We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life.   作:Towelie

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 ねぇ──燐は何が好き?

「蛍ちゃん? 何か言った?」

 妙な顔をして燐は振り返った。

 ただでさえ今はとても奇妙な家の”螺旋階段”を登っているのに、急に変なことを耳元で囁かれたら。

 燐の表情がそうなってしまうのも仕方がなかった。

「って、あれ?」

 声がしたからてっきりそばまで来ていると思ったのだが。

 燐は辺りを見渡す。
 すぐ傍に居ないのだとするならばどこに行ってしまったのか。

「あ……」

 別に探す必要などなく、肩で息をしながら燐の居る場所より下の階段で立ち止まっている蛍の姿をすぐに見つけることができた。

 拾い物の赤い傘で身体を支えながら、腰を曲げて苦しそうに喘いでいるようだった。

(じゃあ、今の声って)

 蛍の声色だと思っていたから燐はすっかり拍子抜けしてしまった。

 幻聴がする……というにはあまりに静かすぎるところだし。
 木の階段を上っている時、ときおりミシミシと小さな音はするけど。 

(それにしても蛍ちゃん大丈夫かな? さっきから頻繁に休んでるみたいだけど。まあ、無理もないけどね)

 燐だってここまで長い階段を上った経験はない。

 昔ある山に聡と一緒に登りに行ったとき、登山口に近い駅まで電車で来たことがあったけど。

 割と有名な駅らしく、その時はちょっとドキドキしながらホームに降り立ったのだが──。

「わぁー」

 なんて、初めてみた光景だったからあの時は思わず声が出てしまった。

 その声が大きく響くほど地下からのトンネルが広がっていて、どこまでも果てがないぐらいに階段が続いていたから。

 ホームから駅舎まで続く長い階段、その列に圧倒されて暫く呆然と見入ったことを今、燐は思いだしていた。

 けど、”ここ”はそこ以上に長い階段なのはもう確実だった。

 その駅の階段は精々500段にも届かないぐらいだったし。

 この螺旋階段には本当に終わりなんてものはないぐらいどこまでも伸びている。

 誇張じゃなく天まで届くのではないかと思うほど続いているように見えたから。

(──でも結構登ってきたんだよね。これでも……)

 本当にそう思ってはいる、だけど。

 いくら登れどゴールというかその”先っぽ”すら見えてこない。

 摩訶不思議な木製の螺旋階段は永遠に続く、無限の回廊みたいに燐には思えた。

 実際、そうかもしれないが。

 あの息のすることの出来た、”ぬるい水溜まり”の時みたいに、どこまで登ってもゴールなんてものなど最初からないのではないだろうか。

 外から見た時は歪とは言え、最上階のようなものを見た気がしたけど。

 それも今となってはマボロシだった?

 燐だけでなく、蛍も見たから多分、間違いはないと思うけれど。

 それともマンガみたいに階段を上ったと思ったら実は降りている……なんて、そんな現実離れな出来事あるはずはない。

 だけど……。

(この世界ならあり得るのかな……だって、きっと夢、なんだろうし)

 現実とは違うから夢。

 だとしたら、()()()()()()ということなのか。
 
 本当の迷い家。
 そう、蛍は言っていたけど。

 今はちょっとだけ分かる気がする。

 一度、足を踏み入れたら出られない家の事を迷い家(マヨヒガ)というらしいから。

 そういう伝記めいたことを書いた文献は幾つもあるし。
 実際に自分で調べもした。

 けれどそれは、迷路みたいな構造だから迷うのだろうと思っていたけど、実はこういう一本道なのにどこにも辿り着けない家、もしくは現象のことなのかもしれない。

 どこまで行っても何処にも、誰にも辿り着かない迷い家。
 入り口も出口もなく、ただひたすら彷徨い続ける為だけの家。

 それがマヨヒガの正体なら。

(今のこの状況って結構ヤバイ、のかな)

 迷うのは道筋じゃなくて”ココロ”の方なら、既に片足を突っ込んでいるようなものだと言える。

 ”やっぱり戻った方がいいよ”。

 そんな後ろ向きの気持ちが、さっきから燐の中でぐるぐると渦を巻いてもたげていたから。

 多分、言い出せないとは思うけど。
 
「えっと、蛍ちゃん。息、だいぶ荒くなってきてるよ」

 だから、もう帰ろうよ。
 内からの燐の直感がそう何度も告げていた。
 
「う、うん、でもちょっと休めば平気だから」

 この辺りは蛍も譲らない。

 けれど蓄積された疲労は隠し切れないのか、直ぐに顔を戻して苦しそうに自身のローファーの足先をぼんやり見つめていた。

(こんなので最後までもってくれるの……?)

 想いも、そしてカラダも。

 燐は口から出かかった言葉を呑み込んで、少し明るい口調で話を続けた。

「階段の上り下りってシンプルに疲れるんだよねぇ。部活の基礎トレでもするんだけど、辛くて泣いちゃう子もいるんだよ」

 入部したばかりは大体そうだし、ちょっと体力の足りない子なんかもそうだった。

 燐は、小さい頃から聡と山に行っていたおかげで泣き言なんて一度も言ったことはないが。

「それは、まあそうだよね。シンプルって言うか普通に地味できついし。わたし、山登りよりもこっちの方がきついかもしれない」

 荒れた山道よりも整備された階段のほうが辛いと思うのはきっと自分だけではないと思う。

 前に燐に言われたことじゃないけど、登山と階段の上り下りとはきっと使う筋肉が違うんだ。

 それに景色が殆ど変わらないのもつらい。
 最初の頃はそれこそ、非現実的な光景に二人とも目を奪われていたはずなのに。

 今は景色も階段も単調すぎる。

 自分の家という感じは全然ないから、それが原因ではないと思うけれど。

(でも、燐は余裕なんだよね。燐は普通の女の子だと思ってたんだけど)

 蛍は燐の顔をちらりと見やる。

 やっぱり普通とはちょっと、いや大分違う気がする。
 むしろ普通よりもちょっと上、それ以上なのかもしれない。

(考えてみたら成績も運動神経も燐の方が上なのよね。友達だって一杯いるし、心遣いだって)

 燐はほんとうに何でもできる。
 自分とは違って。

 幼い頃に感じた特別感は、実は普通だと思っている友達の方だった、なんて……。

 蛍は呼吸を整えるのも忘れて燐の顔をじっと見た。

 その視線は羨望というか、ちょっとした嫉妬の色が滲んでいるように見えた。

(んん?? なんだろ……蛍ちゃん熱心にわたしを見て、る?)

 熱心に自分を見つめていることに燐は嫌な気持ちは無いが、不思議そうに首をかしげる。

 怒っているわけではなさそうなのだが。

「えっと……わたしの顔に、何か付いてる?」

 困ったように燐が小さく笑う。

 山の時といい、蛍に無理をさせ過ぎたかもしれない。

 ひとつ気がかりな事があるとすぐに周りが見えなくなるのは自分でもよく分かっているはずなのに。

「あ、ごめん。そういうわけじゃないよ。ただ、燐と比べてわたしって弱いんだなぁってちょっと呆れただけ」

 燐に見透かされたことに蛍は例えようのない羞恥を覚えて、耳まで赤くなった。

「そうかなぁ。蛍ちゃんはいつも頑張ってるって思うよ。わたし蛍ちゃんが弱いだなんて一度も思った事ないし」

 ──弱いのはそう、自分のほうだから。

 とても弱いから逃げ出してしまったんだ。
 友達の前だけじゃなく、現実からも。

(それでも戻ってこれたのは……)

 燐はまっすぐに蛍を見つめた。

 その視線は一度心が壊れたとは思えないほど純真で、きらきらと輝く宝石のように蛍には眩しく見えた。

 とても直視できないほどに。

「わたしも燐のこと弱いなんて思ってないから、繊細な部分は誰にでもあると思うし。まあ、わたしは骨とか関節とか、そういった”動きの部分”が繊細みたいだけど」

 蛍は小さく肩をすくめて微笑むと、可愛らしいピンク色の舌をちょんと出した。

「でも、蛍ちゃん手芸とか結構苦手だよね。靴ひもは最近結べるようになったみたいだけど」

 燐はくすっと笑ってちょっとからかうような言葉を投げる。

「まあ手芸とかその辺は追い追いね。でも普通の人よりもちょっと時間は掛かるけどこれでも出来るまではやるんだよ、わたし」

「それも知ってるよ。頑張り屋さんの蛍ちゃん、わたし好きだから」

 いつも明るく優しい燐。
 いつだってわたしの事を心配してくれている。

 でも。
 
(そんな燐の隣にわたしは立つ資格があるんだろうか……)

 別に比較をしたいわけじゃないけど、普段からふたり一緒にいるから。
 燐がそう言った事を気にしないのは分かってはいるんだけど……。

 ──自分には到底できそうにない事が燐には当たり前に出来る。

 その事実が蛍にとってはこんな階段を登ったりすることよりも、ずっと重く苦しいことだった。

「ごめんね。蛍ちゃんのこと、相当疲れさせちゃったみたいだね。どこか……休めるような部屋でもあればいいんだけど」

 結構長い間この中に居る気がするけど、それらしき部屋を見たことはまだ一度もない。

 ()()蛍の家だから木の階段の周りには同じような木の板、つまり廊下が壁のように縦に伸びていた。

 その中に時折、襖のような白い扉が壁に張り付いてることがあったので、燐はその襖を開こうと何度も試みてはいるのだが……。

(ここも開かないかぁ)

 ついさっきも別の襖に手を掛けてはみたのだが。
 やはり開くことはない。

 ずっとこの繰り返し。

 蛍の家をケーキみたいにナナメに切って、それを段々に積み重ねて出来たようなものだから、それぞれの部屋があってもおかしくはないはずなのに。

(なんで、一個も部屋がないんだろう?)

 襖が部屋に通じていると思っているのだが、燐がどんなに力を込めても簡単に開くはずの襖が、その一枚も開くことがない。

 偽物というか絵に描いた餅、何かとは違うと思う。

 襖が開かないことに、なんらかの意思の様なものが動いている。
 燐はそう睨んでいた。

 例えば、異変の時の蛍の家の玄関や窓の時みたいに。

 恐らくだが、積み重なっている家の一軒一軒が一つの石となって、一本の柱と成り代わってしまったのではないかと。

 何らかの理由で家の内側の次元が歪んでこの塔が出来た。

 あまりにも馬鹿馬鹿しい推論なのだが、通常なら普通にあり得ないことが、この世界で起こっている。

 それは蛍と燐、ふたりっきりでいる時だけに。

(結局何のためにあるわけ? もしかしてわたしと蛍ちゃんを惑わす為だけのもの……?)

 異常な光景を何度も目の当たりにしていると、その理由を知りたくなる。

 異変の残り香と思っていた非日常が収まるどころかより強く濃さを増していっている。

 それはもう気のせいなんかじゃなく。
 
(紛れもなく、現実で起こっている)

 これは全て夢なんだと自分を誤魔化すにしても流石に限度がある。

 目を開くしかない。

 例え、とても見たくはないものを見ることになったとしても。

 不幸も幸運も。
 それぞれ最大クラスのものはもう既にふたりとも経験済み、なのだから。

「ごめん、燐。やっぱりわたし、足手まといみたいだね」

「そ、そんなこと今は気にしないでいいからっ」

 燐はそう言ったが、どうやら相当焦っているようで、きょろきょろと燐の視線が落ち着かない。

 やはり、足場が不安定すぎる。

 これが山道やもう使われなくなった線路や、水の底だったとしても、地に足がついているなら休むことぐらいはできる。

 けど、ここだとそれすらも難しい。

 ただこうして立ち止まることにすら、どこか恐怖を感じてしまうから。
 常に綱渡りをしているような繊細な気持ちに囚われてしまって、何をしても落ち着かない。

 強引に蛍の手を引いて階段を降りるか、それとも登るか。

 決断をしなければならない。

 けれど、どちらも正解のようで間違っている。

 そんなどっちつかずの状態をこの足場の不安定な階段で決めあぐねていること自体、燐は怖くて仕方がなかった。

 進むことも戻ることにもいちいち二の足を踏んでしまう。
 まだ崖の上の方がマシぐらいに。

(自然なものよりも人工物のほうが怖いなんて……)

 これを人工のものと言っていいのかどうかは定かではない、が。

 階段の下から見える景色には虚ろの穴のような漆黒の闇がぽっかりと口を開けている。

 そのように見えた。

 普通に階段を登ってきたはず。
 それなのに、なぜその階下の情景が暗く見えなくなってしまったのか。

 明かりがないからそうなのだろうと思ってはしまうが。

 それでも、外からこの家を見た時は結構高くみえたけど、実際にはそこまではないはず。

 燐の見立てでは、マンションに相当するとせいぜい7、8階程度だろうか。
 それだと、ふたりで住んでいるタワーマンションよりかは大分低い。

(それなのにどうして?)

 上どころか下の景色すらも見えなくなるなんて。

 蜘蛛の巣の罠にかかったみたいに、もがけばもがくほど抜け出せなくなっていくような。

 それでも登ることを諦めきれないのは一体なんなのか。

 その証拠に結局またふたりして階段を上り始めてしまった。

 もう逃れられない。
 何かを得る、その時までは。

「はぁ、はぁ、それにしてもいつまで登るんだろうね、これ」

 さしもの燐も息が切れるようになってきた。

「んはぁ、はぁ……」

 それより数歩遅れて蛍がついてくる。

 返事の代わりに出るのは吐息が混ざった荒い呼吸だけ。

 足元がぎしぎしと不安定な事もそうだが、いつまで立っても終わらない事にも当然不安を感じてしまう。

 建物には窓一つないから余計にそれが顕著に感じられる。
 外から見た時は窓はあったような気はしていたのだが。

 耳元に雨音が小さく届いているから、()()()切り離されていないみたいだけど。

「燐……もしかしたら、そこのドア、開く、かも……」

 痛々しく聞こえる呼吸を繰り返しながら、薄ぼんやりとした声で蛍はある場所をぎこちない手つきで指さしていた。

 それまで襖ぐらいしか目に付くものがなかった木の壁に、全く普通のドアとドアノブが確かについてあった。

 さっき、燐が見た時にはそこには何もなかったような気はするのだが。
 
 気のせいというより見落としがあったということか。

「蛍ちゃん、アレの事を言ってるの!?」

 こくっと頷く蛍。
 どう考えてもそれしか無いわけだが。

「わかったっ!!」

 燐は一言だけ返事をすると、何の疑問も持たずにそのドアノブを手をかけていた。

 あまりにも迂闊だったか。

 こっちの世界は現実の範疇を超えてはいたが、二人に危害を加えるようなことは一度もなかったから。

 怪異的なものはこれまでなかったから、何の覚悟も躊躇いも持ってはいなかった。

 蛍に言われた、危機管理的なものが足りないとはこういう所だったのかもしれない。

 がちゃり。
 金属音と共にドアが開く。

 燐はドアを開けてから、その事に気付いた。

「──あ」

 中を見た少女は小さな声をあげた。

 ──
 ──
 ──






Teardrop

 

 

 くろ。

 

 暗闇。

 

 真っ黒──。

 

 部屋の中は夜中みたいに真っ暗闇だった。

 

 蛍の言う通りに扉を開けた先で燐が目にしたもの。

 

 それは……黒、ただ一色。

 

 外の光もないから、部屋の底が抜けてなくなってしまっているかと思うほど、漆黒の闇が燐の視界一面を覆っていた。

 

 得体の知れない化け物がぽっかりと口を開けて二人が入ってくるのを待ち構えていたみたいで。

 

 思わず後ずさりしたくなる……が。

 

(もう、逃げるんならとっくに逃げ出してるしっ!)

 

 頭の中の怪物を振り払うように燐は首を左右にぶんぶん振ると、生唾一つ呑み込み、手にしていたランタンの明かりを部屋の中へと向けた。

 

 ぱぁっと、光の花が闇を照らす。

 

 見えればなんてことは無い。

 底なし床も黒い怪物もどこにもなかった。

 

(ほら。やっぱり杞憂だったじゃない)

 

 言い聞かせるように呟くと、燐は一歩踏み込んでぐるりと光を回した。

 

 少しすえた臭いがしたが、六畳程度のこじんまりとだがちゃんとした部屋となっているみたいで、色の褪せた壁が四方に広がっていた。

 

 床はぼろぼろだが一応畳のようで、余程古びたものなのかぶよぶよと波打っていた。

 

 部屋は辛うじて和室の形状を保っていた。

 

「ほんとうに普通の部屋なんだ……」

 

 その当たり前なことに安堵した。

 

 この塔のような奇妙な建物(便宜上は蛍の家だが)は、家屋や部屋を積み重ねて出来た歪な形状になっていたから、てっきりほとんどの部屋が何か歪になっていると思っていたのだが。

 

 この部屋は薄汚れている以外は何の変哲もない普通の部屋に見えた。

 他の部屋に入れないからなんの比較はできないけど。

 

(何かこの部屋、どことなく見覚えがある???)

 

 浮かび上がった疑問に、燐はどうにも判然としなかった。

 

 けれど、とりあえず。

 

「蛍ちゃん! 休めそうな部屋があったよっ!」

 

 燐はぴょこんと首を出して、階下で息を吐いている蛍に手招きした。

 

 少し待ったが、蛍がここまで上がってくるような気配はない。

 

 まだ体力が回復しきってないのかも。

 でも、声ぐらいは出せるはず。

 

「蛍ちゃん!? おーい」

 

 燐がもう一度声をだしてみても蛍からの返事は返ってこない。

 そんなに離れたつもりは無かったはずだけど。

 

 まさかとは思う。

 

 けれどこんな所では何があったっておかしくはない。

 

(むしろ、何もない事のほうが……)

 

 妙な胸騒ぎを覚えて、燐は身を翻して一旦その部屋から飛び出すと。

 

 だんっ、だん!!

 

 足元への不安などすっかり忘れたみたいに、燐は登ってきたばかりの階段を一目散に駆け下りた。

 

 二段、三段と飛ばし飛ばしに降りる燐だったが。

 

「……!」

 

 急にその足にブレーキがかかる。

 

 何てことは無い、蛍はすぐ近くの階段で足を伸ばして座っていた。

 

 蛍は虚空を見つめながら何やら考え込んでいるようだった。

 

 燐はほっと胸を撫で下ろすと、トントンと先ほどとは大分ゆっくりと階段を降りながらもう一回、蛍に声を掛けた。

 

「何か、考えごと?」

 

 ここまで来てようやく耳に届いたのか。

 一点を見つめていた蛍がこちらの方を振り向いた。

 

「あ、燐」

 

 夢から覚めたようなちょっと微睡んだ瞳を向けて微笑む。

 

 燐もにこっと笑みを返した。

 

「ちょっと寝ちゃいそうだったから……」

 

「あぁ、そっか」

 

 そう言って、蛍はもう一度頭上を振り仰ぐ。

 

 とめどなく続く階段の渦は、ずっと見ていられるほど荘厳で、普通の世界ならばちょっとした観光の名所になっていただろう。

 

 普通に人の手で作られたものならば。

 

「あ、明かりも無しに置いてっちゃってごめんね。つい物珍しくなっちゃって」

 

 そう言って、燐は蛍の手をぎゅっと握りながら頭を下げた。

 

 手は少し冷たく感じる。

 そういう意味では蛍が言う様に起きたてなのかもしれない。

 

「じゃあ、部屋はあったってこと?」

 

「そーゆーこと。とりあえず行こ。すぐそこだし、そこならちゃんと休めるはずだよ」

 

 燐は蛍の手を軽く引く。

 まだちょっと動きたくはないのか、蛍は一瞬戸惑う表情をみせる。

 

 何やら言いたそうにもじもじしていた蛍だったが。

 

「……うん」

 

 素直に頷くと、燐の手を借りて静かに立ち上がった。

 

 ……

 ………

 …………

 

「とりあえず登ってみるほかないよね。どの道」

 

「まあ、戻っても仕方ないしね」

 

 薄汚れた押し入れにあった埃まみれの座布団を畳みの上に引いて、二人は仰向けになっていた。

 

 蛍はこの部屋自体に見覚えがないと言った。

 家政婦さんたちが使っていた部屋にちょっと似てたがどこか違う、知らない部屋なんだと。

 

 もっとも、こういう”凡庸な和室”は蛍の家には至る所にあったのだが。

 

 蛍が杖代わりに持ってきていた傘は部屋の片隅で開いておいてあった。

 

 その割には濡れたような染みは一つもない。

 作りたてみたいにすらっとした姿は、持ち主のあの人そのもののようだった。

 

「燐はまだ余裕があるみたいだね」

 

「そう見える?」

 

「うん。わたしとは全然違うよ、燐は」

 

 声をひそめて蛍はくすっと笑った。

 暗がりで顔は良く見えなかったが、その笑顔は少し寂しそうだった。

 

「わたしだって蛍ちゃんと同じ普通の女の子、だよ」

 

 燐はすぐ目の前の蛍の手を優しく握った。

 白くしなやかな感触は確かに燐と違った、蛍だけものだった。

 

「……」

 

 蛍は何も言わず燐の目を見ながら手を握り返した。

 

「……雨、降ってるね」

 

「そうみたいだね」

 

 二人の間に細い雨の音が届く。

 

 ()()()()()()()()なら、雲が呼んでくるものだけど、この世界では何が降らせてくるのだろう。

 

 降っても、止んでも、それすらも意味などない世界で。

 

 だから皆目、見当がつかなかった。

 

「この世界にも雨期みたいなものがあるのかな」

 

「どうなんだろうね。そんなに長居したことないからわからないけど」

 

「そう……だよね」

 

 また沈黙が下りる。

 

 異様な光景の連続に目が鳴らされてしまった後だから、こうした静かな二人だけの時間がとても貴重で、最も尊いもののように思えた。

 

「燐。あの……少し目を閉じててもいい? 瞼がさっきから重くって……」

 

 見られることを恥ずかしがるように、自身の腕で視界を隠す蛍。

 その仕草が少し子供っぽくって、燐は目を細めてくすりと微笑んだ。

 

「いいよ。じゃあ明かり、ちょっと弱くしておくね」

 

 燐は急に蛍の長い髪に触れたい衝動に駆られたが、それは胸の内にしまって、自分で言ったようにLEDの明かりを少し弱めにした。

 

「ありがと燐……あとさ」

 

「大丈夫、わたしもちょっと体を休めておくから」

 

 蛍の可憐な唇に燐は指をちょんと当てた。

 

「そうじゃなくて、もうしばらく、手握っててもらいたいなって……」

 

 蛍は恥ずかしそうに言葉を紡ぐ。

 燐は自身の思い違いに顔を赤くしながら蛍の手をもう少し強く握った。

 

 折れるほど強くはしないけど、それでもしっかりと、蛍がずっと不安がらないように。

 

 互いの指が折り重なるように固く繋いだ。

 

「ありがと。あのね、燐」

 

「何、蛍ちゃん。」

 

 蛍は真っすぐに燐を見つめ返す。

 

「燐が一緒でよかったな、って」

 

「それはわたしの方だよ。気付いたらまたこっちに来ちゃったけど、それでも蛍ちゃんと一緒だったからほんと良かった」

 

 実家のベッドで横になっていたら、遠くから誰かに呼ばれたような、幻みたいな声が聞こえてきて、無理矢理目覚めてみたら、こっちだった。

 

 しかもいきなり電車に揺られていた。

 だからか、現実なんだと思っていたぐらいだった、ほんの少しの間は。

 

「でも、蛍ちゃんが同じ列車の中にいたから」

 

「燐は最初から乗っていたんだもんね。あの電車に」

 

 結局どういう事になったかと誰かに聞かれても到底説明がつかない。

 

 ここはそういう世界だった。

 

 行きたいときに限って行けなかったり、反対に行きたくないのに行ったりもする。

 

 切符とは列車ではなく、世界の方だったとしたら。

 

 あと何回。

 ここに来ることができるのだろうか。

 

「わたしたちって離れていても一緒なのかな」

 

「それって夢の中でもってこと? それとも現実?」

 

 少しからかうように燐が笑う。

 そんな燐の顔を困った顔で見つめながら蛍も小さく笑った。

 

「……どっちも」

 

 蛍は自分で言って顔を赤くした。

 その意味に気付いたのか燐も頬をほんのり上気させている。

 

 なんだか、告白しあっているみたいで、ふたりとも互いの顔がまともに見れなかった。

 

「と、とりあえず今はキチンと休もう。まだいっぱい階段あるみたいだし」

 

「それを考えただけでゾッとするよ……でも、いざとなったら燐がおぶってくれるんでしょ?」

 

 蛍が手をぎゅっと握ってくる。

 なんだか蛍に懇願されているみたいで、燐はくすっと笑みを返した。

 

「どうかなぁ。わたしだっていつまでも蛍ちゃんに甘い顔してるとも限らないよ。蛍ちゃんは自分で何でもできる子じゃなかったっけ?」

 

「わたし、一言も言った事ないよ。むしろ燐がいないとダメな方だから」

 

「また、そんなこと言ってぇ。そんなんじゃわたし蛍ちゃんから離れられないじゃない」

 

「実はそれが狙いなんだ」

 

 微睡んだ瞳を滲ませながら、蛍は楽しそうにくすくすと笑っていた。

 

「もう、蛍ちゃんはすぐ困らせるようなこと言うんだから」

 

 燐は片手で蛍の前髪を優しくなぞる。

 

 本当に綺麗で艶やかな黒髪だと燐は思った。

 

 オオモト様とは違った髪質の蛍だけの髪。

 それに今触れているのもきっと自分だけ。

 

 蛍の全てを独り占めしているような特別感に自分でもびっくりするほど胸が高鳴った。

 

「燐……」

 

「ん、蛍ちゃん、まだ、寝ないの? あ、分かった、子守歌がないと眠れないんでしょ」

 

 一つ息をついて燐がくすりと笑った。

 

 仕様がないなぁって顔をしているが、その割には燐の表情はとても穏やかだった。

 

 それを見て蛍は。

 

「わたし、燐とずっとこのままでもいいよ。もう、戻れなくても」

 

「蛍ちゃん……うん、わたしも」

 

 嫌な顔一つしないで受け止めてくれる大切な友達。

 

 そんな燐と、今一緒にいる。

 

 特別な事はない、ただちょっと世界の方がおかしいだけで。

 

 それだってほんの些細な問題。

 

 燐が隣にいるだけで、蛍はすっと心が満たされる気になれるから。

 

「えっと……」

 

 蛍が急に口ごもったので燐はますます首をかしげた。

 恥ずかしそうに、握った手を掴み直すように忙しなく何度も指を動かしている。

 

 まるで蛍の心情を赤裸々に表しているみたいに。

 

「ごめんね、燐。変な事言っちゃって。わたし、焦ってるんだと思う。何かの可能性っていうかこの家の中にヒントみたいなのがあるのかもって思っちゃったの」

 

「それは……そうだね。確かにここの所、変わったことばかりおきてるしね。おかげで退屈はしないかもだけど」

 

「確かに、ね」

 

「でもさ……」

 

 燐は不意に寂しそうな顔を見せる。

 

「どうしたの?」

 

「うん……夏ももう終わりかなぁって。時間ってあっという間に流れていくんだなぁってさ」

 

「……」

 

 燐も蛍も見ている方向はずっと同じだった。

 けれど、その視線の先に映る景色がほんの少しだけ違っていた。

 

 短いか長いか。

 

 たったそれだけ。

 

「燐は……その、怖くない? これからの事とか」

 

「進路とか、そういうこと……?」

 

 こくりと蛍はうなずく。

 不安そうな蛍の顔を見て燐は一旦言葉を止めた。

 

 けれどそれはほんの一瞬のことで。

 すぐにいつもの顔に戻って蛍を真っ直ぐに見てこういった。

 

「でもわたし一回しんじゃってるからね。だからもう怖いものなんてなくなっちゃったのかも」

 

「またそれ? なんか漫画の台詞みたい。でも……うん、それならわたしだってそうだよ。わたしもきっとそうだと思うし、あの時」

 

 蛍は自分に起きたことを未だにはっきりとは認知出来ていなかった。

 全てが曖昧で断片的、でも夢でもなければ現実というにも何か違う。

 

 その辺りは燐とは認知の違いがあった。

 

「じゃあ怖がる事なんてある意味ないんじゃない。わたしたち」

 

「くすっ、そうだね」

 

 顔を見合わせて笑い合う燐と蛍。

 

 今だってそうだが、この先どんな困難が降りかかっても二人一緒ならきっと大丈夫。

 

 見ている先が多少違っていたとしても。

 

「……燐」

 

 そっと囁かれて燐はドキリとなった。

 

「やっぱり寝れない? じゃあやっぱり子守歌だね。えっとぉ……」

 

 燐は割と数多いレパートリーから何を歌ってあげようか思案する。

 

(やっぱり童謡? バラード系もいいかな)

 

 などと考え込んでいたのだが。

 

「やっぱり戻ろう」

 

 蛍は上体を起こしてにっこりと微笑む。

 

 諦めたような寂しい顔ではなく、むしろ何かが分かったようなすっきりとした顔色になってているように見えた。

 

「でも、ここまで来たのに……いいの?」

 

 家の中に入ったのは蛍の方だったが、今は燐の方が言い訳めいた言葉を口にしていた。

 

「うん、もう分かったから」

 

「分かったって?」

 

「ここには何も無いってことが」

 

「そうなの?」

 

 意外そうに燐は目を見開いた。

 

「あ、そういう意味じゃなくて、この場所には”危険を冒してまで得るものは無い”ってこと。わたしの我がままでこれ以上燐を危険な目に合わせたくないから」

 

 これでも元は自分の家だから蛍には何か感ずるものがあるんだと燐は思っていたから。

 

 だからきっと、気を遣われている。

 

 蛍は殆どの場合燐に合わせてくれていた。

 

 割と些細な事でも燐の方を優先してくれていたから。

 燐も蛍の意思を尊重するように小まめに意見を聞くことにしていた。

 

 時には勘違いすることもあるし、ウザがられたこともあるだろうと思う。

 

 それでも燐は蛍を守ってあげたかった。

 

 蛍と対等に……友達になりたかったから。

 

 そんな蛍がこの家に自分から入って行ったとき、燐はちょっとだけビックリした。

 

 けど本気で止めるようなことはしなかった。

 

 やっぱり好きな人だから。

 

 好きな人が行こうとしているなら、そこに止める権利はない。

 それは燐だって。

 

 だから。

 

「もう、わたしが蛍ちゃんを守りたいのっ。じゃあ……いいんだね蛍ちゃん」

 

「うん。少しは休めたし、それにゆっくり降りれば大丈夫だから」

 

 意思を確認するようにお互いの瞳を見つめ合う。

 

 濁りのない澄んだ瞳。

 

 少女たちはそれぞれの瞳で大事な人と向かい合っていた。

 

 この歪みが残滓のように残った暗い部屋の中で。

 

 二人の存在だけが正常。

 あるいは逆なのか。

 

 その答えがどちらであっても、きっと離れ離れになることはないだろうと固く手を繋いで。

 

「燐、わたしはね……」

 

 蛍が何事か言いかけたその時だった。

 

 がたがたがたっっ!!

 

 大きな地鳴りの様な音と共に地面が震えだした。

 

 二人のいる階の床もぐらぐらと揺れ出す。

 

「きゃああぁっ!!」

 

「──っ、な、なに!?」

 

 たまらず悲鳴を上げる蛍。

 燐は蛍を庇うようにその華奢な体ごと抱きしめた。

 

 畳の床がぐらぐらと波打つように揺れている。

 

 天井に吊り下げられた、黒ずんで付かない照明が振り子のように左右に大きく振れていた。

 

 傘もランタンも倒れてしまった。

 けれどLEDの灯りは消えることなく、辛うじて視界だけは確保できていた。

 

「くうぅぅっ!」

 

 このまま倒壊してしまうのではないかと思うほどの強烈な衝撃。

 

 二人は抱き合ったままそれに耐える。

 その時が来るまでじっと。

 

 床か天井か。

 あるいはその両方か。 

 

 全てを崩してしまいかねないほどの強い振動が建物どころかこの世界を揺さぶっているようで。

 

 天井から粉のような埃がぱらぱらこぼれ落ちて、二人の身体に降り注ぐ。

 少女達は手を握り合ったまま固く目をぎゅっとつむった。

 

 こうしていればきっと終わる。

 

 いい意味でも、悪い意味でも。

 

 急転直下とも言えるこの状況に、燐も蛍も歯を食いしばって耐え忍ぶほかない。

 

 逃げ出すどころか立ち上がることすらもできない。

 

 身を固くして見えない嵐が過ぎ去るのを待つだけ。

 

 それ以外の感情は今のふたりにはなかった。

 

(燐っ……!!)

 

 揺れはどのぐらい続いていたのだろう。

 

 辺りがしぃんと静かになったのを見計らって、燐が瞼を薄っすらと開ける。

 

 もう地震のようなものはおさまっていた。

 

 噴煙のような黄色い煙が少し目に染みたが、床も天井もまだ無事の様で、抜け落ちてはいないようだった。

 

 蛍も重い瞼を頑張って開ける。

 

 煙が酷くて一瞬戸惑ってしまったが、目の前の燐の大きな目を見て、互いの無事を確認した。

 

「燐、大丈夫?」

 

「うん。どこも痛いところはないみたい。蛍ちゃんは?」

 

「わたしも平気」

 

 天板が抜け落ちそうになっているのか、木くずの滓のようなものがぽろぽろと零れていた。

 

 二人は口に手をあてて、そっと短く声を掛け合う。

 

「燐、早く出よう」

 

 こくりと燐は頷く。

 

 二人はなるだけ身を小さくしながら、そろそろと腰を屈めて歩き出した。

 

 みしみしと床に体重をかける度に嫌な感じの音がする。

 

 蛍はなるだけ下を見ないようにしながら、燐の背中を追って素早く部屋から抜けだした。

 

「はぁ、はぁ……」

 

「よ、よかったぁ……!」

 

 とりあえず当面の危機からは逃れることが出来たが。

 

「地震っていうかなんか凄い音がしたよね」

 

「うん。何かが当たったみたいな激しい音だった……」

 

 さっきまでの揺れと轟音が嘘みたいに静まり返っている。

 

 凪いだ海みたいに階段のあるホールは穏やかだった。

 

 この階段自体に被害は出なかったのだろうか。

 

 燐は今いる階段の上下を注意深く調べた。

 

「もしかして」

 

 何かに気付いたのか蛍はあっ、と声を漏らした。

 

「どうしたの蛍ちゃん。危ない箇所でもあった!?」

 

 真剣な面持ちで蛍に駆け寄る燐。

 もしこの階段に何かあればこれ以上登ることも戻る事すらも出来ないだろう。

 

 それぐらいここは生命線なのだから。

 

「あ、ごめんね、燐。なんかさ、かたつむりの家っぽくないかなって? こう上に伸びてるから」

 

「あぁ、えっと、うん」

 

 燐は一瞬、意味が分からなかったので曖昧な返事で返す。

 地震があったばかりだから、てっきり蛍が声を上げたのはそういう事かと思ったのだが。

 

「だからさ、今の地震も下のでんでんむしが動いたせいじゃないのかなって……どう? だめかな」

 

「だめっていうか」

 

 暢気に小さな舌を見せる蛍に、何かもう燐はため息をつかずにはいられなかった。

 

「そういうメルヘンなのは嫌いじゃないけど、さすがにこれはそういうのとは違うと思うよ。だって、わたしたちが中に入る前には”大きなでんでんむし”なんてのはいなかったしね」

 

 いたらいたで怖いとは思うが。

 

「じゃあ地面に隠れていた……とか」

 

「でんでんむしって地面に潜れるもんなの?」

 

 燐は素朴な疑問を蛍に投げた。

 

「さぁ……」

 

「……」

 

 ふたりは顔を見合わせたが、特に何の言葉もなくただ黙って立ち尽くしていた。

 

 遥か上の天井からも小さな木くずのようなものが時折降ってきている。

 

 やはりあの地震は部屋だけでなく、建物全体の様だった。

 

 それを見て燐は直感のようなものが働いたのか、真面目な顔で蛍に声を掛けた。

 

「ねぇ、蛍ちゃん。わたしちょっと下を見てくるよ」

 

「燐……」

 

「でんでんむしじゃないけど、もしかしたらってこともあるし。あ、蛍ちゃんはここで待ってててね。でも危なくなったらどこかに移動してていいから」

 

 移動と言っても上に上がるか、さっきの部屋の中ぐらいしかないが。

 

 他の部屋がある可能性もないわけではないが。

 

 燐は具体的な提案は言わずに、蛍に軽く微笑んで階下に降りようとする……が。

 

「蛍ちゃん……」

 

 燐の小さな身体を蛍が後ろから抱きしめていた。

 

「置いて行かないって言ったでしょ、燐」

 

「でも、危ないから……」

 

 きっと多分壊れている。

 

 あの音と振動は玄関が壊れたとか、ましてやこの家を支えるほど巨大なでんでんむしが這った音ではない。

 

 階段がどこからか崩れてしまったのだろうと思っていた。

 

 急に蛍がそんなことを言いだしたのは、多分見に行かせないため。

 

 蛍だってきっと分かっていた。

 あの轟音はただ事ではないことが。

 

 もう何度もこういった事を体験していたから。

 

 免疫というか予想が出来てしまうんだと思う。

 

 こういった分かりやすい不条理は蛍も燐も何度も経験済みなのだから。

 

「でも、やっぱり見て確かめないと」

 

 今更どうなるわけではないが、知ればきっと納得できる。

 

 もう前に進むしか道がないことに。

 

 それに万一そうでなかったとするならば、まだ戻れるかもしれない。

 望みは相当薄いだろうけど。

 

「どうしても燐が行きたいのなら止めないけど……」

 

 蛍は燐の体から手を離す。

 

 その代わりに燐の左手に蛍は腕を絡めた。

 

「わたしも一緒だよ」

 

 ──

 ──

 ──

 

「燐っ!?」

 

「蛍ちゃん下がってっ!!」

 

 さっきの地震の影響だろう、木の螺旋階段は途中からすっぱりと切れていた。

 

 燐は蛍を庇う様に前に立ち、壊れてなくなった階段の数段上から、抜け落ちた階下を見下ろした。

 

 黒い大きな穴がぽっかりと開いている。

 

 ランタンの明かりさえ通さぬ暗闇。

 

 下がどうなっているのか分からないのは、小平口駅で起きた最初の異変を再現したみたいだった。

 

 それにしても。

 

(いつの間にかこんなに高い所まで登って来ちゃったんだ)

 

 通りで身体が疲労を訴えるわけだ。

 

 燐は妙な事で感嘆した。

 

「戻れなく、なっちゃった?」

 

 蛍は燐の背後からその様子を見てつぶやく。

 

 燐はは首を後ろに向けて苦笑いした。

 

「うん」

 

 ここから地上まで何メートルあるかは分からないが、とてもじゃないが飛び降りれるレベルのものではない。

 

 仮に飛び降りたとしても助かる保証などなかった。

 

 翼でもない限りは。

 

「蛍ちゃんの言うようなおっきなかたつむりも見れそうにないねー、残念っ」

 

「うん、ホント残念」

 

 燐は蛍を和まそうとボケたつもりだったが、あっさりと蛍に返されてしまった。

 

「あ、でも、かたつむりじゃなくておっきなヤドカリの可能性もあるのかも。それなら地面に潜ることも出来そうだし」

 

 この状況で更にそんなことを言う蛍を、燐は呆れた顔で見返していた。

 

 …………

 ………

 ……

 

 木製の螺旋階段。

 二人の少女はゆっくりゆっくりと登る。

 

 先ほどよりもずいぶんと遅いペースなのだが、それでも二人ともただひたすらに、巻き付く階段を登っていた。

 

 途中から階段が無くなっていたこともあり、いざという時に備えてカニのように横ばいにもなって上ってみたのだが、無駄に体力を消耗するだけで、何の意味もなかった。

 

 それに、ここまで来たら何が起きても起きなくても同じだろうと、蛍と燐の意見は一致していたから結局普通に階段を登ることにした。

 

「ふぅ……」

 

 こうしてちょっと休憩することは多少はあるが、諦めの言葉は二人から出ることはなかった。

 

 前に進むしかないのは結局同じ。

 

 緑のトンネルか、螺旋階段の違いぐらいでしかなかった。

 

 けれども、廃線後のトンネルの時よりも身体の負担が大きいのは単純に階段を登るという行為が疲労そのものを与えてくるから。

 

 代り映えすることのない景色もそうだし、閉ざされた視界で単調に登り続けることは、殆ど拷問といってもおかしくはなかった。

 

(石を持ち上げながら登ってるみたい……)

 

 むしろ制服しか着ていないから蛍は殆ど手ぶらなのだが、そのぐらい身体が重くなっていた。

 

 持ってきたあの傘は、あの地震のごたごたで部屋の中に置き去りのままだった。

 

 再び階段を上る際、さっきまでいた部屋の中をもう一度覗いてみたのだけれど、どうやら天井部分がもたなかったのか天板はすっかり無くなっていて、中は木の瓦礫で埋め尽くされていた。

 

 もう少し出るのが遅かったらと思うとぞっとする。

 

 ランタンだけは部屋を抜け出す際、燐が手にしていたけど。

 

 蛍にはその余裕はとてもじゃないがなかった。

 

「ううっ……」

 

 たった、一段。

 階段を上がるだけで何か神経のようなものがすり減っていくみたいで落ち着かない。

 

 ちょっとでも乾いた木の音がするだけで蛍は身の竦む思いをした。

 折れそうに華奢な足をがくがく震わせる。

 

 もし、もうちょっと体重をかけてしまったらそのまま足元の板が割れていくのではないかと、気が気じゃなかった。

 

 さっきまでは普通に登れていた階段だったのに。

 ちゃんと手すりまでついているから安心だねって燐と頷き合ったぐらいだったのに。

 

 今はもう怖くてたまらない。

 

 まだ吊り橋の方が足場としての体勢を保っていると思うぐらい。

 

 それほどこの階段も、家もその概念すらも何一つ信用に足りるものはなかった。

 

 それでも登り続ける理由とは。

 

(もう、道はないんだもん)

 

 燐はともかく、きっと自分は()()()()()()()()に囚われたままなんだ。

 

 青いドアの家ではなく、この歪な姿になった三間坂家の有様こそが自分がいるべき家なんだと。

 

 蛍はそう思っていた。

 

 それは直感というよりも、”血”だろうか。

 

 きっとそれは唯一残った自分だけ(ざしきわらし)のもの。

 

 頭でも心でもなく、お腹よりも少し下の体の内側から感じとっている本能みたいなもので。

 何とも奇妙な感覚だった。

 

「ねえ、蛍ちゃん。もし鏡があるとして、それはどんな鏡だと思う」

 

「え、鏡?」

 

 蛍はついぼんやりとしていたので、燐の問いを理解するのにちょっと時間を要した。

 

「えーっと……」

 

 ──かがみ?

 

 そう言えば鏡を探しにここに来たんだったっけ。

 

 登山したときもそうだったが、目の前の困難を乗り越えるのに必死過ぎて、当初の目的を忘れそうになる。

 

 そもそも目的が無ければこんな所になんて……。

 

(来なかったなんて、言い切れないけど)

 

 燐に言われて蛍は考えるそぶりを見せる。

 けれど実際は何も頭には浮かんではこなかった。

 

「……白雪姫の鏡じゃないよね、やっぱり」

 

 蛍の口から出てきたのは結局これだった。

 

「それだったら何か可愛げがありそうだね。”この世で一番美しいのは……蛍ちゃん、貴女です!”、なんてね」

 

 あからさま過ぎる台詞でからかう燐に、拗ねるどころか蛍はぷっと噴き出した。

 

 燐の仕草もその言葉もとても可愛らしかったから。

 蛍の知らない燐の小さい頃を見ているみたいに。

 

「もう……流石にそれはないよ。むしろ燐の方が鏡に選ばれるんじゃない。”おぉ、このお姫様も意外と綺麗です”とか、おまけな感じで」

 

「”意外”とか”おまけ”は余計なんじゃない?、でも、案外ありそうかもね。最近は活発なお姫様も普通にありみたいだし」

 

 蛍の軽口に謙遜することなく、燐は似合わないすまし顔をつくってみせる。

 

 蛍はまたひとりで噴き出していた。

 

「じゃあ、燐は何だと思っているの?」

 

 笑いすぎたのか、蛍は目元を少し拭いながら燐に尋ねる。

 

「わたしはね……”浄玻璃(じょうはり)の鏡”なんじゃないかなって思ってるの。略して”ハリちゃん”」

 

「あ、それ何か聞いたことある。確か……閻魔様が生前の罪を見抜くための鏡……だったっけ」

 

 燐と同じく蛍もマンガか何かで見たような。

 そんなことを思いだしていた。

 

(それにしてもハリちゃんって一体……)

 

 燐のネーミングセンスに文句をつけるつもりは無いが、安直と言うかそのまますぎる。

 

 蛍は”ハリちゃん”のことには触れずに燐に話のつづきを促した。

 

「うん。わたしが知っているのもそんな感じ。で、鏡でその嘘がバレちゃうと、閻魔さまに舌を抜かれちゃうって事だよね。ハリちゃんって怖いよねー」

 

 この分だと事あるたびにその名を言われそうだ。

 蛍はそう思ったので。

 

「その……”ハリちゃん”があの上に?」

 

 言ってて恥ずかしくなる、燐は平気なのだろうか。

 

 なんか顔を合わせがたくて頭上を見上げながら指さす蛍。

 燐もその方向に顔を向けて仰ぎ見た。

 

 さっきの地震の影響なのか、暗くてその先が見通せなかった遥か上の天井から一条の光が指し込んでいた。

 

 粒子のような粉を撒きながら今二人のいる遥か下の階段のまで光の柱が伸びている。

 

 手を伸ばせば届きそな程で、燐と蛍は感慨深い瞳でその光景を眺めていた。

 

 もし、天井どころか屋根が無くなったせいで外からの光が漏れだしているのなら由々しき事態なのだが。

 

 キラキラと光を纏っているのは多分、外からの雨だろう。

 

 この辺りの家屋は基本、屋根瓦ばかりだから、上の屋根の何枚かが飛んで行ったか、あるいは壊れてしまったか。

 

 どちらにしてもこれは悠長に眺めを見ていられる状況ではなかったのだが。

 ふたりが直ぐそれに気づくことはなかった。

 

「あれだよね、蛍ちゃんは何も隠し事とかなさそうだから鏡に見られても大丈夫そう、だよね」

 

 燐は唐突に話を戻す。

 蛍は小さく笑って返す。

 

「燐だってそうでしょ?」

 

 そう言われて燐は驚いたように一瞬目を見開いた。

 

「それは……どうかなぁ。わたしは、ちょっと自信ないかも」

 

「わたしだってそうだよ。ちょっとの嘘でも言わない人なんてそれこそいるわけないしね」

 

「それはまあ、そうだよね」

 

 そう言って燐は肩をすくめた。

 

「それでも燐は行くんでしょ」

 

 退路を断たれた以上、登るしかないのは確かなんだけど。

 

「蛍ちゃんといっしょに、ね」

 

 燐は蛍の手を取る。

 

 この場所に来てから蛍は何かと積極的だが、その反面とても儚くも見えたから。

 

 だから燐はちゃんと蛍の手を握った。

 そうすると蛍も手をぎゅっと握り返してくれるから。

 

 分かっていたんだと思う、お互いに。

 

 自分から離した手なのに、またそうやって握り返してくれることを。

 

 それだけで──幸せだから。

 

「あ、ねぇ……蛍ちゃん。今、どれぐらい疲れてる?」

 

「う~んと……60%ぐらいかな。これでも体力ついたほうだから。燐は?」

 

「わたしは、55%ぐらい」

 

「燐、ほんとに?」

 

「ほんとほんと。最近は勉強ばっかりで部活も身に入らないんだよねぇ。あー、怠けてるなぁ、わたし」

 

 ピンっと背筋を伸ばす燐。

 

 明らかに気を遣われているのは分かったが、燐が楽しそうに言うので蛍はそれ以上は何も言えなかった。

 

「でも、それなら大丈夫そうだね」

 

「何が大丈夫なの?」

 

 こちらをみて笑顔を向ける燐に蛍は首をかしげた。

 

 なんかこう、作為のある表情(かお)だったけど、とりあえず蛍は聞いてみた。

 

「ちょっとだけ走ってもいいかな? こういうのは一気に行っちゃったほうが案外楽なんだから」

 

「えっ!? ちょ、ちょっと待って燐。わたしまだ了解もしてないし、それに心の準備が……」

 

 確かに以前に比べたらトレッキングやハイキングをしているから、ちょっぴり体力はついたと自分では思うが、だからって走るだなんて聞いていない。

 

 燐と違って帰宅部なのは変わっていないわけだし、体育の成績だってそれほどだし……。

 

 何より燐のペースで階段を駆け上がるだなんて、そんな大それたこと。

 

「山道も階段も元をたどれば同じ道だからへーきへーき。もしダメそうだったら折を見てちゃんと休憩するから」

 

「そ、そういう問題じゃ──」

 

「じゃあ行くよっ、蛍ちゃん!! しっかりついてきてねっ」

 

 焦燥感を感じた蛍が燐に何かを言おうとする前に、燐は走り出してしまった。

 

「あうっ!」

 

 舌を噛むことは避けられたが、手を引っ張られたまま急に走り出したので足がもつれそうになる。

 

 ややもすれば転んでしまいそうな蛍だったが。

 

(燐に、ついて行くんだから、何があっても、ずっと)

 

 頭の中で何度も反芻しながら蛍は足を前に動かす。

 

 自分の足じゃないみたいにロボットのようにギクシャク上下しながら勝手に階段を駆け上がっている様子がなんかおかしかった。

 

 疲れるのは他でもない自分なのに、足が体が動くことを止めてはくれない。

 

 何のために階段を上っているかなんて、それすら脳が拒否していた。

 

「はぁ、はぁ、燐、りん……」

 

 背中を見つめながら譫言のように繰り返す。

 

 燐の行動はあまりにも突飛でそれに蛍が振り回されている。

 

 傍目にはそう映るのだろうが、実際はそうではなく蛍にだって自分の意思だってある。

 

 燐がもし誤ったことをしていればそれを普通に指摘できるし、場合によっては言い合いになったとしても良いとさえ思っていた。

 

 だからこれは違う。

 

 燐のとった行動は間違いないと思っていたし、そうする理由も明確にしなくても蛍にはわかるから。

 

 燐はきっと分かったんだと思う。

 

 木製の螺旋階段だけじゃない、この建物全体がもうもたないだろうということに。

 

 いつからこうなっていたのかは分からないが、もともと無理のある建造物だったのだろう。

 

 外も内もそれなりに出来てはいるが、基礎というか建築上の理論を果たしていない。

 

 それは見せかけだけのハリボテ。

 砂上の城だった。

 

 だからこそ急ぐ必要があった。

 

 唯一の道である階段すら無くなってしまったら、それこそ何のためにここに来たのかが分からなくなる。

 

 緑の壁に阻まれた時のように。

 

(意味のない行動はもう懲り懲りだから……!)

 

 燐は走りながらも内心歯ぎしりを抑えられなかった。

 

 無意味な努力、行動は燐が最も嫌うことだったし、手遅れ何て言葉は耳に入れたくすらなかった。

 

(でも、蛍ちゃん凄く頑張ってる……わたしが居ない間ひとりで頑張ってたんだ……)

 

 燐の言う通り、蛍の足は意外にも階段をちゃんと捉えて登っていた。

 

 燐のペースについて行くには一段一段登っていたのでは到底追いつかない。

 

 ずっと続けるのは無茶だと思っていても一段抜かしで登るしかないのだが。

 

「はっ、はっ、はっ」

 

 蛍はぎりぎりのところで燐になんとかついて行っている。

 

 明らかに無理と思ってた、燐のペースに()()()()()で食らいついていた。

 

 ……勢いのままがむしゃらに駆けあがっているとも言うが。

 

(やっぱり、ついて行けている!? 蛍ちゃんは本当はとっても凄いんだよっ)

 

 燐は足を前に向けながらちらりを後ろを振り返った。

 

 答える余裕はないみたいだったが、綺麗な顔を苦痛に歪めながら、それでも必死に後を追う蛍の姿があった。

 

 強がりのようなことを蛍が言っていたのは分かっていたが、今は正直余裕はなかった。

 

 だから強引に手を引っ張っちゃったんだけど。

 

(もう一人で本当に大丈夫なんだね。蛍ちゃん……)

 

 胸の内が少し寂しくなった。

 

 その事はもう分かっていたけど、どこかまだ不安もあったから。

 

 だからまた、一緒にいるわけなんだけど。

 

(わたしがいなくても本当に大丈夫だね……今度、こそ)

 

「どうしたの……? 燐」

 

「……えっ」

 

 息をつっかえながら、無理だろうと思った蛍が話しかけてきた。

 

 燐は一瞬、走りながら蛍と目を合わせる。

 

 蛍の瞳が燐を見つめながら心配そうに揺れている。

 

 そう燐には見えた。

 

「……やっぱり、頑張り屋さんだなって思って、蛍ちゃん」

 

 心を見透かされたと思った燐は直ぐに視線を逸らせて、ちょっと大げさに声を出した。

 

 蛍は目を見開くも苦笑いを浮かべるだけ。

 

 喋ってしまったことで余計に息が苦しくなってしまったみたいだった。

 

(本当に、凄いよね蛍ちゃんは、いっつも一生懸命で……)

 

 蛍という少女に出会えた奇跡に感謝しながら、燐はもう少しだけペースを速めた。

 

 

 ────

 ───

 ──

 

 

「何とか……着いたね……蛍ちゃん、お疲れ様。凄いね、新記録じゃない」

 

 息も絶え絶えに額に汗を滲ませながら燐は蛍の健闘を讃えた。

 

 何の記録なのかまでは分からないが。

 

 その蛍は。

 

「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」

 

 燐に突っ込むだけの気力もとうになく、その場で息を吐いてへたり込んでいた。

 

 口から漏れるのは声ではなく吐息。

 蛍はただ酸素を取り込む為だけに集中していた。

 

「あはは、ちょぉっと飛ばしすぎちゃったみたいだね……ごめんねー蛍ちゃん」

 

 苦しそうに喘ぐ蛍を見て燐は罪悪感を覚えたのか、燐は手をあてて蛍に謝った。

 

 蛍は声のかわりに小さく手を降った。

 

 大丈夫だよ──。

 そう言ってるように。

 

 燐は辛そうな蛍の仕草に苦笑いして返した。

 

「にしても、この部屋ってなんだろ……?」

 

 蛍が息を整えている間、燐は部屋をぐるりと見渡す。

 

 改めてみてもごく普通の部屋。

 それ以外に感想は出なかった。

 

 ──階段を上った先にあったのは普通の部屋だった。

 

 この階にだけきちんとした普通の廊下があり、それは奥にまで続いているようだった。

 

 先に辿り着いた燐は面食らいながらも、そろそろと廊下を進む。

 

 蛍は驚くことも戸惑うことも見せずに、燐に手を引かれるがまま後を着いてきていた。

 

 身体はもうとっくに限界を超えている。

 だから早く止まって欲しいのだけれど、燐に置いて行かれたくはない。

 

 そのせめぎ合いが蛍の足を無理でも動かしていた。

 

「あっ──」

 

 ちょっと先まで行くとすぐ行き止まりとなった。

 

 そこには白い襖があるだけ。

 

 襖には何の模様も施されてはいない。

 そんな殺風景な襖の前で二人はぼーっと立ち尽くしていたのだったが。

 

「……開けてみるね」

 

 燐は蛍の返事を待たずに襖をするりと横にずらす。

 また開けられない襖なのではと一瞬思ったが、ここはそんなことなかった。

 

「お邪魔しますー」

 

 燐は、一声掛けてから部屋の中に足を踏み入れる。

 

 返事がないのは当然で、中には誰もいなかった。

 

 中は……小綺麗な和室。

 ちょっと趣のある感じの部屋だった。

 

 先ほど休憩する為に入った古い和室とは違い、誰かが使っていたような生活感がどことなく感じられる。

 

 生活感と言っても目を引くのは小さなちゃぶ台ぐらいで、後はなんの変哲もない部屋なのだが。

 

 実際は、変哲もないと言うにはちょっと変わった点が一つだけあったのだが。

 

(なんで、こんなに”てるてる坊主”が吊るしてあるんだろう……それも壁いっぱいに)

 

 雨上がりを祈願するといっても精々一つや二つを吊るせばいいだろうし。

 

 ここまで吊るす意味と言ったら、何らかの切実な理由でもあったのか

 

 例えば、大きな水害や河川の氾濫とか。

 

(あれ?)

 

 物珍しそうにてるてる坊主を眺めていた燐は、ある事実に気付いた。

 

 本当にちょっとの違いなのだが、てるてる坊主の顔は、その一つ一つが違って描かれていたのだ。

 

 てるてる坊主に異なる個性が存在していた。

 

 個体と言った方が正解なのだろうが。

 

 そしてそれはある種の意図的なものであることにも気付く。

 

 目が大きかったり、鼻が高かったりといった細部だけではなく、てるてる坊主自体の大きさもまちまちだった。

 

 不器用という意味ではない気がする。

 

 何故なら顔は違っていても皆きちんと整えられていたから。

 

 適当な感じはない。

 元になった人でもいたのか、それぞれが愛嬌のある顔をしていた。

 

 それに重ならないように等間隔に配置してあるところを見ると、寧ろ器用というか完璧主義なきらいさえ垣間見えるほどだった。

 

 中には双子をイメージしたのだろうか、全く”対”のてるてる坊主もあった。

 

 それぞれが違った存在感を放っていて、同じてるてる坊主でありながら、異なる印象を与えてくれる。

 

 しかし……どんな形であっても、あることだけは徹底されていた。

 

 ──それは首が括られている、と言うこと。

 

 どのテルテル坊主にも首に相当する部分には必ず紐が括りつけられており、その紐だけで天井からつるされていた。

 

 それでも一、二体ぐらいなら可愛げもあるものだろうが、それが複数、十数体以上並べられている光景は、懐かしさを覚えるというよりもむしろ……。

 

(ちょっと、怖い……?)

 

 不意に頭に浮かんだ言葉に燐は自分でびっくりしていた。

 

 幼い頃にもよく作っていたし、山に行く前日などにもよく吊るしていたから、珍しいどころか割と日常的なものだった。

 

 それに最近でも自分で作って吊るしていたし、てるてる坊主を見て怖いなんて感情はこれまで一度も持ったことなどないのに。

 

 それと、なんだろう……?

 少し心がもやもやとする。

 

(わたし、この光景に何か見覚えがあるの……?)

 

 心がそう訴えているような気がした。

 

 でも、どこで?

 

 その肝心な部分がどうしてか思い出せない。

 自分の胸に聞いたって多分答えなどないんだろうけど。

 

「燐、どうしたの、ぽかんとして」

 

 やっと呼吸が整ったみたいで、床に座り込んでいた蛍が不思議そうに燐の顔を眺めていた。

 

「えっとぉ……」

 

 燐は言葉を濁そうとした……のだったが。

 どうせ蛍の目にも映っているだろうから、やはり聞いてみることにした。

 

「蛍ちゃん。この部屋も見覚えない?」

 

「うーんと……」

 

 ようやく目を向けることが出来るようになった蛍は、改めて今、自分たちのいる部屋の中を見渡した。

 

 これでも自分の家だから、どこかの使われていない部屋だろうとは思っていた。

 

 ちゃぶ台がとりあえず置いてあるぐらいで、後は特に気になるような調度品などは置いていなかったから。

 

 ただ、燐がじっと眺めていたてるてる坊主の群れをみたときには、蛍の視線も止まっていた。

 

 覚えがあるというわけじゃなく、もっと深い、因縁めいたものを微かに感じとったからだった。

 

 それはあのオオモト様そっくりの人形を一目見た時と同じ感情に似ていた。

 

「ううん、やっぱり初めてみる部屋だよ」

 

 小さく首を振りながら蛍はきっぱりと言った。

 

「そっかぁ」

 

 燐は落胆したように小さくため息をつく。

 

 蛍が知らない部屋だということは、鏡に対する手掛かりもないということだった。

 

 何故ならこの和室には鏡が置いていなかったから。

 

 当然窓もない。

 

 だが天井に穴が開いているというわけでもないようで、最上段なのに雨漏りの染みひとつ畳にはついていなかった。

 

 だったら光はどこから漏れていたのだろうか。

 

 畳のさらに下の床に穴でも開いたのか。

 

 燐は畳を引っぺがすべきか考え込んでいたが……。

 

「っくしゅん!」

 

 くしゃみの音が部屋に響く。

 

 燐は恥ずかしそうに顔を赤くして鼻を抑えた。

 

「風邪でも引いたの?」

 

「そうじゃないとは思うんだけどぉ……わたしも大分汗かいちゃったからかなぁ?」

 

 もごもごと恥ずかしそうにつぶやく燐だったが、そうこう言っている間に、くしゅんとまた可愛らしい声がした。

 

「タオルとかあればいいんだけど……」

 

 手持ちのものはほとんど持っていない。

 あるのはランタンだけで。

 

「にゃぐっ……」

 

 燐は鼻をぐすっと啜る。

 

 幼く聞こえる燐の鼻声に蛍はふふっと自然に微笑んでいた。

 

「もしかしたらこの部屋に何かあるかも」

 

 蛍は迷いもなく、まだよくわからない部屋の押し入れの開け始めた。

 

 がらっ。

 中は……予想通り空っぽだった。

 

 蛍はもう一つの押し入れのドアを開ける。

 

 ぱかっ。

 

 やはり何もはいってはいなかった。

 

 その間も燐のくしゃみは止まらないようで、蛍に迷惑が掛からないように部屋の端っこに移動して、くしゅんくしゅんとひとりで鼻を鳴らしていた。

 

(何か、何かないのかな……!)

 

 焦った蛍は手当たり次第に部屋の中を物色し始めた。

 

 箪笥の様なものはなかったが、小さな戸棚のような引き出しが並んで置いてあったので、片っ端から開けてみた。

 

 がらっ。

 

 がらっ。

 

 やはり何もない。

 もう一つの引き出しを開ける。

 

 こちらも外れ。

 

 どうせこれも……と思って開けた蛍の手が止まる。

 

 中には、二人が今、切実に求めていたものは入ってはいなかったが。

 

「鏡……!?」

 

 蛍の小さな手に収まる程度の丸い鏡が、むき出しのまま狭い引き出しの中に無造作に入っていた。

 

 と、鏡の後ろに紫の布が敷いてあったので蛍は鏡を一旦どけると、その布をすぐに燐に手渡した。

 

「……これ、いいのかなぁ……」

 

 喜んで受け取った燐だったが、何となく高級そうな布だったので、鼻を噛むのにはやはり若干の抵抗があるのか、一応蛍に問いかける。

 

「まあ、いいんじゃないかな。一応非常事態だし」

 

 若干無責任ともとれる蛍の発言だが、他に変わるものがあるわけでもなく、燐はまざまざとその布を見つめると、その布に謝った後で鼻に当てた。

 

 恥ずかしいのか燐は蛍に背を向けると、ぎこちなく鼻をしゅんしゅんとかんだ。

 

「はぅっ、結局使っちゃったぁ」

 

 すごく罰当たりなことをしてしまった感があったが、背に腹は代えられないというかティッシュぐらいその辺の戸棚にあって欲しかった。

 

 汚した部分を下にして丁寧に折り畳むと、どうしようかと一瞬逡巡したのち、燐は自分の制服のスカートのポケットに恥ずかしそうにしまった。

 

「えっとぉ……蛍ちゃん、他に何かあった?」

 

 誤魔化すように自身の鼻をつまんだりしながら、まだ顔の赤いまま燐は蛍に尋ねる。

 

「あ、うん」

 

 蛍は恭しい手つきで持っていた小さな鏡をちゃぶ台の真ん中にそっと乗せた。

 

 鼻を赤くした燐は感嘆の声を上げる。

 

「鏡! あったんだね、良かったぁ。けど……蛍ちゃんこれがもしかして……ハリちゃん?」

 

「うん……全然小さいよねこれ」

 

 五センチほどだろうか、鏡は掌に乗る程度の大きさしかない。

 鏡面は綺麗に磨かれているようで、少女たちの顔を鮮明に映していた。

 

 燐の”ハリちゃん”のネームにはピッタリなサイズだとは思うが……。

 

 問題はそこではなく。

 これではとても。

 

「鏡の中に入ることなんて出来そうにないよね」

 

 蛍は困った顔で鏡を見下ろす。

 見つかったと言ってもこんなものでは到底意味をなさない。

 

「んと……」

 

 それでも燐は鏡の鏡面に指を伸ばす。

 

 もしやと言う事もあるし。

 

 つんっ。

 当然、燐の細い指が貫通するはずもなく、鏡は普通の鏡のままだった。

 

「そう上手くいくはずないかぁ」

 

「そうだね……」

 

 燐は諦めたように畳の上で四肢を伸ばした。

 蛍はその横に座って深いため息をつく。

 

 結局ここまで頑張って登ったのに、全くの無駄骨だったようだ。

 

 もう二度とすまいと心に誓っていたのに、またこうして徒労に終わってしまうだなんて。

 

「はぁ……」

 

 燐の唇からもため息がもれる。

 

 こんなぬか喜びするぐらいだったら、まだ鏡なんてものがない方がマシだった。

 そう思うほどに。

 

 みしりっ。

 

 何かがひび割れたような音が二人の耳朶を打つ。

 

(なんか音が……?)

 

 燐が音の正体を調べようと上体を起こしたその時。

 

「きゃああああっ!」

 

 二人のいる部屋全体が突然真っ二つになる。

 

 天井も畳も綺麗に二つに分かれて砕けた。

 

「わあああぁぁぁ!?」

 

「燐!!」

 

 とっさに柱を掴んだ蛍は燐の手を握って、部屋と共に落下する燐の体をすんでのところで繋ぎとめる。

 

「うぐうぅぅぅっ!!!」

 

 小柄な燐の体重はかなり軽い方ではあったが、流石に蛍一人の力では支えきれるものではなく、つなぎとめた蛍の方が持たなかった。

 

 綺麗な顔はみるみる内に汗で真っ赤になっていく。

 

 もう一秒たりも持たなかった。

 

「蛍ちゃん無理しないでっ!!」

 

 そう叫ぶも今の燐にはなすすべがない。

 完全に蛍ひとりの力だけで助かっている状況だから。

 

(ど、どこか掴まるところは……アレっ!!)

 

 混乱した頭で燐が見回した先にあったものは、小さなちゃぶ台の足。

 上手い具合に引っ掛かっているらしく、燐が掴まる程度ならなんとか出来そうだった。

 

 というか、そうするほかなかった。

 

 一刻の猶予もない、そう瞬時に判断した燐は飛び移ることを決意した。

 

「蛍ちゃん、ちょっとだけそのまま握っててねっ!!」

 

 燐は蛍の手をしっかり両手で握ると、振り子の要領で体を揺らして一気に飛び移った。

 

「燐ー!!!」

 

 ぱっと重さから解放された蛍が叫ぶ。

 

 刹那の瞬間。

 

 ぱしっと、小気味よい音がして、燐の手はちゃぶ台の足のところを見事に掴んでいた。

 

「はぁ……なんとか……」

 

「良かった、燐……」

 

 二人が同時に安堵の息を吐いたとき、きらめきながら何かが滑り落ちていった。

 

「ああっ! 燐、ハリちゃんが!」

 

 蛍の叫び声を聞いて燐は顔を上げた。

 

 それまで何かに支えられるように落ちることなかった小さな鏡が今更になって滑り落ちていった。

 

 我に返った燐は懸命に手を伸ばす。

 

「ハリちゃんっ!!」

 

 燐は愛着を持ってその名前を叫んだ。

 

 だが、片手では上手く力が入らなかったのか、燐の手から逃れるように無情にも鏡は下へと落ちて行ってしまった。

 

「あ……」

 

 燐と蛍はなすすべなく見送るしかなかった。

 

 その後を追う様に、梁に括り付けてあった白いテルテル坊主達も次から次に落ちていく。

 

 笑みを絶やすことなく落ちていくテルテル坊主。

 

 それは、不気味というより自分の運命を知っているかのようで、健気で儚いものに見えた。

 

 その光景を呆然と見る二人に、更なる悲劇が襲った。

 

 ばきばきばき。

 

 無慈悲とも言える音が鳴り響き、さらに天井が崩れていく。

 

「──っ」

 

 何もできず落下していく二人の少女。

 

 だがもう少女達は奇跡ともいえる動きで落下するお互いの身体を抱きしめた。

 そんなことをしても意味などもうないと言うのに。

 

 一瞬の内に落下していく二人の目の前で、必死に登ってきた階段も壁も音を立てて崩れていく。

 

 何もかもが消えて無くなっていく。

 

 家も町も想いでさえも。

 

 まるでそうなることが予言されていたみたいにあっけなく、何の余韻も残すこともなく。

 

 全てが灰燼と化していった。

 

 悲鳴も何もでない。

 

 しぬとはそういうことなんだ。

 

 二人がそう理解したとき。

 

 ──底で何かが光っていた。

 

「月……!?」

 

 風に押されながら蛍は目を見開く。

 

 鏡が落ちて丸い月が遥か底の方に現れていた。

 

「夜のない世界の……月……」

 

 燐が小さく呟く。

 

 ようやく分かったことだった。

 さっきの地震のような揺れは地震そのものではなく、水によるものだったのだと。

 

 雨水が決壊して起きた衝撃だったのだと、やっと分かった。

 

 その証拠にこれから落ちていく先の地面がきらきらと光っている。

 

 何故この家が巨大な円柱のような形になっていたのか、それはこういうことだった。

 

 月のない世界に月を呼ぶためにこの形になっていたのだと。

 

 この家の意味がやっと分かった。

 

 小さな鏡は鏡のままだったけど、これこそが本来の鏡なんだ。

 

 光と水で作った、大きな月の鏡。

 

 これこそが二人が求めていたもの。

 向こうとこちらを繋ぐもの。

 

 そのものだった。

 

「わたしたち……このまま月に……?」

 

「うん!」

 

 月に落ちる直前、二人は顔を見合わせる。

 

 それ以上の言葉はもうない。

 代わりにかけがえのない温もりがあった。

 

 温かさで いっぱいだった。

 

 二人は一つになって真っ逆さまに落ちていく。

 

 抱き合ったまま落下していく少女達の姿は儚く、でも純粋な。

 ひとりでにこぼれた、小さな涙滴みたいで。

 

 

 一つのきれいな星のようだった。

 

 

 ────

 ───

 ──

 

 





まだ6月だと言うのに暑い日が続きますねー。こんな時は例年通りスキンマスクをしておりますよ~。特に今年は電力がひっ迫しているとの事なのでなるべく冷房には頼らずにこういったエコっぽい物を使っていこうかなんて思ってます。
中には化粧水染み込ませて使うものもあるようですが、あれって何か水分量っていうかしゃばしゃば感が足りなくて……やっぱり専用のものがいいですねえ。
顔全体を覆うマスクだけでなく、目の下に貼るタイプのも使ってます。これもなかなかひんやりして気持ちいいーーけど、目の下のクマがとれる気はしない……自分のクマが濃すぎるせいなのかもしれないのですが……。

この前、胡瓜をスライスしていたら自分の指も一緒にスライスしてしまいました。皮だけじゃなく肉も少々削ぎ落してしまったのか、赤い血液がおびただしく流れてーーーまあ、普通に痛かったです。

神絵師でクリエイターで尊敬するアーティストのKohada先生が事故に遭ったようでして、かなり……心配です。怪我の程度が酷くなければ良いのですけれども。
まあ、焦っても治るものでもないですし、ゆっくり休養をとって頂ければと思います。どうかお大事になさってください。

ちなみに私も前に事故にあったことがありますです。まあこうして勿体ぶった言い方をしなくても誰もが大なり小なり事故に遭ったことがあるかなーって。人も車もとても多いですからねー。

私の場合は夜、原付で道路を走っていたら、対向車線の右折に巻き込まれてしまったんですよねー。急ブレーキを掛けた所までは覚えてるんですけどその後の記憶が……車のドライバーによると、追突された衝撃で投げ出されてフロントガラスに頭から突っ込んだみたいです。

幸い命に別状はなかったみたいですけど……まあ、あったらこうしてはいないですね。
重症というほどでもないとは思いますが、足の指の骨折と、当時はジェットタイプのヘルメットだったので、そのせいで唇をざっくり切ってしまいまして、鼻もちょっと骨折したみたいで……大体全治二ヵ月程度だった気がします。実は今もちょっと後遺症みたいなのが唇に残ってるんですよねぇ。目立たないとは思うのですけど。

実況見分の際、警察の方に、これは助からないだろうと言われたことを今でも覚えてます。
それぐらい事故の状況が酷かったみたいです。自分ではそんなでもないだろうと思ってたぐらいなんですけどねー。


それではではー。

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