルを轢いて黙々と木を剥がす作業していた。

 それでも音は部屋の中で大きく響いた。

 

 そんな事を一度もやったことはない蛍だったが、意外にも器用なところをみせていた。

 箱の底面の隙間の板だけを上手に剥がしとることが出来たからだった。

 

 けれどそれは蛍がと言う理由だけではなく、最初から”そうなるように”作られていたから。

 

 そのおかげだった。

 

 板は簡単にべりべりと剥がれ落ちた。

 

 その中には、小さく折りたたまれた一枚の白い紙。

 それだけだった。

 

 蛍はその折り畳まれた紙を丁寧に開いてみる。

 それを見て蛍ははっとなった。

 

 そこにはある文字が記されていたから。

 正確には文字ではなく……図形。

 

 これは──地図。

 

 何かを示す為に書かれた地図だった。

 恐らくは昔のこの辺り、小平口町の地図であろうと思う。

 

 図の中心には家のような絵が書いてあり、その家を中心としてその周りを取り囲む山や川の絵が書いてあった。

 

 川を上った先の、一際大きな山に、赤い字で”×の字”がつけてあった。

 

 何を意味しているのかは……現段階では分からない。

 

 楽観的な解釈をするならば、昔の人が残した遺産のようなものが地図で示されているところにある。

 

 もしくは、”あった”可能性がある。

 

 けれど、もしかするとあまり良いものではない、隠しておきたいもの、触れられたくないもの。

 

 そういった類のものがある可能性だって十分あった。

 

 特にこの家(三間坂家)は昔から町の幸運の為とはいえ、座敷童に対して目に余る、決して許されざる行為をしていたわけだから。

 

 そういった家の、町の秘密みたいなものがそこにある事も考えられる。

 

 でもその大半は極一部の人。

 二人の少女と一人の青年にはもう分かってしまったことだけど。

 

 何にしても、蛍にとって喜ばしいものがあるとは到底思えなかった。

 

(とにかく、この地図を検証してみる必要はありそう)

 

 オオモト様──座敷童によく似た人形の箱にの裏に巧妙に隠されていたわけだし。

 

 ここに何か”特別な”ものがある。

 蛍じゃなくてもそう思うのが普通だった。

 

 けれど流石に蛍一人で調べるのはとても骨が折れそう事なので、最も信頼できる燐に連絡をしてみたのだったが……。

 

 ……

 ……

 ……

 

「わたし、蛍ちゃんちにはこういう宝の地図みたいなのがある、ってちょっとだけ思ってた事があるんだよね。でも、まさか本当にあるとはねぇー」

 

 興奮冷めやらぬといった感じで燐はしきりに感心している。

 

 冷静になったと思ったのだが、明らかに浮足立っている燐の様子に、蛍ははぁと深いため息をこぼした。

 

 わざわざ地図まで作っておくぐらいだから、何か重大なものがあると思うのは不思議ではないけど。

 

(そこまでして隠しておきたいものって、一体何なの?)

 

 恐らく自分の家に関することだろうとは思っている。

 他に何かしていなければ恐らく……。

 

 蛍の脳裏には、男たちに乱暴されていたあの時の座敷童の姿が浮かび上がった。

 男たちに凌辱されていた幼いオオモト様の声にならない叫び声と共に。

 

 恐らく期待しているような財宝の線は薄いと思っている。

 

 それに今更、遺産や財宝だなんて。

 

 それこそ何の意味もない事なのに。

 

(わたしのご先祖って座敷童を、幸運を町に留めておくためだけにこんな大きな家や財産を所有していたんだろうな……)

 

 今にしてみれば全く持って愚かしいことだった。

 

 けれどそうなると、地図の場所には三間坂家の財産が眠っている可能性の方が高くなってしまう。

 

 変に辻褄が合ってしまうことが、蛍には憂鬱でしかなかった。

 

「……でさ、蛍ちゃんいつ行く?」

 

「え!? 燐、今行くって言ったの……?」

 

 蛍は耳を疑った。

 

 けれど燐は当然と言った感じでうんうんと何度も頷いている。

 

「もちろんだよ。善は急げって言うし、ね!」

 

 燐の好奇心をくすぐる要素は多分にあった。

 

 見知らぬ山、宝の地図、そして冒険。

 

 だからこそ慎重なのだろうと蛍は思っていたのだが……。

 

 今の燐の勢いだと今すぐにでも行きかねない。

 焦燥感に駆られた蛍は慌てて燐に声を掛けた。

 

「ま、待って、燐! ここの山がまだどこなのかよく分からないし、もし山の上だったりしたら、いろいろと準備しないと」

 

「ほえっ?」

 

 珍しく興奮したように喋る蛍に、燐はきょとんとなった。

 

(あっ……)

 

 すっかり乗り気だったのに水を差してしまったかもしれない。

 蛍は少し後悔した。

 

「ご、ごめんね。燐が直ぐにでも行きたいのは分かるけど、せめて週末までは待ってみようよ。どうせ誰もこの地図の事なんて知るはずもないし」

 

 蛍だって自分の家の物置にずっと前からあったものなのに今更知ったのだから。

 他の人が知っているはずなどなかった。

 

(もし吉村さんが先に見つけていたらきっとわたしに言うだろうし……大川さんだって見たことがないはず)

 

 吉村さんはともかく、大川さんは仮に知っていたとしても忘れているとは思う。

 

 それに、物置部屋の散らかりようから見て、几帳面な大川が立ち入った形跡はなさそうだった。

 

「だ、だからね。そんなにまでして、焦る必要なんてないんじゃないかなって……」

 

 しどろもどろになりながらも蛍は懸命に説得する。

 

 燐が行きたいのなら、蛍が止める理由はない。

 今だってそう思っている。

 

 けど、焦るものでもないと思っていたから。

 どうせ、期待するようなものはないんだろうし。

 

「あ、うん。もちろん分かってるよ。わたしにだって」

 

「えっ!? そうなの燐?」

 

 蛍は目を丸くして尋ねる。

 

「そりゃあそうだよ。だってこの地図だけだと、まだ全然分からないことだらけだし。それにさ……」

 

 燐は一旦言葉を区切ると蛍に向かって苦笑いを浮かべた。

 

「山に入るのって結構覚悟がいるんだよ。この辺りの山って登山するような山じゃないみたいだしね。ぶっつけ本番で行ったらきっと大怪我するだろうしね」

 

 燐はにっこりと微笑んでいた。

 

「で、でも善は急げってさっき──」

 

「あぁ、あれは──”今から山に向けての計画を立てよう”って意味で行ったんだよ。蛍ちゃんでも分からない事みたいだから、まずは情報収集から始めないとってことで」

 

「そ、それはそうだよね。どの山かもはっきりしていないし。それに勝手に山に入ったら怒られちゃうもんね」

 

 蛍は心中でほっと胸を撫で下ろす。

 考えてみたら、燐はこういったことには慣れていたのだった。

 

 アウトドアだって最近始めたばかりの蛍とは違い、燐はそれこそ小さい頃から山へ行ったりしていたのだから。

 

「無免許運転とかもしたし、不法侵入も今更なんだけどね。でも、きちんと調べてみてからでも遅くはないと思うよ。まぁ……そんなに良いものが出てくるとは本気で思ってはないけど」

 

「わたしも、そう思ってる」

 

 必要な情報だけしか記していない至ってシンプルな地図は、それゆえの重要さを伺わせるものだから。

 

(それに、少し嫌な感じもするんだよね。幽霊とかじゃないけど)

 

 燐の直感がそう告げていた。

 その事を蛍に伝えるつもりはまだ無く、顔にも出さなかった。

 

「蛍ちゃんは……」

 

「燐が行くならわたしは行くよ」

 

「……だよねぇ」

 

 即答する蛍に、燐は困った顔で苦笑する。

 

「危ないと思っているんでしょ。でもね、これはわたしの家の中で見つかったんだから、わたしが行かないとダメな気がするんだ。三間坂だからとか、そういうのじゃないんだけど」

 

 蛍の姓、”三間坂”。

 それを名乗るのがこんなにも嫌になるなんて。

 

 前からどこか他人事のように考えていた家の事が、ここまで根深い問題になるとは思ってもみなかった。

 

 オオモト様はやんわりと否定していたけど、やっぱり元凶は三間坂家。

 自分の先祖がしたことが今になっても影響を及ぼしている。

 

 幸運を求めすぎて町がめちゃくちゃになっても、それでもまだこの地に傷跡を残していた。

 

 これ以上、あの家は何をして、何を隠しているのか。

 それは行ってみないと分からないことだから。

 

 だから蛍が行くしかない。

 そう思っていた。

 

「それは、まあね……でも、誰が行ってもいい気はするけどね。その為の地図なわけなんだし」

 

「燐の言う通りだと思うよ。今更誰が行ったってどうなるもんでもないとは思う」

 

 蛍は一旦口を引き結ぶと、少し考えたのち口を開いた。

 真っ直ぐに、燐の目を見つめながら。

 

「えっとね……燐が行くならわたしは行くよ。だって……友達なんだし。それに今すぐじゃなければ大丈夫、だから」

 

 思いのこもった言葉に燐は蛍を見つめ返す。

 その表情からは強い意志、揺らぐことのない決意の色を感じ取れた。

 

 あの時の白い犬、みたいに。

 

 蛍は強くなったと思う。

 何も変わっていないと本人は言っているけど、良い意味で変わってきていると思ってる。

 

 蛍の事をよく見てる燐にだけはそれが分かっていた。

 

(蛍ちゃんの強さって、ちょっと怖い感じもするんだよね)

 

 何でだろう?

 最近の蛍からはずっと儚さを感じてしまう。

 

 感じた違和感はより近くまできている気がした。

 

 ”あの世界”、水溜まりの中から戻って来た時からずっと。

 

 蛍の儚さを秘めた微笑みにあの人の面影を感じとってしまう。

 だからか燐は、少しぎこちない笑顔で返した。

 

「ふぅ、蛍ちゃんは一度言ったらきかないもんね。んじゃあ、二人でいこっか」

 

「うん。わたしは最初からそのつもりだったよ」

 

「あはは、そっかぁ。じゃあ日時は……そうだなぁ。今月は結構忙しいみたいだから……一ヶ月後ぐらいを目処にする?」

 

「一ヶ月!? そんなに待つの?」

 

 素っ頓狂な声を上げて驚く蛍に燐は苦笑して続けた。

 

「なんだかよく分かってないしね。間違った山に行って無駄足になるのも嫌だし」

 

「それはそうだね」

 

「だからじっくり調べてからにしてみよう。もしかしたらこの地図の場所に関しての何か資料とかあるかもしれないしね」

 

 限りなく薄い可能性だとは思うが、何かの手掛かりが欲しかったのは事実だった。

 

「うん。わかった。家の中でも関係あるものがないか調べてみるよ」

 

 蛍の家には物置部屋だけじゃなく、各部屋ごとの荷物も置いてあった。

 それだけ荷物があるのだから、人形と地図以外にもまだ何かがあるのかもしれない。

 

 それに一度家をひっくり返さないと資料館として明け渡すことは出来ないだろう。

 

 何だかんだで家の片づけはやらないとダメなことだったから。

 

「あのさ、燐……せっかくだから手伝って欲しい事があるんだけど」

 

 蛍はおずおずと話しかける。

 

 とりあえず人形があった物置部屋からまた調べなければならないが、それは蛍一人では到底終わる量ではなかったから。

 

「わかってるよ蛍ちゃん。わたしも今日は何も予定ないし、ついでに物置部屋の整理もしちゃおうよ」

 

「あ、うん。ありがと燐」

 

 蛍と燐は顔を見合わせてにこりと微笑むと、直ぐに作業に取り掛かった。

 

 目的があると、片付けも捗るかと思っていたんだけど。

 

「改めて凄い量だよね。蛍ちゃんちの物置って。まるで骨董品屋さんみたい」

 

「それなら、燐のお家を間借りして店を始めてみるのもいいかもね」

 

 物置部屋の中はさまざまな物で溢れかえっていた。

 明らかに前より増えた荷物の山に、燐と蛍は呆れたため息をついた。

 

 増えた理由は単純で、他所の部屋の荷物もとりあえずここに置くようにしたからだった。

 

「引っ越した当初はさ、平屋だけど結構広々として快適だったんだよね、あれでも。でも今はそれほどでもなくてさー。やっぱり慣れなのかなぁ」

 

「そういうものなのかもね。わたしは今のマンションの広さで十分満足してるし」

 

 家の広さや構造が変わっても、住む人が同じなら結局は同じということなのだろうか。

 

 結局その日は、日が暮れたことを忘れるほど片付けに没頭していた。

 

 けれど目当てのものが見つかることは無く、地図と人形を結び付けるものは現れなかった。

 

 膨大な荷物の山に埋もれながら蛍が思った事。

 それは。

 

(三間坂家は昔から物が捨てられない性格だった……?)

 

 蛍も当然そうであったことから、変なところでまだ三間坂の家の人間であることを自覚してしまった。

 

 ……

 ……

 ……

 

「んー、やっぱり山頂っていいね。天気は最高だし、涼しくて気持ちいいよね」

 

「ここが……山頂……わっ!」

 

 山頂に着くなり、被っていた帽子が風に煽られて、空にまで飛んで行こうとしていた。

 蛍は慌てて手で押さえる。

 

 こぼれた二つの髪がふわりと風に舞っていた。

 

 燐は少し瞼を閉じて、吹き上がる風を全身で受け止めていた。

 

 山を登り切ったことに蛍はまだ現実感がなく、立ちすくんだように燐の背中を呆然と見つめているだけだった。

 

 どこまでも飛んで行きそうなほど澄み渡った空の下で、燐の姿は自由で楽しそうだった。

 

「蛍ちゃんなら登れるって、わたし信じてたよ」

 

 燐は満面の笑みで蛍をそっと抱きよせた。

 それは蛍の頑張りと目標を達成した喜びを称えるものだった。

 

 蛍は一瞬だけ驚きの表情をみせたが、呼吸を整えるのに精一杯で言葉が上手く紡げなかった。

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ」

 

 荒々しい蛍の呼吸が、燐の耳朶に痛々しい程伝わってくる。

 

 千メートルにも満たない山であったが、道として殆ど整備されていないのは燐でもきつかったから、蛍には尚の事だった。

 

 どこかで休ませてあげたいのはやまやまだったのだが。

 

(この辺って岩場だらけだからなぁ。ベンチなんかあるはずもないし)

 

 むしろそんなものがあるならもっと山道は整備されているとは思う。

 

(でも、頑張ったよね蛍ちゃん。途中からはちょっと心配だったけど)

 

 最初は一緒に登山していた二人だったが、本格的な登山に慣れない蛍が徐々にペースを崩していき、やがて燐のペースに着いていけなくなっていった。

 

 燐だってそうなることが十分に予想出来ていたから、なるべく蛍とペースを合わせるようにしていたのだけれど。

 

 どうしたって差が出てしまう。

 

 ”ペースって早さじゃなくて心拍数なんだよ”と事前に教えてはいたのだが。

 

 結局、足手まといになっていると感じた蛍が気を使って、燐に先に行ってて欲しいと”お願い”されてしまった。

 

 燐としては山頂まで一緒に着いていきたかったが、下山の時刻の事もあるし、これ以上蛍に迷惑な思いをさせたくなかったから仕方なく先行して進むことにした。

 

 燐が先行して蛍が通りやすいように道を切り開いてきたんだけど。

 

(結局、蛍ちゃんがなかなか来なかったから心配になって見に来ちゃったんだよね)

 

 お節介すぎると蛍に思われそうでちょっと気後れしそうになったけど、今こうして二人で登れたからこれで良かったんだと思っている。

 

 二人だったからこそ意味のある行為だと思っていたから。

 

「一緒に来れて本当に良かったね、蛍ちゃん!」

 

 素直な言葉が口から出る。

 それは心からの告白と殆ど同義の意味だった。

 

「うん……ありがとう……燐」

 

 燐の肩に顔を埋めながら、蛍はお礼の言葉を言うことでようやく登り切った実感を得ることが出来た。

 

 燐は分かっているよと言わんばかりに蛍の頭をぎゅっと包み込む。

 

「すごく頑張ったよ。こんな山の上に一緒に来れるなんて以前じゃ考えられなかったことだよ、本当に」

 

 燐の声色は、山肌を縫うように流れてくる少し冷たい風よりもずっと優しく、癒される思いだった。

 

「何とか頑張れた、みたい……だね」

 

 急な寒気を覚えたように、蛍は唇を震わせて言葉を紡ぐ。

 燐は小さく微笑むと、丸くなった蛍の背中をぽんぽんと軽く叩いた。

 

「さ、こんなところで立ち尽くしてるとよけいに辛いよ。もういい時間だし休憩を兼ねてお昼にしようね」

 

「……うん」

 

 休憩したいのはやまやまだったが、座れそうなベンチもなければ寄りかかる手すりさえもない。

 

 あるのは石と砂利だけ。

 尖った岩の上では休むどころか余計に疲れそうだった。

 

「それでね、ここじゃ落ち着かないと思うから、少し行った先にちょうどいい場所を見つけたんだ。後ちょっと歩いた場所にあるんけど……蛍ちゃん、後少しだから何とか歩ける、よね?」

 

 まだ呼吸が落ち着かない蛍が何とか理解できたのは、後ちょっとだけと言う言葉と、燐が申し訳なく蛍に手を合わせている姿だけだった。

 

 蛍は声も出さずに、信じられないとばかりに首を傾げて燐の方を見た。

 燐は先ほどと同じ表情でもう一度頭を下げると、許しを請う様に蛍の両手を握った。

 

「本当に後ちょっとだから。ごめんね」

 

 申し訳なく謝る燐を見て蛍は何とか笑顔を作ると、観念したようにこくりと頭を下げた。

 

(燐がいろいろしてくれたんだから……わたしも頑張らないと)

 

 風は涼しくなったが、太陽にぐっと近づいたから暑さにはそこまでの変化はなかった。

 

 蛍は燐に手を引かれて山頂から更に続く山道を歩きだしていた。

 

 登りじゃないから気持ち楽だけど、足の重さは変わってないから。

 やっぱりゆっくりのままだった。

 

 もう一歩だって歩けないと思っていた自分の足が、燐に優しく手を引かれるだけで自然と前へと進んでいくことは蛍にとって衝撃的な出来事だった。

 

 もっとも疲労しているので、声どころか顔にさえ出なかったけど。

 

 蛍は俯きながらも自分の足がロボットのように動く様子をどこか他人事のように眺めていた。

 

 まるで囚人か、急に老人になったような気持ちで足をただ前に出している。

 

 けれどその事に不思議と嫌悪を抱くことはなかった。

 ぼーっとして頭が回らなかったことも関係しているとは思う。

 

 実際蛍は何も考えてなかった。

 

 薄ぼんやりとした意識の中だけで歩いている。

 白い霧の中を彷徨っているかのように。

 

「あとちょっとだから、頑張って蛍ちゃん。その場所はさっきの場所よりも広くて、景色だってすごく良いんだよ。空もずっと高く見えるし……あとそれから……」

 

 蛍はうんうんと頷いているが、話の内容は理解できていない。

 半ば条件反射で燐の言葉に相槌をうっていた。

 

 燐はまだ水に慣れない子供に教える様にぎゅっと繋ぎながら、その見晴らしの良い場所まで蛍をゆっくり連れて行く。

 

 ずっと足元を見ている蛍には分からないことだったが、その間、燐はずっと後ろ向きで歩いていた。

 

「ほらほら、あんよは上手、上手~。もうちょっとだよー」

 

 もし、蛍のこの姿が誰かに見られていたら、きっと逃げ出していただろう。

 けれど今の蛍ではその逃げる事すら出来なかった。

 

 首から下が自分じゃないみたいからだった。

 

 蛍はその面影さえ知らない母親を脳裏に思い浮かべながら足を前にと進ませた。

 叶わなかった母親との日々に回帰するかのように。

 

 燐は視線を蛍に向けたままだった。

 一度たりとも後ろを振り返らなかった。

 

 まるで背中に目が付いているかのように後ろ向きのまま、真っ直ぐ歩いている。

 それは目的地に着くまで変わらなかった。

 

(……燐、まだなの? わたし、もうすぐしんじゃいそうだよ……?)

 

 休めるのならもうなんでも良かった。

 

 ほんの数メートルがこんなに長く感じるなんて。

 普段いかに時間を無駄に消費しているのかが分かった気がした。

 

 分かっただけで何も解決してはいないけど。

 

 このままどこまでも歩かされるのかな……と蛍があきらめかけていた時。

 

「着いたよ、蛍ちゃん!!!」

 

 燐が叫んでいた。

 

 蛍はやっと頭を上げる。

 そこには。

 

「あ……」

 

 夢で見たようなパノラマが遠くまで広がっていた。

 

「どう? ここからの景色、とっても綺麗でしょ。ほらあそこできらきら光っているの、あれって多分海だよ。見晴らしすっごく良いよね。ここなら蛍ちゃんと一緒にランチをとるには最適だと思って石とかどかしておいたんだよ」

 

 登山ガイドみたいに燐はここからの景色がいかに素晴らしいかを説明してくれていた。

 蛍は……声が出なかった。

 

 けれどそれは疲労からだけではなく。

 

 声が出ないほど綺麗な景色だったから。

 その代わりかどうかは分からないが、蛍は少し目を滲ませていた。

 

「さぁさぁ、蛍ちゃんここに座って。ここは蛍ちゃんの為の特等席なんだからぁ」

 

「う、うん」

 

 蛍を見て燐は明らかに疲れ切っていると思い、気づかう様に身体を支えながら蛍の為の場所まで案内する。

 

「ほら、蛍ちゃんのプリンセスチェア、だよ」

 

 燐が座るよう促したのはお姫様が座るようなふかふかの椅子などではなく、座ることが出来そうな平らな石の自然の椅子だった。

 

 それでも上にアウトドア用のレジャーシートが引いており、一応の座席の体勢を保っている。

 

「うんしょ、と……どう、座れそう?」

 

 燐に付き添われる形で腰を下ろす。

 付き添いされているみたいで少し恥ずかしかった。

 

(あれ……思ってたより固くない。それに、ちょっとふわふわしてる?)

 

 ふらふらしながら岩の上に腰かけた蛍だったが、予想していた感触と違っていたので戸惑ってしまった。

 

 石の硬さや熱を殆ど感じさせなかったからだった。

 燐の引いたレジャーシートが一枚あるだけなのに。

 

「それ、座り心地良いでしょ。薄いけど結構しっかりしてるんだよ。ちょっと耐水性は落ちるけどその分軽いから持ち運びに便利なんだよね」

 

「そうなんだ……燐、ありがとう」

 

 手で感触を確かめながら、蛍は短い言葉でも燐にお礼を言えたことにほっとした。

 

 ずっと燐に頼りきりだったのにまともにお礼ができなくて心苦しかったから。

 

「はぁ──、ふぅ……」

 

 蛍は大きく深呼吸する。

 やっと胸のつかえがとれた気がした。

 

 空と山と風と、そして燐。

 蛍は胸いっぱいになった。

 

「喜ぶのはまだ早いよ蛍ちゃんっ。最高の景色を見ながら最高の食事! これが山登りの醍醐味なんだからっ!」

 

 燐は大きなバックパックから少し大きめのバスケットを取り出すとその蓋を開けた。

 

 蛍は苦笑した。

 その中身は予想通りと言うか分かっていたからだった。

 

「やっぱり……パン、なんだね」

 

「まあ、おにぎりでも良かったんだけどね。って今朝、蛍ちゃんと一緒に作ったんでしょ~」

 

 二人は前日に蛍の家に行き、そこで一晩泊まった後、昼の準備をしてから山へと向かったのだから知っていて当然だった。

 

「それに、わたしはパン屋の娘なんだよ。それこそパンなんて家に山のようにあるんだから」

 

「それも知ってるよ。いつも食べてるし」

 

 燐と蛍がマンションで同居するようになっても、燐のパン屋、”青いドアのパン屋さん”からのパンは当たり前のように届けられていた。

 

 そんなにいつも余ってるのぉ? と燐は少し訝し気に母親を問いだしてみるのだが、”たまたま”とか”ちょうど”としか返ってこなかった。

 

 何だかんだ言って燐のことが心配なんだろうと蛍は思っていた。

 

 一緒に暮らすことにする、と二人で報告に行ったときは、同棲とか駆け落ちとか結婚式はいつ? とか、あることない事言われて赤面してしまったけど。

 

 やっぱり親はいつのときも子供の事が心配なんだろう、改めてそう思った。

 

「どれから食べる? 黄色いピンはタマゴサンドで、緑はアボカドとかのお野菜。あ、こっちの赤いピンはデザートだからね」

 

「デザートってフルーツサンドの事?」

 

「あたり。ちゃんと生クリームじゃなくて違うソースを塗ったから蛍ちゃんでも大丈夫だと思うよ。あれ、これは知らなかったんだっけ?」

 

「うん。その時は……確かテレビ見てたから。でもそっか、それなら安心だね」

 

 バスケットに入っていたのはランチの定番であるサンドウィッチだった。

 

 けれど、分厚い食パンで具材をサンドしてあるから、見た目には何が入っているか分からない。

 

 なので燐はパンの上に色違いのピンを指して中身が直ぐに分かるようにちょっとした工夫を施していたのだった。

 

「やっと一息つけるね。んー、お茶が冷たくて美味しい! ほら蛍ちゃんも」

 

「うん、ありがとう」

 

 ポットに入れて置いた緑茶をカップに注いでもらって口に含む。

 

 茶葉の新緑の香りと、甘く爽やかな味わいが登山で疲れた体にごくごくと染みわたってくるようだった。

 

 この辺りはよくお茶が採れるから飲み飽きてるかと思われがちだけど、やっぱりお茶を飲むと落ち着くのは単純に好きなんだからだと思う。

 

 それにいい茶葉がとれることも飽きることの無い理由だと思った。

 

「ゆっくりで良いからね、蛍ちゃんの分までわたしは食べたりしないから。何なら食べさせてあげよっか? あ~ん、って」

 

「それは……そこまでしなくてもいいよ。子供じゃないんだし」

 

「そう? んじゃ、いただきます~」

 

「頂きます」

 

 かぷっと大きく口を開けてサンドウィッチを頬張る燐を見て蛍は微笑むと、燐の真似をするように大きく口を開けて、耳付きのパンに食らいついた。

 

「外で食べると美味しいね」

 

「ふぉんと、おいひぃおねぇ」

 

 一口で殆ど口に入れていた燐を見て、蛍はくすくすと笑いだした。

 本当に美味しくて、楽しかったからだった。

 

 苦しかったけど最後まで登り切って本当に良かった。

 

 蛍は心からそう思っていた。

 

「あ、このフルーツサンドなんのクリームなの? 燐はさっき生クリームじゃないって言ってたけど」

 

 蛍が食べているのは定番とも言える、イチゴのサンド。

 食べてみて生クリームとは違う味だと思ったが、何のものなのかは分からなかった。

 

「あ、それねぇ、水を切った無糖ヨーグルトのソースなんだよ。こっちのフルーツミックスもそうなんだ。あ、こっちのバナナは……はい、チョコレートソースでチョコバナナ風味だよ」

 

 燐はフルーツサンドが好みなのか、サンドウィッチは普通の具材よりも果物の方が数が多かった。

 

「何かやってるとは思ったけど、こんなに凝ったのを作ってたんだね」

 

「これ自体はそんなに難しいものじゃないよ。ただ好みのものを入れて作ってるだけだしね」

 

「それでも凄いよ燐は。見よう見まねで何でも作れちゃうんだから。もう立派な”青パン”の看板娘だね」

 

「もー、青パンは止めてよ~。みんなその名前で呼ぶから誤解されること多いんだからぁ」

 

 燐と蛍は他愛のないお喋りをしながら山でのお茶を楽しんでいた。

 

 さっきまでボロボロだった蛍もすっかり元気になったようで、燐と会話している最中は終始笑顔を見せていた。

 

 それだけ二人の仲が良かったということなのだが。

 山と言うロケーションが少女たちを素直にさせているようだった。

 

「でも燐ってやっぱり山が好きなんだね。なんかいつもよりも生き生きしてるように見えるよ」

 

「えっ、そう見えるんだ……? 自分じゃよく分からないけど。でも、山に登ってると自然と心が落ち着いてくる感じがするんだよね。アウトドアってやっぱりいいなぁって改めて思ったよ」 

 

「うふふ、燐が喜んでくれたのならそれだけでもここまで来たかいがあるよ」

 

 大事なものを思い出したような燐の横顔を見て蛍はにこりと微笑むと、お茶を飲んでからまたサンドウィッチにかじりつこうとしたのだが、その手を急に止めた。

 

「どうしたの? もうお腹いっぱい?」

 

「ううん、そういう訳じゃないけど」

 

 蛍はサンドウィッチを手にしたままもじもじとしていた。

 

「登山はカロリーを大きく消費するから沢山食べても良いんだよ」

 

 蛍が食べるのを止めた理由がダイエットだと思った燐はそう助言した。

 

「あ、違うの燐。その小鳥とか動物とかが現れないかなって思って」

 

「動物??」

 

「うん。高い山って居そうじゃない? もし出て来てくれたらパンくずをあげたいなっておもって……」

 

 その証拠に蛍は既にパンを半分ほどちぎっていた。

 

「とりあえずちょっと撒いてみたら。もしかしたら出てきてくれるかもしれないし」

 

 囀りはするので何んらかの鳥がいるのは間違いないと思うから。

 

「じゃあ少しだけやってみるね」

 

 蛍は指で一つまみ程度パンをちぎって、少し離れたところにちぎったパンを投げた。

 

「……」

 

 小動物が来やすいよう、二人の少女口を止めてその様子を見守っていた。

 

 ……暫くすると。

 

(あっ!)

 

(……っ!)

 

 ベルのように囀りながら一羽の小鳥が現れたと思うと、すぐにもう一羽もどこからかやってきた。

 

 二羽は同じような灰色の身体を体で、何やら言い合いながら落ちたパンを素早く平らげると、直ぐに姿を消してしまった。

 

 鳥たちのあまりに早い食事に呆気に取られたように見送っていた蛍と燐であったが。

 

「可愛かった……」

 

「うん。すっごく可愛かったね! こういうのってそうそう偶然見れるもんじゃないからね」

 

「そうなの? 燐は良く山に言ってたからこういうのって見慣れてるイメージがあったんだけど」

 

「そうでもないよー。やっぱり野生だからね。警戒はされてると思うし」

 

「じゃあ動物とかは? 燐は一度、下見がてら歩いたでしょ。その時何か居なかった?」

 

「うん──」

 

 知らない山にいきなり入るのは流石に危険だったので、先週末、燐がソロで登っていたのだった。

 

 今日もそうだが、鳥とは違う何かの鳴き声や草葉が大きく揺れた音を聞いたけど、その姿を見せてはくれなかった。

 

「燐、この山って何の動物が居ると思う? やっぱりクマかな」

 

「クマは流石に今の時期は居ないと思うなー、多分だけど。ウサギとかリスとはいそうじゃない」

 

「キツネとか狸とかはどうかな。後、ハクビシンとか野ネズミとか……」

 

 蛍は片っ端に動物の名前を言ってみていた。

 

「南アルプスに行ったときにライチョウを見たぐらいかなあ。わたし、”動物運”あんまりないから」

 

 燐の言う動物運とは動物と遭遇する運気のことだろう。

 それなら登山では低い方が良いとは思うが、燐は残念そうに呟いていた。

 

「そっか、それは残念だね。さっきの小鳥を見て絵本の世界みたいだなって思ったの。そこに動物もやってきたらもっといいだろうな、って」

 

「絵本って、”ぐりとぐら”みたいな感じ?」

 

「うんうん、そんな感じ。わたしあのお話好きだったから」

 

「あ、わたしも可愛いよねぇ」

 

 綺麗な景色を眺めながら、好きな人と美味しいものを食べて他愛のないおしゃべりをする。

 これ以上の贅沢など、今の二人には想像さえできなかった。

 

 またちょっとパンくずを落としてはみたのだが、今度は何も来てはくれなかった。

 

「蛍ちゃん、足はどう? なんともなってない? 痛みとか……マメとかは出来てないかなぁ」

 

 華奢な蛍の足先を覗き見ながら燐は心配そうに尋ねる。

 

 黒いタイツはファッションではなく、アウトドア用の伸縮性の高いものであり、蛍のベースレイヤーと同じ素材で出来ていた。

 

 蛍は見られていることに少し恥ずかしがりながらも、自分のふくらはぎを手でそっと揉んでみた。

 

「ん……少し、硬くなってるかもみたい。でも痛みとかはまだないかな。シューズやポールのおかげかもね」

 

 ここまでの道のりは蛍の予想していた以上に困難だったが、幸いにも怪我とかはなかった。

 

 燐の勧めで、登山前に入念にストレッチをしていたのが良かったのかもしれない。

 蛍はそう思っていた。

 

「どうする、マッサージしてあげよっか。それとも、自分でやってみる?」

 

 いつぞやの夜の時のように燐が聞いてくる。

 蛍もその事を昨日の事の様に思い出して、一瞬困った顔になった。

 

(どうしようか?)

 

 蛍は小さな顎に指を乗せて少し考えると、思い直したようで、ちょっと遠慮気味に燐に答えた。

 

「えっと、じゃあお願いしようかな。燐のマッサージって良く効くみたいだし」

 

 それは実際にしてもらったから良く分かっていた。

 

 あの世界(水溜まり)から戻ってきたとき、マンションのリビングに蛍と燐は倒れ込んでいた。

 

 あれから結構な時間が経っていた筈なのに、”実際の時間”は全くと言って進んではいなかった。

 

 一秒と経ってなかったかもしれない。

 

 雨はしとしとと降り続いていたし、何より服装は寝間着のままだったから。

 二人とも全裸ということはなかったし、ずぶ濡れてもなかった。

 

 全てが夢の世界の出来事、そうとしか思えなかった。

 

 朝日が昇る、その直前までは。

 

 翌朝はに雨はすっかり上がっていて、ビルだらけの町も遠くに見える大きな山さえもきらきらと光輝いていた。

 

 あんな事があっても燐はいつもの時間に起きて朝のルーティーンの一つである、ジョギングへと出かけて行った。

 

 人も車も、その空気でさえもいつもの様に流れていて、燐はようやく夢から覚めた気になれた。

 

 けれど、ただ一点。

 あの夢と現実との共通点があった。

 

 それは、蛍。

 

 蛍だけがその夢の中の出来事を認知できていた。

 分かりやすい事例でもって。

 

 燐がルーティーンを済ませて戻ってきても、リビングにはまだ蛍の姿はなかった。

 いつもなら起きている時間なのにと、燐はベッドルームまで様子を見に行った。

 

「り、燐~」

 

 蛍は起きているようだった。

 しかし情けない声を上げるだけでベッドから起き上がろうとしてこない。

 

「どうしたの、蛍ちゃん」

 

 一向に布団から起き上がらない蛍に首を傾げながらも、とりあえず布団からちょんと出ていた蛍の手をとって熱を測ってみることにした燐なのだが……。

 

「い、痛っ!」

 

 そんなに強く握ったつもりはないのに、蛍が悲鳴を上げたので燐は慌てて手を離す。

 けれどその喋る行為も痛むらしく、蛍は声にならない悲鳴を上げていた。

 

「だ、大丈夫? どこが痛いの?」

 

 恐る恐る燐は尋ねる。

 何か変わった病気なら直ぐにでも救急車を呼ぶしかない。

 

 蛍は弱々しくため息を吐いた後、燐を見つめながら答えた。

 

「ぜ、全部だった……みたい」

 

「全部って、蛍ちゃんもしかして……ちょっとごめんねっ」

 

 燐は一度断りを入れた後、布団の中に手を入れて蛍の腕や脚を軽く揉み解してみる。

 

「くぅ……っ!」

 

 やはりと言うか、身体のどこを触っても蛍は痛みを訴えてきた。

 そして少し熱っぽくもあった。

 

「全身、筋肉痛になっちゃった、のかも……」

 

 蛍自身が言う様のなら、それで間違いないだろうと燐は思った。

 

 普通の筋肉痛ならば、ある程度時間が経てば自然に治るだろうし、そこまで騒ぐ事でもないと思う。

 

 だけど。

 

(あまりに酷い場合は病院に行った方がいいんだよね。蛍ちゃんの場合だって……)

 

 そこまでの専門的な知識はないが、運動部ではこう言うことは良くあることだからある程度症状は燐も理解できていた。

 

 だから蛍にも病院に行くことを促したのだったが。

 

「す、少し寝てれば、きっと治るよ」

 

 蛍は震える声で頑なに拒んでいた。

 

 いくら蛍のように若い女の子でも痛いものは痛いはずなのに……。

 

(頑張り屋さんなのは知ってるけどこれはちょっと……)

 

 燐に迷惑を掛けたくないと思っているんだろう。

 精神的な病気を疑われて病院に掛かっていたこともあるぐらいだったし。

 

 今は薬を飲まなくてもいいぐらいに回復しているけど……お互いに。

 

「病院に行きたくないのはまあ……何となく分かるけど。それじゃあ、湿布買ってくる?」

 

「うん……それで良いと思う。ごめんね、燐」

 

 喋るのもつらそうにする蛍を見ると、なんとかしてあげたくなる。

 燐は湿布を貼るだけでなく、入念にマッサージもしてあげていた。

 

 そのおかげかどうかは定かではないが、日常生活をおくる事すら困難だった蛍の筋肉痛は三日間程度で回復していた。

 

「燐のマッサージが上手く効いたんだね。だってわたしの為に一生懸命してくれていたし」

 

 蛍は治った理由をそうだと信じてしまっていた。

 

(わたしはそこまでマッサージは効果ないとは思ってるんだけどなぁ……)

 

 肝心の燐はそう思っていたが、蛍の絹の様なすべすべの肌に触れるのは嫌いではないので、ここは黙っておくことにした。

 

 それからは燐のマッサージを蛍は抵抗なく受け入れることになった。

 

 実際ちょうどよい加減で燐はしてくれていたし、何より手先から燐の気持ちが直に伝わってくるようで蛍の胸の内がほんのり温かくなってくる気がするからだった。

 

 だから今もこうしてやってはもらっているのだが──。

 

「ねぇ、なんで蛍ちゃんもわたしの足をマッサージしているの?」

 

「だって燐ばっかりじゃ悪い気がして……燐は特に痛い所とかないの?」

 

「うーん、まあ……わたしはこれでも一応山は慣れてるからね。ちょっとブランクがあったけど一度ついた筋肉はそう簡単には衰えないみたいだから」

 

 燐は可愛らしく力こぶをつくる。

 

 同年代の子と比べても少し華奢に見える燐だが、意外にもしっかりとした筋肉がついていた。

 

 柔らかい、細やかな肌のその奥の骨を包み込む芯が入ったような力強さ。

 

(まるで、燐そのものみたい)

 

 蛍は燐のふくらはぎを揉みほぐしながら、そんな事を頭に浮かべていた。

 

「そんなに強くしなくても大丈夫だよ。あ、もうっ。わ、わたしはそんなに疲れてないって言ってるのにぃぃ」

 

 くすぐったくなったのか、燐はわたわたしながら困り顔で訴えてくる。

 そんな燐が可愛くて更に強く蛍はマッサージしてあげた。

 

「ほ、蛍ちゃん。変な声出ちゃうからやめてよ~」

 

「変な声って?」

 

「だから、も、もぉっ!」

 

「うふふふ」

 

 少女達はじゃれ合いながらお互いの身体を解し合った。

 

 先ほどまでパンを啄んでいた二羽の小鳥がまたやってきて、同じようにパンを啄んでいた。

 

 関心があるのかないのか、時折二人の方に視線を送らせながら。

 

 でも燐も蛍もその事に気付かなかった。

 今はお互いの事にしか目が入らなかったから。

 

 ()()()()は愛を競い合うように囀り合いながら、楽し気な様子で午後の一時を過ごし合っていた。

 

「どう? 少しは楽になった?」

 

「うん。ありがとう、蛍ちゃん……何か大切なものを失った気もするけどね……」

 

「それは気のせいだよ。わたしも、燐のお陰で楽になったよ、ほら」

 

 そう言いながら蛍は両手を気持ちよく上に伸ばして、腰を何度も捻ってみせた。

 この分だと確かに大丈夫そうだった。

 

「うんうん、大丈夫みたいだね。わたしは……蛍ちゃんに色々と触られたから、ちょっとナーバスな気持ちになってるけどね……」

 

「そうなの? 燐って意外と感じやすいもんね。一緒に寝てる時だって燐はもぞもぞしてるし……」

 

「蛍ちゃんっ。さっきから恥ずかしいことばかり言わないでよもぉぉー!!」

 

 燐の場合、体だけでなく心まで解されてしまったようだった。

 

「さあてと、ご飯も食べたし、身体も十分解れたみたいだしさ、蛍ちゃん。そろそろ行こうか?」

 

「行くって? もう下山ってこと?」

 

 蛍は楽しすぎたのか目的を完全に見失っていた。

 そのせいでつい、やっと下山できることに胸を膨らまさせていた。

 

 ここまでこれただけで蛍には十分達成感があったわけだし。

 更に美味しいものも食べて心も満たされた”幸せな勘違い”からくるものだった。

 

「え、下山って蛍ちゃん……」

 

 だからか、燐の方が目をぱちくりとさせていた。

 

 ここからが本番であり、目指す目的地はまだ先の方なのだから。

 

 蛍がこの先の登山に耐えられるかが今回のキモでもあった。

 

「もう、何言ってるの蛍ちゃん。地図に書いてあったのはこの次の山の事でしょ」

 

「この次の……山!???」

 

 何を言っているのか全く理解できないとばかりに蛍は燐の言葉を繰り返す。

 もう下山するだけと思っていたから、脳が考えるのを拒否しているようだった。

 

「ちゃんと説明したと思ってたんだけどぉ……」

 

「ごめん。よく聞いていなかったかも」

 

 少し口を尖らせて呟く燐に、蛍は素直に謝るしかなかった。

 

「まあ、気にしないでいいよ。ちゃんと分かるように説明しなかったわたしも悪いんだし。確認の為にも、もう一度ちゃんと説明するね」

 

「うん。お願い」

 

 燐は透明な袋に入った地図のコピーとスマホを両手に持って、この登山の目的を最初から説明した。

 

「ここが今いる山。で、目的の山はここ。それは分かるよね」

 

「そうだったっけ? 直ぐに目的の山には行けないの?」

 

「ここの山……この辺りの山って特に名前がないから言いづらいんだけどぉ。そこに行くためにはこの山の山頂から稜線に沿って縦走しないといけないんだよね。目的の山って場所って登山口どころか山道すら見当たらなかったから」

 

「だから縦走、なんだ……」

 

「うん。でも縦走って言ってもそんなに長い距離じゃないんだよ。あと二つ……三つかな。そうやって山を越えないたどり着けないみたいなの」

 

「ここからも見えるんだっけ、その山って」

 

「ほら、アレがそうだよ」

 

「え……おぉ」

 

 燐が指し示す方向を蛍も見る。

 それは地図で見るよりもずっと大きく、それこそ壁のようにそびえ立っていた。

 

(あんな山に本当に行くの? それもわたしが?)

 

 あの夜の、緑で出来た壁よりもずっと高く見える。

 こうして見ているだけでも圧倒されそうなのに、登るだなんてとても考えが及ばない。

 

「本当に登れるものなの?」

 

 思わず口に出していた。

 それぐらい目の前にそびえる山へ行くことが信じられなかった。

 

「んー、でも見た目ほど高くはないと思うよ。こういうのって意外と何とかなるもんだし」

 

「そうなんだ……」

 

 まるで他人事のように蛍は感心していた。

 やはり自分が登ると言うビジョンはまだ思い浮かばないらしい。

 

「どれぐらい時間が掛かりそうなの?」

 

 蛍は不安げな様子で燐に尋ねる。

 

「んーとねぇ……さっきまでのペースだと……」

 

「あの山の頂上まで行ったら流石に真っ暗になっちゃうよね」

 

「えっ? ま、まぁね……」

 

 燐が答えを出すよりも早く蛍が結論を出していた。

 

(ごめん燐、わたし今日はもう無理なの。もう頑張れそうにないから)

 

 燐に悪いとは思ったが、蛍は確かにもう限界だった。

 残した体力だって下山する為のものであって、縦走なんてとてもできっこない。

 

 でも燐一人に行かせるわけにはいかないから、今日は今だけはここまでで。

 

「ねぇ、燐……」

 

 考え込んでいる燐におずおずと話しかける。

 蛍の脳内は下山した後の事でいっぱいになっていた。

 

「大丈夫だよ蛍ちゃん。わたし蛍ちゃんが言いたいこと大体分かってるから」

 

「本当? じゃあ今日はここまでで」

 

 いいよね。

 と、蛍が口にしようとした時。

 

「ほら、ちゃんとテント持ってきてるから大丈夫だよ。ぎりぎり二人用でちょっと狭いけど、夏だからくっついて寝れば多分大丈夫だと思うし」

 

「……テント」

 

 蛍は思わず絶句した。

 

 今日の燐の荷物はどう見ても多いとは思っていたのだが。

 

「暗くなるまで山を歩いてさ……夜には見晴らしの良い所でテントを張って、流行りのキャンプ飯を食べる! やっぱりアウトドアって楽しいよね! 蛍ちゃん」

 

「えっ!?」

 

 心底楽しそうに縦走の行程を語る燐に、蛍はつい驚いた顔をしてしまっていた。

 

 まだアウトドア初心者の蛍と、ベテランと言ってもいい燐とでは山での楽しみ方に違いがありすぎたのだ。

 

 もっと早くその事に気付くべきだったと思う。

 まだまだビギナーの蛍には縦走してテントで一夜を明かすなど、到底無理な注文だったから。

 

(どうしよう……燐に何て言ったらいいんだろう)

 

 蛍は頭をぐるぐるとさせる。

 

 下山すると言ったら燐は多分反対はしないけど、きっと残念がるだろう。

 もしかしたら、もう連れて行ってくれさえしないかも。

 

 燐の性格上そんな事はあり得ないのだが、今の蛍には正常な判断が下せなかった。

 とにかく燐に嫌われたくはなかったから。

 

「蛍ちゃん……ちょっと顔色悪いよ……やっぱり無理してる。じゃあ残念だけど今日はここまでってことで……」

 

 目指す山の方ではなく、帰り道の方に燐は振り返ろうしたのだが。

 

「だ、大丈夫、大丈夫だよ燐。わたしは……大丈夫なんだから」

 

「ほ、蛍ちゃん!?」

 

 蛍が道を塞ぐように立ち止まったので、燐は戸惑いの声を上げた。

 

「燐が行きたいならどこまでだってついていく。それに、この地図はわたしの家で見つかったんだから、わたしが行ってあげないと」

 

 蛍は燐の目を真っ直ぐに見ながらそう宣言する。

 

 本当に使命からくるものなのかは自分でも分かってはいない。

 座敷童の末裔だからとかそういうのではないとは思う。

 

 でももう、見て見ぬふりは出来ないとは思っていたから。

 

「わたしは無理矢理蛍ちゃんの事を連れて行くつもりはないんだよ……ねぇ、蛍ちゃん、本当に大丈夫? 無理してない?」

 

 気遣わしく顔を覗き込む燐に蛍は胸の内を吐露した。

 

「その、正直言うと無理かもしれない。でも、自分の目で確かめる事だけはしないといけないような気がするの」

 

 蛍がどうこう出来るようなことはもう無いとは思ってる。

 

 座敷童の事だって、力が殆ど残っていないのに打ち明けられたわけなんだし。

 

 三間坂家が関係していることだとしても、もうその名すらも捨てようとしているのだから。

 

 呆気に取られたように固まっていた燐だったが、大きく息を吐くと蛍の目を真っ直ぐに見返して微笑んだ。

 

「実はそう言うんじゃないかって思ってた。蛍ちゃんは一度決めたことはそう簡単に変えないからね」

 

 諦めたように小さくため息をつく燐に、蛍は肩をすくめて苦笑いを浮かべた。 

 

「それは燐もでしょ。どこまでも真っ直ぐで純粋だから」

 

「じゃあ、お互い頑固者ってこと?」

 

「そういうことだね」

 

「じゃあ、しょうがないか」

 

 蛍と燐は顔と顔を見合わせて頷いた。

 

 二人の気持ちは同じようで同じじゃない。

 きっと完全に交わるようなことはないけれど。

 

 それが人であり、友達だったから。

 だから二人の瞳には迷いの色はなく、お互いがお互いの事を信頼しきっていた。

 

 この先どうなるかなんて考えることすらもしなかった。

 

 お互いに行く場所は分かっていたから。

 

「じゃあ行きますかぁ。こうしていても時間が勿体ないしね」

 

「うん。ねぇ燐、もしさっきみたいにわたしが遅れてたら遠慮なく置いて行っていいからね」

 

「……わかった」

 

 燐は直ぐには返事を返さなかったが、ややあってから頷いた。

 

 それでも蛍には分かっていた。

 燐はきっとまたペースをぎりぎりまで合わせるだろうと。

 

 だからそれ以上は何も聞くことはせずに、先ほどのように両手にトレッキングポールを握って自分のペースで山道を歩いていく。

 

 この分だとテントに泊まるのは確実だろう。

 けど、それを迷惑かけているとはもう思わなかった。

 

 だって燐はわたしだし、わたしは燐なのだから。

 

 この世界でたった二人だけ、だから。

 

「蛍ちゃん」

 

「なぁに、燐」

 

 早速燐はペースを落としていた。

 

「この地図の山、”あの山”じゃ言いづらいと思わない? だから何かいい名前考えてみようよ」

 

「それは……うん。確かに名案だね」

 

 サトくんの時と同じことを燐は聞いていた。

 蛍は特に疑問は考えずに頷いた。

 

 きっと燐はあの時の気持ちでいるんだろう。

 

 蛍と燐とサトくんの()()で、暗い森を歩いていた時の事を。

 

 あの時はまだ何も知らず怖かったけど、でもだからこそ楽しかったから。

 

「うーん、何の名前がいいかなぁ……」

 

 燐は考え込む仕草を見せながらすたすたと山道を進んで行く。

 

 蛍の倍以上の大きなバックパックを燐は担いでいるのに、その顔にまったく疲れを感じさせないのは流石は燐としか言いようがなかった。

 

 あの小さな体の何処にそんな体力があるのだろう。

 燐よりも数段遅いペースで歩く蛍には全く分からなかった。

 

「”青いドアの家”も燐が考えたんだったよ……確か」

 

「うん。あれは本当にいい名前だと思ってるよ。あ。じゃあ、お宝の山とかは?」

 

「それは、そのまんますぎじゃない?」

 

「うーん、じゃあ”蛍ちゃんの山”はどう? この辺りの山って蛍ちゃんちの所有物なんでしょ?」

 

「わたしが、って言うか”三間坂家”が持ってた山みたいだったね。わたしはそれまで全然知らなかった事だけど」

 

 所有者が居る場合は山に勝手に入ることは出来ないからと。

 周辺の山林の事を調べてみて初めて分かった事だった。 

 

 小平口町の土地の多数が三間坂家の土地であったこと。

 

 更に地図の山の周辺一帯は殆ど三間坂家が所有者だった。

 

 だから燐の言う、”蛍の山”は間違いでもなんでもなく、むしろあの山の命名権は蛍にしかないと言ってもいいぐらいだった。

 

「三間坂家のものなら蛍ちゃんのものでしょ。だったら蛍ちゃんに決めてもらわないと」

 

 燐の言うことはもっともだったが、蛍はその事に不満を持っているかのようにため息をついた。

 

(わたしは三間坂家から離れたいんだけどな)

 

 それでも三間坂家が土地を保有していたおかげで、蛍が一定の収入を得ていたことも事実だった。

 

「そうだ、燐」

 

「どうしたの?」

 

「あのさ、あの場所に行ってみてから名前つけてみようよ」

 

「別にそれでもいいけど、どうしてなの?」

 

「ほら、燐の言う様に本当になにか宝みたいのが見つかったらお宝の山でもいいんじゃないかなって」

 

「あー、なるほどね。お宝が見つかってないのにお宝の山はおかしいもんね」

 

「そうそう」

 

「じゃあお宝じゃなくて温泉だったら温泉の山?」

 

 何に使われていた山なのかを知っている人は誰もいなかった。

 

 さっき登った山は林業の為の様だったが、目的の山はどうやら違うようで、切り倒した後の雑木林ではなく天然の木、ばかりの様だったから。

 

 だから温泉が湧いているという燐の意見は決して絵空事と言うことと言うわけではない。

 むしろ、出来れば温泉の方がよかった。

 

「それいいね。温泉あったら入りたいし」

 

「うん、わたしも温泉あったら入りたいー!!」

 

 蛍もそうだが燐だって流石に汗だくだったから、二人が温泉で汗を流したいと思うのは当然の事だった。

 

(下着はまあ何とかもう一着あるけど……)

 

 まあ温泉はともかく、テント泊なんて想定してなかったから替えの下着ぐらいしか持ってきてないけど。

 

 それでも。

 行ってみるしかない、そう思った。

 

 夏休みの最後になって冒険するだなんて……。

 

 蛍にとってはちょうど一年前と同じだけど。

 

 でも今は二人だから。

 

 燐と一緒だから、もう何も怖くはなかった。

 

 たとえ全てがここで終わったとしても。

 

「蛍ちゃん~」

 

 少し先の道で燐が待っていてくれている。

 

 たったそれだけの事でわたしは前に進むことが出来るんだ。

 

 だから燐の方がずっとそのままでいてほしい。

 わたしの心を照らす愛おしいランプの火のままで。

 

 それだけでわたしは暗い道を歩くことが出来るから。

 例え崖があったともきっと大丈夫。

 

 一歩ずつ。

 

 わたしは、月の代わりに道を照らし続けるもう一つの小さな太陽の下へとゆっくりと歩いていった。

 

 

 

 ──

 ───

 ────

 

 

 




■聖地巡礼(ヤマノススメ)

天覧山、ときたら次は当然、高尾山!
先月の下旬頃に高尾山に行ってきたのです。ケーブルカーもリフトも使わずに1号路から山頂を目指す定番コース。通称ヤマノススメルート(定番のコース)で!!

まあ……きつかったです~~何とか山頂までは無事に着けましたけど、途中で何度も休みましたけどねぇ。
天覧山に登った時も思ったのですけど、舗装路ってそこまで楽なんでしょうか? 先の見通しが良い分余計に疲れてくるような気がします。
次はこんなに斜面のキツイところを登るのかぁ……的な意味合いで。

私はあおい(ヤマノススメの主人公)よりも更に悲しいぐらい体力がなかったから……本当に辛かったです。殆どぶっつけ本番でしたし……でも睡眠はそこそことってたから体調を崩すことがなかったのは救いでした。
その日の高尾山もわたしが知る限り、二件ほど救急搬送されてましたからねぇ。救急隊と見られる赤いバイク二台連なって一号路を下ってきたんですけど、不謹慎ながらレアな光景だったのかも? でも自分が搬送されることになったら流石に嫌なので、登山当日の体調管理はしっかりしておきたいなと思いました。

で、薬王院まで続く参道にありましたねー、ヤマノススメのアニメ本編でモデルになったお店がー! それを示すようにちゃんとヤマノススメのポスターも貼ってありました。しかも四期のNextSummitの。

そして高尾山でヤマノススメと言えば、お団子! じゃなくて、あのモモンガ! でもなくて、ムササビのマスコットですねぇ。もちろんその店にも置いてありました。アニメのワンシーンのスクリーンショットと共に。

出来は……いいと思います、もふもふしてますし。しかし値段が、値段が──!! 私の予想の遥か上をいっていたので思わず二度見してしまいましたよーー!!! 劇中だと、お団子とかのお礼として渡したものだったんですけどねぇ(ちなみに漫画だとムササビではなくモモンガの小さいマスコットとなってます)
どうみてもお団子一本の値段とは釣り合いがいれていないと言いますか……値段的に三倍返しになりますね。そりゃあ大人って言われますよー、ひなた(主人公の親友)にー。

結局ムササビは諦めて、高尾山ではここでしか売ってないと書いてあった、おせんべいだけ買って下山しましたよー。
帰りももちろん徒歩でーーと思っていたのですが、時間の都合でエコーリフトで下山しました。
1号路を登りきったときに見た時はがらがらだったのに、いざ自分が乗るときには行列が出来てましたよ……時間的にちょうど下山のピークだったみたいです。
リフトは視界を遮るものが何もないので開放感が凄かったです。しかも手すりが両サイドにしかないので結構スリルありましたねぇ。冬場は風が直に当たるから利用者少なそうですけど。それにしても行きは登山で帰りはリフトって……普通逆じゃん! でもリフトって久々だったから結構楽しかったかも……。

それにしても平日に行ったのに予想以上に混雑してまして、山頂とかも人でごった返してました。でも見どころ満載で面白かったです。もし今度行くときは違うルートで行きも帰りも徒歩でトレッキングできればなぁって思ってます。


KAI様の青い空のカミュDL版。ただいまウィンターセールで来年の1月13日まで50%オフですねー。もしお買い上げになっていない方はこの機会に是非是非。


ではでは、それでは──ってもう今年も終わりなのだあぁぁ……本当に早いー。

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