We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life.   作:Towelie

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 ドアがスルッと閉まり。
 緩やかに列車が動き出す。

 レールの繋ぎ目などないみたいに走り出しも、その後も何もかもがスムーズだった。

 そこには不安も後悔もないみたいに、速さだけが先行していた。

 ……わたしは、そうじゃないけど。

 あまりにも静かだから、夢の中の列車にまた乗ってるのかと思ってしまうほどに。

 それは誇張ではなく、お昼丁度頃に乗車した列車(新幹線)は、レールでもないみたいに滑らかな挙動をみせており、あわよくば何かのシミュレーターの中にいるのではないかと思うほど。

 それぐらい快適だった。
 今の気持ちとは裏腹に。

 けれど、景色はハッキリと動いている。

 本当に少し前までは、山間を走るローカル線の古い車両に体をガタゴトと揺さぶられていたことが信じられないほどに。

 同じ列車というカテゴリー内でもここまできっちり違うものかと、いたく感心……と言うよりも何だか少し呆れてしまった。

 速さと快適さ、その乗り心地の差に。

 その代わり料金は大分かさんでしまうけれど。

 けれど、地元の古ぼけた列車もレトロで可愛くて好きだったから、優劣をつけるなんてことはするつもりはないけど。

「……」

 周りが静かだからなのか、スマホよりも車窓からの景色の方が自然と目に入る。

 ちょうど大きな山の前に列車が差し掛った所(ビューポイント)だったし。

(今日も、大きい……)

 上の方はすっぽりと白い帽子を被っていて少し残念だったが、それ以外の少し霞がかった薄青の稜線が新緑の身体を包み込むようにして、開かない窓をキャンバスにするように、その輪郭をはっきりと浮かび上がらせていた。

 僅か数秒の景色であるのにその瞬間だけ、列車内は静謐で瀟洒な美術館(ミュージアム)のような厳かな情景へと変化していた。

(……蛍ちゃん)

 そんな雄大な景色を眺めても、燐の脳裏に浮かぶのはホームで別れた友達の、蛍の方だけを向いていた。

 どこに視線をやっても、頭から離れない。

 それは意識でさえまでも。
 ずっと、ずっと遠く。

 まだずっと後ろ髪を引かれたまま、燐はひとりでぼんやりとしていた。

 燐の座席は窓側だったが、隣には誰も座っていない。
 その事が余計にぽっかりと心に穴を開けていた。

 ひとりぼっちである事が強調されたみたいに思えて。

(……どうして、わたし、あの時に)

 外の景色を見てはいるが、頭では別の事を考えていた。

 本当は考えたくないことだった。

 今更どうにもならないことだし、実際にもうどうにもならないことだったから。

 連絡をとることはいつでもできる。
 けれど、それが一体何になるんだろう。

 離れていってしまったのはきっと物理的な事だけじゃない。
 心もそのまま遠くに行ってしまった。

 そんな気がする。

(わたし、また同じことをしちゃったのかな……? 何度こういうことを繰り返せばいいんだろう)

 もっと真剣になんて……それこそもう遅いし。

(……ひっ!)

 燐は思わず声を上げそうになった。

 景色の内側に見知らぬ顔が映り込んできたから。

 それは酷くぼんやりとして、とても間の抜けた覇気のない表情(かお)だったから。

 つまりは自分の……燐の顔だった。

 それが新幹線の磨き込まれた、鏡みたいな窓に映り込んでいた。
 ただ、それだけ。

 我ながら酷い顔をしていると思う。

 これでも自分では結構可愛い部類だと思っていただけに。

(ふぅ……)

 思わずため息をついた。

 この先、一度も行った事のない場所に行くのに、いつまでも気を滅入らせてなんかいられない。

 気持ちを切り替える為、燐は窓の外の景色ではなく、新幹線の車内の様子に目をくばった。

 幾つかの駅に停車したが、それでも燐の隣の席はずっとまっさらな状態だった。

 何か厳かなヴェールでも掛けてあるみたいに、綺麗なブルーのボックスシートが何だかとても寂しいものの象徴みたいに思えて、意味もなく胸が痛んだ。

 別に一人で乗ることが寂しいという理由ではない、はず。

 修学旅行だけでなく、プライベートでも何度か新幹線には乗ったことがあったし……まあひとりではなく、家族とか従兄とだけど。

 だからって、別にひとりでダメな理由にはなっていない。

 ただ座っているだけでいいわけなのだし。

 暇つぶしにスマホを適当に眺めていれば時間なんてあっという間に過ぎ去るだろう。
 距離は確かに長いが、そんな事は気にならないほど新幹線は早いのだから。

(それにしても、お母さん何であんなこと言ったんだろう。わたしもうそんな子供でもないのにぃ)

 曇った気持ちを紛らわすように燐は、今朝出来立てのパンを届けにわざわざ小平口町から車で降りてきた母親のことを思い返していた。

 ”燐は素直で騙されやすいんだから、寄り道とかしないようになさい”。

(って、そこまで子供じゃないもん。お母さん、全然分かってないよねぇ。ほんと)

 特に、”東京は気を付けなさい、変な男が寄ってくるから”……って。

 だから、そんな隙の多い子じゃないって言ってるのにぃぃぃ!

 燐はムキーとなる心を押さえながらも、シートの上でぷんすこと一人、踏ん反り返っていた。

 ただ、自分でも明らかに苛立っているのが分かるだけに、それは大して長続きしなかったが。

 (平常心……ここは平常心、だよ。これじゃあ変なのが寄ってくるより、わたしが危ない人に間違えられちゃう)

 ……
 ……

 こうなると今度は退屈を覚えてしまう。

 手持ち無沙汰を感じた燐はスライド式のテーブルに放っておいたスマホを手に取ると、半ば無意識にそのつるんとした液晶画面に指を伸ばした。

 さて……どうしようか?

 思わず手に取ったものの、そこから先の指が動かない。

 別に操作が出来ないという意味ではなく、()()()()()()()()()()()()が、頭に浮かんでこなかった。

 したいゲームも、見たいSNS(情報)があるわけでもないし、ニュースだって。

(と、なると……)

 だからと言ってすぐにでも連絡したら、何かそれこそ未練がましいと思われるだろうなぁ。
 特に親しい友達には。

 ”どれだけ寂しいの?”、と思われるのはまず間違いないだろうし。

(でも、それでも)

 液晶画面を見つめながら、もやもやとした煮え切れない想いに燐は囚われていた。

(別に直ぐに連絡を取ったって悪いわけではないし。それにやましい事をしているわけでもないよね?)

 言い訳の様な言葉を並べてみても、まだどこか納得がいかないのか、それでも燐の指は動かなかった。

 プライドとか羞恥とかではなく、自分でも良く分からない感情が渦を巻いていた。

(まあ、でもいっか、笑われたって)

 今、声を聞きたいと思ってるのは確かなものなんだし。

 自分の気持ちに正直になろうと思った。
 羞恥なんて後から考えればいいだけ。

 できれば考えたくはないけど。

 半ば開き直るようにほっと息をつくと、燐は携帯に向かって軽く微笑んだ。
 そして母親ではなく、まず蛍に電話を掛けた。

 ついさっきまで一緒だったのだから。
 そうすることに何の迷いもなかった。

「──あ、もしもし蛍ちゃん? 今、何かしてた?」

 何回かのコールの後、蛍の携帯に繋がる。

 出るのが遅かったのでちょっと心配したけど、声を一言聞いたらどうでもよくなってしまった。 

「あ、大した用事じゃないよ。それより燐。どうしたの、なんか忘れ物?」

「別にそーゆーわけじゃないけど、どうしてるかなって」

 燐はそれまでの沈んだ気持ちが嘘のように明るい声で話していた。

 それだけ嬉しかったんだとおもう。
 何気ない、友達との言葉のやり取りが。

「えっと、そのちょっと……トイレ行ってたの」

「あっ、ゴメン! 変な時に電話しちゃって」

「ううん。いいの。もう済んじゃったし」

 そうとは思わなかったので燐はすぐに謝った。

「ホントに? ゴメンね蛍ちゃん。何かタイミング悪いときに電話しちゃって。あっ、先にメッセ送ってれば良かったね」

「本当にもう大丈夫だから」

 ずっと謝ってばかりの燐に蛍は優しい声色でそう言った。

「それより燐はどう? 楽しんでる?」

「うーん、と……」

 こうなると寂しくて電話かけたなどとは蛍に言えない。
 燐は苦笑いを浮かべながら、少し声を高くして答えた。

「そうだね。快適と言えば快適だよね。座り心地も良いし。そういえば、さっき、富士山がとっても大きく見えてたんだよ。何かいつもと違って見えてちょっと新鮮だったよ」

「あっ、そうなんだ。なら良かった」

「うん、蛍ちゃんは? もう家に帰っちゃった?」

「ううん。まだ外だよ」

 蛍のその言葉に燐は一瞬ぎょっとなった。

「え、そうなの? ホントごめん! 周りに聞かれちゃったよね?」

「そうでもないよ。だってもう平気だったから電話取ったの。それにほぼ個室のトイレだったから」

「でもすごく狭いよね。わたし初めてだったからちょっとびっくりしちゃった」

 液晶から聞こえる蛍の言葉に燐は少し引っ掛かった。

(うん? 女子トイレって個室しかないよね? それに狭いって……)

 蛍の物言いにちょっと違和感を覚えて、燐はかざした携帯に首をかしげた。

 駅のトイレはむしろ広く感じるほどだけど。
 特に新幹線側のプラットフォームにあるものは清潔で尚且つ十分なスペースがあったと思うし。

 そんなにトイレにこだわりをもっているとは思ってはなかったけれど。

 何か蛍なりの基準、みたいなのがあるのかもしれない。

 一応、由緒のあるとこのお嬢様だし。 

 蛍の実家や二人で住んでいるマンションだって、家庭用としては広いトイレだと燐は思っていたし。

 二人一緒にでいても結構気付かないことってあるもんだなー。
 そう燐が電話ごしに感心しきっていると、液晶からさらに意外な言葉が飛び出してきた。

「確かに燐の言う通りだね」

「え、何のこと?」

「まだちょっと富士山みえるよ。綺麗だよね本当」

 歓喜を含んだ蛍の言葉に燐は思考停止したみたいに膠着していた。

 声が良く聞こえるから多分外ではないと思うし、駅ナカにしてはやけに静かすぎるとは思う。

 もうお昼過ぎだから、それなりに人出はあるはずだし。

(まさか、まさかだよっ……!)

 思わず燐はごくりと喉を鳴らして、おずおずと蛍に問いかけた。
 液晶越しに少し眉をひそめて。

「ね、ねぇ、蛍ちゃん? 今、何処なの?」

 恐る恐る声を潜めて燐は話しかける。

「……」

 何故か蛍からの返事はなく。

「ど、どど、どうしたのっ。やっぱり今、話しかけちゃいけない場所だった?」

 燐は少し身を屈めてこそこそと話を続ける。
 少女の姿は傍目には確かに怪しいものに見えたのだろう。

 そのせいなのか、燐は飛び上がるほどに驚いてしまった。

 黙り込んでいたスマホから、急に変な声が囁くものだから。

「いま、燐の後ろにいるよ……すぐ、真後ろ……」

 急にノイズが掛かったみたいに蛍の声が聞き取れづらくなったので、燐はスマホに何度も呼びかけた。

「もしもし、蛍ちゃん? 一体どうしたのっ!?」

 その時だった。

 燐はスマホの声に耳を傾けた時。

「燐」

 名を呼ぶ声に、全身の血が凍るような悪寒を感じて燐は、思わず自分の後ろを振り返った。

 戸惑うような苦悶の瞳を。
 誰もいるはずのない座席の方へ。

 だが。

 そこには片手に携帯を握りながら、恥ずかしそうに小さく手をひらひらと振る蛍が立っていた。

 それを一目見た燐は。

「──ッ!? ──ッ!!??」

 辛うじて燐は口を抑えることが出来たのだったが、その表情は驚愕のまま目を見開き凍り付いていた。

 なんで? どうしてここに居るのぉ!?
 そう言っているように。

 足を必死にバタつかせながら。首を何度も左右に振る燐。
 不思議そうにこちらをみる蛍を指さしながら。

 だが、燐が口を抑えていたにも関わらず、実際にそう叫んでいたと変わらなかったのか、それまで静かだった白い車内でざわざわと人の声が戻ってきていた。

 ──
 ──
 ── 

「はぁ、もう。びっくりしちゃったぁ。むー……蛍ちゃんは、わたしを驚かせるの楽しんでない? これじゃあいくつ心臓があったって足りないよぉぉ……」

 ため息交じりに愚痴をこぼす燐。

 ちょっとした騒ぎはすぐに収まり、客室は緩やかな時間の中で東へと流れていた。

「ごめんね。あ、でも、燐なら平気なんじゃない。だって一度、死んだんでしょ? それっていくつも命を持ってるってことだよね」

 さっきから平謝りの蛍だったのだが、急に変な事を言いだしていた。

 燐はまた深いため息をついた。

「また、もう……それなら蛍ちゃんだって一緒でしょ」

(わたしの知らない時間のとき、消えちゃったんだし)

 少し口を尖らせる燐に蛍は困り顔で返す。

「でもさ、燐。わたしの心臓は一つしかないよ。ほら、とくんとくんって鼓動はひとつだけっだし」

 自身の胸に手を当てた蛍は、さも当然のようごとくつぶやく。

「それは、わたしだってそーなのっ。二つも三つも持ってないからっ」

 燐はもうつっこむだけの気力も失せたのか、投げやりの言葉をなげかけた。

「あははっ、わたし達、本当に一緒だね」

「……そうだね」

 くすくす笑う蛍に燐は呆れたように肩をすくめた。

 けれど、内心では少しほっとしていた。
 
 ホームで手を振って別れたときは例えようのない喪失感を覚えたけど。

 どこか安心する、二人一緒だと。

 運命とか、引力とか。
 そう言った不確かな、オカルト的なものを信じてしまうぐらいに。

「あのさ、蛍ちゃん。どうして蛍ちゃんも、その一緒の新幹線に乗ってるの? さっきホームで別れたばかりでしょ、わたしたちって」

 燐は脱線していた話を元へと戻した。

 それがもっとも疑問であり、燐が蛍にまず最初に聞きたいことだった。

「あ、うん」

 蛍は歯切れの悪そうな顔で曖昧に笑う。
 聞かれたくないような、そうでもないようなそんなどっちつかずな表情で。

(まさか、”テレポートしてきた”、とは言わないよね? 流石に……ねぇ)

 燐は自分の頭で考えたことを馬鹿馬鹿しく思いながらも、もしかしたらと少し眉を寄せて蛍を見つめていたが、直ぐにその考えは打ち消して、少しからかうように蛍に言葉を投げた。

「じゃあ、ちょっと寂しかったからわたしの後を追ってついてきちゃった、とか?」

 そう言って燐はくすっと笑う。

 蛍と離れ離れになると言っても、精々二、三日程度だし、それに蛍に限ってそんなことはないと燐は思っていたから。

 ちょっとからかいすぎたかもとは思ったけど。

 けれど、蛍の唇から出た答えは違ったものだった。

「うん……燐の言うようにきっとわたし、寂しいんだと思う。いつまでもこういうのって駄目だとは思ってるんだけど」

 予想していなかった蛍の素直な告白に、燐は。

(そ、そんなそれじゃあ……)

 声に出さない言葉を紡ぎながら、顔を赤くして口をぱくぱくとさせていた。

「で、でもぉ、そんな、もう二度と会えないってわけじゃないんだしぃ」

「けど、もし前みたいなことになったら、多分、わたし……もう耐えられないと思う」

 そう言って蛍は燐の顔をじっと見つめた。

 透明で、穢れのない澄んだ瞳で。

 その綺麗な瞳と見つめ合ったことで、燐はやっと気付いた。
 
 ”同じ”と言った意味。

 蛍が、”普通”に憧れていた本当の意味を。
 ようやくわかった気がした。

「蛍ちゃんっ」
 
 ぎゅっ。

(えっ、今、燐が?)

 突然のことに蛍は声が出なかった。

 まだ燐の隣は空席のままだったから、そこにはちゃっかり蛍が座っていたのだが。

 隣にいた燐が急に蛍に抱き付いてきたのだ。

 頑なだった心を解放させるように、泣き笑いのような表情で燐は蛍の背中に手を回す。

 全てを包み込むような優しい抱擁を燐はしていた。

「ごめんね。蛍ちゃん。わたしもね、本当はすっごく寂しかった。だって、わたし……」

「そっか、燐もそうなんだね」

 蛍は柔らかく微笑むと、燐の淡い栗色の髪を優しく撫でた。

 あれから燐はずっと髪を伸ばしたままだったのだが、この旅行に行く直前、髪を切って欲しいと蛍に頼み込んでいた。

 一月に一回はお互いの髪を切り合いこしていた二人だったけど、この時の燐いつもと違い、バッサリいって欲しいとの要望だったので、蛍は少し緊張しながらも、真鍮の糸みたいに綺麗な燐の髪を文字通りバッサリと切ってしまったのだ。

 それでも前ほどには切ってはおらず、せいぜいセミロングといった具合だった。

「ぐすっ」

 このままだと衆目を気にすることなく燐が大声で泣き出しそうな気がする。
 そう思った蛍は自分の胸元まで燐を引き寄せた。

 ふわっとした柔らかい感触と、ほのかな甘い香りが燐の頬を優しく包み込む。

 燐は嗚咽を必死にかみ殺しながら、一人静かに泣きじゃくっていた。

 やはり辛かったのだと思う。

 急に燐が聡の元に行くと打ち明けたから蛍はびっくりしたけど。

 それでも燐のことだから。
 大丈夫なんだろうと思っていた。

 いつも以上にはっきりとした口調でそう話すから。

(燐のこと……よく分かってるつもりだった……なのに)

 燐の事を全然分かっていなかった。
 
 燐と同じ、普通の少女になっても。

 もっと燐の事、気にしてあげるべきだったんだと思う。
 燐のお母さんにもそう言われたことがあったし。

 見た目よりもずっと繊細な燐のことを。

「あ、ご、ごめんっ」

 顔を埋めていた燐が、急にパッと離れたので蛍は一瞬きょとんとなった。

「もう……大丈夫だから。ごめんね。蛍ちゃんに恥ずかしい思いをさせちゃって」

「ううん。全然、恥ずかしいなんて思ってないよ」

 そう言って微笑む蛍だったが、その顔は名残惜しいというか複雑な表情をしていた。
 一方で燐の方も目も顔も真っ赤に染めていた。

 公衆の面前でこんなことをしていれば確かに恥ずかしいのではあるが。

 二人が顔を赤くしているのには別の思いがあるようだった。

(うー、わたし何してるんだろっ。急に蛍ちゃんに抱き付くなんてっ!)

 それだけ愛おしかったんだと思う、蛍のことが。

 いじらしいというか急に胸がいっぱいになって、気がついたら蛍に抱きついていた。

 羞恥よりも本能的なものが勝った結果だと思う。

 衝動的すぎて自分でも吃驚したけど。

「それに、わたしだって同じだよ。友達が遠くに行っちゃうのはやっぱり寂しいもん」

 体が離れたばかりの蛍に手を優しくとられ、燐はうつむいた顔をあげた。

 その目と合うと、蛍はにこっとした。

 髪留めにつかっているキンセンカのように可憐で儚い、いじましささえ感じる微笑みで。

「わたしもね」

 そう言って笑った後、蛍は少し恥ずかしそうに言葉を続けた。

「頭では分かっていたの。けど、やっぱりダメだった。燐が離れて行っちゃうって思ったら自然と体が動いてたの。こういうのって重たいんだよね」

 唇を小さく開けて苦笑いを浮かべる蛍。

 燐はそのまままた蛍を抱きしめたい衝動に駆られそうになったのだが、その代わりに蛍の細い手を握り返した。

 あまりにも細くて危なっかしくみえるけど、芯はとても強い蛍のその指先を絡ませるように。

 ぎゅっと、しっかりと握った。

「わたしだって、結構重い女だと自分で思ってるよ」

「ちょっと、執念深いタイプの?」

「う……普通レベルだと思う」

 燐と蛍は顔を見合わせたまま、くすくすと笑い合った。

 今度は流石に声は押さえてはいたが、それでも少女たちの可憐な笑い声は静かな車内では何かの旋律みたいに綺麗に奏でられていた。

 それに不快感を感じるものは皆無のようで、むしろ二人のおかげで他の乗客も楽しそうに話し出すようになったほどだった。

「それにしても蛍ちゃん」

「うん、何」

「どうして急に乗ってくることにしたの? だってあんなに嫌がってたよね」

 蛍は燐があれだけ誘っても頑なに首を縦に振らなかった。

 なのに何故?
 燐がそう思うのも不思議ではなかった。

 どうしてもそこのところがどうしても気になっていた。
 蛍の頑固さは燐でも呆れるぐらいだったから。

 何か気が変わるような事象があったとしか思えない。

 燐にはそうとしか思えなかったのだ。

「そう思うよねやっぱり」

 蛍は一瞬ちらりと靴先に視線をやった。

 まるでドレスみたいにフリル多めの服装に、ちょっと丸い所のある赤いラインのトレッキングシューズが蛍の華奢な体躯と比べてやけにサイズの大きいものに見えた。

 だが、決して似合っていないというわけではない。

 むしろそのアンバランス感が人目を惹くほど可愛らしかった。

 対する燐は、頭のてっぺんから足の爪先まで所謂アウトドアな”いつもの格好”。

 久しぶりな人と会うのに、特別なコーディネートとかするはずもなく、むしろこの恰好ならば間違いなく自分だと分かってくれるからとの思いで燐は敢えてそうしたのだった。

 実際はやはり機能性というか、着心地の良さで選んでしまったのだけれど。

 上着は言わずもがな、下にはさらっとしたベースレイヤーを着込んでいるし。

 何だかんだ言っても結局は動きやすさ重視だった。

「そのさ、理由っていうか、わたしに隠してた事とかある?」

 根拠とか裏付けみたいなものがあったわけではない。

 蛍をちょっとからかおうとして言っただけだった。

 その何も考えていない単純な言葉が、その蛍を心底驚いたよう顔にし、目を大きく見開いて口を丸く開けさせていた。

 全く予期していない──図星を突かれたみたいに。

「あのー、蛍ちゃん?」

 何か誤解されていると感じた燐は、手を軽く振って尋ねる。

「だって、あの時……燐はいなかった筈なのに……」

 蛍は燐の事が目に入らないみたいに独り言のようなものをぶつぶつと呟いていた。

「え、えっとぉ」

 急に目の前で思案し始めてしまった蛍に、燐はどう言葉をかければいいか分からず、少し困惑の顔を浮かべた。

「あ、ごめん。ただ流石だなって思って」

「わたしの事?」

「やっぱり燐には分かっちゃうんだなって。以心伝心みたいなものだね」

「あはは。まあ……ただの当てずっぽうだから」

 まだ何のことかは分かってはいないけど、燐は笑みを作りながらとりあえず蛍に話を合わせた。

「えっと、それで?」

 燐はその真相を探るべく蛍に続きを促した。

「あ、うん。その、隠していたとか言うわけじゃないの、ただ……すぐには言わない方が良い気がしただけで。だからって別に悪い事とかじゃないし、止められていたとかでもないんだけど」

「うん……」

 少しだけ会話が止まる。

 ちょうどその時、次の停車駅のアナウンスが車内に流れた。

「蛍ちゃん、次で降りる?」

「ううん。わたしはまだ降りないよ」

「そう」

 余程大事な話なのだろう、蛍の口調には決意のようなものが垣間見えた。
 ホームではあれほど時間があっても一言だって言ってはくれなかったし。

 そうこうしている間に、列車はプラットフォームに滑り込む。

 まるで二人に気を使ってるみたいに静かに停車をすると、ホームドアと連動した客室のドアが音も立てずに開く。

 生ぬるい外気と一緒に乗客の乗り降りが行われる。
 燐が乗った時よりも人の往来が激しい感じがした。

 そういえば、蛍は切符をどうしたのだろうか、まだその事を燐は聞いてはいなかった。

(入場券のまま乗車した可能性が高いけど。それって大丈夫だったっけ?)

 すぐには犯罪、ってわけではなかったと思う。

 多分お金は持ってると思うし、燐も一応手持ちの金に少し余裕をもたせてある。

 どうする気なんだろう、蛍ちゃん。

 そんな燐の考えなど気にしていないみたいに、蛍は行き交う人の流れをぼうっと眺めていた。
 
 無意識の領域で物事を見ているような、そんな目線で。

(もし、不審に思った駅員がもしこっちにやってきたら……)

 燐は蛍の仕草や話の内容よりもそっちの方が大分気がかりになって、思わず唾をごくりと呑み込んでいた。

 ──
 ──
 ──
 


Truthfully

「燐、あのね。わたし、前の晩……オオモト様に、会ったの」

 

「えっ──なにそれっ、本当なの!? 蛍ちゃん!」

 

 燐は口こそ叫び声のような形を作っていたが、それ自体を声を出すことはなかった。

 

 そのぐらい驚いたというのもあるが、また周りの人の視線を惹いてしまうのも流石に嫌だったから。

 

 駅職員はまだ二人の所に尋ねてこなかったから余計に。

 

 その代わりに”Lein”で言葉のやり取りをしていた。

 

 今風と言うか、それは世代である燐たちだけでなく、大人も割とこんな感じだった。

 

『それって、本当に? わたし全然知らなかったんだけど!?』

 

 ()()()に、燐はわけの分からない叫び声をあげるキャラのスタンプも一緒に送っていた。

 

 一仕事やり終えたみたいに、ふぅと息を吐く。

 

 明らかに困惑しているみたいに見える燐の顔は、知らなかった事実を聞かされて狼狽しているようだった。

 

「あ、それね……」

 

 そう言いかけて蛍はそっと口を閉じる。

 小さな口の代わりに細い指を自分のスマホ上に滑らせた。

 

『燐は知らないと思うよ。だってその時ベッドでぐっすりだったし』

 

 可愛い寝息を立てているのを確認したからと付け加えて、蛍もスタンプをついでに添えた。

 

 丸い顔のハチワレ猫のキャラが大きな欠伸をしているだけの、何ともゆるいスタンプだった。

 

 燐はそれを見て少しくすりと微笑んだが、次に出す言葉が見つからないようで、考え込むような素振りをみせる。

 

 蛍は燐とスマホを交互に見ながら、続けざまにメッセージを送った。

 

『わたしね、燐が聡さんのとこへ行くって聞かされたとき実感が持てなかったの。でも前日の夜になってようやく実感が湧いたっていうか』

 

『そう考えたら急に寝れなくなっちゃって』

 

『じゃあその時、オオモト様ががががが!?』

 

 何となく蛍の話の内容を掴みかけたのか、割り込むようにして燐も送信した。

 

 ”が”を少し多めにしたのは、それだけ驚いたという燐なりの表現……らしい。

 

 でも、実際はまだ落ち着かないようで、燐はペットボトルの緑茶を飲みながらスマホを片手で操作していた。

 

「ううん、そうじゃないの」

 

 液晶からではなく、蛍は直接その言葉を口にすると、お役御免とばかりにスマホをコトリとテーブルの上に置いた。

 

 そして燐の用意してくれたお菓子を指先でひとつつまんだ。

 

 備え付けの小さなテーブルには、燐の持ってきたありったけのお菓子が広げられていた。

 

 成り行きからつい、スマホでやり取りをしていたが、別に隠す様な事でもないし、それに誰かに聞かれたとしても到底分かる事ではないと思ったから。

 

 蛍は自ら直接コミュニケーションをとることにしたのだ。

 

 変な会話してる女子たちと思われそうだけど。

 

「……ん、そうなんだ」

 

 その意図を察したのか、燐もスマホの画面をパタンと閉じた。

 

「あのね。どうやっても寝付けなかったから、ちょっと外に出てみたの。あ、ちゃんと鍵は掛けたし、一応燐にも了解とったんだよ」

 

 そう言うと、蛍はピンクの小さなチョコレート菓子を一つ、二つとひょいひょいと口に入れていた。

 

(え……了解? そんなのあったっけ?)

 

 蛍とは対照的に、燐は頭を捻っていた。

 それは蛍の言葉に全く身に覚えがなかったから。

 

 どんなに頭を絞り出しても、蛍の言うその”了解”を取った覚えがない。

 

 夢か現実か分からぬことが立て続けに起こったせいで、その記憶までもが曖昧になってしまったのだろうか。

 

 むむー、と燐が一人唸っていると。

 

「けど、燐は寝てたんだよ。わたしが声を掛けても起きなかったし」

 

「……それってもしかして」

 

 何だか少し嫌な予感がする。

 

「だから燐に、”ちょっと外に出てくるね”って言ったの。そしたら燐がうんうんって頷いてくれたから、それで」

 

「それは蛍ちゃんがわたしの首を無理やり動かしただけでしょ。どこらへんが了解を得たって言うのよー」

 

 ようやく理解できたようで、燐はぷんぷんと頬を膨らませていた。

 

「まぁまぁ、良いじゃない。オオモト様に会った以外は何もなかったんだし。それにそんな遠くにまでは行かなかったから」

 

「それはまあ当然でしょー。女の子の夜の一人歩きなんて危ないんだし。蛍ちゃんはちょっと危なっかしいんだからっ」

 

(危ないって、燐から見たわたしってそんなに頼りないのかな……)

 

 蛍はちょっとだけ寂しい気持ちになった。

 

 だが、燐の言っている事は自分自身の事も含まれていた。

 

 母親から良く言われていたことだし。

 今日のことだってそうだったから。

 

 半ば当てつけのような形で言ってしまったことに少し反省しながら、燐はその後の蛍の行動を聞いてみた。

 

「まさかだとは思うけど、いくら寝苦しいからってハダカで外に出たわけじゃない、よね?」

 

 突拍子のない燐の言葉に蛍は一瞬びくっと身を振るわせて周囲をきょろきょろと見まわした。

 

 どの座席からもこちらを覗き込んでいないようだったので、蛍はほっと胸を撫で下ろす。

 

「もう、燐~」

 

 自身の口元を人差し指で押さえる仕草をすると、囁くような小声で燐に非難した。

 

「そんな事する人とか居るの? それじゃあまるっきり変態じゃない」

 

 ややむくれた感じの蛍の口調に、燐はあははと誤魔化すように笑った。

 

「ごめんごめん、ほら蛍ちゃん凄く綺麗だから、わたしが寝静まった後にこっそりそう言う事して楽しんでるんじゃないのかな、ってちょっと思って」

 

 困った笑みを浮かべる燐に、蛍は心底疲れた息を吐いた。

 

「ちょっとでも思う方がおかしいけど……? それに燐じゃあるまいし……」

 

「わ、わたしだっていくら暑くてもそんな変な事しないもん。もう、蛍ちゃんのエッチ!」

 

「燐が最初に言い出したんだから、燐の方がエッチだと思う」

 

「えー。違うもん」

 

 燐はプイっとそっぽを向くと、やけ食いのつもりなのか箱の残りのお菓子を一気に口の中に入れた。

 

 ぼりぼりぼりぼり。

 

 おおよそ女の子らしくない食べっぷりに蛍はまた大きなため息をついた。

 

「わたしだって……」

 

 燐以外に裸なんか絶対見られたくないし。

 

「んー、蛍ちゃんなんか言った?」

 

「ううん、別に」

 

「あ、そっ」

 

 燐は小首をちょんと傾げるも、直ぐにお菓子を貪り食う方に戻っていった。

 蛍がぼそっと呟いた言葉は、燐の無慈悲な咀嚼音の前に儚く消えた。

 

 ぼりぼりぼり。

 

 リスか何かの小動物のようにお菓子を頬張っている燐。

 

 いつもしっかりしている燐がこういう事をしていると、少し呆れかえってしまう。

 

 けど、燐の素の姿は普通の子と何ら変わりない。

 周りの期待がちょっと大きいだけで。

 

(わたしもそういうとこあるのかも。でも、ちょっと可愛い)

 

 拗ねた子供みたいで。

 

 蛍は口元を押さえてくすくすと笑いだしていた。

 

「それで。何処で会ったの、オオモト様と」

 

 蛍にからかわれてると思ったのか、燐は少し不機嫌そうに緑茶をぐびっと飲みながら蛍に話の続きを振った。

 

「あぁ、うん……」

 

 蛍は改まるように、膝の上で手を揃えた。

 

「ほら、前に二人でクリスマスのイルミネーションを見た時のあの場所。燐、覚えてる?」

 

「あの高台の上の公園のことでしょ。流石に覚えてるよ。んじゃあそこで? 青いドアの世界に行ったんじゃなくて?」

 

「うん」

 

 燐がずいっと顔を近づけて聞いてくるものだから、蛍はつい腰を少し引いてしまった。

 

(燐……顔が近いよ。誰かに見られてたらどうするつもりなの?)

 

 これよりももっと凄い事を人がいるプラットフォームでやっていたのだが、話に夢中になりすぎて蛍も燐もすっかり忘れているようだった。

 

「えっと、ふとあの公園に立ち寄ってみたらそこで立ってたの。まるでわたしの事を待っていたみたいに」

 

 蛍は昨晩あった出来事を思い出していた。

 

 ほんの十数時間程度の前のことなのに何だか凄い遠いこと、ものすごい過去の、例えるのならおとぎ話みたいな出来事みたいに感じてしまう。

 

 現実感がまるでない。

 と、いうよりこれは現実なんだという、確固たる実感が未だに持てなかった。

 

「へぇ。何だかちょっとロマンチックだよねぇ。蛍ちゃんにとっては運命的な出会いだったのかもね」

 

「それはどうかは分からないけど。何か分かってたみたいだった、わたしが来ることを」

 

「じゃあますます運命的なものだね」

 

 今にして思えば、あの青いドアの家に行ったのも偶然ではなかったのでは思う。

 

 どちらかというと必然的なものだった。

 あの人との邂逅は。

 

 燐は丸い大きな月をバックに柔和な顔でこちらを見つめる”大人のオオモト様”の姿を頭に描いた。

 

 それで多分間違いないと思う。

 蛍のその口ぶりからすると、幼い頃の姿ではないことが窺えたから。

 

(そういえば……)

 

 燐はちょっと首を捻る。

 

 わたしから見たオオモト様は子供の姿で、蛍ちゃんから見ると大人……なんてことは流石にないよね……?

 

 ふと、そんな気がしたのだ。

 

 同じ人物が見る人によって違う人になるなんてことはそんなに珍しくはない。

 ただそれは性格的なものや、感情とか、そういった内面の方に用いられるもので。

 

 そう言った話は本で読んだことがあるけど。

 

 燐の仮定のように、大人が子供に見えたり、更にその逆だなんて、そんなことは現実ではまずあり得ない事だ。

 

 変装とかしているのならともかく。

 あの”オオモト様”に限ってそんな器用な事するはずもないし。

 

「? どうしたの燐。急に眼を瞬いたりして。そういえばホームでも目にゴミが入ったみたいだったよね。目薬とか持ってきてる?」

 

「あ。えーと、そう言うんじゃないから」

 

 そう言って燐が誤魔化すように笑うと、蛍も少し困った顔で微笑んだ。

 

「そんなことよりさ、オオモト様何か言ってた? ”おめでとう!”、とか。”今夜はお赤飯よ”。とかぁ」

 

「お赤飯って……」

 

 一体、何の祝い事なんだろうか。

 

 そもそもあの人はそういうのを喜んでくれるような人じゃない気がする。

 

 だって、一言だって言わなかったし……そんなこと。

 

 昨日と今日の間の夜は大きな月が浮かんでいた。

 

 ……

 ………

 …………

 

 ネオンの火も大分落ち着いた頃、蛍は燐と二人で住んでいる駅前の高級マンションを抜け出して、深夜の町をひとり歩いていた。

 

 徘徊と言ってもいい。

 目的も何もなかったのだから。

 

 眠れなかったというのは間違いではない。

 けれど、外に出て行くだけの理由にしては少し弱い。

 

 夜風や都会ならではの、きらびやかな夜の町並みが特に好きいうわけでもなかったし。

 

 その程度のことならマンションの一室でも十分堪能できる。

 

 タワーマンションなのだし、二人が住んでいるのも上から数えた方が早い階層だった。

 

 だから、蛍が外に出たのは……何となく。

 

 何となく外に出たかっただけ。

 

 もっともらしい理由をつけるなら、ひとりで考えなければならないことができたからだと思う。

 

 そうでなくてはこんな、雑踏すら聞こえない深夜の町に何て用事があるはずもないから。

 

(燐は、本当に行っちゃうんだよね?)

 

 夕食を終えた後、燐に向かって言った言葉をもう一度頭の中で繰り返す。

 

 もう()()()()なのに、未だに現実感が感じられない。

 夢の中の台詞かと思う程しっくりとこなかった。

 

 ──それを燐が急に言い出したのは、今からほんの一週間ほど前。

 

 あの、”ナナシ山”の石碑まで行ったその翌日の事だった。

 

 その時、()()()()()() ()になったと蛍は自分からそう言い出したわけだが。

 

 その変化は分かるはずもなく、自分で体をくまなく調べて見ても以前(座敷童)の蛍と、今との違いを何も発見できなかった。

 

 ただ、ちょっとだけ体重が増えていただけで。

 山登りとか色々頑張っているはずだったのに……。

 

 恨めしそうに体脂肪計を睨む蛍に、燐は困った顔で笑っていた。

 

 ──そういうとこがふつうの女の子なんじゃない、と。

 

 蛍が、”ふつう”が実感できないときに、燐もそれまでとは違う、”ふつう”ではないことを言いだしたのだから、初めて聞いた時は夢の続きを見ているみたいに判然としなかった。

 

 後から再度確認するように燐に聞いた時は、びっくりして思わずお気に入りのマグカップを落としそうになってしまったほど。

 

 だって体は山登りの疲れでクタクタだったし、まだ微睡んだ頭じゃ物事なんて理解できようになかったから。

 

 あの山で倒れたときだって、燐が機転を利かせてくれたおかげで、他の人や救急車を呼ばれなかったけど、疲労だけは消えることはなかった。

 

 節々の筋肉痛にもいい加減慣れたとは思っていたけれど、それでもやっぱりトレッキングの後の朝が一番しんどい。

 

 そんな身体がぎしぎし状態の時に燐が言いだしたから。

 

 驚いたんだ──これでも。

 

 衝動的だと思った燐の話だけど、よくよく聞いてみると、それはどうやら前々から燐が考えていたことだったらしい。

 

 ただ、あと一押しというか、少しの踏ん切りがつかなかったというだけで。

 

(その”踏ん切り”はわたしが持っていた)

 

 そういうこと、らしい。

 

 わたしが普通の人、やっと座敷童じゃなくなったみたいに、燐も変わりたい──外見やそう言ったものではなく、本当の自分の気持ちと向き合いたいんだと。

 

 今の心境を確かめたいと言うのが、燐が聡さんの所に行く理由、らしかった。

 

 蛍はまだいまいちピンとはこなかったが、笑ったりすることはせず、黙って燐の話に耳を傾けていた。

 

 決意は本物みたいだったし、それにきっと燐はずっと悩んでいたことだと思うから。

 

 燐は聡さんのこと、前から好きだったことはよく知っていたし。

 本人もそれを公言してたぐらいだったから。

 

 恥ずかしそうにはしてたけど、まんざらでもないみたいだったし。

 

 でも、あんな事があった後だから混乱していたんだと思う。

 お互いに。

 

 不本意だったとはいえ、二人の本当の心の奥の内をさらけ出してしまったあと、だったから。

 

 顔どころか声を聞くことさえ辛かった。

 燐はちょっと目に涙を溜めてそう言っていた。

 

(けど、わたし、本当のところ。燐にどうして欲しいんだろう……)

 

 自分と従兄。

 

 燐にとってどっちが大事かなんて、そんな事は。

 

 わざわざ聞くまでもないことだし。

 

(多分、燐なら……って、んくっ!!??)

 

 自身の想いに耽っていたら、急に口の中に何かが飛び込んできて、訳が分からず蛍は目を白黒とさせた。

 

 たまらず自分の口に指を突っ込んでその”モノ”を確かめる。

 

 何かの虫かもしれないと思うと、ちょっとゾッとするが、それを気にするだけの余裕は蛍にはなかった。

 

 ピンク色の蛍の小さな舌に乗ったのものとは、小さくてコロンとしたもの。

 

 指にとってみると見覚えのある、キノコの形をしたチョコレートの菓子だった。

 

 困惑する蛍を見てくすくすと笑う燐。

 蛍はそれで事態を呑み込むことができた。

 

「もう、燐。変なことしないでよ~。虫が口に飛び込んだんじゃないかって、すっごくビックリしたから」

 

「ふふっ、だって蛍ちゃん、なんか難しい顔になってひとりで悩んでるんだもん。だからちょっと驚かせようかなって。それに虫なんてそうそう入ってくるわけないでしょ」

 

「だからってお菓子を放りこんでくるだなんて……」

 

 蛍は困った顔でそう呟くと、口から摘まみ取ったお菓子をまた自分の口の中へと戻した。

 

 汚いとかそういうのは何にも考えることなく。

 

「ん、じゃあ今度はわたしが口移しで食べさせてあげようっか?」

 

「燐ってば、もうすぐそんな冗談ばっかり」

 

 笑いながら言う燐に蛍は大きなため息をついた。

 

「それで……オオモト様に蛍ちゃん、何か言われたの?」

 

 からかう様に笑っていた不意に燐が確信をつくような事を口にしてきたので、蛍は慌てて意識をそちらに戻した。

 

 その拍子に思わずチョコをごくんの呑み込んでしまったが。

 

 喉につまるようなことはなかったので、軽く胸をなでおろした。

 

「ええと、オオモト様の事だったよね」

 

「まあ、それ以外にないよね。あ、でも慌てなくて良いからね。ゆっくり話してくれればいいんだし、時間はまだ全然あるから」

 

 そう言った後で燐は、客室の上部に備えてあった電光掲示板をちらりと見やる。

 

 蛍がまだどこまで着いてくるのかは知らないが、多分途中下車をするつもりはないのだろうと思う。

 

(やっぱり東京までは一緒に行くつもりかな。流石に空港まではないだろうし。それにしても……)

 

 視線を蛍の方に向き直す。

 

 蛍が急に口を閉ざしてこちらを見ていたので、燐はちょっと気になっていた。

 

 その理由は大体想像つくから、燐はあえて話を元に戻そうと蛍に促したのだった。

 

(まあ、わたしとお兄ちゃんのことだよね、やっぱり)

 

 燐はそっと小さなため息を吐いた。

 

「でね、オオモト様、始めはわたしに気付いてないと思ってた。ずっと空を見上げてたみたいだったし、ちょうど空には月が浮かんでたから」

 

 白い月が黒いカーテン越しにぽっかりと浮かんでいる。

 月明りの夜の出会いだった。

 

 確かにあの人はじっと立っていた。

 

 見間違いなんてことはなく。

 

 地面まで届きそうな程長い黒髪と、不思議な柄模様の着物を羽織っている姿は、蛍が知っている限りあの人以外には考えられなかった。

 

 その見た目よりも、何より雰囲気。

 

 こういうのも何だが、得体の知れないというか、普通の人では決して出すことができないものをその端正な顔や全身から醸し出していたから。

 

 この人はオオモト様だと、蛍は確信できていた。

 

 でも、なぜこんなところで。

 

(けど、燐だって自宅のパン屋さんで出会ったって言ってたし)

 

 そんなに特別なことでもないのかも。

 取って食われるような感じもするはずもないし。

 

 話しかけてすらいないから、まだ分からないけども。

 

「それで、オオモト様とどんな会話してたの?」

 

「うん……そうだよね」

 

 蛍は一瞬黙り込むと、燐の方ではなく、何の変哲もない前の座席の背もたれを眺めた。

 

 思い出すと言うよりも考え込むような、物思う仕草で。

 

 燐がちらっとその横顔を見ようとしたとき、急に蛍が口を開いた。

 

「……何も、言われなかった。だからわたしもオオモト様に何も声を掛けなかったの。ただ横に立って一緒に月を眺めてただけ」

 

「月を一緒に眺めてたって……それだけ?」

 

「うん、そう」

 

 蛍は短くそう答える。

 

 燐はちょっと不思議に思ったが、特には聞かなかった。

 

 確かに二人の間には言葉はなかった。

 

 蛍が直ぐ近くまで寄っても、”その人”は微動だにせず、上空の月を一心に見つめていたのだから。

 

 だから声を掛けそびれてしまったと思ったのだったが、思い立ったように隣に立つと、その柔和な横顔を見ながら、蛍も一緒になって月を見上げていたのだった。

 

「ふぅん? それでその後どうしたの?」

 

 燐がどうしても一部始終を聞きたがっているので、蛍は少し困った顔で一口お茶を飲んだ。

 

「しばらく一緒になって月を見ていたんだけど、わたしだってやっぱり気になるよ。だから……思い切って声を掛けて見たの」

 

「わたしもそうするなあ」

 

 何故か腕を組みながら燐はうんうんと同意するみたいに頷いた。

 

「そしたらさ……」

 

 蛍は何か忘れ物をしたみたいに急に天井を見上げた。

 

 丸みを帯びた白い天井は、静謐さを閉じ込めた天の半球みたいだった。

 

 燐も同じように上を見る。

 蛍の行動を追体験しているみたいに。

 

「いなくなっちゃった」

 

「えっ!?」

 

 ぼそっと蛍が言葉を吐いたので燐は急に振り返った。

 

「居なくなったって……オオモト様?」

 

 聞き違いかもしれない。

 そう思ったので燐は再度そう蛍に尋ねた。

 

「そう、居なくなってたの。わたしが横を向いたらもうそこには誰もいなかった」

 

 少しぼうっとした表情で蛍が言うものだから、燐は信じられないと言うよりもまだ良く言葉が理解できていなかった。

 

 けれど、燐も蛍も()()()()()()()をした、と言うかそう言った現象になってしまったのだから。

 

 燐はそれを否定することも肯定することも出来ず。

 

「…………」

 

 パクパクと、言葉を求めて彷徨っている自分の口にタケノコ型のチョコを放り込むことしか出来なかった。

 

 ……

 ……

 ……

 

(あれ、わたし……?)

 

 蛍は不意に瞼を開けた。

 

 そしてハッとなって上体を起こすと周囲を見回す。

 

 今いるところがどこか一瞬分からず、見知らぬ場所に突然投げ出されたみたいに感じて、蛍は思わず輪郭を確かめるみたいに自分の頬に手を置いた。

 

(確か、新幹線の中にいたはず……)

 

 だったら一体どうして?

 

 それまでの事を思い出すように蛍が額の上に手を乗せて頭を巡らそうとしたその時、すぐ隣から声がかかった。

 

「あ、まだ寝ててもいいんだよ」

 

 それは、燐だった。

 

 良かった。

 まだ隣にいてくれて。

 

 その手にはスマホが握られていて、誰かにメールでも打っていたのか、するすると液晶画面を操作していた。

 

「……ねぇ、燐。ひょっとして、わたしって寝てた?」

 

 尋ねるまでもないぐらいに瞼がまだ重いからそうだとは思うけど。

 

「うん」

 

 燐はスマホの画面を見ながらそう即答する。

 

「話してる最中に急に寝ちゃったんだよ。まるで電池が切れたみたいに、ぱたぁっと。昨夜、全然寝てなかったんでしょ」

 

「あ、うん……そうなの。ごめんね、何か子供みたいで恥ずかしいよね」

 

 蛍はそう小さく口にするも、まだ夢うつつに目線を泳がせていた。

 

「ねぇ、蛍ちゃん。終点(東京)まで一緒に行くんでしょ? だったらまだゆっくりしてて大丈夫だから」

 

 燐は優しく微笑む。

 

 結局どこまで一緒に来るつもりなのかは分からなかったけど、ここまで来たら途中下車する気もなさそうだから。

 

 それに実際下車するだけの駅もそんなにないし。

 

「迷惑かな? やっぱり……」

 

 蛍はおずおずとたずねる。

 勢いで乗ってきてしまったけど、蛍自身もそれが一番気になる所だった。

 

「そんなことないよ。やっぱり蛍ちゃんと一緒だと楽しいし。少し、安心する」

 

「それなら……良かった」

 

 蛍は恥ずかしそうに呟くと、安堵したように息をついた。

 

 実際のところどこまで燐についていくつもりなのかは決めていなかったのだが。

 

 燐の許しを得た以上、最後まで付き合う気になった。

 

 ほっとした蛍はようやく自分が新幹線に乗っている事に気付いたみたいに、窓の外の景色を見て何とも不思議そうな声を上げていた。

 

「それにしても静かだよね。ちゃんと動いてるのに」

 

「うん。だから蛍ちゃんが寝ちゃうのも無理ないとは思うよ。わたしだってさっきちょっとウトウトしちゃってたもん」

 

「本当にそうだよね。何か家のベッドよりも寝心地がよかったかも」

 

 気にしないと分からないぐらいの微妙な揺れ加減が眠りを誘うのかもしれない。

 

 そう言った”ゆらぎ”や、空調の加減がちょうどいい心地よさ、つまり眠気を生み出すのだろうと。

 

「蛍ちゃんはどこでも寝られる感じするけどねー」

 

「まあ、それは否定しないけど」

 

 顔を見合わせてにっこりと微笑む。

 

 目覚めてすぐ隣に好きな人がいる。

 

 もう大分前から当たり前みたいに思えることなんだけど、実際にマンションで暮らすようになってからまだ半年も経っていないのに。

 

 それなのに普通の、何気ないことみたいに思えるのは。

 

(それは願望というよりも、多分必然だったんだと思う)

 

 少なくとも蛍はそう思っていた。

 

 それでもちょっと周りの環境が違うだけで、それは随分と特別な事みたいに思える。

 

 マンションの一室か、新幹線の客室。

 

 あるいは、テントの中や、もしかしたらホテルで一緒の朝を迎える事なんてあるのかも……?

 

 いや、それはないか。

 流石に。

 

 色々と気まずくなりそうだし。

 

 でも燐とならそんなことない?

 

「どうしたの蛍ちゃん。顔が赤くなってるよ。何か恥ずかしいものでも見えた?」

 

 燐が窓の外をきょろきょろ見回すも何も特別なものは目に入らなかった。

 それは当然のことなのだが。

 

「そういうんじゃないよ、燐」

 

 蛍は冷静になろうと少し深呼吸した後で答えた。

 

「違うの?」

 

 ちょっとがっくりしている燐を見て、蛍は困った顔で微笑んだ。

 

 と、目の前におかれたものが気になって、その事を燐に尋ねる。

 

「ねぇ、燐。これって?」

 

 まだ少し頬を朱に染めたままの蛍が目の前の小さなテーブルにおかれたパンの山を指さす。

 

 想像がつくものだったが一応聞いてみる。

 

「まだ何もお昼食べてないんでしょ。だからそれは蛍ちゃんの分。あ、大丈夫だよ。まだいっぱいあるから、ね」

 

 燐はそう言って、大量のパンが詰め込まれたビニール袋を見せる。

 

 やはりと言うか、菓子パンや総菜パンなどの大小様々な種類のパンが袋一杯に詰め込まれていた。

 

 詰め放題セールでもあったみたいに。

 

 見覚えの良くある光景に蛍は苦笑いした。

 

「まあ、”いつもの”だよ。お母さんがさ、”お兄ちゃんにも食べさせてあげなさい”って。大量に渡されたの……」

 

 少し憂鬱そうにぼそっと燐はつぶやく。

 

 自分が作ったものだからまあ気持ちは分かるが。

 それにしてもこの数は……。

 

 嫌というわけではないが、何か気恥ずかしい。

 燐の表情はそんな照れくさそうな感じが見て取れた。

 

「まあ、今の燐はパン屋さんなんだから別に良いんじゃない。それに”青パン”のパンはすごく美味しいから」

 

 テーブルの上に並べられた大小様々なパンの中から、蛍は香ばしそうにカラっと揚がっているカレーパンを手に取る。

 

 辛いのが少し苦手な蛍でも平気で食べられる、青パンのカレーパンは、燐の母の自家製のカレーが結構ぎっしりと入っていて、何時しか”青いドアのパン屋さん”の看板商品となっていた。

 

 燐の母親──咲良がカレーパンの為に考案した、野菜多めのカレーが詰まったカレーパン。

 

 それを一口かじると、蛍は顔どころか、名すら知らない母親の味を食べたような気持ちになってくる。

 

 それはどういった感情なのかは自分でもよく分からないが、辛いものが苦手なはずの蛍が普通にパクパクと食べることが出来るので、決して悪くない感情であることは間違いなかった。

 

 何より美味しいわけだし。

 

 そんなパンを食べる蛍を見て、燐は申し訳なさそうな顔で言った。

 

「蛍ちゃん、ごめんね。なんかさパンばっかり食べさせちゃってる。この分だと流石に飽きちゃわない?」

 

「そう? わたしは、毎日でも全然大丈夫だよ。燐は違うの?」

 

 蛍が意外そう顔で言葉を投げかけてきたので、燐は一瞬きょとんとなってしまった。

 

(そういえば蛍ちゃんって、前からパン、好きだったよね)

 

 以前の蛍は自分からあまり料理をしないせいか、ハウスキーパーの人が来ない日なんかは、もっぱら菓子パンで食事をすませている。

 

 そう蛍が言ってた事を燐は思い返していた。

 

「燐の家がパン屋さんを始めたって事を聞いた時は正直すごく驚いたけど、こうして燐のお母さんの手作りのパンを毎回食べられるのならわたしにとってはむしろいい事だよ。だから飽きるってことはまだ当分ないかなぁ」

 

 そう言って蛍はパンをもぐもぐと、美味しそうに全部口の中へといれた。

 

 それは聞いて燐は少し肩をすくめる。

 

「まあ、蛍ちゃんが喜んでくれるのならいいんだけどね。ただ、わたし毎日がパンばっかりだと流石にげんなりしちゃうから、たまに食べる別の料理がすっごく美味しく感じるんだよね」

 

 燐の言葉で蛍には思い当たることがあった。

 

「そっか、だから燐は、ちょっと違う料理を作ったり買ったりしてるんだね。この前食べたパスタ。あれ、変わった味だったけど結構美味しかったよ」

 

 蛍が言っているのは前に燐が作った、シラスを使ったペペロンチーノのことだった。

 

 燐が前に神奈川のレストランで食べた味を再現してみようと見よう見まねで作ったものだったが、蛍にはそれが美味しかったみたいで、また作って欲しいと言われた時はやっぱり嬉しかった。

 

「まあ、あれは料理って程じゃないけどさ。何か、パンばっかり食べてると小麦粉まみれになっちゃいそうって思って」

 

 そう言う燐だったが、パスタも小麦粉が主成分なのだが。

 

「でもさ、パン職人さんって大体がそんなもんなんじゃない? それにわたしはそういうの嫌いじゃないかも。むしろ、パンの焼ける匂いを嗅ぎながら朝を迎えるって何か清々しく感じない? あの香ばしい香りとか、焼き上がったときのパリッとした感じも好きだし……あ、もちろん味もね」

 

 蛍が自分のパンへの思いを語った時、今、香るはずもないパンが焼けたときの香ばしい香りを嗅いだ気がした。

 

 もしかしたら燐の持ってきたパンから漂ってきたものかもしれないが。

 

 それは妄想だとしても、蛍の食欲を引き立たせるものだったらしく。

 

「じゃあ、次はどれにしようかな……」

 

 蛍は燐よりも一早く次に食べるパンを物色し始めていた。

 

 それにこういうのもパンの楽しみの一つで。

 中に何が入っているか分からないこそ、食べた時の驚きが増すものなのだと蛍は思っていた。

 

 形も色もとりどりのパンに、蛍は目移りしそうになりながらも、その中で最も分かりやすくそしてとても好きな、”メロンパン”を手に取った。

 

 パリッとしたビニールを破ると、すぐに甘く香ばしい香りが漂ってくる。

 

 外ではなく電車内だから、こういうのは”スメハラ”って言うのかもしれないけど、良い香りにハラスメントなんて言葉はないと思う。

 

 香りを共有する楽しみがあってもいいのではと蛍は本気で思っていた。

 

 その香りの特徴でもある、メロンパンのサクサクとしたクッキー生地の表面部分に蛍は小さな鼻にそっと寄せた。

 

 小麦粉とバターの甘く芳しい香りが、蛍の肺いっぱいに満たされて。

 

 月並みな言い方になってしまうが──幸せな香り。

 

 幸福な匂い。

 

 ”食べる楽しみ”と言う意味での幸せを、蛍は確かに感じとっていた。

 

 パン作りが思ってたよりも全然大変なのは、燐とその母親の咲良のお陰で良く分かることが出来た。

 

 けどその大変さを帳消しにするほど、出来立てのパンの香りは蛍の表情だけでなく思考までも蕩けさせるほどだった。

 

 パン屋さんをやっている燐の事が羨ましく思えるぐらいには。

 

 そしてゆくゆくは自分もパンを焼いてみたいと思っていた。

 

「何かさ、わたしが戻ってきたら蛍ちゃんのお店になってそうかもね」

 

 夢見ごこちな蛍を見て、燐は笑いながら言う。

 

「流石にそれはないよ。わたしなんかまだまだバイト見習いなんだし」

 

「でも蛍ちゃん、物覚え凄くいいから」

 

「燐が戻ってくるまではちゃんと”青パン”のままだよ。その後はどうなるかは分からないけど」

 

 燐の言葉に触発されたみたいに、蛍は少し遠い先の事に想いを馳せながら指でちょっとづつメロンパンをちぎりながら口へと運んだ。

 

 それを見て、燐はクロワッサンをいっぺんに食べようとした口を一旦閉じ、蛍の真似して少しお上品にパンをちぎって食べることにした。

 

 その所作に、普段はあまり見られない蛍の”お嬢様み”を感じたからだった。

 

「ねぇ、燐。あの水の中で見た”変な光の球”みたいなの覚えてる?」

 

 唐突に蛍から質問を投げかけられた燐は、パンを口に入れながら自分の頬っぺたにつっと指を当てて小首を傾げた。

 

 光の球……のこと?

 

 蛍が言っているのは、青いドアの家の世界での”水溜まり”で見た、流れる光の集合体の事だろうか。

 

 あの夜(異変)が終わった後、空に浮かんだランタンみたいなぼんやりとした灯りとは少し違った、色とりどり光が回転しているみたいな光の渦の塊のことだろうか。

 

 粒子と原子が混ざり合ったみたいに、何か始まりを予感させるような淡い光。

 

 それぞれが独立した宇宙で、さながら星の海を回遊する星の欠片みたいだった。

 

 綺麗だった、とても。

 

 あの時の不思議な光景は今でも燐の瞼の裏に焼き付いていた。

 

「蛍ちゃんが言っているのって、あの”スイミー”みたいなもののこと? わたし、あのあと気になっちゃって絵本のスイミー、図書館でみてみたんだ」

 

「燐もなんだ。わたしも学校の図書室で見て来たよ。スイミーを見るの小さい時以来だったけど、今でも良いよね。可愛いし」

 

「そうだよねー。でもさ、怖がらせる大きな魚ってマグロだったんだね。わたしマグロにそんなイメージ湧かなかったなー」

 

「確かにね。マグロってお刺身とかお寿司のポピュラーな食材のイメージが強いもんね」

 

 自分達よりも小さな魚を食べる大きな(マグロ)

 

 それをスイミーを中心とした小さな魚たちが協力して近海から追い払うという内容の絵本だった。

 

 よく考えると食物連鎖の逆をいっている気もするが。

 そういうお話なので仕方がない。

 

 絵本に文句をつける何てことはそれこそナンセンスだし。

 

 どうやら蛍はそう言ったこと言いたいわけではないようで、少し考え込む仕草を見せてから、口をゆっくりと開いた。

 

「そのさ、”座敷童”って、そのスイミーみたいなものだったのかなって……」

 

 またもや唐突な言葉の振りだったので、燐は最初、蛍の独り言かと思ったほどだった。

 

 けれどそれはあながち間違ってもいないみたいで、蛍はぶつぶつとひとりで考察をしているようであったから。

 

 そこは燐も一緒に考えてあげねばならないことだった。

 

 親友であったし。

 ここまで自分を追ってきてくれた、とても大切で好きな人だったから。

 

(けど、座敷童かぁ……)

 

 燐は逡巡する。

 

 小魚と……妖怪? どこに共通点があるんだろう。

 

(あ、もしかして!)

 

 燐は手を小さく叩いた。

 

「蛍ちゃんが言いたいのって、座敷童が”目”だったってことを言いたいのかなぁ?」

 

 そう思いついたものの、ちょっと自信なさげに燐はそう答えた。

 

 あまりに突飛すぎな質問だったので、曖昧に笑みを浮かべて口にしてみたが。

 

 間違いないと思う、多分。

 

 その証拠に燐の言葉を聞いた途端、蛍はほっとしたような表情をしたから。

 

「うん。燐の言う様にわたしはそう感じたんだ。でも……そういうの直ぐに分かっちゃうのってきっと世界で燐とわたしだけだよね」

 

 そう言って蛍は嬉しそうに微笑んだ。

 

「まぁ、ね。()()()()()()()をしてる人ってそうそう居るわけないしね」

 

(世界はちょっと大げさだとは思うけど。でも、きっと、蛍ちゃんは)

 

 黒く小さい魚を座敷童。

 

 周りの赤い魚を普通の人、つまり小平口町の人達に見立てているんだろうと燐は思った。

 

 つまり、座敷童が町の人達の”目”となって、幸運を呼び込んでいたのだろうと。

 

(”目の黒い内”、なんて言うけど、それが座敷童なら色々納得してしまうよね)

 

 そう、座敷童が生きて(力を持って)る間は町に幸運をもたらしてくれるとそう信じられていた。

 

 けどその力が無くなりそうなときは、新たな目、つまり新しい座敷童が必要になってくる。

 

(だから無理やりにあんなことを……)

 

 それを想像しただけで燐の胸に嫌悪感が込み上げてくる。

 

 小さな魚が大きな魚になる為の代償。

 

 それがオオモト様であり、そして蛍だった。

 

 テルテル坊主の数だけ目が生まれてきたのだとすれば、それは。

 

 あの様な、異形を生み出す歪みが起こっても何らおかしくはない。

 今ならそう思える。

 

(けれど、わたしは……?)

 

「燐?」

 

「……蛍ちゃん!?」

 

 蛍がおもむろに額に手を当ててきたので、燐はつい慌てた声をだしていた。

 

 無駄だと思うが一応口元を手で押さえながら聞いてみる。

 

「ど、どうしたの蛍ちゃんっ。急にその、触ったりして……」

 

「どうしたのって……」

 

 蛍は首を傾げながらも、手を額から放そうとはしないで、じっと顔を見つめてきた。

 

 穴が開くほど見つめられている。

 そんな感じがして。

 

 燐は意味もなく顔を赤くした。

 

 少しの変化に気付いた蛍が、少し心配そうに声をかける。

 

「やっぱり……ちょっと、熱あるのかな? さっきからちょっと顔色悪い気がするし。燐って乗り物酔いするタイプだったっけ?」

 

 自分の額にも手を当てながら、蛍は燐の体調を慮って頭を悩ませているようだった。

 

 蛍の勘違いだというのに。

 

「大丈夫だよ、わたし。乗り物酔いなんてこれまで一度もしたことないしっ」

 

 そういって燐は小さくガッツポーズを作る。

 

 部活でシュートを決めた時も燐は派手にアピールすることはなく、今みたいに控えめなガッツポーズだったことを蛍は思い出していた。

 

 だからこそ、燐が空元気をしている事ではないことが良く分かったのだった。

 

「なら、良かった。わたし結構乗り物酔いするから遠足では酔い止めの薬を必ず持ってきてたんだよね」

 

「そうなの? じゃあ今は大丈夫なの? 蛍ちゃん」

 

「シートがふかふかだから大丈夫……だと思うよ。多分……」

 

 言われるまで気付かなかったのか、今更ごとだと思うが蛍は自分の体に問いかけた。

 そう言ったものはもう克服できたのだろうか、と。

 

(すっかり忘れてたけどもう大丈夫だよね……? 普通の人になったんだし)

 

 座敷童だから乗り物酔いをするなどとは聞いたことはないが。

 

 蛍は呼吸を整えるように、片手を胸に当てて何度も深呼吸を繰り返す。

 

 だが、一度気付いたものは、ちょっとやそっとではなくならないようで、蛍はちょっと不安定になったのか、視界が小刻みに揺れていた。

 

 嫌な前兆運動みたいなものを感じて、思わず()()()()()()なったが。

 

 ……問題ない、みたい。

 

 目をぎゅっと瞑って呼吸を整える内に、それはどこかへと消え去ってくれたようだ。

 

 何より、燐が片っぽの手をぎゅっと握ってくれてたから。

 

 だからもう──大丈夫。

 

 そう、思い込むことにした。

 

「ごめんね、蛍ちゃん。変なこと言って、少しお水飲む? それと一応酔い止めの薬もあるんだよ」

 

 燐は念のため緊急用の薬をバックパックのポケットに常備させておいたので、それを一錠とり、蛍の掌に乗せてあげた。

 

 酔いは克服できていないようで、手が氷のように冷たくなっている。

 

 燐は咄嗟に上着を脱ぐと、逆向きにして蛍の肩に掛けさせてあげた。

 

「薬飲めそう?」

 

「うん……何とか」

 

 蛍は弱々しい手つきで口元に手を寄せると、燐に持ってもらいながらペットボトルの水を少しづつ飲んだ。

 

 すぐにでも良くなれば良いのだが、流石にそれは無理っぽいので、蛍は燐にお礼を言うと軽く目を閉じて身体を休めることにした。

 

 燐はその間、蛍の手をぎゅっと握りしめていた。

 

 祈るような気持ちで、静かに目を閉じる蛍のことを見守っていた。

 

 ……

 ……

 

「どう蛍ちゃん。少し、落ち着いた?」

 

「うん、もう平気……ダメだね、わたし。燐の心配よりも自分の方が心配だったね」

 

「もういいって、そんなこと」

 

 申し訳なさそうにする蛍に軽く微笑んでみせる燐。

 

 けれど、内心ではやはりまだ気がかりなようで、蛍にこう切り出した。

 

「あのさ、蛍ちゃん。元気になったみたいだからこそ、言っておきたいんだけど」

 

 燐は真面目な顔でそう言った後、一旦言葉を休めて大きく息を吐く。

 

 不安そうに言葉を待つ蛍に、燐はにこっと微笑んだ。

 

 気にすることないんだよ。

 そう言っているみたいに。

 

「やっぱりさ、次の駅で降りよう、ね。蛍ちゃん」

 

 燐は一切眉をひそめることなどせず、むしろ少し笑って蛍に聞いた。

 

「…………」

 

 蛍は少し黙って燐の話をペットボトルの水を飲みながら聞いていた。

 ごくりと水を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。

 

「あ、でも。大丈夫だから」

 

 笑顔のままの燐に向かって、蛍は、”何が大丈夫なの”と言わんばかりに首をかしげた。

 

「わたしも一緒に降りるから、ね。蛍ちゃん、わたしと一緒に帰ろう」

 

 その言葉を聞いて、蛍はさっと顔を青ざめる。

 

 蛍としては全くそんなつもりはなかったのに、結果として燐を諦めさせることをしてしまった。

 

 考えて見たら燐の性格上、蛍を置いて行くなんてことはするはずもなかったのに。

 

 ホームの上では普通に別れたけど、こうして蛍が弱っているのなら置いていくことなんてことは絶対に出来ないことは蛍が一番良く知っていたのに。

 

 蛍は燐の顔をまともに見れず、顔を伏せてしまった。

 

「あ、そんな顔しないでいいんだよ。わたしがしたいって思ってるだけだし」

 

「……でも」

 

 やっと喋ってくれた蛍だったが、その顔は涙がもう溢れそうになっていた。

 

 燐の足手まといには絶対になりたくなかったのに。

 

「いいの。それにこれで良かったんだと思うんだ。そのね、やっぱりまだちょっと迷いはあったの。時期早々かもしれないって」

 

(何だかんだで時間ばかり気にしてたんだね、わたし)

 

 これぐらい経ったから良いだろうとか、勝手に思い込んでいた。

 

 もう傷は癒えただろう。

 離れていればお互い分かることがあっただろうとか。

 

 全て自分の中での話。

 

 分かっていたはずなのに。

 人はそれぞれ自分の時間を持っていることに。

 

(あの歪みが起きたときも)

 

 朝の来ない狂った世界であったのに、人はそれぞれの時間の範囲でのことしか行なっていなかった。

 

 あんな異形の姿になっていても。

 

 自分の決めたルール、やり方に固辞していた。

 

 彼らだけじゃない。

 わたし達や、お兄ちゃんですらも。

 

「わたしね。蛍ちゃんに影響受けたんだと思う」

 

「わたしに?」

 

「うん、蛍ちゃんが変わったっていうか、”普通の女の子”になったって言われてとき、ちょっとショックだったの。あんな人生観を揺らぐような出来事があったのに、わたしは何も変わってないなぁって」

 

「だからね、ちょっとでも何かしなきゃって思って、急に思いついちゃったんだ。そしたらもう考えが止まらなくなっちゃって、行くしかないって思い込んじゃった」

 

「ひとりで勝手に焦ってたんだけなんだね、わたし」

 

 燐は小さく舌出して笑う。

 

(何も変わってないなぁ、わたしって。あんなことがあっても)

 

 あれから少し変わったと自他共に認めるところがあったが、それは結局表面的なことだけで。

 

 何も、変わってない。

 

 特に従兄の──聡のことに関しては。

 

「わたしって本当に単純だよね。他に選択肢があるはずなのにそれしか見ないっていうか視野が狭いんだね、ほんと」

 

 自虐気味に笑う燐に、蛍は気を使った声を掛ける。

 

「でも、それが燐の良い所だよ。わたしはそんな燐が好き、だから」

 

 今の蛍にはこれぐらいしか言えなかった。

 もっと適切で良い言葉があるはずなのに。

 

「大好きだよ、燐」

 

 瞳を小さく揺らして蛍がにこりと微笑む。

 

 儚げに頬を紅くしている仕草は確かに熱の入った告白のようにも見える。

 実際にもそうなのだろうが、やはり体調がまだ優れないのか少しぎこちない笑顔で。

 

「ありがとう蛍ちゃん。わたしも蛍ちゃんのこと大好き。でも、ごめんね。また蛍ちゃんのことを振り回しちゃってる。やっぱりまだ気持ち悪いんでしょ」

 

 まるで許しを乞うかのように、燐は頭を下げて蛍の両手をぎゅっと包み込む。

 

「ちょっとだけ、ね。でも、ううん」

 

 蛍は瞼を軽く閉じで小さく首をふる。

 

「わたしね。燐に振りまわされているなんて一度も思ったことないよ。むしろ燐と一緒だとどんなことで楽しいの。真っ暗な夜の世界も、不思議なことしか起きない、”青いドアの家の世界”でもずっと楽しかった」

 

「それは、わたしも同じ。蛍ちゃんが一緒だったからどこに行ったってそんなに怖くなかったし、危ない状況だったとしてもどこか楽しんでたと思うの」

 

「ふふっ、本当、燐とわたしってぴったりだね」

 

「両思いだね。それって前にも言ったでしょ。何があってもこれだけはずっと変わらないと思う。友達とかそう言うのじゃなしに」

 

「それは、そうだね」

 

 燐と蛍がお互いの顔を見合わせてにっこりと笑ったとき、列車内に流れる音声が次に停車する駅名を告げていた。

 

「どう? 蛍ちゃん。自分で立てそう?」

 

「それは、大丈夫。でも、燐、わたし……」

 

 確かに顔色はいつもの血色に戻った気はするけど、蛍は立つ気はないようで、奥歯に物が挟まったみたいに曖昧に言葉を紡ぎながら膝の上で指を弄んでいた。

 

 その複雑な想いを表すみたいに、忙しなく蠢かせている蛍の白い指の上に燐は優しく手を重ねた。

 

 とても緊張した後みたいに蛍の細い指はしっとりと濡れていた。

 

 蛍は不安げに瞳を揺らしているだけで燐の方には顔を向けてはくれなかった。

 

 その横顔に燐は、優しげに目を細めて小さく微笑んだ。

 

「うん。さっきに比べたら少し顔色が戻った気はするね。でも、やっぱり”ここ(小田原) ”で降りよう」

 

 深刻さなど微塵も感じさせない、いつもの朗らかな声色で燐はそう言った。

 

 ぎりぎり県を跨いでしまったが、まだそこまでの距離ではないと思う。

 結構大きい駅だし、戻るのならいくらでも方法はあるはずだから。

 

 それに仮に新幹線でなかったとしても、そこまで酷い時間は掛からないはずだから。

 

「ねぇ、燐……」

 

 目で訴えかける蛍。

 少し困った顔をしながら燐は話を続けた。

 

「あのね。蛍ちゃん。わたしは、ここまで来ただけでも結構冒険したって感じだったよ。やっぱり、蛍ちゃんと一緒だったから」

 

 明らかに燐に気を遣われている。

 蛍は小さく燐に微笑み返すと、血色が戻った桜色の唇を少し噛んだ。

 

「それに、さ。また、今度行けばいいだけの事なんだよ。そうでしょ、蛍ちゃん」

 

 うん、そうだよ。

 今、行かなくとも、きっとまた行くことなんかは出来る。

 

 それはお兄ちゃんの元にだけじゃなく。

 

(青い空……あの高く遠い空の向こうにも、きっと)

 

 わたしが望む限り行くことが出来るんだろうと思う。

 

 どこまでもどこまでも。

 

 いつか必ず訪れる事は出来るだろうから。

 

「ねぇ、蛍ちゃん。どこまでが現実なんだと思う?」

 

 燐は忘れ物はないか身の回りのものをひとつづつ確認しながら、そう呟いた。

 

 少し沈んでいた蛍だったが、燐のその言にはっとなった。

 目をまんまるくしながら、それは質問なんだと理解するのにちょっと時間が掛かったが。

 

「どこまで、って……?」

 

 ややあって、小さく蛍は口を動かした。

 

 初めて出る言葉みたいに、微かに唇を震わせて出た言葉は単純な質問返しみたいになってしまった。

 

 けれども燐は嫌な顔なんかせず、むしろ微笑んでいた。

 そう返す蛍の言葉を待っていたように。

 

「あのね。現実って結局見えている範囲でしかないのかなって。距離っていうか速さでしかないのかもしれないけど」

 

「ほら、テレビとかネットとかで遠い場所のことや世界の事とか伝えてるでしょ。あれってどこまでが現実なのかなって。断片的な情報で知った気になってるだけじゃない? それって現実って呼んでいい事なのかなって思ってさ」

 

「うーん、でも情報としては”現実”なんじゃないかな。受け取り方は様々かもしれないけど」

 

 なるほど、と燐の言葉に小さく相槌を打ちながら蛍は自分の見解を述べた。

 

「そーなんだよねぇ。だから何か難しくってさ。例えばさわたし達の知ってるあの町の異変だって現実だったわけでしょ。でも、”今の町の人”とか、わたしのお母さん何かが知ってる町の情報だって現実なわけでしょ。だったら現実って何なのかなって」

 

「あぁ」

 

 矢継ぎ早に話し出す燐に少し驚きながら、蛍は感嘆するようにこくんと頷いた。

 

 後にしてみれば、燐はわざと長い話をしてくれたのかもしれない。

 ちょっとでも蛍の気持ちを落ち着かせるために。

 

「この駅で降りるよ。蛍ちゃん、いいよね?」

 

 確認を取りつけるように、きちんと目をみて燐は尋ねた。

 

 もうひとりじゃない。

 いろいろと。

 

 ひとりで出来ることなんて、どっちみち大したことは出来ないから。

 

 失って、求めて、ようやく理解できたこと。

 

 依存はしないけど、蔑ろにするつもりもないから。

 

 それは多分、二人とも。

 

「燐がそういうなら」

 

 燐が決めたことに反対はしない。

 例えどんなことがあってもそれが蛍の燐に対するスタンスだったから。

 

「けど、実はちょっと、ほっとしてる。何か息がつまる感じがして」

 

「あはは、わたしもちょっとそうかも」

 

 燐と蛍は顔を見合わせてくすりと笑った。

 

 そこには理由も理屈もない。

 

 ふたりの少女が笑い合っているだけ。

 

 何かを探るようなことも、気を遣うような素振りもない。

 

 ただ純粋に笑顔だった。

 

 ──

 ───

 ────

 

「んー、何かスッとしたぁ!」

 

 ホームに降りるなり、燐は両手を上へと伸ばした。

 

「そう? むしろムッとしてない」

 

 蛍は露骨に不快感を表す。

 

 実際新幹線の車内は快適そのものだった。

 

 エアコンも効いていたし、シートの座り心地も悪くはなかった。

 

 確かに冷房の効いた車内からホームに降りると、まず蒸し暑さが襲ってくる。

 それだけエアコンの効きは良かったみたいだったし。

 

 まるで別世界みたいな気温の落差に、燐の感じた爽快感は速攻で失われてしまった。

 

 もっとも何をもってスッとしたのかは分からないのだが。

 

「だったらさ、何で酔っちゃったりしたの? うちの方のローカル線の方がよっぽど乗り心地が悪いと思うんだけど」

 

 何となく客室では聞けなかった事を燐は蛍に投げかけてみた。

 

 冷房の効きも、シートの座り心地だって、きちんと整備された新幹線と、昔の車両を無理やり使っているローカル線の電車では何もかもが雲泥の差なのだと言うのに。

 

「燐はさ、あまりにも整えられてるなって思わなかった? 新幹線の中」

 

「あ、うーん、それはいい事なんじゃない? それなりに高い料金を払っているんだし。お客さんに快適さを提供するのは間違ってないと思うよ」

 

 おまけに速さも、と燐はついでみたいに補足した。

 

 むしろそっちの方がメインな気もするのだが。

 

「例えがおかしいのかもしれないけど、わたしにはそれが何か、病室みたいに感じちゃって、それで」

 

「それでなの?」

 

「うん」

 

 燐は肺の底から出したような深いため息をこぼす。

 

 蛍は曖昧に笑って言葉をかえした。

 

「ごめんね。言い訳みたいなこと言って。燐はすぐに戻った方がいいよ。まだ間に合うし。わたしは一人で帰れるから」

 

 蛍と燐がおりてきたばかりの客室のドアは普通に開いているし、二人ともまだホームにいるのだからそうする理由があれば十分に間に合うだろう。

 

「だからそれはいいんだって。それにそういう事じゃないよ」

 

「?」

 

 燐が何に対して言っているのか、その言葉の真意が分からず蛍はハンカチを額に当てながら首をかしげた。

 

 冷房に体が慣れてしまったのか、首筋や額から汗がしたたり落ちてくる。

 

 午後のもっとも暑い時間帯だから仕方がないのだけれど。

 

「わたしも蛍ちゃんとおんなじ考えだったんだなって。だからちょっと心配し過ぎちゃったんだなって」

 

「そうなの?」

 

「うん。何かこれからどこに運ばれちゃうんだろうって。新幹線ぐらいでこれなのにこの後の飛行機なんて本当に乗れるのかなって」

 

「けど、燐なら」

 

 大丈夫だと思う。

 

 燐が車の運転をしたときから思っていたことだった。

 呑み込みというか、その場の適応力がとても高い。

 

 自分なんかとは比較にならないほどに。

 

「まぁ、確かにあの時は偉そうに言っちゃったけどー。けど、やっぱり自分でも無謀なのかもって思いもちょっとあったの。だからこうして蛍ちゃんと一緒にホームにでたら急に開放感を感じちゃってさ」

 

 燐はもう一度大きく伸びをした。

 

 潮風が少し混ざった夏の香りとホームの無機質な雑踏のコンストラクト。

 正反対みたいな組み合わせだが、それが燐をちょっとセンチメンタルな気持ちにさせた。

 

「やっぱりさ、背伸びしても良いことなんか無いよね」

 

「それは、うん……そうだね」

 

 ずっとこの、背伸びのない関係でいたい。

 

 何があってもふたりのまま。

 

 どこまでも、どこまでもずっと一緒に。

 

「で、蛍ちゃん。これからどうする? やっぱり、すぐにでも帰る?」

 

「……」

 

 燐が声を掛けてもすぐに蛍は返事をしなかった。

 

 どこか遠くを見ているような、今ここでない世界にいるみたいに、ホームでぼんやりと立ち尽くしていた。

 

「どうしたの? まだちょっと気持ちが悪いならそこのベンチで少し休もうか」

 

「えっと、そう言うことじゃないの。ごめんね気を使わせちゃって」

 

「あ、うん……」

 

 やはり暑さのせいだろうか、違和感みたいなものを感じて、燐は首を横に傾けた。

 

 蛍は少し悲しい目で燐のこと眺めていた。

 

 燐に、と言うよりもどうやらそれは他のものに対してのようで、燐の姿を捉えてはいるが、その焦点はどこか別の場所を垣間見ていた。

 

 蛍の、誰にも知られたくない、本当の心の奥底を。

 

 見ていたのだ。

 自分自身の内面の視線によって。

 

 

(燐は……本当に素直だよね。誰にも疑うようなことはしないのかな……)

 

 

 本当はわたし……嘘を()いているのに。

 

 

 …………

 ………

 ……

 

 

 

 





■最近のゆるキャン△ のちょっと気になる所ー。

を、書こうと思ったのですが、その前に……。
なんだかちょっとした事になったみたいですね? 前にもゆるキャン△ の連載を止めていた時期があったのは知っていたのですが、今回は個別にお知らせが出るほど長期みたいですし。病気とか怪我の報告はなかったみたいなので、ちょっと体調を崩された……とか? 取材とかの為ならいいのですけれどー。
それにしても、漫画家の人やアーティストの方が病気やケガに見舞われるケースを最近よく目にする機会もありましたし、ともかくゆっくり休んでいただければいいなって思います。
私のようなどうしようもない遅筆でも、夢中になるときは時間を忘れて没頭することもありますし。体調管理には十分気を付けていきたいですね。特にプロの方は体が資本なのですし。
無理せずに創作活動を行ってください。ファンはいつまでも待っておりますから。
もちろん私もー、です。

で、ゆるキャン△ 漫画の気になる所ー。なのですが、やはり新キャラ関連なんですよねぇ……。何でしょう、これもやっぱり偶然なのかなぁ……新レギュラーになるであろう新入生二人に、物凄い既視感を感じてしまってるのですがああああ!!??

本巣高校に新一年生として入学した、瑞浪絵真(なみええま)、ちゃん! そして、中津川(なかつがわ)メイ、ちゃん! さらにはもう出ないだろうと思っていたサモエド犬の、はんぺん!!

……私のように青カミュ狂いのフィルターには、それぞれのキャラが、青い空のカミュの、三間坂蛍、込谷燐、そしてサトくんにしか見えないのですー!! (まあ、サトくんはちょっと強引すぎる解釈だとは思ってますが)
でも、何故メイの飼い犬にはんぺんが……? その辺りの展開は今後判明するとは思いますけどー。

だから私にとってこの新キャラ二人は、”蛍と燐と思って”見させていただいてます。これからの活躍に期待ーーだったのですが、原作の方はそうなってしまったので、今後の活躍は来年に期待ですねー。彼女達も野クルメンバーと一緒にキャンプさせてあげてください。


それにしても何か偶然って続きますよねぇ。そういうの前回怖いと書いちゃいましたけど。偶然には感謝もしております。

もし、青い空のカミュという作品に偶然出合わなければ、こんな事なんかまずやらなかったでしょうし、ゆるキャン△ だって、ドラマ版を見ようと思わなければ再熱することはなかっただろうと思います。他の作品、例えば”ヤマノススメ”なんかもそうなんですが、私は結構偶然の結びつきで行動してるところあるなあって思います。天覧山や高尾山なんてまず登ろうとすら思わなかったでしょうしねぇ。

偶然だから怖くもあり、面白くもある。私はそう解釈いたします。

あ、”青い空のカミュ”が10月11日まで3000円のセール価格となっておりますので、まだ持っていない方はこの機会に是非ご購入を検討していただければいいかなって思ってます。さらに他のKAI作品もリーズナブルな価格になってますので是非是非ー。

あ、でも、私はKAI様の回し者じゃないですからねー。毎回言ってますけど。
何の変哲もないただの狂信者、ですからー。


それではではー。

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