We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life.   作:Towelie

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 ぐーんと鳴る低いエンジン音をなびかせて、一台の軽自動車が曲がりくねった峠道を走り抜けていく。

 伸びたヘッドライトがまだ薄暗い山間の黒い景色を丸く切り取っていく。

 昨晩からの雨で路面はじっとりと黒く濡れていたが、今は少し落ち着いていて精々小雨程度となっていた。

 朝の六時半前。

 六月の半ばの太陽はもう目を覚ましているはず。

 けれど、鉛色の厚い雲が空をすっぽりと覆い被さっていて、日の差し込む隙間もないほどだった。

 イベントは雨天決行だったから一応問題はない。

 目下の問題と言えば。

「蛍ちゃん、ハンドル切り過ぎだよ~、これじゃ車が飛んで行っちゃうっ」

 自分で運転するときよりもスピード感が増しているように思われたのか、助手席に座っていた燐は悲鳴にも似た声をあげていた。

「え、そうかな? これが普通だと思ってたんだけど」

 どういう基準かは分からないが、蛍は脇目もふらずそう答えると、教習所で習った事を頭に思い浮かべながら少し緊張気味にハンドルを握りしめた。

 その先では緩いカーブが待ち構えている。
 
 燐は、フロントガラスと蛍を忙しなく交互に見比べていた。

(確か、(こぶし)2個ほど開けてハンドルを曲げればいいって言ってたよね)

 隣の燐の顔を窺うだけの余裕は蛍にはないようで、じっと前を見据えながら何かを理解したように小さく頷いた。

 言われたことを思いだしながら、蛍はステアリングを大きく左へと曲げる。
 それはこぶし2個分どころか、燐や蛍の手なら4つはありそうだった。

「うひゃあああああ!?」

「あ。燐、ごめん」

 燐は助手席の上にある手すりとシートベルトをぎゅっと握りながら、本日何度目かの裏返った声をあげた。

 仮免で足踏みしている蛍の為にと、練習がてら運転をさせてみたのはよかったのだが。

 案の定それは間違いというか、予想以上に無謀な試みだったのだという事が分かった。

 自分が出来たのだから蛍だって出来るだろうと。

 燐は大きなため息をつく。
 けれどそんな余裕も長くは持たなかった。

「ほ、蛍ちゃん、ぶ、ブレーキぃぃ!!」

「うんっ!」

 燐の必死の呼びかけに蛍は素直に応じると、何の気なしにアクセルから足を離すとすぐさまブレーキペダルを靴の底でべた踏みした。

「えぇぇぇっ!!??」

 燐は信じられないとばかりに運転席の蛍を覗き込む。

 蛍は事態を察したようにあっ、と小さな声を上げた途端。

 がくん!

 とても嫌な感じの音と一緒に、座席の二人の体が前後に揺れる。

()()()? ()()なのぉ~~~!!??」

 体が横と流されてゆくような奇妙な感覚に、燐は困惑した声をあげた。

 だが、決して蛍の運転は悪気のある行為ではなかった。

 ただ、教習の際、(ブレーキの)踏み込みが少し浅いと、教官に指摘されていたことを蛍が忠実に守っただけことだった。

 それにしたってあまりにも極端すぎたが。

「蛍ちゃん、ゆっくり! ゆっくり曲がってぇー!」

 だがそれはもう既に遅く。

 その証拠に、ライトグリーンの軽自動車は一時コントロールを失う事となり、少女二人を乗せたままスローモーションのような動きで車が傾き始めていた。
 
 運転席側に極端に加重が乗り、自分の乗っている方のタイヤが浮き上がるのはないかと燐は戦慄の表情で凍り付いていた。

 事実、アスファルトから少しタイヤが浮き上がっていたので、二人とも刹那の浮遊感を感じることにはなってたのだが。

 蛍も自分でしたことに何か嫌なものを感じ取ったのか、大きく開いた口を手で抑えていた。

(嘘っ!? もしかして、事故っちゃう!?)

 数秒先の事を想像したのか、燐はさっと顔を青くしながらも半ば無意識に両足で座席の底を足で踏んばって抵抗する。

 浮き上がりそうになる車体を元に戻そうと試みる行為なのだが、この程度で何とかなるほど燐の身体は重くはない。

 第一、この時点でそれは無意味な事なのだが、それでもそうする他なかった。

 窓から身を乗り出して車体のバランスを保つなんて無茶な行為は今の燐の頭には到底浮かんではこなかったのだ。

「いやあぁぁぁっ!!!」

 迫りくるガードレールに蛍は目を大きく見開きながら、何をどう思ったのかステアリングをぐるぐると逆方向へと回していた。

 急ブレーキからの急ハンドルという、レースゲームですらまずやらないであろう行為の連続に、助手席の燐はおろか、運転席の蛍さえもパニックになっていた。

 パニックになっていたからの行動だったともいえるが。

 ぎゅるるるるるるー!!

 幅の小さい四つのタイヤが同時に悲鳴を上げる。

 路面が濡れていたことが幸いしたのか、車はタイヤを浮き上がらせながらセンターラインを横滑りして、ガードレール接触ぎりぎりにカーブを曲がっていく。

 もはや神業に運転だったが、二度と再現は出来ないだろう。
 したいとは思わないだろうし。

「落ち着いて、蛍ちゃん! 普通に走ればいいだけなんだからっ!」

 息を吐く間もない運転の連続に燐はまだ視界が安定しないのか、首を振りながら今更ながらのアドバイスを蛍に投げた。

「うんっ!」

 さっきから返事こそしっかりしたものを蛍は返している。

 だが、実際はまだ混乱しているらしく、今度は逆に傾いてしまった車体を無理矢理に立て直そうと、また大きくハンドルを切ってしまっていた。

「んにゃあああぁああああっ!!??」

 がたがたと身体を前後左右に揺さぶられた燐は、猫の悲鳴みたいな声を車内に響かせていた。

 ──
 ──

「はにゃああああぁぁ……」

 まだ生きていることを実感したみたいに、燐は深いため息を吐き出した。

「ごめんね燐、大丈夫?」

「う、うん……何とか、ね。ちょ、ちょっとびっくりしただけ~」

 そう言って燐は無理に笑おうとした。

 蛍は申し訳なく思い膝の上でぎゅっと握っていた。

 しとしとと鳴る雨の音と停車した車のハザードランプだけが二人の間に静かに流れていた。

「えと、本当に大丈夫だから気にしなくていいよ。誰だって最初の内はこんなもんだって。わたしだってほら、すっごく酷かったでしょ?」

 困った顔をしながら燐は自分の最初の運転の事を思い返して、俯いている蛍の肩に手をぽんと置いた。

(本当に全然だったもんね、あの時の運転は)

 今でも赤面してしまうほどの荒い運転だった。
 いきなりすぎることだったとは言え。

「でもさ、燐」

「うん?」

 ぼそりと呟く蛍に燐はちょっと気を遣った顔で見つめる。

「燐は知ってると思うけど、わたし、これでもちゃんと教習所に通っているんだよ? こんなので免許とか本当に取れるのかなって……」

 そう言われて燐はうっ、と言葉を詰まらせてしまった。
 
 別に悪い意味合いがあるわけはないけど、何というか図星というか痛い指摘であったから。

「え、えっとぉ」

 燐は適切を探すように目をくるくるとしながらさっきよりも頑張って笑顔を作った。

「ま、まあまだ時間はあるんだし全然大丈夫だと思うよ。蛍ちゃんなら絶対に免許取れるってわたし信じているからっ」

 少し目は泳いでいたが、その言葉はしっかりとしたものだったので、蛍は安堵したような深い大きなため息をついた。

 そしてぱっと助手席の燐の方を向くと、微笑んでこう言った。

「じゃあ、もうちょっとだけ運転してもいい? 何か少しコツが掴めた気がするし」

 燐は一瞬、えっ!? とした顔になったが、すぐににっこりと微笑んだ。

 あれだけの運転を披露してもしょげ返るどころか、すぐにやる気を見せる蛍に水を差すような真似なんて到底できるはずもない。

 いつだって頑張り屋さんの蛍。

 おっとりとしているように見えるけど誰よりも頑張り屋でなんでも真剣な蛍ちゃん。

 だから、心から応援してあげたい。

 ただ、ハンドルを握るとちょっと人が変わっちゃうような気もするけど……。

「うん、いいよ。蛍ちゃんの気のすむまで運転してみて。何なら帰りの運転だってしてっても良いからね、蛍ちゃんさえ良ければだけど」

 本当は途中までの道のりで燐に運転を交代するつもりだったが、蛍がそう言ったのなら燐はその申し出を断るつもりはなかった。

 むしろ勧めるぐらいだった。
 せっかく前向きになっていることだし。

「燐、ありがとう」

 蛍はにこりと微笑み返すと、すぐにで運転を再開するようで、すぐさまハンドブレーキを下ろしてギアをドライブへと入れた。

 教習の時みたいに運転前の指差し確認はするし、前も後ろもちゃんと見えているとは思うのだけれど。

 ぐいっ。

「ひゃああぁぁぁぁ!?」

「だ、大丈夫?」

 蛍はまたも車を急発進させてしまったが、それでもアクセルを抜くつもりはないのか、尚も靴底でペダルを踏み続けていた。

 無事に町につけるかどうかよりも、これから式典があるのに喉がからからに枯れてしまわないかと、そんなことを気にしながら燐はシートベルトにしっかりと指を絡ませると、蛍と自分と車の安全を祈りながらぎゅうっと力いっぱい握った。

 ……
 ………
 …………

(そういえば、そんなことがあったんだったっけ……)

 燐の話で思い出したのだけれど。

 なんかもう遠い世界の他人事みたいに思える。

 ウソというか想像の()()()()みたいに、その物事に現実感をまるで感じなかった。
 
(でも、実際にわたしが自分で運転したんだよね? この手でちゃんと)

 それにしたって、ほんの数時間前の出来事のはずなのにひどく懐かしさを感じてしまうのはやはり、それだけまだ未練みたいなのが残っているせいだろう。

 それはまるで、夢から覚めたくないとベッドの中で布団を被っている子供みたいに。

 けど、こういうのは前にもあった。

 どうしようもない状況なのに、ふと元いた日常を回帰してしまうということが。

 逃避──なんだと思う。

 もう逃げるところなんてこの世界のどこにもないのに。

 せいぜい夢の中ぐらいか。

(でも、夢なのは”こっち”だよね……)

 蛍は微睡んだ思考でそう結論付ける。

 ぼやけた視界の中でくるくると小さな羽が回っている。

 窓から入り込んだ柔らかい光が幾何学的な模様(アート)を白い天井に描いている。

 ともすれば病室にいるみたいな白と白のコンストラクトに、蛍は言葉にできない殺風景さを感じて薄っすらと目を小さく細めた。

 まだ上手く状況が呑み込めないのか、蛍がこれまでの事を一つずつ頭に巡らせようとした時だった。

「どう、ちょっとは落ち着いた?」

 不意に頭の上から柔らかい声が投げかけられて、蛍は重い瞼を動かしてそちらの方に視線を動かす。

 微睡んだ視界の隅に長い長い黒髪が光を泳がせていた。

「えっと……はい」

 まだ夢の続きを見ているような、そんな心地の良い声だった。

 それは頭が柔らかいものに包み込まれているせいもあるのかもしれない。

 けれど、やはりというか、ここはいつもと違う場所。

 人どころか生命の概念すら感じさせない静かな世界にいる。

 耳が痛くなるほど静かで、穏やかな場所に来ていた。

 ”青いドアの家”。

 つまり、それは迷い家(マヨヒガ)

 不思議な意味合いを持つ言葉はそれ自体が特定の家屋を指すものではなく、この世界全体を表しているのだと。

 そしてそのマヨヒガに居るのは、オオモト様(ざしきわらし)

 あの日、白い顔がぼそっと言ったのはそういうことだという事がようやく分かった。

 この世界自体が迷い込んでいる。
 世界と世界の狭間で。

 空の上でもなければ、地の底でもない。
 世界の裂け目の所に。

 意味も理由もなく、唐突に。
 
 重ね重ね不思議な世界だと思う、それが嫌というわけではないんだけど。

「……」

 一旦、オオモト様に向けて返事を返した蛍だったが、それでもすぐには思考は戻らなかったのか再び唇を閉じていた。

 もしかして怒られるのかな、と少し思ったが。

 むしろ柔らかく髪を撫でられたので、蛍は安心しきったようにもう少しだけ目を閉じてこの心地よい時間に微睡んでいることにした。

 どうせもうダメなんだろうし。

 だからこうして甘えるのも許してくれるのだろう。

 何だかもう、考えるのが億劫になっていた。

(それにしたってさ……唐突だよね、色々)

 普通の人とは何か少し違っていることは大分前から分かっていたことだけど、それでも何の変哲もない生活をおくっていたと思っていたから。

 こういう事態にまたなってしまうとはそれこそ思いも寄らないこと。

 たった一つの物事がこれほどまでに尾を引いて、こんなにも長く影響を及ぼすなんてことになるなんて思わなかった。

 流石に辟易としてしまう。

 けれど。

 それももう終わりなのだろうか。
 世界に閉じ込められてしまったわけだし、それに。

 片目でちらりとその人の顔を見る。

(オオモト様、も”ここ”にいるわけだし)

 視線を受けても驚く様なこともなく、オオモト様は優しい瞳でこちらを見つめていた。

 どこか無邪気で柔和な顔立ちだけど、実際は全てを見通して……いると思ってはいた。
 少なくとも蛍は。

 全ての元となった人。

 母親なのか先祖なのか、それとも、真祖? その辺はよく分からないけど。

 けれどもうそんな事もどうでも良かった。

 今更この人の正体について考えたってどうにかなるわけでもないしそれに今、現にこうしてオオモト様が居て、自分もいる。

 それだけで理由は十分だった。

 多分、迎えに来たんだと思う。
 送り出しというのかもしれないが。

 何かの本で読んだことだけど、”天国を考えるときは必ず扉がある”のだと。

 ”扉”とは、多分”青いドア”のこと。

 そのドアが閉じられたということはもう。

(とうとう終わるんだ、何もかもが)

 諦めとも安堵とも違ったため息を蛍は小さく漏らした。

(このまま眠るように消えていくのなら、それでいいのかもしれない)

 苦しむのは誰だって嫌だし。

 揺り籠に揺られているみたいにいけるのならどんなにいいのだろうとすら思ってしまう。

 今思えばあの白い人たちも、そういう微睡みの中でいったんだと思う。
 自由に何の制約もなく、行きたいところへ行くように。

 けれど、あれだって現実かどうかは分からない。

 変化した人は元のまま町にいたし、そんな記憶も一切持っていなかったようだから。

 ──全部、夢。

 というわけではないとは思うけど。

「ねぇ、蛍、あなたは覚えているかしら」

「えっ?」

 唐突にオオモト様が話しかけてきたので、蛍は閉じかけた瞼をぱちくりと開けた。

「前にもこうしてあなたのことを膝の上に乗せたことがあったのよ。あの時は蛍も燐も酷く疲れているようだったわ。でも寝顔はとても安らかだった」

 オオモト様は自身の長い髪を軽く梳くと遠くを見るようにしながらとつとつと話す。

 蛍は無言でその話に聞き入っていた。
 
 本当に久しぶりに会ったオオモト様は何だか少し、楽しそうに見えた。

「あなたとこうしているととても穏やかな気持ちになれるの。もう全部終わったことのはずなのに」

 蛍は何だか子守歌を聞かされているみたいな感じになって、微睡んだ瞳でオオモト様を見つめた。

「だからまだ眠っていてもいいの。燐もそうだけど、あなた達は自身を労わらない所がある。もう少し自分に寛容になれればいいのだろうけど……」

 オオモト様はそっと囁くような声を優しくかけた。
 それに蛍は小さく首を振る。

「もう、ずっとこのままなんでしょうか」

 蛍は少し悲しげな目でオオモト様を見返した。

 暗闇を思わせる漆黒の瞳は何も言わなくとも分かってくれそうで、でもやっぱり受け入れてくれなさそうにも見えた。

 オオモト様からの反応がなかったので再び口を開こうとしたが蛍だったが、その前にオオモト様が静かに口を開く。

 肯定とも否定ともとれる口調で。

「それは、どうかしらね」

 蛍は呆気にとられたように首をかしげた。

(でも、”どう”って、どういう意味なんだろ)

 まるで選択肢はこちらにあるみたい。

 もうこの家というか、こちらの世界に来てしまった時点で選択する余地などないはずだ。

 燐と一緒ならまだしも、ひとりきりだったし。

「そういう訳ではないのよ」

 ふるふると首を横に振るオオモト様。

 蛍はその黒の瞳を見つめながら黙って続きを促した。

 オオモト様は一旦言葉を切ると小さく笑みをつくる。

 暖かく、柔らかい微笑みに自然と蛍の顔もほころんでいた。

「前にも言ったと思うけど選択肢なんてものはいくらでもあるの。あなたはその中の一つに遭遇したにすぎないのよ。今、こうしている間にも事象は流れていってる」

「あぁ」

 そういうことか。

 オオモト様の言葉を受けて蛍はある事を思い出し納得をした。

 それは燐がかつてこの世界で自分にしか見えない異なる景色を見つけたことを言っているのだと。

 地平線の彼方に風車が連なる情景が見えたと燐は言っていた。

 だが、蛍にはそれを見ることはできなかった。

 それと同じ事が自分の中に起きている、そういうことなのだろうか。
 オオモト様の口ぶりからすると。

 けど、前には確か。

(自分は何もないって言われたと思ったんだけど)

 何も見えないということは、何も選んではいない。
 つまり、主体性のようなものが無いのだと。

 そう、はっきりと言われたのだ。
 今、目の前にいる人に。

 その事は何も間違っていなかったから、何というか反論の余地なんか一切なかったわけなんだけど。

(じゃあ、今は違うのかな? 何がわたしの真実(ビジョン)になるんだろう)

 見えているものと言えば、白い大地といつものプラットフォーム。
 それと青いドアの家だけ。

 これと言った違いは見いだせない。

 世界が変わっていないんだとしたら……自分が、ということなのか。

 だけど。

(わたしは、何も変わっていない)

 一応、大学には行ってるけど、高校の頃と特別変わった感じはない。

 ただ私服で登校しているというぐらいで。

(目標みたいなのもないわけじゃないけど、それだってどうなんだろう。それが本当にわたしのしたいこと、なのかな)

 自分で自分が分かっていないのに、何かが視えるなんてことはあるはずはない。
 そんな気がするのだ。

 だが、オオモト様はそうは思っていないのか、くすりと微笑んで話を続けた。

「あなたにはもう分かっているはずよ。何が」

 まるで、ゆったりと流れるオルゴールを聞いているときのような声の穏やかさに、蛍は無意識に目を細めた。

 瞼の裏側に木漏れ日のような光がさすと同時に、ここには居ない燐の顔がぱっと浮かんだ。
 
 それで蛍はオオモト様の言っていることの意味がようやく分かることになった。

 少し勢い込んで蛍は尋ねる。

 それこそ膝の上から上体を起こす様な勢いで。

「じゃあ、もしかして携帯電話や、あの不思議な鏡は」

「ええ、そうよ」

 急に蛍が声を上げてもオオモト様は特に戸惑うような顔は出さずに淡々と答えた。

「やっぱり、そうだったんだ」

 口に指を寄せて小さくつぶやく蛍。

 何かの確信があったわけではないけど、何となくそんな気がしていたから。

「お互いを想う気持ちが”それ”を作り出したの。繋がりたいと言う純粋な気持ちが形を伴ったものになった。例えそれが本当のものじゃなかったとしても、あなたたちにとってはそれが真実なのよ」

「これが真実……?」

 オオモト様の言葉に僅かな違和感を感じたが、蛍はあえて口には出さず別の疑問をオオモト様に投げかけた。

「オオモト様。あの、”あなた達”ってことはやっぱり……”燐”も、っていうことなんですか?」

 やはり疑問はそこに集約されてしまう。

 オオモト様の言うことで何故この世界で線路や家なんかがあり、家具までもがしつらえているのかは分かった。

 だが本当に気になる所はそこではなく、この事に”燐”が関係しているらしいと言うことだ。

 確かに自分でも薄々感づいてはいたことだったが、確信のようなものは未だに持てなかったから。

 燐が本当に”座敷童”になり替わったなんてことには。

 燐とは学校以外のとき以外は殆ど一緒にいるけど、どう見ても蛍の知っている燐のままだったから。

 別人になってしまったとか、そういうのは一切ない。

 比喩でもなんでも燐は燐のままだ。

 でも、そう見えているのは自分だけということもある。

(だって、わたしだって座敷童だから……)

 蛍は無意識に両方の手を胸の上で握っていた。

「そうね」

 蛍の胸の内を察したように、オオモト様は蛍に向けて小さな笑みを向けると、その柔らかそうな唇から囁くように言葉をぽぅんと投げた。

「あなた達二人は殆ど同じよ、それは遜色がないぐらい。けれど、悪い意味ではないわ。お互いが求めていたものになれたとでも言えることだから」

「ここも、最初は何もない世界だった。それでも思いだけは残っていたから、それを少しづつかき集めて出来た、いわば寄せ集めの世界なのよ」

 オオモト様は何かを取るように指をそっと組むと遠くに視線を飛ばす。

 窓枠の向こうではいつも変わらない青空が広がっていた。

 蛍も家の中に視線を飛ばす。

 ──確かにそうだ。

 テーブルやソファ、カーペット。
 その下のリノリウムの床も……どれも少し不自然で、でもそれがとても綺麗で。

 それは無機質な家具や家電においても同じことで、皆、純粋な色を放ちながら静かに佇んでいる。

 誰かに使ってもらえるのを待っている、というよりただそこにあるという感じ。

 芸術的な作品がそうであるように、この世界にあるもの全てが、一つの調度品であるようにきっちりと整っている。

 線で引いたように綺麗だった。
 何もかもが。

 童話か絵本の中にいると言われたらきっと信じてしまうだろう。

 そのぐらい本当に美しい世界で、それでいてページをめくるように脈絡がないものばかりだったから。

 だからオオモト様の言うように寄せ集め、なのだろう。

 そこには思いというか、意思のようなものが感じられる。

 意思とはつまり、”欲望”なんだ。

 純粋な欲がこの世界に彩りある風景を創り出している。

 だから落ち着くのだと思う。

 わたしも──”欲”を持っているから。

 きっと叶うことのない、純粋でかんぺきな欲望を。

「この家に留まるのも出るのも自由よ、最初から何も制約なんかはないの。だからもしこの世界に理があるのだとするのなら」

 ふわりと白い指が蛍の結わいた髪を柔らかくとらえる。

 愛おしいものに触れるように優しく髪を梳かされる。
 それがとても心地よくて無意識に瞼を閉じていた。

 母の胸に抱かれるというのはこういうものなのかとそれ漠然に思いながら、蛍は確かな充足を感じていた。

(それが、”意思”なんだろうな、きっと)

 どちらも同じなんだ。

 ふと脳裏に湧いた言葉はあまりにも衝動的だったとは思ったが、蛍はあえて包み隠さずにきれいな思いと共にずっと膝を預けてくれている人に向けてそっと口にした。

 きっとこれが本当の望み、なのだから。

「わたしは、お母さんの下へ行っちゃだめなんですか?」

 ”お母さん”というその言葉自体に何か違和感があったのか、蛍の唇は自然と震えていた。

 けれど、その抽象的な言葉をようやくその人に発したことが出来たので、胸のすく思いにも似た清涼感が蛍の胸中をさらりと抜けて行った。

「ダメ、ということはないわ、必ずしも」

 急な言葉にもかかわらず、オオモト様は小さな笑みを作ると蛍の前髪を優しくかき上げた。

 その時、初めてオオモト様と目と目があった気がした。

 思えばずっとこの人はこちらを見ていてくれていた。

 その姿が見えないときにでも見守ってくれていた、ような気がする。

 不快感なんかは微塵もないけど、多分わたしが最後だからなんだろうと思っていた。
 でもそれだけではないんだと。

 そして気づいた。
 今さらにもなって。

 オオモト様は、自分の母親ではないことに。

 面影というか、懐かしさみたいなのは確かに感じるのだけれど。

(この人は違うんだ──それは悪い意味なんかじゃなくて)

 むしろそれで良かったんだ。

「でも、あなたの(かえ)る場所はそこではないはずよ」

 指で指したようにきっぱりとそう言われた。

 でもそれは本当に大事なことだと思ったから蛍は何も言い返すことなく、少し曖昧な表情を浮かべて小さく頷いた。

 オオモト様は蛍をそっと膝から下ろすと、その小さな頭をソファのクッションの上に置き、ふいにつっと立ち上がった。

 何処へ行くのかと目で問いかける蛍に、オオモト様は静かに振り向いて応えた。

 振り向いた瞬間、漆黒を思わせる長い黒髪に光の粒が星のようにきらきらと流れていた。

「わたしにも進む方向が見つかったから」

 オオモト様はもう一度小さく蛍に微笑むと、音を立てることもなくリビングのドアをそっと開ける。

「あ……」

 蛍が体を起こして呼び止めようとしたのだったが、それよりも先にぱたんと戸が閉じられてしまい、部屋の中には無言の静寂が訪れていた。

 蛍ははぁとため息をつく。

 あの人はどこに行こうとしているんだろう。

 それにいつも持っていたあの手毬はどうなったんだろうか、随分と前に夜の公園で逢った時も持っていなかった気がする。

(探しに、行ったのかな……?)

 それは何処かは分からないが。

 そんなことを蛍は思い浮かべながら、でもまだソファから起き上がることはなく、オオモト様が消えていったドアの方をぼんやりと見つめながら、あの人の最後の言葉を頭に巡らせていた。

 特に重要な事ではないと思ったが、何だか妙に頭に残っていた。

「行くべき方向(ばしょ) 、か……」

 薄いピンクの唇が意思のある小さな言葉を紡いでいた。

 ──
 ──
 ──



Daysleeper

 

「やっぱりちょっと、無謀だったのかも」

 

 その日の午後、燐は山を登りながらそう強く思った。

 

 オオモト様が指し示したと思われる山──ナナシ山はそんなに遠くじゃなかったから、登山口にはすぐに辿り着くことが出来た。

 

 ただ、良く知っている場所だったから、少し拍子抜けしてしまったというだけで。

 

 実際、この山には何か不思議な何かを感じることがあったから、オオモト様が何も言わなくとも行ってみるつもりはあった。

 

 燐が、蛍を探しに”とりあえず”向かおうとした先もこのナナシ山だったのだ。

 それが偶然かどうかは別として。

 

 実際に、”ナナシ山”なんて名前の山はこの辺りにはない。

 

 少なくとも地図上ではそう記された山は存在しなかった。

 

 もっとも、ちゃんとした名前すらない野山がこの町の周りにはごろごろしているのだけれど。

 

 ”ナナシ山”とは蛍が名付けたもので、それにもともと蛍の、三間坂家が所有している土地にあり、管理していた山だったからどんな名前を付けようがそれに異議を唱えるものなどはなかった。

 

 もっとも、そう呼んでいるのは燐と蛍ぐらいしかいなかったのだから、当然なのだが。

 

 それに管理と言ってもそれは本当に最近まで何もやってはおらず、連なる山の中腹にある”よく分からない石碑”までの道のりが荒れてしまわない様、蛍と燐で一年に二、三回程度取り決めていた事ぐらいしかやってなかったのだが。

 

 それでいて、今年はまだこの山に登ってすらいなかったから、こうして出向いて行くことはある意味では都合のいいことだったのだけれど。

 

 ただ、この山の何処に蛍の手掛かりがあるのだろうという思いはあった。

 

 長い間、手付かずだった山もあらかた探索したつもりだったし、山に良くある洞窟なんかも見つからなかったから。

 

 半信半疑な部分は正直あった。

 

 ”あの人”の言う事が必ずしも絶対だとは思ってはいないし。

 

 疑っているわけではないが。

 

 それに行くだけの価値はあると思ったから、ここまでやってきたのだと。

 

(まあ、理屈ばかりこねていたって何も始まらないしね)

 

 よくも悪くも動くしかないのだと、知っていたから。

 

 そんな不安と期待がないまぜとなった気持ちで燐は午後からの、それこそ無謀な登山へと踏み切ったわけだなのだが。

 

「だからって、こんな格好のまま登っちゃうなんて、本当に無茶苦茶だよね」

 

 そう言いながらも普通に登っている自分に呆れてしまう。

 

 流石にラフ過ぎると言うか、どう頑張って見てもゲームか何かでありそうなコスプレ衣装だったし。

 

 特にスカートとか袖の部分がこう、ひらひらとしてて少し落ち着かない。

 

 ”見え対策”のパンツを履いているとはいえ、これでは。

 

 まだ普段着どころか、寝間着(パジャマ)の方がマシなぐらい。

 

 金魚が地上で溺れているようなものだった。

 少し例えがおかしい気もするが。

 

 そのぐらい変で、場違いな感じのまま山を登っている。

 

 いくら焦っていたからってやはり一度着替えに自宅へと戻るべきだったと燐は少し後悔をした。

 

 それに、大した装備も持っていないわけだし。

 

 ただ、衣装にはちゃんとした指定はあったが、何故か履く靴にはなかったから、今、燐が履いているのはいつものトレッキングシューズなのだけれど。

 

 ちなみに蛍も、()()お揃いのトレッキングシューズを履いていた。

 

 まともなアウトドア装備なのはこれぐらいで、後は背中のバックバックぐらい。

 

(別に頭に血が昇ったとかじゃないはずなんだけど……やっぱり慌ててるのかなぁ、わたし)

 

 肝心な所でやらかしてしまうところがあるし。

 

 そーゆーのはいつまで経っても治らないもんなんだなぁ。

 

 はぁ、と自身のやるせない思いに心底呆れながら、それを頭から消すように燐は緑の山をせっせと登る。

 

 夏になりきる前の六月の山は確かな生命力に溢れていた。

 

 山の織り成す新緑の美しさだけでなく、羽虫や小鳥の小動物も活発に飛び回っていた。

 

 普段登っている山だけど、午後からの登山は流石に少し緊張してしまう。

 

 そのぐらい危険な行動だったし。

 

 なのに衝動的すぎる自分の行動を顧みると、そこまで冷静じゃないというか、全然大人になりきれてないのだと。

 

「けどぉ。これでもまだぎりぎり十代だからねっ」

 

 誰に向けているのか燐はそう言うと、ふんっと小さく息を吐いて胸を反らした。

 

 こういう所が、”燐はちょっと子供っぽいなぁ”と、大学の同級生に言われる所為なのかもしれない。

 

 取り繕った表情をとるぐらいのことは出来るけど、中身は何も変わっていないと思う。

 

 もっとも大学に行ったからってすぐに大人になるなんてことは、少なくとも自分には到底無理だということは分かってるけど。

 

「何やってるんだろ、わたし」

 

 こんな短いスカートで真剣にトレッキングをしている自分が流石に可笑しくなったのか、燐はとうとう噴き出してしまった。

 

「でも、ちょっと似てる。このスカートのふわっとした所とかそっくりかも」

 

 高校の時の制服も確かこんな感じだったっけ。

 

 まざまざと見ながらくすっと笑う。

 

 自分の大学でも服装は自由だから初めの頃はちょっと戸惑ったりしたけど、それにももう慣れてしまった。

 

 むしろ今の方が楽だった。

 服も勉強の仕方も各自の自由だったし。

 

 混み合う都会の電車の中で学生服を着ている子たちを見かけるだけで、何というか懐かしさみたいなものが込み上げてしまうほど。

 

(それでもまだ若いもん。お酒まだ飲めないし)

 

 高校の時の制服はクローゼットにちゃんと仕舞ってあるけど、さすがにもう一度着る勇気はない。

 

 今のところは。

 

 あの頃といま。

 何か、変わったのだろうか。

 

 月日だけはどんどん過ぎていくけど、何かを成しえたとか得ることが出来たとかのそういった実績の様なものは特にない。

 

 学生と言う区分の中では明確な違いはあるのだろうけど。

 

 日々を無為に過ごしているわけでもないし、日々の張り合いみたいなものも一応は感じているんだけど。

 

(でも、今はそんな事どうでもいいよね。少しでも先に行ってみないと)

 

 やっぱりまだ何も得てはいないし。

 この山でも。

 

 センチメンタルな気分に浸るのはまだまだ早すぎると思うし。

 

 燐は横にそれた考えを打ち消すように、ぶんと首を横に振ると、何か目印と言うか、手掛かりみたいなものはないかと、周囲に目配りしながら山をどんどんと登っていった。

 

「大して高い山じゃないはずのに、何かいつもよりも、はぁ、はぁ」

 

 焦りが道を険しくしているわけではないのだが、何だか疲労が早い気がする。

 

 梅雨入り前だったとはいえ夏の午後の日射のせいだろうか。

 

 登っていく度に体のいたるところから汗が噴き出してくるみたいに、暑い。

 

 樹の影が頭上を覆っているのに、それほど涼しさを感じないのは何故なのだろう。

 

 原因の分からない熱に侵されているみたいに燐は足元を少しふらつかせてしまったが、それでも歩みを止めなかった。

 

 もし、この思いが通じるのならと、淡い期待を抱きながら踏ん張って足を前へと動かしていく。

 

 ──確かな、想い。

 

 それは蛍に会いたいという、確固たる想いだけではない。

 

 単純な、”好意”という感情は確かに燐の心の中で芽生えていた。

 

 それはごく最近のことかもしれないし、互いを良く知らないとき、教室の片隅で蛍の姿を一目見た時からの想いだったかもしれない。

 

 もうずっと前から燐の中であったものだった。

 

 それには優先順位などはなくむしろ誰よりも特別で、()()()()()()()()()()従兄よりももっと大切なもの。

 

 壊れやすいガラス細工のように繊細で、でもだからこそ大事にしたい確かな思いだった。

 

(蛍ちゃん……わたしは……!)

 

 透明な笑顔で微笑んでいる親友の顔を思い浮かべながら、燐は木々の間を抜けてゆく。

 

 どれだけ行けばいいのだろう?

 なんて、疑念は一切頭に浮かべることなく。

 

 汗に濡れた額を軽く拭いながら無言で足を動かした。

 

 肺が息苦しさを訴えようとも、先へと進んで行く。

 

 たった一つのものを手に入れる為だけに。

 

「あっ」

 

 よく分からない疲労を感じながらもそれでもペースよく山を登っていた燐が不意に足を止めた。

 

 ようやく山頂へと差し掛かり、それから少しの下りが続いてちょっとは楽になると思っていた矢先のできごとだった。

 

 ちょうど遠くの山に目をやったとき、燐の目の前を青い綺麗な色をした鳥が間近を横切って行って、思わず感嘆の声を上げたのだ。

 

 燐は急いでスマホを取り出す。

 

 その鳥の名前が知りたかったのと、あわよくばもう一度飛んで来てくれればこのスマホに撮って後で蛍と一緒に見ることが出来るのとの、二つの意味合いからのものだった。

 

 とりあえず、横に持って待ち構えてみたが思い通りにはいかないらしく、鳥はもう燐の目の前に現れることはなかった。

 

 燐は小さく肩を落としながらしょうがなくスマホで検索をかけてみたのだが、なぜだか該当する鳥を見つけることが出来なかった。

 

 綺麗な瑠璃色の羽を持っていたからすぐに分かるだろうと思っていたから。

 

 不思議そうに液晶を眺めながら燐は首を傾げた。

 

「でも、カワセミじゃなかったよね? 今の」

 

 それなら自分だって分かるし。

 

 写真に収めることができたら一発なんだろうけど。

 

 何か、別の鳥と見違えてしまったのだろうか?

 

 自分の観察眼の無さに呆れながら燐がスマホから目を上げた、その時だった。

 

 ──急に世界が一変したのは。

 

 そこにあったのは見知った山の光景なんかではなく。

 

 鬱蒼とした緑の森と、古い線路が何の前触れもなく燐の目の前に現れていた。

 

 下草に埋もれるようにして古い鈍色(にびいろ)の線路とボロボロになった枕木がいつの間にか燐の靴底に広がっていた。

 

「えっ、ここって!?」

 

 燐はぐるりと視線を回す。

 

 山の影は見えず、天井(そら)は緑の木々に覆われて、全てを隠してしまっていた。

 

 線路を取り囲むように小さな枝や幹がバリケードのように辺りを覆い尽くしている。

 

 足元に伸びている錆びた線路は、もう廃線となった森林鉄道に使われていたものだ。

 

 これと言った標識のようなものは無いけど、多分間違いはない。

 

 それは確信を持って言えた。

 

 ここは確かに。

 

 あの日みた、緑のトンネル──。

 

「……どうしよう、何かちょっと感動しちゃってる。のんびりと眺めてなんかいられないはずなのに」

 

 燐はつい自分がするべきことを忘れて、突然現れた非現実的な光景に引き込まれるように見入ってしまっていた。

 

 森全体に包み込まれているみたいな、葉と枝で出来ているトンネルは今みてもやっぱり綺麗だった。

 

 ずっと見ていられそうな情景であるが、何か吸い込まれていきそうな危うさもある。

 

 探しても見つからない場所だったから確かに少し不気味な感じがするけど。

 

 それでも、今登ってきた山とは違った、別世界の光景だった。

 

 それが燐の視界一杯にずっと奥にまで広がっている。

 

 青いドアの家の世界とは違った、別の世界。

 

 そこに燐は辿り着いていた。

 

 世界から切り取られて、夜に包まれた世界と一緒に消えてしまったと思っていた場所に。

 

 どうしてこうなったのかは全く見当の付かないことだったが。

 

「このトンネルだけが町の中から無くなっていたんだよね。他は普通だったのに」

 

 青いドアの家なんかよりも全然近いはずなのに、何故か行くことが出来なかった。

 

 ”廃線跡の緑のトンネル”。

 

 それを再び見ることができていた。

 

「何だろ、ちょっと不思議な感じがする」

 

 燐は足元の感触を確かめるように何度も地面を踏み直す。

 

 それは足先から悪意の持った気配を感じ取っている、とかではなくて。

 

 輪郭を失ったときの感覚に少し似ていると思ったから。

 

 それを認知させるようにしっかりと大地を踏みしめていた。

 

 自分を認めさせるように。

 

「あれっ? でも足が」

 

 前に来た時にはこんな感じはなかった。

 

 本能的なものがそうさせているか、燐の細い足が小刻みに震えていた。

 

 さっきから地面が揺れているように感じるのは、あの奇妙な列車が来るときの予兆なんかではなく、恐れがそうさせているだなんて。

 

 これは確かな事実。

 

 認めたくは無いことだけど。

 

 立ち止まらなければきっとこうはならなかったはずだ。

 

 勢いのままトンネルの中に駆け出してしまえば気にもならなかっただろう。

 

 でも、一度立ち止まってしまったから。

 

 ──すぐには走り出せない。

 

 向こうと、こちらとの間の境界線がこの場所なのが分かってしまったから。

 

 この先に行ったら多分、もう元の世界には戻れない。

 

 そんな気がするから。

 

「ここに来て怖気づくなんてらしくないよね。だけど……」

 

 やっぱりひとりだからだろうか。

 

 思う様に足が進まない。

 

 燐は不安定な吊り橋の上を渡るようにゆっくりと歩き出す。

 

 走る事に抵抗があったとしても、歩くことぐらいは何とか出来る。

 

 まだ足は震えているけれど。

 

 蛍と一緒に見ていた景色を今は自分がひとりで眺めているから、不安に駆られてしまうのだと思う。

 

 寂しさからくるものだと言えば確かにそうなんだろうけど。

 

 燐は小さくため息を落とす。

 

 それに呼応したかのように、空を覆い隠すほど伸びた長い木の幹から透明な耳飾りのような水滴がひとつぶ落ちた。

 

 よく見ると少し前まで雨でも降っていたように、枝も葉もしっとりと濡れている。

 

「まるで、あの時のままずっと残っていたみたい」

 

 あの奇妙な夜の後から、この廃線跡のトンネルはその姿を消してしまっていたから、それでもそんなに不思議でもないのかもしれないが。

 

 歪みが終わった場所であったから、始まりでもあるのかもしれない。

 

 それは、やはり歪みの再来?

 

 もしくは別の異変なのか。

 

 どちらにしてもきっとここからなんだ。

 

 世界、ではなく。

 

 二人だけの異変(じしょう)として。

 

(そうだ、わたしと蛍ちゃんの問題なんだ、これは)

 

 一度そう認めると、不思議と身体が軽くなっていく気がする。

 

 それはいつもよりもうんと速く、そして簡単に目的の所に辿り着くことができそうな、そんな気になってしまう。

 

 単純すぎるのだろうか。

 

 でも、すっと楽な気持ちになった。

 

 その事だけに集中できるから。

 

 あの最後の日の時はどうしても悲壮感というか、どこか諦めが拭えなかった。

 蛍と一緒に居ること自体は楽しいんだけど

 

 それでも本当に楽しいとは思ってはいけないような、そんな罪悪感みたいなわだかまりが胸にずっと纏わりついていた。

 

 表面では繕うことができていたけど。

 

 それに今だって、何か黒くてもやっとしたものがずっと張り付いている気がする。

 

 このままもう会えなく無くなってしまうのではないのかと思ってもしまうし、何でまたこんなことに巻き込まれたのだろうと、憤りというか不条理さを感じていたから。

 

 やっぱり何かそう言った”因子”みたいなのが、自分の中にあるのではと疑ってしまうほどだったから。

 

「でも、そうじゃない……蛍ちゃんも、わたしも、オオモト様だって……きっとそういう事じゃないんだ」

 

 線路の上に足を乗せながら小さく、でもはっきりと頷いた。

 

 原因なんてものは元々ないのだと、全ては偶然から生まれるものなんだと。

 

 だから、その為のこの線路なんだ。

 

 そう、信じたい。

 

 先へと続く道はもうここしかないのだから。

 

 燐はトンネルのそのまた奥を見つめる。

 

 さっきから何の音もない。

 

 虫や鳥どころか、樹々の葉音や水のせせらぎさえも。

 小さな風すらもおきてはいなかった。

 

 まるで全ての生命が死に絶えたみたいに静かだった。

 

 燐は急に肌寒さのようなものを覚えて、二の腕の辺りを軽く擦った。

 

 静まり返ったトンネルの中の線路はずっと奥にまで続いていて、それはどこまでも続いてきそうだった。

 

 ずっと、ずっと。

 

 それは永遠に届きそうなぐらい。

 

 かんぺきな──世界にまでも。

 

「そういえば……あの転車台も、あるのかな?」

 

 きょろきょろと辺りを窺いながら燐はふと思った。

 

 あの時は、もう使われていない古い転車台がトンネルの出口にあったけど、今はどうなのだろうと。

 

 世界を切り替えた”もう一つのスイッチ”。

 

 それがあの転車台だった。

 

 世界を変えてしまうほどの強い力が集中していた場所。

 

 まだ残っているだろうか。

 

 もしまた、”切り替える”の必要があるのだとするのなら、そこを目指すしかないのだが。

 

(わたしは、出来るんだろうか……ひとりで)

 

 あの時の、蛍ちゃんみたいに。

 ちょっと自信がない。

 

 でもやるしかないんだ。

 

 今度こそわたしが彼女を救ってあげるんだから。

 

 本当の意味で。

 

「とりあえず、もうちょっと身体が動いてくれないと、ね」

 

 燐は再び足を止めると半ば強引に体を動かした。

 

 山登りなんかでも事前にこうして身体をほぐしておくと、なんか不思議と気持ちが落ち着いていくものだったから。

 

 太もも、ふくらはぎ、足首に至るまで足を中心に重点的にじっくりと体を解す。

 

(そういえば、トレッキングするときはお兄ちゃんと一緒にこうやってたんだっけ)

 

 もう、ずいぶんと前のことみたい。

 

 聡と一緒に色々な山に行っていた日々が、とても懐かしく感じる。

 

 少し悲しく思えるけど、割り切れる思いもある。

 

 全部過去に出来るほどではまだないけど。

 

 いつかは分かる日が来ると思っているから。

 

「うん、なんとか動けるかな、これで」

 

 両足でぴょこんと跳ねてみる。

 

 じっくりとストレッチしたおかげか、氷のように固まった体が解きほぐされていた。

 

 小刻みに震えていた燐の両足は元のしなやかな、いつもの脚へと戻っている。

 

「よし! これならって……あれ?」

 

 これでようやく緑のトンネルの中へと本格的に足を進める決意を固めた燐だったのだが、不意に視界の片隅に光るものを見つけてそこに目を凝らした。

 

 何てことはなかった。

 

 付けていた腕時計の文字盤が葉のトンネルから零れた光を反射させてただけだった。

 

 それだけの事で終われば良かったのだが、つい燐は時間を確認してしまう。

 

 意味の無い事だと分かってはいるはずなのに。

 いつもの習慣がそれをさせていた。

 

「……もう夕方になるんだ。今からだと完全に夜だね」

 

 トンネルの中をちょっとしか進んでいないのに、いつの間にかそんな時間になっていた。

 

 もしこの廃線跡のトンネルがあの時と同じものなら、かなりの距離があるだろう。

 

 あの時とは違って走って行くつもりだから、少しは短縮できるとは思うが。

 

 それでも結構な時間を費やしてしまうのは必至だった。

 

 出口なんてそれこそあるかどうかもまだ分からないんだし。

 

「でも、行くんだ。きっと、待っているはずだから」

 

 燐はぶんぶんと首を横に振ると、何を思ったのか腕に付けていた腕時計を外して線路の脇へとそっと置いた。

 

「ごめんね、後で必ず取りに来るから」

 

 燐は申し訳なさそうに置き去りにした腕時計に苦笑いを浮かべると、くるりと振り向いて錆びた線路の上をぴょんと駆けだしていった。

 

 ずっとずっと、どこまでも続いて行きそうな線路だったが、それでも燐は速度を落とさずに走り続ける。

 

(本当は、すごくお気に入りのものだったから勿体ないとは思ったけどっ……!)

 

 ずっと大切に使っていたし、機能性やデザインも含めて愛着のあるものだったから、今すぐにでも取りに戻っていきたい気持ちはあった。

 

 でも。

 

 そのぐらいの覚悟がいる。

 そう思ったから。

 

 あれは願掛けのようなものだ。

 

 それと、もし戻れなくなったとしても誰かがあの時計を見つけてくれるのならそれが痕跡となる。

 

 ここに自分がいたという証拠として。

 

 例え記憶から消えてしまったとしても。

 

 残るはずだから、それだけは。

 

 簡単には辿り着かない場所なのはよく知っている。

 

 ──青い青い空の、その更に向こうの空。

 

 どんなに頑張っても手の届かない場所にきっといるんだ。

 

 大好きな、蛍ちゃんが。

 

 

 誰も居なくなった古い線路の脇で白い腕時計が静かに時を刻んでいた。

 

 時間の概念などない空間(トンネル)で。

 

 何かの訪れを待っているかのように。

 

 

 

 ……

 ……

 ……

 

「……?」

 

 始めは風の音なのではないかと思い、特に気には留めなかった。

 

 けれど、そうではないらしいと一度でも感じてしまうと、耳から離れられなくなる。

 

 気にしなければいいだけなのについ耳をそばだててしまう。

 

 どちらにしたって重要なことなどではないから、走り続けていればいいだけなのに。

 

 なんで気になってしまうのだろう。

 

 静寂──足音──息遣い──。

 

 それこそ線路の枕木のように規則的に続いているはずだった。

 

 そんな燐以外誰の気配の感じないのに、まるでノイズのように耳朶を打ってくる、音。

 

 頭から消そうとすればするほどノイズは大きくなり、遂には燐の足を止めるほどにもなっていた。

 

「音じゃなくて、声……だよね?」

 

 自問自答しながら燐はそれをはっきり聞くために耳を澄ます。

 

 確かに、”声”なのだ。

 

 けれど、その声の主は何処にも見当たらない。

 

 もしここにいるのならば、このトンネルは一本道なのだから簡単に見つかるはずなのだが。

 

 また蛍との会話が出来るようになったのではと、急いで携帯をみてもなんの通知もされてはいない。

 

 まさかと思い、バックパックからラジオを取り出しても見たが反応はなかった。

 

 困惑する燐を嘲笑うかのように、”声”はより大きく耳に聞こえるようになってゆく。

 

 ドーム状に緑が生い茂っているせいなのか、それは四方八方から聞こえてくるようで、燐はとうとう耳を塞いでしまった。

 

 それでも鼓膜の内側からかき回されているかのように、身体の中にまで響き渡ってくる。

 

「何なの……!? 一体……!」

 

 耳を塞ぎながら当惑するような声をあげる燐。

 

 けれどいくら視線を彷徨わせても何の姿も、誰の影も捉えられない。

 

 幻聴ならばまだいいのにと思うほど、不快感だけがどんどんと強まっていく。

 

 もう限界かと思われたとき、それまで雑音だと思ったものにはっきりと声と認識出来るものが混じり始めたことに、燐は目をはっと見開いた。

 

「ソレガ、オ前ノ、望ミナノカ……?」

 

 ゾッとするような声。

 

 ──そうだ、これは。

 

 燐は思い出す。

 この不快極まりない音、その声を。

 

 サイレンのように頭に響き渡る声を認識した瞬間、燐は総毛立つ思いに駆られた。

 

 粘つくような声がねっとりと心の奥底に隠しておいた闇に触れるように。

 

 自傷の痕は消えていたが、ザックリと心についた傷はもう多分一生消えることはない。

 

 それは自分だけじゃないからまだ何とか保つことが出来ているのだけど。

 

 でも、もしまた──ひとりぼっちになったりしたら……。

 

「…………」

 

 だから、これが──本当の望み?

 

 確かに、そうだと思う。

 

 現実かどうかは置いておくとしても、これはわたしが思い描いていた可能性の、ひとつなんだ。

 

 もしかしたら本当の自分はもうなくて。

 

 ずっとあの空に囚われているのではと、そう思う……今この時だって。

 

 都合の良い夢に浸っているだけで、実際は何も動いてはいないのではないのかと。

 そう思ってしまうのだ。

 

 でも。

 

「こんな所で立ち止まってなんかなれない……!」

 

 見えない声に向けてと言うよりも自分に言い聞かせるように燐は叫ぶと、無理矢理に手足を動かして、逃げるように緑の中を走り抜けていった。

 

 ……

 ……

 

「はぁっ、はあっ、はあっ」

 

 さっきから息が酷く苦しい。

 

 余計なことを考えすぎたせいなのか、或いは別の要因があるのか。

 

 気にしないようにすればするほど、あの声が大きくなっていっているような、そんな気になってしまう。

 

 どこまで行ってもその声は遠ざかることなく、いつまでも耳の奥に纏わりついてくる。

 

 追いかけてくる声に阻まれたように燐はまた足を止めてしまっていた。

 

「はあ、はあ、なんで、こんな……」

 

 この緑のトンネルだってそうだ。

 

 どこまで行っても出口なんかはなく、実際は既に失われていて、ただ同じ場所をぐるぐると周り続けているだけなのではと。

 

 悪意のある妄想が止められない。

 

 もう後戻りなんか出来るわけないのに。

 

「オ前ノ全部ヲ滅茶苦茶ニシテヤル……!」

 

 無視していた雑音が耳の穴の奥にまで入り込んでくる。

 

 もっとも聞きたくない言葉を”それ”に吐かれて、燐はとうとう両耳を手で覆ってその場で蹲ってしまった。

 

 ドクンドクンと鼓動が早くなっていく。

 

 癒えたと思った傷がじくじくと疼いているみたいに。

 

 心の古傷をぐりぐりと言葉でもって甚振ってくる。

 

「何のためにこんなことっ!? わたしはただ、進みたいだけなのっ!」

 

 ずっと耳元で響きまわる雑音を打ち消すように燐は大きな声をあげた。

 

 それでも鳴りやむことはない言葉の暴力に辟易としながらも、燐は耳を抑えながらトンネルの中を再び駆けだした。

 

 どこまでも、どこまでも悪意はついてくる。

 

 まるであの夜の出来事を再現しているみたいに。

 

 わめいても叫んでも”その声”はどこまでも燐の後を追ってくる。

 

 顔を持ってないのに追ってきたあの、白い人影達のように。

 

「逃ゲラレナイ……何モカモ……罰、カラハ逃レラレナイ……」

 

 燐はそこではっと気づく。

 

 この声は人影ではなく、あの”ヒヒ”のものではないだろうか、と。

 

 何故、今更になってコイツの声が響いてくるんだろうと。

 燐は苛立つように唇をぎゅっと噛んだ。

 

 そんなことをしてもそれこそ意味のないことなのに。

 

(進むことを邪魔されているだけ? けど、どうして……!?)

 

 変わってしまった川の流れを戻せないように。

 もう別の流れに変わってきている。

 

 与えられるだけの幸運も、それを呼ぶ座敷童ももういない。

 

 新しい町へと変わっていくのだから。

 

 だから本当に必要なのことは。

 

 殻を破って引き裂くことなのかもしれない。

 

 幸運という思い込みの殻を破り──向き合う事なんだと。

 

 自分と言う、たった一人の存在と。

 

 だけど。

 

(でも、もうそんなことすら求めてはいない)

 

 このまま元の世界に戻れなくたってかまわない。

 

 蛍と一緒に見る情景がこの世界にないのだから。

 

 好きな人に会いに行くことに一体何の罪があると言うのか。

 

 燐は言い返したい衝動を呑み込みながら、懸命に走った。

 

(もう……あの夜の時に分かっていたことなんだ)

 

 終わらない夜の世界から逃げきることができれば、自分はどうなったって構わないとおもっていた。

 

 心はもうボロボロで疲れ果てていたし、他に支えの様なものももうなかった。

 だからこそ、彼女さえ逃げてくれれば、と。

 

 そう思っていんだ本当に。

 

(でも、そういう事じゃなくて……わたしは誰の助けにも、希望にすらもなれなかった)

 

 お兄ちゃんと、わたしは蛍ちゃんのおかげで救われたけど。

 

 わたしは誰も救えてなどいない。

 

 このヒヒの声は救いの声かもしれない。

 

 父や母、そして従兄、そして一番大事な人。

 

 誰一人助けられなかった。

 

 ヒヒの残滓が付きまとうのもそういう自分の不甲斐なさが作り出したものなのか。

 

 ……確かにそうかもしれない。

 

 自分のやったことはただの欺瞞だったんだなってことぐらいは分かっていたから。

 

 単なる自己満足。

 

 でも、あの時はそれでいいと思っていた。

 

 やっぱり妥協はできなかったから、だから結果はどうあれ自分なりに頑張った結果なんだと思ったから。

 

 ある意味での納得はいったけど、ただ虚しさが残るだけだった。

 

 でも、そういう事じゃないんだよね。

 

 まだ子供だからだったなんて、良い訳ばっかり積み重ねてきたけど。

 

 結局、何も持っていなかった。

 

 ”本当に大切なもの”とは一体何だったのか。

 

 確かめたいとかそういうつもりなんかなかったのだけれど、それがあんなことになってしまった。

 

 やり直せばいいなんて甘い考えからのものなんかじゃなくて。

 

 ただ、そうしたかったというだけだったのに。

 

 ”彼”にも”彼女”にもあんな悲しい顔をさせる為にしたわけじゃなかったのに。

 

 ただ、幸せになってほしかったの。

 できれば、みんな。

 

 わたしに関わりを持ってくれた全ての人達が。

 

(でも、同じことをしたんだと思う。わたしはお兄ちゃんと同じことを、蛍ちゃんにもしてしまった)

 

 お兄ちゃんもそうだったけど、蛍ちゃんの幸せにも自分が絡んでいることはよく分かっていた。

 

 ずっと一緒に居てあげたかったのは本当。

 でもそのせいで傷つけてしまうのはやっぱり耐えられないことだったから。

 

 だから……離れた……?

 

 拒絶に近い形になったとしても。

 

 でも。

 蛍ちゃんはその後も普段通りにわたしに接してくれている。

 

 それこそ恨まれたって、ころされたっていいはずのことをしたわたしに。

 

 それは決して、許されたとかではない。

 

 彼女は、”そうとすら思っていなかった”だけだった。

 

 何て言うか本当に純粋で、疑うということすら持っていない、とても大事な人。

 

 だから、わたしがついていなくっちゃ。

 

 何てことは、もう思ってはないけど。

 

(やっぱり違う世界の人っぽいよね、今でも)

 

 むしろずっと前よりも綺麗になったせいか余計にそう思ってしまう。

 本人に言ったらきっと困った顔をするとは思うけど。

 

 自分もそう、何だっけ?

 

 今だにそう言った自覚なんかは全く湧いてはこない。

 

 少し勘が強くなってる気はするけど、それだって全然常識の範囲だと思ってるし。

 

「不完全なコップで水を飲んだわけではないんだけどね」

 

 燐は自分で言ってくすっと笑う。

 

 笑ったら、ちょっとだけ雑音が気にならなくなった。

 

 それに気づいたのか、燐は無理に笑顔を作ってみる。

 

 でもそれだけだとやはり不自然なので、楽しいことだけを考えることにした。

 

 蛍と一緒の代わり映えしないけど楽しかった日常のことなんかを、燐は胸いっぱいに思い描いていた。

 

 きっと、何か違うものに変わったってこの思いはずっと変わることがないのだから。

 

 どちらにしたって今は。

 

(わたしの方が蛍ちゃんから離れられなくなってるよね……まあ、こうなるんじゃないかなってことは一緒に住む前から分かってたことだけど)

 

 寂しがり屋なのは多分、一生治りそうにない。

 

 でももし、そのことがこの世界に何かの影響を与えているのだとしても。

 

 迷いは一切なかった。

 

「わたしからはもう離れない。蛍ちゃんが嫌っていうまでは一緒にいるんだ、何が起こったとしても!」

 

 その為に出来ることはただ一つ。

 蛍ちゃんを向こうの世界から何としても助けてだしてあげたい。

 

 今度こそ、わたしのこの手で──何があっても。

 

(もしかしたら、また何もできないかもしれない。でも……だけどっ!)

 

 燐はばっと顔を上げると、何もない緑の空間に向かって、少し切なそうに笑顔を向けた。

 

 そして、両方の耳からぱっと手を放すと、片方の手を大きく振り上げながら廃線跡のレールの上を走ってゆく。

 

 歪んだような声はもう耳には届いていなかった。

 

 ──

 ──

 ──

 

「はっ、はっ、はっ」

 

 青と白の世界にある線路の上でも黒い髪の少女が走っていた。

 

 色々考えてみたところで、結局こうして足掻くことしか方法を知らなかったから。

 

 でも、走るのはやっぱり苦手だったから、すぐに息が苦しくなってしまうけど、自分からそう決めたのだから。

 

 歩いたってそれは別に良かった。

 

 時間なんてもうそれこそ、この世界では最も無意味なことなのだから。

 

 それでも込み上げる焦燥感はどうしてもあったから。

 

「でも、そんなに息苦しくない?」

 

 ここまで結構な距離を走ってきた気はするが、限界って感じはまだしない。

 

 むしろ走るたびに身体が軽くなっていくような気さえする。

 これなら本当にいくらでも走れそうなぐらい。

 

「本当に、足に羽が生えたみたい……」

 

 ”蛍”はそのことを内心不思議そうにしながらも、それ以上の疑問は持たずに白いレールの上を跳ねるように渡ってゆく。

 

 行き先は青いドアの家から出た反対方向、あの奇妙な電車が来た方へと蛍は進んでいくことにした。

 

 オオモト様が言ってたように、確かにドアは閉じられてはいなかった。

 

 鍵は掛かってないというより。

 

(多分、わたし自身が”鍵”だったんだ)

 

 家やドアが人の想いで出来ているのなら、その鍵もまた人の想いなのだろうと。

 

 そう思ったのだ。

 

 けれど、鍵を創ったというわけではなく、ただ、蛍がドアに触れただけのことだった。

 

 でもそれこそが鍵だったんだと思う。

 

 入るのも出るのも自由だけど、そうするだけの資格が自分にはあったのだろうと。

 

 蛍はそのことに少しの疑念も持たなかった。

 

 むしろ自分はそうであると受け入れた上で、家から出ることに決めたのだ。

 

 正しい足跡を辿っていくように、ひとつの迷いもなく。

 

 実際、この世界の基準とは──”青いドアの家”だったから。

 

 この家こそが世界の中心であり、そして終わりでもあった。

 

「だったら、始まりの前のところに行くしかない」

 

 そう蛍は決心した。

 

 例えそれが、本当の終わりであったとしても。

 

 青いドアの家に戻る考えは、全く頭に入ってなかったから。

 

「やっぱり、この先には駅があるのかな?」

 

 前に不思議なテレビで見た画像ではそういった建造物はひとつも映ってなかったけど。

 

 足元のレールは本当にどこまでも伸びていそうに地平線の先にまで繋がっていて、それこそ使われていないみたいにキラキラとした光を放っていた。

 

 それはレールだけでなく、枕木や敷き詰められた小石でさえも白く、宝石みたいに輝いている。

 

 まるで、光の道で照らされているみたい。

 蛍は不思議そうにそう思った。

 

 先の見えないレールを何のために走っているんだろう? 

 そう、走りながら自分に問いかけてみても答えはずっと同じ。

 

 同じ答えが頭の中で繰り返されている。

 

(燐と、もう一度会って、それで)

 

 そして、言いたいことがあるんだ。

 

 ──わたしと。

 

 ”わたしなんかと友達になってくれてありがとう”って。

 

 そう、燐へ伝えたい。

 

 わたしの、ほんとうの気持ちを。

 

 友達なんかよりもずっと大切な人だけど、それ以上の言葉はきっと燐を困らせるだけだから。

 

 燐は軽い気持ちであんな、”ビックリすること”を言ってくれたけど。

 

 わたしは……結構気にしてる。

 

 燐の口からその言葉が出た瞬間からずうっと。

 

 どういう気持ちが込められた言葉なのか、怖くて聞けなかったけど。

 

 それもちゃんと聞こうと思う。

 

 燐の口から直接。

 

 あなたの本当の言葉で。

 

 きっと新鮮な気持ちで燐と向き合えると思うから。

 

「だから、燐、待っててね」

 

 何もしないでじっと待っているなんて自分にはできない。

 

 燐も知っているとは思うけど、結構せっかちなんだ、わたしは。

 

 それに多分、燐も同じことをしているような気がする。

 

 ああ見えて結構頑固なところあるし、意外と似てるところあるから。

 

「気持ちも、同じだといいんだけど」

 

 そう言って蛍はくすっと小さく笑った。

 

 心がちょっと暖かくなった。

 

 ……

 ……

 ……

 

 線路がつづく白い大地の横の大きな水たまりに青い影が落ちる。

 

 流れる白い雲の影と、走っている蛍の影がきらきらと光を粉をまぶした水面に映り込んでいた。

 

 水溜まりに映る少女の姿は確かに”蛍”だったのだが、そこではちょっと違う姿で映っていた。

 

 今よりも背はずっと低く、黄色い傘を手にしながら楽しそうに歌を口ずさみながら線路の上を走っている。

 

 恐れるものなど何もないぐらいに好奇心に目を輝かせながら元気いっぱいに。

 

 ふわふわと踊るシャボン玉を追いかけているような無邪気さで、息を弾ませていた。

 

 何か、夢見ているかのように。

 

(よく分からないけど、すごく懐かしい感じがする?)

 

 蛍は走りながら小首をかしげた。

 

 前にはこうして一人で日が暮れるまで遊んでいたんだったっけ。

 

 青と白の奇妙な情景がそうさせているのか、蛍はちょっと昔を懐かしむような気持ちで心持ち足早に体を動かしていた。

 

 反対側の水の影にはもう少し成長した頃の蛍の姿があった。

 

 相変わらずひとりで楽しそうにはしているが、どこか寂しさというか空虚な感じを醸し出している。

 

 それは、燐と出会う前の、何もなかった時の”ちょっと内気だった”蛍だからかもしれない。

 

 真新しい制服を身につけているが、現実なんかよりも空想の方が捗っているようなどこか、人との関わりをもたないような印象がその俯く表情に現れていた。

 

 それでも一生懸命に走っている。

 

 息を切らせながらだらだらと走ってはいるが、それでも足を止める気は毛頭なさそうだった。

 

 それぞれの蛍には共通していることがあった。

 

 表情は異なっていたが、どの姿の蛍もただ一点を真っ直ぐに見つめながら走っている。

 

 無邪気な頃の蛍も。

 どこか空虚な感じを纏わせていた頃の蛍も。

 

 同じように前を見て走っている。

 

 何か、逃げていくものを追いかけているみたいに。

 

 だが、”本当の蛍”が様々な顔をもった自分の姿を映し出す水面に気が付くことはなく、足元を確かめたりしながら懸命に線路の上を走っていた。

 

 きっと──待っている人がいるから。

 

 ずっとずっと大切だった人が。

 

(だから行くんだ、例え全てがなくなってしまったとしても……!)

 

 

 同じだった。

 

 二人は離れていても、ぴったりと同じ方向を向いていた。

 

 一切の澱みなく。

 

 

 燐も蛍も大切な人の待つ、”かんぺきなせかい”だけを目指して線路上を走っていた。

 

 

 ──

 ───

 ────

 

 






□Stray
猫を操作するまったりな猫生活ゲーム──と思いきや、ディストピアな世界線の中を猫が彷徨い歩く、”サイバーパンク風ネコゲー”でした。
敵、みたいなのも一応いますし、最後はちょっと切ないエンディングだったですしねー。どちらかというと比較的短い内容でしたけど、とりあえず猫が可愛いから良し! なゲームでしたねぇ。
それと軽くネタバレになっちゃいますが、色々あっても最後は青空だったということで何かスッキリとしたエンディングでしたねー。続編がありそうな感じはしますけれどもー。っていうか欲しい感じです。

で、青空と言ったら……”青い空のカミュ”ですよね!!!
さてさて、ダウンロード版が、5月8日の17:00まで3000円セールをやっておりますー!!! 長いGWの機会に大変お買い得な、美少女ゲーム”青い空のカミュ”を是非是非お試ししてみてください!! 

ではでは、素敵なGWになるといいですねー。


それではではー!!

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