We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life. 作:Towelie
8月に入り、暑さはより明確さをもって夏であること実感させた。
五月蠅く鳴く虫の声に蝉の声が顕著に混ざり合って、田舎の夏を鮮やかに彩る。
白く
朝日を浴びながら時間を気にせず自分のペースで歩く。
運動嫌いな蛍とは思えない程、健康的な夏休みの過ごし方だった。
兼ねてから気にしていた体力のなさを克服するにも良いことで、メリットばかりだった。
普通と少し違うのはウォーキング用の軽めのシューズを履いているわけでなく、むしろ真逆のごつごつとした重いトレッキングシューズを履いて歩いていること。
あの日アウトドアショップで半分やけ気味になって買ったグリーンカラーのトレッキングシューズ。
本当は燐と同じものが欲しかったのだが、あれは限定品だったらしく、この店では取り扱っていなかった。
妥協してそこそこ
(間違ってはないんだけど。言い方ってあるよねぇ?)
初めのころは本当に億劫で、蛍はそれこそ三日坊主かもと弱音を吐いていた。
だが一日、二日と続けてみると意外と歩けることが分かって面白くなり、むしろ朝歩くようになったおかげで調子が良くなってきたみたいだった。
ご飯も美味しく食べられるし、お通じも良くなった気がする。
それに別の楽しみも出来た。
それはあの”三日間”燐と共に逃げ回った道筋を辿る楽しみがあった。
あの時は二人とも逃げるのに必死で思うがままに駆けずりまわっていたけれど、改めて道筋を辿ると意外な発見もあった。
地図アプリに燐と一緒に行った場所に印をつけてみて良くわかった。
小平口駅から山道、けもの道と、道伝いにずっと右回りで逃げていたことだった。
そのせいかどうかはわからないけど、あの言い知れぬ違和感の正体はこれだったのかといまさら思う様になった。
だからと言って何かどうかというわけでもないけれど。
今日もいつものように吊り橋を渡って駅の方までの山道を歩くルートを選んだ。
ライトブルーのシアー感のあるキャミソールワンピースに、足首までのスパッツというラフなスタイル。
無骨なトレッキングシューズとは以外にも相性が良かった。
「蛍ちゃんは少し変わったセンスしてるよね」
休みの間に、一緒に遊んでいた友達グループの子に言われたことを思い出す。
どう少しなのかは自分では分からないが、それは単に話の取っ掛かりにしたかっただけなのだろう。
クレープを片手に微笑みながらの言葉に悪意は感じられなかったから。
蛍は雑誌やスマホを片手に自分なりの新しいセンスを試してみてはため息をついていた。
結局自分らしいというかぎりぎり年相応の少女趣味の格好に落ち着いてしまった。
でもそれこそが蛍だと言ってくれた人もいた。
(燐はお人形みたいで可愛いって言ってくれてたけど、あれってお世辞だったのかな?)
蛍は歩きながら首をひねるが、まんざらでもない顔をしていた。
蛍は通学の時の坂を下って大通りを抜けるルートより、多少遠回りの吊り橋ルートの方を朝の散歩道としていた。
木々の香りと木漏れ日が降り注ぎ、小鳥のさえずりと虫の声が間近に聞こえるこちらの道を蛍は好んだ。
こちらのルートの方がアウトドアシューズの具合を確かめるのに最適だったし、朝露のしっとりとした空気と草花や木々の息吹に囲まれながらの散歩はこの上なく気持ちよかったから。
とん、とん、とん。
吊り橋に掛けられた長く乾いた木の板を普通の道のように何気なく渡る。
あの時の夜、燐と一緒に全力疾走して渡った吊り橋、背後から不気味な手が追いかけてくるかと思うと今でも少し怖くなる。
でもあれは夜のせいもあったのかもしれない、今日のような天気のいい朝は開放的で気持ちが良い。
橋の下を流れる水の音と吹き上げてくる風がとても心地よく、朝からとても良い気分になる。
考えてみたら家のすぐ近くに吊り橋があることってすごく貴重で贅沢なことではないだろうか。
今まであまり使わなかったことが勿体無いぐらいに今はこの吊り橋が気に入っていた。
吊り橋を抜けて雑木林に囲まれた林道を下ると、細い流れの小川と並行する道に出る。
駅へと続く道のりは天然のアスレチックロードのようであり、靴の慣らしにはちょうど良い。
それに足首が固定されるトレッキングシューズはこういったちょっとした山道では適材適所だった。
大地をしっかりと踏みしめる感触が気持ちいい。
木々の間から降る木漏れ日が暑さを和らげてくれて森に守られてるカンジがする。
軽く口ずさみながらテンポよく歩いていく、以前と比べると大分余裕が出てきたことがわかる。
ぬかるんだ道も背の高い藪も何度も通っているせいか、以前ほど気にならなくなった。
このままだと駅の裏側に出てしまうので、ちょっと遠回りする。
小平口駅の白いプラットフォームが雑木林の隙間からコマ送りのように段々に見える。
何もかもが嘘のように普通の光景だった。
ぐるっと回ってロータリー側に出ると、工事車両や建築会社の車が片方の車線を塞いで行列しているかのように整然と停まっていた。
ここ最近では珍しくない光景だった。
ほんの少しの間に小平口町は開拓したてのように家や店舗を急激に増やしていった。
特に駅前は開発が激しく、ロータリーを囲むように結構な商店街となっていた。
それでもまだトラックや他県ナンバーの車が停まっている所をみると、かなり大規模な町おこし事業のようであった。
駅前の特徴的な電話ボックス近くにある
今の蛍はそれほど関心はなかった。
しかし、標語の下に書かれているマスコットキャラ、これを初めて見た時は流石の蛍も驚愕せざるを得なかった。
地域活性化の為に作り出された
誰のアイデアかは知らないが、偶然にしては出来過ぎてる気がする。
黒髪のおかっぱ頭に赤い着物を着た女の子、それはまさしく座敷わらし、つまりは”オオモト様”を彷彿とさせた。
(さすがに偶然だよね……? でも、名前はともかく格好もまんまなんだよね)
そもそも座敷童なんて大体こんな格好をしているだろうけど、わざわざ手毬まで用意してあるし、何より名前が似すぎている。
初めて知ったときは、他にもあの三日間の記憶が残っている人がいるかもと期待していた。
だが、そんなことは無いだろうとも思っていた、冷静に考えるとあの時のことをまともに覚えているものなどいるはずがないのだ。
蛍と燐、そして当事者である
この町の住人である吉村さんも、あの大川さんでさえも何も覚えていなかったのだから。
他に該当するものなどいないはずである。
──まさか
ちなみに座敷わらしのコドモ様は着ぐるみも製作中であり、ニュータウンとしての工事が終わった記念の式典でお披露目するようだった。
そういう意味では”まともな”プロジェクトらしい。
傍目には分かり辛いが、一部の人間はこれが小平口町の存亡をかけたものであることを知っていたので割と本気で取り組んでいたのだ。
それにしても。
(燐がこれを見たら、きっと大笑いしちゃうね)
燐の心底可笑しそうに笑うのを想像して蛍もくすくすと小さく笑った。
妄想だけでもこんなに笑えるのだからこの場に燐がいればもっと楽しいはずなのに。
最近の蛍は燐を身近に感じるようになったのか、時折隣を見る癖がついてしまっていた。
日が経つにつれ少しづつ状況に慣れていくかと思ったけどそれはむしろ逆であった。
日を追うごとに燐への想いが強くなっていく。
その想いが胸中から込み上げてくると蛍は電気もつけず真っ暗な部屋で一人閉じこもっていた。
どこを見るでもない、視線は宙を彷徨い虚空を眺めていたと思えば、ベッドや押し入れに目を向けると悲しくなって顔を伏せる。
蛍の唯一の拠りどころが蛍をもっとも苦しめていた。
自室には燐との思い出がとても多かったから。
重要なことも他愛のないことも一緒に話し合ったベッドも、穴熊のように二人で身を寄せた天井裏も、全ては瞼の裏の出来事のように何の残影も残っていなかった。
蛍は失ったものに対して夜泣きすることもあった、その度に蛍は自分の心を慰めるあまり、自ら引っ掻き傷をつけてしまっていた。
燐のように何度も少しづつ。
それは蛍の心と体に消えない傷跡を残してしまっていた。
蛍は手首を後ろ手で隠すようにして家へ戻って行った。
その後姿を見送る者はいなかった、みんな自分のことで忙しかったから。
小平口町の住人は前を向いて新しい街の発展に取り組んでいた。
蛍だけはただ一人後ろを向いて過去に縋っていた。
蛍は変わりつつある町の様子を遠くから見る事しか出来なかった。
彼らと蛍には決定的な溝があったから。
変わった者と取り残された者。
どちらが正しいとかという訳ではない。
ただ進むべき方向が違うだけ。
蛍は帰る道すがら空を見上げた。
朝から早くも入道雲が広がり始めて、蛍の頭上に青い影を落とす。
山肌を縫うように陽の光が登り始めると、緑の絨毯を金色に染めていた。
道の両側に広がる茶畑では農家の人が朝早くからお茶の摘採に精を出していた。
今日も朝から暑くなりそうだった。
ちゃぷん。
水気をはじく音が浴室に木霊する。
「ふぅ……」
少しぬるめのお湯に浸かり、蛍は小さくため息をついた。
ほんの少しだけ暑さも和らいでくると、設定温度を少し上げてみたくなる。
夏の終わりが近づいてきていた。
「大丈夫かな……?」
湯船に肩を沈めながら浴槽の縁を軽く撫でる。
ヒノキのすべすべとした触り心地を楽しむ、その様子は少し名残惜しそうにも見えた。
何度か決心を鈍らせてしまったが、もう今日をおいて他にはない。
おあつらえ向けに満月であるこの日を逃すわけにはいなかった。
だからこそ念入りに体も髪も洗っておいた、出来るだけ綺麗な体で会いたかったから。
(これが最後かも? ……出来れば燐と一緒にお風呂入りたかったな)
あの時はプールで済ませてしまったけれど、一緒に湯船に浸かりたかった。
燐はうちのお風呂すごく気に入ってくれていたから。
普通の家庭よりも少し大きな浴槽、少女が二人入ってもまだ余裕があった。
いつもなら長湯するところだが今日は控えめにして上がる。
大きな姿見に蛍の裸体が映り込んだ。
少女のあどけない顔立ちに大人の身体つきのアンバランスがとても美しい。
だが、その表情は磨きこまれた鏡と違って、切なく曇ったままだった。
(プールの時、燐は褒めてくれたんだよね。わたしのこと……綺麗だって)
蛍は胸の内で反芻する。
暖かく柔らかい燐の言葉、今でもほんの数分前のように思い出すことが出来る。
両手をぎゅっと握り合わせた。
蛍は裸のまま、鏡の前の自分に問いかける。
「わたしに出来るかな? 大丈夫、その為に準備してきたんだし。それに、”出来るか”じゃなくて”やる気があるか?”だね」
複雑な表情で微笑む
鏡に映ったその美しい表情はその心を表わすように透明で澄み切っていた。
あの夜の三日間。
それは鏡に映ったもう一つの世界ではないのか、だからこそ今、普通の世界になっている。
そう考えたこともあった。
理屈があってるかどうかなんて関係なく、ただ事実がそうであっただけ。
オオモト様が言っていたあちらの世界とこちらの世界。
あれは二枚合わせの鏡のように並行したものだったのではないか。
だったら燐はそれこそアリスのように向こうの世界に囚われたまま、そういう解釈も出来る。
かんぺきなせかい……そこは向こうの事? それともまたさらに別の世界のこと?
(分からないからこそ確かめないとね)
脱衣所で立ち尽くしても特に意味はない、ただまだ体が熱く火照っていた。
髪を乾かして下着を付けるとその恰好のまま冷蔵庫からミネラルウォーターを取って、自室にあがる。
ハウスキーパーの吉村さんは既に帰った後で、この家にはもう蛍一人しかいなかった。
用意しておいた新品のベージュのベースレイヤーを着て、その上に学校の制服を着る。
風呂上りなので何か熱くて不快感を覚えるが、多分なんとかなるだろう。
蛍はもってきたペットボトルの蓋を外して少しだけ口に入れた。
半分程のみ終わったところでキャップを閉める。
残りはバッグに詰め込んだ。
蛍はベッドの脇の荷物を一度チェックする、忘れ物はないだろうか。
うん、大丈夫みたいだ。
──備えよ常に。
(あのゴドーとか言うDJがそんなこと言ってたね。ボーイスカウトがどうこうのって)
自らをゴドーと名乗っていた狂った世界のラジオDJ、彼の正体は何だったのだろう?
そして何故彼は”最後”にあんなことを言ったのだろうか?
町は何の被害も受けていなかったのに。
その真意を聞きたくて、蛍は家にあったラジオやスマホのラジオアプリも使ってチューニングを試みてみたが、もう二度とあのラジオに繋がることはなかった。
彼は何を蛍と燐に伝えたかったのか、それはもう分からないことだった。
「心構えって言ってたよね。うん、それは大丈夫。やり残したことはないから」
必要なものは全てバックに詰めこんである。
もう心残りはない。
──そう、やるべきことは全てやったのだ。
蛍はバックパックの重さを確かめながら、あの時のことを思い返していた。
休みの間の日中、蛍は燐と一緒に小平口町を逃げ回った場所を一か所づつ丁寧に見て回っていた。
駅周辺の道や吊り橋は当然として、二人で飲料を買った自販機にもいったし、こっそり忍び込んだ中学校にも普通に正面から入った。
図書室は休みの間も一般に開放してあった、教室は流石に無理だったが。
素敵な思い出のプールは……休みの間は学生が利用してるようだった。
あのくたびれたようなバス停にも行ってみたが、何も変わったところはない、普通にバスも走っていた。
山の上の白い風車や、県境へと続く峠は、歩いていくにはちょっと遠かったのでまだ止めておいた。
(県境にはバスを使えば行けそうだけどね)
今までの最長記録は開けた林の中にあった工事現場のプレハブ小屋まで行けたことだ。
あのプレハブ小屋はまだ残っていて、まだ使用もされているみたいだった。
どうやらあの場所からもう一基の風車を山の上まで運ぶ作業があるらしく、木々は更に伐採されていて、風車への新たな道はかなりのところまで出来ているようだった。
そのまま風車までは結構な距離がありそうなのでその時は行かなかった。
その代わり廃墟と化した保養所には行ってみた。
でも、そんなものは無くなっていた。
いつの間にか解体されており、僅かな痕跡しか残っていなかった。
全てがあの時のままという訳ではないようだった。
それはあのとてつもなく長かったあの緑のトンネルも同じことだった。
転車台へと続く廃線跡の緑のトンネル、そこへはどうやっても行くことが出来なかった。
確かあの廃線跡の道は蛍の家の近くからも伸びていて、ちょっと森の奥に入れば行く事ができたはずなのに、いくら探しても肝心のその線路跡が見当たらなかった。
森をくまなく散策しても廃線跡の道も緑のトンネルも転車台もなくなっていた。
木々が全てを覆いつくしたかのように、二人が思いを通じ合った道はひっそりと閉ざされてしまっていた。
大事な思い出が少しづつ無くなっていく。
それは時間が進んでいることを意味していた。
思い出のままで立ち止まってくれるものは少ない、むしろ変わっていくほうが多かった。
黄昏時の帰りみち、蛍が物思いにふけながら一人歩いていた時にそれはおきた。
ある思い出と再会することが出来たのだった。
それは人じゃなくて獣。
つまり白い犬──サトくんとの再会だった。
その中型犬が偶然、背の高い草むらからぴょんと飛び出たときは、蛍はひどくビックリしてかなり間の抜けた声を上げてしまった。
「うそっ! サトくんなの!?」
ピンと立った三角の耳とくるりと巻いたふさふさの尻尾の中型犬、そして首には青いバンダナを巻いていた。
それは紛れもなくサトくんだった。
再会を喜ぶように蛍はサトくんに駆け寄る。
犬は恐れることなく、その場に立って蛍を迎え入れようとしていた。
その様子に違和感があった。
何か違う気がした。
蛍は無意識にそう感じ取っていた。
無邪気に後ろ足で頭を掻くその動作と、明らかに獣そのものの瞳の色、そして匂い。
だから蛍は分かってしまった。
この犬は”サトくん”であって”サトくん”じゃないんだ、と。
有り体に言うなら、サトくんは”もうここにはいない”ということだった。
白い犬の器は白い犬のもとへと還ったのだ。
そう捉えるのが自然で道理がいった。
(でも右目の傷も治ったみたいで良かった……すごく痛々しそうだったから)
よく見ると怪我の後すらないようにも見える。
血の跡もかさぶたもなかった。
それは別の犬なのではないかと思ってしまうほど綺麗な体をしていた。
それは触れてみたい衝動に駆られるほど、ふさふさと魅力的だった。
蛍は白い犬の顔をまじまじと見つめる。
黒曜石のように大きくつぶらな瞳はやはり獣のそれであった。
蛍は犬の前で腰を屈めると、その頭に手を載せてそっと撫であげた。
やわらかい毛並みに蛍は懐かしさを覚えていた。
白い犬は嫌がる素振りもみせず、ただ尻尾を左右に揺らして撫でられ続けている。
こうして犬の頭を撫でててみてもこの中には彼がいないことが分かる。
本能というよりも感覚でそれが分かってしまった。
「ねぇ、”サトくん”。燐はどうしたんだろうね? どこに行ったのか分かるかな?」
蛍は優しく話しかけながら犬の白い毛の深いところまで指を埋めてみる。
柔らかい毛の感触とその下の皮膚の温かさが白い犬の小さな鼓動までも感じさせた。
触られることが嬉しいのか、無邪気に尻尾をふる白い犬。
だが、蛍の問いかけには独特の呼吸を出すだけで一声も返さなかった。
蛍はその様子に寂しそうな瞳で微笑んだ。
(もうこの子は
犬は鼻をくんくんと鳴らすとそのまま蛍の周りをぐるりを一周した。
それは偶然にもあのときと同じような動作だった。
キミは無邪気でいいよね、そう蛍は嬉しそうに呟いた。
「やっぱり、
蛍はもう一度犬の頭を撫でると、忘れていた何かを思い出したようにおもむろに立ち上がった。
蛍の突然の行動に白い犬は戸惑ったように鼻を上に向けてじっと見つめていた。
「あ、ごめんね。今度会ったときは何かあげるから」
犬の気持ちを察したように蛍はまた頭を撫でてあげた。
動物的な犬の目を覗き込む、無垢な瞳というのは人間でなく動物に例えるものだと蛍は思った。
だからこそ彼はサトくんになりたかったのかもしれない。
人は純粋になどなれるはずもないのだから。
燐は偶然この子にサトくんという名前を付けた。
それは間違っていなかった、だからこそ燐はとても苦しんでいまったのだ。
乙女の無邪気な想いは思いも寄らない形で実現していまったのだから。
蛍が物思いにふけっていると、何かを思い出したように犬が一声、わん! と鳴いた。
突然の吠え声に蛍は少しビックリしたが、安堵を含んだため息交じりの微笑みを白い犬に向けた。
蛍からは何も貰えないことがわかったのか、犬はくるりと体の向きを変えると何事もなかったかのように気の向くままの方向に歩き出した。
その方向に何かの当てがあるのだろうか。
蛍は犬の突然の行動に呆気にとられたが本来、犬なんてこういう気まぐれなものなのだと思いだし、くすっと笑った。
そしてその丸まった尻尾と背中に声を掛ける。
「今度からあなたのこと”シロ”って呼ぶから。ちゃんと覚えてね」
白い犬は首だけをこちらを向けてもう一度、ワンと鳴いた。
燐には悪いけど、この瞬間から白い犬はサトくんじゃなく、わたしのシロになったのだ。
「ごめんね燐。でも文句があるならちゃんと聞くからね。わたしはこれでも寛大だから、ね」
蛍は口に手を当てて小さく微笑むと家の方へと歩き出した。
少しだけ肩の重さが抜けた気がしていた。
───
───
───
夏休みに入る前、それこそ”最初から”気になっていたことがあった、そしてそれを確かめる勇気がなかったことは明らかで、それは蛍が臆病になっていたからだった。
燐がいつも通学に使っていた駅、そこは小平口駅と比べると都会的な駅と街並みだった。
駅のプラットフォームからは燐の住んでいたマンションの上部分が微かに見える。
蛍にはそれを見るだけしか出来なかった、これ以上は足が進むのを拒否していたから。
事実を知ることが怖かったんだと思う、現実はいつだって想像以上に残酷だったから。
でも、あの白い犬にあって少し楽になったことが切っ掛けとなってこうして燐のマンションへといく事が出来た。
すでに8月も中盤になっており、いわゆるお盆休みの時期でもあった。
蛍は白い真新しいワンピースに身を包んでマンションまでの灼熱の道を歩いていた。
背中はざっくりと大きく開いているキャミソールタイプであり、裾は膝下まであった。
頭には大きな赤いリボンの麦わら帽子を被っているが、今日の暑さは格別であったため、白い日傘を差していた。
その風貌はどこからどう見ても清楚なお嬢様と言った感じの様相であった。
細い足を包む、経験値のあがった無骨なトレッキングシューズを見なければだが。
少し年季が入っている白いマンションは大分築年数が経っており、見た目以上に古い建築物であった。
ここから見る限りでは燐たち家族の借りていた部屋はカーテンが閉められていないことしか分からない。
エアコンの室外機がベランダに見えるが動作はしていないようだ。
それ以上の情報は分からなかった。
蛍は双眼鏡を持って来ればよかったと少し後悔した。
背伸びをしたりぴょんぴょんと跳ねたりして、更に部屋の中を情報を収集しようとするが、衆目に晒されている気がしたので、顔を赤くしながらそそくさとマンションに向かった。
マンションの入り口の先のドアはオートロックになっているので住人以外は簡単には入れない。
蛍は日傘を畳んで玄関ホールの扉を開けると、数字のついたパネルの前に立った。
そこで燐に教わった通りに燐の家の部屋番号を入力して下からのインターホンで呼び出した。
トゥルル、トゥルル。
電話機の様な規則的な呼び出し音がカメラレンズの下のスピーカから鳴っていた。
蛍は自分の胸の高鳴りとシンクロしているようで急にドキドキとしてきた。
このマンションはエントランスからの呼び出しにはカメラを通じて誰が居るのかが分かるようになっているので話が早く、不審者や怪しい勧誘はすぐに門前払い出来る。
もっともそれは住人がいる場合のことで、もし仮に燐がいてくれるならすぐに気づいてくれるはずだ。
でも……いや。
蛍は頭を振って否定する。
それでも燐がいつもの元気な感じで出てくれるとまだ信じていたから。
……規則的な呼び出し音が吹き抜けのエントランスに虚しく響く。
いくら待ち続けてもインターホンが鳴り続けるだけ。
燐どころか誰も階下にすら降りてこなかった。
蛍は、一旦マンションの外に出て、誰かが出入りしてくるのを待った。
住民なら呼び出しをすることなく、専用のキーで開けることが出来るからだ。
これはれっきとした不法侵入であり犯罪だが、こうでもしないと納得が出来そうになかったから。
蛍は諦めるきっかけのようなものが欲しかった。
あれだけマンションに行くのを拒んでいたのに、いざ行ってみると確固たる証拠が欲しくてしかたがない、自分はつくづく傲慢だと思う。
(一目でいいから燐に会いたい……それだけなのに)
確かに”それだけ”なのだが、それは到底叶わぬ願いだと思っている。
それにこれだけの強い想いがあるなら何故あのとき手を掴み損ねてしまったのか。
それがとても口惜しい。
蛍は白い雲を見上げなら嘆息する。
雲は二度と同じ形はならない、それでもあの時のような無限の広がりを白い雲と真っ青な空に感じ取った。
ふと、歩行音を感知して視線を地上に戻す。
すると小さなエコバッグを片手に一人の女性が蛍の目の前を通り過ぎようとしていた。
恐らくマンションの住民だろう、もう片方の手には鍵が握られていた。
蛍は待ち合わせをするような気遣わしげな素振りを見せながら、俯き加減に目線を逸らした。
あまりにも不自然な動作に見えたのか、その女性は一瞬怪訝な顔を向けたが、そこまで気にしていなかったのか首を元に戻すと、手にした合鍵でエントランスのドアを開ける。
軽い音がして重い扉が開く、階下のひやっとした空気が流れ込んで少し冷えを感じた。
女性はそのままエレベータの前に立ち、1階まで下りてくるのを少し苛立ちながら待っていた。
こちらを振り向く様子がなさそうに見えたので、蛍はエレベーターが1階につく前に足を忍ばせながらそっと女性の背後をすり抜けると、横の階段を一歩、二歩と息を止めたまま上ってその場にしゃがみ込んだ。
何かの気配を感じて女性は背後を振り返るがそこには何もいない。
だが、何かの物音を聞いた気がして、横の階段を覗き込む動作をみせる。
(こっちに来ないで欲しい……)
蛍が両手を組んで祈るような仕草で身を縮こませていると、タイミングよく救いのエレベーターが到着した。
中には誰も乗っておらず、箱の中のエアコンの冷たい空気が女性を出迎えただけであった。
女性は頭を巡らすような仕草をみせていたが、それ以上は詮索する気はないらしく空調の効いた四角い箱へと乗り込んでいった。
そのままエレベータが上へと動き出したのを音で確認すると、蛍はようやくため息をついた。
最近、結構活発になってると自覚してるけど、こんなスパイというか犯罪的なことをするなんて……蛍はこれを”愛の勘違い”と訳の分からない病気に仕立て上げて、自分の心をとりあえず納得させた。
コンクリート作りのしっかりとした階段を静かに上る。
吹き抜けの階段は外と違って洞窟のようにひんやりとしていた。
登るたびに、カン、カン、と靴音が鳴って、吹き抜けを通って全体に広がった。
その音があまりに大きく聞こえたので蛍はびくっと身を縮こませる。
蛍は手すりにしがみつくように持ちながら、出来るだけ足音を響かせないように注意深く階段を上がった。
ここまで来て引き返すことなどこのときの蛍には一切頭になかった。
(わたしって、燐の言う通り結構大胆なのかも)
蛍はこの状況下で自分の意外な一面を今、急に理解することができた。
ぐるぐると階段を登るとようやくお目当ての階に辿り着く。
蛍は荒くなった息を整えようと、近くの柱にそっと寄りかかった。
山道を歩くよりも階段の方がきつく感じられた。
このマンションはワンフロア2世帯となっており、燐の家族が借りていた家はこの階のエレベータ前の部屋となっていた。
同じような部屋が続いて分かりずらいが確かここだったはずだ、
蛍は指をなぞるようにして部屋番号を確認してみる。
間違ってはいないようだが肝心の表札がなくなっていた。
(表札……あったはずだよ。ね?)
表札をかけられるプレートをもう一度確かめてみるが、そこは白紙になっていた。
それは何を意味するのか、蛍は頬に手を当てて小首を傾げていた。
しん、と静まりかえった扉の前で蛍は呆然と立っていた。
黒い金属製のドアからは人の気配を感じ取ることが出来ない。
それは厚みのある缶詰めのようで、開けてみないことには中身がわからないものだった。
蛍はごくりと唾を呑み込むと、意を決して玄関横のチャイムを鳴らす。
扉の奥から小さくチャイム音が聞こえるが、それ以外はいくら耳をそばだててもなにも聞こえない。
人が歩くような生活音は皆無だった。
玄関に備え付けてあるのぞき窓から中を伺おうとする。
ドアの内側からは何も見えるはずもない、蛍は奇怪な行動をする自分が恥ずかしかった。
(鍵は……多分掛かってるよね? でも確かめてみたい)
そう解ってはいるもののこの時の蛍はそれを確かめずには帰る気がしなかった。
万が一ということもあるし。
この時はやっぱりどうかしていたのかもしれない。
その奇行を理解したのは家に帰って夕食のカレーを食べたときにようやく気付くものだった。
蛍は胸に手を当てて一度深呼吸をする。
湿気ったコンクリートの香りが鼻孔から肺に広がって、少しむせそうになる。
それはきっと心を落ち着かせるためではなく、自分の行動に正当性をもたせるための細やかな儀式。
つまり言い訳の為だった。
こんなところでまごまごしてたら誰かにみられてしまう、焦燥感に駆られながらそのドアに躊躇なく手を掛けた。
金属製のハンドルは冷たくて少し重量感があった。
だが初めてのものではない、燐の家に遊びに行くときに握ったことのある感触だった。
掴んだは良いが、レバーを倒して引っ張ることには流石に抵抗があった。
並々ならぬ緊張で思わず手が震えるが、蛍は両手で持って掴み直すと、そのまま勢いよくレバーを下げて、手前に引っ張った。
ガキッ、と鈍い金属音が鳴り、それ以上ドアは動かなかった。
「あっ!」
蛍はたまらず声を上げてしまい、慌てて手を離した。
わかっていたことなのに、それが現実と実感すると急に熱が冷めたように狼狽えていた。
蛍は両手で口を抑えると、こんなの本当の自分じゃないとでも言うように頭を左右に振りかぶった。
上の方からかすかな生活音のようなものが聞こえて、蛍はびくっと身を震わせると、口を抑えたまま無我夢中で階段を駆け下りた。
甲高い足音がらせん状に響きまわる。
それでも蛍は耳を塞ぐことも、足を止めることもせずに一気に下までおりると、這う這うの体でマンションの外に逃げ出した。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
自分は相当な変わり者と揶揄されたこともあったが、それでもそこまで常識外れたことはしたことはない。
確かにあの夜の中学校では消火器であの”何か”に攻撃したけれど、それだって本心からの行動じゃなかった。
あれはどちらかと言うと燐を守る為というよりも、燐に危害を加えたアイツが許せなかった、そんな単純な正義感からくるものだった。
でもこれは違う。
好奇心から他人の、それこそ大事な親友のプライバシーを暴こうとしていた。
答えが知りたい、それを免罪符にして勝手にそれこそ心のドアを開こうとしたのだ。
開かなくて良かった。
でも、予想通りだった。
もうこの部屋は誰も使っていない。
それこそカタツムリの抜け殻のように、誰も背負わなくなった空っぽの部屋になっていた。
”デンデンムシノカナシミ”ではカタツムリの殻の中には悲しみが一杯つまっていたけれど、それはみんな同じだと言っていた。
だからカタツムリは嘆くのを止めて悲しみと共に生きていくことにしたのに。
この部屋もあの”青いドアの家”の世界のカタツムリも殻を置いて行ってしまった。
悲しみが一杯の殻は背負うには重すぎるから置いていくしかない、そういうことなのだろう。
気持ちが落ち着いたのか、蛍はもう一度マンションを見上げた。
青空に映えるように白いマンションの壁が日差しに照らされて光沢を放っていた。
(わたし、本当に好きだったんだよ。燐の家が……)
それは蛍だけが知っていたことだった。
この家の、燐の家の狭さがとても居心地が良かったことを。
どこに居ても誰かの声が聞こえるほど家族の距離が近かったこの家を。
本当に円満だった込谷家。
だがある時期を境にそれが崩れてしまった。
些細な夫婦間の気持ちのズレがあったのだろう、だがそれは積もり積もって不満となって軋轢を生んでしまった。
それだけで夫婦は、家族は崩れてしまった。
去っていた父親、残された母子、どちらが幸せだったのだろう?
蛍の好きだった暖かい団欒はこのマンションからなくなってしまった。
燐が、その両親が育んできた家族の形が知らぬ間に、そして突然失われたことが悲しかった。
多分、もうここには来ることはないだろう。
綺麗な思い出がこれ以上穢れることは耐え難かったから。
それにもしまたこのマンションを見上げることがあればそれはきっと……。
蛍は鼻の奥が少し痛んだ。
踵を返すようにマンションに背を向けて駅の方角に歩き出す。
本音をいうともう一度ここに来たかった、それこそ何度でも。
親友とその家族が住んでいた、本当に暖かい場所に。
でもそれは無理なことだった、ここには悲しみの抜け殻しか残っていなかったから。
8月も後半に差しかかり、珍しく雨の日が続いていた。
暑さの波もひと段落した頃、蛍は自室で一人スマホを片手に寝転がり足をバタつかせていた。
整った顔を歪ませて、逡巡する姿は悩める乙女と大差ないようにも見える。
だが蛍の胸中はまるっきり逆であった。
「う~ん、どうしたらいいのかなぁ……」
アドレスを何度も確認して、そこに文章を打とうとは思っているのだが、どうしても指が止まってしまうのだ。
親しい相手、それこそ燐になら迷うことなくメールも電話も簡単に出来るのに、この相手では定型文を打つ事すら頭をひねるほどに難儀していた。
燐と言えば──あの賃貸マンションの部屋は既に引っ越した後だったようだ。
あの後、蛍はもう一度燐のマンションに訪れていた。
その時ようやく気づいたことなのだが、エントランス前のポスト部分の表札もなくなっており、無断にポストを使われないよう、テープで止めてあったのだ。
なんでこんな分かりやすいことに気づかなかったのか、この時点でもうここには住んで居ないことが分かったのに。
リスクを冒してまでマンション内に無断侵入をしたのはただの徒労であった。
ちょうどこのとき、たまたまこの棟に訪れた管理人っぽい帽子を被った男性が掃除をしていたので、蛍は思い切って燐の住んでいた部屋のことを尋ねてみた。
中年の男性は一瞬怪訝な顔をしたが、蛍の姿を舐めるように一瞥すると口もとを緩ませた。
そして思い出したようにああそういえば、とわざとらしい前置きをして話し始めた。
この人は清掃員兼、管理人らしい。
退屈な作業に話し相手が欲しかったのか、舌を回しながら聞いても居ない事までベラベラと口八丁に話してくれた。
この男性によると、込谷家は一月ほど前の晩にこっそりと引っ越して行ったらしく、行先までは分からないとのことだった。
もしそれが離婚によるものなら納得ともいえる。
世間体を気にするのなら、立つ鳥跡を濁さずのように素早く簡潔に去りたいと思うのは当然であったから。
だが、それ以上の役立つ情報はなく、蛍は男性の食い入るような視線に耐えながら、特に聞きたくもない感じの話に小一時間ほど付き合う事になった。
そうなると手掛かりは
それは彼──
燐の携帯にはあの時から何度も掛けているが、電話もメールもSNSさえも繋がらなかった。
それは燐の自宅も同じだったので、この前マンションにまで確認しに行ったのだ。
引っ越したとなれば話は早い。
燐への残る手掛かりは彼に全てを委ねられたのだ。
彼──聡には
思えば燐に半ば強引に登録させられたときから一度も連絡を取ったことがなかった。
それは必要なかったからだと思う、聡はあくまで燐の従兄、そう割り切っていたから。
その”男”と今になって”初めて”連絡を取ろうとしているから悩んでいた。
それは必要になったから、もう彼しか残っていなかったから。
それでもまだ……迷いがあった。
それは聡の心の奥底に眠っていた本性を知ってしまったから。
雨降る転車台で彼──ヒヒは自分の奥底の想いを語っていた。
それもとても楽しそうに、当然のように燐に向かって語っていたのだ。
そのときの燐の哀しい顔が今でもはっきりと思い出せる。
ヒヒはあのとき蛍を眼中に入れてなかったようだが、蛍は項垂れるサトくんと、高らかに笑うヒヒと、悲しみに暮れる燐と同じ場所に居て、その様子を、言葉を一言一句聞いていたのだ。
だからこそ今、躊躇っていた、あの狂った世界の
燐の言葉を借りるなら、彼はスイッチであったと。
つまりそれは元凶であるということだった。
だが全てを彼に擦り付けるわけではない、それにもしあの時に世界が歪んでいなかったらば、蛍は”オオモト様”して祭り上げられて、聡の相手に儀式をさせられた可能性があるのだから。
(分かってる、でも割り切れないんだよ。燐……)
ここに居ない親友の顔を思い浮かべて悲しくなる。
燐は彼が好きだった。
彼も燐が好きだったはずだ。
なのにあんなことになってしまった。
誰が悪いわけでも無いと、燐もオオモト様も言っていたけど本当にそうなのだろうか?
別に蔑みたいわけではなく、そうでないと理解と解釈が出来ないのだ。
それにそんな優しい二人が何故今居なくなってしまったのか。
不条理で片づけるにはあまりに軽すぎる気がするのだ。
燐もオオモト様もとても大事で好きな人だったから。
「でも、こうやってスマホを眺めていても何も解決するわけでもないし……」
今度は仰向けに転がりながら蛍は懊悩していた。
その度に蛍の二つに結わいた長い黒髪がベットの上で艶めかしく踊っていた。
無理に聡と関わりを持たなくても生きていく上では問題ないだろう。
バイアスの掛かった相手はまともに見ることが出来ないし、関わったたけでも過剰にストレスがかかってしまう。
だが、もし彼と燐に接点があったとしたら?
それに、もしかしたら聡の家に身を寄せている可能性だってある。
そう考えるとすぐにでも連絡を取るべきなのだが、結局今の今まで先送りにしてしまった。
それは彼が
燐は間近で、蛍は遠目にだが
サトくんとヒヒの壮絶な最期の姿を。
その二匹の亡骸までも。
だからこそ聡がこの世界に居なくてもそれほど不思議ではない。
彼は白い犬であり、大きな猿だったのだから。
しかしそんな理屈をこねている時間はそれほどない。
時間は有限であるし、
それに燐のマンションがもぬけの殻だった以上、もう縋れるのは聡だけだったのだから。
「このままじゃ八方塞がりだし、やっぱりメールぐらい送ってみよう」
当たり障りのない文でもいいやと、蛍は少し投げやりになりながらスマホに指を走らせる。
入力するたびに消していたので、スマホの学習機能がその文を即座に出してくれた。
”こんにちは”、から始まる感情のない要点だけの文章、今の蛍に出来る精一杯の言伝だった。
えいっ、と勢いよく送信ボタンを押す。
たったこれだけの事ですごい時間を使ってしまった、蛍は急に喉の渇きを感じて、傍に置いていた水筒を手に取ってごくっと飲み干した。
冷たい煎茶の若葉の香りと
「はぁ……」
今初めて息が出来たかのように深いため息をつく。
窓の外では夏によく見られる先の細い雨が、ざあざあと降りそぼっていた。
後は返事を待つだけ、どういう返信が来るのかまったく想像できない。
メールは届いたようなのでアドレスは生きているようだが、見たかどうかはわからない。
そもそも見れる状態なのだろうか?
SNSの方が手軽だし既読も分かるしで便利だけど、この件に関してはSNSだと軽く感じてしまう。
それに聡とはそこまで親しい中ではなかったから。
この待つという時間、蛍はそれほど苦ではなかった。
だって、もうずっと待っていた。
燐のことをずっと、それこそ世界で一人だけになっても彼女のことをずっと待っていた。
あの夜、燐と一緒にこのベッドで抱き合う様に寝たのを昨日のように覚えていた。
蛍はいつものようにクマのぬいぐるみに手を伸ばすと、ぎゅっと抱きしめる。
この子では燐の変わりには到底なりようにない、そう思いながらも毎晩抱きしめて寝ていた。
そうしないと寝れそうになかったし、不安ですぐ泣いてしまっていたから。
(もし、これで何の手掛かりもなかったとしたら……)
蛍は不安な気持ちを押しつぶすようにより強く抱きしめる。
茶色いクマは蛍の焦燥感をただ黙って受け止めるだけであった。
どれぐらいの時間が経っただろう。
クマに抱きついたままゴロゴロとしていた蛍だが、急に思いついたように口を開いた。
「やっぱりSNSでも送ってみよう! アプローチは多い方がいいかもだし」
蛍は反動をつけてがばっと起き上がると、しばしクマと別れて再びスマホを手にした。
良いとか嫌とか言っている場合じゃない、感情の問題ではないのだ。
もっと論理的に解決しないとこのままになってしまう。
(わたしが、わたしだけが燐を救えるんだ!)
焦燥感に駆られながらSNSのアイコンをタップする。
緑の画面が出たところで不意にスマホが震え出して画面が急に変わると、聞き覚えのある着信音が鳴りだす。
「着信……? 誰から? えっ!?」
それをみた蛍の顔がさっと青ざめた。
発信者番号と共に表示されていたそのアドレスは。
「高森……聡……さん?」
一瞬誰のことだか分からななかった、ほんの少し前にメールを送ったばかりなのに。
連絡が来るのは正直半信半疑だった。
そして何よりメールで返信してくると思い込んでいただけに、この電話には思考停止させられてしまった。
言葉もなく蛍は無意識にスマホを握りしめていた。
手に伝わり続けている規則的な振動と急かすように鳴り続ける着信音に何故か現実感がなかったから。
蛍は呆然とその画面を見ていたが、蛍はごくっと唾を呑み込むと、スマホを両手で持って、左手の親指で受話器のアイコンにそっと触れた。
『もしもし……』
最初に声を発したのは
───
───
───
「これでよしっ」
あらかたの荷物をバックパックに詰め込むと満足そうに蛍は微笑んだ。
机の上には大事にしていたとぼけた感じのネコの顔のポシェットと、その横に便箋をしたためた封書を置いておいた。
これで何かあっても問題ないはず、
幼い頃からずっと見てくれたあの人に何かお礼がしたかった。
それにしても、と蛍は思い返す。
「あのときの電話は驚いちゃったな。本当に掛けてくるとは思わなかったし」
聡からの電話は蛍を落胆よりも別の感情を思い起こさせた。
──彼は一方的に喋っていた、それこそ息継ぎを忘れてしまったかのように。
蛍は何事かと携帯を持ったまま、目を丸くしていたが、どうやらこれこそが彼、そのものであることが分かった。
……色々あって喧嘩同然で会社を辞めたこと、その後しばらく鬱状態だったが、突如としてスローライフに憧れて農業実習をしに北海道にいること。
そこでの生活は素晴らしく、自分にとても合っていたこと、そして登ってみたかった山が多くて移住してもいいぐらいに気に入ったこと。
自分のことだけを壊れたスピーカーのように聡は喋っていた。
そして彼は──
だが、聡は従妹という概念でしか燐のことを覚えていなかった。
燐という従妹の存在は知っているが、”覚えていない”。
つまり”居たことを覚えていなかった”。
何とも都合の良い話だが、高森聡は近くにいる”いとこ同士”という認識のみで燐の事を覚えているらしかった。
本当のところはよく分からない、虚言の可能性だってある。
だがそのことを問いただしたところで何も得られないだろうと蛍は思っていた。
蛍のことはその従妹の友達という認識のみで電話を掛けてきたらしい。
それでも彼は憶えていたらしい。
じゃあ何でこんなに馴れ馴れしいのか、蛍に興味が沸いたとかそういう感じではない。
それは聡との会話でよく分かってしまった。
彼は自身の言っていた通り少し普通じゃなくなっていた。
ほんの少しだけ心に傷がついていた。
それは細かいひっかき傷なのか、消せないほど深い傷なのか。
少なくとも病気と認定できるほどに壊れていたことは確実であった。
蛍の中で彼は嫌悪や拒絶ではなくなっていた。
むしろ哀れみ。
(なんて、可哀想な人だろう)
もう、そうとしか蛍は彼を表現できなかった。
結局、彼のもとには燐はいなかった。
でもそれにほっとしている自分がいた。
もし彼と一緒だったら?
その時はきっと喜ぶとは思う。
でもそれが本心かは分からない、ただ分かっていることは……。
こうして準備を進めてきた甲斐があったということだった。
重いトレッキングシューズを履いて散歩したことや、軽いジョギングもして体力づくりをしたのは無駄ではなかったのだ。
少し重くなったバックパックを担いでみる……肩にずしっとくる重みが蛍を少し不安にさせた。
「大丈夫。これぐらいなら想定内。これでも鍛えたはず、だもん」
胸中に訴えかけるように少し強がりを言ってみる。
夏休みの最終日、今日やらないと多分もう無理だろう。
きっと虚無のまま永遠と流されるだけだ。
不安な気持ちに鞭打つように、ぐっと歯を食いしばる。
そして誰にも見せるでもなく小さくガッツポーズをとってみる。
ちょっとだけやる気がでた……気がする。
綺麗に清掃しておいた自分の部屋を改めて確認する。
無駄なものが少ない自分自身の在り様を表わした和室の部屋。
あのとき荒らされたと思っていたのに……今でも信じられない。
でも、こうして自分の目で見ている以上現実なんだ。
白い何かに家を、部屋を土足で踏みにじられたのも現実。
こうして何事もなかったかのように普通なのも現実。
それは二枚合わせの鏡のようにどちらも等しく現実なんだ。
でもそれを選ぶ権利はない、どちらか一方だけ。
選択肢すらなかった。
だからわたしは今夜それを選び取る。
Aか、Bか、二者択一のわかりやすい問題。
「じゃあ行ってくるね」
箪笥の上に座るぬいぐるみに行ってきますの挨拶をする。
何も言わない優しさに蛍は少し嬉しくなって、もう一度手を振ってみた。
当然何も答えてはくれない、でも変わらないものがそこにあった。
綿が飛び散って目が取れたときは絶望したけれど、今はなんともない。
もしあのままだったとしても自分で治す気ではあった。
……多分不格好なクマが出来上がるだろうけれど。
部屋のドアをゆっくりと閉める。
カチリ、という小さい音が偽りの現実との別れを告げていた。
蛍は躊躇なく階段を下って玄関先に出る。
華奢な脚が履くのはローファーではなく、今やそれなりに使い込んだトレッキングシューズだ。
この為に用意しておいたものでこれを履いて行くことに意味があるのだ。
蛍は玄関前でしゃがみ込んで靴ひもを結ぼうと試みた。
トレッキングシューズの紐は通常よりも太くしなりがあって結びやすいはずなのだが、何度やっても蛍はあまり上手くならなかった。
自身の不器用さに歯噛みしながらも四苦八苦の末、なんとか両足とも結ぶことが出来た。
コツコツ、と踵の部分を土間に打ち付けてみる。
これで靴がしっかりと収まるらしかった。
ちゃんと履けたか確認するようにトントンと歩いてみる。
うん、大丈夫みたいだ。
蛍は後ろを振り返ってみた。
真っ暗な廊下には誰もいない、見送ってくれるものはいなかった。
でもそれで良かった、もし誰かいたらきっと止めていただろうから。
「……いってきます」
蛍は小さい声で念を押すようにもう一度出かけの挨拶をした。
その言葉は暗い廊下の奥に吸い込まれるように消えていき、すぐに静寂に戻っていた。
蛍の声に応じるものはいないのに何故か楽しそうに笑うと、少し戸惑いを見せながらも玄関マットの上に土足であがった。
すぐに足を話すと真っ暗な廊下に向かって頭を下げた。
そしてくるりと身を翻すと幼い頃から変わっていない重みのある玄関の引き戸を、勢いよくがらりと開け放した。
外はまだ少し薄暗い程度で、ひぐらしがカナカナと鳴いていた。
夕闇が迫る黄昏時、紫とピンク、そして茜色の
複雑に絡み合った空の色は、この後のことを暗示しているかのようで禍々しくも見えるが、蛍は前に食べたクレープのソースの色を想像して少し素敵な気分になっていた。
この空を見れただけでもこの時間まで待ったかいがあったというものだ。
あまり早い時間だと近所の人に見られてしまうし、遅すぎると間に合わなくなるかもしれなかったから。
だからこそこの時間が丁度よかった。
蛍は引き戸を閉めて鍵を掛ける。
黄金と蒼の光線に照らされた中庭を抜けて大きな門の横に備えてある通用口の門から下界へと抜けた。
その入り口にも鍵を掛けると、蛍は用の無くなった鍵をまざまざと見つめる。
そしておもむろに近くの雑木林に向かって鍵を投げ捨てた。
沈む夕日に照らされて銀色のカギがきらきらと光を反射させて、木々の間に消えて行った。
「これでいいんだ。もう戻ることはないのだから」
蛍は小声で呟くと、その林の前を少し勢いをつけて走り出した。
少女は一人何処へ行くのか、それを知る者はいない。
本人だけが、蛍だけが知っている。
だがその顔は少し赤みを帯びて薔薇の様に染まってた。
夕暮れ時のやわらかい光がそう見せているのか、それとも少女自身の心の内側からくるものなのか。
蛍は半分になった夕日を眩しそうに眇めると、家を振り返ることなく少し速足に歩を進めた。
二つの髪を上下に揺らしながら、蛍は夕焼けとは反対方向の黒い森に向かって一人駆け出していった。
─────
───
──
ん、書くことがあまりないです。
あ、先日久々にスーパーな銭湯に行ってきましたよー!新しく出来た海沿いのスパ銭にーー。
入り口には最新式っぽい検温器が置いてましたねーー36.7℃はセーフだったらしいです。
岩盤浴は意外にも安かったけど今回は入らなかったです。ひたすらお風呂を満喫してましたねー2時間程ですが。
内湯は窓全開だったですし、露天風呂は目の前がそく海で開放感半端なかったですねー。
天気よくて良かったーーー。でも露天風呂には満ち潮の時は向こうから見えるかもしれないので立ち上がらないでくださいと書いてましたねー。
残念だったのはサウナが一つしかなかったことですねー。塩っぽいサウナがあればーなお良かったですーー。
もう書くことがなくなってしまった。
あ、そういえばテレビ買ったときからずっと使ってきた録画専用のHDDが壊れてしまったようですー。
ですが前に一度だけ使っただけで放置していたデータ移行用の外付けHDDがTVに対応出来たので良かったですよー。
まあ今のところ赤毛のアンぐらいしか録画してないですし、それにもうすぐ終わっちゃいますけどねーー。
あ、そういえばSouth Park Season 24が公開されてましたねー。今年はやらないのかと思っていたので少しビックリしましたよー。
それにしてもパンデミックスペシャルでエピソード13とは……残りの1~12はいずれ公開するのかそれとも単に忌み数(13)に掛けただけのかは分かりませんねー。でもあの終わりとたびたび出てくる死神の風貌から後者の線が強いかもしれないですね。
今回はタイムリーと言うかなんと言いますか、まさか公開後にドナルド・トランプに新型コロナで陽性反応が出てしまうとはねぇ……狙ったわけではないと思いますけど、もし万が一があったならばアメリカ全土を火の海にしてしまうのでしょうか?
まあ、絶対にそんなことはないでしょうけれどー。
今回作中にpangolinなるものが出てきてビジュアルがアルマジロっぽかったのでそれかなと思って見てたのです。ですがそれとは全く違う個体で? 日本語でセンザンコウという鱗甲目の哺乳類みたいです。中国などでは漢方や魔除けとして珍重されてるとか。
そのセンザンコウが新型コロナウィルスの中間宿主とされているらしくその遺伝子を解明すればコロナウイルスのワクチン開発に役に立つのではとされていたようです。
でも、日本では今年の3月か4月頃までは少し騒がれていたようですが その後はコウモリが感染元ネタと一緒に消滅したっぽいですね。
どこかの医療チームや遺伝子研究のチームやらが頑張ってセンザンコウの事を研究してるのかもしれないですけどねー。
まあ動物を元凶とすると色々な団体が怒りますし、かと言って中国のせいにしても知らぬ存ぜぬですし。
このまま来年を迎えるのもモヤモヤする気がしますけどねー。責任じゃなくて事実が知りたいだけだと思うんですよー。今後の対策にもなりますしね。
なんか前にも似たような事を書いた気が……デジャビュかなぁ?
あ、書くことないとかいってたのに結構書いてました。
それではではー。