We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life. 作:Towelie
まっしろ。
視界が全て真っ白けだった。
瞼を開けたら直ぐに強い光──閃光が目に飛び込んできた。
刺すような痛さに思わず顔をしかめて再び目をつむる。
確かあの時もこんな感じだった……?
空がぴかぴかと光ったと思ったら、轟音と共に稲光、落雷が落ちたんだったっけ……?
ちょっと記憶が曖昧になったと感じて、意識を集中するように目をぎゅっとつむる。
絡まった思考を繙いていくように、ほんの少し前の出来事を一個づつゆっくりと脳裏に思い浮かべる。
瞼の裏側で、ちらちらした小さな光の線が渦巻き状の軌跡を描いていた。
確か、町の合併に伴う式典の最中だった……はず。
一旦上がったと思った雨がまたしとしと降ってきてしまい強引と言うか、殆ど押し気味にイベントは終了した。
それでようやく一息つけたと思ったのだが……。
それが……これか。
いつだってかわり映えの無い──世界。
気付いたらそこの地面に横たわっていた。
こちらの都合など何も考えてくれていない、静謐で、残酷な世界へと運ばれていた。
きっと意味のない大きな力で。
「だからって何で……何で今になって」
薄く目を見開き、軽く息を吐く。
不思議と言うよりもなんかもう馬鹿馬鹿しかった。
視界がだいぶ落ち着いてきたので、今一度、辺りを見回した。
何処までも青と白。
それしかない世界。
細い糸みたいな地平線の先にはきらきらと銀色に光る線路がどこまでも伸びている。
大地だと思ったのは、静まり返った無人のプラットフォーム。
そして、その横に立つ一軒の家もあった。
つまり、ここが”青いドアの家の世界”だった。
「……」
蛍は何も言葉を返すことが出来ず、ぺたんと座り込んで呆然となっていた。
この奇妙な世界、そこにまた来ているという事実にまだ認識できないでいるように。
もっとも近くて、限りなく遠い場所。
来たくとも来れなかった場所までようやく訪れることが出来たけれど。
だからって、驚きとか、感動なんかない。
ただ、これは紛れもない現実なのだと。
──そして、この世界で一人であることも。
辺りには誰の人影もない。
自分の一番近くに居た人もいなかった。
「またひとりでここに来たんだ……」
事実を口に出してみる。
焦燥感とか寂しさとかは不思議と湧いてはこなかった。
ただ、何というかひとりぼっちで居ることに何だか久しぶりな気がして。
懐かしさのような思いを覚えた。
(あれ……?)
置かれている状況にはそれほど驚かなかった蛍だったが、今の自分の姿をみてちょっとびっくりしたような、不思議そうに首を傾げていた。
蛍が今、身に着けているのは学校の時の制服でも、もちろん裸でもない。
合併の式典の時に着せられた”和装と洋装の中間の格好”だったから。
「やっぱり、夢の話じゃない」
蛍は確かめるように自分の頭を両手でわさわさと触ってみる。
普段着けているものよりも少し大きめの花の髪飾りは、イベントの為に吉村さんがわざわざ作ったものだった。
モチーフは、もちろん
だがこれは蛍が吉村に頼んだもので、強制されたものでない。
幼い頃からずっと身に付けていたものでもあったし、やっぱり綺麗だったから、蛍は吉村が作ったキンセンカの飾りが好きだった。
そしてそれは髪飾りだけでなく、靴や少し短めのスカートの腰の辺りにもアクセントとしてあしらわれている。
腰に巻いた長いリボンとお揃いの彩りになっていた。
どう見てもコスプレみたいな恰好でこの現実離れしたな世界にいることに苦笑いしてしまうが、同時にある事実にも気が付くことができた。
「ちゃんと時間は動いているみたい」
前にこの世界に来た時はもうずいぶん前のことだったけど。
確か、高校の最後の夏の時に行ったきりだったと思う。
それからはこちらの世界の気配を感じることも、不可思議な概念などにも目が合うようなこともなかったから。
「…………」
蛍はまだ空を見上げていた。
何か、心の保養になりそうなものを目に入れておきたかった。
……
……
……
蛍は遠くに視線を凝らしながら、今置かれている状況を受け入れようとしていた。
もうずいぶんと前から自分にはもう後がないことは知っていたけど、意外にというか何かの偶然でその時は訪れなかった。
それが必然なのかは分からない、けれどそれを忘れさせてくれるぐらいに充実した日々が続いていたから。
だからついに──この時がきたと思った。
町の名前が変わったぐらいで何かが変わるわけがないと言っていたのに、結局はこれこそがきっかけだった。
他にも何らかの要因があるかもしれないけど、置かれている状況からするとそうとしか考えられない。
(やっぱり、燐の言っていたことは正しかった)
ただ、自分一人の間だけで起きた異変なのなら、小さいものなんだろうけど。
向こうの様子が分からないからまだ何とも言えないのだが。
それでも、今日で”小平口町”という山間の小さな町は無くなった。
町が死んだというのではなく、他の町と合併して名前が変わっただけ。
そんな単純すぎる出来事で歪みのような変化が訪れるとは思わなかった。
「それしても、ちょっと安直すぎだったよね、”大平町”だなんて……」
ぼそっと蛍は呟く。
合併した新しい町の名前は”
そう、決まったのだった。
あまりにも捻りのない名前だと思われそうだが、元々隣町が”大森町”だったから。
そこと合併したのだから、ある意味では妥当なネーミングだったと言える。
大森小平口町と言う折衷案も一応出ていたようだったが、町の名前にしてはちょっと長すぎるし、言いにくいとのことで今の名前で正式決定となった。
それに今日のことも町の名前が変わる為だけのイベントではなく、町に新しく出来たトンネルの開通と、
町の風力発電事業ももう定番のものになりつつあるようで、2機目が出来たと思ったらすぐに3機、4機と短期間での建設ラッシュが続いていた。
この周辺地域は風が良く流れる為か、太陽光発電なんかよりも風力発電の方が電力の効率が良いらしくまだあと数機、建設の予定があるらしい。
あんな細長い物が山に何基も出来ることに崖崩れを誘発するのではないかと危ぶまれる声もあったが。
どうやらこの辺りの地域の地盤は意外なほどしっかりとしているようで、過去に何度も水害の危機にさらされたことがあったが、その際に山崩れなどの大規模な災害が起きたことは一度もなかったことが記述されていた。
あの石碑のあった山の血のように赤い色の土も今では結構貴重な土壌だったことが調べて見て分かったし。
元々から良い土地を持っている地域だったようだ。
山の奥にあるというだけで。
だが、それらはもしかすると座敷童の力──幸運の因る所なのかもしれない。
彼女たちの遺したものが今になって町の人達に理解されている。
そうとも言えた。
小平口、いや大平口町はその内、山間の風車の町として売り出すのではないか、と囁かれるぐらいにこの事業は安定、発展しているようだった。
「大平口……ね。まあ、そんな大きい感じはまだしないけど」
蛍はまだ馴染みのこない新しい町の名前に愚痴をこぼしながら、青い空に手を上げて背筋をぐっと伸ばした。
その式典にまで出ておいてこう言うのもなんだけど、まだ当分新しい町の名称には慣れそうにはない。
例えば、ある日を境に親しくしていた人の呼び方が急に変わってしまうみたいに。
どこか他人行儀な白々しさを感じてしまう。
例えがおかしいのかもしれないが。
まあ、いつか慣れるとは思っているけど。
(そういえば、燐は、どうしてるのかな)
ここには居ない友達のことを考える。
前みたいに後から来てくれればいいのだろうけれど。
もう、それにも期待できそうにない。
何となくだがそう感じた。
それを心寂しく思う自分もいれば、同じように飛ばされなかったことに安堵する自分もいる。
揺れ動く二つの心を俯瞰した気持ちで見ていたが、すくっと立ち上がるとその場でくるりと身体を一回転させた。
蛍は何か、神秘的なものになりきっているみたいに微笑んでいた。
長い黒髪と、腰に巻いた赤い帯が白い大地の上でひらりと舞う。
無邪気で可憐な花が、静謐で孤独な世界で一輪だけ咲いていた。
……
……
……
「やっぱり……何も来ない……」
何をするわけでもなく、とりあえず無人プラットフォームのベンチに腰かけていた蛍だったが、どれだけホームで待ってても列車どころか何も訪れない事実に溜息をこぼしていた。
そうそう思い通りに行くわけが無いのは十分わかっていたけど。
蛍は膠着しきった心と体を解すように思い切ってぐっと立ち上がった。
関節がぱきっと言うことは流石にないが、何かとても大事なものが音を立てたような。
そんな思いに駆られた。
そんな気持ちとは裏腹に風景は雲が流れ、遠くで水面が光っている。
一幅の絵画のような情景に改めてここがいつもとは違う場所であることを頭で理解することができた。
何にしても、だ。
「青いドアの世界にいるんだ……もう失われたと思ったこの地に」
感慨深く蛍は思った。
この世界は怖いとかいうよりも何というかちょっと不思議で、少しどきどきとする。
誰も知らない秘密の場所みたいなものだったから。
(やっぱりちょっと落ち着く感じがする……それはそれでおかしいのかもしれないけど)
明らかな異空間にいるのにそう感じ取ってしまうのはやはり知っているからだと思う。
ちょうど三年になる。
あの囚われた夜の世界で、唯一落ち着くことが出来た場所がここだった。
何もない世界。
これと言って有用なものは一つもなく、風も匂いさえもない殺風景な世界だったが、それでもあの悪夢の様な世界とは違った安らぎの場所だった。
大きく息を吸い込む。
ふたつの肺に良く知る空気とは少し違ったものが入り込んでいき、世界と一体になった感じになった。
けれど、怖い感じはない、それどころかむしろ。
(心地よい……感じがする)
ずっと失くしていたものをようやく見つけ出した時みたいに。
静かに胸が高鳴っていた。
ここが終着駅かもしれないのに。
「そういえば、この空」
首を少し上げ、再確認するように蛍は空を振り仰ぐ。
こうしてみると
ただずっと晴れのまんまであることと、風も太陽もなく、ぼんやりと空の向こう側が光っているという細かな違いぐらいで。
ペンキみたいな彩りをしているけど、空は空だった。
「とっても、青い……青くて、綺麗」
向こうの世界が雨の日でも夜でも、ここではいつだって爽やかな初夏のように澄み渡った空が広がっている。
きっとこの世界を思い描いた人の一番いい景色なのだろう。
暑くも寒くもなく、程よくちょうどよい情景。
絵に描いたような美しさと、現実感のない風景がどこまでも広がっている。
久しぶりだからなのか、その混じりけのない青が少し目に沁みた。
他に誰もいないことも理由なのかもしれないが。
蛍は白い指で目元を軽く拭った。
……
……
……
とりあえず──行ってみるしかなかった。
もうそこに行くことしか出来ないとも言えるけど、身体がその方に向いていて足が自然と動いていたから。
抗うようなことはもうない。
きっとこれが望んでいたことだから。
”青いドアの家”。
蛍は、その家の前に立っている。
「やっぱり、前に来た時とそれほど変わってない感じする」
首を横にしてみても確かにそう見えた。
前とは家の外観は少し変わっていたけれど、その呼び名は変わっていない。
もっとも大きな変化があったとしても何も変わりはしないだろうけど。
ずっとこの世界での家なのだろうし。
蛍は戸惑うような素振りも見せず、空をそのまま切り取ったみたいに綺麗な青の扉のドアノブに手を掛けて、躊躇なく前へと引いた。
鍵は掛かっていない。
かける意味すらもないから当然だけど。
今回は呼び鈴すらも押さなかった。
きっといたら居るだろうし、居なければそういうものだと思っているから。
礼儀とかそういうのは必要なのかもしれないが、
静まり返った玄関で靴を脱ぎ、丁寧に並べていたスリッパに足を通す。
「別に、わざわざ出迎えてくれなくてもいいのに」
誰ともなく口をこぼすと、目的地であるリビングへと向かった。
やはり……誰もいない。
きっとそうだろうとは思っていた。
もうここには自分以外誰も来れないのだと。
ある種の確信を持っていたから。
「……」
天井に備えてある、空気を循環する為のファンがくるくると静かに回り続けているところを見ると、普通に電力は通っているようだ。
だとすれば恐らく水道も使えるだろう。
飲む気はしないけれど。
そういう意味では暮らすのには申し分のない所だろう、この家というのは。
ただ、それすらも幻想なのかもしれない。
この世界は地球上には存在しない夢の、想いの結晶体みたいなものだろうと思っているし。
存在が消えるまでにまだ時間があるのなら、この世界の事をもう少し調べてみてもいいのかもしれない。
それを追うものも、追われるものももうないのだから。
蛍は習慣づくのようにベージュのソファにぽすんと座ると、当たり前のようにテレビのリモコンを手に取った。
カチッ。
ボタンの手ごたえは確かに感じられて電源は入ったようにみえたのだが。
──何も映らない。
どのチャンネルを押してみても薄型のテレビ画面には黒しか映らなかった。
あの不思議な車窓からの映像どころか、ノイズを具現化したような砂嵐すらも映らない。
まるで全てが閉ざされてしまったみたいに。
外界や周辺の情報すらも。
蛍はその事に絶望を感じなかったが、ちょっと寂しい気持ちになった。
何に?
もしくは誰に対して?
それは分からなかったが、何かとても大切ななことを忘れているのではないかとは思っていた。
飛ばされてた時からずっと考えていたこと──。
「そうか、そうだったね」
蛍は独り言ちたように頷くと、祈るように両手でテレビのリモコンを握りしめながら瞼を閉じる。
そのまま少しの間じっとしてたが、急にぱっと目を開くとリモコンのボタンを押してチャンネルを何度も切り替え始めた。
強く押したり、軽く押したりと緩急をつけてみたがそれでも画面は変わらない。
黒い画面が黒に切り替わるだけ。
何度やってみても同じことの繰り返し。
それでも蛍はボタンを押すのを止めなかった。
前もそうだったから。
一縷の細い望みをつなぐようにチャンネルを切り替え続ける蛍。
いつまでそうしていたかは分からない。
そして遂にその時が訪れた。
──ぶつん。
小さな音がして、急にリモコンからの反応が無くなってしまった。
蛍は慌てて電源ボタンを押すも、時すでに遅く、黒いスクリーンは役目を終えたみたいにぷっつりと動かなくなってしまった。
呆気に取られたように蛍はその行為を黙って見送っていた。
しばらく経って、はぁ、と深いため息をつくと、テーブルの上にリモコンを放り投げて、ソファに深く背を埋めた。
「そっか」
小さなつぶやきは無限運動を続けるみたいに回っている木製のプロペラにかき消されいた。
蛍はふと、あの奇妙な”蛾”の事を思い出していた。
今思えばあれこそが歪みの始まりであったと。
もしあの時、あの不可思議な翅を持つ”蛾”のことを見つけなければなんて、そう思うこともあったけど、もうそれもどうでもいいことだった。
どうせ何も変わらない。
異変が起きてしまったことも、彼がああなってしまったことも、そして……。
(燐……)
彼女が、世界で一番大切な人がここにいないことも。
確か前に一人で来た時は、オオモト様が居てくれたからちょっとは気は紛れたけど、それももうない。
ここは完全にわたしの家になってしまったのだと。
それが分かった。
違和感がなかったから、このリビングに一人でいることに。
この家で独り悠久の、いや永遠の時を過ごすのだろう。
誰か新しい、同じような性質を持った者が現れるその時まで。
ずっと、ずっと待ち続けるのだ、意味もなく。
「……」
何か急に肩の力がすっと抜けた気がする。
縛られていたものからようやく解放されたような、ちょっと気が楽になった気になっていた。
究極の絶望からくる究極の楽観的な感覚、それに似たようなものなのかも。
幸福感とはちょっと違う気もするが。
恐らくこういった感情は多分、一過性のものだろうとは思っている。
もうしばらくすればこの状況にも慣れて、きっと感情すらも失うだろうから。
あの人の──オオモト様のように。
「さてと」
蛍は意味もなく言葉を作ると、こうしているのも飽きてしまったかのように立ちあがり、慣れた動作でキッチンへと向かった。
あのままソファで膠着していたらそのまま溶け込んでしまうのではないかと、ちょっと思ったからだった。
そしてそれはそんなに間違いではないことも知っていたから。
取り立てて、まず蛍は冷蔵庫を開けようとした。
だってそうしていたから、いつも。
(そう、燐はそうしていた)
何故そうしていたのかは分からないけど、燐は決まってこの家の冷蔵庫を開けていたのだ。
確かに冷蔵庫というのは好奇心をかき立てるものがあるとは思う。
中を見るだけでその家の生活感や、習慣を垣間見ることのできるものだから。
蛍はそこまで興味を引くわけではないが、燐がそうしていたから蛍もそうした。
テレビがああなってしまった以上、もうここぐらいしかないとも言えるが。
キッチンと同じ色の白い冷蔵庫の取っ手を掴んだ瞬間。
──急に音がした。
それは声ではなく、確かに音。
でも、音にしては小さすぎるというか……蛍は冷蔵庫の取っ手を掴んだままきょろきょろと辺りを見渡す。
微かな音だったから、すぐ近くから出ているのだろうけれどその発信源が分からない。
やはり冷蔵庫からだろうか。
防犯的なものが備えているとは思わないけど、直近で蛍が何かしでかしてしまったのはこれぐらいしかないし。
テレビの方からは音はしていない、むしろすぐ近くだったから──。
そこで蛍はハッと気付いた。
よく考えるとそれは音ではなく──。
「もしかして、携帯!?」
蛍はへんてこりんな衣装のポケットを弄る。
和風と洋風を掛け合わせたような、ともすればアニメか何かのコスプレ衣装みたいだったが、それでも簡易的なポケットみたいなのは備え付けてあったから。
それこそスマホぐらいしか入らない程度のものが。
蛍は反射的にそこに手を突っ込む。
「あっ!」
確かに手に当たるものがあった。
結構重量のあるスマホだったから持っていたのならすぐに気づくはずなのに。
恐る恐る取り出してみると、そこには振動を繰り返している、いつもの自分のスマートフォンがあった。
その正体は音ではなく携帯の振動だったのだ。
蛍は画面も見ずにタッチパネルに触ると、催促するように震え続けるスマホの通話ボタンを押した。
誰からの電話なのかは分かっているつもりだ。
それでも、聞かずにはいられなかった。
ほんとうに大事な人の名前を。
「燐!? 燐だよね!??」
蛍は無意識に大声で叫んでいた。
もしかしたら反応がかえって来ないのではないかと胸をドキドキして待っていたが、意外にもそれは割と直ぐだった。
「もしもし、蛍ちゃんなの!? 今どこなの?」
ノイズ混じりの少女の声が、固く握りしめたスマホから流れてきていた。
──
──
──
「せーのっ、乾杯~!」
「うん、乾杯」
ちぃんと、小さくグラスが鳴った。
受話器越しから出てきた乾杯の音頭に蛍は複雑な顔で小さく笑みを作りながら、水の入れたグラスを指で軽く弾いた。
グラスを合わせる相手はここにはいなかったけど、声はあったから。
それまで静かだった世界に少し奇妙な生活音が生まれていた。
ただ、それは透明な水しか入っていないグラスの音などではなく、スマホから次々生まれてくる明るい声がそうさせていたからだった。
「お疲れ様、燐」
何やら変な感じだったが、燐とこうして言葉を交わせること自体が不思議そのものだったのから、蛍は特に気にするような事は口にせず、自然な口調で燐に労いの言葉をかけた。
燐もそれが分かっているのか、いつもの調子で話を続ける。
蛍が不安がるような事は微塵も口にはしなかった。
「あはは、蛍ちゃんもお疲れ様だったね。やっと式が終わったと思ったら”青いドアの世界”に来ちゃうだなんてね」
「本当にそうだね。まだ自分でも信じられないぐらいだよ」
こうして青いドアの家の中にいてもまだそう思う。
ただ、燐と話が出来たことで自分が本当に違う世界にいることが分かってしまったけど。
「でも、ちょっと羨ましいな。だってわたしも”青いドアの家”にまた行ってみたかったから」
燐は衒いの無い言葉を口にする。
自分の家のパン屋にまで”青いドアの家”と名付けるぐらいだからそれは燐の本心からの思いだった。
「わたしも燐と一緒に来れたらって思ってる。でも、燐が無事で良かったよ。そっちでは変なこととかは起きていないんでしょ?」
燐の口調には切羽詰まった様なものは感じられないから大丈夫だとは思うけど。
一応、聞いてはおきたかった。
燐や大切な人たちが酷い目にあっているのに、自分だけこっちの世界でのうのうとしているのだったら、きっと気が気じゃなくなるだろうから。
「うん、もちろん。ちょっと小雨は降ってるけど、他はいたって普通だよ。停電だってしてないし、まだ夜でもないしね。町の人達がちょっと浮かれているってだけで」
声を潜めて笑う燐に蛍もつられて苦笑いする。
町に何の異変が起こっていないことに蛍はそっと胸を撫で下ろしていた。
「じゃあ、今、燐の周りがちょっと騒がしいのってそのせいなの?」
他の人の声が近くからするから、野外とは少し違う気はするけど、その環境のせいなのかどうにも声が上手く聞き取れない。
燐の声だけが聞きたいだけなのに。
「確かに、ちょっとうるさいよね、うん。今、打ち上げ会の会場にいるんだよ。蛍ちゃんの姿が急に見えなくちゃったからてっきりこっちに来てるのかなって思ったんだけど。まさかそっちに居るとは思わなかった。大丈夫、怪我とかしてない?」
蛍は今自分の置かれている状況がとても恵まれていたことに気付いた。
声で繋がっているだけでなく、心配までしてくれる人がいる。
これ以上の幸いなどどこにあるのだろうとさえ思ってしまう。
蛍は小さくお礼を述べると、心ばかりの笑みを作って燐に言葉を返した。
「ありがとう、燐。でも大丈夫だよ。わたしは何ともないから。そういえば、”マヨヒガ”だったっけ、打ち上げ会をやっているのって」
「うん、そうだよ。マヨヒガにみんな集まってる。あ、うるさいならもうちょっと静かな所に移動しよっか」
燐はどこか人気のないところに行くようだったが、それを蛍はやんわりと遮った。
「いいよ、燐。大丈夫だから。ここでも燐の声は十分聞こえるよ」
確かに少しうるさいが耳を澄ませば問題はない。
こうして繋がっているだけで嬉しいのだから、これ以上余計な気を燐に使わせたくは無かった。
「そう? ごめんね蛍ちゃん。もう少ししたら会もお開きになると思うから」
電話越しに申し訳なさそうにまた謝る燐。
その声もかき消されそうな程、電話の向こうでは騒がしくしているようだった。
数十人ほどの人が宴会をしている。
そんな感じが容易に想像できた。
昔、蛍の家でもそういう事をやったことがあったし。
お酒を飲めるものは良いが、そうではない人は大して面白くないだろうことも。
(それにしても……”マヨヒガ”か)
こっちの世界もそう呼ばれていたようだったけど。
燐のいる”マヨヒガ”は本当に少し前まで”儀式”として使われていた使われなくなった旅館のことだった。
本当に忌まわしいと思える儀式を行っていたのだ。
蛍の家のすぐ近くで。
しかもそれにだってちゃんと意味があったのだから、何というか用意周到過ぎたのだ。
”分かっていた人達”、つまり三間坂家の者たちは。
そのせいであのような歪みが起きたのだとも言える。
合理性を求めすぎた故の非人道的な行為。
幸運を求めるあまり底知れぬ闇を生み出していたのは自分たち自身だったのだと。
「蛍ちゃん? わたしの声、やっぱり聞こえづらい?」
「あ、ううん、そんなことはないよ。それより燐は、今何か飲んでる?」
蛍は少し無理に話題を変えた。
何となくマヨヒガに関してのことはあまり話したくないというか、これ以上は掘り下げたくなかった。
こちらでの現実を直視してしまうことになるし。
それにもうマヨヒガでは、儀式など行われていない。
今では正式に町の旅館になっていたのだ。
”座敷童に会える旅館”として。
「あ、わたしはジュース、っていうかサイダーかな。ほら、町の合併記念の”大平口サイダー”。あの後、関係者にも配られたんだよ。まあ、試飲を兼ねてだろうけど」
燐のその口ぶりからだと、新しい商品を広めて欲しいということで配られたらしかった。
”大平口サイダー”とは、二つの町が合併した大平口町が新しい町のPRとしてわざわざ作り出したものの一つで。
同日に町の至る所で売られるようになるようになっていて、旧小平口町の唯一の名産でもあった、緑茶がふんだんに使われている、お茶風味のサイダーだった。
お茶の名産地等にはこの手のサイダーは多数あるみたいだが、大平口サイダーは従来品のものよりも味だけでなく見た目の色の深さが他製品よりも濃淡になっている、との触れ込みだった。
蛍はまだ飲んだことがなかったから良くは分からないが、PRでの発表だけだから信憑性はあまりないと言える。
実際に飲んだ燐も。
「まあ、飲めない程ではないね。目新しさにはちょこっと欠けるけど」
頼んでもいないのに燐はそのサイダーの感想を言ってくれていた。
蛍はへぇー、とスマホの前で頷く。
「もちろん蛍ちゃんの分もちゃんと貰ってあるからね。帰ってきたらすぐに渡すから」
「うん……あ、でも別に燐が飲んじゃってもいいよ」
本当に蛍はそう思っていた。
けれど燐は違っていたようで。
「だーめ。これは蛍ちゃんが頑張った分の報酬みたいなものだから。だから戻ってきたら一緒に飲もうね、わたしも自腹でもう一本ぐらいはお情けで買うつもりだし」
「くすっ、もう燐ってば」
要らないとまでは言うつもりはないけど、そこまで欲しいものではない。
式典の対価にしてはささやか過ぎるし、サイダー自体にそこまで求めるものはないから。
だけど。
「うん。分かった。じゃあ家の冷蔵庫に入れて置いてね」
蛍はそう言って受話器越しに小さく微笑んだ。
気持ちが暖かくなったのはもちろん町おこしのサイダーなんかではない。
燐との小さな約束事に心があったかくなった。
ランプが淡い光を放つように、蛍の冷えた心に”燐”というほのかな光が灯っていた。
「蛍ちゃんは、”お水”飲んでるんでしょ、どう美味しい?」
「えっ?」
思ってもないことを急に聞かれて、蛍はついスマホのスピーカーに手を当てていた。
(美味しいかってって、そんなこと聞かれても……)
燐は以前、この水をまるで”ガラスの水”と形容したことがあると言ったことがあるが、その表現は間違いではない。
それぐらい透き通っていたし、それに味だって。
蛍も以前、燐と一緒に飲んだことがあったが確かに燐の言っていたように”ガラス味”にしか思えなかった。
そのことを燐に聞かれたことであの時の味を思い返してしまったのか、蛍は別に喉が渇いていたわけではないのにごくっと喉を鳴らしていた。
悪気があって言ったわけではないのは分かるけれど……。
初めてこの、”青いドアの世界”に来たときには、燐とは違って指で舐める程度すらもしなかったから。
(やっぱり飲んだ方がいいのかな、一応、乾杯をしたわけだし)
今の大学でもこういうのはあった。
新入生の歓迎パーティーとか、サークルに所属したときなどにも。
飲酒にはまだ早い年齢だったから、お茶など飲んで丁重に断ってきたけど。
これは。
「あ、ごめんね。別に変な意味はないから無理しなくていいからね」
蛍が暫く黙っていたことに何かを察したのか、気遣いをするような燐の声がスマホから届く。
だがそれは蛍には逆効果のようで。
蛍は燐の思いとは裏腹にグラスを取ると。
「じゃあ、今からちょっと飲んでみるね」
そうスマホに言うと、恐る恐るコップを口につけた。
最初はちびちび飲もうかと思ったのだったが、結局一気に飲んでしまった。
(……なんていうか)
相変わらずの無味無臭。
しかも冷たくもないから爽快感すらもない。
美味しいとか不味いとか言う以前に、水と言う概念ですら怪しいものだった。
飲むのを止めておけばよかったかも。
そう、思っていたのだったが。
(あれ……?)
蛍は目を細かに見開く。
小さな舌の上で何かが広がっているのが分かったから。
「何か、味みたいなのが分かった、のかも……?」
まだ半信半疑と言った所だが、これまで感じることのなかった味覚のようなものをこの世界の水から感じることが出来ていた。
「本当? どんな味だった」
感情が声に宿ったみたいに燐の驚いた声が耳朶を打つ。
「うん、なんていうかまだ上手くは表現できないけど。そうだなぁ……ハチミツみたいなのを薄く溶かしたみたいな……そんな繊細な味がしたような気がしたの」
美味しかったかどうかはさておき、甘味を感じたことは蛍にとって驚くべきことだった。
この世界で味覚を得たことは一度としてなかったから。
自分だけ感覚が麻痺しているのかと思ったぐらい。
「それなら良かったね。でもさ、人によって味が変わるお水ってあるのかなぁ」
「じゃあ燐は違う味だったの?」
「うーん、そんなに覚えてはいないけど……」
燐は考え込んでいるのか、しばらく黙ると。
「たしかね、これは水! って感じの味だったと思う。普通の水の味だったなぁって」
そう言って燐はスマホに向かって苦笑いをする。
「はぁ」
それとは対照的に蛍は何とも呆れた声をあげた。
けれど、燐とようやく想いが共有できたことに少しの胸のときめきも感じてはいた。
──
──
「じゃあさ、せっかくこうして話が出来るんだし、作戦会議でもしよっか」
「うん? ”作戦会議”なの」
蛍はグラスを軽く洗って棚へと戻すと、キッチンの上のスマートフォンに聞き返した。
「だって、蛍ちゃん。まだ戻れそうにない感じなんでしょ?」
そう素直に燐に聞かれて、蛍はうっと言葉に詰まった。
”この世界に蛍ひとりで来た意味”。
燐もオオモト様もいないとなると、やはりそういう事なのかと思ってしまう。
随分前にこの世界にひとり飛ばされた時もそう思っていたが。
実際は、三人とも同じ世界に居た。
ただそれぞれが直接出会うことがなかっただけということで。
でも今回は──本当にひとりきりだったから。
「うん……多分ね、電車ももう来ないと思う」
蛍としては燐に余計な心配は掛けたくはなかったが、顔がみえないせいもあるのかもしれない。
割と素直に燐に想いを吐露してしまっていた。
不安な、胸の内の
「だったら、色々な案を出してみようよ。時間はまだ全然あるんだし」
スマホの前でちょこんと座る蛍に燐はそう提案をした。
何てことないみたいに言う燐の声色に安堵する。
気を使うような声でもなく、不安をかき立てるようなこともない。
普段通りの明るい燐のままだったから。
きっと無理をしているのだろうと思うけど、今はそれを言うことはない。
スマホから流れる燐の声だけが現実で、後は全て夢の中の出来事。
他に信じるものは何もない、そう言い切れることができるほどに。
燐とその声に縋りついていた。
「テレビも映らないんだったよね? 蛍ちゃんの話だと。電気が来てないわけではなさそうなんだろうけど……」
「何度も試したんだけどダメだったの。前とは何かやり方とか違うのかな」
もうこの世界に来てしまったことは仕方がないこととして、とりあえず試していくほかなかった。
やはりと言ってよいのかは分からないが、どれだけ待っていてもオオモト様はその姿を今でも現せてはくれない。
前に来た時には、もう自分の──蛍の家だと言っていたから。
だから居なくなったとしてもある意味では当然なのだろうけれど。
急にそう、オオモト様に言われてただけで蛍は了承すらしてはいないが。
もし本当に”青いドアの家”が蛍の家になったのだと言うのなら。
家だけではなく、この世界全てが蛍のもの……つまり”蛍の世界”になったはずである。
この平面のような世界にはこの、青いドアの家ぐらいしか主だったものはなかったのだから。
「どうしたらいいのかな、これから」
つい燐に助けを求めてしまった。
あらかた試しても何の成果が得られなかったことに、蛍はため息ともつかない声をスマートフォン越しに漏らしていた。
それで燐に相談というか、助言をしてもらうよう頼んでみたのだったが。
「そうだね……つまり、青いドアの世界に閉じ込められたってことになるのかな」
「そういうことになるんだろうね、多分」
もしかすると最初から分かっていたことだったのかも。
そう思われていても何もおかしくはないほど、こうなることが予想出来ていたのだ。
ただそれが何時なのかが分からないと言うだけで。
作戦会議と言ったからには燐には何か”策”みたいなものがあるのかもしれない。
そう思って蛍は思い切って聞いてみたのだが。
「ごめん、正直わたしも……よくわからない。蛍ちゃんが青いドアの家に行ったのにも、こうしてスマホで会話できていることもまだよく分かってないんだ」
「燐もそうなんだね」
しょげ返ったみたいに声を落とした燐に合わせるように蛍も声を潜めた。
「ごめんね、全然力になれなくて」
期待を裏切ってしまったと思ったのか、燐は苦笑いしながら蛍に謝罪の言葉をのべた。
「そ、そんなことはないよ、わたしなんか急に視界が真っ白になったと思ったらここに来ちゃったなあってだけで。ただ、燐なら何か知ってるかなって思っただけだから」
言い訳めいた言葉をつらつらと連ねてしまったが、何故かそれが燐には面白かったようで、ぷっと小さく噴き出していた。
「あ、ごめん。わたし変なこと言っちゃったよね」
「ううん、いいよ。蛍ちゃんのお陰で少し緊張が解けた気がするもん」
「それならいいんだけど……」
そう言って安堵の息を漏らす蛍。
どうせ誰もいない世界なのだし、それに元気のない燐の声を聞くのは耐えられなかったから。
「とりあえず、お互いの知ってる情報を出していこう。何かこう、条件付けみたいなのが分かるかもしれないしね」
「そうだね」
二人はほぼ同時にスマホの前で頷くと、少し前の状況を脳裏に思い浮かべた。
確か一度やんだ雨が小さく降り始めて、みんな慌てて仮設のテントや軒下に避難したときだったと思う。
「何かさ、カミナリみたいなのが落ちなかった? 会場の、すぐ近くで」
燐は紙でも持っているみたいにぐるぐると指を回しながら、蛍にたずねる。
「それ、覚えてるよ! ものすごい音がしてわたしビックリしたんだよね。頭の上に雷が落ちたかと思っちゃった」
そこまで雷を怖がらない蛍だったのに、あまりにも大きな音が響いて、反射的に隣に居た燐にしがみ付いていた。
流石の燐もに驚いてしまったようで、蛍にぎゅっと抱き付いたままだった。
多分その時だったのだと思う。
「蛍ちゃんに抱きついてたら、急に何か軽くなったっていうか……」
燐はその時の感触を思い出すように指を蠢かす。
目を閉じている間に何かのトリックが起きたみたいに蛍の気配が消えていたから。
「わたしは良く分からない内にここにいたんだよね。燐とは違って」
二人一緒に居たはずなのに、何故蛍だけが青いドアの家に行ったのか。
稲光が鳴り響き、空が一瞬白く染まったと思ったらこうなっていた。
「そういえばさ、町の人たち式典に随分来ていたよね」
ぽつりと蛍は言葉をこぼす。
合併の式典は予想よりもずっと多くの人がいた。
新しい町の町長や自治会の人、その町長になりそこねた大川の顔もあった。
穏やかな顔で式に参加していたが、実際の所はどうかは分からない。
欲望みたいなものが見え隠れしているようも見えるが、別にどうと言うこともないだろう。
蛍の元家政婦でもある、吉村も、蛍や燐と同じく
燐の母親である咲良は……いつものパン屋の作業着姿ではなく、最近では着る姿を見なくなった黒のスーツ姿で参加していた。
それはまあいいのだが、何故だか式典の最前列で立っていたのだから。
傍目から見ればいわゆるバリキャリ風に見えるのかもしれないが、燐にしてみれば入学式や授業参観日に張り切り過ぎてしまった母親そのものにしか見えなかったから。
まさに。
(顔から火が出るほど恥ずかしい……)
とはこのことだった。
明らかに浮いている、とまでは言わないにしても、他人事みたいな振る舞いをしている母親の姿に燐は何とも呆れかえってしまったわけで。
「……トモなんかもわざわざ来てくれてたしね、さっきまで一緒に居たんだよ。田辺や藤井と一緒に」
「今は、トモちゃん達と一緒じゃないの?」
「あぁ、うん……部活の練習があるからって帰っちゃった。何か三人とも目が死んでいるみたいだったよ。だいぶ疲れが溜まってるのかもね」
「それでも練習に行くんだから凄いよね。わたしだったらとっくに辞めているとおもうよ」
蛍の口調には尊敬というか、ちょっと信じられないと言った驚愕したものが含まれていた。
実際蛍の所属しているサークルは顔を出さなくとも問題の無い全然ゆるめのものだったから。
「わたしも辞めちゃうと思うなー、やっぱり」
燐も蛍と似たり寄ったりのサークルに所属してるからか、乾いた笑みを浮かべていた。
「それにしてもさ、人、凄く多かったよね。町にあんなにも人が集まるものなんだなって、わたしちょっと感心しちゃったぐらいだよ」
小平口町なんかに特に縁もゆかりもない、二人の高校の時の同級生なんかもちらほらやって来ているぐらいだったし。
合併と言う町の一大イベントだったからこその人出なのだと思う。
出店も信じられない程数多く軒を連ねていたわけだし。
普段出向いてくるはずのない議員の人なんかも来ていたから、相当なものなのだろう。
「それはわたしも。お祭りなんて何もない町だったから余計に人出が多かったのかもね」
蛍が知る限り、小平口町で普通のお祭りをやっていたという記憶はない。
代わりに、と言ってはなんだが、座敷童を祀っていたのだろう。
秘密裏な儀式として。
だがそれももう、人々の記憶から無くなったせいからなのか、新しい町は必要以上の盛り上がりをみせていた。
このまま夜通し騒ぎかねない勢いで。
「そういえば、聡さん、結局来れなかったんだよね?」
「うん、そうだね」
燐は少し声を落とす。
やはり残念な気持ちがあるのだろう、折角誘ったのに断られてしまったわけだし。
「まあ、お兄ちゃんは仕方ないよ。あっちも色々忙しいみたいだし」
「うん……」
燐に余計なことを言ってしまったと思ったが、蛍も気になっていたことだったから、あえて聞いたのだった。
結局聡はこちらには戻らずにずっと北海道で農業をしていた。
野菜を育てるのが面白くなってきたと、メールでは言っていたし、それに去年、燐は蛍と一緒に北海道まで会いに行ったときも実際にそうして野菜や牧牛なんかも育てていたのだから。
もうこちらに戻ってくる気はないように思えたのだ。
燐とは仲直り出来たみたいに見えたが、やはりそれは表面的な様で、お互いの溝は埋まらなかったようである。
ただ、話すことで割り切ることは出来たみたいで、燐はもう普通の従兄として彼と接するようになっていた。
未練は無くなった、とはまだ言い切れないところはあるようだが。
それも時間が解決すること。
そう、思っていたのだが。
聡のいる北海道から帰ってきてしばらく後、何かのきっかけで燐は笑いながらこう話していた。
自分はちょっと、”恋愛に夢を持ち過ぎていた”と。
それはどういった感情からでた言葉なのかは分からなかった。
だって、まともに恋愛をしたことがないわけだったし。
蛍は。
けれど燐の明るさはちっとも変わってはいなかったから。
燐がそう言ったのならそれで良いのだと思う。
前に比べて、”彼”のことを話すことが無くなった気もするし。
ある一定の折り合いがついたのだと思う。
それが良いかどうかは、当人たちにしか分からないとことだとしても。
「ねぇ、蛍ちゃん。もしこのまま……元の世界に戻れなかったからどうする?」
「どうって……? そうだね」
不意に先のことを聞かれて蛍は頭の中で考えをまとめてみたが、それほど結論は変わらない。
絶対に教師になりたいというわけでもないし、パン屋さんの方だって同じようなものだ。
大学やサークルは今は楽しいけど、ずっと続くものではないし。
だとするのならば。
「もし本当にそうなら、わたしはこのままでも良いかなって思ってる。諦めているわけじゃないけど、今更ジタバタしたってどうにかなるものでもないし」
「……そっか」
「うん」
燐の答えは意外にもあっさりとしたものだった。
けれど、蛍はそれでいいのだと思った。
足掻いたってどうにもならないことがある事は蛍も燐も知っていたから。
励ましとか慰めにも何の意味がないことにも。
「でもさ、学校の先生になる夢はどうするの? あ、それかパン屋さんか」
(わたしの、夢か……)
自分で言うとモヤモヤすると言うか、変に空々しく思えてしまうが、他の人、特に好きな人に言われると心がふわりとあたたかくなる。
燐はちゃんと覚えてくれていた。
その事実だけで、蛍は救われた気持ちになった。
「あ、そうだ。ねぇ、蛍ちゃん」
「なぁに、燐」
流石に聞こえてはこないが燐が何か閃いたような、小気味いい感じの音が耳朶を打つ。
そんな気がして蛍は笑みを返した。
「じゃあ、今だけわたしの先生になってみない? 蛍ちゃんに色々教えられてあげる」
「わたしが燐の、せんせい?」
確かに、そういうのもありかもしれない。
そういう機会って中々ないものだし。
それに、他にやることもないから。
蛍は燐の突飛な提案に乗ってみることにした。
「うん、いいよ、何か面白そうだし。でも、教えられてあげるっていうのは、流石にちょっと変な感じするかも」
「あははっ、確かにね。じゃあ教えてください、先生」
燐の楽しそうな声がスマホから流れてくる。
燐はいつだってそうだ、わたしが楽しめるようにしてくれている。
教師になる目標だってそうだ。
燐がそう言ってくれたから目指しているのであって、自分では考えもしないものだったから。
(わたしにとって先生は、燐、なのかもしれないね)
真っ直ぐすぎるところもあるけれど、いつでも真剣に向き合ってくれる。
迷った時は背中を押してくれるし、本当に困った時は誰よりも頼れる味方になってくれるから。
燐の方がよっぽど先生に向いている、蛍はそう思っていた。
「やっぱりちょっと不満?」
「ううん、別に不満はないよ。ただ、ちょっと……」
「ちょっと、何?」
燐は少し声を潜めて蛍に訊ねる。
蛍はそれに軽く愛想笑いを浮かべた。
「お互いに顔が見えてたほうが良くないかなって。ほら、最近じゃ
何かもっともらしい事を言っている。
それは自分でも分かっていた。
けれど実際の所は。
(……燐の顔が、見たい)
声だけで”燐”という像を思い描くことは結構容易に出来るけど、やっぱりちゃんとした”今の燐”が見たかった。
もうこうして話せることも最期かもしれないし。
あの爽やかな朝の太陽みたいな笑顔を瞼に焼き付けておきたい。
これは蛍のちょっとした我がままからの提案だった。
恐らく最初で最後の、ささやかなわがまま……その願望が蛍の可憐な唇から燐に向けてそう言わせていた。
「まぁ……そういうのはあるよね。顔が見えてないと相手がどういう気持ちで聞いているのかって分からないし」
燐はそう言うと、何か別の思いでもあるのかしばらく押し黙ってしまった。
そのほんの少しの時間が妙に長く感じてしまい、蛍は無意識にスマホをぎゅっと握りしめていた。
スピーカーモードにすればわざわざ手に持たなくともお互いに通話できるのだが、あえてそれはせずに、蛍は耳をスマホに密着させて燐と会話している。
それは声だけでなく、空間そのものを聞き洩らさんとするみたいに。
とても健気に見えた。
「そうしてもいいけど……あ、でも……」
急に燐が喋りだしたので、蛍は一瞬びくっと身構える。
スマホでこうして燐と会話するのは好きだが、話し出す前の前兆運動が見えない事には少し不満があった。
急に話されるとわたわたと慌ててしてしまうから。
それが蛍には少しのコンプレックスになっていた。
(あううっ、こんなのでわたしが教師なんか務まるわけないなぁ……これならまだパン屋さんの方が脈がありそうなのかも)
燐にああいっておきながら将来の事に頭を悩ませている。
そんな自分を少し可笑しく思いながら蛍は、燐の次の言葉を待った。
「映像のあるライブ通話だと、そんなに充電が持たないかもしれないなって思って」
「あっ」
燐の言葉が腑に落ちたように、蛍は小さく叫んだ。
確かにそうだ。
声だけでなく映像までも通してしまったら確かにより多くの電力をくってしまうだろうことだろう。
この世界にはスマホ用の充電器なんて気の利いたものがあるとは流石に思えないし。
蛍はすっかり失念していたと、自分を少し恥じた。
「そ、そうだよね。だったら今の声だけでも十分だよね」
そう、この世界にスマホがあり、それで燐と通話出来る事自体がある種の奇跡でもあったから。
これ以上はもう何も望むまいと、蛍はそう心に固く誓ったのだったが……。
「そうだ、蛍ちゃん。そっちに”鏡”ってあるかなぁ? 大きな姿見じゃなくて小さな丸い縁みたいな手鏡みたいなの」
「えっ、鏡!?」
燐に変な事を聞かれて、蛍はきょとんとなる。
かがみ?
鏡とは……いったい?
燐の言葉の意味がすぐには分からず、蛍は首をかしげる。
何故、鏡の所在なんか今、聞きたがるのだろうと。
とりあえず、燐に言われたように部屋の中を見渡してみる……が、当然それっぽいものは見当たらない。
もしかしたら、どこかの棚の中に入っているのかもしれないが。
「燐、鏡で何をするつもりなの?」
蛍はまだ見つける前だったが、燐にその真意の程を聞いておきたかった。
「あ、うん、えっとさ……その鏡があればお互いの顔が見えるんじゃないかなって」
「えっ、どうして?」
当然の疑問を燐にぶつける。
燐はちょっと言い辛そうにしながらも、その事を説明してくれた。
蛍はそれを聞いている間、口をぽかんと開けたままになっていた。
「前にさ、変な鏡を廃墟で見つけたでしょ? 実はあれをいま持っているの。だからもうひとつあれば蛍ちゃんとやり取りが出来るんじゃないかなって」
もう一つある……鏡??
ますます訳が分からなくなった。
その鏡がこっちにもあることすら初耳なのに、それで相手とやり取り出来るだなんて。
燐は一体何を知っているのだろう。
ともかく蛍は、前にこの世界に来たことを懸命に脳裏に思い起こしていた。
あの時はちゃんとオオモト様も居て、現れた列車には燐も乗り合わせていて……。
(そしてその後、停車した駅では廃墟になった町が広がってて……)
そこでやっとわかった。
燐が何のことを言って、どういうつもりで聞いているのかを。
蛍は勢い込んで燐へと聞き返した。
「確か、”浄玻璃の鏡”だったっけ? 燐が言っているのって。あれってもう一つあるの?」
「あ、そう、それの事。多分、青いドアの家にもあるんじゃないかなって思って蛍ちゃんに聞いてみたの」
そういうことか。
蛍はやっと燐の言葉を理解することができた。
あの時は、歪な塔の中でこちらと向こうを繋ぐ”窓”になっていたから、今回もそういう事ではないかとの思いで言ってきたのだろう、燐は。
でも蛍にはまだ分からないことがある。
「でも、燐、何か根拠でもあるの?」
「根拠っていうかねぇ……う~ん、わたしの直感かなぁ。何となくだけどこの鏡は二つで一つなんじゃないかなって」
「同じものが一対あるってこと?」
「うん」
疑問に対して素直な返事を返す燐。
それを聞いて蛍はふーん、と呟いた。
(燐の、直感かぁ……)
それを否定するつもりはないが、この世界ではこちらの現実は役に立たないのは事実だったから。
蛍は燐の直感を信じて見ることにした。
「分かった。じゃあちょっと探してみる……あ、燐」
「ん? 何、蛍ちゃん」
「電話、切らないでおいていてね。また繋がるかどうか分からないし」
切羽詰まったような蛍の物言いに燐はくすっと笑みをこぼすと。
「もちろんだよ。ずっとこのままにしておく」
少し語気を強めてそう燐は言ってくれた。
「ありがと」
蛍はスマホに短くお礼を言うと、青いドアの家の中を探し始めた。
どこから探したらよいかは分からないが、とりあえずリビングの棚から開け始める。
それは蛍の家の片付けなんかよりもよほどテキパキとした動きだった。
……
……
……
まだ自分の家かどうか分からない部屋の中を引っ掻き回すのはちょっと気の引ける作業だったが、そんなことにこだわっている暇なんてなかった。
こうしている間にもスマホの電池はなくなっていくわけだし、一分一秒を争うほどの事態だったから。
蛍はそれこそ物を壊す勢いで調べ始めていた。
普段の蛍では見ないほどの焦りぶりに、もしこの場に燐がいたのならきっと随分と驚いただだろうと思う。
全身に汗をかくぐらいに動いていたから。
「あっ!」
それは意外にもあっさりと見つかった。
ただ、無造作に棚の中にそれは入っていたのだ。
もっといっぱい家の中を調べないといけないだろうと思った蛍は、すっかり拍子抜けしてしまった。
紫のつるんとした布にくるまれてある小さな円形のものに蛍は一目でそれだと気づいた。
「これがきっと鏡だよね。でも、これは……!?」
何だろう。
写真、だろうか?
取り上げた手鏡のその下に数枚の紙のようなものが置いてあり、それぞれに画像が刻まれていた。
「蛍ちゃんどうかしたの、やっぱり見つからない?」
「あ、えっと……」
燐に言うべきなのだろうか、蛍は少し迷いを見せたが。
「もうちょっとだけ待ってて」
蛍は手にしていたスマホを棚の上にそっと置くと、その数枚の写真のようなものをまざまざと眺めた。
周りに四角い縁取りがあるところから写真だと言う事が分かる。
それもモノクロの写真が数枚、同じように無造作に重ねられていた。
ただ、その写真はカメラを少し齧った程度の蛍でも分かるぐらいにピントがずれていて、どれも”ピンボケ”の状態だった。
何処をどういう風に撮ったのかは分からないし、その意図も不明だったが、たった一枚だけが、鮮明に像を作り出していた。
ただ、それは風景と言うよりも、ある文字を撮りたかったみたいで。
旅行に行った記念なんかでよく撮られる類の写真だった。
(これって、駅の写真……? なんで、こんなものが)
蛍はその写真を手に取ってみる。
どこの駅だろうか、ホームだけを切り取った写真であり、他の列車などは映り込んでいない。
たったそれだけの写真だけが、モノクロの世界で鮮明に形を作っていた。
蛍は眉をひそめる。
一目見た時から感じていた事があったから。
何となくだが、見覚えのある駅の気がしてならない。
特徴となるものが映っていないので、何処とははっきりとは言えないが。
この写真からは懐かしさを覚えてしまう。
それは白黒のせいなのかもしれないけど。
けれどそれは今、問題ではなかったから。
「えと、燐、あったよ。多分これだと思う」
蛍は包みを開いて中の鏡があることを確認すると、スマホの前で待っているであろう燐に報告をした。
写真のことはこの際どうでもよかった。
そのことを考えたってどうせ意味などないはずだし。
変な事をいって燐を困惑させたくなかったから。
一緒に見つけた写真の件は話さずに鏡を見つけたことだけを燐に言った。
「そう、良かった。傷とかは付いてない?」
「えっと、大丈夫だと思う。それで燐、これからどうすればいいのかな。今のところ自分の顔しか映してないけど」
いくら覗き込んでみても鏡が映すものは蛍の顔のみ。
向こうの世界が垣間見えるとか、この世で一番美しい人の顔が浮かび上がるなどと言った、お伽話的な要素などはない。
周りに綺麗な装飾が施されているだけで、それ以外は至って現実的で模範的な手鏡であった。
「後はそうだなぁ、多分想いを込めて擦ってみるとか、話しかけて見るとか、かな? あ、でもちょっと待っててわたしも移動するから」
「あ、うん……」
暫くの間、燐の声の代わりに動かしたりするような雑音しかスマホからは流れなかった。
「お待たせ、蛍ちゃん」
「大丈夫だよ。それよりも燐はどこかへ行くの?」
「行くっていうか、まだ宴会は終わりそうにないから、外に出ようと思って」
「外……」
燐が何気なく言った言葉に蛍は思い当たるものがあった。
「じゃあ燐、
郷土資料館として使う為の準備は大体そろっているけど、また手続き上は蛍の家なのだから。
だから燐が入っても何も問題は無い。
「あ、そうだね! 蛍ちゃん冴えてるなぁ。じゃあ遠慮なく使わせてもらうね」
「うん。燐なら問題ないから勝手に入って」
マヨヒガから蛍の家までは目と鼻の先だから、どこか静かな場所をわざわざ探すまでもない。
今は街中がお祭り騒ぎだし、人出もかなり多いから、田舎の道が珍しく渋滞するほどだったから。
燐の家である”青いドアのパン屋さん”も合併記念の限定パンを売っているせいか、外にまで行列が出来るほとだった。
どこでもお祭りムードの中、蛍の家だけが静かでひっそりとしていた。
坂を登った先にあるせいか人気もつかず、深い森に佇む古城のように静まり返っている。
家の外観がやけに大きいせいもあって、要塞というかまるで監獄のようだった。
流石にそんな事は蛍には言わないけど。
静かに話をしたい今の状況にはこの蛍の家というのは、まさにうってつけだった。
「じゃあ、お邪魔します~……って、やっぱり中は暗いね」
「電気、勝手に点けちゃっていいよ。まだ止められていないはずだから」
「うん」
燐は慣れたような手つきで蛍の家の玄関のスイッチを入れた。
暗い玄関にぱっと明かりが灯る。
初夏とはいえまだ外は雨が降っていたから、夜のように暗い家にようやく明るい光が届いた。
「何かさ、すごく不思議だよね。燐がわたしの家にいて、わたしは青いドアの家にいるんだもんね」
「確かに何か変な気持ちになるね。お互いが同じ家に行けばいいだけのことなのに」
「それが出来ないからこんなことになるんだね。ふふっ、変なの」
二人は顔を見合わせる……ことが出来なかったが、同じタイミングで微笑んだ。
変な事が起こるのにも大分慣れてきた気もしたが、今回のは殊更変なことだった。
互いの存在を認識し合いながらそれぞれが別の場所にいる。
青い空みたいに絶対に手が届かない場所なのに、何故だかとても近くに存在を感じていた。
遠いようで近い。
近いようでずっと離れている。
そんなどうすることもできない距離感を、燐も蛍も感じていた。
「さっき燐が言ってたけど、そんなお伽話みたいな方法で本当に見えるようになるの? にわかには信じられないけど」
「でも、物は試しっていうじゃない。とにかくやってみよう。それに”願うことは無意味じゃない”、そうでしょ」
それもオオモト様が言っていたことだ。
あの人の言葉はあの世界の一つのルールのようになっていた。
自由だけど、何もできないあの……青と白の世界での唯一の決め事として、今でも少女二人の心に残っているようであった。
「分かった。じゃあ燐の言うようにやってみるよ」
蛍はテーブルに布を広げて鏡の姿を露わにすると、その前で目を閉じた。
「じゃあ、わたしも」
流石に玄関前でそんなことをするのは変だと思ったので、燐は靴をいそいそと脱いで、すぐ横の階段をトントンと上がる。
その先に辿り着いた部屋──に入る前にいちおうノックした。
もちろん返事は無い。
ゆっくりとドアを開ける。
そこにはもぬけになった部屋があるだけで、古ぼけた机とベッドが横たわっていた。
燐は椅子のない机の上に鏡をそっと置いた。
この鏡は最初から持っていたものではなかった。
大きな落雷があった後、蛍の姿がなくなり辺りを探し回っていた時に、スカートのポケットに重さを感じて確かめたら、スマホではなくこの鏡が入っていたのだ。
これが偶然によるものなのかは分からないが、そのおかげで蛍に携帯で連絡をとるという、もっとも簡単で確実な方法に気付くことが出来たのだった。
燐のスマホはスカートの反対側のポケットに入っていたから。
これは必然に限りなく近い偶然なんだろうと思う。
そう思わないと色々と壊れてしまいそうになる。
異変に近い出来事だったし。
実際に異変は起きていた。
蛍が青いドアの世界に飛ばされていると言う不思議な現象が。
でも何故今回は、自分が”向こうの世界”に呼ばれなかったのかはまだ分からない。
今、分かっていることと言えば……。
(蛍ちゃんをちゃんと帰れるようにしてあげないと!)
この鏡にはきっとそういう役割がある。
そう燐は睨んでいた。
そうでなくてはこれがいま手元にある意味が分からない。
蛍も見つけたみたいだし、きっと”窓”の役割を果たすのだろうと思った。
二年前の時だって、鏡のお陰で戻ることができたわけだし、きっとそうなんだと。
燐はそう信じきっていた。
「ふぅ……」
燐は心を落ち着かせるように息を吐ききると、そっと瞼を閉じる。
きっと蛍も今同じことをしている。
そう信じて両手をぎゅっと握りしめた。
(蛍ちゃん……蛍ちゃん)
燐は心の中で名前を呼んだ。
(燐……! 燐……!!)
誰かが自分を呼んでいるような、そんな声が螺旋のように頭の中に響きまわる。
誰なんだろう。
呼びかけてくるのは。
声のする闇に向かって手を伸ばした。
暗闇の向こうからも一筋の白い手のようなものが伸ばされる。
お互いが絡みつき、結び合い、そして完全に一つの線になったと思った瞬間。
──割かれた世界が、一つになった気がした。
……
……
……
「燐、燐っ!」
声がした。
それは幻聴などではなく鏡の横に置いた、いつものスマホからだ。
もうちょっとで上手く行きそうだったと思ったのに。
少し憂鬱そうに燐はスマホに返事を返そうとした。
だが、何気なく覗いた丸い鏡のその鏡面を見て驚愕した。
少し前まで普通の鏡だったそれに、少女の、ここにはいない蛍の顔が映り込んでいたからだった。
「燐っ、わたしのことが見える!? わたしからは燐の姿がはっきり見えるよ!」
いつになく興奮したように喋る蛍。
その姿も鏡にはばっちり映っていた。
けれど燐はまだ口を開けたまま、呆然とはしゃぐ蛍の姿を鏡越しに眺めていた。
まるで本当の鏡の中の出来事のように。
「……燐? どうかしたの? ぼーっとしちゃって」
そう言って蛍は鏡に指を伸ばす。
その指紋までもはっきりと鏡に映ってしまって、燐はつい噴き出してしまった。
「あ、燐が笑った。ねぇ、燐、声も聞かせて。まだちゃんと燐と繋がっているか自覚が湧かないから」
甘えたようにねだる蛍に、燐は困り顔で口を開く。
見た目だけじゃない声でも繋がり合いたかったから。
燐はなるべく可愛い声を作って返事をした。
「ちゃんと繋がってるよ、蛍ちゃん」
蛍の鏡に映っている燐が笑っていた。
「それなら、良かった。本当に」
燐の覗き込む鏡には少し困った顔の蛍が笑顔で映っていた。
ようやく繋がり合えたと思った。
”向こう”と”こちら”。
世界を隔てているものを燐と蛍は超えることができていた。
デジタルと、オカルト的なもの。
その両方で。
少女たちはその存在を輪郭ごと認識し合うことが出来た。
本当に奇妙な
繋がり合うことができたのだった。
「それにしても、燐……」
「な、何、蛍ちゃん? わたしの顔に何かついてる?」
鏡に映っていた蛍の瞳が急に大きくなる。
瞳の奥底まで見えそうになるほど、蛍にまざまざと見つめられている。
そう思った燐は、急な恥ずかしさに思わず手で顔を隠してしまった。
「うん。ついてるっていうか」
蛍は嬉しそうに続ける。
「燐もちゃんとお化粧してるんだねって。あんまりよく見てなかったから、すごく可愛いっていうか綺麗なったんだなって思って」
燐の顔がますます赤くなる。
蛍に限ってお世辞など言わないことは分かっているから、燐は恥ずかしさを誤魔化すように両手をぶんぶんと振り回しながら、今度は燐が蛍の顔を覗き見ていた。
「そういう蛍ちゃんだって、バッチリメイクしてるじゃない! まあ、いつもよりも綺麗になってるとは思うよ、すごく……」
「そう? わたしそんなにお化粧したつもりはないけど……」
「わたしだってそうだよっ」
恍けたように言う蛍に、燐も張り合う様に声を出す。
「じゃあ二人とも綺麗になったってこと、だね」
鏡の前の蛍は名案とばかりに手を叩いていた。
確かに、二人ともとても綺麗になっていた。
それは少女から大人の女性に変わる過程で生まれた限定的な美、などではなく。
新しい環境や人との出会い。
何より燐も蛍も、お互いが充実していたから。
その健全さが、美となって表れていたに過ぎない。
いわば、当然のうつくしさと言えた。
本人たちに自覚が無いのが欠点と言うか、勿体ないところなのだが。
「う~ん、そう……事なのかな。まあ、ちょっとでも
自分で言って照れてしまったのか、燐の視線は上に向けられていた。
「ふふっ、燐でもそういうことを言っちゃうようになったんだね。やっぱり都会に染まるようになってきたってことかなぁ?」
「そういうのじゃないんだってばぁぁ」
「はいはい」
「全くもう……蛍ちゃんだって初めは渋々だったのに、急にノリノリになるんだもんね。コスプレみたいで嫌だって言ってたじゃない」
燐は呆れたようなため息をつく。
確かに蛍は楽しんでいた。
それは恰好だけでなく、今の状況にも。
「確かにね、燐の言うように確かに最初の内はちょっと嫌だったけど、こっちだとそんなに気にならないよ。燐以外の人の目もないし」
「それはそうだね。幻想的なところだからそんなに違和感がないっていうか」
けど、蛍がいるのは青いドアの家のリビングだから違和感バリバリなんだけど。
燐は、蛍の後ろに映っている窓の外からの景色を見る。
いつみても、綺麗な場所だと思う。
どことなく現実離れしているからか、こういう格好をしてもそれほど気にならないのだろうと。
あの人──オオモト様もこんな感じの格好をしていたわけだし。
そういう意味ではむしろ似合っているとも言えた。
「燐だって、その衣装とっても似合っていると思うよ。まるで妖精みたい」
そう言ってはしゃぐ蛍に燐は大きな息を吐いた。
蛍が妖精と形容した燐の衣装は蛍と対になっている。
違うのは色づかいぐらいで、蛍が赤をイメージした衣装に対して燐のは青がメインの色になっていた。
最初は逆じゃないかと思っていたが、着てみると案外二人とも似合っていたから、割と不思議ではあった。
自分のイメージとは違う
(でも、やっぱり蛍ちゃん綺麗だな……見とれちゃうぐらい)
その透明な笑みはあの頃からちっとも変わっていない。
きっとどれだけ時が経っても変わらない、燐はそんな気がしていた。
「それにしてもさ、わたしたちって不思議な体験しているね」
真正面に見つめながら蛍はそう言った。
「うん、最近はそういうの無かったから、もう終わったんだって思ったんだけどね」
燐と蛍と向かい合う。
二人は鏡越しに向かい合っていた。
「やっぱり、怖い? ひとりでいるの」
ちょっと意地悪く笑いながら燐がそう聞いてくる。
蛍は軽く笑うと。
「全然、怖いのはこれじゃないから」
ふるふると首を振りながらはっきりとした口調で蛍はそう言った。
そこには強がりなどは微塵も見えなかったから、燐は少し安心した。
もし蛍が泣き叫ぶようなことになれば、きっと身を切る思いで声を荒げてしまったと思うし。
とても大事な存在だから。
大事でとても壊れやすい。
そうしてしまったのは自分が原因だと思っているから。
もし蛍の身に何かあれば全てを投げ出す覚悟はある。
今の燐はそうだったから。
「わたしはね、燐。あなたが居なくなってしまうことの方がよっぽど怖いよ、燐が目の前から居なくなってしまう方が怖くてたまらないの」
「蛍ちゃん……」
同じ想い。
燐も蛍と同じ思いだったから。
その想いを告白した。
「わたしも、蛍ちゃんがいなくなるほうが怖い。だからお願い、ちゃんとこっちに戻ってきて!」
燐としては弱さを見せるつもりはなかったが、蛍の言葉に触発されたように思いを口にしていた。
背負い込みすぎるのは自分の悪い癖だと自覚はしているが、蛍に対してはその全てを背負ってもちっとも痛くはない。
むしろ嬉しいぐらいだったから。
「うん。絶対に燐の所に戻ってくるよ」
「本当? 絶対だよっ」
「うん」
鏡の前で二人は笑った。
約束はした。
けれど、それが叶えられるものなのかは分からない。
思いや願いならずっとしているけど。
それだけで何とかなるなんてことは思っていないから。
「わたしたちってやっぱり両思いなんだね」
「どうして?」
「だってこんなに離れているのに、燐のことをすごく近くに感じられるもん」
そう言って蛍はつっと指を伸ばして鏡にちょこんと触れた。
「わたしもだよ。蛍ちゃんのこといつもよりもずっと近くに思えてるの」
燐も同じように手鏡に指を伸ばす。
そこには冷たく固い鏡面しかない筈だったが。
「あっ!」
「蛍ちゃんも感じた? わたしも、何か……暖かかった」
「うん、不思議な温もりがあったよね。届かないはずなのに」
鏡越しに触れ合った指先が熱を持っていたのは多分、気のせいなんかじゃない。
確かに互いの体温を、暖かみを感じた。
指先が触れ合った瞬間、ふんわりとしたほのかな温もりが体全体を包み込んでいく。
そんな気になったから。
「こーゆーのを相思相愛っていうのかもね」
燐は鏡の中で自分の指先をじっと見つめている蛍に微笑みかけた。
「そうだと、いいね」
蛍は鏡の中でこちらを見て微笑んでいる燐を見つめながら小さく笑った。
(でももし、本当に想いがこのままでも伝わるのなら)
蛍は顔だけでなく、その燐の小さな唇も見つめていた。
指だけでも気持ちが伝わる気がしたから、もし鏡越しに唇どうしが触れ合ったらどうなるのだろうと、少し変わったことを想像していたのだ。
流石にその提案を口にするつもりは無いが。
(でも燐とは……)
蛍は自身の開かれた薄いピンクの唇を指で軽くなぞる。
燐には
(あの時だって、燐の方から……した、わけだし)
急な事すぎて思わず転んでしまったけれど。
もしあの時、燐のことをちゃんと受け止めていたら。
「何? 蛍ちゃん」
じっと見られていることに気付いたのか、鏡の中の燐がこちらを見ていた。
もう少し顔を近づけてくれたらなんて、そんなことはとても言えなかったから。
「えっとさ、燐」
「うん?」
「その……さっき言ってたことやってみようか? わたしが燐に教えるっていうの。その為にこうして鏡を見ながら話しをしているんだし」
蛍は気持ちを誤魔化すように、先ほどの燐とのやり取りの続きを申し出た。
変なことを言って燐に引かれてしまうよりかはこっちの方がマシだったから。
ただ、燐はついぞ忘れていたようで。
「え~、本当にやるつもりなのぉ」
と、不満の愚痴をこぼしていた。
「えっ、本当にって、燐から言いだしたことだったでしょ? だからすごくやりたいのかなって」
「うー、そういうつもりで言ったんじゃないんだけどなあー」
「じゃあ、どういうつもりで言ったの」
「むー」
蛍の鋭い指摘に燐は牛のように受話器の向こう側で唸っていた。
「それじゃあ、今から特殊相対性理論の講義をします。それじゃあ燐、じゃなくて、込谷君、テキストを開いて」
蛍は何としても先生をやりたいようで、半ば強引に話を進めてきた。
「もう、テキストなんか持ってきてないよぉー。それに蛍ちゃ、三間坂先生だって、テキストもなくて説明することなんか出来るのぉ?」
蛍が教師になりきっているようなので燐もそれに合わせることにした。
「それは、うーん……まあ、かいつまんでなら、ね」
蛍はもう素に返ってしまったようで、可愛らしい舌をぺろりと出していた。
子供みたいなその様子に燐は小さく肩をすくめた。
「もう、燐はすぐ意地悪なことを言うよね。そんなんじゃ……」
蛍は呆れたため息を鏡の向こうで吐いていたのだが、その目が急に止まった。
「蛍ちゃん? わたしの後ろがどうかしたの?」
蛍の視線が燐の後ろに辺りに注がれていることに気付いて、燐は慌てて周囲を見渡す。
……何もいない。
燐の目には映らない変なものが鏡に映り込んでいるというわけではない、とは思いたいが。
「何が見えるの!?」
燐は身を固くしてスマホを握りしめる。
だが、蛍は意外とも言える事を口にした。
「燐が今いるのって、もしかしてわたしの部屋……だよね?」
たどたどしく蛍が言うので、燐はびくっとしてしまったが、本当に何でもないことだったので、はぁと深い息をついた。
なんだ、そういう事か。
確かに蛍には言っていなかった。
燐は特に意識することもなく話した。
「あっ、そうだよ。普通に開いていたからお邪魔しちゃった。でも本当に何にもないねこの部屋。まあ今の蛍ちゃんの部屋はマンションにあるんだけどね。って、あれ蛍ちゃん?」
返事が無くなったことを不信に思った燐は鏡を覗き込む。
そこには、むーと頬を膨らませている蛍の姿があった。
顔を赤くして、珍しく腕を組んでいるところを見ると……。
「もしかして蛍ちゃん、怒ってる、の?」
そんなことでと思ったが。
けれど燐にはそのように見えた。
怒ることはめったにない蛍だけに、本気で怒った時は手が付けられないほどになってしまうから。
「だって、燐、勝手に入っちゃうし……恥ずかしいもん」
蛍はぶつぶつと文句を言っている。
自分から家に入ることを勧めてくれたのに、自分の部屋に立ち入るのを不服とするなんて。
何やら理不尽な気もしたが、どうやら蛍は本気で怒っているみたいなので、燐は即座に追加の謝りを蛍に入れた。
「ごめんね、でも、何も弄っていないから」
弄るだけのものもなかったし。
引っ越した後だから何もないのは分かっているはずなんだけど、蛍はそれでも納得してくれないようで。
「燐、女の子はそういうの恥ずかしいんだよ……?」
蛍は本格的に拗ねてしまったようで、ぷいとそっぽを向いてしまった。
(……わたしだって女の子なんですけど)
燐は口から出かかった言葉を無理やり呑み込むと。
こんなことをしている場合じゃないんじゃないかなあとは思いながら、とりあえず蛍の機嫌が直るまで燐は鏡に向かってぺこぺこと謝り続けていた。
蛍の家の窓の外では遠くの山の風車が数基、ゆっくりとした動きで羽を回していた。
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★青い空のカミュDL版が3月7日まで半額セールですね────ぜひぜひお薦めです───ううっ、何かもう他に書くことがないなぁ……というわけで。
■刈内駅のこと。
刈内は”青い空のカミュ”の最初の方だけに名前だけ出てくる地名? で、電車のシーンで流れることから、多分駅名だと思います。ただそれっきりその名前は出てこないので物語上、何の重要性を持たない単語だとは思うのですが、それをちょっと掘り下げてみたいなぁって思います。一応狂信者ですし。
実際に刈内駅は存在しない駅です。でもモデルとなった駅はあるのかなと思います。小平口駅の外観のモデルとなった千頭駅みたいに。
名前だけしかないのでやはり駅名で調べてみたのですが、多分ですけど愛知県にある”刈谷駅”が”刈内”のモデルなのではないかと思っています。”刈”が付く駅はそんなになかったですし、舞台のモデルとなった静岡県に一番近いのはこの駅だけでしたしね。
で、私が面白いと思ったのはこの刈谷駅には一つエピソードというか事故がありまして、当時有名だった
その内容はと言いますと、実はまだ読んでいないので正確なことは書けないです、ごめんなさい。じゃあなぜ東海道刈谷駅の事を書いたのかと言いますと、全く別の本、”文学の中の駅”という本の中でたまたまこの作品の事が書いてあったので、これなのかぁ? と思って書いてみただけで、断定できるほどのものは持っていないのです。ただ、何となくこれが元なんじゃないのなぁって思ってます。本の内容も事故の事実と推理を交えた内容になっている……と書かれていますし。
そう言った、ちょっとセンセーショナルな背景が青い空のカミュという作品に合っている、そんな気がしてしまうのです。とても切ない話ですから。
と言うことで、長々とまだ見たことのない作品の事を取り留めなく書いてしまいましたが、そんな”青い空のカミュ”が半額セールでお買い得ですよーって話で。
何か話がループしてしまいましたが──。
あ、そういえばゆるキャン△ の連載再開しておりましたねー。めでたいですー!! 劇場版のBDも発売されますし、三期も確定しましたしねー。まだまだゆるキャン△ は終わらない!! ってことでしょうかー。
それではではではー。