We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life.   作:Towelie

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 ──大事にしてるつもりだった。

 何よりも大事に。

 例えどんなカタチになったとしても。

 ずっと好きでいられる。
 そう、思っていた。


 ──見上げる空が高い。

 普段見る空よりももっとずっと高く、遠くに感じる。

 ぽつりぽつり、と。

 一定のリズムで音が耳に届く。

 とくん、とくん。

 内側からも音が響く。

 力強く、どこまで響いていきそうな音。

 けれど、なぜか弱々しくも聞こえた。

 動けない。

 けれど、もう動く意味さえもなかった。

 周りでぷかぷかと浮いてるのはバラバラになった自分のからだと、ただの白い布。

 布を巻いた小さな人形の成れの果て、だけ。

 右手には温もりがまだ残っている。

 けれど、そちらを向くことが出来ない。

 何かが体に纏わりついているみたいで、指一本動かすことも叶わなかった。

「あ……」

 呻き声ともとれる声を発した末に見たものは。

 何かの塔みたいに屹立(きつりつ)に変貌した友の家。

 屋根が吹き飛びざっくりと裂けた天井から垣間見えたのは、澄んだ青い空ではなく、何かの集合体みたいなぼんやりとした光が輪のように広がっている光景だった。

 そして、とぷりと闇に沈んだ。
 
 ……
 ……
 ……
 
「んっ……あれ?」

「どうしたの」

「どうしたのって……あれぇ?」

 目をぱちぱちとさせる。

「今日は珍しくお寝坊さんだったね、燐。まあ、ゆっくりしててもわたしはいいんだけど」

「……」

 夢……なんだったっけ?

 何かもう概念というか実感が湧かない。

 だってまだ眠いし。

「蛍ちゃん。今、何時?」

 燐は今、頭に浮かんだ時間の概念の有り様をたずねてみた。

「えーと、7時19分……あ、20分になったばかりだね」

 なぁんだ。

 それならまだ少しぐらい寝てても問題ないよね。

 余裕から安堵が生まれると、また眠気がぶり返してきたみたいで、再び眠りにつこうとした燐はベッドの端っこに投げれられていたペイズリー柄の薄いブランケットを器用に足の指で手繰り寄せると、それで体をくるんで、首をもぞもぞと蠢かせた。

 起きることを断固拒否しているみたいな、燐のその仕草を見て、呆気にとられた蛍は口に手を当てた。

「燐、起きないの? でも、遅れたらやっぱりまずいのかなぁ。一応約束していたことだしね」

 やくそく?
 約束って何だったっけ。

 蛍の独り言を遠くの喧騒のように感じながら、燐は穏やかな微睡みの中に再び落ちようとしていた。

(ん……?)

 意識と共に目が完全に閉じられるその直前、何かの気配を感じ取った燐は鬱陶しそうに薄く瞼を開く。

 ふっと、顔に影が下りてきたと思った瞬間。

 瞳。
 というか顔が鼻先まで近づいていた。

「ほ、ほたっ」

 燐は急に意識を取り戻すと、慌てて声を出そうとしたのだが。

 ぎゅむっ。

「るっ……ぷぎっ!!??」

 自分の身に何が起きたのかすぐには良く分からなかった。

 燐は、目をしろくろとさせて、年頃の女の子がまず出さない、奇妙な声を朝っぱらから高らかに上げてしまっていた。

 それもそのはずで、蛍がまだ起き抜けの燐の小さな鼻を指でつまんで塞いでいたせいからだった。

「燐、起きて」

「むー、いみゃ、おきたよぉ、ほたるにゃーん」

「ん、にゃん? にゃんにゃん?? 何か燐、ネコみたい」

 突然の事に燐は涙目になりながら、蛍に許しを乞う様に首を横にふるふると振った。

 一方の蛍は、燐が事故的に発した一言が面白かったようで、本物の猫と戯れているみたいに、にゃんにゃんにゃんにゃんと真似をしながら、くすくすと微笑んでいた。
 
 二人の何とも不思議な朝の光景であった。

「あ、そういえば燐、起きたんだね。おはよ、燐……にゃん」

 鼻を摘ままれたまま燐に、蛍がにこっとしながら平然と朝の挨拶をしてきた。

「むー、おはよ、蛍ちゃん……にゃん」

 からかわれたことにムッときたのか、燐も語尾ににゃんを付けた。

「ふふっ、にゃんにゃん」

 目の前で笑う蛍の長い髪が燐の顔にふわっとかかる。

 本当に早起きしたらしく、蛍の長い黒髪が朝の陽光を纏って艶めいている。

 こんなに近いと、お風呂上りのコンディショナーの香りが芳しく広がってくるのだろうが、あいにく今は鼻をふさがれたままなので、今朝の蛍がどんな香りを纏っているのか確認することが出来なかったのは少し残念だった。

 もっとも二人とも、シャンプーもコンディショナーを共用しているのだから同じ香りなんだろうけど。

「にゅー、蛍にゃん! とりあえず指、取ってもらえるにゃっ!? わたしずっと変な声で喋ってるにゃぁぁぁー」

「あっ、でも燐の猫声、可愛いよ? 声優さんになれるかも、ね。にゃんにゃん」

「うー、そーゆーのはどーでもいいのにゃ、早くとるにゃー」

 燐がムッとしたような、それこそ本物の猫が威嚇するときのような声をだしたので、蛍は自分のしている事にようやく気付いたみたいに、指をぱっと放した。

「ふにゃぁ……」

 まともに息が出来るようになった安堵と、突き抜ける鼻の痛みで、燐は、うーーと涙目のまま蛍を訝し気な目で見つめた。

「ごめん、燐。えっと、昨日はちゃんと眠れたにゃ?」

「え、あ、うん……寝れたみたい、にゃ……」

 一度目は自力で起きられたと思ったが、二度目は蛍に無理やり起こされたという感じだったたので、燐は少し赤くなった鼻を押さえながら曖昧に答えた。

 口には出さなかったが、二度寝からの目覚めは最悪だった。

「だったら良かった。で、どうする? シャワー浴びる? 髪、結構ぼさぼさになってるにゃん」

「うー、それは、そうだと思うよ……」

 寝ぼけた顔で自身の髪の毛を指でつまんで他人事のようにつぶやく燐。
 蛍は肩をすくめて苦笑いしていた。

「すぐお湯が出るようにしておくからなるだけ早く来てね。あ、朝食は? シリアルでも食べる? トーストならあるけど……それとも”ちゅるちゅる”がいいにゃん?」

 蛍はトーストが乗った丸いお皿を持ちながら、あまり似合わない招き猫みたいな仕草をとっていた。

 大人しくみえる蛍が滅多にしない大胆なポーズなのだが、燐はそれを外の温度とは真逆の冷ややかな目で見つめていた。

 それにしても……。

(もし”ちゅるちゅる”がいいって言ったら買ってくるつもりなの!?)

 ──ちゅるちゅるとは、主にネコ用のペットフードで、”ネコをダメにするおやつ”として有名な、ペット用おやつのことである。

 チューブ型が特徴であり、猫がちゅるちゅる食べることからその名に決まったと言われている。

 その売れ行きは爆発的で、1秒に3匹の猫が(いい意味で)ダメになっているとの評判が公式からでるほどだった。

 ちなみに、ネコだけでなく、ネコ科の動物なら何でも虜にするらしい。
 犬用、ウサギ用も販売展開していて、他の動物用のも開発中のようである。

「燐にゃんに食べさせてあげようか、ほら、あーんしてにゃ」

「もう、蛍ちゃん。いつまで続ける気なの」

「続けるって……何のこと、にゃん?」

「その、ネコみたいな喋りかたっ! 蛍ちゃんって結構意地悪だよね。大人しい顔に似合わずー」

「そんなことないにゃん。燐の方がいじわるだにゃん」

「蛍ちゃんの方がいじわるにゃん!」

「むぅー!」

「にゃにゃー!!」

 蛍と燐は引っ掻くようなポーズをお互い取りながら、全く意味のない威嚇を朝からしていた。

「はぁ……」

 大きなため息をつく。
 先に折れたのは燐の方だった。

「あとでパン食べるからもう許して蛍ちゃん」

「わたしもからかいすぎてごめんね、燐」

 蛍は柔らかく微笑む。
 朝の情景にそのものと言ってもいい柔和な微笑みに、燐も顔をほころばせて笑みを返した。

「いちおうシャワーの準備もしておくね」

「ありがと、蛍ちゃん」

(それにしても、やっぱりまだ暑いなぁ……まだ朝だよ)

 寝苦しそうに寝ていたのか、気をつかってクーラーを早めにかけていてくれたみたいだけど、それでも朝から湿度は高く、じめじめとしていた。

 マンションの部屋の中でこれなのだから外なんてもう、それこそ灼熱の世界だろうと思う。

 ガラス越しの外の景色に目を細める。

 夏はもうじき終わりなのに、暑さはまだ終わってくれないようだった。

「燐にゃ~ん」

「もう、それはいいのっ!」

 バスルームからそのままの猫なで声がして、燐は腰かけていたベッドからぴょんと立ち上がった。

 今日、何着て行こうかなー、と二人が共同で使っているカラフルな箪笥に目を移した時に、横に置いてあった自身のバックパックを見て、燐はぱんと手を合わせた。

(あ、そっか、今日、蛍ちゃんと一緒に行くんだった)

 昨晩も寝る前にふたりで話してた気がする。
 
 目的をようやく思い出した燐は恥ずかしくなったのか、あぁ、と唸って、二回ほど無意味に手を叩いた。

(でも、また行くんだよね、”あそこ”に……大丈夫、なのかな)

 蛍は前から決めていたようだから止めるようなことはしないけど。
 確かに心配な所はあった。

 ()()()()()()()()場所だし。

「燐、どうかしたの?」

「あ、うん。ごめん蛍ちゃん。えと、やっぱりシャワーはいいや」

 殆ど全裸だけの状態で燐はキッチンへ行くと、蛍が用意してくれた、トーストにかじりついた。

「そんな、燐、慌てなくてもいいよ。特に時間は決めてなかったし」

「でも、やっぱり悪いし。わたしのせいで時間が押しちゃうのなら少しでも急がないと」

 燐は無理矢理にパンを口の中に全て押し込む。
 そしてミルクで強引に胃の中に流し込んだ。

「ふぅ、ご馳走様、蛍ちゃん。すっごく美味しかったよ」

「燐ってば……急いで食べたら消化に悪いよ」

 蛍は呆れた声で呟いた。

「このぐらい大丈夫。で、早く支度しちゃうからすぐに出よっ。そうすればまだ電車の時間には間に合うと思うよ」

 燐は食べ終わったお皿を軽く洗いながら、スマホで列車の時間を確認していた。
 
 ふたりが住んでいるのは駅の真ん前のタワーマンションだから、燐の言うように十分間に合いそうではある。

 このまま何もなければのはなしだが。

「でも、シャワーぐらい浴びた方がいいよ」

「どうせ汗で汚れるし、帰ったらすぐに浴びるから」

 燐はさっさとキッチンから離れて、顔を洗うために洗面台へと向かうつもりだった。

「燐、だめだよ。身体べとべとしてる。それに女の子なんだから身だしなみはきちんとしよ」

 蛍は燐のむき出しの肩に手をぴたっと当てて、少し強めの口調で嗜める。

 蛍としては、燐には見た目通りの清潔な格好でいて欲しいと言う願いからだったのだが。

「なんか蛍ちゃん、お母さんみたいだよっ」

 悪戯っぽい目をして燐がくすっと微笑んだ。

「燐の、”お姉さん”じゃないの?」

「う~ん、姉って感じはしないなぁ、蛍ちゃんには。むしろ守ってあげたい妹っぽい感じ」

「そう? 燐の方が妹っぽいけどね」

「……なんか前にも似たようなこと話してたよね。わたし達」

「そうだったっけ、わたしはあんまり覚えてないかも」

 燐と蛍は顔を見合わせて困った顔で笑った。

「ねぇ、燐。ほんの少しでいいからシャワー浴びよ。きっとすごくさっぱりするよ」

 蛍が燐の背中を抱きながら囁き声でもう一度”お願い”をした。
 
 密着したことで燐のむき出しの背中に蛍の柔らかさが直に伝わってくる。
 
 だぼっとしたとシャツ一枚着ているだけの蛍なのだが、それでも上半身裸の燐の方が恥ずかしくなってしまって、顔を真っ赤にしていた。

「……蛍ちゃんにはかなわないなぁ、もぉ。分かったよ、じゃあ軽くだけね」

「うん。それじゃあ、背中洗ってあげる」

「えっ、いいってばぁ、ひとりでできるよ」

 蛍に物理的に背中を押されながら、燐は抗議の声をあげる。

「はいはい」
 
 ぎゃあぎゃあ文句を言う燐を全く相手にしないで、手を引きながら蛍も一緒に脱衣所までついてきていた。

 もう、と燐は一息吹いたあと、観念したように、あんまりこっち見ないでね、と一応念を押した。

「って、何してるの蛍ちゃん!?」

 蛍はにこにことしながら突然服を脱ぎ始めたので、流石の燐も困惑してしまった。

「だって、服を脱がないと洗えないでしょ? 燐は脱がないで入るつもりなの」

 それに燐に構ってたら汗かいちゃったから、と最もらしいことまで言われてしまった。

「脱ぐってわたし下着だけだし」

 下着と言っても燐の上半身は何も着けていない。
 白とブルーのストライプのショーツを身に付けてるだけで。

 燐ははぁっ、と大きく息をつく。

 まだここに引っ越してきた頃は一緒にお風呂に入るのすら嫌がってたのに、どうしてこう変わってしまったのか。

 昨日も一緒のお風呂だったし。

 慣れるって、こういう事……だったっけ?
 燐は過去に言った言葉に自問自答する。

(でも、本当に大丈夫なのかな、蛍ちゃん。そんなに行きたいような場所でないことは分かってるはずなのに)

 燐の胸中はどうにも落ち着かなかった。

「燐、どうしたの。裸でぼーっと立って」

「……裸なのは蛍ちゃんもでしょ。あ、言っとくけど洗ってもらうのは背中だけでいいからねっ」

「えー」

「えー、じゃないからっ。さっき自分で背中って言ってたでしょ。さ、ちゃちゃっと浴びてすぐに家をでるよっ、蛍ちゃん」

「にゃー」

「だからもうそれはいいのにゃー!」

 時すでに遅く、当初乗る予定だった電車の時刻はとっくに過ぎ去ってしまい、なんやなんやでふたりがようやく駆け乗ったのは、マンション最寄りの駅、浜松駅発8時28分の電車だった。

 ──
 ──
 ──



Mapping the Multiverse

 

 いくら手付かずの自然だからって。

 なんでこんなに無遠慮に生い茂っているのか。

 

 ──キリがない。

 

 本心からそう思った。

 

「──今日も暑いよね~。まだまだ全然、夏! って感じ」

 

「だねぇ……」

 

 一息ついた燐は、呆れるほど真っ青な空を見上げた。

 

 切り取った宝石みたいにぎらぎらと輝く太陽と青い、澄んだ湖みたいな綺麗な空。

 そこを泳ぐみたいに、鯨みたいに大きな雲が悠然と流れている。

 

 どこにでもよくある夏の情景。

 

 痛いほど綺麗な青空が、高い山の空にまで広がっていた。

 

「嫌になるぐらいに暑いけど、ここって、まだ風が抜けるから気持ちいいよねぇ」

 

 夏の情景を遠くに見ながら、燐は栗色の長い髪を無防備にたなびかせる。

 

「本当、居心地、そんなに悪くないよね」

 

 二つに結わいた長い蛍の黒髪も夏のそよ風にそよそよと揺れていた。

 

 けれど蛍にはその情景を楽しむ余裕などなく、息も絶え絶えといった様子で地面に向かって呟いていた。

 

 見かねた燐は小さくなった蛍の肩に軽く手を置いた。

 

「ねぇ、蛍ちゃん。そこの木陰で少し休んだ方がいいよ。後はわたしが大体やっておくから」

 

 炎天下の下、屈んで作業なんてしていたら例え少しの時間だとしても誰だって参ってしまう。

 

 それでも周りは木々で囲まれているから少しはましな方なのだろうけれど。

 

「だ、大丈夫だよ。元はわたしが言ったことなんだし、それにさっきから燐にばっかりやらせてる。腰とか、痛くなってない?」

 

「わたしは部活で結構こういうことやってるから全然大丈夫だよ。蛍ちゃんはどう? さっきからロボットみたいにギクシャクとした動きになってるよ」

 

 確かに今の状況は油の切れかかったロボットのように緩慢としていた。

 

 お年寄りみたいって言われないだけマシかもなのかもしれないが。

 

「あはは……思ってたよりも腰にくるよね。それにさ、こんなに雑草だらけだったっけ」

 

 蛍の実家の庭ほどの面積はないが、それでも辺り一面雑草というか、緑の草が生い茂っていて辟易としてしまう。

 

 ”二人がかりでやればすぐに終わるかもね”。

 

 なんて、軽い感じで考えていたちょっと前の自分の浅はかさに赤面してしまう。

 

「だったら、もうちょっとだけ頑張ろ蛍ちゃん。あとちょっとの辛抱だからっ」

 

「あ、うん」

 

 青空みたいな笑顔で燐はくすっと笑う。

 

 少し日に焼けた肌が、夏であることを改めて実感させた。

 

「ふぅ……っ」

 

 暑いなあ。

 

 とっても。

 

 簡単な登山やアウトドアでも違和感なく着れる、フードの付いたグレーのワンピースに、トレッキングシューズという、ちょっと半端かな? という出で立ちでここまで来てしまったけど、やはり気軽にハイキングという場所では到底なかった。

 

(まあ、難しいのは恰好だけでないことは知ってるけど……)

 

 せっかくだから少しでも可愛い服でと思ったのだが、まだ色々甘く見ていたらしい。

 

 夏の山を。

 自分の体力を。

 

 その後の作業のことを。

 

 軍手や鎌は予め用意してきたけど、ここまで腰に来るなんて。

 

 ある程度標高があるせいからかもしれないが、庭の草むしりなんかよりもずっと辛くて、苦しかった。

 

「はぁっ、はぁ……せっかく、ここまで早く来ることができたのに……」

 

 頑張って山を登った先に待っていたのがこんな重労働だなんて。

 

(でも、山を管理する人達もこんな思いで作業とかしてるのかな……)

 

 前に燐が言っていたが、そう言ったことは殆どがボランティア活動なのだという。

 

 燐も聡さんと一緒に参加したことがあるそうだし。

 

 そう思うと、ごく普通の管理された山に登るのにすらも頭が下がる思いになる。

 

 登山道の整備や山のごみ拾いなどはそう言った”善意”から成り立っているのだと。

 

(わたし達がやっていることも、”善意”なのかな……? 正直どうでもいいけど)

 

 想いとかそういうのよりも、身体の苦痛から解放されたい気持ちの方が強かった。

 

 ただでさえ、登山で疲れているんだし。

 

 燐はともかく自分は……。

 

 草や地面とにらめっこするのにいい加減飽きたのか、蛍は逃避するように二人分のバックバックが仲良く置かれている灌木の方に目を向けた。

 

 そこには少し傷の付いた、蛍のトレッキングポールがくたびれたように立てかけてもあった。

 

 今回の登山もやはりトレッキングポールを持って臨んだけど、これなしではもう登れないのではと思うほど、蛍の手足となっていた。

 

 たった一度行ったからといって、そう直ぐにこの”ナナシ山”に慣れるものではなかったし、それにトレッキングポールの使い方もようやくわかるようになった気がする。

 

 ──”ナナシ山”は燐ではなく蛍が名付けた、今二人の居るこの山(蛍の家、つまり三間坂家が所有している)の名前で、今回再度登山するにあたって、命名することにしたのだ。

 

 もちろん正式に名乗るとか、そういう申請を出すこともなく、あくまで二人だけの愛称として通っているだけだった。

 

 ナナシ山は雨のせいなのか、前に来た時よりも草木が生い茂っていて、さながら異界の地のジャングルのような有り様となっていた。

 

 だから、蛍も燐も辟易としてしまったのだけれど、折角来たのだから戻るような真似はせず、時間をかけてでも辿り着こうと手を取り合い、暑い中またここにやってきたのだが。

 

 そう、あの変なことが起きた、”石碑の前”に。

 

(辛いなぁ、本当に。でも燐はそうでもない感じだよね。そこまで薄着ってわけでもないんだけど……)

 

 蛍は隣で一緒に作業している燐の姿を上から下まで眺める。

 

 燐は、”これから富士山登頂に行く”と言っても違和感のない本格的なアウトドアな格好だから問題ないけど。

 

 トップスは今日の空みたいに鮮やかな空色のフーデッドベストに、その下は殆ど燐の普段着となっているベースレイヤー。

 

 黒のベースレイヤーは新しいものらしく、見た目は全く同じにしか見えないが、燐は機能性の違いや微妙な着心地の差に、歩きながらひとりで一喜一憂していた。

 

 下は長ズボンでも短パンでもなく、やはり動きやすさを重視した少し濃い目のマゼンタの撒きスカートを履いて、その下に燐のお気に入りの黒いニーソックスを着用していた。

 

 それにちょっと小ぶりだけどサイズピッタリの、色が可愛いイエローのトレッキングシューズを足に履いていた。

 

 今日は全体的に派手目な燐のコーディネートだが、山ではこれぐらいカラフルな方が何かあった時に見つけやすいから良いのだという。

 

 どっちかと言えば女の子らしい格好だったので蛍はちょっと安心した。

 

 やっぱり燐だってフツーの女の子なんだから。

 

 けれど、いわゆる女の子らしい格好をした燐の姿を蛍はあまり見た記憶がない。

 せいぜい学校の制服ぐらいで。

 

 部活だって、ホッケー部だから普通のユニフォーム姿だし。

 

 前にその事を燐に聞いたら。

 

『わたしだって、フツーの服ぐらいあるんだよ』

 

 と、本人は不満げに漏らしてたけれど。

 

 燐には可愛らしい服装が絶対に似合うとは思っているのだが、一緒に買い物に行くのもいつものアウトドア関連のショップかスポーツ用品店ばかりになってしまう。

 

 機能性があって、着心地がいいのが好きなのは分かってるのだけれど。

 

 センスには問題がないはずなので、そういうのを選ばないのは自信がないのか、それともワザとそういう服を着ないのか。

 

 どちらにしても勿体ないことだと、蛍はいつも思っていた。

 

「はううっ……!」

 

 どうでもいい考えに浸る蛍に、容赦なく日差しが照り付ける。

 

 眩しいと言うより、痛い。

 

 夏の日差しの鋭さに、蛍は思わず悲鳴のような声をあげてしまった。

 

 山歩きして、すぐに草むしりをすることになるなんて。

 

 計画したのは自分だけど、もう少し配慮とかした方が良いと思う。

 

 身体は一つしかないんだから。

 

(どうしよう、頭がどうにかなりそう……)

 

 蛍も燐も帽子は被っているのだが、それでもこの強い日差しを完全に遮ることは出来なかった。

 

 水はまだ残ってはいるが、飲んだ分だけ汗が滴ってくるから、実質無駄な気持ちになってしまう。

 

「お疲れ様ー、蛍ちゃん。ちょっと休憩しよ」

 

 一仕事終えたときは既にお昼を過ぎていた。

 

 これでも前回よりは断然早い時間で来ることができたし、その分作業も出来たのだが。

 

「ぐっ、んぐっ」

 

 堰を切ったように、蛍は持ってきた水筒に直接口につける。

 アウトドア用のだからか、入れた氷がまだ微かに残っていた。

 

「ふぃー、まあ、こんなもんでしょ」

 

 汗を拭った燐がさっぱりしたようにそう呟いた。

 

 事実、二人が来る前は鬱蒼とした草の生え揃った、誰も来ることのない山の奥地そのもののような場所だったのだが、頑張ったおかげか今は小ざっぱりとした見栄えの良い場所になっている。

 

 と、言っても細かな雑草を抜いて、石碑を軽く拭いただけぐらいなんだけれど。

 

「でもさ、近くに水が流れてる場所があって良かったよね。まあ……流石に飲むのにはまだちょっと抵抗あるけど……」

 

 前にもあったのかは定かではないのだが、木立の窪んだところに雨水をため込んだような小さな水溜まりがあった。

 

 どこからか水が湧き出ているのか、思っていたよりも水が澄んでいたのでとりあえず持ってきたタオルを水に含ませてみたのだが……。

 

 深く水で浸してもタオルの色に変化はない。

 真っ白なままだ。

 

 でも、と。

 燐はタオルを鼻に近づけてみた。

 

(少し爽やかな感じ、する?)

 

 変な匂いもしないし、水を含んだタオルが手にべとつくような感じもない。

 

 それでもやはり飲むような真似は流石にしなかったが。

 

 ただ、石碑をタオルで擦ったら汚れが相当ひどいのか、直ぐに真っ黒けになってしまった。

 

 洗って拭くを何度か繰り返してようやく本来の、石っぽい色に戻った気がする。

 

 あの時見た、血のような赤い色素の色味は石碑どころか、小さな水溜まりにも一切見られなかった。

 

「あ、蛍ちゃんわたしがやるからいいのに」

 

「これぐらい、わたしでもできるよ」

 

 線香の束に柄の長いライターで火をつける。

 小さな炎が、線香の先端を黒く焼く。

 

 独特の匂いと煙が、開けた森の奥を厳かな雰囲気にさせていた。

 

「……」

 

 二人はしばらく何も言うこともなくその光景を見つめていたが、やがて照らし合わせたように石碑に向かって手を合わせた。

 

 一時の間、燐と蛍は瞼を閉じる。

 

 互いの胸中に浮かぶものは何だったのか──。

 

 それを知る由は互いにはなかった。

 

「──ねぇ、蛍ちゃん。どうして、またここに?」

 

 ぱちっと瞼を開けた燐が、抱えていた疑問を蛍に投げかけた。

 

 前から行きたいと言ったのは知ってたし、花や線香も用意してきたから大体の目的は分かっている。

 

 分からないのはその動機と……理由。

 あと、時期とか。

 

 まあ、時期はお盆を過ぎた辺りだから、分からないこともないけど。

 

 今、どうしてもやっておきたい。

 そんな気概のようなものを、蛍の表情に燐は感じ取ったから。

 

(道のりの疲れから険しい表情になっていた、というのかもしれないけど、さ)

 

 何よりこの場所では特にいいことと言うか、正直、碌な事がなかったから。

 

(また変なことに巻き込まれるのは嫌だからね)

 

 最近になって二度も、向こうの(青いドアの)世界に行ってしまっているし。

 

 よく戻ってこれたものだと、自分たちでも信じられないほどだったから。

 

 それに、見た目こそよく似ているが、前の、良く知っていた青いドアの世界とは全然違くなっている気がする。

 

 何というか、その気になればいつまでも向こうに居られるというか。

 

 見えない檻に囚われている。

 そんな気にもさせた。

 

 そのせいなのかは分からないが、向こうとこちらの境界線がひどく薄くなっている気がする。

 

 何が原因なのだろうと二人は頭を巡らせても答えは出なかった。

 

 それらには全く思い当たる節がない……のではなく、むしろ理由というか事象がありすぎて何に焦点を絞ればいいのか分からないからだった。

 

 異変の時の前兆があったのかは定かではない。

 誰が教えてくれるわけでもないし。

 

 けれど、何か。

 

 歪みというか、とても重要な事が起こるような、そんな予感のような戸惑いが日々募ってくる。

 

 二人にとって、とても重要な事が。

 

 ただ単に気をもんでいるだけかもしれないが、今の内にやるだけの事はやっておこうと思った。

 

「燐は、ここ、嫌いなんでしょ。変なことばかり起こったし」

 

 長い間瞳を伏せていた蛍が目を開けてにっこりと微笑む。

 見透かしたような蛍の物言いに、燐は苦笑して答えた。

 

「ん、まぁね。でも、蛍ちゃんはそうでもないの?」

 

「わたしは……」

 

 そう言って蛍はふと上を見上げた。

 

 燻された白檀の香りを纏った白い煙が、導かれたようにまっすぐにずっと伸びていた。

 

 木々の合間を縫って筋が空に向かっていく様子は、煙というより、青い空に浮かんだ白い絹糸のようだった。

 

「もしかしたらだけどね」

 

「ん?」

 

「わたしも状況によっては、()()()()()入っていたのかなって、時々思うの」

 

「それって……」

 

 燐は思わず石碑に書いてある文字を読む。

 

(さんじゅう……に)

 

 綺麗になっても読めるのはせいぜいこの文字ぐらいで、後の文字は未だ判然としない。

 

 聡が記した(と思われる)ノートには”さんじゅうににんころし”とだけ書きなぐってあったが、ここと関連があるのかはまだよくわかっていない。

 

 おなじような事が偶然書いてあるだけで。

 

「多分、なんだけどさ」

 

「うん……」

 

 蛍は一度言葉を置くと、何かを確かめるように胸元で握りこぶしを作った。

 

 そして大きく息を吐いた後、意を決したように話し出した。

 

 燐も息を呑み込んでいた。

 

「ここって、()()()()()()なんじゃないのかって思ってるの。あ、もちろん根拠はないよ。ただそれがしっくりくるかなってだけで」

 

 蛍は目線を再び空に映す。

 

 白い煙の消えていった先をぼんやり見つめる蛍。

 燐も黙って同じ方を眺めた。

 

「あの煙の消えた先……燐にも分かるよね。あっちってわたしの家の方角なの。ここからでも屋根の上あたりがちょこっとだけ見えるんだよ」

 

「蛍ちゃん家の屋根? あれがそう……なの? よく分かったね。わたしにはちょっと」

 

 燐は背伸びをしたり、ぴょんぴょん飛び跳ねてもみたのだが、蛍の言うような屋根の端が上手く見つけられなかった。

 

 そんなに身長差があるとは思わなかったが。

 

 方角的には確かに合っているとは思っているのだけれど。

 

「直感……じゃないと思うの。そういう意味なんじゃないかと思ってる」

 

「それって?」

 

 何かを分かったような蛍の言葉に燐は小首をかしげながら、まだ煙の流れて行った先を食い入るように見つめていた。

 

「あの、”テルテル坊主”」

 

「えっ!?」

 

 燐は驚いて蛍の方を向き直った。

 

 蛍は……まっすぐに燐の方を見つめている。

 少し思い詰めたような、強張った表情のままで。

 

「燐。あの時のテルテル坊主って幾つ吊るされていたか覚えてる?」

 

「えぇっ!」

 

 不意の質問に燐は面食らってしまった。

 

 あの時って……きっと、あの時の事だよね。

 

 燐は逡巡する。

 多分蛍が言っているのは。

 

(あの、向こうの、”もう一つの蛍ちゃんち”でのこと、だよね……多分)

 

 確かに一番上の部屋にはたくさんのテルテル坊主が上から吊るされていた、と思う。

 

 どうもその時のことを確信持って言えないのは、きっと”今こうしている事の方”が信じられないからだった。

 

(助からないと思ったもんね。今度こそ)

 

 相当な高さから下に落ちたから。

 例え下が水だったとしても助かるものではなかった。

 

 それなのに今こうして二人で他愛もない話をしている。

 

 そのことの方が印象に残っているというか、それしか殆ど頭に残ってなかった。

 

 ──どちらの事の方が夢なのか分からないぐらいに。

 

 それは無理もないことで、向こうの世界での事の大きさから、小さなテルテル坊主の事を燐があまり覚えてなくても仕方がないことだった。

 

「ご、ごめん。テルテル坊主があったことは確かに覚えてるんだけど、幾つかまでは気にしてなかったなぁ。色んな顔があったのだけは覚えてるんだけどね」

 

 燐は若干言い訳めいた言葉を綴る。

 自分で言って恥ずかしいのか、首の後ろの辺りを手でぽりぽりとかいていた。

 

「燐、ごめん。わたしも数まではキチンと覚えてないの。ただ……もしかしたらあの数だけあったんじゃないかなって思っただけなんだ」

 

(数って……)

 

 蛍は具体的な数字を上げなかったが、きっとあの数字のことだろうとは燐も分かっていた。

 

 つまり蛍が言いたいことは。

 

「石碑とノートに書かれた数と一緒かって事が言いたいんだよね、蛍ちゃん」

 

 蛍は複雑な表情でこくんと頷く。

 

(そういうことね)

 

 燐は理解した。

 

 蛍のいう”そういう事”とはその意味なんだと。

 

 ”さんじゅうに”、とはこれまで座敷童が繰り返してきた数。

 

 だから、蛍の家──三間坂家が見える方向にあるものだと。

 

 何度同じことが繰り返されたとしても。

 

 座敷童が描いていた願いや想いを。

 

 ──忘れない。

 

 そう、後世に伝えるように。

 

「だったらさ、誰がそのテルテル坊主を作ったのかな。もう、わたし達以外でその事を知っている人って居ないわけでしょ、だから……」

 

 燐は自分の言葉が言い終わらない内に口を閉じた。

 

 分かっていたことだった。

 そんな事が出来るのはたった一人しかいないことを。

 

「じゃあ、あの部屋ってオオモト様の……!?」

 

「多分……」

 

 ふたりは思わず顔を見合わせる。

 

 けれどもお互いに明確な答えを持っているわけではない。

 

 蛍だって精々仮定の範囲なだけで、確固たる証拠があるわけではなかった。

 

「間違いじゃないね、きっと。オオモト様、そういうことしそうだし」

 

「うん。わたしもそんな感じがするの。作りながら悲しんでたんだと思う。こんなことがいつまで続くのかって」

 

「終わったのかな? もうそういう、連鎖みたいなの」

 

「どう……だろうね」

 

 蛍は曖昧に口を濁した。

 

 少女たちの言葉が止まり、辺りは羽虫のざわめきと新緑のさざなみが温い風と共に流れていた。

 

「ねぇ、蛍ちゃん」

 

「なぁに?」

 

「そろそろお昼にしない? わたしさっきからお腹ぐーぐー鳴っちゃってて」

 

 恥ずかしそうにお腹を押さえる燐に応えるように、お腹の虫が主張するように一際大きくぐーとなった。

 

 身もだえする燐。

 蛍は泣き笑いのような、はにかんだ笑顔になった。

 

 ──

 ──

 ──

 

「なんかちょっと不思議な気分だね。ここで食事とるの」

 

「そういえば初めてかもね」

 

 燐と蛍は石碑の前に陣取る形で少し遅めのランチをとることにした。

 

 テーブルはなく、二人は折り畳み式のローチェアに腰かけてそれぞれ同じ方向をみながら今日のランチを手にしていた。

 

 普通のサンドウィッチ、にしてはちょっと強く焦げ目がついている。

 

 それは燐が作ったものではなく。

 

 珍しく早く起きた蛍がひとりで作った、”パンサンド”。

 

 パンをお好みの具材でただ挟んで焼いただけのごくシンプルなパンだが、普通のトーストとはまた違った味わいのものが、ごく簡単に作れるのが特徴だった。

 

 最近はアウトドアで食べられることの多いパンサンドだけど、あれは直火で作るのが一般的だが、蛍が用意したのはホットサンドメーカーという専用の機器作ったもので、家庭用のトースターと違って失敗もしにくく、生地を流し込めばワッフルなんかも焼けるそこそこ便利なものだった。

 

 両面しっかり焼くから、具材の漏れる心配もなく、汁物を詰めても大丈夫だし、何より蛍が選んだ、ピンクのカラフルなデザインがお気に入りだったから。

 

 だから、蛍がパンを作るときは専らこのホットサンドメーカーだった。

 

 ただ……燐が寝ている間に用意していたから、中に何が入っているのかを燐はまだ知らない。

 

 山歩きや電車の中でも、蛍は頑として教えてくれなかったし。

 

 変な所で頑固だなぁとは思ったけど。

 

(まあ、食べられないものは流石に入っていない……よね? いくら何でも)

 

「じーっ」

 

 燐は手にしたパンと蛍を交互に見比べた。

 

「さ、燐。食べてみて」

 

 そう言って勧める蛍だったが、何故か燐の方をちらちら見るばかりでパンを手にしたきり食べようとはしていない。

 

 どうやら、燐が先に食べてくれることを無言で促しているようだった。

 

「えと、さ、蛍ちゃん。食べる前に中に何が入っているか聞いてもいーい?」

 

 燐は意を決して尋ねる。

 

 蛍の事を決して信じていないわけではないが、一応念には念を入れてみた。

 

 心配そうと言うよりもずっとニコニコとしてるから、蛍ちゃん。

 

「んー、わたしが美味しいと思った物しか入れてないよ」

 

「あはは、それはそう、だよね。変なものは入れないよね、普通」

 

 軽くいなされてしまった。

 

 謎かけみたいな曖昧な蛍の返事に、燐は取り繕った笑みを浮かべた。

 

(もう、結局何のさ……)

 

 生クリームが苦手なのは分かっている。

 それでも蛍は甘党なのだから。

 

(と、なると、やっぱり……アレ、かな)

 

 以前自分で作ったフルーツサンドを燐は思い出していた。

 

 その時もこのナナシ山に来ていたときだったから、蛍の意趣返し? なのかもしれない。

 

 蛍はこういうフルーツサンドみたいな甘いものが好きなんだと言う主張っていうか推しみたいなものを。

 

 そう考えたら気が楽になったのか、催促をするように燐のお腹が小さく鳴った。

 

 自分以外聞こえそうにない程小さな音だったが、燐にはそれがとても恥ずかしく、特に蛍にはもう聞かれたくなかったので、誤魔化すようにパンサンドを躊躇なく一気に口の中へと入れた。

 

 それを見た蛍があっ、と何かを危惧するような声を上げたのだが、燐には一瞬届かず、そのままもしゃもしゃと咀嚼していた。

 

「うむむっっ!?」

 

 普通に美味しそうに食べていたと思っていた燐が急に奇妙な声を上げた。

 

 それは燐の舌で予想していた味も食感もまるで別物だったからだ。

 

 吐き出すほどではないのだが、この確かな()()()は???

 

 燐が瞳を潤ませて蛍に訴えてきたので、申し訳なさそうに眉を下げて蛍はネタ晴らしをした。

 

「えっと、それにはね、確か、納豆とオクラとモロヘイヤがいれてあるの。登山で疲れるからスタミナ付けたほうがいいのかなって思って」

 

 なるほど、それは一理あるチョイスだとは思った。

 

 しかし、燐は明らかに甘いものを想像していたから、予想を反した食材の組み合わせに口内が拒絶反応を起こしたみたいになっていた。

 

「……っ」

 

 燐は露骨に嫌な顔をしながら、仕方なさそうに口をもごもごと動かす。

 

 不味い訳ではない。

 けどやはり、どこか納得のいかない顔の燐であった。

 

 ぷはっ、とようやく息が出来たみたいに、燐が口を開ける。

 

 結局残さず全部食べてしまったし、蛍の選んだ食材の組み合わせも思ってたほどは悪くはなかった。

 

 むしろヘルシーで女子向けだったと思う。

 

 しかし燐にはどうしても納得できないことがあった。

 

「蛍ちゃんって、納豆好きだったっけ?」

 

 ねばねばしたものとか苦手そうなイメージがあったから聞いてみたのだが。

 一緒に暮らしても食べたような記憶もないし。

 

「以外、だった? わたしねばねばなの結構好きだよ。あ、でも好んで食べるようなことはあんまりしないけど」

 

 それは本当に好きなのだろうか。

 燐は口から出かかった言葉を無理やりに呑み込んだ。

 

「じゃあこっちのは?」

 

 燐はもう一つのパンの方も聞いてみた。

 持った時の重さが違うから同じものではない気がした。

 

「そっちは割と普通だよ」

 

 蛍もいつの間にか燐と同じものを一つ食べ終えていた。

 そして同じように二つ目に取り掛かろうとしている。

 

 顔には見せなかったが、意外と蛍もお腹が空いていたようだった。

 

 でも、やっぱり先に口を付けようとはしないで、燐の反応を待っているようだった。

 

「そうなの? だったら」

 

 普通という言葉に妙な安堵感を覚えたのか、燐は今度こそ全力でかぶりつこうと思った。

 

 が。

 

 悪気はないとはいえ、やはり警戒してちょっとづつ食べることにした。

 

 一度に全部口にいれなければならない道義(ルール)があるわけでもないし。

 

「あれっ! 蛍ちゃんっ、これも”伸びる”よっ!」

 

 一口目で違和感を感じた燐は、パンを加えたまま引っ張ってみせる。

 

 にょーん、と白いひも状の”粘り”が、小さな燐の口から糸のように伸びていた。

 

 むにゅむにゅとした食感のこれは……。

 

「あ、それは”おもち”だよ。お餅とチーズと明太子を入れてみたの。どう燐、美味しい?」

 

「え、うんーっと」

 

(パンにお餅かぁ……)

 

 燐は、”普通”の基準が良く分からなくなりそうになっていたが、そのことを議論することは無く、同じようにもぐもぐと口を忙しなく動かした。

 

「ま、まぁ面白い、のかもね。けど、変わったの沢山作ったんだね。ウチのパンの新商品でも結構変わりもの作るんだけど、蛍ちゃんのは何かこう……”別格”ってカンジ」

 

 燐の家のパン屋でも季節に合わせた総菜パンだけでなく、ほとんど週一で新作のパンを母親が作ってくるから、色々な組み合わせ方があることは知ってはいるんだけど。

 

 まさかこんな所でその、余波みたいなものを感じ取ってしまうだなんて。

 

(まあ、蛍ちゃんだってわたしと一緒に色んなパンを試食してるからねぇ)

 

 もしかしたら、感化されたのかもしれない。

 

 変なものといか、変わったパンを作ってみることに。

 

 二人は、森と空と線香の混ざった香りに包まれながら、変わったパンのランチを頼んだ。

 

 最後のパンは燐の予想通り甘い、あずきとバターのアンバター風パンサンドだった。

 

「ごちそうさま、蛍ちゃん。すっごく美味しかった」

 

「どういたしまして」

 

 朝、昼とパンばかりだったのは置いといて、予想以上にお腹が膨れてしまっていた。

 

 燐は、食後のカフェオレを飲みながら、少し前から内に秘めていたことをこの機会に蛍に話してみることにした。

 

「なんか、蛍ちゃんの方がわたしよりもパン屋さん向いてるのかもね。わたしは何かどうも乗り気にならないんだよね。お母さんのしてることは十分認めてるんだけど」

 

 ”青いドアのパン屋さん”だってオープンしてもうすぐ一年経つけど未だにどうもしっくりこないっていうか、燐の中での現実感で全てぴったり浸透しているとは言い難かった。

 

 時間の上でも、気持ちの上でも空白の時間があったせいかは分からない。

 

 まだ微睡みの中というか、どうにも夢の中のイメージから抜け出せなかった。

 

 何もかもが上手く言っている事が嘘みたいに思えてしまう。

 

 何一つ受け入れられないわけではない。

 いつまでも夢見る少女のままなんてことはないことは知ってるし。

 

 けど、どこかでまだ前の──あまり良くなかった頃の暮らしが。

 

 喧嘩しながらも両親と一緒に過ごしていた、あの中古のマンションの面影がまだ燐の中に残っていた。

 

 店の名前を決めさせてくれたのに、それでも何か愛着が湧かないのは心の隅で否定している自分がまだいるから。

 

 何をしていてもどこか上の空なのは、多分そのせいだろうと思ってる。

 

 二重否定していると言われても仕方がなかった。

 往生際が悪いのだとはずっと思ってはいるんだけど。

 

「実はわたしも結構向いてるんじゃないかなってちょっと思ってた。わたし燐の家に臨時のバイトじゃなくて、正式に雇ってもらいたいなって思ってたの」

 

「本当に? そうなの、蛍ちゃん?」

 

「うん。雇ってもらえるかは別だけどね」

 

「蛍ちゃんなら大丈夫だよ。うちのお母さん蛍ちゃんのこと大分気に入ってるし」

 

「それなら良いんだけどね」

 

「もしダメだったら、わたしからお母さんに言うから大丈夫だよ」

 

「ふふ、だったら期待しちゃうからね」

 

 燐としてはからかい半分で言ったことなのだが、蛍は強く頷いた。

 

 先を見据えた真っ直ぐな瞳で。

 

「何かね、燐のとこでパン焼いたり、お店の手伝いとかしてると楽しいの。わたしまともバイトとかしたことなかったから、こういう事が自分に出来るんだって自分でもびっくりしてるんだ」

 

 楽しそうに語る蛍は燐よりも一歩先立っている印象があった。

 

 少しの違和感を感じないほどに。

 

「まあ、蛍ちゃんは由緒正しい箱入りのお嬢様だったからね。経験ないのは仕方ないよ」

 

「その”由緒”ももうじきなくなるけどね」

 

 蛍は小さく微笑む。

 その顔には三間坂の名に何の思い入れももう持ってないようだった。

 

 むしろ重い荷物をようやく下ろしたような安堵さえ垣間見えるほど。

 

 (てら)いのない透明な笑顔。

 

 きっと、それこそが彼女の蛍本来の微笑みなのだろう。

 

 少し控えめに笑う蛍を見て、燐は初めて蛍が笑うのを目の当たりにしたような衝撃を胸の内に受けた。

 

 それはもちろん悪い意味ではなく、むしろ好意的なものだった。

 

「燐は、パン屋さんやらないの? まあ、燐は器用だからなんでも出来そうな気はするけど」

 

「そういう事じゃないけど……なんか、違うのかなって。別に嫌いっていうわけじゃないんだけど」

 

 燐がそれっきり口を閉ざしたので、蛍はまた石碑の方に目を向けた。

 

(あ、そういえば)

 

「ねぇ、燐。さっきコンビニ寄った時、何か買ってたよね。お菓子じゃなくて、何か変わったものだったような?」

 

 ナナシ山に来る前に燐と二人でコンビニで足りないものを調達したのだが、その時、燐がなにやら内緒に買っていたことを今、急に思い出した。

 

 何か変な、いかがわしいものではなかったと思うけど。

 

 そんなのがコンビニにあるとは思ってはいないし。

 

「流石、蛍ちゃんには隠し事できないね。あ、もちろん変なものじゃないよ。わたしが買ったの」

 

 はい、と燐がバックパックから取り出したのは、細長いチューブ状のものが4つ、袋詰めにされているものだった。

 

「燐、これ、”ちゅるちゅる”だよね!? やっぱり燐って……」

 

 蛍はなんというか複雑な目で見つめた。

 

「ちょ、わたしが食べるためじゃないってぇ。もぉー」

 

 ぷくっと頬を膨らませる燐。

 蛍は手を振って謝罪した。

 

「ごめんごめん。でも、何でこんなものを?」

 

「あ、うん……これネコ用のじゃなくて、”犬用のちゅるちゅる”だよ。ほら」

 

「あ、本当だ」

 

 製品の見た目は殆ど変わりないが、愛くるしい顔の二匹の犬(チワワとコーギー)の写真がパッケージに書いてあるからそうなんだろう。

 

 それに成分とかも少し違っているらしいが、やはり見た目では少し分かりづらかった。

 

「この場所って、”変な事”が、あったじゃない。だからもしかしたら来るかもって……」

 

 燐は少し切なそうに言葉を零す。

 

(来るって……)

 

 蛍は頭を捻るも、すぐにその答えを導きだした。

 

「あ、そうか。サトくん……!?」

 

「うん、あたり。もし、サトくんに出会えたら食べさせてあげようと思って買ってきたんだ」

 

「なるほどー」

 

 白い犬──サトくんはあの異変の後、どうやら普通の犬に戻ったみたいだったが、その後どこかの家で飼われたとかの話を聞くこともなく、ここ小平口町近辺をうろうろする地域犬となっていた。

 

 それは何時しか町のシンボル兼、マスコットとなり、町おこしの一環としてキャラクター化もされたのだけれど。

 

「サトくん。あっちこっち行ってるみたいだね。ネット上でやっとサトくんと出会えたって投稿、結構見ることあるよ」

 

「うん。そうみたいだね。サトくんを生で見るためだけに県外からくる人も結構いるんだって」

 

 燐も蛍もその辺りの事は把握していた。

 そしてそれはSNS上だけでなく、町全体にも広がっていた。

 

「だから、”幸運を呼ぶ白い犬”って呼ばれてるんでしょ、サトくん。本人……本犬はいい迷惑かもしれないけど」

 

「でも、餌には困らないみたい。サトくんが来るだけで幸運になるからって、食べ物とか色々貰ってるみたいだしね」

 

「なんかさ、サトくんの方が座敷童みたいだね。これだと」

 

「あはは、本当に」

 

 もちろんサトくんにそんな力はない。

 

 それでも町の活性化に一役買っている事は事実であり、そういう意味では幸運を呼ぶ白い犬というのはあながち間違ってはいなかった。

 

 ただ、燐も蛍も今のサトくんに複雑な思いがあるのだが。

 

「やっぱりペット可のマンションにすればよかったね。そうすれば燐だって──」

 

「蛍ちゃん、それは違うよ。わたしは、サトくんをペットにしたいわけじゃないから」

 

 燐は柔らかく首を振る。

 確かに蛍の言うように、サトくんとずっと一緒に暮らせれば楽しいとは思っているけど。

 

「サトくんは、自由が良いんだよ、きっと」

 

「自由? そうなの??」

 

 蛍はきょとんとした声をあげる。

 

「青空の下、何者にも縛られない、そんな自由な生き方をして欲しいんだサトくんには。わたしの勝手だとは思ってるけどね」

 

(燐……)

 

 多分それは、燐自身がしたかったことなのだろう。

 蛍にはそれが分かっていた。

 

 何のしがらみもなく自由に飛びたかったんだろうと思う。

 

 それが燐という少女の本来の姿なんだろうと。

 

「後悔してる?」

 

 唐突に言葉を投げられて、燐は一瞬驚きの表情をみせたが。

 

「ううん、そんなこと。だって蛍ちゃんがいるから」

 

「わたしもだよ。燐がいるから後悔なんてない。この先どんな道になったって構わないよ。だって燐がいるんだもん」

 

「わたしも同じ気持ち。蛍ちゃんがいるから戻ってこれたの。わたしがこうして話をしたり何かが出来るのは、全部蛍ちゃんのおかげだよ」

 

「燐……!」

 

「ありがとう蛍ちゃん、わたしを、忘れないでいてくれて。大好きだよずっと」

 

 思いもかけない燐の言葉に蛍は急に胸が熱くなった。

 

 嬉しい。

 その感情で一杯だった。

 

「それなら、良かった……本当に」

 

 蛍は目を擦る。

 何の役にも立たないと思った自分が、ようやく認められた気持ちになったから。

 

 それも、蛍にとって一番大切で、好きな人に。

 

 我慢しようとすればするほど、ぽろぽろと目から零れてくる。

 

 泣き顔を見られたくないからか、蛍は腕で顔を隠した。

 

 燐もそっと目元を拭う。

 

 嬉しい気持ちは同じ、だった。

 

「……サトくん、来るかな」

 

「来ると……いいね」

 

 ふたりはしばらくの間、何も話さなかった。

 

 硝子色の蜻蛉や、あまり見ない大きな黒い蝶がひらひらと辺りを飛び回っても、白い犬が来るその時をじっと待っていた。

 

 可能性の薄い事だと知ってはいても。

 

 青い雲が二人の少女を見下ろしていた。

 

 いくら待ってもサトくんは来なかったが、それでも穏やかな時間がそこにはあった。

 

「燐、あのさ、ちょっと頼まれて欲しいことがあるんだけど、どうかな?」

 

「ん……何、蛍ちゃん?」

 

「うん」

 

 意を決したように言った蛍に燐が微睡んだ返事を返すと、それっきり口を閉ざしてしまった。

 

(あれ? 何か変なこと言っちゃった、のかな)

 

 燐は一瞬難しい顔をしたが、特に何も言う事もなく、柔らかい目で蛍と同じ方向に視線をやった。

 

 さあっと、風が抜ける。

 

 長い髪が舞い上がっても視線は同じ方向に注がれたままだった。

 

「この石碑さ……もう壊したほうがいいのかなって」

 

「壊すって、蛍ちゃん!?」

 

「だってさ、もう意味ないよこれ。この町にはもう()()()()()()()()()()()()、こんなものがあったって何も伝えるものなんかもうないよ」

 

「で、でも、それじゃあ」

 

 抑揚なく淡々と言葉を繋ぐ蛍に、燐は何か言おうとはしたのだがまだ言っている事の理解が追い付かないのか、適切な言葉が何も頭に浮かんでなこなかった。

 

 肯定とも否定ともとれる燐の呟きに、蛍は困った顔で微笑み返す。

 

 言った蛍自身も分かっていない、そんな顔をしていた。

 

「ごめん。せっかく燐が綺麗にしてくれたのに、変なこと言って」

 

「それはいいけど……蛍ちゃんだって暑い中、一緒に掃除してたじゃない」

 

「確かに、汗だくになっちゃったよね。ごめん、この埋め合わせは後で必ずするから」

 

「だから、それはいいよ。でも……蛍ちゃんは本当にそれでいいの? だって、ここって……座敷童のお墓なんでしょ? それってつまり」

 

 もし蛍の言うように座敷童の為のものなら、この場所とは彼女たちが居たことへの唯一の証明であり、像でもある。

 

(つまり、それって蛍ちゃんのお母さんも……)

 

 ここにいると言う事なのでは。

 

「燐が、言いたがってること、分かるよ。それでももう無くなったほうがいいと思う」

 

「やっぱりダメかな? 燐は当然反対するよね」

 

 そうなることが分かっていたように、蛍は話を続けながら、くすっと笑う。

 

 透明な笑顔は邪な考えなど微塵もないように見えた。

 

「それは、まぁ、ね」

 

 それが良く分かっているから燐も笑って返す。

 諦めや呆れなどではなく、純粋に分かっているから。

 

 蛍の、本当の気持ちが。

 

「分かってるよ。最初に来た時だったけ、そんな風なこと蛍ちゃん、言ってなかった? ちょっとびっくりしちゃったけど、何か思う所があるんだろうなってわたしは思ってる。だって、悩んだ上の答えなんでしょ」

 

「……燐」

 

「前にも行ったでしょ。わたし結構一途なんだって。だから大丈夫、例え何があったって蛍ちゃんの味方だよ。それにさ」

 

 燐は何を思ったのか自身のバックパックを開いた。

 

 その中には。

 

「そう言うんじゃないかなって用意もしてあるんだよ」

 

 小さいけどしっかりした感じのスコップとシャベル、それとピッケルもあった。

 

 野外では持ってると便利なものだが、それぞれの道具の用途は蛍のしたいことと合致しているものばかりだった。

 

「あ、念のためこれも持ってきてあるんだよ」

 

 そう言って燐が差し出したのは、短冊状の白い紙。

 表面には何やら文字と模様が刻まれている。

 

 これは一般的に言って。

 

「これって、”お札”? 燐、なんでこんなものも?」

 

 蛍は目を丸くして尋ねる。

 

「ほら、前ここで変な事が起きたでしょ。だから一応用意してもらってたの。あっ、ちゃんとお祓いしてもらった”由緒ある”ものだからねっ」

 

 どこの神社とかは特に名言しなかったが、それなりなものらしいことをわざわざ燐は付け加えた。

 

 確かに燐はよくわかっているようだった。

 

 蛍の事を。

 分かり過ぎるほどに。

 

(そういえばあの時だって、燐が用意してくれたんだったって言ってた)

 

 蛍が燐の母親──咲良に介抱してもらった時、こうなることを見越していたかのように適切なものを袋に入れて用意してくれていたのは娘だと言っていた。

 

 それが燐だったのだとしたら。

 

(やっぱり燐は、ちょっと違う?)

 

 戻ってきてからの燐は何も変わってなかったけど、勘みたいなものが強くなっているような……。

 

 座敷童()とも違う。

 

 むしろオオモト様──。

 

 座敷童の大本に近い。

 それを燐から感じる。

 

(燐は、自分で気づいていないみたいだけど)

 

 蛍はちらっと燐の顔を窺う。

 

 燐は何だか分からずに小首を傾げて、無垢な笑みを浮かべていた。

 

「それにさ、実はわたしもちょっと気になってたんだよね。この石碑」

 

「燐も?」

 

 蛍は意外そうな声を上げる。

 燐には特に因縁というか、思い入れはない、そのはずだが。

 

「だって、ほら……あ、蛍ちゃんは覚えているかな。あの”ヒヒ”みたいなの。アイツも結局何だったのか分からないし、それに石碑の前で消えちゃったんだよ。跡形もなく」

 

 燐は何というか、恨めしい目つきであの時の不思議な出来事を語った。

 

「そういえば、そんな事あったね」

 

 下山を優先したからか、蛍としてはあまり覚えておく事象ではなかったけど、燐はずっと気にしていたみたいで、ぶつぶつと文句を言っている。

 

 やはり相手があのヒヒだからか、燐にとっては忌まわしい、けど忘れることの出来ない存在としてこびり付いてるのだろう。

 

 大事な人の片割れ。

 異変の時に別れた、もう片方だったから。

 

 例え、醜悪な様相やそれに見合った挙動をしていてもそれが彼の”本質”なのだから。

 

「石碑っていうより、この場所自体に何か特別なものがあるのかなって思ってるの。霊感とかそういうのじゃないのは分かってるんだけど」

 

「燐、分かるよそれ。雰囲気って言うのかな、空気感が違うよねここだけ」

 

「うん」

 

 蛍の言葉がしっくりきたようで燐は同意を示す。

 

 今日だって山に入った途端蝉の声が鳴り響いて耳をつんざくほどだったのに、この場所に来た途端、ぴたりと鳴き止んでいた。

 

 立ち入ってはいけない境界が引かれている。

 目に見えない天幕がこの場所にだけ覆っているみたいに。

 

 静謐が二人の周りで陽炎みたいにゆらゆらと揺れているみたいに。

 

「でも、ほんとは燐も反対なんでしょ。壊すのも動かしてみることも」

 

 蛍は小さく笑った後、確信したみたいに燐に言葉を投げた。

 

「んー。まぁ、ね。もう関わらないほうがいいとは思う。もう来ること自体も止めたほうがいいとは思ってるよ」

 

「そうだよね。燐なら」

 

 自分の言葉を否定されても蛍は嫌な顔一つ見せず、むしろ安堵しているようだった。

 

「でも」

 

 そう言って燐は一旦言葉を止めた後、蛍を見つめた。

 

 非難するような感じではなく、むしろ好奇心のある瞳で。

 

「でも、気になるんでしょ。どうしても」

 

「それはそうだけど、でも」

 

「だいじょうぶ」

 

 蛍が言い終わる前に燐がその手を握る。

 

「わたしはずっと蛍ちゃんの味方って言ったでしょ。それに。わたしだってやっぱり気になるもん」

 

「燐、いいの?」

 

「もちろんだよ」

 

 蛍は無意識に燐の手を握り返していた。

 

 お互いに汗ばんでいたけど、それが気にならない程、互いに握り合っていた。

 

 それは気持ちが一緒だったから。

 

「さて、方針も決まったし、さっさとやっちゃおうかぁ。誰が来るとも限らないし」

 

「うん。またあのヒヒみたいのが来たら嫌だしね」

 

 罪悪感が全くないわけではなかった。

 

 けれどそれ以上に好奇心、というより、知りたい思いの方がほんの少し強かったんだと思う。

 

 あの夜の異変から、今日に至るまでずっと巻き込まれただけだったから。

 

 自分達だけで出来る事なんて何もないと言われたとしても。

 

 自体が収まるのを指をくわえて見ているだけなんて、もう出来ない。

 

 見なければ、やらなければ良かった。

 そう思ったとしても後悔などない。 

 

 まだ動けるから。

 燐も、蛍も。

 

 その結果失うものなど、お互いの存在しかもう持ち合わせてなかった。

 

「とりあえず、押してみようか? いきなり動くかもしれないし」

 

 周辺の草むしりをしていた時の軍手をはめ直して、燐が石碑を指さす。

 

「そんな、ゲームみたいなことってある?」

 

 蛍は思った通りの言葉を口にした。

 

(でもまあ、いきなり地面を掘るよりかはいいかもね)

 

 石碑の周りは相変わらず赤色の土が露出している。

 ここだけ見ると、異世界みたいな場所に見えるほど不気味な印象がある。

 

 周りと比べてここの土だけ真っ赤だから。

 

 草を毟る際、軍手越しとは言え初めて触ってみたのだが、普通の土と何ら変わりはなかった。

 

 血の様に色が赤い以外は。

 

 だから、燐の仮説にはちょっぴり荒唐無稽だと思ってるけど、それでもこの赤い地面を掘り起こすよりかはまだ良い方なのではと蛍は考えていた。

 

(いくら何でも死体なんか、出てくるはずないよね。今更)

 

 小平口町だけに独自の風土が浸透しているかは分からないが、土葬という文化が残ってることは無いと思う。

 

 流石にこの時代だし。

 

 でも、もしかして……。

 

 蛍が地面の覗き見るかのように身を屈めようとした、その時だった。

 

「うそっ!? ほ、蛍ちゃんっ! 押したら、押したら動いちゃったよっっ!!」

 

「え……ほ、ほんとうなのっ!? 燐!」

 

 急に大声が聞こえたので、足元を見ていた蛍は不意を突かれたように顔を上げて燐に向かって叫んだ。

 

 燐が押したのは多分あの石碑のことだろう。

 

 その証拠に燐が石碑の前に立ち、あわあわと膝を鳴らしていた。

 

「そ、それでっ? 燐、どうなったの!?」

 

 蛍は燐の傍まで詰め寄る。

 燐は何故かこちらを見ようとはせず、震えながら俯いていた。

 

 何か……あったんだろうか?

 見てはいけないような、おぞましいものがあったとか。

 

 蛍は内心首を傾げながら、綺麗になった石碑を正面に見た。

 

 掃除の時に触った時はびくともしそうになかったのに、ちょっと触ったぐらいでこんなに簡単に動くだなんて。

 

 あれ……これ、でも。

 

(何も、変わっていない??)

 

 石碑の下の方を見ても何かが動いたような、擦った形跡は見当たらない。

 

 あんまりどころか何も動いていないみたいだ???

 

「あれ、燐。これってどういう……」

 

 蛍は自信なさげに隣にいる燐の横顔を覗き見る。

 

 燐の思い違い、と言うはないと思う。

 

 それとも何か、蛍には分からない別の異変が見つかったとか。

 

 ──蛍の中で緊張感が高まる。

 

 未だ何も言わない燐に、蛍は恐る恐る声をかけた。

 

「燐?」

 

 蛍は小声で呼びかける。

 急にふさぎ込んでしまった燐は一体何を、見てしまったのか。

 

 その真意が知りたかった。

 

「くすっ」

 

「えっ!?」

 

「あははははっっ!!」

 

「燐!?」

 

 大声で笑いだす燐。

 蛍は事態が呑み込めず困惑して狼狽える。

 

「燐、どうしたの!? 何か、何が視えたの?」

 

 蛍は燐の小さな肩を両手で包み込む。

 

 燐の首が上下に激しく降れても動転した蛍は自ら止めようとは一切考えなかった。

 

「ちょ、ちょっと蛍ちゃん、ま、待って……で、でちゃうから」

 

「出ちゃうって、何が!?」

 

 パニックになった蛍は言葉の意味が分からず尚も燐を揺さぶる。

 

 燐の顔はみるみる青くなっていった。

 

 さしもの燐もこれには参ってしまったのか、両手を上に振って降参の意を蛍に示した。

 

「蛍ちゃん、ストップ! ストップぅ! わ、わたしが全部悪かったからぁ!!」

 

「悪いって、燐、何かしたの?」

 

「お願いだから止めてぇ~!!!」

 

「あっ、うん……」

 

 燐の涙ながらの訴えに蛍はようやく自分のしていることを理解したのか、すっと身体を離した。

 

「はひぃ、色々出ちゃうところだったよ……」

 

 燐は蛍に抱き付くように手を回して、肩で息を吐く。

 

 燐の顔はすっかり青くなっており、もう少しで本当に何かを出しそうなほど気の毒な表情をしていた。

 

「もう、蛍ちゃん、落ち着いてよぉ。さっき食べたものが全部でちゃいそうだったあ……」

 

「あ、ごめん。つい」

 

 ぐすぐすと鼻をすする燐に蛍は謝罪の意味を込めて、その小さな背中を優しく撫でてあげた。

 

 しばらく二人はそうして抱き合っていたのだったが。

 

 ようやく落ち着いたのを見計らって、最初に口を開いたのは蛍の方だった。

 

「ねえ、燐。一体何がどうなったの? わたし、何もわからなかったんだけど」

 

 石碑は動いていないように見えたし、燐は意味もなく謝るしで何がなにやら分からない。

 

 燐が前に言ったように、またキツネか何かに化かされているのでないかと思うほど、蛍の頭はずっとこんがったままだった。

 

「蛍ちゃん、ごめん。ちょっとからかっただけだけなの」

 

「え? からかうって?」

 

 自分でも驚くほど間抜けな顔をして蛍は立ち尽くす。

 

「本当にごめんね。そんなゲームみたいなことあり得ないよねって、言おうとしてただけなんだけど、蛍ちゃんがそこまで真に受けるとは思わなかったの」

 

 え、ゲーム?

 

 蛍は一瞬頭を捻る。

 つまり燐の言っている事は……嘘、狂言だったと言うこと?

 

「なんだ、そういうこと。もう、燐、脅かさないでよ。わたし燐の言うことなら結構信じちゃう方なんだから」

 

「あははっ、ごめんごめん。もうしないからさ」

 

 燐はまだ喉のあたりを押さえながら、蛍に向かって平謝りをした。

 

「わたしもごめんね。ちょっとやり過ぎちゃったみたいで」

 

「へーきだよ、このぐらい……でもさ、蛍ちゃん」

 

「うん? 何、燐」

 

「ごめんね。本当に蛍ちゃんがそう言う事をしたいのかなってちょっと試してみたんだ。大胆なのは知ってるけど、本当にそう言う事を望んでいるのかなって」

 

(あ……)

 

 ようやく蛍は燐の真意を理解することができた。

 さっきまでの事は、蛍を慮った上の燐なりの気遣いだったんだ、と。

 

「わたしもさ、感情が高ぶっちゃうと結構変な事言ったり、行動しちゃったりしてるでしょ。自分でも分かってるんだけどどうしても止められないの。それで後から後悔なんてしょっちゅうだから」 

 

「そのね、綺麗なものを大事にしたいのは分かるの。でも、その結果、壊しちゃったら何にもならないっていうか」

 

「──ただ、見守るだけの愛情もある。そう言いたいんでしょ、燐は」

 

「うん。わたしと同じ間違いを蛍ちゃんにはして欲しくないから」

 

「燐……」

 

 ──燐は、ずっとそうだった。

 

 あの終わらない夜が訪れる前から、ずっと自分の事を気にかけてくれていた。

 

 聡さんの事を話してくれるのもそう言う事からだったんだろう。

 

 全ての事を話していてくれるわけではないと思っているが、男子に対して免疫のないわたしの不信を取り除くために話してくれたんだと。

 

(もしかして、燐は)

 

 不意に蛍は燐自身が意味もなく不条理な理由で消えてしまう事も、そして戻ってくることも知っていたのでは思っていた。

 

 根拠は当然ないのだが、何故だかそう考えることが自然のように感じてしまう。

 

 見た目以上に傷つきやすい、繊細な燐という普通の少女に。

 

「さてー、蛍ちゃん、そろそろ帰ろうか。もうここでの用事は終わったし。あ、滞りなくね」

 

 燐は片目で合図を送りながら笑みを浮かべていた。

 

 確かに、燐の言うようにここでの用事は済んでいた。

 

 誰も手入れにこないから、荒れ放題だった石碑の周りはすっかり綺麗になっていた。

 

 青々とした雑草は殆ど抜いてあるし、黒ずんだカビまみれの石碑もそれなりに拭いてもあげた。

 

 花だってちゃんと買ったものを供えたし、お線香だって一応あげたのだから。

 

(ん……)

 

 蛍はそっと鼻を澄ます。

 

 線香の香りはまだ辺りに漂ってはいるが、煙はもう殆ど出ていなかった。

 

 万が一火事になったから困るからと、香炉代わりの平たい石の上でちらちらと白い息を吹いているだけ。

 

 蛍も燐も、この場所でやることはやっていたのだ。

 

 ただ、誰の為の場所で、何のためのお墓なのかが分からないと言うだけで。

 

 理由なんてもう知る必要もないのだろうけど。

 

「あれ、燐。お札はどうするつもりなの。わたし石碑に貼るものかとてっきり思ってたのに」

 

「ああ、これねー」

 

 燐はひらひらとお札を指でつまむ。

 

「なんか、お札まで貼ったらそれこそ、”何かここに封印されています”って言ってる感じにならない? それこそ仰々しいっていうか、たまたま見つけた人が心霊スポットと勘違いしそうな気がするよ」

 

「それは、まあ、確かにあり得そうな事だけど」

 

 まだ夏だし、余計にあり得そうなことではある。

 

 あの保養所跡の廃墟だって、そういう目的で入った人だっているだろうし。

 

 そもそも、”彼ら(県外の人)”にとっては田舎というだけで心霊スポットなのかもしれないが。

 

「それにね。お札を貰った巫女さんに聞いたんだけど。お札って本来、貼るものじゃなくて、”納める”ものなんだって。だからこうしておけばいいんだよ、きっと」

 

 そう言って燐は、まだ小さな煙を出している線香を乗せた石ごと上に上げると、その下に数枚のお札を置いてまた上から石を置いた。

 

「これで、ヨシ! さ、帰ろう。今回はテントとか持ってきてないから早く下山しないと直ぐに真っ暗になっちゃうよ」

 

「う、うん」

 

「それとも蛍ちゃんがいいのなら、野宿したっていいけどね。結構楽しいんだよ、星空の下、何もない野原でごろんと寝っ転がるのって」

 

「の、野宿!?」

 

 蛍はその言葉に一瞬びくっとした、が。

 

 ふと思い出したように小さく微笑んだ。

 

「燐、わたし、野宿したことあるよ。でも少しの間だし、星とかそういうのはあんまり気にしなかったけど」

 

 その時の蛍は、睡眠薬を大量に飲んでいたから意識が朦朧として景色どころじゃなかった。

 

 なんて、そんな事、いくら燐にも言えないことなんだけれど。

 

「あ、そういえば確かに蛍ちゃん野宿しているみたいだったね」

 

「あれ燐、知ってたっけ? わたし、燐に話したのかなぁ……」

 

 不思議そうに首をかしげる蛍を見て、燐は小さく肩をすくめるとひとつ息をついた。

 

「だって、話したっていうか……」

 

(見つけたというか)

 

 去年の秋ごろ、風車の下で蛍が眠っていたときの事を燐は思い出していた。

 

 辺りにはノート? のようなものが散乱していたし、実質サトくんが教えてくれたようなものだったけど。

 

 あれはやはり自分と同じような状況が蛍に起こったのだろうと、燐は薄々そう感じていたのだが。

 

「不思議だねぇ」

 

「うんうん、不思議だった」

 

 蛍と燐の会話は微妙にかみ合っていなかったが、それに気が付いたように急に顔を見合わせると、少女たちは何事もなくにこっと笑い合った。

 

「まあ、野宿でもわたしはいいけど、多分虫に刺されるよ~。それこそからだ中いっぱいに」

 

 燐は二ヒヒと意地悪く笑って続ける。

 

「それが嫌なら頑張って下山だね。今度は前みたいにロープで引っ張るような”電車ごっこ”はしないからっ。蛍ちゃんの力だけで下山してねっ!」

 

 そう言うと燐は、いきなり駆け出してしまった。

 

「え、ちょ、ちょっと燐~、待ってってば~!」

 

 蛍も慌てて後を追おうとするのだったが。

 

 言葉とは裏腹にその足は立ち止まっていた。

 

 くるりと振り返って、もう一度石碑の方を蛍は真っすぐに見る。

 

 そこには何かがいるわけではない。

 気配だって微塵も感じなかった。

 

 けれども、蛍はもう一度ぺこりと小さく頭を下げる。

 

 壊そうと言った自分に対する過ちか、それとも別の意味合いがあったのかは分からないが、しばらくの間そうして頭を垂れていた。

 

(わたしは……ここに何の思いもない。だけど……)

 

 因縁とか恨みだなんて。

 そんな、積み重ねたものなんか、わたしは何も持っていない。

 

 家柄や血筋だって、ただ勝手に与えられたものだし。

 

 そもそも、こうして生を受けたことでさえも今となってはもう……。

 

「蛍ちゃんー! 本当に置いてっちゃうよー!!」

 

 遠くから呼ぶ燐の声で蛍はようやく頭を上げた。

 

 遠くと行ってもそんなに蛍から離れてはいない、燐はいつもそうだから。

 

「ごめん、燐。今行くー!」

 

 大きく手を振って燐に応える。

 

 そう求めるものはここにはない、その先。

 待っている人のその先にあるものだから。

 

 そして今度こそ蛍は駆け出した。

 

 もう、決して後ろを振り返らないだろう。

 

 前だけ、燐の方だけを見ていればいい。

 

 そのまま真っ直ぐに駆け出して行くだけで。

 

 足に履いているトレッキングシューズも背中のバックパックも正直自分には似合っていない、それは自分でも思っている。

 

 どっちかと言えば服装も小物も昔から少女趣味だったし。

 それが自分だと思っていたから。

 

 でも、あれから変わった。

 

 探して、理解して、選んだ末のこと。

 

 世界が真っ暗になった後のこと。

 

 晴れているのにまっくらになった世界で自分ができることは。

 

 何もない。

 

 何もないことと言うことが分かった

 

「燐っ!!」

 

 もう一度名前を呼んでみる。

 

 そう、わたしが唯一出来ることは。

 

 かけがえのない人の──燐の名前を呼ぶことだけ。

 

 前に燐に、”幸運なことが自身に振り起きないなら、座敷童って何のためにいるだろうね”と言われたことがあった。

 

 周りの人を幸運にする為じゃない? って他人事のように返したけど。

 

 そうじゃない。

 座敷童だって、実は幸運だったんだ。

 

 だってわたしには燐がいる。

 こうして燐の名を呼ぶこともできるし、触れ合う事だってできる。

 

 それ以上は……まだ、いろいろ難しい気はするけど。

 

 タイミングとか覚悟とか、互いの気持ちとか……。

 

 でも、二人でまたこうして友達でいられる。

 

 これ以上の幸運はもうきっとないだろう。

 

 だからもう──いらない。

 

 三間坂の名も家も、お金も座敷童である自分自身でさえも。

 

 執着があるから歪みが起きてしまうんだと。

 よく分かった。

 

「燐っ!」

 

 わたしは燐さえいればいい。

 

 燐がいてくれさえいればそれで。

 

「蛍ちゃん!」

 

 燐も声に答えてくれる。

 

 それだけでわたしは嬉しい。

 

(だから、ごめん。ごめんなさい、()()()()

 

 蛍は走りながら心中でさよならを言った。

 

 それはもう二度とここには来ない、という別離の意味ではなく、またここに来ると言う約束の意味だった。

 

 流されたという意味ではなく、むしろはっきりと区別出来た上の蛍の答えだった。

 

「燐!!」

 

 ずっと、ずっと待っていてくれる友の手を取る。

 

 たったこれだけで。

 わたしは幸運を感じることができる。

 

 こんな、当たり前のことで。

 

「さ、帰ろうね、一緒に」

 

「うん」

 

 蛍は頷いたつもりだった。

 けど、なぜか声が出ない。

 

 代わりに何か。

 

 何かの音がカチンと鳴った。

 

 何だろう?

 蛍は内心首をかしげた。

 

 歯車が動いたというよりも、少し風流な感じの音だった。

 

 風鈴が風に揺られたときみたいな。

 涼やかな音色、みたいだった。

 

 けどそれは、外からの音ではないみたい。

 

 現に燐の耳には特に何も届いてはいないようで、不審がることもなく普通に蛍に笑顔を向けていた。

 

 だとしたら、何の?

 何からの、音?

 

 蛍は考えを頭の中で巡らそうとするが、その前に。

 

 急に全身の力が抜けたようになった。

 

 螺子の切れた人形みたいに呆気なく。

 

 燐の前の前で。

 

 蛍は、文字通り膝から地面に崩れ落ちていった。

 

 ────

 ───

 ──

 

「ね、ねぇっ! どこか悪いの!? 返事してっ、蛍ちゃんっ!!」

 

 燐は突然倒れ込んだ蛍の手をぎゅっと握りしめる。

 

 嘘みたいに冷たくなった蛍の細い指先を絡ませながら、白く透き通った頬を不安げに見つめていた。

 

 急に倒れ込んでしまった蛍を燐は心配そうに見守る。

 

 とくん、とくん。

 

 細い脈の動きが肌から直に伝わる。

 

 このまま途絶えてしまうのではないかと、縁起でもない考えに浸りそうになる心を押さえつけながら、どうか無事であるようにと心から燐は祈った。

 

 けれど、それは何時になるのか。

 

 今の燐にはそれを待つことは出来そうになかった。

 

「ちょっとだけ……待っててね、蛍ちゃん。直ぐに誰か呼ぶから」

 

 燐は小声で囁くと、片手でスマホを急いで操作し始める。

 

 今は電波が届いている。

 

 そのことを瞬時に見極めると、指を素早く画面に滑らせた。

 

 とりあえず、母親に連絡をとろうとする……つもりだったのだが。

 

(えっ……)

 

 燐の指が止まる。

 

 急に蛍がぱちっと瞼を開けたのだ。

 

 まだ半目だったが、さっきまで悪かった顔色が元の少しピンクがかった色に戻っていた、ように見えた。

 

 それは顔色だけでなく手にも力が戻ってきたのか、燐の手を強く握ってくる。

 

 まるで、一瞬の内に違う人物に生まれ変わったみたいに。

 

 蛍に一体何が起こったのか。

 

 さっきの自分の演技とは違って、明らかに違った、胸騒ぎのする危険な様子だったのはずに。

 

「燐……わたし」

 

 その蛍が口を動かす。

 燐はその声を一言一句聞き洩らさないように、耳を傍まで近づけた。

 

「蛍ちゃん! 大丈夫なの!? 立てそう?」

 

「うん、多分……」

 

 そう言ったものの直ぐには立ち上がれないのか、蛍は燐の顔をじっと見つめていた。

 

 安堵した燐は大きく息を吐く。

 これまで息を止めていたみたいに、新鮮な空気がいっぱいに肺を満たした。

 

「燐、わたしね。やっと……なれたみたい」

 

「蛍ちゃん、”なれた”って?」

 

 消え入りそうな小さな言葉を吐く蛍に、燐は落ち着いた表情で聞き返す。

 

 内心はとても焦ってはいたが。

 

(何について言っているんだろう蛍ちゃん。第一、なれたって???)

 

 それはどっちの意味での言葉なんだろうか。

 燐の中で得体の知れない焦燥感が募っていく。

 

 冷たい汗が、燐の頬に湧きあがった。

 

 蛍はそれを察したかのように小さく口を開いた。

 

 とても衝撃的な言葉を、告げた。

 

「普通の……何もない”普通の女の子”にわたし、なれたみたい、なの」

 

 それを聞いた燐は息を呑み込む。

 

 けれどそんな動揺はおくびにも出さずに、優しい口調で蛍に聞き返す。

 

「そう、なの?」

 

「うん……ようやく燐と、()()に。なれたね」

 

 蛍はそう言ってにこりと静かに微笑んだ。

 

 確かに、普通の少女の笑顔だった。

 

「……そう、だね」

 

 燐はその一言しか言えなかった。

 

 呆気なく言い放つ蛍の顔を見つめただけで。

 

 しばらく何の言葉も浮かんではこなかった。

 

 ──ただ、今日が。

 

 本当の、蛍の誕生日なんだと、今思った。

 

 

 ────

 ───

 ──

 

 

 





ただいまセールで青い空のカミュDL版が3000円ぽっきりみたいですねー!!!! これまでにない安さ!!! だと思うので、まだ未体験の方はこの機会に体験してみてくださいっー! 夏の思い出を彩る一作になると思いますよー。

と、毎回のように宣伝してますけど、よく考えたらエロゲなんですよね、青い空のカミュって。あまりにも当たり前すぎてすっかり失念してましたよー。
でも、とてもよいエロゲなのでやっぱりお薦めです。初夏の切なさと、透明感を味わえる一品、蒸し暑い夏の夜にぜひぜひご賞味くださいませ。

あ、おすすめって言えば”fallGuys”もお薦めです。っていうか、軽い気持ちでプレイしてみたらどっぷりハマってます……対戦系のゲームは熱くなってしまうからやらないようにしているのにぃぃぃぃ~~。でも楽しいから仕方ないですねー。

そういえばまだ映画ゆるキャン△ みてないです。初日に見に行こうかと思ったんですがなんか機会が微妙になくて結局ずるずると……まるで自分の作品みたいだぁぁぁーー。
夏が終わる前に見に行きたいですねー。

COMIC FUZで公開されてる、ゆるキャン△ アニメコミック。あれを見て、昔、某ジブリ作品の似たようなものを持ってたのを思い出しましたよー。そのせいかちょっとノスタルジックな気持ちになります。
でも、情報量が多いのかふきだしでキャラの顔が隠れてしまうのがちょっとねぇ……しかもその役が何故か犬子さんに偏っている気がする。どーゆーことやねーん。

あと、いつの間にかゆるキャン△ の楽曲がサブスクで楽しめるようになってますねー。劇場版の曲もありますし、珠玉の名曲がお手軽サブスクで楽しめる……これも時代なんですねぇ(表現が古いー)。

ではではではー。


(8月2日追記)

……と、上の方で”映画ゆるキャン△”をまだ見ていない、確かにそう書いたのですが……。

映画見に行きましたよーーー! もちろんファーストデイでーー!! まあ、もう8月1日、つまり公開して一ヶ月なんですけどねー。

やー、ハッキリ言いまして……予想以上に良かったです!!! どれだけのを予想していたのかって感じですけどねー。ある程度の情報は得ていましたから、こんな感じ映画になるのかなーって予想は立てていたのですが、いい意味で予想を裏切られましたねー。
一応ネタバレ回避の為に映画の詳細は伏せておきますが、なんと言いますか、全体的にマジメな印象でしたねー。内容も雰囲気もキャラもみんな大人で真面目な映画になっているなぁって感じました。

設定上10年後ですから、それぞれみんな大人になっているのですけれども、個人的には大人って、社会ってこんなに真面目だったかなーって感じがちょっとだけしたりです。

それと、”みんなでキャンプ場作り”が全体のテーマになっているのは予告などで知ってはいましたけど、実際はそれに関する人の繋がりというか、何か、”この映画自体を創る際の紆余曲折を作品に落とし込んだ”感じがちょっとだけしました。

ある意味ではドキュメント映画なのかもしれないのではと、視聴後そんな感じに私はなりましたねぇ。

それとマジメと言いましたが、遊び心が全くないわけじゃなく、むしろゆるキャン△ ファンならくすっと笑えるポイントが要所要所にあって、飽きさせない作りになってるようにみえました。

ただ、10年後だとメインキャラはまだ良いのですが……恐らく一番危惧されたことだと思いますね。10年後の”ちくわ”は。

これは、うーん、劇場で見てくださいとしか言えないですねぇ。ですが、まあゆるキャン△ ですからねぇ、その辺りはうんうんって感じですね。

10年後といえば鳥羽先生はちょっとあれな感じなのに、何故なでしことリンの母親は若いままなのか。とくに咲さんはリンよりも若返ってるぐらいだしーー!

しかし、大画面でみるゆるキャン△ は、何というか感慨深いものがありますねー。やっぱり迫力が桁違いですねえ、当然ですけど。後、音も。これも当然ですが、映画版は割と意図的に音の演出を使っている気がしました。

公開して既に一ヶ月経ちましたし、ちょっとだけ今更な感じもありましたが、劇場で見て本当に良かったです。
映画ゆるキャン△ 十二分に堪能させていただきました!

ちなみに私の貰ったのは愛車のドアを開けて微笑むなでしこのフィルムしおりでした。

映画のネタバレとかは最後の最後のあとがきに書くかもです。私のようにまだ未視聴の方もいらっしゃるかもしれないですし。



さてー、ここだけの話なのですが……実は私、映画にがっつり集中出来てはいなかったのです。気になることがちょっとありまして。
あ、別に変な意味ではなくてですね。例えば……同時上映していた別の映画の音(多分ジュラシックなワールド)がとても大きくてこっちのシアターまでドムドム響いてたーとか。
クーラーが結構効いていて寒くなってきてしまったなぁとか。
暑いからとついお茶を飲み過ぎてしまったせいで、後、一時間の尿意とのバトルに戦々恐々したりーとかとか……そういう、”夏の映画あるある”ではないですよー。

まあ、全部本当のことなんですけど……。

何といいますか……上の方でも書きましたがにも、情報量が多いんですよねー、本当に。それに結構原作のネタを使ってるんですよー。それにはまあ、一応理由があるみたいなんですが……。だからそう言った”小ネタ探し”をしてしまうと本編に集中できないといいますか、そういうのも楽しみの一つだとは思ってますけど。

情報量の多さが影響しているのかは分からないですが、軽くネタバレになりますけど、映画の余韻に浸ろうと思っても、最初の方のオープニング曲に合わせて満員電車に揺られるリンの姿ばかり思い出してしまうんですよねぇー。

そこまで印象に残る部分ではないとは思うんですけど……意外性がいいのだろうか。もし気になった方は是非劇場で確認してみてください。

あと。超超個人的に気になるところもあったのですが、その辺りはネタバレ含めてまた後日続きを書きますねー。


それでは、長文、お目汚し失礼しましたー。

ではではでははー。




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