We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life. 作:Towelie
「燐、どうかな? わたし、ちゃんとした先生になれそう?」
小さな鏡の中で一仕事やり終えたように溜息をついた蛍は、満足気に笑みを浮かべながら、早速燐にその”授業”の感想を聞いてきた。
同じような丸い鏡に映った燐の姿は少し困った苦笑いを浮かべていたが。
「そうだねぇ……」
そう言って燐は少し言葉を濁す。
蛍は怪訝そうに少し眉をひそめていた。
「やっぱり適正ないっぽいのかな」
蛍はやっぱりと言った感じで呟くが、それに燐は小さく首を横に振っる。
「あ、そういうことじゃなくて、さ」
「うん?」
鏡の中で蛍は不思議そうに首を傾げていた。
結局──燐は蛍の部屋に居座ったまま、家の主である蛍とずっと会話を続けていた。
少し埃っぽいベッドに腰かけながら、自分の部屋であるみたいにくつろいでいる。
ちょっと時間はかかったが、蛍本人から何とか許可を貰ったから問題はもうないだろう。
汚したりとかしなければだが。
(確か、蛍ちゃん。小学生の教師になりたいと言っていたよね?)
だとしたら今のは授業というよりも大学の講義のようだった。
小学生とは明らかにレベルの違う、難しい内容だったし。
でも。
鏡の傍に置いた蛍のスマホから燐の明るい声が返ってきた。
「悪くは無かったと思うよ、凄く聞き取りやすかったし。何より伝えたいっていう情熱みたいなのか感じられたから」
結局こういうのはやる気なんだと思ってる。
蛍ちゃんはいつも優しいからちょっと心配なところもないわけじゃないけど。
「だから蛍ちゃんには先生になる適正は十分あると思うよ、わたしの見立てではね。ただ、”青いドアの家”にいたままじゃ先生にはなれないよね、って思うだけで」
「あぁ」
そういうことか。
蛍は心底納得したように掌をポンと叩いていた。
(それはまぁ、そうだよね)
気づいていなかったわけじゃないけど。
確かに、”現実”で何かしたいと思ったら、こっちの世界にいる間ではどうすることもできない。
やれることと言えば、精々こうして燐と他愛のない話をしたり、お互いを見たりするぐらいのことで。
それは、開かない家の窓から外を眺めているのと同義であり。
つまり何の意味も持たなかった。
蛍は疲れたようなため息を一つつくと、困った顔でこちらを見ている燐に問いかけた。
「やっぱりさ、どこかに行った方がいいのかな」
「うん? どこかって」
もう、”何処か”には行っていると思うけど……?
燐が複雑そうな顔をしていることに気付くと、蛍は慌てたように少し言葉を訂正して続けた。
「あ、えっと……確かさ、前に来た時は線路の、その……あっち側に行ったじゃない? だったら今度はこっちに行ってみたら何か別のものがあるのかなって」
この世界にはコンパスのような方位を示すようなものも、”影”でさえも意味は無いから、蛍は何とか伝わらないかと一生懸命身振り手振りで燐に説明をした。
あっちこっちと子供っぽい言い回ししかできない事に恥ずかしさと、もどかしさを感じてはいたが、それでも燐は分かってくれたようで鏡の前で腕を組みながらうんうんと理解を示すように頷いていた。
「なるほどね、確かに蛍ちゃんの言うことにも一理あるよね。うまく説明はつかないけど、確かそっちの世界の列車って、”こっち”からしか走ってこなかったもんね」
燐も指で方向を指し示す。
起点となるものがないから殆ど当てつずっぽうだけど。
向こうの線路は確か、一本しかないことから来る列車は単線か、もしかしたら一方通行かもしれない、そう燐は考えていた。
それは蛍も同じようで、鏡の中では小さく頷いている姿が見えた。
”青いドアの家の前の駅”にも、そして次の駅にも駅名などは書かれたものはなかったから、そう考察していたのだった。
それでも──行ってみたい。
そう蛍は言った。
どう言った思惑から出た言葉なのかはまだ定かではないが、それでも燐はある意味では納得していた。
例え言葉が上手く伝わらなくとも、その顔を見ればよく分かるから。
蛍の抱えている焦りや、例えようのない不安が。
とても痛いほどに。
「うん。でも、ここに留まっていても何の解決にもならない気がするから」
きっぱりと蛍はそう言った。
ジタバタする気はないと言っていた蛍が自分の意思で行動しようとしていている。
戻れるか、戻れないかなんてそれこそ、そもそも議論すらする必要はないのだ。
それを決めるのは本人の意思だけ、なのだから。
(やっぱり、燐だって呆れるよね。わたしだってそう思うよ)
この世界のことは未だによく分かってないのに、違う所に行くだなんて流石に無謀すぎる。
いくら藻掻いたって、状況は好転するとは限らないのに。
誰にだってどうしようもできない事なのだから仕方ないんだろうけど、ただ燐にだけは背負い込ませたくはない。
例えこの半分でも燐に肩代わりしてもらう事だけは絶対にしたくはないから。
燐はもう色んなものを一杯背負いすぎているのだから。
だけど、何もしないままなんてことはしたくはなかった。
それこそ何も分からないままに流されてしまうわけだし。
何より。
(燐が、まだ見ていてくれるから)
限りなく遠い場所にいるけど、それでもずっと見ていてくれている。
あまりにも細くて頼りない繋がり、だけど。
それでも繋がっているから。
離れていても心は繋がっている、なんて。
そんなドラマみたいな台詞を心の底で信じてしまうぐらいに。
きっと──この世界は作り出されたもの、と言うか
その、
個人じゃなくて複数の可能性もある。
オオモト様が居なくなった時、青いドアや窓枠が消えてしまったことのように。
色々な人の想いがつくりだした世界なんだろうと。
一度無くなったのにもう一度作り出されたのには何かの理由があるんだと思う。
それが無駄足だったとしても、今なら伝えることが出来る。
自分の、最期を。
いちばん大切な人に。
「わたしも、蛍ちゃんが色々してみるってことはすごく良いことだと思う。今のわたしじゃ何もできないし」
「そんなことは無いよ。だって、今は燐と一緒だから」
蛍は遮るように言葉を作ると、にこりと透明な笑みを浮かべた。
そして、そっと鏡を手に取った。
もし、このまま手を放してしまったから簡単に割れてしまいそうな、繊細な彫刻が施された手鏡を正面に持つ。
鏡の向こうでは燐がまっすぐにこちらを見つめている。
蛍も鏡に映った燐を見つめていた。
二つの視線が不思議な鏡を通して重なり合っていた。
直に触れなくともその視線だけで通じ合っている。
そう思わせるほど傍に感じていた。
「燐がこうして鏡の外から見ていてくれている。それだけでわたしはすごく暖かい気持ちになれるの」
「わたしもそうだよ」
熱も音も感じない世界で、唯一の暖かな温もりが確かにそこにあった。
不思議な鏡も、スマートフォンも。
それぞれの役割程度の事しか果たしてはくれない。
実存はどこまでいっても実存でしかない。
それを証明しているかのように。
見えない糸だけが、今の二人を繋いでいた。
「燐がずっと見てくれるなら、どこまでだって行けると思うよ」
そう言って蛍は微笑んだ。
「じゃあ、わたしも蛍ちゃんのことずっと見守ってる。何があっても最後までずっと見ているから」
燐も笑みを返す。
そこには何の飾りもない本心からくるものだと分かったから。
「うん」
少女達は鏡越しに顔を見合わせる。
青いドアの家と、三間坂の家。
違う場所でありながら、その二つには不思議な共通点があった。
蛍と燐、それぞれの存在がそこにいる。
傍に誰も居ないのになぜだか寂しさを感じることはなかった。
「何が待ってるんだろうね、こっちの先には」
蛍は窓の外に視線を送る。
そちらも同じように線路がどこまでも伸びていた。
「前の時はさ、廃墟みたいな町があったから今度は近未来的な街があるのかもね」
燐が希望的観測の軽口をたたく。
それに蛍は苦笑いをした。
「ファンタジーな、中世的な世界なんかもいいかもね。こっちってちょっと異世界っぽく感じるところあるし」
「蛍ちゃんって、何かそーゆーの好きそうだよね。実際に読んだりしてるみたいだし」
燐も蛍も本を読むのが好きだから、自然とそういう話になってしまう。
忙しくしている時でも、本を読む時間だけは確保していたぐらいだった。
「何かね、そういう系のも読むようになったの。前は割と古典的なジャンルばっかりだったけど。最近は色んなの見たりしてるよ」
自分でも不思議そうにつぶやく蛍に、燐はぴっと鏡の前で人差し指を立ててこう言った。
「やっぱりあれじゃない? 先生になるんだから色んな知識が必要ってことなんじゃないの」
さも当然とばかりに言う燐に蛍は困ったように頬に手を当てていた。
「まあ、そういう所もあるのかもね。そういう燐はどうなの、最近は何読んでる?」
「わたしも色んな本、読んだりしてるよ。あ、でも最近は電子書籍を使うことが多くなったねぇ、やっぱり手軽だし。それに読むだけじゃなくてね……」
「他に何かあるの?」
少し含みのある言い方を燐がしたので、蛍は細い指を頬に当ててちょこんと首を傾げた。
「ほかって言うか……これは、まだ内緒かな。そういう段階でもないしね」
「わたしにも言えないこと?」
少し怪訝そうに眉を寄せる蛍に、燐は困り顔で答える。
「まあ、蛍ちゃんにはその内話すよ。あ、そういえばさぁ、今朝の”運転”。あれって、ちょぉっと危なかったよね。わたし、空でも飛んじゃうんじゃないかってずっとヒヤヒヤしてたもん」
「え、いきなりそっちの話!?」
急に話が今朝の事に変わった事に目を丸くする蛍。
そんな蛍とは対照的に、燐はにこにこしながらその続きを話していた。
「だって凄くビックリだったよ。変な絶叫マシンなんかよりもずっとスリリングだったもんね。蛍ちゃんの運転」
そう言って燐は楽しそうに笑った。
「それは……まあ、まだ仮免中だから……」
ぼおっと顔を赤くした蛍がもじもじと呟く。
燐が笑ってくれるのは嬉しいけどそれが自分の恥ずかしいところだとやっぱり動揺してしまうから。
もっと別の方法で燐を笑顔に出来たらいいのだろうけれど。
「それにしたって、あれはさぁ──」
二人の会話は今朝、町まで向かう途中で練習がてら蛍が車を運転したときのちょっとした騒動の方へと話題を移していった。
……
……
……
「あのさ、蛍ちゃん。今、こんなこと聞くのってちょっとおかしいのかもしれないけど……」
それまで快活に喋っていた燐が急に言い淀む。
蛍は不思議に思いながらも、特に気にすることなく燐に続きを促した。
「遠慮なんかしてくて良いよ。燐、何でも言って」
それは本当のこと。
この不安定な状況を、それこそ奇妙なスマホから流れてくる燐の声だけが繋いでくれている。
むこうとこちらの唯一の接点が燐、なのだから。
少しでも長く話していたいのはそれだけではないにしても。
何でもいいから燐と話をしていたかった。
結局まだ、青いドアの家からも出れていないのは、多分そういうことで。
燐と会話を続けているとやっぱり落ち着くし、楽しい気持ちもなってしまう。
今いるところが現実かどうかなんて気にならないほどに。
蛍のその言葉に安堵したのか燐は小さく息を吐いてからその旨を話し出した。
「ん、じゃあさ……約束ってわけじゃないけど、今夜には帰ってこられそう? わたし、その時蛍ちゃんに言っておきたいなってことがあるんだけど」
「えっ、今夜?」
今日の夜に何かあったっけ。
燐と大事な約束なんかしてたかな?
うーんと蛍は首を捻る。
何故かは知らないが、白い靄がかかったみたいに頭がうまく回らない。
燐がわざわざ口にするぐらいだから何かとても大事なことのはずなのに。
何度思案を重ねてみても、やはりすぐに思い当たるものがなかった蛍は、ちょっと恥ずかしくは思ったが直接燐に聞いてみることにした。
その方が手っ取り早いし、それに話すだけの口実も出来るわけだし、と割とメリット方が大きかったから。
蛍はわりと楽観的に考えて、鏡の前でそわそわと覗き込んでいる燐に話しかけた。
「あの……燐、今夜って何だったっけ? 何かあったんだっけ」
いつもの軽い調子で蛍はスマホ越しに燐に話しかけた。
けれど。
「あれ?」
そのスマホからは何の声も返ってはこなかった。
静かに沈黙している。
全身が凍り付いたような底知れない焦燥感を感じ取った蛍は、スマホに向かって叫んでいた。
「どうかしたの? ねぇ……燐!!」
それっきり、だった。
燐の声は途絶えてしまった、まだ話の途中だったのに。
何の前触れさえもなく。
急に途絶えてしまったのはそれだけではなく。
「あっ、鏡の方も……!」
鏡面に映っていた、にこやかな燐の姿も失われていた。
普通の鏡へと戻ってしまった
鏡をいくら覗き込んでみても映っているのは自分と、青いドアの家のリビングの風景だけ。
全て無くなってしまった。
蛍はがっくりと肩を落とす。
喪失感というか、虚しさしかない。
そして──もう、終わったんだと思った。
概念的なものだけでなく、実存的なものでも。
スマホの方だって充電が切れてしまったという単純な理由だけではない。
何故なら、鏡の方もぷっつりと向こうの世界を映し出さなくなっていたから。
蛍か燐、もしくはその両方か。
何かの問題が生じたと考えられる。
(それか……時間?)
確か、随分前のことになるが、この青いドアの家の世界には”長く留まることができない”と言われたことがあった。
自分は大丈夫でも、燐の方がそうではなかったのかも。
声や画像の様な実態を持たないようなものでも、その法則には抗えなかったと考えられる。
その資格がない、と。
何にせよ。
向こうと……燐との接点が切れてしまったことは紛れもない事実だった。
蛍はまだその事を直視できないのか、しばらくの間スマホを握りしめながら茫然としていたが、急にある事に思い当たった。
「鏡はダメでも、携帯だけがまだ動いてくれれば……!」
四の五の言っても始まらないのは最初から分かっていた。
どうせ世界に取り残されてしまうのなら。
だったら、せめて燐の声だけでも、と。
もう一度だけ聞きたい、いつもの元気な声を。
たった一言だけでいいから。
蛍は衝動に駆られたように辺りを見渡すと、鏡が見つかった戸棚や他の引き出しなど、家中をまたひっかきまわし始めた。
(充電器か、もしくは別のものでも……)
接点になるようなものが他にある気がする。
実存的なものが。
無駄だと言う事は十分わかっているのはずなのに、それを止められない自分を何とも滑稽に感じる。
人間の心理というかこれは多分、本能。
本能からくるものなんだと思う。
理屈なんかなくて。
少しでも繋がりたいという単純な思いが、手や足を無意味に動かしているのだと。
そう思った。
例えそれがただの思い込みからくるものであったとしても。
止めたいとも思わなかった。
「やっぱり、ない……!」
当然だった。
さっき見た所をもう一度探したって何かが急に見つかるはずもなく。
これ以上のない現実を突きつけられて、蛍は万策尽きたように今度こそ立ち尽くしてしまう。
でも。
「あっ──!?」
蛍は最後に残った手鏡のことを穴が開くほどに凝視していた。
──そうだ。
確か、この鏡が割れて元の世界へ戻ってこれたことがあった。
その時の出来事をちゃんと全部は覚えてはいないが。
「確か、”ハリちゃん”とか、言ってたよね?」
蛍は鏡を覗き込みながらその鏡面に軽く触れた。
”ハリちゃん”とは燐が名付けたものだったが、さっきまでその燐を写していた鏡からは当然何の返事も返ってこない。
冷たいとも暖かいとも感じない、つるんとした鏡面が移すのは蛍の細い指と繊細な指紋だけだった。
「……っ!」
蛍は唇を引き締めると踵を返すように振り返った。
小さな鏡を手にしながらリビングの大きな窓のサッシをカラカラと開ける。
前の家と同じような小さな濡れ縁まで出ると、そのすぐ真下の線路に目を付けた。
(きっと、これなんだ……きっと)
蛍は、ただ一点を見ていた。
目標である線路、の周りに散らばる小さな固い砂利に。
──この鏡を割ってしまえばいい。
そう蛍は結論付けた。
とても綺麗な鏡だから勿体なくはあったけど、スマホが反応しなくなった今もうこれしか残っていなかったから。
「──っ!!!」
蛍は渾身の力でもって両腕を振り下ろす。
後は簡単に鏡を放り投げるだけ。
それだけで小さな鏡は宙を舞い、地面に当たって粉々に砕け散り、キラキラとした破片を線路上に飛び散らばされていく。
そのはずだった。
「うっ、うっ……」
青と白の世界は綺麗なままで、ただ沈黙を横たわらせていた。
線路に破片が散らばることも衝撃音もなく、その鏡はまだ蛍の手のひらの中にあった。
その代わりという訳ではないが、蛍の瞳からこぼれた涙がぽたぽたと地面に小さな染みを作っている。
黒いヴェールに包み込まれたみたいに、これまで隠しておいた暗闇が胸の中に溢れ出してきて、蛍は自分の頬をごしごしと拭った。
自分でも何が起きたのか良く分かっていない。
まるで子供のように赤くなった目を蛍は何度も手の甲で擦り上げた。
堰を切った流れは止められないみたいに、ぽろぽろと後から涙がこぼれてくる。
とても息苦しくなって、声が形を作ってはくれない。
嗚咽ばかりが込み上げてくる。
「う、ごめん、ごめん……ね……」
手鏡が、蛍を映していた。
誰に対して謝っているか分からないが、濡れ縁にぺたりと座り込んで泣きじゃくる蛍の姿を。
もう──気づいてしまったから。
自分の、本当の気持ちに。
本当に欲しかったもの。
それがまた失われてしまった。
「燐……」
蛍はぽつりと名前を呼んだ。
もう絶対に届くことない濁りの混ざった声で。
友達で親友で、そして……。
引っ搔き傷だらけなのにそれでも輝きを失うことのなく、前よりもずっと綺麗になった、貴方の名前を。
傷はもう元には戻らない。
それでも燐は戻ってきてくれた。
ボロボロで傷だらけなのに、それでも自分よりも他人のことを気遣っていつも笑ってくれている。
器用なのに、ちょっと不器用で、でもしっかりとしている。
頭も良いし運動だって、なんだって出来る。
自分とは大違いな、でもかけがえのない、ともだち。
ううん、友達以上の存在。
自分の中では比べるものもないぐらいに大切な人なのだと。
それがやっと分かったのに。
もう二度と失いたくはない、ずっと大事にしたいと思っていた。
そのはずだった。
なのにこうしてまた目の前から消えてしまうだなんて。
(燐……わたし、痛いよ……)
胸の奥が、心が張り裂けてしまいそうにじくじくと鼓動に合わせて脈動するたびに痛みを発している。
きっと、知らなければこんな痛みや苦しみを持つことなんかはなかった。
だけどもう知ってしまった。
優しくていつも明るく微笑んでくれるその姿を。
何も持っていなかった自分が唯一守りたいと思ったものだから。
心から尊敬していから、燐のことを。
(でも、これは?)
この胸の苦しみはそれとは少し違う気がする。
切なくて、甘い痛みを伴うくるしみ。
これが恋、とかそう言ったものなんだろうか?
実感のようなものは何一つ湧かないけど。
やっぱり、よく分からない。
さっきからずっと頭がぐるぐると混乱している。
様々な思いの奔流が去来して、混ぜこぜの波形を描いていた。
「向こうに、帰りたい……」
終わらない夜が訪れた日、燐は何度かその言葉を口にしていた。
蛍はその気持ちがいまいちピンとは来なかったが……ようやくそれが呑み込めた。
帰りたくて、帰りたくて、たまらなくなっている。
ここには居ないのだから──燐は。
あの時の悲しみが蘇ってきたように、蛍は固く冷たいスマホをぎゅっと握った。
同じだと思った。
あの時、落ちてきた紙飛行機と。
不条理だったから。
世界が。
だから紙飛行機を握りつぶしてしまった。
二度と元には戻らないほどに。
「燐……燐……!」
もうどうにもならないことを認めてしまったように、蛍は何度も燐の名を呼んだ。
何度も言い続ければきっと、届く。
などと言ったことは何も考えてなく、ただ呼んでいるだけだった。
ただ、蛍にとって本当に、一番好きな人の名前だったから。
声が枯れて、存在が消えてしまっても呼び続けようと。
どうせ出来る事なんて、それぐらいだから。
線路の反対側へと行こうとしてたけど、もうそれもどうでもいい。
ずっと、燐のことだけを考えていよう。
どうせ、こっちの世界では無限とも思える時間が流れ続けるだろうから。
無為に時を過ごすぐらいなら、ずっと好きな人だけを考えていれば少なくとも退屈はせずにすむだろう。
多分、”あの人”も同じことをしていただろうし。
何もない世界で、自分の輪郭を保ち続けていたのはきっとそういうことなんだ。
そうする事で何かが起きるとは思わないけど。
心がちょっとでも満たされて、楽な思いがするから。
閉鎖された世界でずっとこうしていようと。
蛍はそう思った。
……
……
……
「…………」
いつ、来ていたのだろう。
そう気付いた時にはもう既に背後に気配を感じていた。
声はない。
けれど静かな息づかいは聞こえる。
躊躇っているというよりも、ただ静かに佇んでいる風にみえた。
気配は確かに感じるのに、まるでそこには居ないみたいな透明感を背中に感じる。
──何も言わない。
──何も言ってはくれない。
そうだろうな、と蛍は思った。
多分、あの人なんだとは思っている。
他に該当する人が居ないからなんだけど。
でも、もしかしたら。
”今、本当に逢いたい人”がすぐ後ろにいる可能性だってある。
この世界は常識とは違う世界なのだから。
ちょっとぐらい期待してもいいのだろうと思う。
限りなく薄い線であるが。
「……」
それでも、蛍は振り返らなかった。
そのどちらにしたって結局は
もう過ぎ去ってしまったもの。
それは伸びる影のように意味のないものだから。
どんなに追いすがっても届かない空とおんなじ。
この作り物の空とは違った、本物の空と。
蛍は俯いた顔も上げずに背を向けて蹲っていた。
今の酷い顔を見られたくないって言うのも確かにあったが。
それよりも。
背後で見守ってくれていることに胸の内で感謝をしながら、蛍は自分の気持ちが落ち着くのをじっと静かに待った。
…………
………
……
「──もしもし、蛍ちゃん!? ねぇってばぁ!」
燐の方でも当然同じことが起こっていた。
急に蛍の声が聞こえなくなったことに疑問を感じた燐は、スマホに向かって必死に呼びかけていた。
だが、何度スマホに話しかけても、蛍からの返事が返ってくることはなく、小さなスピーカーからは否定ともとれるノイズだけがとつとつと流れ続けているだけ。
まさかと思い、スマホ本体の異常を確認するも特に問題となるような表示は出ていなかった。
充電もまだ充分に残っていたことだったし。
それに、それまで蛍の姿を映していた鏡──”
つるんとした鏡面を何度覗き込んでみても、映るのは不安そうな燐の顔だけだから。
「これって、まさか!?」
向こうの世界との連絡が切れてしまった、ということなのか?
燐は半信半疑になりながらも、そう結論を付けた。
確かにあまりにも細い繋がりだったから、いつ切れたとしてもおかしくなかったけど。
でも、もうずっと……このままなんてことには……。
「なら!」
燐は考える間もなくすっと立ち上がる。
とてもじゃないけど悠長に座ってなどいられなかった。
きっと、向こうでなにかあったに違いないのだと。
燐はそう確信していたから。
けれど、同時に今の自分に何が出来るの、とも考えてしまう。
蛍が本当に青いドアの家の世界にいるのなら、何としてもそこに行かなくてはならない。
でも、どうやって?
「うむむむ……」
燐は口を閉めて状況を分析する。
すぐにでも行動したいのはやまやまだったが、どう動くべきかその方向を固める必要があったのだ。
闇雲に走り回った所で何の成果も得られないことは、歪んだ世界で起きた経験からよく知っていたから。
体を掻き抱くように燐は両腕を組むと、目をぎゅっと瞑り、自身の内面だけに意識を集中させた。
ひどく動揺しているのは間違いない。
だからこそ落ち着く必要があった。
やれることは何でもするつもりだ。
向こうの世界から救い出す為ならなんだって……。
(それにしても……何でまだ”青いドアの家”はあるのだろう? もう無くなってもいいはずなのに)
蛍の言うように向こうの世界は今だ現実のものとして存在している。
この目で確かめてないからまだ明確な判断はつかないけれど。
それでも、鏡の後ろに映っていたのは確かに向こうの、青いドアの家の世界の一部だった。
何度も訪れたことがあるから見間違えようがない。
一幅の絵画のような情景は確かにあの世界だ。
だとすればそれは概念的なものではなく、ちゃんとした実存的なものとして捉えなくてはならない。
焦ってもどうしようもないけど、だからと言ってのんびりなんかはしてはいられない。
向こうの世界で蛍はひとりぼっちになってしまったのだから。
──”青いドアの家の世界”。
それは、”意識すればするほど遠ざかる世界”だと言う事は仕組みとして理解している。
強く願えば必ず行けるのではと思ったこともあったが、実際にはそういうことではなく。
無意識と意識の中間。
願いと純粋さがぴったり重なった時に、向こうの世界を垣間見ることが出来るのではないかと燐は推測していたのだった。
それでも、行ける確率は精々1%未満で、それ以外にも別の条件があるだろうとも思っていた。
何らかの偶然からくる事象が完璧に一致したときだけに向こうの扉が開かれるのだろうと。
それは本当に難しい条件であって。
だからこそ眠っている時などの意識を失っている時に飛ばされてしまうのだと思う。
睡眠時の覚醒、無覚醒を繰り返すときのあの気持ちの揺らぎが、向こうの世界との波長と重なり合いやすいのではと思っていた。
何ら異変が起きていないのに、向こうの世界に呼ばれてしまうのにはそう言った一因があるのだと、燐は考えていたのだ。
それともう一つ。
身体が慣れてしまっている。
向こうの世界の美しさ、その静かな情景、そして”味”を知ってしまったのだから。
それと引き換えに何かとても大事なものを失いそうな感覚はしないわけでもないのだけれど。
それでも惹かれてしまう。
世界ではなく、自分の方から。
その事象を証明する論文は流石に出せそうにはないが。
多分それで間違いないと思う。
自分の勘によるところが大きいけど。
「だったら、わたしもそうした方がいいのかな」
向こうの世界との繋がりを強く望むか、それとも今すぐに寝てみるか。
さっきは凄く怒られちゃったけど、ちょうどおあつらえの場所でもある。
ちょっと古いけどベッドもあることだし。
何より、始まりは”蛍の部屋”からだったから。
明日を望んでいたのに、目覚めたら違う世界に来ていたのだ。
夢かと思うほどの現実離れした世界へ。
ただ、眠気はまだないから、眠るのにはちょっと時間がかかってしまうけど、今はまだそうするつもりはない。
やっぱり蛍の事がとても心配だし、それにこれは最後の手段としてとって置きたかった。
「うん、そうだよ」
暗い顔をしていたって始まらない。
何かが起こっているのはここではなく、向こうの……蛍ちゃんの方なんだから。
燐は大きく頷くと、手早く荷物をまとめて蛍の部屋を後にした。
ぎしぎしと鳴る木の階段を一気に駆け下りると、靴を履くのももどかしくなるほど慌てながら三間坂の家の玄関ドアを横に開く。
少し乱暴に開けた先には、まだ蒼い、初夏の午後の天気が広がっていた。
「青い、空だ……」
今すぐにでも行くつもりだったのにその足が急に止まってしまったのは、澄み渡った空のせいだけじゃない。
意思は固まったが、その行先が要として決まらなかったからだ。
蛍を迎えに行かなくちゃ!
でも、何処に行ったらいい?
ぐるぐると同じ考えが回っている。
諦める気などは毛頭ないけど、どうしたらいいのかが分からない。
途方に暮れた子供みたいな、泣き笑いの表情を浮かべながら、燐は流れる雲を黙って見上げていた。
けど、もうぐずぐずなんかしてはいられない。
これはただの勘だが、”今日を逃したらもう明日はない”と思っている。
明日なんて日はもう来ない。
そんな予感さえ感じてしまう。
とても良くないことを想像してしまったみたいに、燐は一瞬ぶるっと身を震わせると、いつまでもぐずっている両方のふくらはぎを揉み解すように両手で強く握った。
「──っ」
軽い痛みが心を促したのか、燐は我に返ったようにキッと正面を向くと、とりあえずいま頭に浮かんだ場所まで行ってみることに決めた。
確かに──いつかは別れが来るとは思っている。
一緒に居て楽しいけど、やっぱり”他人”なんだし。
いつまでも繋ぎとめておくものではないとは思っている。
それに誰だって最後はひとりなのだから。
(けど、それは今日じゃない)
もっと、ずーっと先の事だ。
それに……お互いが納得する形での別れなんだと思っているから。
少なくとも自分は。
(だから、わたしは、ぜんっぜん納得できないからねっ、蛍ちゃん!)
きっとあの時の蛍だってそう思っていたに違いないだろう。
だからこそもうあんなことは二度とすまいと決めたのだ。
ひとりで、勝手に居なくなるなんてことは絶対に。
「わたし、必ず迎えに行くから! だから待ってて」
自身の決意を表明するように燐が空に向かってそう声を上げた時だった。
(えっ?)
ちょんちょん。
とても小さい手が今にも走り出しそうとした燐の服の裾をぎゅっと摘まんでいた。
折れそうなほど細い指なのに、見た目と違って力強く燐を繋ぎとめていた。
一体、誰?
燐はそう思う間もなく振り返った。
相手がたとえ誰であろうと、適当な理由をつけて振り切るつもりだった。
実際それぐらい急いでいたし、何となく苛立っているところもあったから。
多分、自分自身に。
「あっ」
振り返った燐は呆然と立ち尽くしてしまう。
そこには居るはずのない人が立っていたから当然だった。
点になった目を大きく見開いて、燐は呆気にとられたように口を開く。
そのぐらいの衝撃というか、ともかくまだ動揺したように瞳は揺れていたが、何故か唇は別の生き物みたいに、たどたどしい言葉を作っていた。
「オオモト、様……?」
黒髪の小さな少女を見て、燐はそう言った。
そう呼ばれた少女は、返事を返すことも無く、ただじっとこちらを見つめていた。
……
……
……
(ど、どうしたら……)
燐は確かに動揺をしていた。
向こうの世界の事を唯一知ってそうな人に出会ったというのに、肝心な所で口が上手く動いてはくれない。
確かに、渡りに船の状況ではあったが、それはむしろ別な緊張をはらんでいた。
燐は上目づかいでこちらを見る少女をまざまざと見下ろす。
本当に久しぶりに見た
まさしく──座敷童の少女、が目の前にいる。
緊張しないわけがない。
現実でありながら現実感がまるでないこの状況を。
それは、夢に囚われたときみたいに。
「あの子の所に行きたいの?」
先に言葉を発したのは幼い頃の姿をした”オオモト様”の方だった。
燐は戸惑った表情でぐっと唾を呑み込んだあとに小さくこくりと頷いてみせる。
これは紛れもなく現実の事柄なのだと。
その事実を呑み込むかのように。
(確かに、改めて見るとよく似てる)
町に引っ越してきたばかりの時に会った時は知らなかったからだけど。
蛍の家の倉庫に大事そうにしまわれていたあの”人形”と、目の前の少女の姿は本当によく似ていた。
人形そのものが動いている、そう思われてもおかしくないぐらいに瓜二つであった。
そのぐらい顔は綺麗に整っているし、少し変わった柄の着物から覗く肌も雪のように白く、透き通っていた。
偶然かどうかは分からないが、蛍の家の前で現れた幼い少女の姿のオオモト様に、燐は戸惑いの表情を隠し切れなかった。
「大丈夫よ」
何に対して言っているのか、まるで心を見透かしたように少女は静かな声でそう言った。
そのことを問いかけたかった燐だったが、何かが喉に絡みついたように不意に息がつまってしまい、何も言う事ができなかった。
恐怖を感じているわけではないとは思う。
でも。
この少女とどう接してあげたらいいのかが分からない。
前に家で会ったときにはそんなことは気にもならなかったはずなのに。
そう言った、未然の戸惑いがこれ以上少女に声を掛けるのを躊躇わせていた。
少女を前にして燐は金縛りにでもあったみたいに言葉を失っていた。
(子供が苦手ってわけじゃないんだけどなぁ……)
むしろ、好きなほうなんだけど。
目の前の少女も現実──実存であると燐は受け止めざるを得なかった。
もっとも前にはあの小さな口で燐が焼いた、まだあまり出来の良くないパンを何故か美味しそうに食べていたから、普通に現実感はあるのだろうけど。
でもまだ燐は今の状況を飲み込めきれないでいた。
そしてもう、異変みたいなものが始まってしまったと、内心で訝しんでもいた。
「まだ、大丈夫……それにもうあんなことはこの町では起こらないから」
少女は繰り返すように大丈夫、と呟いた後、そう言葉を投げた。
何の根拠がある言葉なのかは分からないし、結局それは何に対してのものなのか。
燐は複雑な顔で少女を見つめていた。
少女は燐にじっと見つめられていることを気にせずに話し続ける。
それはもうこの世界で伝え残しがないようにと、一言一句心を込めて話していかのようだった。
そんな風に燐には聞こえた。
「わたしは、この町から居なくなる。だから……燐、あなたの心配しているようなことにはならないわ。あなたが蛍を想い続けている限り、互いの繋がりは途切れることは無いのだから」
あぁ、と。
燐はやっと理解できたように嘆息した。
色んな思いが組み合わさった”思念体”みたいなものだろう、なんて思ったことを抱いたことは確かにあったけど。
それはただの思い込みだったと今は言える。
だって、実際に”この子”は実存していて、同じ時間を共有している。
ただ、他の人とは少し違った領域。
普通では認識できない空間にいるというだけで。
こうやってお互いに触れ合える事だって出来るし、それこそ人を好きになることだって出来る。
黒く深い、儚さを湛えた瞳はこの世界のものとは違う、まるで”空”そのものみたいだけど。
それ以外はいたって普通の子と何ら変わりない。
(まあ、雰囲気はやっぱりちょっと変わってるけど……古風というか)
それも一つの個性として捉えられる。
清楚で大人しそうにみえるけど、実際は結構お喋りな人だったし。
そんなことよりも今は。
燐は微睡みからいま目覚めたように、急いで口を動かした。
「じゃあ、もしかして蛍ちゃんと!?」
「……ええ」
慌てて出た言葉はあまりにも断片的でひどく虫食い状態だったが、それでも小さいオオモト様は理解してくれたらしく小さく頷いた。
その言葉に安堵した燐はようやくこの事態を呑み込むことが出来た。
何故今になって自分の前にオオモト様が出てきたのか。
その理由を。
(多分、この人は”切り替えてきた”のだと)
そう燐は理解する。
恐らく、向こうの”青いドアの家”で蛍と会ったのだが、やはりと言うか、自分の力だけではどうにもならないから”切り替えて”燐に会いにきたのだろうと。
そう思ったのだ燐は。
小さくなってもオオモト様の表情からは相変わらず何も伺い知る事はできないけれど。
そこまで間違いではないと思う。
柔和に微笑んではいるけど、具体的なことは何も言ってはくれないし。
(でも、わたしは一体何をしてあげればいいのだろう?)
オオモト様が向こうの世界に連れて行ってくれる……というわけでなさそうだし。
幼いオオモト様を覗き込む。
大きな丸い瞳はどこまでも吸い込まれそうなほどに透き通っている。
黒曜石を思わせる深い色の瞳は、様々な光の反射が見て取れた。
その奥を垣間見た時、不意に燐の脳裏にあの白い犬の存在を急に思い起こさせた。
(今の、は?)
結局、意図は見えてはこない。
だけど、何かを伝えようとしている、そんな想いの揺らぎを瞳の奥底から感じたのだ。
「えっと、いいかな」
燐は返事を待たずに少女の小さな手をそっと握った。
なぜそうしようと思ったのかは、自分でもよく分からない。
縋りつくわけではなく、ただ何と無しに触れてみたかったのだと思う。
本当に、この人は実在しているのかどうか知りたかったから。
それこそ人形のように細く、しなやかな少女の手のひらから確かな温もりが伝わってくる。
燐はもう無くなってしまったと思っていた、古い忘れ物に出会ったような、不思議な既視感を覚えていた。
「……」
小さなオオモト様からも軽く握り返してくる。
その表情は変わらないが、しっかりとした強さで。
真っ直ぐにこちらを向きながら。
「あの、オオモト様」
燐は意を決したように口を開く。
今更のようにこの少女の名前を問いかけるみたいに。
「何かしら」
幼い子供のような声でこたえる、小柄な黒髪の少女。
燐は過去に2回ほどこの姿のオオモト様を見たが、あれから何も変わっていないように見えた。
変わりようがないのだろう。
少女が最も”幸運”であったときがこの姿の頃だったのだから。
「どうしたら行けるんでしょうか、”向こう”へ」
単刀直入に訊ねる。
それでも、目上の人に話しかけるように燐は慎重に言葉を選んで話したつもりだった。
もっとも切羽詰まっていたから、少し早口になってしまったけど。
「そうね」
オオモト様は気を悪くするよな事はなく、一言だけ言うとすっと細い指を差しだした。
答えの代わり? なのだろうか、燐もそちらの方を向いた。
少女の白い指は、緑が生い茂る”ある山の方”に向いていた。
てっきり自分の方に向けられてると思っていたから、燐はちょっとだけ安堵した。
何に対しての安心かは分からないが、少し肩が軽くなった気がしたのだった。
燐は目線を元にもどすと、少し具体的に問いかける。
「そこに行けば会えるのかな、蛍ちゃんに」
小さなオオモト様はすぐさまこくりと頷いた。
たったそれだけで燐は淀みきった空気が急に澄み渡ったような開放感を覚えた。
「そっか、良かった」
燐はぱっと顔を明るくすると、再び少女を見つめる。
適当な事を言っているとか、そう言った疑いを持ってみているわけではなく。
ただ、この少女の姿を目に焼き付けておいた方が良い。
そんな気がしたからだった。
「えっと、ありがとう、ございます。その、何度も助けていただいて」
たどたどしくお礼を言う燐を見て、少女は不思議そうに首を傾げた。
別に何もしていないと言っているかのように。
「いいのよ。わたしはそれぐらいしか出来ないし、それに」
オオモト様はそこで言葉を言い淀むと、何かを隠すかのように小さく笑みを作った。
あどけない微笑み。
少女にとてもよく似合っていて愛くるしく見える。
けれど、何故か少し寂しそうに見えた。
燐は黙ってオオモト様の話の続きを待った。
本当は、オオモト様の事を置いてでも今すぐにあの山の方に走り出したい気持ちがあったが、それでも待つことにした。
「わたしも、行くところがあるの。役目、なのかしらね?」
他人事のように呟くオオモト様に、燐は少し違和感を感じたが。
「そう、なんですか?」
「ええ」
燐の問いにオオモト様は小さく答える。
あまりにも迷いなく答えたので、燐は”何処へ”とは聞けなかった。
代わりに少女の手を優しく握りながらそっと言葉を投げた。
「ええっと、じゃあ、元気でね」
「ええ、あなたも……蛍にもね」
簡単な、ややもすればあまりも素気なかったが、オオモト様も同じように返してくれたので、燐はこれでいいと思った。
きっと、同じだと思ったから。
方向が少し違うというだけで。
彼女──オオモト様にも行くべき所があって良かったと本当に思った。
単純な別れさえしないで居なくなってしまった人だったから。
だから、会いに来てくれたのだと。
最後に。
良く知った柄の着物の上に、見たことのない紺色の上着を羽織っていたからきっとそうなんだろうと。
自分、つまり座敷童の記憶が人々から完全になくなってしまう、その前に。
「もう、会うことはないんですか?」
燐は一応聞いてみることにした。
二度とない別れを含んでいるのは分かっていたが、それでも聞いておくべきことだったから。
「そうなるわね。もうこの町は変わってしまったから」
それは町の名前だけのことを言っているわけではないのだろう。
この町の人口や財源となる産業も、ちょっとの間にずいぶんと変わってしまった。
何故かこれまで町が手を付けなかった観光にも力を入れるようになったし、町の外からの住人も積極的に受け入れるようにもしている。
そして、今回の町の合併……この町は進化というか、確かに新たな変貌を遂げている。
どういう方向に行くかはまだ分からないが。
そこまで悪いようにはならないような気はする。
それに、座敷童も幸運も、別の形で町に残っている。
ただ、自分達の存在が町にまだ影響を与えているかどうかは分からないだけで。
それは目で見えないものでもあるし。
燐はつい、オオモト様の表情を窺ってしまった。
前に蛍も言っていたが、”幸運の流れ”のようなものが分かるのは”この人”だけだったから。
燐に無言で問いかけられていることに気付いたのか、少女は心配そうなため息をひとつこぼす。
そして答えの代わりにもう一度小さく頷きながら、もう片方の手も包み込むように燐の手の上に乗せて手の甲を軽くさすった。
何だかあやされているような気持ちになって、燐は少し恥ずかしくなった。
「オオモト様、わたしは」
「ええ」
二つの視線が重なり合う。
この先の言葉は出なかったが、少女の姿のオオモト様はくすりと微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、不意に蛍の事が頭をよぎり、燐はせわしなく視線をきょろきょろとさせた。
「えっと、あのっ……わたしっ!」
行かなくちゃ。
今すぐに。
頭ではそう分かっていても、何といってオオモト様と別れたら良いのかが、すぐには頭に浮かんでこなかった。
このままこの人を放って置いたら多分もう二度と会えないだろうから。
(せめて、蛍ちゃんが戻ってくるまで待っててもらえないかなっ)
蛍ちゃんだってオオモト様に言いたいことはあるだろうし。
多分、燐よりも。
まごまごとしている燐を見かねたのか、少女はぱっと手を放すと、少し困った表情で小さく手を振った。
呆気にとられた燐だったが。
それがあまりにも自然な行為、永遠の別れの挨拶という感じではなかったので、燐も掌を向けて少女に手を振った。
少女達の間に言葉はなかった。
けれど言葉以上に気持ちが伝わった。
そんな気がした。
燐はもう一度だけ振り返ると、今度は大きく手を振った。
腰から伸びたリボンがそれと一緒にゆらゆらと揺れた。
変わった格好をしている、と今更思ったのかそんな燐の姿にオオモト様はまた小さく笑うと、同じように手を振り返していた。
夏の香りを全身に感じながら、二人は手を振り合って別れた。
──
──
──
燐の姿が小さくなると、オオモト様はようやく手を下す。
疲れたような感じではなく、むしろ見守るように小さくなった背中をまだ目で追っていた。
きっと、また会えるだろうと思っている。
それがどんな形であろうとも、と。
「ねぇ、
少女は前を向きながら何もいない空間に向けて言葉を投げる。
周りには誰もいなかったので独り言かと思われたのだが。
「くぅん」
鳴き声と一緒に、がさがさと草むらから何かが飛び出してくる。
それと同時にぽんぽんと弾むような音がして、何かがころころと転がってきた。
少女はそれを手で掬い上げると、胸元でぎゅっと抱きしめた。
──色とりどりの手毬。
それは少女がずっと大切に持っていたものだった。
草むらから出てきたのは一匹の白い犬。
犬は少女が落とした毬を探しに裏山へと入っていたのだった。
それが見つかったから口に咥えて戻ってきたのだけれど。
雲のように真っ白な犬はあからさまに目線を落とすと、うなだれたように尻尾を下げていた。
「あの子たちのことが好きだったんでしょ」
少女にそう尋ねられても犬は何も言わなかった。
言葉は元々持っていなかったからそれでいいのだけれど。
さっきのように吠える事さえもしなかった。
「ずっと北の方へ行くことになるわ。あなたにも分かるでしょ。あの”ヒヒ”が呼んでいるのが」
そう促すよう言われても、白い犬は身じろぎもせずに少女が消えた方向をじっと眺めている。
まるで伝承のあった彫像のように四肢を踏ん張ってじっと見つめている。
「……」
その姿を不憫にでも思ったのか、オオモト様は小さく吐息を漏らすと、その白い犬の頭をそっと撫でた。
「あなたはこの地にとどまるといいわ。わたしは一人でも行くことができるから」
そう言って犬の背の辺りを軽くぽんぽんと叩く。
少女はそのまま本当に行ってしまいそうで、毬を大事そうに抱えながら犬に背を向けた。
「ありがとう、見つけてくれて」
犬の方に顔を向けることなくそう言い放つと、そのまま自分の向かうべき方向へと歩き出していった。
そのことに気づいた犬は慌てて少女の後を追う。
それはちょうど燐の駆けて行った方向とは逆の道だった。
けれど、急ぐと言っても少女の足は緩やかだったからすぐにでも追いついてしまったが。
少女姿のオオモト様はすぐ隣に並んだ犬の姿に意外そうに驚くと、口元に手を寄せて微笑んでいた。
本当に嬉しそうに。
「わんっ!」
白い犬も嬉しそうに一声吠えると、少女の隣でトコトコと歩き出す。
時折、名残惜しそうに遠くの山の方を見たが、その足取りにはもう迷いはなかった。
ただ、歩きながらそのふさふさの尾っぽを大きく横に振っていた。
それは、自分の名前を付けてくれた少女に別れを告げるかのように。
──
───
────
「ここ……だよね? きっと」
燐はひとり呟く。
まだ賑わいを見せている家の、”青いドアのパン屋さん”にも何処にも寄らずに、まっすぐにあの山。
オオモト様が示した”ナナシ山”の登山口の前に立っていた。
(何か、少し違う?)
見た目には他の野山と全く同じだけど。
雰囲気というか、この辺一帯から何かが起こりそうな、そんな予感めいた思いを燐は感じとっていた。
「それでも行くしかないよね」
他に当てがあるわけでもないし。
燐は大きく深呼吸をすると、樹が鬱蒼と生い茂る暗い森の中へと分け入って行った。
山の上では青い空に白くもこもことした雲がのどかに広がっていた。
──
──
──
.☆.。.:.+*:゚+。 ☆祝!!”青い空のカミュ発売4周年記念!!!”★ .゚・*..☆.。.:*
■青い空のカミュ。
今年で発売から四周年おめでとうございます!!
”青い空のカミュ”、やっぱり素敵な美少女神ゲーです!!!
そんな神ゲーである、青い空のカミュも発売当時はまだぎりぎり年号も平成でしたねー。新型コロナなんてものは影も形も見当たらなかった頃でしたし。それにしても一周年記念をお祝いしたときは別の作品を書いてたわけなんですけども。今年で四周年だなんてねぇぇぇ!! 時の流れが本当に早いのです。というか青い空のカミュの二次創作をもう3年以上続けていることが私事では一番の驚きかもしれないです。
自分で言うのも何ですけど相当飽きっぽい性格ですしねー。
そういえば結構何度か言っておりますが、始めてゲームをクリアしたときは本当に呆然自失といいますか、軽い鬱にすらなった感じでしたよー。何も手につかない時だってありましたし。
でも、そう言うのも感慨深く感じます。この作品のおかげで色々な気付きを得ることができましたしね。
感謝、感謝です。本当に。
そんな”青い空のカミュ”の二次創作を書くことが出来たのも、そしてここまで続けられたのも、全てこの神作品が好きなゆえのことですよー! 偶然の出会いがここまで影響を及ぼすとはーー。毎回言っている気がしますけど、このゲームと出会えて本当に良かったです。ともすれば人生観にさえ影響を与えるほどの作品でしたからーー。誰が何と言おうと自分の中では現役のフェイバリットなゲームですよーーー四周年本当におめでとぉおぉぉぉぉ!!!!
でもちょっと前まで実は勘違いをしていてまして、今年で三周年かー、とかボケたことを思ってたんですよーーー!!! やっぱり時間が進むの早いよーー早すぎるー。今年ももう3月の終わりになりますですしねぇーーー。
来年の5周年は流石に……まあ、去年もそう言いながらもこうやって書いているわけですし。やっぱり予定は未定と言うことででっすーー。
ではでは、これからも”青い空のカミュ”を好きな一ファンであり続けたいと思いますーーできればずっと!!!
あ、そういえば四周年にして初めて発売日にお祝いできましたー!! 今までは一日遅ればかりで申し訳なく感じていましたので本当に嬉しいです。
改めまして、”青い空のカミュ”発売四周年おめでとうございます!!!
それではではーー。
あ、サブタイが以前の話と被ってしまったので別のと差し替えましたー。恥ずかしいぃぃぃー。