We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life.   作:Towelie

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 運良く状態のいい古民家を手にすることが出来た。
 だけどあまりに古かったので、リノベーションに多額の費用と時間を取られてしまった。
 誤算というわけじゃないけど、夏にオープンする予定が秋にずれ込んでしまったのは集客的にも予算的にも地味な痛手だった。

 まあ、まだ万全ってわけじゃないし、焦っても仕方ないのかも。
 そんなことを考えてたらもう8月も終わりとなっていた、時間にゆとりがあったのに気が付けば結局時間に追われている。

 古民家カフェならぬ古民家ベーカリー、名前は……まだない。

 ……こんなので再来週のオープンに間に合うのだろうか?

 パン窯、オーブン、冷蔵庫にホイロ、パンをこねるためのニーダーと必要なものはすべて取りそろえた。
 かなりの予算オーバーになったので窯以外はすべて中古品だが、その中でもいいの選んできた。
 あとは知り合いから分けてもらったり、ネットオークションで手に入れたりした。
 作業台やラックはDIYで手作りしてそこそこに仕上げた。
 
 もちろん資格も許可も取ってある、営業申請書はそろそろ書かないと間に合わなくなってしまう。
 今この辺りは出店ラッシュで役所も忙しく、営業のための立ち入り検査も順番待ちとなっているようだ。
 
 バイトの子にも研修をやってもらっているが、まだちょっとおぼつかない感じが初々しいというよりも苦々しく思えてくる、これでオープンまでに接客ができるようになるのだろうか。

 まあいざとなったら自分で全部やることもできるけど、もうそこまで若くないし……これが20代前半とかなら一人でもなんとかなりそうだけど……。
 
 泣き言を言っても仕方ない、自分で決めたことだから。

 過去をリセットしてここで生活していく、そのために貯金をすべて崩した。
 もう後には引けなかった。


 それにこの程度のことで凹んでいてはアイツに笑われてしまう。
 わたしと、家族を捨てて、自分の欲望をとったアイツに。

 これぐらい追い込まれたほうがむしろやる気が出るというものだ。
 追い込まれてからが強いのだ、そうやってこれまで生きてきたのだから。

 負ける気はなかった。

 
 色々考えている内に、もうこんな時間になってしまった。
 急いで車を出さないと間に合わなくなってしまう。
 忘れ物がないか一応確認する、自分で言うのもなんだが、こう見えても結構忘れっぽいようで、そのせいで色んなチャンスを逃したこともさえあった。


 でも、もうそれは昔のこと。
 少し前の悲しい記憶。

 暗い部屋の中で光を失った虚ろな瞳をわたしは見た。
 その悲しい瞳にはわたしは映っていなかった、ただ空を天井をぼんやりと見ていたのだ。

 わたしは怖かった。
 その瞳に何も映っていないことを。
 その瞳の原因がわたしにあることを。

 だから、もう……二度と……。



 ……あ、起こしちゃった? ごめんごめん。
 先に寝てていいからね、今、配達に行ってくるから。

 大丈夫、さっき少し寝ておいたし、できるだけ安全運転で行くから。
 せっかくの新車だしね、これでも教習所ではかなり褒めらたんだから。
 
 平気よ、こういう時間に追われるのには慣れてるから、あなたは安心して寝ててちょうだい、確か明日から学校でしょ? 宿題は終わったの?
 そう、さすがわたしの子ね、その辺は抜かりないわね。

 だったらあとは寝るだけね、大丈夫あなたならみんな暖かく迎えてくれるわ。


 え?! 運転代わる? もう馬鹿なこと言ってないで新学期の準備して寝なさい。
 大丈夫よ、あなたなら、わたしの子なんだから、堂々と学校に行けばいいの。

 まあ、ね、これでも前職では鬼の……なんて無駄話をしてる暇なかった、じゃあ行ってくるわね。

 ……うん、ちゃんと戻ってくる。
 もうどこにも行かないわ、本当よ。


 え? 忘れ物? 何、忘れたかしら??

 何これ? エコバッグ? 中に何か入ってるの?
 ……まあ、これはわかるけど、後のはちょっと要らなくない?
 
 え、必要? わたし? 違うの?

 じゃあ誰向けなのよ? 内緒なの? なんだかねえ……。
 うーん、かさばらないから良いけど……まあいいわ、持っていくわよ。

 まあ、あなたが必要て言ったからね、だからきっとどこかで使うのよね。
 勘が冴えてるのよね、今のあなたは。

 それに、家族だしね、子供の言うことは聞かないとね。


 ……もう見失いたくないから。



 ううん、なんでもない、じゃあ行ってくるわね、若いからって夜ふかししてると肌に悪いわよ。

 あ、それと……こっそりパン焼いちゃだめよ、ここはわたしの店なんだから。
 あなたにまだ全部譲る気はないからね。

 そ、十年早いわよ。
 もっともちゃんと資格を取れば結構早く開業できるんだけどね。

 でもその時は自分の店を持ちなさい、親を当てにしちゃだめよ。

 わたしは……わたしはいいの。


 全く、元気になったと思ったら、とたんに変なこと言うんだから。
 まあ、でも……。


 ううん、なんでもない。
 それじゃ行ってきます、戸締まりだけはしておいてね。


(あの子……なんでこんなものを渡したのかしら。それに何かやってるとは思ったけどほんとうに自分でパンを焼いていたなんて)

 後で食べてみよう、でもこれでわたしより美味かったりしたら……。
 でも、ありうるか、なんせあの子とても器用なのよね。

 ……多分、アイツに似たのよね、そういうところ。

 でも器用さっていうのは割と不安定なものなのかもしれない。
 特に人の関わりに影響が出てしまう。

 あの子にだって辛いことがあったんだ、だからあんな風な悲しい瞳を向けていたんだ……。
 大人とか子供とか関係なく、誰にだって悩みはある。

 でも、わたしの子なんだから、信じてあげないと。
 多分、親になるってそういうことなんだと思う。

 必要な時は寄り添って親身になる、自立するときになったら依存せず、子を尊重する。

 当たり前のことだが、わたしには何一つ出来てなかった。
 自分のこと、自分の親のこと、仕事のこと、世間の目のこと。

 そんな表面的なことばかり気にしていた。
 ほんとうに大事なことは目の前にあって、すぐ近くにあったのに。

 それを見ようとはしなかった、わたしは多分親じゃないんだと思う。
 年だけ取った子供のままだった、あの子にも自分にも向き合えてなかった。
 そして……彼にも。

 もう遅いのかな? すべて終わったことなの?

 でも、まだ……まだやり直せそうな気がする。

 あの子もわたしもほんとうの家族になってない。


 そうだ、あの子に店の名前を決めてもらおう。

 あの子はいろいろなものに名前を付けるのが昔から得意だった。
 だから好きな名前をつけてもらおう、センスは悪くないから大丈夫だろうし。

 それに。
 
 わたし一人の店じゃない、ここは新しい家族の家なのだから。







Belsomra

 夕日が完全に沈んで、夜の闇が森の木々を影に変えていた。

 夜になっても天気は崩れる様子を見せないが、雲が多く重苦しい感じがしていた。

 

 月はその丸い体を恥じらうかのような身の素振りで、黒い雲の隙間の中を出たり入ったりと、気まぐれな乙女のような恥じらいを見せていた。

 

「今日のお月さまは恥ずかしがり屋さんみたいだね」

 

 慣れた足取りで吊り橋を軽く渡りきると、橋の親柱の横に立ち、蛍は黒い空を仰ぎ見ていた。

 見ているのは蛍一人だけ、傍らには誰もいなかった。

 ただひとりで変わりゆく空を眺めていた。

 

 その瞳には悲壮感も絶望すらもなかった、ただ月が雲の影で見えなくなっていることに寂しさを覚えていた。

 

 小さくちぎれた雲が何かに追われるようにして夏の夜空をゆるやかに駆け抜けていく。

 それは高いところにある月を通り越して西から東へと流れていった。

 そのたびに月は真実を見せまいとするかのように、雲の後ろで身を隠したまま、何も語ろうとはしなかった。

 その陰湿な様子をまばらに瞬いた星たちが煌めきながら笑っていた。

 

 

 はっきりしない月の態度に少し頬を膨らませながら、蛍は空と地上の境にある淡い色彩に視線を定めつつ、雑木林の群れの中を少し歩幅を狭くしてわりかし慎重に歩いていた。

 

 いつもの制服の下には燐と同じような黒い長袖のシャツを着こんでおり、華奢な両手とか細い首が化学繊維でできた黒い布で覆われていた。

 

 燐には悪いが、初めの内はこういう格好が恥ずかしかった。

 燐とは違ってこの方が蛍には落ち着かず、外で着ると恥ずかしさのあまりすぐに脱ぎたくなってしまうほどだった。

 

 でも今は不思議なぐらい馴染んでいた、嘘のようにこの長袖のベースレイヤーを着ることにためらいがなくなっていた。

 その変化は燐に少し近づいた気持ちにさせたので、蛍は変化が嬉しくなっていた。

 

 常闇の夜は視界が悪く、歩くものを不安にさせる。

 暗がりに何がいるか分かったものではないからだ。

 

 でも蛍にとっては全く知らない道というわけではない。

 吊り橋もその渡った先も、まだ近所の範囲内であり、夏の散歩コースだった。

 

 それに夜とはいってもまだそこまでは暗くはない。

 青黒いシルエットで何であるかは確認出来る。

 夏の夕暮れはまだほんの長く、気持ちの余裕を与えてくれた。

 

 道を進むたびに辺りの虫の声が脈打つように次第に大きくなっていき、夏の風物詩を感じる前に鬱陶しさが先にきてしまう。

 道の両端の雑木林からは奥深い闇と羽虫の鳴き声、草木の青い匂いで息が詰まりそうだった。

 

 日中の森とは違って黒く太い木の陰の裏に見えない恐怖を感じて、蛍は思わず気後れして道の真ん中で立ち止まってしまった。

 

 ほーほー、と梟のさえずり声が雑木林の幹に反射して木霊になった。

 特に意味のある鳴き声じゃないが、いやなタイミングだった。

 蛍は無意識に家の方角に顔を向けてしまっていた。

 

 蛍は考え込むように顎に手をのせて逡巡すると、思いついたように背中のバックパックのポケットから金属で出来た淡い色のペンライトを取り出した。

 

 それはアウトドア商品一式と共に買わされた(と蛍は思っている)ものであった。

 通常トレッキングを行う時は手が塞がってしまうため、頭で固定するライトが好まれるようだが、蛍はそこまで考えていなかった。

 

 ただ夜歩くことになりそうだから買っただけだった。

 でも、燐も同じようなペンライトを持っていたことが一番の理由だった。

 それに前、燐に蛍の家の懐中電灯の所在を聞かれたときに分からないと答えたあの無知を晒したことも思い出していた。

 

 ようするにペンライト買うだけの理由付けはそろっていた。

 

「燐、どう? 今度はちゃんとライト持ってきたよ。ほら、結構明るいでしょ? 850ルーメンなんだって……それって明るい、のかな?」

 

 アウトドアショップの若い店員が熱心に説明していた気がしたのだが、その時の蛍はぼーっとしていて別のこと、燐のことを考えていた。

 

 燐はどのアウトドアグッズを持っていたんだっけ? とか、燐だったらどれを選ぶだろうか? とか、蛍はアウトドア商品すべてを燐目線で選り分けていた。

 だから店員がこのペンライトを勧めてきたときは、すぐに決断を下すのではなく、蛍の心の”燐”に問いてみることにした。

 

(これは燐が持ってたペンライトに少し似てる気がするよ……るーめん? 数値が大きいほうが良い、のかな? 頑丈そうだしこれなら燐も納得してくれるかも?)

 

 こうして、心の中の燐の了解を得た蛍は、この最大850ルーメンの武骨な(可愛くない)黒のペンライトを購入してしまったのだ。

 

 だが肝心のルーメンのことはすっかり失念していて、今の今まで一度も使用したことがなかったのだ。

 

 蛍は何も考えず、小さな本体の前面にあるスイッチを軽く回してみた。

 カチッ、と細かい音がすると同時に鋭い光が稲妻のように雑木林の奥の方まで一気に照らし出した。

 

 一瞬の出来事に蛍は目を見開いて凍り付いていたが、やがてわわっと、小さな悲鳴をあげると、取りこぼしそうになるペンライトを握り直して、慌ててスイッチをOFFにした。

 

「はあ……びっくりした……雷が落ちたかと思ったよ。それにしても……」

 

 蛍は手の中の小さな黒い筒をまるで危険物のように覗き見た。

 ペンライトは空と同じように黒く死んだように静まり返っている。

 

 もう一度スイッチを入れてみるのは少し勇気が必要だと蛍は思った。

 

(……燐が持ってたのはここまで明かるくなかったはずだよね。あれぐらいがよかったのに……)

 

 はあ、とまた蛍はため息をついた。

 蛍が買ったペンライトは6段階の切り替え機能が付いていて、ダイヤルの最初のスイッチは最大の光源で照らすモードとなっていた。

 とても明るい反面電力の消費が著しく、2時間程度しか明かりを保つことができなかった。

 

 無駄なものを買ってしまったと言わんばかりに困った顔で手の中のペンライトを見つめている蛍。

 掌サイズのペンライトがやけに重く感じていた。

 

 

 だからと言ってこのまま暗い森の中を進む気は起きなかった。

 蛍は意を決してペンライトを再び持ち、暗い道の先にかざすと、ダイヤルを3段階ほど余分に回してみた。

 

 カチカチカチ。

 

 万華鏡のように何度も捻ると、同じように光も瞬間的に入れ替わって、様々な光の模様が黒いキャンバスに描き出された。

 

 野球場のナイター照明のように眩しかった強い光は、今はほどほどの光量に抑えられていた。

 最大850ルーメンの光の束は半分以下の細い光となって、ちょっと強い懐中電灯レベルにまで収まっていた。

 

 それでも十分な明かりを確保できてはいる。

 夕方や夜のトレッキングではこの程度で十分だった。

 

 すっかり宝の持ち腐れとなっていたが、今の蛍にはちょうどよかった。

 

 足元をライトで照らしながら一歩ずつ坂を下る。

 慣れた道とはいえ、月明かりも薄い夜の林道を一人で歩くことはかなりの無謀さがあった。

 

 それに何日か前にここを通ったとき、ぬかるみで足を滑らせて転びかけてしまったのだ。

 幸いケガはなく、トレッキングシューズのおかげで尻餅すらつかずに済んだ。

 手はちょっと汚れてしまったけど。

 

 そんな頼りになるトレッキングシューズも履き慣らすまでが大変だった。

 登山経験のない蛍はトレッキングシューズを買うことすらおかしなことだったのに、それを自分で履くことになるとは思ってもみなかった。

 

 それでもちゃんとサイズも図ったし、なるべく可愛いデザインにしたけど(燐が選びそうなもの)それでもまだ少し躊躇するほどだった。

 

 試し履きしてみると、普段の靴とは違って重くて歩きづらいし、全体的に硬く出来ているので普通の一般的な歩き方すらできなかった。

 

 この辺の違いも定員が丁寧に教えてくれたようだが、蛍はあまりよく覚えておらず、結局ネットで再度調べなおす羽目になった。

 

 今はある程度足にフィットするようになったので普段の靴との違いがはっきりと分かるようになった。

 ぬかるんだ坂道でも安定して昇り降りすることもできるし、バランスを崩して倒れこむことなんてもうない。

 これなら安心して森や山へ行くことができる気がする、むしろ自分から行ってみたくなった。

 思うままに足を動かすことができるのだから。

 

 きっと適材適所とはこういうことを言うんだろう、燐が普段からアウトドアグッズを身に着けていた理由はきっとこれなんだろう。

 

 蛍はそれがやっと分かった。

 

 

 

 宵闇が空を覆いつくすと、真っ黒な木々の群れが無限に続いているような錯覚を覚えるほどの心細さを感じる。

 

 一人で森に入ることがどれほど無謀なのかを身をもって知ってしまった。

 

 今でも林業を生業としている人たちだって日の沈むまえには作業を止めてしまう。

 代わりに日が昇る前の早朝から作業を開始していた。

 

 それだけ夜の森は危険で恐怖があった。

 

 あの”ヒヒ”の昔話だって夜、山に女が一人で入ると、かどわかされるからとの戒めからの教訓のための言い伝えなのだろう。

 

 黒く大きなヒヒの姿は男性の、彼の欲望と肉体が具現化したものなのだろう。

 燐の全てを食らいつくすそのことだけを愚直に追い求めた姿はある意味立派だともいえる。

 その一途さを純粋な精神にしたものがサトくんであったということだ。

 精神だけ、意識だけだと動くことができないから犬の姿を借りたのだろう、それだけ純粋だったということか。

 

 ただどちらも燐を欲していたのだ、違うのはその方向性なだけで。

 

 サトくんは燐に心から愛されたかった、一緒の幸せ、一緒の想いを守りたかった。

 ヒヒは燐に己の欲望をぶつけたかった、燐に好かれようとはせず、むしろ燐が嫌がり、苦痛と絶望に満ちた顔にヒヒは得も言われぬ興奮を感じていた。

 

 歪みとは人間の欲が生むものであり、互いの想いのすれ違いから起こるものなのだろう。

 

 

 ただ言えることは、歪みは起きた、そしてそれは思いもよらぬ形で終わりを告げた。

 それを客観的な出来事として理解できてるのは、わたしと燐、そして”オオモト様”の三人だけだろう。

 

 でも二人は()()にはいない。

 二人はもう蛍の手の届かぬところへ行ってしまった。

 

 だからもうわたしだけなんだ。

 わたし一人だけがあの時のままの悲しさで、忸怩たる思いを抱えたまま静かに生きていかなければならないんだ。

 

 でも、それは誰の為なの?

 

 わたしはそんなこと……。

 

 ────

 

 ────

 

 ────

 

 

 

 ゆったりとしたペースでぬかるんだ坂を一歩ずつ下っていくと、涼を感じさせるせせらぎが木々の隙間から流れてきて、それは次第に大きくなっていった。

 湿気を帯びた茂みと灌木の後ろに流れる小川はだんだんと細くなっていき、中流から下流へとゆるやかに変わっていた。

 

 たおやかな流れは生き物すべてを癒すように、謙虚な振る舞いをみせていた。

 

 蛍は川岸の道から離れると、足元に気を配りながら低い段差の滝の流れるところへ近づいて、おもむろに銀のカップに水を汲んだ。

 

 山の恵みをふんだんに含んだ湧き水(ミネラルウォーター)、それをカップになみなみと注ぐと、転ばないように注意深く足を戻して、水を汲んだカップを両手で持った。

 

 ちょうど月が顔を見せたのか、小さな水の中に青白い月が写り込む。

 カップの中で星空と月が混ざり合って、小さな宇宙ができた。

 蛍はそのまますべてを一気に飲み干した。

 

「冷たくて美味しい……」

 

 透き通った湧き水の涼味が喉をすり抜けて、熱くなった胃にじんわりと染みわたった。

 それだけで十分過ぎるほど生を知った心地がした。

 

 小平口町には山の雪解け水がふんだんに流れ込んでいて、年中新鮮な水を飲むことが出来た。

 水道水もそれで賄っているため実質水道代は掛からない。

 それ目当ての移住者もいるのだが、そう上手くはいかなかった。

 小平口町への移住は大変面倒な審査をパスしなければなく、強力な縁故でもない限り他の地から移住できたものは殆どいなかった。

 

 ただ一点、座敷童の相手をする男達だけは別格で、彼らにはある種の特権が与えらえていた。

 

 だがそれも遠い過去の話になろうとしていた。

 

 地域活性運動の一環として、まず初めに移住者の審査を大幅に軽減したのだ。

 そのおかげで街には移住希望者が古民家や放置住居を自分達の住みやすいようにリノベーションして住み着くようになった。

 

 田舎暮らしに憧れるものや豊かな自然と水を利用して商店を出すものもいた。

 

 この短い夏の間に小平口町は随分様変わりしてしまった。

 

 ”マヨヒガ”と呼ばれていた古くしなびた旅館は大手チェーン店が買い取って、低価格の温泉施設としてリノベーションすることになっていた。

 かなり大規模なものになるらしくオープンは今冬を予定しているようだ。

 

 

 駅前の店舗数も一気に増えて、大抵のものは駅前で揃うほどの充実ぶりを見せていた。

 飲食店も大手から、個人経営のものまで幅広く、各店舗が名産であるお茶を使用した新商品を開発していた。

 座敷童による人為的な幸福の力はこの土地から完全に忘れ去られようとしていた。

 

 

「ここの水、こんなに美味しいんだから販売してもいいのに」

 

 蛍は二杯目の水を飲みながら自然な意見を述べる。

 

 この地に幸福が舞い込んでいたときは何もかもが上手くいっていた。

 だからなのか、町の発展はとても早く、すべてが一足飛びで行われてきたのだ。

 

 その為、地道な発展というものを町は経験したことがない。

 すべての事業が上手くいって、しかも確実性があるものばかりだったから。

 

 

 でも、今は速度こそ早いが、そこそこな事業計画に留まっている。

 それは儲けや発展性よりも、もっと地道でゆっくりとした事業計画のようであった。

 

 蛍は町の移り変わりには興味を示さなかった、でも今のこの町の形は良い事だと思っていた。

 幸運にも座敷わらしにも頼らない町本来の形、古いものでも新しいものでもない。

 この町の、土地の可能性を信じた発展の仕方、それで良いのだと思う。

 

 無理をすれば必ずどこかで歪が生まれて、それがだんだんと大きくなっていく。

 ちょうどいい発展こそが、山間の小平口町の在り様なのだ。

 

 

 川岸のぬかるんだ道でも滑ることはなく安定しているトレッキングシューズに頼もしさを感じながら蛍は藪を切り開きながら先を進む。

 

 まだ歩き始めたばかりだ。

 辿り着く場所まではまだまだ距離がある、蛍は一歩一歩足元を確かめながら林道を歩いていった。

 

 背の高い木の上から梟のような鳴き声が聞こえてくる。

 月はまた雲に隠れていた。

 

 

 赤黒い木々の隙間から小平口駅の細長いプラットフォームが異世界の神殿のように明るく見えた。

 そろそろ最終列車がくるころだろうか、駅構内にいる数人の鉄道関係者が確認したり合図をだしたりと忙しそうにしていた。。

 彼らが普通の駅員であることを遠目で確認すると蛍は言いようもなく安堵した。

 駅構内の真白い照明が木の間から暗い森に差し込んで光と陰の交錯する格子模様を描き出す。

 光は蛍を細長く角ばった獣のたてがみの様に見立てていた。

 

 小平口駅に別れを告げて、ロータリー側に抜ける逆方向の更に深い森への道を蛍は進んだ。

 このあたりの林道は人がほとんど通らないためか藪すらも払っていない。

 

 だが、このひときわ大きな道はトラックの巨大な轍のおかげで、舗装された道とそれほど変わらない感覚で歩くことができた。

 

 巨大なタイヤの跡に残っているのは踏みつぶされた小石と木の根、へし折れた枝葉の名残があるだけだった。

 

 それでも楽な道のりというわけではなく、蛍は徐々に苦悶を顔に滲ませた。

 

 少し休憩を取るべく開けた場所を見定めてそこで立ち止まると、蛍は息を荒くしながら傍らの木に寄りかかると、黒色に染まった山肌を呆然と遠目で眺めていた。

 

 黒い山の中腹に立っている、ひときわ存在感のある白い風車。

 蛍はそこを一応のゴールとしていた。

 

 交通機関でここまで来ることは出来ても、それでは意味がないのだ。

 それにこの先は()()()()()()では進むことは出来ない。

 

 一応車両が一台通行できる程度の道はあるのだが、舗装はされておらず、なおかつ一般は立ち入り禁止となっていた。

 たとえタクシーでも通ってはくれないだろう、もっとも使う気はなかったのだが。

 

 その為、あの時のように風車にいくにはハイキングというよりもトレッキングコースを使って裏道で行くしかないのだ。

 

 蛍はその場で入念なストレッチをする。

 といってもまだまだトレッキング初心者なので体育の授業程度のほぐし方しか知らないのだが。

 それでもやって置いて損はないだろうと思っていた。

 

 実際この道を使うのは初めてではない、前は燐とサトくんと一緒に登った道だった。

 

 でも、今は一人で登らないといけない、そう思うとなんとなく寒気を感じた。

 

 あの時は無我夢中で燐の背中を追いかけながら登り切ることが出来たが、今回は上手くいくとは限らない。

 

 励ましてくれる人はいないし、背中を守ってくれる人もいなかった。

 

 行くも戻るも独りで決めないといけない。

 

 少し小高くなっているので遠くの暗がりに小平口の町を見ることができた。

 町の照明はまばらに鋲を打つ形で町を箱のように作っていた。

 かなり遠くまできた錯覚を覚えて、身震いをした。

 

 蛍はいざという時の自分の臆病さを良く知っていたのであらかじめ退路を断っておいた。

 だからもう蛍に戻るという選択肢は事実上無くなっていた。

 

 だったら。

 

「行くしかないってことだね……」

 

 ここまで来るのだってかなり緩やかな足取りだった。

 

 休み中ほぼ毎日歩いて体力をつけてきたと思ったけれど、思ってたより荷物が重くてペースを上げられなかった。

 

 そこまで時間があるわけじゃない。

 

 焦りを感じて蛍はついスマホを気にしてしまう。

 白い画面が映し出すのは今の時刻、今日という日が終わるまでにはまだそこそこの時間があった。

 

 うん、と誰に合図するわけでもなく、ひとり頷くと蛍は再び歩き始めた。

 少し脚が重く感じるが歩けないほどではなかった。

 

 

 

 風車まではここから更に登らなくてはならない。

 最初はしっかりとした舗装道になっていたが、少し傾斜がついたのを実感すると人一人が通れる程度の山道へと変わっていった。

 

 夜風に吹かれて草葉ががさがさと揺れる。

 虫の声は少し収まった感じがしたが、雉鳩や椋鳥の野鳥の鳴き声がすぐ近くから聞こえるようになった。

 彼らの棲家が近くのあるのかもしれない。

 

 偽りの夜とは違い、本物の夜は死んだように暗く、闇夜に何がいるのかの見当がつかなかった。

 

 湿気を帯びた生温い風と匂いはあの時によく似た感情を蛍の中に呼び起こしていた。

 言い知れぬ不安を抱えながらも、燐の背中を見つめながら黙々と歩いていたあの時のことを。

 

(燐は、信じたくなかったんだよね。サトくんとヒヒのこと。辛い気持ちのまま真実に向かって歩いていたんだ……)

 

 ざくっ、ざくっ、と土を踏みしめる重い靴音が夜の声と混ざって、蛍の小さな耳に届く。

 まだ使い込みの足りないトレッキングシューズだったが、それでも蛍の足の負担を和らげてくれていた。

 

 燐が好きだと言っていた青い草の匂いとキリギリスの鳴き声が混ざり合って夏の風情を感じさせた。

 

 でも今の蛍にそれを楽しむ余裕はなかった。

 

 以前とは比べ物にならないほど体力に余裕はあるはずだが、それでも疲労は拭えない。

 両足とも歩くたびにどんどん重くなり、ペースはガタ落ちになってた。

 

 山頂に近いためか心なしか空気が薄く感じられて肺が少し苦しくなる。

 

(なんだろう? 前よりきつい、かも……)

 

 荒くなった呼吸の下で蛍は頭を巡らせる。

 脳まで酸素が回らないのか、考えがまとまらない。

 思うように動いてくれない体に、蛍は少し戦慄した。

 

 顔にべったり張り付く髪を汗と一緒に拭うと、ふいにその考えにいきついた。

 

(そっか、前は燐だけが背負っていたから……)

 

 蛍はもう喋るだけの気力がなくなっていた。

 あのときのようにただ黙々と口をつぐみながら足だけを動かした。

 

 泥まみれのトレッキングシューズが鉛の塊のように重く、足にのしかかるようになった。

 足を一歩づつ上げるのがやっとの状態だった。

 

 あの時は燐だけが重荷を背負っていた。

 蛍やサトくんにその重さを気づかれないように明るく振舞っていただけ。

 燐は常に重荷を背負わせれたまま、三日間を過ごしていたのだ。

 

(燐は……凄いよね、わたしはこの程度でも脚が重くて仕方ないよ……)

 

 それは経験の差なのか、それとも精神の強さなのか。

 蛍は燐との違いを”普通”と意識したこともあったが、それはある意味間違いだった。

 

 燐は到底普通のカテゴリーには収まらなかった。

 明るく気が利いて頭の回転も速く、運動神経もとても良い。

 なによりとても優しかった。

 

 こんな素敵な燐が普通の少女であるはずがない。

 燐は特別なんだ、誰にとっても特別な存在、それが燐なんだ。

 

 だからこそ蛍の憧れでもあったわけなのだが、そんな燐に少しでも近づこうと色々と自分なりに努力してみた。

 

 休みの間に友達と積極的に出かけるようにしたし、明るく振舞おうと笑顔の練習もしてみた。

 苦手な生クリームも頑張って食べようとしてみたし、苦手な教科を克服するため復習も欠かさなかった。

 

 蛍の泣き所でもある体力をつけようと毎日散歩もした。

 ジョギングっぽいこともしてみたけどこれは長続きしなかった。

 

 あらゆることにチャレンジしてみた、とても苦手な料理にもトライしてみたのだが、一度として人が食べられるものを作ることが出来なかった。

 

 色々やってみてわかったことは燐はとてもすごいということだった。

 陳腐な言い回ししか出来ないが、燐は見た目以上にすごく素敵は人だということが分かった。

 改めて良く分かったのだ。

 

 

 はあ、はあ、どうしよう本当にしんどくなってきた。

 

 蛍の足取りはさらに重くなっており、ペースは登り始めの半分以下となっていた。

 道はより険しくなり、殆ど山道と化していた。

 

 軽い高揚感から始まった蛍の夜の単独トレッキングも、興奮はすっかり冷めていて、苦行が頭を支配していた。

 

 ペンライトの明かりと以前の勘を頼りにひたすらに進んできた道のりもいよいよ限界が見え始めてきたのだ。

 

 蛍にはなんで以前よりも辛く感じるのかが分かっていなかった。

 それは燐とサトくんがいたからこそであった。

 特に燐はあの辛い気持ちを抱えながらもしっかり蛍の歩きやすいペースに落として進めていたのだ。

 気持ちはとても焦っていたがそれでもペースを守ることが出来たのは単純な経験値と蛍に対する気遣いの表れだった。

 

 一人で山道を歩くのは一見楽そうに見えるが、実のところ複数人で歩くよりも数倍疲れてしまう。

 特に夜だとそれが倍増した。

 

 作り物の三日間の世界とは違って暗がりから何が出てくるか分からない。

 小平口町の山は深い為、様々な動物がいる可能性は十分あるのだ。

 それに人がこないとも限らない。

 

 ヒヒの言い伝えを比喩したわけではないが、制服姿の官能的な少女が一人、森にいるところを目撃されたらそれこそ何をされるか分かったものではない。

 

 結局のところヒヒもあのナニカも人間だった。

 だとすれば悪意や歓喜をもって近づいてくるのは人間だから、つまりオスがメスに欲情しているのだ。

 

 それは自然の摂理かもしれないが、当事者としては溜まったものではない。

 女と男では性交に求めるものがあまりにも違いすぎるのだから。

 

 

 

 はあ、はあ、はあ。

 

 余計なことを考えても気が紛れるどころか余計に辛くなってくる。

 

 意識は内側に向いたまま、意味さえ求めずに前を向いて歩くだけだ。

 休む事さえも考えなかった、ただ楽になりたいとは思っていた。

 

 息苦しい。

 

 こんな時、燐が隣にいてくれたら、優しく手を貸してくれたら、後ろから背中を押して声をかけてくれたら、どんな困難な道でも乗り越えることができるのに。

 

 在りし日を夢想しても望む通りにはならない。

 

 もう誰も手を貸してくれない、背中を守るものもいない。

 そして燐はもう傍にいないのだ、一番辛いときに友人がいないのは本当に辛い。

 

 ただ一人で暗闇をおぼつかない足取りで歩いているだけ、目的さえあやふやなのに。

 

 

(燐がいる、燐が待ってる)

 

 朦朧とした意識で考えられるのは霧のように淡く、ひどくぞんざいで曖昧なことだけ。

 

 燐へ想いだけが、引きづることしか出来ない蛍の足を限界以上に動かしていた。

 

 

 

 

 暗い空を突き上げるようにそれは立っていた。

 白く長い柱と、遥か上の方についている三枚の白い羽。

 

 風力発電用に設置された、山の上の白い風車、それが蛍の眼前にそびえ立っていた。

 

 円を描くように開けた広場に白い風車がぽつんと立っている。

 風車は転倒を意味する十字架のようでもあり、道を指ししめす灯台のようでもあった。

 白く細長いものは、あの時見た時から外観も何も変わっていない。

 時間を止めたように寂しそうな顔でひとり、そこで伸びていた。

 

「はぁーっ、つ、着いた……わたし、ひとりでここまで来れたんだ……誰の力も借りずに」

 

 ここまで来れてよかった。

 蛍は肺の底からのため息を長々とつくと、安堵感でその場で倒れ込みそうになった。

 下が泥でも四肢を伸ばせればそれで良かった、だけど、せっかく来てきた制服が泥まみれになるのは耐えられそうにない。

 この制服は燐との接点なのだから、それを汚すのは二人の関係の冒涜のようなものだ。

 

 蛍はさっきからずっと笑っている膝を物理的に叱咤して、手短に休める場所を探した。

 

 風車の前の階段スペースが良さそうだ。

 普通に歩くのさえしんどいが、蛍は足を引きずるようにして風車の前まで近寄ると、コンクリート造りの階段を一歩つづよじ登って、点検用の扉の前のスペースに腰を下ろした。

 

「はふゎあ~」

 

 おかしな声を上げながら蛍はぐったりと体をもたげた。

 

 そして待ってましたとばかりに水筒を取り出すと中の水を一気に飲み干した。

 ぬるま湯のような水が喉から胃袋に流れ落ちる。

 あまり美味しいものではなかったが、今はこれでも十分だった。

 

「……」

 

 蛍は何も言わずしばらくぼーっとしていた。

 疲れが通り過ぎるのを待つように、石のように黙って固まっていた。

 

 虫の声が騒がしいはずなのに何故か眠気を誘う。

 蛍はおずおずとスマホに目をやった。

 あと一時間もすれば日付が変わるだろう、それまでにやらなければならない。

 

 ずっとバックパックを背負っていることに蛍は今気づいた。

 それを緩慢な動きで下ろすと、小気味よくチャックを下ろして中をごそごそと漁る。

 

 中から茶色い液体の入ったペットボトルと四角い箱を取り出した。

 結構な重さがあり、蛍は困った顔を浮かべていた。

 

 自分のことながら、こんな重いものをわざわざ持ってきたのかと。

 実際はそこまで重いものでもないが、疲れをぶつける相手がそれしかなかったのだ。

 

 蛍は口をゆすぐ代わりに烏龍茶のペットボトルに口を付ける、むぐむぐと口の中こね回してからごくんと飲み込んだ。

 

 籐で編まれた四角い箱を手に取って中を開ける。

 中には綺麗に詰め込まれたサンドウィッチと付け合わせのサラダが彩りよく詰まっていた。

 

 小さなウェットシートで軽く手を拭いた後で、誰もいないことを確認すると、首周りと腋もウェットティッシュで拭き取った。

 汗で汚れた体がすこしさっぱりした。

 

 さっぱりしたことで急に食い気を感じた蛍は、プチトマトの蔕を指で抜いて、そのまま口に放り込んだ。

 

 一口噛むごとに甘みが赤い果実からこぼれ落ちる。

 それはフルーツトマトと呼ばれる品種で酸味よりも甘みが強く、果物よりも高い糖度をもつものもあり、蛍は通常のトマトよりもこちらを好んでいた。

 

 バスケットの隅に収められていたそれを、3つとも手でつまんで食べた。

 ハンカチを使って口を少し拭うと、ラップにくるまれたサンドウィッチに目を向けた。

 

 日本では食パンを挟んで作るサンドイッチが主流だが、蛍は食べやすくカットしたバゲットで作っていた。

 

 

 ──トーストしたバゲットの表面に薄くバターを塗って、その上にブーケレタスの葉と生ハム、薄く切ったアボカドを載せて、マヨネーズを少し塗ってそしてまたレタスの葉を乗せて、仕上げの黒こしょうをかける。

 上からバゲットを被せて形を整えると……バゲットサンドの出来上がり!

 ──いちおう料理らしい料理ができた、と自分では思っていた。

 

「燐、わたしだって料理ができるようになったんだよ?」

 

 

 これを料理と呼べるかはさておいて、蛍は自慢の一品を前に、自信満々な態度でそれを見せびらかした。

 これでも何度も練習して作ったものであった。

 失敗した分は蛍の朝食となっていたが、あまりに量が多かったので吉村さんにも手伝ってもらっていた。

 そのためここ何日かはパンが食卓に並んでいた、それは朝昼晩関係なかったので、蛍も家政婦も少し胃を悪くしてしまった。

 

 それでも蛍にとっては楽しい思い出となっていた。

 

 

「あ、これも写真にとっとかないと」

 

 蛍はバックパックからカメラを取り出すと、中が開いたままのバスケットを踊り場の中央に寄せてファインダー越しにピントをあわせた。

 

 パチリ、とシャッターを切る蛍。

 特有のアナログ音がレトロな風情を感じさせた。

 

 カメラ本体の下部から先程撮った写真が出てくるが、画像は真っ白だった。

 しばらく待つと徐々に白いキャンバスから色が浮かびだしてくる、そしてこれから食べるであろうとする一幕がそこに映し出されていた。

 

 蛍が持っていたのはインスタントカメラ、通称”チェキ”と呼ばれるものだった。

 

 最近の蛍が一番ハマっているもので、猫のポシェットよりも身につけることが多くなっていた。

 

 蛍は友達みんなと出かけるときも一人で散歩するときも欠かさず持って出ていた。

 そしてことあるたびにシャッターを切って、人物や風景を一枚の中に収めていた。

 

 これは燐や誰かに感化されたわけではなく、自主的に始めたことだった。

 

 

 

 アナログで撮った写真は味が出るものらしく、友達には結構評判であったようで、撮ったり撮られたりと、映えるツールとして親しまれていた。

 

 だが、蛍の意図するものとは違っていた。

 

 蛍は一冊のノートを取出すとページをめくって何やら書き込み始めた。

 そして書き終わると先程撮った写真を文章の下に貼り付ける。

 丸い可愛らしい文字とカラフルな文体でしたためられたそれは日記帳のようでもあった。

 

 そのようなノートを何冊もバックパックに入れて蛍は持ってきていた。

 

 

 蛍は満足そうにノートを眺めると、大切な思い出を閉じ込めるように、静かにノートを閉じた。

 

 やるだけのことはやったので、ようやく食事を再開させることにした。

 

「あ、美味しい! 自分で作ったと思うとすごく美味しい。そういえば、”外ご飯効果”で3倍美味しくなるんだっけ?」

 

 美味しさの理由を蛍はあれこれ考える、それだけこの瞬間に幸せを感じていた。

 そしてこれは自分へのご褒美のようなものだった。

 

 

 虫の声をバッググラウンドにして蛍はつかの間の幸せを目と耳と舌で味わっていた。

 

 蛍が空を見上げると、黒い雲の隙間から星が鋭く光っていた。

 電気信号のような星空を眺めながら、蛍はふいにある疑問をわきあがらせていた。

 

「小平口町って”ホタル”いないのかな? そういえば一度も見たことないや」

 

 自分の名前の由来となった昆虫の”ホタル”、夏のはじめ頃、地域によっては川沿いで見ることもある、発行する昆虫。

 夏の風物詩としても有名で、川もあり、山間の小平口町では多少なりとも見かけてもおかしくはないのだが、何故か一匹たりも見かけたことはなかった。

 

 そこになんらかの意味があるのかは分からない。

 ホタルが住む条件をこの地は満たしている気がするのに。

 

 ただこの町近辺ではいなかったのだ。

 

(やっぱり、わたしの名前ってそーゆー理由でつけられたのかな……ホタルのように儚い存在って意味で)

 

 バスケットの中身をキレイに空にした蛍は余韻に浸るように黙って景色を見つめていた。

 

 空と山が一体になるかのように黒い稜線は波打つ水面のような曲線をたた長く伸ばしていた。

 

 耳を聾さんばかりの虫の騒音が風にのった二つの髪と同期するように凪いでいた。

 

 

「さて、ご飯も食べちゃったしね……そろそろやってみようかな」

 

 階段の縁に腰かけて所在無げに脚をぶらぶらさせていたが、蛍は思いついたかの様に腰をひねった。

 

 傍に置いたバックパックの口を開いて手を差し入れて、ごそごそと中を漁ってみる。

 暗さでよく分からなかったので、蛍は思い切って中身を全部出すことにした。

 

 白いコンリートの上に雑多なものが溢れ出ていた。

 可愛い図柄のノートが数冊とピンクの巾着袋の中の空のランチボックス、そして袋に入った色々なタイプの行動食と水の入ったペットボトル。

 それと黒いビニール袋がひとつあった。

 蛍はその包みを解いて袋の中身を躊躇なくぶちまけた。

 

 中にたいしたものは入っていない、麻のロープと処方薬と思しき白い紙包み、あとは……剃刀といったところだ。

 

 蛍はそれを見下ろしながら、ドリンクバーの前で今日は何を飲もうかと思案するような純粋さで頭をひねった。

 

「ロープ……すごく苦しいみたいだよね、それに……」

 

 白い風車の周りの木々を改めて見渡してみるが、御眼鏡に叶いそうな()()()()は見当たらなかった。

 

(まあこれは最後の手段でいいかな。下に何か()()()()()()()()()良さそうだし)

 

 取りあえずロープを使うことは止めて、他の道具で試して見ることにした。

 

剃刀(カミソリ)かぁ……ついもってきちゃったけど、意味ないんだよねこれ。ただ痛いだけだし」

 

 左手の長袖を少しまくってみる。

 手首には痛々しい横線が何本も引いてあり、何度も試した後が深い傷となって刻まれていた。

 

「気持ちが落ち着くっていう人もいるみたいだけど……そうでもないね。むしろもっと寂しくなっちゃった」

 

 自虐的な眼差しをここからは見えない蛍の家の方角に向ける。

 そしてあの時のことを回帰した。

 

 

 

 ──月明りだけの部屋で()()をやってみた。

 ちくっとした痛みはあったが、思っていたよりも痛みは少ない。

 

 赤い。

 

 わたしってやっぱり赤い血なんだ。

 

 手首から流れる絹の糸のようなそれは生々しい赤だった。

 その様子をじっと見ていたら、いつの間にか腕から零れ落ちてシーツまで落ちてしまっていた。

 赤い斑点が白いシーツにぽつぽつと何度も雫のようにこぼれ落ちる。

 

 ぽつり、ぽつり。

 

 カーテンの隙間から差し込むやわらかい光が赤いマーブル模様のシーツを金色に染めていた。

 

 その光景は、燐とオオモト様と三人でやったテーブルクロスを使った座敷童の説明のことを思い起こさせて、蛍は少し懐かしくなった。

 

 赤い斑点が落ちる様を砂時計のように数えながら、蛍はいつの間にか眠気に誘われていた。

 虚ろな意識で考えたのは燐のこと、それだけが意識の奥ではっきりと残っていた。

 

 

 次に目覚めたときは燐のところではなく、部屋だった。

 そして誰かに揺さぶられているのか気持ちの悪い目覚めだった。

 ここ最近での最悪の目覚めを蛍にしていたのは、顔を真っ青にして今にも泣きだしそうな家政婦の吉村だった。

 

「最近明るくなったって。吉村さんに言われたばっかりだったんだけどなぁ……」

 

 吉村さんに珍しく褒められたことを思い出して蛍は寂しそうに笑った。

 

 その日から吉村は蛍の一挙手一投足を注意深く見ることが多くなった。

 おそらく情緒不安定と見ているのだろう、それでもすぐには結論付けなかった。

 この世代の子は多感だし、夏休みに入る前は数日間とはいえ蛍は自室で食事もとらず塞ぎ込んでいたのだから。

 

 だが、そんな吉村の甘い考えは簡単に打ち砕かれた。

 

 一緒に食事を取る際にさりげなく蛍の手首を見るのだが、この二、三日の間に手首の傷が更に増えているのを確認して、思わず悲鳴を上げそうになりとっさに手で口を抑え込んだ。

 

 吉村の手から転がり落ちる箸に蛍は笑いながらそれを拾おうとしたときに、不意に手首を掴まれた。

 

 あっ、と蛍は思ったがもう遅かった。

 

 叩かれるかな? と蛍は好奇心を漲らせたが、そうではなかった。

 吉村はそのまま蛍をぎゅっと抱きしめていた。

 静かな和室にしゃくりあげるような嗚咽が何度もあがる、それは家政婦の吉村の嗚咽だった。

 蛍は困った顔でその必要以上に小さくなった背中を同じようにぎゅっと抱きしめた。

 二人はそのまま朝まで一緒にいることにした。

 

 

 次の日、吉村は朝から家にやってきた。

 蛍が疑問の顔で出迎えると、すぐさま病院に行こうと提案した。

 

 蛍はきょとんとした顔を浮かべて、ああ……、とひと言唸ると。

 

「うん、朝ごはん食べたら行くよ。吉村さんも一緒に来る?」

 

 と、屈託のない笑顔を向けた。

 てっきり抵抗されると思っていただけに、素直な蛍にいささか拍子抜けしていた。

 

 だがそれは、蛍の計画通りだった。

 家政婦には見抜けなかった、吉村の中では蛍は純粋で無垢な少女だったから。

 

 今回の件だって何かの気の迷いというかちょっとした好奇心が働いただけだと思っている。

 でも、何らかの安心が欲しかったのだ。

 

 

 

 吉村に付き添われて、下流の町の病院に行くことになった。

 いつもの電車で良かったのだが、体に障るからと珍しくタクシーを使うことになった。

 際限なく、ぐるぐる回る料金メーターが落ち着かない吉村の顔と妙にマッチして蛍はなんだが面白かった。

 

 市街地に立つ、大きな病院は真新しく、患者を荘厳な気分にさせる。

 無駄に装飾をあしらった広いロビーは三ツ星ホテルのように荘厳だった。

 白く清潔な壁と大理石のきれいな床に趣味の悪さを感じさせる。

 

 それでも腕は確かなようで、ネットでの評判もまずまずだった。

 

 蛍は普段通りの格好と仕草で医師の診察を受けた。

 その医師は以外にも女性だった、意外と言う言い方はハラスメントに相当するかもしれない。

 だから、女性医師であったことは頼もしかった、と言ったほうがいいだろう。

 

 精神科の知的な女性医師の思慮深い診察で、蛍は微弱な鬱の兆候が見られると診断された。

 それは隣にいる、やはり知的で美しい看護師も納得したようにうなずいている。

 

 自傷をしている以上、妥当な診断だとここにいる誰もが思っていた、当の本人さえも。

 あまりにも思惑通りの展開に蛍は眉を動かすことなく、胸中でほくそ笑んだ。

 表情を隠すのは割と得意な科目だった。

 

 

 蛍は医師にすがりつくような目線を向けると、実は最近寝付けていない、それが毎夜の狂った衝動に走らせると、おずおずとしかしハッキリとした声でいった。

 蛍はすべての罪を睡眠障害に擦り付けた。

 

 察しの良すぎる女性医師は眼鏡の奥の細い目を燻らせながら、蛍の両手を包み込むようにとった。

 そして最大限の理解を示すような念を込めた声色で、蛍と、その乙女を惑わす病状に心から共感を寄せてくれた。

 

 つまり蛍が望むがままに薬を処方してくれるということだった。

 

 これこそが蛍がここにきた最大の目的だった。

 

 医者は抗鬱剤と便秘の薬、そして肝心の睡眠薬を処方してくれた。

 ここまで来るのに時間がかかるから薬は多めに出してほしいと願ったら、それも快く受けてくれた。

 

 この医者の判断が甘いのか、病院の方針なのかは分からないが、とにかく上手くいった。

 自傷行為は前振りと言ってもいいぐらいで、この睡眠薬がどうしても欲しかったのだ。

 おかげで袋いっぱいの薬を受け取るはめになった、それはたっぷり70日分もあった。

 治療にはそれだけの日数がかかるということなのかもしれない、蛍はことの大きさに少し後悔した。

 さらに。あの医師と今日の気分を毎日ネット上でやり取りすることになってしまい、憂鬱な気分にさせられた。

 

 ──今、こうやって家を出れたのもかなり緻密な計画の下でのことだった。

 

 ここまでめんどくさいことになるとはさすがに想定外だった。

 

 でも、そのおかげでこれが手に入ったのだ。

 蛍は白い紙包みからクリーム色の楕円形の錠剤つまったシートを取りだした。

 1錠でも結構な効き目があるらしく、一日に2錠飲む場合は3時間ほど間を置く必要があった、そしてそれを行うには医師の許可が必要となる。

 

 そこまで効き目が強い薬なのだろう、だが実のところ蛍はまだこの睡眠薬を一度も飲んだことがなかった。

 それは蛍は睡眠障害などなかったからだ。

 

 1ダースはある薬のシートから一粒取り出してみる。

 ラグビーボールのような形の白い錠剤は消しゴムのようにも見えてちょっとだけ可愛く見えた。

 

 家庭用にも同じようなものがあるが、効き目がまったく違っていた。

 強い薬ほど副作用が濃く出てしまうことがあり、家庭用は成分が抑えらえていた。

 

 だが、蛍のは医療用、それかなり強めの睡眠薬だろう。

 もしかしたら麻薬の類に近いのかもしれない。

 

 蛍はこれを羊の子守唄(エターナルスリーピング)と名付けることにした。

 相変わらずのネーミングセンスだが、燐に絶対受けるだろうと思っていた。

 蛍には謎の自信があった。

 

「よし、ちょうど食後だし飲んじゃうよ。燐、いいよね」

 

 ここにいない親友に是非を訊ねる。

 とうぜん答えは返ってこない、辺りから聞こえてくるのは昆虫の声だけ。

 それでも蛍は声が聞こえたように何度も頷くと、覚悟を決めたように星空に微笑んだ。

 

 新しいペットボトルの蓋を開けるとそのまま水を一口含んで、むぐむぐと咀嚼するように動かすと、口をすぼめて地面に吐き出した。

 

 ちょっとだけ口内をさっぱりさせると、蛍は薬のシートを改めて眺めてみた。

 成分や注意事項が書かれた紙にも一応目を通すが、特に気にする様子もみせず、紙を袋にしまった。

 

 さて……何錠飲んでみようか?

 蛍は頬に指を当てて逡巡した。

 

「わたし薬、苦手なんだよね。特に錠剤はちょっと苦手……上手く飲み込めないし……やっぱり顆粒にしてほしかったな」

 

 蛍は医師にそう告げたのだが、この薬は顆粒がないらしく我慢してほしいと懇願された。

 処方箋を請け負った薬局にもそのことを告げたのだが、同じような回答だった。

 

「こーゆーこと言うのって子供っぽいのかな? 燐は薬飲んだりするの平気? まあ、薬を飲むのが好きな人なんてあんまりいないよね」

 

 蛍はぷちぷちと薬を指で押し出しながら独りごちた。

 手のひらの薬は全部で12錠、そのうち2錠は胃腸の薬だった。

 

「ただでさえ飲む薬が多いのにそれを薬で中和しなきゃらないのってどうなんだろ。でもこれも飲まないと胃を悪くしちゃうんだよね」

 

 蛍は飲む量にうんざりしながらも薬を服用することにした。

 だがそれでも蛍には大変な苦行だったので、結局三回に分けてなんとか飲むことができた。

 そうすると効き目は落ちる可能性もあるが仕方がない。

 

 まったく体に優しくない薬の毒々しい味は、先程のサンドウィッチのときめきを全部打ち消してしまっていた。

 

「はぁ……」

 

 蛍は風車まで辿り着いたときよりも深いため息をついた。

 やはり薬を飲むという行為が苦痛を伴うものだったから。

 

 

 一仕事やり終えた蛍はなんとなく自分のお腹を擦ってみた。

 消化できたかどうかを確かめるにはまだ早い気もするが、それでも気になっているのか、円を描くように何度も触ったりつねったりを繰り返していた。

 

 ……当然まだ変化は見られない、胃液が沸騰するような底知れぬ不快感もまだなかった。

 

 変化がないといえば蛍自身の体のこともあった。

 オオモト様に普通の少女になりつつあると言われたが、今のところなんの変化もない。

 座敷童の力がなくなったかどうかも分かってはいなかった。

 

 目に見える変化がないことが怖い。

 突然あの白い手の連中のようになってしまうことだって考えらないことではないのだ。

 

 ”普通”の定義が蛍には分からなかった。

 

「とにかく、あとは待つだけかな……」

 

 蛍は考えを打ち消すように両手をぐっと挙げて伸びをした。

 わざとらしい欠伸を浮かべてみるが、眠気は訪れそうにない。

 

 今度は瞼を閉じて、しばし黙り込んでみた。

 手持ち無沙汰からか、両手を組んでその時を待ち続けるが、やはりまだ効き目はやってこなかった。

 

 山間を焦がすように様々な虫の声が瞼を閉じた耳に流れ込んでくる。

 五月蝿いだけだと思っていた虫の声が今はそんなに悪くはない、それはこれから起こることへの鎮魂歌のようにも讃美歌にも聞こえたからだ。

 

 羽虫の声に身を委ねながら、蛍は一人、その中で終わりの時を待ち続けていた。

 

 

 ……小一時間ほど経っても蛍の体には何の変化はおきなかった。

 

 少しヤケになったのか、蛍は持っていたバックパックを枕代わりにしてコンクリートの床にごろんと寝転んだ。

 

 コンクリートの床は夜露を通さなかったのか、思ってたよりも冷たくはなかった。

 埃っぽさもなく硬ささえ目をつぶれば意外にも快適であり、縁側で夕涼みをしているのと大して変わらなかった。

 

 眼前には黒い雲の隙間からの星屑の海が視界を遮ることなくパノラマ状に広がっていて、自然のプラネタリウムの様相を醸し出していた。

 

 月は再び額縁の隅に隠れるようにして、ぼんやりとした光を下界に落としていた。

 

 夏の終わりに吹くような湿り気交じりの偏西風が蛍の前髪を優しく撫で上げる。

 アンダーシャツにくるまれた華奢な両腕を体に回して、かき抱くように体を包み込んだ。

 

 膝を曲げて丸くなっていると体の奥から黒い不安が湧き上がって、なんとなく嫌な感じになった。

 不安からか自身の手を空に高く突き出して掌を握ったり開いたりしてみた。

 蛍の手はかすかに震えていた。

 

 

「いよいよかな……?」

 

 他人事のように一言呟くと、蛍はバックパックの横のポケットから白い紙の玉のようなものを取り出す。

 

 それはノートの切れ端で出来たものだった。

 前は違った形をしていたのだが、”ある理由”から今のしわくちゃの、少しいびつな丸い紙の玉になってしまっていた。

 

 蛍は両手で玉を包み込むように握るとそのまま胸元で抱きしめた。

 決して力を入れないように優しく抱き止める姿は、卵を守る雌鶏のように優しく愛らしい穏やかな顔をしていた。

 

 想いと希望の慣れの果て、これこそが蛍の拠り所だった。

 耐え難い感情のうねりがこの形を造ってしまったのだ。

 

 はじめは酷く後悔した、綺麗なものを大切にしたかった、それだけだったのに。

 彼と同じことをわたしもしてしまったのだ、それも()()も!

 

 今は少しは落ち着くことができている。

 だって形を変えても想いは微かに残っているはずだから、わたしが手放さなければきっと残ったままだと信じているから……。

 

 

「燐……」

 

 蛍は意識があることを確かめるかのように大切な人の名前を呟いた。

 何度呼び掛けても返ってこない親友の声、それはまだ覚えているから。

 

 だから、そろそろ呼んでほしい。

 名前を呼ぶだけで幸せと言ってくれた、青空のような澄んだ声で。

 

 

 蛍は潤んだ瞳を虚空に向けて、生あくびを何度もかみ殺していた。

 それが薬によるものなのか、体の疲労からきてるものかは分からない。

 

 ただ闇の底から呼ぶような強烈な眠気が蛍の瞼と四肢を鉛のように重くさせていた。

 

 蛍は微睡みに誘われていた。

 意識を混濁させながら重度の夢遊病者のようにたどたどしい言葉を宙に向けて発していた。

 

「ねぇ、燐……わたし、まだこれが夢じゃないかって思ってるんだ。すごく、すごく長い夢の中にいるんじゃないかって思ってるんだよ、ほんとうなんだ……だってねえ、これって夢だよね? そうじゃなかったら説明が、つかないもん。わたしだけが覚えてるなんて……」

 

 羽虫も鳥も蛍の言葉には耳も貸さなかった。

 ただやりたいことをやっているだけ、だから蛍も同じようにした。

 

「もしくはね、何かの劇かなーって思ってるの……燐とわたしが主役で、意味のわからない不条理の演劇にむりやり出演してられてて……顔のないおばけや猿が襲ってくるのを二人でどこまでも逃げ続ける……でも最後はハッピーエンドで幕を閉じて拍手喝采……面白味、ないかな? わたしはこういう普通の終わり方が好きなんだけど……ね……」

 

 睡魔が蛍の思考を奪っていく、それは少し怖いけど望んだことだったから、自分で決めたことだったから。

 

 蛍は映らな瞳のまま夜空に視線を向ける。

 熱に浮かされたような焦点の合わない瞳はすべてのものを三つほど余分に見せていた。

 

 宝石の屑のように綺麗な星たちも、白い剣のようにそびえる風車も、青白く照らす月さえも、何もかもが三重に海の底のように揺らめいて見えていた。

 それはパラレル画像を逆からみたように均等でおかしな光景だった。

 蛍はその光景に何かを見出したのか、にこっと微笑んでいた。

 

 ──だからそのままパラレル世界の裏側に身を置くことにした。

 

「燐……そろそろ出番だよ……早く来ないと劇が進まないよ。恥ずかしいのかな? 大丈夫、わたしが一緒に出てあげるから、大丈夫だよ」

 

 何かが失われていく感覚、それを心の内側で感じた蛍は、白い紙の玉に縋るように抱きしめた。

 黒い睡魔が蛍を奪いさろうと腕を伸ばす、それは抗えようにない甘い誘いだった。

 

「ちょっと、怖い、かも……でも、これで、燐……に会えるのかな……だったら……」

 

 それっきり蛍は言葉を出さなかった。

 代わりに小さい寝息を立てていた、両手で小さな紙を丸めたものを抱いたままで。

 

 あたりは虫の声が支配していた。

 秋の虫も混じり始めたのか、ときおり豊かなハーモニーになることもあった。

 

 少女の寝息は小さかった、もうこのまま目覚めないんじゃないかと心配になるほど小さく、とぎれとぎれになっていた。

 

 

 

 そして何かのスイッチが消えたように、ふっ、と蛍は意識を失った。

 

 

 暗がりの中で一人横たわる少女の姿は美しくも儚げな危うさがあった。

 

 それは黒い羽虫の(あかり) が消えたときの()()()()とよく似ていた。

 

 

 風の囁きも虫の騒めきもどの音も蛍の耳には届いていなかった。

 

 

 

 

 

─────────

───────

─────

 

 






はううう、PCが起動不可になるとは微塵にも思わなかったですよ──!!
とは言っても自分が悪いんですけどね……なんで余計なことまでしちゃうのかなあ、私……パニくると変なことする癖があるんでしょうか……。
おかげで新しいPCを買う羽目になってしまいましたよ──! 余計な出費がかさんでしまったですよ……まだスマホ買い替えてもないのに……。

貰い物で10年近く前のPCだったのですけど全然メンテしてなかったのが悪かったのかなあ? 前の持ち主も私も中を一度も開けたことなかったですしね──予想通り誇りまみれでこんな状態でよく動いていたものですよ──。

でも、使ってる人間が大体悪いんですよね。いくら古くても使い方次第ですしね……もう少しいろいろなものを大事にしたいです、本当に。

大事なデータはなんとか移すことができましたけど、まだ全部じゃないですねー。でも、本当に大事なデータってごくわずかだと思い知りましたよー。9割はわりとどうでもいい駄データだったんですねー。これを気にデータの断捨離をしたいと思ってます。

スマホでも書くことはできるのでちょこちょこ更新してはいたのですが、ものすっごく使いづらかったですー。音声文字入力も試してみましたが、私の喋り方が悪いのか、誤変換ばかりであんましいい感じにならなかったです……私の滑舌が悪いだけなのかもしれないですけどっ。

しかも私のスマホが低性能かつ画面が小さい&解像度が低い(これが一番の苦しみどころでした……)しかもバッテリー持ちも悪いという、低価格アンドロイド携帯の三重苦を抱えていたのでストレス半端なかったです。

こうやって今、モニタで書けることを至上の喜びとなってますよ~。当たり前の幸せってこういうことを言うんですね~。改めて時間しますよー。でも、このモニタも割と古いんですけどねぇ……これもそのうち買い替えることになるのかなぁ? もうちょっとだけモニタには頑張って頂きたいですっ。

あ、そういえばPCがダメになってる間に”青い空のカミュ”が”美少女ゲームやり放題サービス”のラインナップに入ってましたね────!! めでたい、のかな? 既に持ってる私としては何ともいえないのですが、間口が広がるのは良いと思います!!

それに一週間無料でお試しできますので、青い空のカミュだけにプレイを限定すれば全部のCGを回収してもクリアまでは行くと思います。
でも、ボリュームが少ないゲームと言うわけではないんですよー! 何度もやってストーリーを理解していく探求型? 美少女ゲームなのかな……多分。

さらに有料サービスに加入すれば他の色々なゲームもやりつつ青カミュも余裕でクリア出来ちゃいますしねー。しかも一か月3000円と、YASUI!! ……気がします。
その辺りの金銭感覚は個人の判断にお任せします。 

それにしてもこのサービス、結構利用される人多いんでしょうか? サブスクリプションってイマイチ実感がっていうか所有感がなくてどうも苦手なんですよねーー。

まあ、私みたいに古い考えの人は少ないと思います。


それではでは~。
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