We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life.   作:Towelie

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 昨夜から降りつづいていたであろう雨は上がることはなく、むしろすっかり本降りとなっていた。

 雲とも靄ともつかない白い闇の中で、頼りない二つのライトだけがぼんやりと揺れていた。

 それこそ夏夜に飛ぶ甲虫の明かりのように。

「はっ、はっ、はっ」

 意識しているわけではないけど、自然と早足になっていた。
 下りだからだろうか、でもそれにしても。

(道って言うか、滑り台を歩いてるみたい)

 単純な一本道だった帰り道が泥と雨水のせいで道としての機能を殆ど果たしてはくれなかった。

 もともと人の通りのない、けもの道であったからそれほど変わりはないとも言えるけれど。

 でもこの霧と雨は流石に洒落にならないと言うか。

 整備されていない山道だったとはいえ、視界が悪いとこんなにも怖くて歩き辛くなるとは思ってもみなかった。

 それでもトレッキングポールを使っているからある程度は安定していると思うけど、怖いものは怖い。

 白い霧は晴れることなく深く濃くなってくるし、雨足も強いから視界不良なこと、この上ない。

 ちょっとでも足を横に向けたら今にも滑りだしそうになるほど足元が不安定で、こんな場所で転んだりしたらそれこそ崖下まで落ちて行ってしまうかもしれない。

 しかもそれは空想などではなく、限りなく現実味を帯びたものだから……。

 考えただけでもゾッとしてしまった。

 したがって慎重に進むしかないのだが、下りの傾斜が足を前へと勝手に動かしてくる。
 そんなに早くは進みたくはないのに、気持ちが前へと走り出そうとする。
 
 それはきっと恐怖からだろう。

 山頂付近まで出た時は雲海が山一面に広がってて思いがけず感嘆していたんだけど。

(霧がこんなに怖いなんてね)

 今朝方から歩いているから既に疲労が蓄積されている。

 その時はコンパスがあったから、何とか迷わずに歩くことが出来たけど。

(今は使えないんだよね、あのコンパス)

 そのコンパスは見た目は普通なんだけど、ちょっと不思議な方角を指すのだった。
 一応意味はあるみたいで、それなりに役には立ったんだけど。

 ()()()()に辿り着いた時、役目を終えてしまったように急に針が動かなくなった。

 それっきり、普通のコンパスとしても使えなくなってしまった。

 その辺りは、不思議な放送を受信できたあの携帯ラジオと同じなのかもしれない。

 ──役目がなくなったから止まる。

 何だろう、急にお腹のあたりが寒くなった。
 
 ずっと雨に当たっているからかもしれない。

 でも、コーラルピンクのレインジャケットはとてもしっかりしていて、横殴りの雨でも全く寄せ付けない。

 思っていた以上に動きやすいし、通気性だって悪くないからそこまで汗をかいていないし。
 友達との色違いだけど用意しておいて良かったと思ってる。

 でも、なんで今日に限ってこんなに天候が悪くなってしまったのだろう。
 山の天気は急変しやすいって定説があるみたいだけど。

(なんだか重苦しい)

 心の奥底までもが何かの重しをつけたみたいに苦しくて、息がつまる思いだった。

 でも立ち止まったって霧がすぐに晴れるわけでもないし、それならさっさと下山したほうが得策だと、歩いてはいるのだが。

 雲ともつかない霧の中を泳ぐように進む。

 こうしてポールを動かして歩いてると、本当に霧の中をボートか何かで泳いでいるような感じになる。

 湖畔の上に浮かぶ一艘の小舟のような、静謐なイメージで。

 実際は周りを見る余裕すらないけど。
 まるで、白いドームの中に閉じ込められているみたいだし。

 ふうっと息を吐く。

 野外だというのに言いようもない閉塞感を覚えた。

「はぁ……、はぁ……」

 意識すればするほど息が荒くなる。

 まだ夏だということを忘れそうになるほどの底冷えを手足に感じる。
 熱を帯びたように火照っている顔とのギャップで、頭がどうにかなりそうだった。

 過去に登った山では頂上まで行けなくてもその日の内に下山していたからだけど、ただ、帰るだけのことがこんなにも辛いことだなんて。

 やはり天候が悪いとこんなにも大変なんだ。

 ちゃんとした雨具を着ているからずぶ濡れになることはないが、心の中の不快感だけはどうすることも出来なかった。

 こういう事は初めてじゃないけれど、それでもやっぱり少ししんどい。

 早く楽に、安心になりたかった。

 直降りの雨がさっきから煩わしくして仕方がない。
 他に音がないから余計に気になった。

 今日は鳥の姿を一度も見ていない。
 やっぱりこの雨だから巣穴かどこかで羽を休めているんだろうけど。

 一瞬でも見かければ少しは心が晴れそうな気もする。
 
 それを願っても鳥にも都合があるだろうけど。

「はあっ」

 吐き出すほど嫌な天気だった。

 ………
 ……
 …

 天霧に煙る山道を二人の少女がひたすらに歩いている。

 昨日も使った道だから流石にもう迷うことはないと思ったけど、昨日とは打って変わっての荒れた天気は景色だけでなく、その分かりやすい道筋すら惑わせてくるようで。

 考えなしに下山していたらきっと二人とも霧の中で遭難したに違いない。

 でも、彼女──燐、ひとりなら大丈夫だとは思う。
 こうしてお互いの体にロープを巻き付けて進むことを提案してくれたのも燐だったし。

 やっぱり経験が高いから。
 わたしとは違って。

 それにしてもこの恰好……。

 このお互いの体をロープで括り付けると言うのは、映画などでみたすごく高い山に登る人みたいで、ちょっと大げさかと思ったけど。

 視界すらままならない山ではこのロープこそが唯一の道しるべになってくれている。

 それも燐が間違いなく先を歩いてくれているからだけど。
 だからこそ意外なほど安心できた。

(そういえば、前にもこんなことがあった気がする……何のときだったっけ? わたしと燐が一緒のロープで括られていたのって)

 すごく重要っていうか、運命的な事のようだった気がする。

 気のせいだったかもしれないけど。

(でも、燐とこうして線で繋がっていたらいいなぁ。出来れば赤の……)

 ちょっとしたロマンチシズムに蛍が想いを寄せていると、ふいに体が引っ張られる感触があってビックリとした。

 先を行く燐との差がつきすぎたようで、腰に括られたロープが前へ進むことを促しているようだった。

 このまま燐に引っ張ってもらうなんてことはさせたくはない。
 蛍は頑張ってペースを上げることにした。

 ロープでつなぐことは確かに有難かったが、その分ペースを合わせなければいけないので、結構大変ではあった。

 特に燐のペースは蛍とはいろいろな意味で違っていたから。

 それに燐はさっきからこちらを振り返ることなく、自分のペースでもくもくと歩いている。
 蛍はその後を付いていくだけでいっぱいっぱいだった。

 でも、と思う。

(燐は、休まなくて平気なのかな? わたしはもう、だいぶ限界なんだけど)

 自分の体力の無さに憂いながらも、やっぱり燐の事が気がかりだった。

 燐だって疲れているはずだし。
 それなのに一向に立ち止まる気配を見せないのは、やっぱり。

(仕方ないよね。あんな事の後だし。わたしだって未だに信じられないもん)

 衝撃的な出来事があった。

 あったはず。

 あった?

(あれ……?)

 なんだか上手く思い出せないけど、なんか大変な出来事があった気がする。

 だからか、妙に気疲れのような心の余裕みたいものが失われているのを感じている。

 そのせいなのか、燐だって思ってたほどペースが上がっていない。

 それに何となく落ち込んでいるようにも見える。
 燐の小さな背中がさらに小さく見えた。

 それぐらい離れているからかもしれないけど。

(もうちょっとだけでも燐に追いつかなきゃ!)

 頭の中の霧がかった考えを打ち消して、燐との差を少しでも詰めようと蛍は懸命に足を前にと動かした。

 紐でお互いの身体を結び付けているからはぐれることはないけど、それでも心配はかけたくはない。

 それに万一、自分が足を滑らせたりしたら、燐にだって迷惑が掛かってしまう。
 
 最悪の場合二人一緒に谷底に落ちるなんてことに……。

 そう考えると今の状況は一蓮托生であり。
 割と蛍にも責任が掛かっていた。

 蛍は急ぎたいけど慎重に、そうなると結局早歩きで燐の背中を追った。

 実際は下りなんだから前に足を早く出そうと思えばそれはわりと簡単だけど、上手くコントロールするのが難しい。

 勢いがつきすぎて、転んだり足を痛めたりするなんて事は登山ではよくあることだから。

 前のめりになりそうになる身体をなだめながら、蛍は少し早いペースで霧に浮かんだ山の稜線を下って行った。

(あ、ここって昨日燐と一緒にご飯食べたところだ)

 どちらかというと下りが多いからか、蛍が思っていたよりも早くここの場所まで来ることができた。

 燐のペースに合わせていたからだろうと思う。
 その分、疲労はピークに達してはいるが。

 昨日、一緒にランチを楽しんた見晴らしの良い場所は、天然の石のベンチとテーブルのある本当にいい所だった。

 それが今では、雨風に晒されてうらぶれたように静まり返っていた。

 たったそれだけの事なのになんだかひどく寂しい場所に思える。
 お昼時の小一時間程度とはいえ、あんなに幸せな時間を過ごした場所だったのに。

 見方と言うか色彩が変わったからだと思う。
 
 雨が悪いというわけではなく、空気感だろうか。

 ここでいたことが嘘みたいに、背景も何かもがグレーの色に包まれていた。

「もうちょっと行ったら休憩しよっか。無茶して膝を痛めちゃったら大変だしね」

 いつの間にか立ち止まっていた燐が傍まで来ていた。

 燐もここでの事を思い出したのかもしれない。
 ちょっと残念そうにその場所を眺めていたから。

「うん、いいよ」

 蛍は少し大げさに頷いてみせた。

 燐にはきっと分かっていた。
 蛍の体力がもう限界を超えて、気力だけで歩いていたことを。

 だから嬉しかった、本当にいいタイミングで声を掛けてくれたことが。
 自分の事を理解してくれることが嬉しかった。

 それに、変に気を回す言い方ではなく直接的に言ってくれる。

 信頼されていると思った、燐に。

 だからわたしもはっきりと答えた。
 曖昧なのはなんだか悪い気がしたから。

「あはっ、まだまだ元気そうだね蛍ちゃん。でも無理はダメだから。しっかり休憩をとってこその下山なんだからね」

 燐は登りの時と同じようなことを言った。

 でも、思っていたよりも蛍が元気だったので軽く驚いた。
 蛍のその頑張り屋なところが燐はとても好きだった。

 さて、休憩と言ってもどこですれば良いのか。

 あのランチをとった山頂部分は雨ざらしでとても休めそうな場所ではない。

 他に雨宿りできそうな木々も周りにはなかったから、燐の言う様にもう少しだけ歩く必要があった。

「あ、燐っ! あそこなんてどう?」

 雨に濡れた指先を蛍が懸命に差した先は……大きな岩のその真下。

 岩の上の部分が軒下のように出っ張っており、ちょっとした雨宿りぐらいはできそうだった。

 燐と蛍は顔を見合わせると、身を隠すようにその岩陰の影へと急いで入り込む。

 完全に雨をよけきることはできないが、これといった場所も辺りには見つからないので、二人はここで身を落ち着けることにした。

「はぁ、ようやく休めるねー」
 
 燐の言葉に安堵したのか、蛍は思わず岩肌に背中を預ける。

 冷たいかなと思ったけど、背中のバックパックがクッションの役割を果たしてくれたから、むしろ心地いいぐらいだった。

 燐も大きなバックパックを背負ったまま手を首に回して背中を後ろに倒す。

「なんかいいね。こういうの」

 二人でこうしていると岩のベッドで一緒に寝ているみたいだった。

 蛍はどうにもお尻の左側が痛かったので、トレッキングポールの柄で自分のお尻を押したり叩いたりしていた。

 案の定、燐がマッサージしてあげようかと言ってきたが、丁重にお断りした。

 思っていたよりも悪くない場所だったから、思いのほかリラックスすることが出来た。

「やっと、ここまで戻ってこれたね」

 渇いた喉を潤して一息ついた蛍はにっこりした。

「うん。でも、ここからがちょっとキツイかもね。ちゃんと山を降りないといけないから」

 ここまでの行程はどちらかというと平坦な山沿いに下ってきたものだったけど、ここからがちゃんとした山下り。

 本当の意味での下山ということらしい。

 緊張してきた蛍は思わず喉を鳴らした。

 でも、ちゃんと燐と向かい合って話すことができたからちょっと嬉しかった。

 ただもくもくと歩いていた時は、二人の間に何か張り詰めた空気というか、それぞれの孤独感を感じていたから。

 それがようやく元通りになった気がした。
 互いの顔が見えないことがこんなに辛い事だとは思わなかった。

 その代わりと言ってはなんだが、無理やり誤魔化していた体の疲労を一気に感じることになってしまったけど。

 それでも燐とこうして話せることの方がその何倍も嬉しかったから。

 それに話していると少しだけ疲れを忘れることだってできるし。

「そうだよね。ここから降りないと下山できないもんね」

 他に降りれそうな道はなかったし、仮にあったとしてもこの悪天候ではとてもじゃないけど危険すぎる。

 だったら、行きで使った道で帰るのが得策だと思った。

 けど、登りがきつかったから帰りは楽ちん……という事はない。
 むしろ燐の言う所だとここからが本番と言ってもいいぐらいだった。

「まあ、雨で滑りやすいからゆっくり降るしかないんだけどね。蛍ちゃんなら大丈夫だよ」

「……そうだね」

 燐はなんでも簡単そうに言うから、ついそのまま受け取りそうになるんだけど。

 付き合いの長い蛍には分かってしまう。

 話し方の癖というものが燐にあるわけではないが、燐の”大丈夫”は蛍にとってそうとう苦労しなければならない案件であることは間違いなかったからだ。

 燐に大丈夫と言われたら頑張れる気はする。
 でもそんな事で上手くいくのなら苦労はしない。

 急に足が鉄の棒みたいに重くなってくる。

 あと少しで下山できるから確かに頑張りたいんだけど、気持ちが萎縮してるせいか足が言う事を聞きそうにない。

 ここまでだって、かなり無理をして燐のペースに付いて行ったものだから。
 いよいよ体が悲鳴をあげてしまったようだった。

 でも。

 泣き言何てもう言ってもいられない。
 燐にこれ以上迷惑をかけるわけにもいかないし。

 それに。

 一刻も早くこの山から立ち去りたかった。

 それはきっと、二人とも同じ気持ちで。


 忘れかけていた事象を呼び起こすこの山は、過去の出来事も含めて振り返りたくないほどうんざりだったから。




incessant dream

 ズン、ズシン!

 

 地鳴りのような音は一向に止まってはくれなかった。

 

 荒々しい音の暴力に蛍は思わず耳を塞いで目を閉じる。

 もう止めて欲しいと願いながら。

 

 でも止まってはくれない。

 

 そして、覚えていたこの音を、振動を。

 

 焦燥感に駆られたあの時の恐怖を。

 

(これってやっぱりヒヒなの!? 何で今頃になってヒヒが)

 

 地鳴りのような音で思い起こされたあの時の記憶が、蛍の頭の中で譫言のようにヒヒの名を繰り返させる。

 

 そんな悲痛な思いすらかき消すほどにその音はあまりにも破壊的で。

 

 蛍は蹲りながら小さな心臓を早鐘のように打ち鳴らしていた。

 

「………」

 

 石のように固まる蛍とは対照的に燐はぼんやりと虚空を眺めていた。

 

 意味もなくそうしていたわけではない、ただ、意識がそこ(現実)に向いていなかった。

 

 隣で蛍がひどく怯えていることを知っていながらも燐は別の事に囚われていた。

 

 考えても意味のない事だと思っていても。

 それを止められなかった。

 

 終わっていなかった、何も。

 勝手に終わったと思い込んでいただけで。

 

(お兄ちゃん……)

 

 まだ見えざる脅威が少女たちに刻々と迫りくる中、燐が考えていたのは、この状況を打開する妙案などではなく、大好きだった従兄の──高森聡(たかもりさとし)のことだった。

 

 …………

 ………

 ……

 

 何で──ひとりで行ってしまったんだろう。

 

 それを知った時、悲しさよりも困惑の方が大きかった。

 

 暫くの間、距離を置きたかったんだろう、ということはわかる。

 それはわたしも同じ思いだったし。

 

 だからってそんなに遠くまで行かなくてもとは思ったけど。

 

 今の仕事をわざわざ辞めてまでの事だったのかな。

 

 やっぱりわたしが原因なの?

 わたしがあんなことをしなければ。

 

 それを思うとチクリと胸が痛んだ。

 

 確かに軽はずみな行動だった。

 

 わたしは自分の気持ちを優先することだけを考えていて、彼の秘められた思いなど全く考えていなかった。

 

 そして、あの目を見たわたしは……。

 

 けど……そうじゃない、きっとそれだけじゃなかったんだ。

 

 今ならそれが分かる。

 本当の意味で。

 

 彼が、お兄ちゃんが離れたかったのはそれだけのことじゃない。

 

 ──全部。

 

 だったんだと思う。

 

 わたしだけじゃない、仕事もそして自分自身からも逃げて、やり直したかった。

 そう思っていた。

 

 ストレスがあったんだと思う。

 ずっと想いを拗らせていたみたいだったから。

 

 仕方がない部分はあると思う。

 

 これは個人的というか性格的なもので。

 

 彼、個人の問題だからと勝手に、諦めていた。

 

 でも本当は違ったんじゃないか。

 他に原因があったのではと思った、それはずっと。

 

 だって、お兄ちゃんは知っていたから、町のことも座敷童のこともすべて。

 

 そのせいで自分もおかしなことに巻き込まれてしまったことも。

 

 きっと、逃げたかった。

 全ての元凶である小平口町、それに関係するすべての事象から。

 

 自分の家族さえも置き去りにしてまでも。

 

 巻き込まれた形なんだから被害者だと言うこともできたはず。

 

 でも……それだけじゃなかったから。

 

 自らの犯した罪の重さ、そして想いの強さを知ってしまったから。

 

 自分の中の正直な気持ちに気付いてしまったからだと。

 

 そう、思っている。

 

 隠していたものが白日に晒されてしまったことのショックは、わたしよりもきっと、彼の方が大きかったんだろうと思うから。

 

(それにしても……わたしってバカだなぁ。なんで今になって分かったんだろう)

 

 ひとつの疑問が解けたと思うと、またそこから新たな疑問が湧き出てくる。

 

 それは芋づる式に、問題を絡めとるみたいに。

 

 ──あの音。

 

 きっとあの音が理由だ。

 

 あの、地響きにもにた足音が胸の奥の疑問を無理やり呼び起こしたのだ。

 

 あまりにも遅すぎる。

 

 もっと早くに気付くべきだった。

 

 鳥や虫の声、蛙の鳴き声など。

 そう言った”他の生物”の気配が全くしない事になんで早く気付かなかったのだろう。

 

 それに清々しい朝の香りもここにはしない。

 でも、夜の匂いだって流れてこない。

 

 草の青青しさ、土の香り、花の揺れ方も何処かおかしい。

 

 まるで意図的に作られてたみたい画一的(かくいつてき)な白々しさが垣間見えた。

 

 確かにおかしい。

 そう──全てが。

 

 この辺一体の空気がおかしく感じる。

 

 まるで世界から隔離されたみたいに、独自の空間になっている。

 

 何か大事なものが抜け落ちているようなそんな曖昧さ、不条理さを心と肌の両方で感じ取っていた。

 

 普通なようで普通じゃない。

 そんな微妙さが曖昧さを生んで少しづつ日常を削っていた。

 

 例えば、多少、変な事が目の前で起こっても、あの町の()()の余波みたいなものだろうと勝手に解釈して無理矢理に納得させてしまっていた。

 

 そんな事がすっかり当たり前になってしまったから。

 それが盲点となってしまった。

 

 あの日の”絶望”は、まだ終わっていなかった。

 

 まるであの日の。

 

(転車台みたいに……つまり、そういうことか)

 

 乾ききった喉を無理やり動かして、蟠った言葉をゴクリと呑み込んだ。

 

 確かによく似ていた。

 

 周りの木々は周囲を取り囲むようにがっちりとしているし、石碑を中心とした円形の広場は、行きも帰りも同じ道しかない完全な行き止まりになっている。

 

 他に小屋のようなものは無いが、代わりと言っていいのか、ちょうど少女ふたりが隠れられそうな倒木が横たわっていた。

 

 だから今そこに身を隠しているのだが。

 

 ──こなければよかった。

 

 きっと、そういう認識こそが間違いなんだろう。

 

 でもそうすれば、何も知らずにいることが出来たのに、とか。

 

 いつも通りの元の日常に還ることが出来たはずなのに、とか……。

 

 けれど、そういうことではなくて。

 

(呼ばれていたんだ。きっとわたしも、蛍ちゃんも)

 

 そう、ずっと呼ばれて……呼んでいた。

 

 ずっとずっと、夢の中で。

 

 夢の終わりがあるなら、目覚めるしかない。

 その方法はきっと最初からもう分かっていた。

 

(わたしはずっと、夢に囚われていた……?)

 

 間違ってはいないと思う。

 

 希望に夢見て、他人に期待して、愛情を渇望していたから。

 

 意味なんてない。

 欲しいから、ただそれだけだった。

 

「はぁ……」

 

 声を潜めたまま燐は息を漏らした。

 

 我ながら呆れかえってしまう。

 

 何かの物事と言うのは急に始まるわけじゃなかった。

 必ず何らかの兆候、前段階がある。

 

 ただ、それに気づかなかっただけで。

 

 いつだってそう。

 気付いた時にはもう手遅れ何てことは割とざらだった。

 

 幸せとはそういうものだと言っている人もいた。

 

 ”何で上手くいかないんだろう”……?

 

 誰だって、きっと何かしら悩んでいる。

 けど、皆、折り合いをつけるのが上手で。

 

 わたしはいつもそれが苦手だった。

 

 ──かんたんな、ことのはずなのにね。

 

 ずしん、ずしんと地面と木々を揺らす音が無慈悲に近づいてくる。

 

 これ以上頭を巡らせても答えなんてない。

 むしろ答えはもう持っている。

 

 それでも一目見ないと納得がいかない。

 自分の目で確かめないと理解できないことだったから。

 

「……っ」

 

 さっきから首を伸ばして待ち構えているが、一向にその姿は現れない。

 音だけは伝わってきているのに。

 

 どうせ小山の様な異様な姿をしているだろうから、遠くからでも見れば直ぐに分かるはずなのに。

 

(本当に……ヒヒなのかな? まだ信じられないよ)

 

 いるわけがない。

 頭でそれは分かっている。

 

 けど、この音は?

 この芯から響いてくるような、地鳴りは?

 

 やっぱり”ヤツ”としか思えない。

 

 思いたくはないんだけど。

 

 灌木の影から燐は様子を窺う。

 

 ポケットに突っ込んだ手が痙攣したようにかたかた震えてくる。

 まるで今にでも抜くことを待ちかねているみたいに。

 

 落ち着きたいけれど、適切な落ち着き方が分からない。

 

 もし本当にアイツなら、こんなモノ何の役にも立たないと言うことは分かっているというのに。

 

 それでも地鳴りのようなが響くたびに緊張感は否応なしに高鳴っていく。

 

 あの日、手にしていた工業用の鉄パイプなんかよりも更に頼りないアウトドア用の本当に小さなナイフ。

 

 こんなもので何をしようというのか。

 これに縋ったところで何が得られるのか。

 

 こんなものでアイツを──ヒヒを止めることが出来るのか。

 

 そんなものは分からない。

 

 けれどこれしか、今はこれしかなかったから。

 

 感触を確かめるようにポケット中の金属の刃の表面に触れる。

 

 折り畳み式であるからまだ刃は出していないけど、少しだけ安心というか気が紛れる気がした。

 

 少し黒い感情が頭をもたげそうになるが。

 

 もし、目の前に今あいつが現れたらどうするだろうか。

 

 仮に見つかって先に動かれたらどうしようもない。

 

 ──先手を仕掛けるしかない。

 

 色々な面から考えても。

 

 脇から突くかそれとも背後からか。

 アイツは見かけ以上に俊敏だけど不意打ちならば、あるいは。

 

 それに確か左目が窪んでいたはず。

 

(そうなると左側が死角になるはず。でも、確か両目が見えなくともアイツは追ってくることができたから)

 

 と、燐がそうなることを想定して想像を巡らせていると。

 

「えっ!?」

 

 漏れそうになる声を無理やり押し込んでそちらを振り返った。

 ポケットを弄る汗ばんだ燐の手に触れるものがあったから。

 

 それは蛍の。

 細かく震えながらも燐の手をとる蛍の暖かい手、だった。

 

 震えているのは手だけではない、大きな瞳も小刻みに揺れていた。

 

 きっと覚えている、蛍ちゃんも。

 

 アイツから発せられる恐怖を。

 

 実際に蛍はそういう目に合いかけたわけだから無理もないことだった。

 

「大丈夫、蛍ちゃん、寒いの?」

 

 何か元気づけようと、燐が小声で軽く冗談を飛ばす。

 

「………」

 

 蛍は悲しみに目を曇らせながら無言で首を横に振った。

 

 それは確かに恐怖に怯えた目をしていたが、その視線は音のする方角ではなく、真っ直ぐに燐の方に注がれていた。

 

 非難というか、嗜めるような感じの真摯な黒い瞳を真っ直ぐにして。

 

「ど、どうして」

 

 小声とはいえ、燐はつい声を上げてしまった。

 

 それは、これまで見たことがないような瞳で蛍が見つめているように見えたからだった。

 

 燐の問いには答えずに、代わりに蛍はぎゅっと手を掴む。

 先ほどよりも少し強い力で。

 

 過ちを正す母の様な素振りに燐は困惑の色を顔に浮かべた。

 

 二人がこうしている間にも、黒い影みたいな”アイツ”が舌なめずりしながらこちらを見下ろしているのではと、想像したからだった。

 

 あのいかにも鈍重そうな巨体でこちらに気付かれること無く、接近できるとは思っていないが、それぐらい神出鬼没で狡猾な奴だったから。

 

 まだ確認していないからソレだとは決まったわけじゃないが、悪意というか得体の知れない感じを纏ったものが近づいてきているのは肌で感じている。

 

 熊の可能性もない事はないが、クマはわざわざ分かりやすく足音なんて立てないらしい。

 

 まだ山で一度も遭遇したことはないけれど。

 

(むしろ熊の方がマシまであるよね。ヒヒと比べたら)

 

 あのヒヒは熊よりも獰猛で欲望に溢れていたから。

 

 もっともそれだって彼の秘めたる欲望や想いを具現化したようなものなんだけど。

 

「燐……違う……よ。あれは多分、違う……」

 

 蛍が唐突に口を開く。

 ほんとうに小さく、か細い声で。

 

 そしてふるふると首を横に何度も振った後、まだ目で訴えかけた。

 

 何が……違うの?

 

(蛍ちゃん……? 一体、いったい何を、言っている……の?)

 

 燐には理解が出来なかった。

 

 蛍の可憐な唇から紡ぎ出された言葉の端々も、その意味も何もかも。

 

 違うって……何が?

 

 こんなに激しい地響きを鳴らして近づいているものが他にいるの??

 

 それに微かだが漂ってくるこの匂い。

 獣特有の、でもどこか違う、嫌な感じの匂いはアイツが発しているものとしか思えない。

 

 何か別の生き物可能性もないことはないけど。

 

「………」

 

 小鳥のように震えながら、それでも懇願するように健気に見つめてくる蛍。

 燐は苛立ちにも似た感情を無理矢理に押し殺して、困った顔で蛍に微笑んだ。

 

 その事が余計に自分の心を傷つけてしまうことを知っていたけど、そうすることしか出来なかったから。

 

 ここで感情を顕わにしたところで何にもならないし、これ以上の緊張感はもう耐えられそうになかったから。

 

 よく分からない感情の渦が胸の中でぐるぐると回り続ける。

 

 ──きもちわるい。

 

 赤い湖面、何もかも覆い尽くす様な霧。

 

 重い音を立てながら、良く分からないものがこちらへ向かってくる恐怖。

 

 それは何のために?

 

 誰の、ために?

 

 どすん!!

 

 燐と蛍。

 

 それぞれの想いを押しつぶすかのように、大地を揺るがすような音がすぐ近く鳴り響いた。

 

 雷にもにたその音に蛍は燐の手を握りしめながら身を竦める。

 

 ついにアイツが姿を現したんだと燐は思った。

 白い霧のトンネルを通り抜けて。

 

 ナイフを握る右手に緊張が走る。

 

 赤い瞳だけが白いヴェールの中で怪しく浮かび上がった。

 

 二人は身を貝のように固くしながら、木の隙間から覗き込んでいた。

 

 何かが動くたびに二人のいる地面も合わせて揺れる。

 

 響くような重い音がするたびに、水を跳ねる音が重なり合う。

 

 ソイツは赤い水を跳ね上げながら、こちらの方へと迷うことなく足を向けてきた。

 

「………!!!」

 

 蛍は片手で自身の口元を抑え込んだ。

 燐も思わず息を呑み込む。

 

 蛍はそう言ったのだが、現実は違った。

 

 目撃した姿は、確かにソイツは。

 二人が良く知る、”ヒヒ”そのものだった。

 

 優に3メートルはあるであろう巨体を揺らしながら悠然とした様子でヒヒはこちらへと向かってくる。

 

 見間違いようのない、あの体躯。

 

 あの時のヒヒが()()いたのだ。

 

 この”現実の世界”でも。

 

 赤い二つの目をぎらぎらと輝かせながら。

 

(二つ? 確か、ヒヒの目って……)

 

 自身の言葉に責任を感じる暇もなく、蛍はヒヒの特徴を頭の中で思い描く。

 

 記憶だとヒヒは左の目が窪んでいたはずだ。

 けれどコイツは普通に両目が見えているみたいに光を放っている。

 

(そういえば、サトくんも目が治っていた、ね)

 

 予想通りで合ったことに燐は複雑な気持ちを抱えながら、もう一つの片っ方であったサトくんの事を思い出していた。

 

 サトくんは白い犬に戻っていた。

 けれどこのヒヒには戻るものなどないようだった。

 

 むしろこの姿が正常なのか。

 

 ヒヒは初めて見た時と同じ格好をしていたから。

 

 薄汚れた作業着を着てヘルメットも被っている。

 

 赤い瞳の下には黄色い乱杭歯を覗かせているし、ヒヒという概念そのものの格好をしていた。

 

 これがヒヒでなくて、何であろうと言うのか。

 

(けど、蛍ちゃんの言う様に何かが違う気もする、目がちゃんと二つあることじゃなくて)

 

 ヒヒであると認識したら急に冷静さを取り戻すことが出来た。

 

 燐はつぶさにヒヒの挙動を確認する。

 一体何に違和感を感じているのだろう。

 

 みしっ。

 

 なにかとても嫌な感じの音がすぐ近くから聞こえた。

 

 一体何の音だろうと、蛍が周囲を見渡す。

 

 急に辺りが暗くなったと思った。

 

 その直後、地面が大きく軋む。

 

 何事かと思った時。

 

 一声も出なかった。

 

 ヒヒがすぐ真上にいたというのに。

 

 こちらを覗き込んでいたというのに。

 

「………」

 

 あんぐりと口を開けたまま呆然と見上げる燐と蛍。

 それを無言のまま見降ろす──ヒヒ。

 

 絶体絶命とはこの事だろうか。

 

 不意打ちを仕掛けるつもりだったのに、逆に不意打ちを食らう形になってしまった。

 

 暫くお互いを見ていたふたりと一匹だったのだが。

 

「え、ええぃっ!!」

 

 首を振った燐は自分を鼓舞するように叫ぶと、腰を上げてヒヒを睨みつけた。

 蛍も遅れて立ち上がると、慌てたようにぴったりと燐の隣にひっついた。

 

 向こうがこちらに来なければやり過ごす気ではいたが、こうなっては仕方がない。

 今更遅すぎるとは思うが、まだヒヒが襲ってこない以上、やるしかないようだった。

 

 それに、あのヒヒに限ってそんな情けをかけるような奴ではない事はもう散々知っていたから。

 

 戦うしかない。

 

 それでしか活路を見いだせなかったから。

 この時は。

 

 ────

 ───

 ──

 

「──ちゃん」

 

「………」

 

「蛍ちゃんっ!!」

 

「はっ! あ、ごめん、燐。わたしちょっと寝てた、みたい」

 

 相当に疲れているのか、蛍は瞼をうつらうつらさせながら、曖昧な返事を返した。

 燐はそれを見て悪戯っぽく笑う。

 

「立ったまま寝るなんてあんがい器用だよね、蛍ちゃんって。でも、エベレストとかの高い山に登る人はそういう事も出来ないとダメなんだって」

 

「そ、そうなんだ」

 

 急に縁もゆかりもないエベレストの話になって、蛍は困惑しながらも頑張って微笑んでみせた。

 

 それでも起き抜けだからかまだ頭がぼーっとしていた。

 

「まだ眠い? わたしが肩、貸してあげようか?」

 

 燐がちょこんと肩をくっつけて促してくる。

 

「い、いいよ。もう少し目を閉じていたらすぐにもどるから」

 

「そーぉ?」

 

 ちょっと残念そうに燐が肩をすくめる。

 そんな燐の横顔をみて軽く微笑みながら、蛍はもう少しだけ微睡むことにした。

 

(あれは、夢だったのかな……? ヒヒがまた目の前に現れて燐とわたしが対峙するっていう、あり得ない話……)

 

 夢うつつの中、蛍は追憶に身を委ねる。

 

 ”青いドアの家”。

 

 あの世界にまた行くことができてから何かが少しずつ変わってる気がする。

 

 それは何かの予兆なんだろうか?

 それとももう、何かが起きている?

 

 ともかく、非現実的な事柄が二人の身の回りで起きているのは紛れもない事実だった。

 

(やっぱり、あれなのかな、座敷童。それがまだ影響を及ぼしているのかな。もう殆ど力は残っていないって言ってたのに)

 

 目で見えないものだから分からないけど、そうとしか考えられない。

 

 歪みはまだ座敷童を中心にして残っている。

 そう言われても何らおかしくはない。

 

 むしろ腑に落ちるぐらいだった。

 

(座敷童っていえば燐は? 燐もやっぱり、わたしと同じ座敷童になっちゃうのかな)

 

 前に思わず燐にそう言ってしまったけど、いまいち自信が持てない。

 

(だって燐は”そういう血”ではないと思うし、その力だって……)

 

 そう断言できるだけの知識も力もない蛍では何の説得力もないのだが。

 

 ただ、燐自身はどう思っているんだろうとは思う。

 

 座敷童の定義だって、曖昧で未だに良く分からないことだし。

 超能力者とかエスパーとかの方が分かりやすく感じる。

 

 どっちも同じ意味な気もするけど。

 

(むしろ、ラッキーガールとかの方が良いのかもね。ちょっと軽すぎるけど)

 

 自分はともかく燐だったら似合う気がする。

 

 燐は明るいし、とっても優しいから。

 

「どうしたの蛍ちゃん。わたしがどうかした?」

 

 つい口に出てしまったのだろうか、燐が顔を覗き込んでいた。

 

「な、何でもないよ。またちょっと寝ちゃってただけ」

 

「ふぅーん」

 

 これは流石にバレてしまったのか、燐に疑わしい目を向けられてしまった。

 

「あ、えっと、ね、ねぇ、燐。さっき見た夢の話をしてもいい?」

 

「ふぇっ!? い、いいけどぉ」

 

 珍しく蛍が慌てて話しかけてくるので、燐は目を丸くしながらも、とりあえず頷いてみせた。

 

 蛍はとりあえず胸をほっと撫で下ろす。

 別にやましい想像をしていたわけじゃないのだが、何となく恥ずかしかったから。

 

「で、夢の話ってどんなの? わたしが見たような不思議な列車の話?」

 

 燐は前にそういう夢を電車の中で見たと言っていたけど、わたしのはそんな楽しい夢じゃない。

 

 現実と虚構をないまぜにしたような夢。

 

 むしろ悪夢に近かったから。

 

「えっと、そういうのじゃなくて……その、燐とわたしがもう一度あのヒヒに出会ってしまう夢、なんだけど……」

 

「??」

 

「い、いきなりこんな事言われてもにわかには信じられないよね。でも、夢の話だから」

 

 しどろもどろになって説明する蛍だったが、燐は首をかしげたまま膠着していた。

 

 やっぱり夢の話とはいえ、燐に話すべき内容ではなかったようだ。

 

(それはそうだよね。だって燐はあのヒヒを嫌悪……)

 

「夢じゃないよ」

 

「えっ!!??」

 

 蛍の目が点になる。

 

「あれは本当。現実の話」

 

 そう言い放つ燐を見て、蛍は口を開けたままになった。

 

「わたしも認めたくなかったけどさ、やっぱり現実なんだよね、アレも」

 

 燐は切なそうに顔を背けた。

 

 その言葉に蛍は自分の感覚がだんだんと現実味を帯びてくるのが分かった。

 

 やっぱりそうだった。

 

 燐と一緒にまたあの石碑の前に行き、そうしたら赤い水が周りに張ってて、そして大きな物音と共にヒヒが……!

 

「じゃ、じゃあどうしてわたし達ここにいるの? だってあのヒヒに襲われたのなら、もう」

 

 あの夜、ヒヒに襲われた時、わたし達を助けてくれたのはサトくんだから、きっと今回もサトくんが。

 

「もしかしてサトくんが?」

 

 蛍はつい勢い込んで”サトくん”と言ってしまった。

 

 蛍的にはあの犬は”シロ”で決定したのだったが。

 

 この際どっちでも良かった。

 今度も白い犬が助けてくれたのなら。

 

「サトくんは来なかったよ。最後まで、ね」

 

 蛍の楽観的な考えは、燐によって否定されてしまう。

 

 そんな燐も少し悲しそうな顔をしていた。

 

 来てほしかったんだろうと思う。

 燐はサトくんの事が好きだったし。

 

「じゃ、じゃあどうして?」

 

 どうやって助かったのか。

 ヒヒは獲物を定めたらしつこいぐらいに追いかけてくるはずなのに。

 

「さっきから気になってたんだけど、もしかして覚えていないの蛍ちゃん?」

 

「え? う、うん……」

 

 夢だとばかり思っていたからか、どうしても具体的なことが思い出せない。

 断片的な記憶がつぎつぎと蘇るぐらいで、一番核心的な部分が分からないままだった。

 

「り、燐」

 

 自分は病気なんだろうかと思ったのか、蛍はおずおずと燐に話しかける。

 

 もしかしたら変わってしまう前兆かもしれないと思ったが、まだその事は言えなかった。

 

「大丈夫だよ。わたしが全部話してあげるから」

 

 そう言って頭をぽんぽんと叩かれる。

 雨が降り、フードを被っているとはいえ、何となく暖かい気持ちになった。

 

「要するにどうやってわたし達がヒヒから逃れられたって話だよね?」

 

「うん」

 

 蛍は握りこぶしを作って力強く頷く。

 

 燐だって怖い事のはずなのにそれでも話してくれるみたいだから、一言だって聞き逃さないつもりだった。

 

「それはね……」

 

「うんうん」

 

「蛍ちゃんが助けてくれたんだよ」

 

「えっ、わたしが?」

 

 燐に言われて思わず自分を指さした。

 

 何をしたと言うのだろうか。

 こんな何の力もない自分があの狂暴なヒヒに対して。

 

「蛍ちゃんがヒントをくれたんだよ。”あれは違う”って」

 

「ヒント? わたしが??」

 

 絞り出すように頭を捻る蛍だったが、どうにも思い出せないようで、困惑したようすで顔を曇らせた。

 

 そんなヒント的なことを本当に言ったのだろうか、それも燐に対して。

 

「……本当に覚えてないみたいだね。じゃあちゃんと説明するとね……」

 

 どんなに雨に降られても、燐の声を聞き逃さない自信はあった。

 

 でも覚えていないのは何故なんだろう。

 

 さっきまで”ちゃんと覚えていたような気がした”のに。

 

 まるで、明晰夢のよう、だった。

 

 ズキン。

 

 頭の奥が急に痛みだした。

 それはすぐに収まったから、特には気にも留めなかったけど。

 

 蛍の心はざわついたままだった。

 

 

 ───

 ───

 ───

 

 

 ──”おわった”とそう思った。

 

 この巨体に睨まれたら誰だってそうなるだろうと思う。

 たとえどんな屈強な人物や獣、獰猛なクマだったりしても。

 

 ヒヒの風貌には畏怖しか覚えなかったから。

 

 服装だけは人間の真似をしているけど、腕や顔は獣のそれであり、あまりにもおぞましいい姿をしているからだった。

 

 だからこそ、その一片すら視界に入れたくはなかった……のだが。

 

(あれっ、なんで!?)

 

 燐は、初めて物を見た時みたいに目をぱちくりとさせた。

 

 目は赤く輝いているが、その顔は獣と言うよりも。

 

(なんだか小さく見えるような……?)

 

 ヒヒの顔をまともに見たくなかった蛍は、その手元にだけを見ていた。

 

(やっぱり、違う)

 

 手もまるで人間のように細長くなっている。

 

 服の隙間から見える体毛も薄く、これではあの巨大な鋸を振り回せるとはとても思えない。

 

 そもそもその鋸さえ持ってはいない。

 

 ヒヒの象徴ともいうべき巨大な刃の鋸を今は手に持っていなかった。

 

 どこかに置いてきたとも考えられるが、それにしたって無防備はヒヒを見るのは初めてだったから激しい違和感に襲われる。

 

 もっとも、とても持てそうにない体躯だったけど。

 まるで別人……いや、普通の人間みたいだった。

 

 自分の目を疑う様に何度も燐は目を擦る。

 

 しかしその姿に変わりはなかった。

 

 ヒヒの様な人影はゆっくり動いたと思うと、遠くを見ながら燐と蛍がいる方向に突然頭を下げた。

 

「ひぃっ……!」

 

 短く悲鳴を上げた蛍が燐の腕にぎゅっとしがみ付く。

 

 燐は声すら発することが出来ない。

 

 謝罪のつもりなんだろうか、少女たちは嫌悪感を露わにして、その様子を凍り付いたように眺めていた。

 

 どれぐらい経っただろう。

 

 ヒヒはしばらく首を垂れていたが、急に踵を返すように二人に背中を向けると、静かな足取りで向こうへと行ってしまった。

 

 その先にはあの赤い水を湛えた、白い石碑が立っている。

 ヒヒが迷うことなくそこに向かったことで、大体のことを理解することが出来た。

 

 けれど、二人は未だに凍り付いたまま。

 

 ただ、お互いの手を強く握りしめていた。

 

 ────

 ───

 ──

 

「じゃあ、偽物だったって事なの?」

 

 燐から事のあらましを聞いた蛍が出した答えはそれだった。

 

 燐は何とも困った顔で苦笑いする。

 

「うーん、偽物っていうか多分だけど、元になった人だったんじゃないかなぁ、ヒヒの」

 

「ヒヒって元は人間なの? あんな姿をしているのに?」

 

「それは何ともだねぇ」

 

 曖昧に笑って燐は肩をすくめた。

 

 結局その正体はようとして知れないということだろうか。

 何とも腑に落ちない結末だったみたいだが。

 

「じゃあ、あの足音みたいな地響きは? 地震ってわけでもないんでしょ」

 

 段々と思い出してきたのか、蛍もあの時の様子を語る様になった。

 

「それも何ともねぇ。雷が落ちたとかじゃ、ダメ?」

 

「ダメってことはないけど……やっぱり無理がある気がしない?」

 

「まぁ、ね」

 

 燐と蛍は顔を見合わせてため息をついた。

 

 あれだけの目に合っていながら、それがなんだったのか分からないなんて。

 

「でもさ」

 

「うん?」

 

「あの時の町の異変だって結局何も分からなかったじゃない。だから今回の事もそんなに気にしなくていいんじゃないかなって思ってるの。蛍ちゃんはどう?」

 

「うーん、わたしはあんまり記憶に残っていないみたいだから……でも、燐が良いならそれでいいよ」

 

「ありがとう蛍ちゃん」

 

「別に、お礼を言われることじゃないから」

 

 不条理な事なんて今に始まったことじゃないし、怖い目にあっても互いに無事ならそれで良かった。

 

 理由とか意味なんて、思ってるよりもそんなに重要な事じゃないし。

 そんな事に囚われるのなら、考えない方がマシなまであるから。

 

「実はね。わたし妖怪の仕業じゃないかって思ってるんだ」

 

「燐って、そんなに妖怪好きだったっけ?」

 

 また、とばかりに呆れたような声をあげる蛍に燐は手を振って反論した。

 

「いやいや、そうじゃなくて、だってさわたし達の考えの及ばない現象だったでしょ。だったら妖怪の仕業だったとしてもそんなにおかしくはないかなーって」

 

「理に適っているような、そうでもないような……」

 

 燐が力説する妖怪理論に蛍は首を何度も傾げた。

 

「それにさ、どんな妖怪か大体の想像がつくんだ」

 

 よほど地震があるのか、燐は手を腰に当ててそう言った。

 蛍は大きなため息をつく。

 

 でも、燐の話に乗るのは好きだから、その続きを促してみた。

 

「じゃあ、どんな妖怪の仕業なの?」

 

「わたしの推論だと見上げ入道じゃないかって思ってるの? 蛍ちゃんこの妖怪のこと知ってる?」

 

「聞いたことはあるけど……確か、体を大きくみせて人を驚かす妖怪、だったっけ」

 

「うん、大体当たりだね。でも結構人を殺しちゃう悪い妖怪みたいだよ」

 

「そうなんだ」

 

 悪くない妖怪とはどういうのを指すのか。

 座敷童なんかはその最たるものだろうけど。

 

 燐も蛍も妖怪なんて漫画での知識ぐらいしかないからその程度の認識でしかなかった。

 

「でもね、その正体は、キツネとかタヌキとか……あ、イタチなんかもあるみたいだね。とにかく動物が化けてるんだって。蛍ちゃんはどれだと思う」

 

「どれって……」

 

 どう答えればいいのか。

 それに、その理屈だと、二人は動物に化かされたことになってしまう。

 

 流石にそれは恥ずかしいというか、何とも馬鹿馬鹿しいというか。

 

「うーんと、その中だとキツネかな。もふもふしてそうで可愛い感じだし」

 

 三匹の中でももっとも無難なものを蛍は選んだ。

 

「キツネ可愛いよねぇ。ふわふわの尻尾とか、ピンと立った耳とかさ。それに、ごんぎつねとか、手袋を買いに出てくるキツネが健気でさ」

 

「あと、雪渡もそうだよね。そう考えるとキツネが出てくるお話って結構あるよね」

 

「”キツネ目”って言葉もあるぐらいだし、案外物語に登場させやすいのかもね。キツネって。あ、そういえば”土神ときつね”にも出てくるけど、あれは可哀そうだったね。嫉妬されて最後は殺されちゃうなんて」

 

「うん。みんなで仲良くすれば良いだけなのにね」

 

「ホントだよね。あ、そういえばさぁ……」

 

 二人の話は妖怪の話題から飛んで、お互いの知っている本の話に変わっていた。

 

 この間に雨がやんでくれれば完璧だと思っていたのだが、今日の天気はいつになく頑固なようで。

 

「やっぱり止まないね、雨」

 

「うん……」

 

 ぱらぱらと灰色の空から雨はいつまでも降り続いていた。

 

 流石にもう、この辺りの地面は赤くはないけれど、憂鬱な思いはむしろ増してきている気がした。

 

 ここからの下山に備えて、スティックバーなどの携行食でお昼をすませた二人は、止むことのない空を見てため息をついた。

 

「ちゃんと無事に降りれるのかな」

 

 黒い空を仰ぎ見ながら蛍が重重しく口を開く。

 

 零れる言葉は、空よりも黒く、自身の無さを表しているようだった。

 

 普通にこの山を降りるだけでも結構怖い気がするのに、こんな雨だなんて。

 

 それにさっきから風も出て来ていた。

 

 この分だと暴風雨になるのも時間の問題かもしれない。

 

 そこで雷でも落ちようもんならそれこそ、キツネの悪戯どころの騒ぎじゃなくなる。

 

 死と隣り合わせの状況がまさかこんな近所の山で起こるなんて。

 

 ワクワクしながら山に来たはずだったのに、と蛍が空を睨みつけたその時。

 

「えいっ」

 

 と声がして、蛍の視界が黒く閉ざされる。

 

 目を塞がれてる!? 

 そうすぐに思った。

 

 暖かく柔らかい手のひらの感触が目元を覆っていたから。

 

 誰が、何のために?

 

 なんて、そんな詮索すら意味を果たさない、だってすぐ近くから声がするし、それを出来るのはひとりしかいないのだから。

 

 耳元に掛かる柔らかい吐息交じりの声が耳朶をくすぐった。

 

「こーして視界を塞ぐとね、雨音がすごく良く聞こえるの。どう、何か感じない?」

 

「感じるって?」

 

 小雨ぐらいならいいけれど、こんなに土砂降りだとただ五月蠅いだけじゃないの?

 

 蛍はそう反論しようとしたが。

 

「いーからっ。黙って聞いてみて。雨の声を」

 

 良く知ってる少女がちょっと変わった事を呟いてきた。

 耳がくすぐったいけど、気持ちのいい声色で。

 

 ずっと聞いていたいほどの可愛らしい声だったから、わたしは素直にその声に従って耳を澄ませた。

 

(雨の声……か)

 

「………」

 

 じっと息を潜めて耳を澄ませる。

 

 ザーザーとノイズのような音に混じって、ぴちょん、ぴちょんと石に当たるわずかな飛沫の音がそれまで入らなかった耳に聞こえ出した。

 

 それだけではなく、緑の葉を打つ繊細な音や、木の枝に当たった時の小気味よい音なんかも聞こえるようになった。

 

 そして、鼻歌のようなものを楽しそうに歌っている吐息交じりの少女の声も。

 

「確かに……癒される感じがするね」

 

「周りの音がちょっとうるさいけど、慣れると何てことないでしょ。むしろ普通よりも良く聞こえるというか」

 

「くすっ、燐でもそういう情緒的なものを感じることがあるんだね」

 

「もー、わたしそこまでガサツじゃないんだからね。むしろ繊細っ」

 

「はいはい」

 

 ちゃんと蛍は同意してあげたというのに、燐は不満そうな声を耳元で漏らしていた。

 

「ね、蛍ちゃん、やっぱり怖い? わたしが蛍ちゃんをおぶって降りてもいいんだよ」

 

 柔らかい声色で、燐が提案してくれる。

 

 とっても優しい燐。

 だからこそ傷つきやすいんだろう。

 

 わたしはそんな燐に何をしてあげればいいんだろう。

 その事をいつも考えている。

 

 今だって。

 

「うん、ちょっとだけね。でも、大丈夫だから」

 

「本当に?」

 

 燐の吐息が耳に掛かる。

 このままだと耳に当たるんじゃないかと思うほどに燐の声が近づいているのが分かった。

 

 きっと意地悪されている、蛍はそう思った。

 

「ごめん、やっぱり怖いかも」

 

 蛍がそう告白すると、燐はくすっと笑って蛍の耳朶に息をふっと吐息をあてた。

 

「くすっ、そういうもんだよ。わたしだってやっぱり怖かったもん。でも今は大丈夫だよ。だって蛍ちゃんと一緒だから」

 

 朗らかな、本当に幸せそうな声。

 

 燐の声を聞いていると、本当に幸せな気持ちになる。

 蛍の胸の内に澄んだ青空がぱあっと広がっていくようなそんな清涼感を感じた。

 

「そっか。じゃあわたしも大丈夫だよね。燐と一緒だから、ね」

 

「もー、わたしの真似しなくてもいいのに」

 

「別に、燐の真似してるわけじゃないよ」

 

 そう、わたしには燐の真似はできない。

 いくら頑張ってみたところで燐には絶対になれなかったから。

 

 わたしはわたしのままで良いんだって思った。

 

 何の取り柄もないけれど、燐が好きなままのわたしで。

 

「ねぇ、燐。そろそろ目隠しを外してくれない? もう十分休んだから」

 

 燐の掌の温もりはとても安心するけれど、ずっと真っ暗なのはやっぱりちょっと怖い。

 

 何より。暗い世界にひとりぼっちで投げされたみたいだったから。

 燐もいない暗闇の世界で。

 

 それが怖かった。

 

「そうだね。早く下山してお風呂入りたいしね」

 

「あ、わたしも。さっきから体べとべとですごく不快なんだよね。昨日も入ってないから匂いが気になってたんだよね」

 

「え、蛍ちゃんいい匂いするよ? わたしの好きな匂い」

 

 そう言って燐は蛍の首元に鼻を寄せる。

 思ってもみなかった燐の行動に大人しい蛍にしては珍しく声を荒げて抗議した。

 

「燐、なんでわたしの匂いを嗅ぐの。すごく気にしてるって言ったよね」

 

「ごめんごめん。だったら早く下山して体、洗わないとね。あ、そうだ蛍ちゃん。良いこと教えてあげる」

 

 本気で嫌がっている素振りの蛍に、燐は誤魔化し笑いを浮かべながら謝った。

 

「ん? なぁに燐」

 

「あのね。目隠しを外すと蛍ちゃんの一番見たかったものが目の前にあるからね。ちゃんと見ててねー」

 

「うん。分かったよ」

 

 燐の企みがすぐに分かった蛍はとりあえず頷いてみせる。

 

 でも。

 

「じゃあ、外すよ……って、蛍ちゃん!? 何でわたしの手を掴んでる、の」

 

「あ、ごめん。ちょっと気になったものだったから」

 

「? まあ、いいけどね。あ、そうだ手を外した後もまだちょっとだけ目を閉じたままにして欲しいなぁ。ちゃんと合図するからその時に目を開けてね」

   

「分かった。それじゃあ燐、外して」

 

 蛍がそう言うと燐は蛍の目を覆っていた両手を外した。

 

 やけに注文が多いなぁと思いつつも蛍には燐の考えが読めていたので言う通りに暫く目を閉じていた。

 

「……」

 

 光の粒のようなものが蛍の瞼の裏側に不規則な模様を描いている。

 

 蛍は目を閉じたまま、さっきのようにじっと耳をすませた。

 燐の手に包まれていないから何だかちょっと寂しい気もするけど。

 

(なんだか、小さい頃やってた遊びみたい)

 

 確か、幼少期の頃だったか。

 

 鬼になった子の周りをみんなが手を繋いで囲み、最後に鬼の後ろにいる子を当てる、懐かしい遊びを思い出した。

 

(歌が終わった時に、後ろにいる子の名前を当てるんだよね。わたし結構好きだったなぁ)

 

 蛍は意外にもその遊びが得意だった。

 

 鬼になった子が一方的にならないように、周りの子がヒントのようなものを言う事があるのだが、蛍はそれがなくとも後ろにいる子を当てることができた。

 

 あまりにも完璧に当ててしまうので気味悪がれてしまったが、しばらくするとその遊びは流行りではなくなり、周りでは誰もやらなくなってしまった。

 

 もっと体を使う遊びや、テレビゲーム等の面白い遊びに子供の関心が行ってしまうのはある意味仕方がない事だった。

 

 それに蛍が正確に当ててしまうのは記憶力だけではなく、実は耳が良かったからだった。

 

 耳が良く聞くから、僅かな足音の違いやひそひそ声などでその人を知る事ができた。

 

 本人は至って普通の事だと思っているようではあるが。

 

 雨音に混じって、ぱしゃと水が大きく撥ねる音を蛍は聞き逃さなかった。

 

(ほらね、やっぱり)

 

 きっと燐が目の前で変な顔でにこにことしているんだろう。

 わたしはそれを見て、また噴き出してしまうに違いない。

 

 想像しただけでもう噴き出しそうになりそうだったが。

 

 燐はいつでもわたしを楽しませてくれる。

 わたしはそんな燐が好き。

 

 ──誰よりも好きだから。

 

 だからわたしは燐に微笑むんだ。

 

 いつものように。

 本当の笑顔で。

 

 本当は燐に何もかも差し出してあげたい。

 

 家もお金も……身も心だって。

 

 でもそれだときっと重すぎるから。

 迷惑するだろうから。

 

 だからせめて笑顔や言葉で思いを伝えてあげたい。

 

 だって、わたしの幸せはやっぱり、燐。

 

 あなたなのだから。

 

「もう、いいよ~」

 

 偶然にも幼い頃やった遊びのような言い方を燐がするものだから、蛍はとうとう我慢しきれずに噴き出していた。

 

 燐ともっと早くから出会うことがあればきっとこうやって一緒に遊んでいたと思う。

 燐ならきっとどんな遊びにも付き合ってくれるだろう。

 

 けれど、それは今からでも遅くはない。

 

 こうして山に一緒に来れて、キャンプして一夜を明かして、一緒に下山する。

 

 燐にしてみたらなんてことないことだろうけど、わたしにとってはとてもすごい冒険。

 

 あんまり認めたくはないけど、きっとあの三日間がちょっとわたしを変えたんだと思う。

 

 恐怖も喪失感も確かにあった。

 虚しさも絶望も。

 

 でも、それもいい意味での経験だったと思う様になってきてる。

 

 きっと今が幸せだから。

 

 多少の困難が起こっても燐と一緒なら頑張っていける。

 

 そう、燐と一緒なら。

 

 ──あ。

 

 すっかり忘れていた。

 

 真っ暗な視界の中、薄ぼんやりとした視界の中に人の姿が浮かびあがる。

 

 やっぱり燐だ。

 きっとちょっと変な顔で微笑んでるに違いない。

 

 その微笑みを現実のものにするためにわたしはゆっくりと瞼を開いた。

 

「あうっ……!」

 

 結構な間、視界を塞がれていたから急に眩しく感じる。

 今日は太陽は出ていないはずなのに。

 

 慣れるまで何度も瞬きを繰り返す。

 

 まるで”青いドアの家の世界”にいる時みたいだった。

 

(青いドアの、世界!? まさか!)

 

 蛍は思い切って目を見開いた。

 

 ……

 ………

 

 空はどんよりとして灰色の雨を降らしている。

 

 何も変わっていない。

 

 雨煙に曇る景色も、雨が降り続いていることも全て。

 

 青いドアの家に行くこともなかった。

 

 だからかちょっとほっとした。

 

 でも、目の前には誰もいない。

 

 ”もう、いいよ”と声を掛けてくれた燐がいなかった。

 

 雨はざーざーと降り続いている。

 

 蛍は目の前が真っ暗になりそうで、思わず手で顔を覆った。

 

 その場で崩れ落ちそうになった、その体を支える細い手。

 

 蛍はハッとなって覆っていた顔を上げる。

 

 そこには。

 

「後ろの正面だーれだ」

 

 ちょっと申し訳そうな顔の燐がいた。

 

「燐っ!!」

 

「わっ!!」

 

 燐の胸に飛び込んだ蛍は、ぎゅっと抱きしめる。

 

 暖かい、本物の感触。

 恥ずかしいなんて、匂いなんてもうどうでもいい。

 

 この温もりを絶対に離したくはなかった。

 

「もう、蛍ちゃん危ないよ。倒れちゃったらどうするのぉ」

 

 顔を赤くしながら

 

「それはないよ。だって燐なら受け止めてくれると思ったし、それに、この遊びはわたし得意なんだから」

 

 微笑む蛍を燐はぎゅっと抱きしめる。

 そしてちょっと首を上げて空を仰ぎ見た。

 

 空はずっと灰色で、冷たい雨を降らしている。

 

 でも、暖かい。

 

 彼女の涙が、心がとても暖かった。

 

 心の奥にランプの火が灯ったみたいにあったかい。

 わたしはそれを守らなくちゃならないんだ。

 

 その火が燃え続ける限りずっと。

 

「ごめんね、蛍ちゃん。もうどこにも行ったりしないから」

 

「……うん、約束だからね」

 

 蛍はそう言ってにこっと笑った。

 

 互いの体を掻き抱き合いながら、二人は雨が気にならないほど暖かいものを感じ合っていた。

 

 しばらくそうしていたが、やがてゆっくりと離れる。

 

 燐は改めて蛍に頭を下げる。

 

 蛍も頭を下げた。

 

 二人は頭を下げ続けていたが、やがて目が合うと顔を見合わせて微笑んだ。

 そして手を取り合うと、足元を気にしながらも山を降りる。

 

 天気は悪くて山のコンディションは最悪だけど。

 

 きっと大丈夫だと思った。

 

 ──

 ───

 ────

 

「ねぇ、燐、ちょっといいかな」

 

 麓まで後もうちょっとと言うところで、蛍は前を行く燐に声を掛ける。

 

「なぁに、蛍ちゃん」

 

 ここまでくれば後は緩やかな道を下るだけだったので、すっかり安心した燐は蛍の方を振り返った。

 

「ここまで来たらもうすぐ麓でしょ。ここからは一緒に行かない? 山頂の時みたいに燐と一緒に到着したいなって思って」

 

 そう言って蛍は手を差し出した。

 

「うん、いいよ。一緒に行こう。ここまでくれば後ちょっとだしね」

 

 燐は蛍の手を取ってニコッと微笑んだ。

 蛍もまたそんな燐に笑みを見せる。

 

 ここまでこれたのだから、後は歩きやすい山道をくだるだけ。

 心配どころはもう何もなかったから。

 

 二人は手を繋ぎながら、麓までの一本道を下る。

 

「思ってたよりも湿ってないね、この辺。雨、降ってなかったのかな」

 

 蛍の言う様に、地面はさらっとして渇いているようだった。

 

 どうやら雨が降っていたのは山頂付近の上の方だけだったみたいで、周りの木々にも雨露のあとは残っていない。

 

 いつの間にか雨ももうすっかり上がっていた。

 

 二人はフードを脱ぐと、軽く髪を整えて山道を歩きだす。

 

 山道の周りの森はとても静かで、あの日の緑のトンネルを思わせた。

 

 下草に埋もれた古い線路は無いが、それでもどこか似ていた。

 

 もう辿り着けないあの場所に。

 

 暗い森を手を繋いで歩く。

 

 しばらく進むと、虫の鳴き声や鳥の声が聞こえ出して、森の中が急に活気出した。

 

 ようやく帰ってきたと思った。

 知っている世界に。

 

「もうすぐ、終わっちゃうんだね」

 

 すごく長い時間山にいた気がする。

 流石にもうへとへとだが、それも終わりかと思うと急に感慨深くなる。

 

 もしかしたらもう少し行けるのではないかと錯覚してしまうほどに。

 

「うん。でも蛍ちゃんがこんなに頑張るとは思わなかったよ。これならどこの山でも登れると思うよ。もちろん誇張抜きで」

 

 体力がないと嘆いていた蛍がこんなに逞しくなるとは思ってもなかった。

 そんな蛍を燐は親友として誇りに感じていた。

 

 ──やっぱり友達で良かった、と。

 

 大人しいそうに見えて、実は頑張り屋。

 

 そういう蛍みたいな子の方がアウトドアに向いているのだと思っていた。

 

 聡もそうであったから。

 きっと蛍だって。

 

「そう、かな。自分じゃ自覚ないけど、燐がそう言うのなら」

 

 燐はおだてるのが上手いなぁと思った。

 

 だって燐に言われるとどんなことでもやれるんじゃいかって思えてしまうから。

 

「蛍ちゃん、あそこ。登山口だよ!」

 

 燐が笑顔で指さした先にこの山の唯一の出入り口である登山口が見えた。

 

 その先にはアスファルトも見える。

 車通りの少ない田舎だから、まだ車の影は見えないけど。

 

 急に現実が近くなった。

 

「じゃあ、いっせーの、で越えようか?」

 

「うん。二人一緒にね」

 

 燐と蛍は手を強く握りあった。

 

 大切な人の手。

 想いを込めるようにぎゅっと握った。

 

「じゃあ行くよっ! いっせーのっ!」

 

「せっ!!」

 

 スタッ、と二人は同時に地面に足をついた。

 

「やったね、蛍ちゃん! ちゃんと戻ってこれたねっ!」

 

「燐のおかげだよ! すごく感謝してる!」

 

「蛍ちゃんが頑張ったからだってぇー」

 

 二人は手を取り合いながら、誰もいない登山口の前ではしゃぎまわった。

 

 いつの間にか携帯の電波も回復していたので、燐は早速母親に連絡を取った。

 

 見覚えのある、濃紺と白のツートーンカラーの軽自動車が登山口までにやってきたとき、開口一番、燐は迎えに来た母の咲良に怒られてしまった。

 

 ”連絡つかなったから、すっごく心配したっ!”と。

 

 燐は電波が悪かったことを言い訳にしたが、それでも納得がいかないのか、咲良は燐にしばらく実家のパン屋の手伝いをすることを強要した。

 

 もちろん燐は猛反対したのだが。

 

「わたしも一緒にやるから、ね」

 

 そう蛍が言ったので燐は嫌々ながらも納得するしかなかった。

 

 

「部活して、パンも焼いて……わたし、受験勉強もあるんだから、そんなのいっぺんにできるわけないよぉ~」

 

 ”ノクちゃん”(燐の名付けた軽自動車の名前)の中で燐は母親にそうぼやいていた。

 

 確かに大変だと思うが、燐にならきっと全て完璧にできる気がする。

 忙しくしている時の燐は誰よりもキラキラとしていて輝いているから。

 

 燐の能力ならそれぐらい何てことないだろう。

 

 わたしは……燐を手伝う前に数日間は筋肉痛で苦しむだろうから、明日からはちょっと憂鬱気持ちで過ごすことになりそうだった。

 

 でも、悪くない痛みだと思うから。

 燐がまたマッサージしてくれるだろうし。

 

 そのせいで燐の仕事(タスク)が増えてしまうけど、それはそれで。

 

 そしたら今度はわたしが燐を癒してあげればいい。

 

 わたしは彼女の理解者でいるだけで十分役割を感じられるから。

 

 そういえば、結局、宝もなにも見つからなかったけど。

 

 これで良かったんだ。

 

 だって大切なものはもう。

 既に手に入れていたんだから。

 

 ………

 ………

 

 結局、今日は二人ともマンションには戻らずにお互いの家で寝ることにした。

 

 燐はパン屋さんである実家に。

 蛍は、蛍の家で。

 

 せっかくだからと、蛍のことを咲良は誘ったのだが、流石にそれは思慮がなさすぎると思い、蛍は遠慮することにした。

 

 最近はマンションばかりであまり家には帰ってないみたいだったし、やっぱり家族で一緒にさせてあげたいと思った。

 

 それが普通の家庭だから。

 

 蛍は、久しぶりに自分の家のベッドで寝ることになった。

 

 家の片づけをしに戻っても、寝るのはもっぱら燐の家で一緒に寝るか、蛍名義のマンションの一室だったから

 

 人気のない、暗い部屋で一人きり。

 物音すらしない。

 

 ずっと何年も、生まれた時からそうやってきたはずなのに、何故か今はすごく寂しい気持ちになった。

 

 寂しかった、一人でいることが。

 

 もう何もない部屋に。

 

 もう何もないこの家に。

 

 一人きりでいることが、たまらなく寂しい。

 

 暗くて冷たくて、哀しい場所(いえ)だった。

 

 これならまだ、マンションの方がマシなぐらい。

 あそこには燐の温もりがまだ残っていそうだから。

 

「燐……」

 

 暗がりの中、天井を見上げなら蛍は一人呟く。

 

 蛍の家からでは燐の家は見えない。

 

 でも、遠くに見える小さな家の明かりに、その姿を想像することが出来る。

 

 燐と母の咲良が、食卓を囲んでちょっと言い合い気味に談笑している。

 喧嘩しているようで、実は仲のいい母子の姿を。

 

「良かったね燐。お母さんと仲直りして」

 

 それを想像して蛍は微笑んだ。

 

 ずっと出なかった言葉。

 すぐにでも燐に掛けたかった言葉だった。

 

 蛍は目を閉じる。

 

 一人きりの夜でも燐の事を思うだけで、暖かい気持ちになる。

 

 それだけで、わたしは幸せ。

 

 しあわせなんだ。

 

 ………

 ……

 …

 

 雨が上がったことを証明するかのように、白い月が夜に浮かんでいた。

 

 月は海を照らし、山々を照らし出す。

 

 恵みとは違う癒しの光で地上を照らしていた。

 

 山間のすり鉢状に広がる小さな町。

 その中の一際大きな家。

 

 高い位置にある大きな家を月が照らし出す。 

 

 月明りが家の中に入り込む。

 

 けれども、どの部屋も空っぽであり、人の、生き物の気配はなかった。

 

 月光は二階の窓からも入り込んた。

 

 その中の一室の角の部屋。

 机の置いてある小さな部屋を照らし出した。

 

 空っぽの部屋の中には、空っぽのベッドがあるだけ。

 

 それだけだった。

 

 

 ────

 ───

 ── 

 

 




   ⌖꙳✧˖°⌖꙳✧˖° 青い空のカミュ 三周年おめでとうございます!!! ⌖꙳✧˖°⌖꙳✧˖°


2019年、ぎりぎり平成の時に発売された”青い空のカミュ”も今日で発売から三周年ですね~!! おめでとうございます!

……って! また一日遅れになってしまったぁぁ。青カミュファンとして恥ずかしいー! でも、もしかしたら青い空のカミュは3月30日発売なのでは!? うん、そういう事にしておこう。これ、決定ね☆

……すみません。やっぱり3月29日発売で間違ってないです、ごめんなさい!!!

それにしても三年連続遅刻とは不甲斐ないなぁ……。うう、来年こそは、来年こそは必ずっ!!! って来年は流石にどうかなぁ。

去年も三周年記念で何か書ければいいなぁって書いた気がするんですけど、実はこの拙作、あと数回で終わりにするつもりだったんですよねーーー。
どうしてこう(まだ続きを書いて)いるのかなー? まあ、ズルズルと長引かせてしまうのは私の悪い癖だから仕方ないんですよね。往生際が悪いと言うか……落としどころが分からないと言いますか。
まあ、楽しいから書いているわけで決して嫌々書いているわけではない……と思ってます。


で、今回で青い空のカミュの発売をお祝いするのも三回目となるのですが、三年経って思うことは、やっぱり好きなゲームということですね。流石に三年も経って続編もないゲームですから、普通は飽きてしまうだろうと思ってはいます。
ですが、私の中では未だに現役の美少女ゲームなんですねー。ゲームプレイももちろんほぼ毎日しております。

AVG形式の美少女ゲームにやり込みなんてものはないのですが、好きなんだから仕方ないですねー。そのおかげでこうして小説みたいなものを書くことが出来ているのですから、それはそれで意味のあったことだと思っております。

に、してもぉ……三年たってもこうやってお祝い用の文を書いている時が一番恥ずかしい気がしますね。まあ基本、拙文ですから仕方ないんですけど。
何書いたらいいのか分からなくなると言いますか、小説を書いている時の方がずっと楽な気がするほどです。

好きすぎる故の苦悩? なのかな?? よく分からないですが。

それにしても、去年から今年にかけても色々ありましたねぇ。大小さまざま事がおきましたけど、何とか平穏無事にーーとはまだいかないみたいです。
世界はより混乱を極めてますように思えますし。コロナ禍も中々落ち着かないようですし。

それでも青い空のカミュという作品が好きでいられるし、こうして拙作ながらも何とか小説を続けているということはやっぱり良いことだと思ってます。ただ、ペースがやる気に追いつかないみたいで、どんどんと更新頻度が落ちてますけどももも。

あ、そういえば今年はまだどこにもお参りに行ってなかったので、埼玉県にある多聞院毘沙門堂でお参りしてきました。

お目当ては虎のおみくじ……ではなく、”身代わり虎”と言う小さな陶器の置物です。手のひらサイズで振ると中が鈴のようになっていてチリチリと、可愛らしい音を奏でます。しかも300円! YASUI!!!
でも、本来は奉納するためものみたいで、境内にはいたるところにこの虎の置物が置いてありましたよー。
お持ち帰りしてもいいようなのでわたしはお持ち帰りしましたが。ただ、この多聞院と言うところ、ネットで調べて行ったのですが、思っていたよりもこじんまりとした所で、ちょっとだけびっくりでした。
今年は寅年でもあるので、この虎で何かご利益があるといいなあなんて思ってます。

それではではではーー。

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