We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life. 作:Towelie
小さく開けた口からもわっとした熱い息を吐きだす。
……何をしているんだろう、こんなところで。
ハンカチで額を拭いながら、蛍はぼんやりとした思考で受話器を握りながらそんな些細なことを頭に浮かべていた。
(何か……さっきから暑い)
脈打つたびに身体の内側からかっと汗が噴き出てくる。
それなのに手足は氷のように冷たく、握りしめた受話器に張り付いているようで。
蛍はまた、はぁと息を漏らした。
照り付ける日差しはあるが、それに暑さを感じられない世界なのに、さっきからずっと暑くてたまらない。
ぽかぽかではなく、かっかとする感じ。
ガラス張りの植物園の中か、一人用の
(サウナは苦手だから長く入っていられないのに……)
でも、もしかしたらダイエットとかに効果がある?
そんな事よりも、このままだと倒れてしまいそうになる。
それぐらいこの中いると熱く感じる。
青いドアの家ではこんな居心地の悪さを一切感じなかったのに。
(やっぱり、あれだよね……)
狭く、閉鎖された空間がそうさせているのは分かっている。
空調も窓もなく、ただ透明な板で仕切られているだけだから、どうしても熱はこもりっぱなしになる。
ちょっとした隙間のようなものはあるとは思うが、そんなのでは役に立たないのだろう。
じゃないとこの暑さは説明がつかない。
ただ、立っているだけなのに汗がだらだらと噴き出してくる。
一旦、外に出ればいいのだろうが。
(電話を切ったらもう、つながりそうにない気がする……)
まだ繋がったままの電話のことが気がかりなのか、蛍は中々出ようとはしなかった。
蛍が息を吐くたびに、箱の中の温度がどんどんと上昇していくように感じる。
いくら拭っても流れる汗が止まってくれない。
(ちょっと、息苦しい……のかも……)
すべすべとした額から冷たい汗が滴り落ちた。
流石に限界が来たのか、透明な仕切り板に身体をもたせて少し楽な姿勢を取る。
それでも火照った体までは癒せない。
意識が朦朧となりそうになり、蛍は片手を突き、倒れ込まないようバランスを取った。
ぐにゃっとした湿気が纏わりつく様な嫌な感じに、蛍はとうとう出入り口のドアを開ける。
「はぁぁ……」
つい声を上げてしまっていた。
風がない世界だから、ドアを開けたところで爽快感なんか感じることはないのに。
それでもここちよい。
抑制から解放されたみたいに、蛍の顔がぱあっと緩んだ。
(よかった。ちゃんと開くことができる)
ドアが開くことでまだ外の景色と繋がっていることに安堵した。
こんなところに閉じ込められたらと思うとぞっとする。
こちらからは見えているのに、そこに辿り着くことが出来ないなんてことは、さすがに辛いことだから。
一枚の透明なガラスで仕切られているだけなのに、外と内とではまるで違う世界のよう。
初夏を閉じ込めたようなクリアな”青いドアの家の世界”とは違って、電話ボックスの箱の中はじめっとした、梅雨の日の夜の森のような閉塞感を感じる。
まるで、人ひとりがすっぽりと収まる事のできる水槽か虫かごにでもいるような。
やるせない気持ちになってしまう。
透明な箱で区切られているだけなのに。
ただそれだけで世界から孤立させられているように思えた。
ただでさえ、自分達の知る世界とは違う場所にいるのに、さらに分けられてしまうだなんて。
そう思うと急に不安になる。
閉じ込められたりはしないだろうか。
(ええっと……)
蛍は何かを探しているように、ドアの隙間から外を見やる。
その視線は青い空の景色ではなく、ずっと下の方に注がれている。
「あっ」
蛍は受話器を抑えながら小さく声をあげると、それに向かって手を伸ばした。
「うーん!」
片足でドアを抑えているせいか思う様に手がとどかない。
蛍は限界まで受話器の線を伸ばすと、ドアの近くにしゃがみ込んで手を限界まで伸ばした。
ドアのすぐ近くにあった”それ”蛍の細い指が触れる。
固そうな感触があったが、伸ばした指を手繰り寄せるように動かしてちょっとづつ手前へと運ぶようにした。
「はぁ、はぁ」
変な体勢だからか、思う様に力が入らない。
それでも諦めることなく指を動かす。
ちょっとづつ、ちょっとづつ。
蛍は心中で呟きながら五本の指を伸ばす。
また変なことにしてるとは思ったが、ここまで来て止める気もなかった。
結構な重さがあったので、最悪爪が剥がれてしまうのではないかと思ったが。
(や、やっと運べた……)
苦労のかいがあり、何とか電話ボックスの中にまで引き寄せることに成功した。
片手で持つには結構な重さがありそうなので、足を使って動かす。
それを正面に向けた時、蛍は目を瞬かせた。
それは想像していたものとは少し違っていたからだった。
(あれ? これって……)
ちょうど良い、手ごろな大きさの石みたいに見えたから、万が一、閉じ込められないようにとドアストッパー代わりにと、必死になって拾おうとしたものだったが。
石には違えなかったが。
(大きなかたつむり……”アンモナイト”だっけ。それの化石みたい)
小さなかたつむりの殻ならこの世界でも落ちていたけど。
アンモナイトの化石は流石に初めてだった。
常識が少し違った世界だとは思ったが、三億年前の生命の痕跡がこんなところでそれも無造作に落ちているだなんて。
蛍はそっと触れて見る。
さっきまで割と雑に扱っていたのに、急に扱いが慎重になったことを我ながら少し可笑しく思ったが。
蛍は愛おしそうにその化石を人撫ですると、スライド式のドアの隙間に手で押して置いた。
ちょっと申し訳なく思ったが、これならこのちょっと不思議な電話ボックスの中に閉じ込められることもなさそうだ。
蛍は隙間で頑張っている石に向かって軽く謝る。
「ごめんね。でも、あなたのお陰でわたしは安心することが出来るから」
小声でそう言うとにこりと微笑む。
何だか、久しぶりに笑った気がした。
「ふぅ……」
蛍は少し開かれたドアの間から、始めて空気の匂いを嗅いだように、少し鼻を高く上げる。
硝子越しに見える水平線の向こうから、夏の匂いを感じ取る。
小さい頃よくプールに入る際に嗅いだ、塩素が反応した化学物質の匂い。
もう戻らない夏の残影を、現実とは違う世界で感じる。
蛍は軽く息を吐くと、幼い頃の思い出を全部飲み干すように瞼を閉じて深呼吸をする。
閉じた瞼の裏側でその記憶は情景となって、この世界にあるはずのない涼しさを微かにでも確かに感じさせた。
少しだけ熱さが和らいだような。
そんな気持ちになった。
……
……
蛍はまだ受話器と向かい合っていた。
今でも、蛍の家の電話と繋がったままだったが相変わらず無言が続いている。
でも、と思う。
”青いドアの家の世界”にこんなものがあったから、初めはとても不思議だった。
誰もいない小さな駅舎の横にあった、少し古い感じの電話ボックス。
いつまでも夏が続いているような世界で、その電話ボックスは青と白の情景に自然と溶け込んでいた。
その中でじっと待っている。
”誰か分からない相手”が話し出してくれるのを蛍は。
唇を引き結びながら片手で受話器を持ち、もう片方の手に握られた小さな鏡をじっと覗き込んでいた。
(やっぱり、燐じゃないの?)
向こうの世界を垣間見えることのできた鏡は相変わらず蛍の顔しか映さない。
もう役に立たないと思ってももしかしたらと覗き込んでしまう。
メイクも何もかも汗で崩れてしまった、酷い自分の顔が映っているだけなのに。
実のところ、燐かどうかはすぐに判別がつかなかったのだ。
たった一言しか声を聞けていないわけだし。
ただ、妙に他人行儀な喋り方をしていたから、燐じゃないと思い込んでいただけで。
確か、女の子のような感じの声色だったけど、その声に抑揚というか生気みたいなものを感じなかった。
機械的という表現がしっくりくるような。
だから、また鏡を覗き込んでしまう。
この想いが燐にもう一度届いてくれれば、と淡い期待を込めて。
でも、やっぱり鏡に変化はない。
丸い鏡はもう燐の姿を写してはくれない。
映るのは不安気に揺れる蛍の顔だけ。
普通の鏡に戻ったことはもう分かっているのに。
(あっ、そういえば……)
蛍は何を思ったのか、その鏡を例のドアストッパーと化したアンモナイトの化石へと向けて見ることにした。
今、蛍以外で生命の痕跡のようなものが残っているのはこれだけだったから。
蛍は何故かドキドキしながらドアに挟まれた哀れな化石に向けてその鏡面に映るよう鏡を傾ける。
小さな丸い鏡の中には──。
悠久の時を超えて、生前のアンモナイトの泳ぎ回る姿が映るようなことは当然なく。
物言わぬ化石となったアンモナイトの殻の姿が映っているだけだった。
(まあ、何も起こるはずないよね)
分かっていたことだけど。
だが、そこでようやく蛍はこの鏡が本当に役目を終えたことを理解することができた。
それともう一つ。
後になって分かった事だが、”これ”は元の場所に戻してあげるべきだった。
そうすれば”この子だけ”は無事で済んだはずなのに。
……
……
……
結構無駄な時間を過ごした気がしたが。
それでもまだ、電話は切れてはいない。
それは気配というか、電話機の状態で分かる。
もし切れていたら、それを指し示す電子音が受話器から鳴るはずだし。
多分──向こうも待っている。
どういうつもりかは分からないが、こちらの出方を窺っている。
そんな予感がするのだ。
だが、そこに何の意図があるのだろう。
もしそれが悪戯じゃないとするならば。
「はぁ……」
(何でわたし、こんなわけの分からない相手の電話を待っているんだろう?
急に馬鹿らしく思えてきたというか。
(何か少し眠い……自分から電話をかけたのに)
ドアを少し開けておいたお陰か少し心地よくなったのか、眠気が出て来ていた。
このままだと立ったまま眠りそうになる。
蛍は慌てて姿勢を正すと、ふわっと口から出てた欠伸をかみ殺した。
……やっぱり、電話を切るべきだろうか。
誰か分からない相手なのだし。
現実の世界との接点が欲しかったのは確かだ。
その相手が燐だったらどんなに嬉しかったことだろう。
きっと、携帯の時よりももっとずっと話し込んでただろうと思う。
燐との間で話が尽きる何てことは今まで一度もなかったし。
でも。
これは違う。
相手は燐などではなく、わけの分からない、素性の知れないものが自分の家の電話に出ている。
そしてそれは、こちらの動向を窺う様に息を潜めて待っているのだ。
見えない目で見つめながら、暗闇の中で舌なめずりしているように。
(でも……そっちがその気なら、わたしも)
蛍は怪訝な顔で眉を寄せると、むっと口元を引き締めた。
電話を切れば多分済む話だったのだが、何故か蛍はそれをせず、その得体の知れないものに張り合う様に沈黙を貫くことを決めた。
もしこの場に燐がいたらどれほど呆れかえっていたことだろう。
『蛍ちゃんって、意外と負けず嫌いだよね』
そう言っていたに違いない。
それは自分でもそう思うから。
自分では全くできないことはどうしようもないが、ある程度得意なもの、特に好きなものに対しては負けたくない想いがあった。
自分の数少ない特技というか、個性だと思っているから。
それすら負けたら自分という存在を否定している気がしてしまう。
でも、今こうして電話口で黙り合っているのは違う気はしてる。
そもそも、電話に限らず喋るのはそんなに得意でもないし、むしろ緊張してしまうほうだったから。
だったら、なぜ今、張り合う様にしているのだろうか。
それにはある程度の理由は思いつく。
(写真には、あの変なお面が映ってたし。それは”わたしの家”って意味だよね? だから家に電話してみたんだけど)
耳に受話器をくっつけたまま、面が映っている写真を手に取ってみる。
家の廊下を背景にして、あの歪な顔の面がセピア調に加工された状態で写真に映っていた。
加工されたものじゃないにしても、これはどう見ても自分の家の廊下で撮ったものだ。
誰が写したのだろう?
なんて疑問はこの際どうでもよく。
問題は、あの奇妙なお面はもう全て処分してしまったから、今の家の写真ではないことだ。
(だったら、過去の写真……?)
異変が起こる前とか?
それこそあり得ない話だったが。
だが、この古ぼけた写真が本物の過去に取られたものなら辻褄があってしまう。
だからこそ、いま家に電話をかけてみるという発想が浮かんだのだし。
(でも、何であのお面なんだろう? 他に家の特徴とかはなかったのかな)
その疑問はある。
家の外観とかならまだ良いが、何故、あのお面だったのだろうか。
三間坂の家の過去に行われたことを知ってしまった今、もっとも見たくないものだというのに。
あの歪な面を見ればすぐに分かるだろうということなんだろうか。
でも、よりによってアレは。
(あのお面なんかはどうでもいい。実際はそんなことじゃなくて……)
面の下に隠されていた……男たちの顔。
その下の顔を実際に見たことはないし、見たくもないが、その顔を想像をすると身の毛がよだつ思いがする。
本当に同じ人間なのかと思うほど。
儀式の為なんかではなく、悪戯、享楽として。
娯楽として少女をいたぶっていた。
だから──本当に吐き気がする。
そしてそんな連中と同じ姓だという事実にも。
だからその姓を捨てようと思った。
いきなり変えたりしたら燐や周りが混乱するだろうと思って、まずあの家から手放すつもりだったが、意外にも時間がかかってしまった。
本当はすぐにでもすべきことだったのに。
(でも、皮肉だよね。捨てようと思ったものに助けられるようなことになるなんて)
まだ、助けられるかは分からないが、この電話だけが向こうの世界との接点であるのは事実だ。
そういった柵みたいなものを金繰りすててでも縋るしかないのかもしれない。
泣き言なんてものは後からいくらでも出来るのだから。
(そうか、これがわたしの”選択”なんだ)
何を捨てて何を得るのか。
決定権は常に自分にあったんだ、ただ気づいていないだけで。
後は、それを選び取るかどうかだけ。
「…………」
蛍は受話器を口元に当てたまま複雑な顔をとった。
そして、はぁっと息を吐くと、小さな唇を無理くり動かしてようやく蛍は最初の言葉を受話器に紡いだ。
とても静かな声で。
逃げ場なんてものはもう何処にだってないのだから。
「あなたは……いったい誰、なんですか?」
──
──
──
どのぐらい待っただろう。
向こうの世界にあるものとほぼ変わらない緑の公衆電話の受話器からは今だ返事が返ってはこなかった。
透明な箱の中では、お預けを食らったように体を揺らす蛍の息遣いが静かに聞こえているだけだった。
(どうしてなにも言ってはこないんだろう……)
最初は向こうから話しかけてきたはずだったのに、それなのにそれっきり返事がない。
気に障るようなことを言った覚えはない。
ちょっと返事を返すのが遅くなったというだけで。
誰なのか知りたかったからそう聞いたというだけだった。
口調も控えめにしたつもりだったけど。
でも返事が返ってこないという事は
「……」
蛍は頬に指を当てて考え込んでいたが、やはり何も頭には浮かんでこないようで首を傾げるほかなかった。
もしかしたら──オオモト様かも。
その考えが頭をよぎったことがあったが、その線は限りなく薄い。
声色とかそういった雰囲気的なものが違う気がするから。
もちろん燐だってそんな感じはない。
ちょっとした意地悪でこういう事をする可能性は無きにしも非ずだけど、それだってこんなに長く気を持たせるようなことは絶対にしないと言い切れる。
だから燐じゃないのは最初から分かっているのだが。
(じゃあ、いったい誰?)
結局、この疑問に戻ってしまう。
そもそもあれはヒトの声だったのだろうか。
そんな疑問すら浮かんでしまうほど、もう頭が上手く回ってくれない。
ドアは開いているから、息苦しさはそこまでないけど。
だからこそもう一度、その声を聞いてみる必要があった。
また声を聞けば何かが分かる。
そんな気がするから。
蛍はあの面が映った写真ではなく、ひとりの女性の映っている肖像画のような写真を手に取る。
燐でもオオモト様でもないとすると。
(やっぱり、この人なのかな? だとしたら……)
だが、蛍はこの人に見覚えがない。
自分の母親かもと一瞬思ったが、その答えに自信がなかった。
確証もなければそれを示す根拠もないのだから当然だけど。
顔立ちなんてものは自分では良く分からないものだし……例えば誰か、燐でも隣にいてくれたら判断してくれるのかもしれないが。
鏡に写した自分と見比べても良くは分からない。
──認めたくないだけかもしれないが。
自分と、”この人”との繋がりを。
できれば何の繋がりのない他人ならいいと思っている。
何故そう思うのかはわからない。
ただ、この写真をずっと眺めているとまた不思議と泣き出しそうな気持ちに囚われてしまうのだ。
言いようのない物悲しさがこのフォトグラフにはあったから。
映っている女の子は普通に微笑んでいるだけなのに。
蛍は何ともなしにため息をつくと、少し視線を遠くにした。
パッチワークされたような高い雲が青い空にゆっくりと流れる。
一体どこに行くのだろうか、あの雲は。
風の吹かない世界でどこまでいくのか。
その行方はきっと誰もしらないだろう。
だって。
知る必要のないことだし。
(そう、今、一番知りたいことは)
蛍は軽く咳ばらいをすると、もう一度受話器に向かって話しかけようと思った。
相手が誰であれそうすることしか出来ないのだし。
その為の公衆電話なんだと思うから。
正直言うと、この際もう誰だってよかった。
向こうの状況は今どうなっているのか。
燐やあの町がどうなっているのかさえ分かればそれで。
(でも、やっぱり、ちょっと怖い……)
蛍は小さな唇を強張らせる。
本当に怖いのは得体の知れない受話器の向こう側なんかではない。
燐が隣にいないということ。
それがとても怖いんだ。
一体燐は、何を見て自分が一人でも大丈夫だと思ったんだろう?
こんなに膝ががくがくと震えているのに。
心臓が飛び出しそうなぐらい怯えているというのに。
(大丈夫! 燐にはすぐに会える。だから今はもうちょっとだけ頑張るしかないんだ)
自身に言い聞かせるように胸中で何度も言葉を紡ぐと、蛍は再び口を開く。
微かに唇は震えていたが、構わずに喉から声を絞り出した。
この言葉が燐へと繋がるものになればいいなとの想いを込めて話す。
そのつもりだったのだが。
「あの……えっ?」
勢い込んで話したはずの蛍の言葉はそこで止まった。
だが、止まったのはそれだけはない。
思考も停止したように固まっている。
ある一点を凝視しながら。
蛍は今、言葉を投げたばかりの受話器を見つめていた。
正確にはその無数に開けられた小さな黒い穴を。
そこから穴と同じ黒いものがにゅっと伸びていたのだ。
その穴は、そんなことをするのものではない──。
そう分かっているのに口から言葉が出ない。
こんなことをしている暇があるなら今にでも逃げた方がいい。
そう分かっているのに。
片時も体が動いてくれないのだ。
何かの重力に引かれているみたいに。
しゅるしゅると嫌な音を立てて。
それは黒い糸。
もしくは、触手。
それはあまりにもおぞましい光景だった。
「あ……あ……」
蛍はパニックで呻き声しか上げることができない。
その白い手からからんと受話器が抜け落ちる。
だらりと受話器はコードに垂れ下がったまま、それでもその黒いひも状のものは後から後から伸び出てくる。
まるで何かの生き物のようににゅるにゅるとのたうち回りながら。
それも一つの穴だけではなく、他の全ての穴からも出てきている。
蛍はその異様な光景を呆然と見ながら、夏に好まれるあの食べ物のことを迂闊にも思い出してしまい気分が悪くなった。
そういう類のものではない。
そう、これはあの異変の時と同じだ!
(──っ!? すぐに逃げなきゃ!!!)
そいつが足元の床にまで垂れ落ちてからようやく蛍は思考を回復することが出来たようで崩れかけた体を伸ばす。
これが何なのかは分からない。
分かりたくもない。
けど、今は逃げることだ。
それしか頭になかった。
蛍は勢いよくドアを手で押し開ける。
この為という訳ではなかったが、石をドアの隙間に噛ませていたから容易に出れるはずだ。
蛍はくるりと身を翻すと外に飛び出す……そのはずだった。
「えっ、嘘っ! なんでっ!?」
蛍がいくら力強く透明なドアを押してもびくともしない。
何もなくとも簡単に開けられるはずなのに。
もしかして、ドアを間違えた?
ううん、そんなことはない。
だってドアストッパー代わりのアンモナイトの化石を置いておいたのだから。
蛍は急いで周りを見渡す。
わざわざそんな事をしなくてもすぐに見つけられる大きさの代物なのだが。
「えっ……」
それは蛍のすぐ真下にあった。
無残にも粉々に砕かれた状態で。
(な、何が起きている、の……)
変わり果ててしまった化石の姿にかける言葉も見つからず呆然と蛍が立ち尽くしているその間にも、黒いひもは床を這いずり回りながら伸び出してくる。
床の隙間からもソレは出て来ていた。
それで犯人は分かった。
だが、それで何かが出来るはずもなく、むしろあの細いものがそんな力を持っている事実にこ驚愕した。
その内の一つが蛍の足首にまで絡みつこうと近づいてくる。
「いやあぁぁ! こんなのっ!!」
蛍は顔面を青くしながら半ば半狂乱となって、ドアを叩きまくる。
両手を使って四方を囲む透明な板を全て叩きまくっていた。
けれども、開くドアはひとつとしてない。
蛍ははっと気づく。
ここは外でありながら密室であり、そしてそこに閉じ込められてしまったのだと。
まさかこんなことになるなんて。
後悔が、蛍を呑み込もうとしていた。
そもそも何でこの場所に入ってしまったのだろう。
こんなのを見つけなければ。
「そうだ! あの写真……!」
細い指を震わせながらポシェットから他の写真を取り出す。
(まだ一枚はピンボケのままだったはず! だったら何かが……)
藁にも縋る思いで最後の写真を見た。
だがそこには。
「うそ……」
目の前のもの全てが信じられなかった。
取り出した写真はピンボケどころかこれは。
しかもそれは最後の写真だけではない。
他の写真も全て。
「なんでっ? なんで全部、真っ黒けになっているの!?」
まるでたちの悪い魔法にでもかかったみたいに、蛍の手にしていた写真は、全てインクで塗りつぶされたように黒くなっていた。
それは、箱の内側全てを呑み込もうとする勢いで湧き出てくる触手と同じ、黒一色の、何の意味も持たない存在そのものに。
きゅるきゅるきゅる。
耳障りな音を立てながら、ソレはひっきりなしに這い出てくる。
受話器の穴という穴からだけでなく、電話機の僅かな隙間からも黒い線のようなものをにゅるにゅると吐き出していた。
タールで濁らせたような黒い水のシャワーがどぼどぼと零れでて、透明な箱の中を徐々に黒で満たしていく。
もっともそれは水なんかではなく、何か得体の知れない化け物のようだけれど。
「ああぁ……り、燐……燐ーっ!!!!」
蛍は力の限りに叫ぶ。
声が枯れるまで何度でも強く燐の名を呼んだ。
だが、その声が届くことはない。
ここではない世界に居る燐には蛍がいくら叫び声をあげてもその慟哭は届かなかった。
「はぁ、はぁ、いや……」
全身を振り絞って叫んだ代償なのか、蛍はその場に崩れ落ちてしまう。
まるで、恐怖が蛍の全身を支配しているかのように。
それなのに、蛍の大きな瞳だけは忙しなく動いている。
何処を見たって同じ黒。
黒しかないのに。
身の毛のよだつような光景がうぞうぞと目の前で繰り広げられているのに、蛍は片時も目が放せないのか食い入るように見つめていた。
もう諦めてしまったのか、四肢はだらんと投げ出されたまま、壁に寄りかかっている。
逃げ道などどこにもない中、蛍はどこからでもあふれ出てくる黒の洪水が溢れるる様をただだた眺めていた。
ぬめぬめとした黒いモノがずるずると這い出てくるだけの凄惨な悪夢の続きが透明な容器の中で映し出されようとしている。
「あっ、ああ……」
もう言葉が形を作ってくれない。
透明な景色はみんなどす黒い色に染まってしまった。
床も天井も周りの壁もみんな黒に塗り替えられていく。
絶対的な、黒一色に蹂躙されていた。
もう見えなくなった景色に悲しんでいると、黒い沼となった床から触手が伸びる。
蛍は不意を突かれる形になって、絞り出すように叫んだ。
「いやああぁぁっ!!」
まず初めに蛍の両足が黒いものに捉えられた。
藻掻こうとバタバタと動かした脚が太ももまでぎゅっと締め上げられる。
「いっ、たい……ぎいぃぃ!」
蛍は肉が裂けるのではないかと思った。
きつく締め上げる触手を振り解こうとした両腕にもすぐさま別の触手が絡みつく。
腕のあたりに鋭い痛みを感じた蛍がすぐに振り解こうしたのだったが。
(えっ?)
そのままふわっと身体が持ち上がったと思うと、なすすべもなく天井へと吊り下げられてしまった。
「嫌だっ! 下ろしてっ!」
蛍がバタバタと体を動かそうとしても、その脚も手も絡めとられてしまい、一切身動きが取れない。
とても強い力で持ち上げられているのか、蛍がどう頑張っても黒い触手はその一本と手振り解けなかった。
それどころか、床や天井から伸びた触手はその数を増やしていき、その全てが蛍を狙っているようで。
今や蛍は、狭いガラスの中で張り付けになっていた。
どう抵抗しても振り解けない。
吊り下げられた両腕が手の付け根あたりから血の気を失っていくように青ざめていく。
痛みと混乱で頭がぐちゃぐちゃになっていく。
これからどうなってしまうのだろうか。
何一つ掴めない中で、今がとても危険な状態であることだけは分かる。
そしてもう、どうにもならないということにも。
哀れで、とても惨めな自分の姿に蛍はすすり泣く。
何でもっと早く気付かなかったのだろう。
ドアを開けられた時にすぐに出るべきだったのに。
蛍の頭の中が後悔でいっぱいになる。
もう戻らないことを思い描いてもどうにもならないのに。
だが、それでもまだ物足りないのか、黒いソレは無慈悲にも蛍の急所にその手を伸ばした。
ひゅっとした音が耳に聞こえたと思うと、蛍の白い首に細黒い触手が巻き付けられた。
「ぐぎっ!?」
一瞬、何が起こったか分からず、蛍は呼吸を止められ、その可憐な唇から想像もできない異様な音を掻き漏らした。
ガラス張りの籠に閉じ込められた哀れな小鳥は、その得体のしれない化け物に襲われるのをただ待つだけ。
透明な籠の中が黒になるのを待っているだけとなった。
その末路とは。
「はぐっ、はぁっ」
気道を締め付けられる苦しみに蛍は喘ぎ声を漏らす。
それでも懸命に息を吸い、吐く。
「がっ、あっ……あ」
せめてこの首に巻き付けられたものを解いて欲しい。
そう懇願したかったが、声どころか息すらもまとも出来ない状態になってしまった。
ただこの苦しみから逃れたい。
思考が白く途切れそうになる。
それでもまだ辛うじて意識を保っているのか、息も絶え絶えに蛍は目だけを動かして吊るされて、無様にも宙ぶらりんにされた足元を見る。
下には散り散りになったかたつむりの先祖の破片が小石のように散らばっていた。
とても可哀そうなことをしてしまったと思う。
だがそれらもじきに黒い沼の中へと飲まれるのだろう。
自分と同じように。
──綺麗な世界だから大丈夫だと油断しきってしまっていた。
もう、何をしても遅いのだろう。
蛍ちゃんはもうちょっと疑った方がいいと、よく燐に言われたっけ。
自身への後悔と嫌悪の黒い渦に呑み込まれそうになった蛍がようやく分かったことは。
(もしかして、これって……髪の毛!? でもっ)
それは一体、だれ……の?
蛍がそれについて考えるその直前に。
「……っ!!!!」
透明だった箱が夜のように真っ暗になった。
青と白しか存在しない世界で。
そこだけが黒で見えなくなっていた。
──
──
──
(何だろ? さっきから何かが漂ってきてる)
最初にそれに気付いた時は、何かのゴミか粉が飛んで来ていると思った。
ほんの少し前に燐がその異変に気付いた時にはもう既に遅く、辺りは帳が降りたように薄暗くなり、霧のようなものに包まれていた。
異常を感じた燐は立ち止まると、緑のトンネルの中を見渡した。
「何なの、これ」
周囲が煙を焚いたみたいに黒い霧に包まれている。
これでは先を見通せることが出来ない。
それどころか自身も黒い煙に包まれてしまいそうになる。
黒い煙はトンネルの上の方にまで濛々と立ち込めていた。
それまで割と順調に緑のトンネルの中を走っていただけに、これにはショックというか唖然としてしまう。
どこまで行っても変わり映えするはずのないトンネルだったから、突然出てきた綿毛のようなふわりとした粒子に最初は物珍しさを感じていたが、それがトンネルの奥からいくつも漂ってくるので流石に戸惑ってしまった。
しかもワタスゲのような白い種子ではなく、炭のように真っ黒な粒だったから。
燐が困惑の目で見ている間にも、その黒いものが前だけでなく天上からも振り落ちてくる。
まるで黒い雪が舞い落ちるようにひらひらと。
だがそれらは地面に触れても雪のように消えるようなことは無く、むしろその形を保ったまま降り積もっていく。
それは火山の噴火で巻き上げられた灰のように。
どんどんと周り黒く染めていった。
その数は侵食するように増えていき、みるみるうちに周囲の葉や枝を隠すほどにまでになっていく。
今や燐の周囲は緑の壁だけでなく、下草やそれに覆われていた古い線路も黒い灰で覆い尽くされていた。
終末を描いた映画のように、景色が色を失っていく。
それはもちろん燐の髪や服にも纏わりついてくる。
「嫌っ、もう!」
燐は髪どころか鼻の頭にまで落ちてきた黒い埃を手で払い落す。
このままここに居たら自身の輪郭さえ黒い粒子の中に埋もれてしまうだろう。
その事を想像して燐は首をぶんぶんと振るった。
だが、雨さえも遮ることのできた緑のトンネルなのに、なぜこれらは落ちてこられるのだろう。
ふと疑問に思った燐が天井を覆っていた葉や枝をつぶさに見つめる。
どこか隙間でもあるのだろうかと。
「あっ!」
暗くてよく分からなかったのでペンライトで照らしてみて良く分かった。
これの正体が一体何なのかを。
「緑のトンネルが……崩れていってる」
天井の葉や枝がぼろぼろと崩れていき、それが黒い粉となってゆらゆらと落ちてくる瞬間を燐は確かに見た。
それは、枝葉を腐らす木の病気に罹ったみたいに色褪せた葉が枝が腐食しながら落ちて来ていた。
何故こうなったのかは分からないが。
(とにかく、いつまでもここに居たら危ないってことは分かる)
だが、それらが天井だけでなく、前方からも振ってくるというのは……。
「マズい!」
燐は短く叫ぶと、ペンライトを持ち替えて前方を照らす。
思った通り黒い粉が霧のように立ち込めてその光が奥まで届くのを遮っていた。
深淵のように闇が濃くなりすぎたせいというよりも。
「このままだと、道が無くなる!?」
緑のトンネルが無くなれば空が開けて見通しが良くなる、という話ではない。
(ここは向こうの世界を繋ぐトンネルだから……)
もしこのトンネルが無くなれば帰れなくなる。
自分たちの知る世界どころか、青いドアの家の世界にすらも辿り着けないだろう。
燐はもしやと思い後ろを振り返る。
これまで進んできたはずのレールが闇の中に消えていた。
鬱陶しそうにしていただけの燐の表情が徐々に険しくなる。
退路を絶たれた以上、もう周囲を窺う必要はない。
抜け道のようなものはこのトンネルには無いのだし、闇はもうすぐそばにまで迫ってきているのだから。
「だったらその前にトンネルを出るしかない! そうなんだけど……」
やることは分かっているはずのに、燐は逡巡するそぶりを見せた。
いくら一本道のトンネルだとしても視界が遮られたまま進むのはあまりにも無謀な行為だというのを知っているから。
燐はなまじ登山の経験がある分、これからとても危険なことをするのだと分かっていた。
行く先の道が見通せないということは目隠しをされたまま当てもなく歩かされているのと同じようなもの。
前にしか道がないのは分かっているが、視界が確保できないのはやっぱり怖い。
目標とすべきものが見当たらないのだから。
だからどうしたって躊躇ってしまう。
だが、暗闇はその濃さを増しながら燐との距離を詰めてくる。
それは得体の知れないものが燐を取り込もうとその黒い手を伸ばしてくるように。
いくら手で払いのけてもその黒い靄が晴れることもなく、むしろさっきよりもより色濃くなってきているような気さえするからだ。
それは霧というよりも無数の昆虫の群れか、視覚化されたノイズのようだった。
以前、蛍と一緒に廃線跡のトンネルを通ったときにはこんなことに遭遇しなかった。
ただ平坦な道が延々と続いているだけで。
途中、白い顔の連中をぎっしりと乗せた列車や、無人の重機が邪魔をしたぐらいで。
こんな形で足止めを食らうことになるなんて。
(でも……もう立ち止まってなんかいられない……!)
過去じゃない。
大事なのは今どうするかということなんだ。
(だったら、行くしかない!!)
燐はすっとしゃがみ込むと、まだそこまで汚れきってないトレッキングシューズの靴ひもを緩みを確認する。
まだ、大丈夫。
これなら十分走ることはできる。
後は自分がどこまで行けるかどうかの問題だった。
湧いてくる黒い霧は、幸い白い顔の人達やヒヒとは違って、直接被害を与えてくるようなものじゃなさそうだし。
少なくとも今は。
身体に異常を感じることも今のところはない。
一応、触った掌もライトでかざして見たけど、煤のような黒いものが肌に付着するような事もないみたいだったから。
せいぜい視界を遮る程度のことなのか。
楽観視しすぎているような気もするけど。
燐は大きな息をひとつ吐くと、ペンライトを黒い霧に向けて照らした。
丸い明かりが黒い壁に阻まれたみたいにぼんやりと浮かんでいる。
先が見えないほどの漆黒の闇を目の前にして、燐はごくりと唾を飲んだ。
それでも、転ばない程度に足元を照らすことぐらいは出来そうだった。
急いで走り抜けたいのはやまやまだったが、それにはまだ危険だと判断したのか、燐はペンライトで足元を照らしながらゆっくりと闇の中に足を入れていく。
(すごく怖い……けど、進むしか他にないんだよね……)
思考が少し後ろ向きになってしまう。
レールはまだ──続いているから。
そんな言い訳をしてでも、体を前に動かしたいのだが。
これは……体内に入れても大丈夫なものなんだろうか?
進むべき意義の前にまずそちらの方が気にかかるのか、燐は流れてくる黒い胞子に難色を示す。
霧だとは思うが、その色のせいか人体に無害とはとても思えなかった。
(何にしても良い気はしないよ……)
燐はとりあえず口にタオルを当てることにした。
これでどこまで防げるのかは分からないが何もしないで黒い霧の中を歩くよりかはずっとましだ。
輪郭すら失いそうになる黒い闇の中で、ねっとりとしたおぞましいナニカが蠢いたような、そんな気配のようなものを布に包まれた肌越しに感じて、燐は思わずぞわりとなった。
……
……
……
(本当に……光の無い世界みたい……)
黒い世界に浮かぶのは自分の小さな体と、ゆらゆらと足元を照らすLEDの頼りなげな明かりだけ。
それは夜というよりも、深淵。
もともと暗い緑の葉で出来たトンネルに、違う性質の黒いグラデーションをかけたような。
一粒の光さえ一切通さない真っ暗な世界になってしまった。
燐の着ている白い装束的な衣装は、まるで黒い布にパッチワークされたように真っ黒な装飾になっていることだろう。
このトンネルはどこまでもってくれるのだろうか。
金属製のレールはまだ続いている。
その殆どが黒い粉で覆われているけど。
ざっ、ざっ。
靴で踏みしめる度に乾いた音が鳴る。
やはりこれは黒い灰なのだろうか。
時折、視界の上にも黒いものが乗っかり、慌ててそれを払いのけているけど。
(火山灰とか経験したことがないから、よく分からないけど)
実際のものは結構な重さもあるらしいし、万が一吸入でもしたら人体に重大な影響を与えてしまう事もあるとか。
本当だったら相当に怖いことだ。
それでも歩くことを止めないのだから自分も相当なものだとは思うけど。
周りが黒いから今自分がどういう状態か分からないし。
どこをどう歩いていることすらも分からなくなる。
何も見えない世界をただ歩いている。
唯一の目印は頼りなげなライトが照らすレールの一本だけ。
怖いけど……。
(きっと、出口はある……そう思うしかない)
トンネルの出口は当然まだ見えてはこない。
そもそもそんなものは本当にあるのか。
この黒い霧のせいか、トンネルの奥に見えていた小さな光すら見えなくなっていた。
でも、と燐は思う。
これは完全に直感だが、もう少し行けば何か分かる。
出口じゃないにせよ、今までとは違う、”なにか”が待っているのではと思っていた。
望んでいるものかどうかは別にしても。
どのみち行くしか他ないのだから。
燐はさっきよりも少し歩幅を大きくしてトンネルの中を歩く。
暗くて不気味なのは確かだが、道はやはり一直線だ。
いくら目を見開こうとも何も見えないが確実に進んではいる。
体力はまだ十分にあるが、このままのペースだと多分気持ちの方が折れそうになる。
一本道だから迷うことは無いのだけれど、ゆっくりとしてる余裕もそんなにない。
トンネルの崩壊が始まっているのなら尚更だ。
燐はもうちょっとだけペースを上げようと少し早歩きをしようとしたのだが。
(あれ、足が……!?)
なんか、重い。
沼地に脚が嵌まったみたいに、思うように前へと出てはくれない。
そんなもの、ライトで照らしたときには確認出来なかった。
(じゃあこれって一体……?)
燐は靴の先の地面ではなく、少し前におろしたばかりのカーキ色のトレッキングシューズに向けてペンライトを照らした。
(……ひっ!?)
思わず息を飲んでしまった。
まだおろしたてのトレッキングシューズは黒の付着物がこびりついて、どす黒い見た目になっていたのだ。
それに見た目だけじゃない、ごつごつとしたものが靴全体を覆っている。
指で触ってみるとゴムみたいな粘着性の黒い粘り気が指にまで張り付いていた。
もしこれが靴だけでなく、服や髪にまでついているとしたら……。
嫌な想像をして燐はぞっと身を震わせた。
一応髪の毛も恐る恐る触ってみたが、靴みたいな風にはなっていない気がする。
来ていた服もまだ元の色のまんまだったし。
それでも予備の雨具を持っていない事は失敗だった。
パーカーじゃなくても傘ぐらいは入れて置くべきだったと、燐は今更に後悔した。
でも、さっきまではこんな事になってはいなかった。
色はあれなだけでひらひらと舞う姿は植物の胞子みたいにみえて、その情景をちょっと感慨深く見ていたのに。
性質が変化した、とか。
周りが真っ暗だから何が起きても分からなくなる。
それに同じ黒でも違うものが紛れていたのという考えも出来る。
現実に限りなく近い場所だが、それでも何かが起こる場所だとは思っているし。
この山もトンネルも。
少し何かが歪んでいる。
「はぁ、はぁ、はぁ」
燐はもう歩くことは止めて走っていた。
一歩進むたびに重くなるような足を懸命に前へと動かす。
ペンライトは靴の先をずっと照らし続けていたが、それすらも視界には入っていない。
ただともかく、この異様なトンネルから出る事だけを願って走る。
どこまで行っても闇しかないトンネルの中を。
……
………
…………
(やっぱり、あれって出口!?)
暗がりの中、ずっと走り続けていた燐がいよいよ体力の限界を感じたとき、それは割と近くにあった。
消えたと思った光が暗闇の中に差し込んでいたのだ。
その影響なのか徐々視界が戻りつつあった。
急に霧が晴れたように黒い情景が少しずづカラフルになっていく。
開けていく視界に確信を持った燐はそれに向かって思いっきり駆け出す。
(今度は何が……あるんだろう)
燐は真っ黒になったタオルで口を抑えながら、出口で待っているであろう何かを考えていた。
正直もう予想は出来ない。
視界が戻ってくるにつれてトンネルの全貌が明らかになる。
折り曲げられた木の幹と葉でできたトンネルは、枯れているというよりも壊れかけていた。
緑の葉は全て黒い灰へと変化して、裸になった木々にはガラスのようなヒビが入っている。
まるであの時の空のように、出来るはずのない亀裂が周りの背景をも巻き込んで刻まれていた。
燐が進むたびにそれは飴細工のように根元からぼろぼろと崩れていく。
まるで映画のワンシーンのように次から次に崩れ出した。
だが、足元のレールだけは錆びついたまま、出口に向かって真っすぐと伸びている。
そこが終わりであることを示しているように。
「やぁっ!!」
燐は口を隠していたタオルを投げ捨てると、崩壊していく世界に巻き込まれていく前にトンネルの外へと飛び出した──。
同時にガラスの割れたような大きな音がしてトンネルを支えていた木の壁が全て崩れ落ちた。
その音は落雷が起きた時の音によく似ていた。
蛍が居なくなったときに聞いた音に。
「はぁ、はぁ、ここは……?」
燐は息を荒くしながら辺りを窺う。
線路はここで終わっていた。
背後で起きた轟音に燐は一瞬びくっと身を強張らせて振り返る。
長い緑のトンネルは跡形も消えてなくなり、その下の古いレールだけが取り残されていた。
何かとても大切なものを失ってしまったような気がしたが、燐は何も言わずに前に向き直る。
トンネルの先にあったものは。
「ここ……でいいの?」
既に夜の帳が降りていたが、そこまで暗くはない。
周辺はは丸く木が切り払われ、広間のようになっていた。
資材のようなものが置いてあるところをみると、森林伐採の時か工事か何かで使われていた所らしい。
ただ違う所といえば。
「転車台は……やっぱりないみたい」
軽くぐるっと見渡してみてもそれらしいものは見あらない。
やはりあの時とは違っているようだった。
代わりに見つけたものは。
「まさか、海!? なわけないよね……」
いくら何でもそんなはずはない。
けれども、とても大きな水溜まりが燐の視界いっぱいに広がっていた。
その奥では何かの建造物が立っているようにみえるが。
「あれって何の建物なんだろ」
水辺に隣接するように立っているように見えるその建物に向けて燐はペンライトを向けた。
建物の周辺には橋のようなものもあり。そこには街灯もあるようだが、何故か明かりはついていない。
遠目で分かりづらいが、しっかりとしたコンクリート製の建物のように見える。
それが水溜まりとほぼ同じ高さにあった。
水上に浮いている様にも見えるが、恐らくそうではないのだろう。
むしろその一部が見えているだけ?
何となく見覚えのある光景だったが、すぐに思い当たる節が出なかったのか燐はペンライトで周辺を照らしながら、その違和感について頭を捻る。
(……どこかで見たような記憶があるんだけど)
それが上手く思い出せない。
周辺は余りにも静かだからか、それこそ要塞みたいに思える。
もしくは刑務所のようにも。
コンクリートだけで構成されているように見えるし、遊びのない無骨なデザインをしていたから。
高い塀みたいなのは見当たらないけど。
「そういえば、今って夜なんだよね」
今、気付いたように燐は視線を空へと向けた。
ずっとトンネルの中にいたせいか久しぶりにちゃんとした空を見た気がする。
周りが木々で囲まれているせいか、余計に星がはっきりと目に映った。
その前で薄暗い雲が流れている。
月はその影にいるのか姿が見当たらなかった。
「結局ここって何なんだろ? やっぱり何かの資材置き場なのかなぁ」
線路は適当な所で切られたという感じはなく、これ以上列車が進まないよう鉄道用の車止めの標識がレールの最後に設置されているほどだった。
切り開かれた場所には資材置かれているだけでなく、プレハブ小屋なんかも立っていた。
あの時のような転車台こそないが、明らかな線路の終点の場所だった。
(ここに水溜まりがあって……でも、線路は終わってて……)
燐は行き詰った思考をもとに戻すべく、腕を組んで考え始めた。
ここが現実かどうか分からないにせよ、状況を整理する必要がある気がした。
少なくともここに蛍ちゃんはいないわけだし。
この先の方針を決める必要があった。
行くか。
戻るか。
でもこれ以上、どこに行ったら良いのだろう。
八方塞がりになったのか、燐は少し泣きそうな顔になっていた。
(どこに行ったんだろう蛍ちゃん。やっぱりここじゃないのかな)
オオモト様はその方向を指していたけど。
あまりにも大雑把すぎるからもしかしたら間違った可能性もある。
かなりの時間を無駄にしてしまったのだろうか、燐は深いため息をつく。
急に体の疲れを感じた燐は、汚れてしまった顔や手を洗おうと思って、水たまりの傍にまで近づいた。
静かな水面には煤汚れの燐の顔が映っていた。
「ホント酷い顔、こんなんじゃ蛍ちゃんに合わせる顔なんかないよ」
二重の意味でそう思う。
水で洗って取れるものなのかは分からないけど、今すぐにでも汚れを落としたい。
燐が水を掬いあげようと顔を覗き込んだ時、小さな雫がぽたりと水面に落ちた。
「もしかして、わたし……」
燐は手で頬の辺りを触る。
そのせいで余計に顔が汚れてしまったが、触れた所がその雫によって熱くなっていた。
(泣いてるんだ……情けなさすぎて)
他人事のような思考で、自身の酷い有様に苦笑いする。
本当に今日は何をしていたんだろう、顔をこんなに黒くしてまで。
この場所に来たことに何の意味があるのか。
このままこの池に飛び込んで、そのまま沈んでいった方が良いとすら思えてくる。
(でも、まって……池があって、建物がある……?)
何かピンとくるものが浮かんだのか、燐はもう一度辺りを見渡してみる。
山と水。
そして、それに沿うように何かの建造物が立っている場所。
これらが交わる所とは……。
「もしかして、ここって……”小平口ダム”!? でも何でこんなところに出ちゃったのっ!?」
燐が水を掬おうとしたダム湖では小さな滴が波紋を広げながら夜空を煌びやかに映し込んでいた。
……
……
……
「……ダムってこんなに静かな所なんだっけ? やっぱり夜だからなのかな」
勝手に入り込んでいるのに結構な言い草だと思うが、放流とかもされていないし、今は雨も降っていないからこんなものなんだろう。
それにしたってあまりにも人気がないというか。
(異変が起こった夜の時みたい……)
燐は自分で想像したことにぶるりと体を震わせた。
月のない夜だったからそう思ってしまうのも仕方がない。
湖面の周りの木々からは騒がしい虫の声が聞こえてはいるが、それ以外は至って静かな夜だった。
とりあえず燐はダム湖の畔にあった小径から要塞のように角ばったダム周辺の敷地の中へと足を進めていた。
小平口ダムは発電用のダムも兼ねているのですぐ近くに発電所もある関係で容易には入れないはずなのだが。
立ち入り禁止の硬い門はこの日に限って何故か開いていた。
そのことが燐の中に余計な異常性を持たせていた。
何故開いているのかというよりも、なぜその事を気付かないのかということの方が疑問だったのだ。
中には監視カメラがいくつもあるはずなのに、何故か視られているという感覚がない。
単に気のせいならそれでもいいのだが。
普通にダム関係の人に怒られてしまうだろうけど。
しかしそういった管理している人たちが出てくる様子も一向にない。
燐が結構大胆にダムの中の敷地を無断で歩いているというのに。
迷い込んだひとりの少女のことなど眼中にないみたいに。
だからこそ余計にこう考えてしまう。
やはり何かが起きているのではないのかと。
電話で蛍には特に何も起きていないと言ったけど、今はどうだか分からない。
あの日だって、乗ってきた電車が小平口駅に着くまでは普通の、何の変哲もない日なのだと思っていたのだから。
状況が変化していくことなんて割と普通のことだし。
(だから、こうしてダムにまで入ってきちゃったんだよね、多分……)
何かあるんじゃないかと思って忍び込んでしまった。
もちろん、悪戯とかそういうことをする気はさらさらない。
ただ、意味を持たせたかったんだと思う。
きっと何かがある。
そう願って。
自分のやっていることを正当化するように燐は心中で言い訳を並べながら、ダムの外側を歩いていた。
それでも周囲が気になるのか慎重に歩を進める。
こつん、こつん。
コンクリートを床を踏む燐の小さな靴音だけが、人気のない夜の世界に響き渡る。
「思わず入ってきちゃったけど……なんかちょっと落ち着く。振り出しに戻っちゃったのに」
燐はくすっと苦笑いするが、これは言うまでもなく不法侵入そのものだ。
だが、それでもここに来てよかったと燐は思っていた。
ずっと緊張感で張り詰めていた心が解き解された気持ちになる。
結果だけ見れば自分のやったことは何の意味もないことだった。
何の成果も得られず、ただ闇雲に走り回っただけ──。
それでもやるだけの事はやったのだから。
素直に今の現状を受けとめるができる。
蛍は、この世界には居ないという現実を。
「ごめんね、蛍ちゃん」
そっと燐は呟く。
ダムの天端の下に見える町を遠くに見ながら夜風に身体を晒す。
水分を含んだ夜風が火照った身体にとても心地よかった。
あの異変の時だってそうだったが、やはり自分は無力なんだと思い知った。
何も出来ない癖に主張だけは一丁前に見せている。
やっぱり今でも子供なんだと思う。
思慮の浅い子供なのだと。
(でも、蛍ちゃんはそうじゃなかった。わたしとは違って)
自分が居なくなった後、ずっとずっと探してくれていた。
蛍はそのことを言わなかったが、多分相当辛い思いをさせてしまったのだと思う。
唐突で、無責任で独りよがりな理由であんな別れ方をしたんだから。
だからもし──今夜もう蛍に会えなくても、明日また探そうと思う。
明後日も、その次の日だって。
ずっと、ずっと。
何処にだって探しに行くつもりだ。
青い空のその上の世界なら、そこまで行くつもりだ。
どんなことをしてでも。
「結局、骨折り損かあ、わたし何やってるんだろ」
燐は呆れたような溜息を吐くとコンクリートで固められた硬いフェンスに腕を乗せて視線を下に向けた。
ダム湖とは反対側の景色では黒一色の森の中で、小さな町の明かりがぼんやりと粒のように光っていた。
ランプの
今日は朝から慌ただしかったが、それがようやく終わるんだと思った。
でも、たったひとり。
そう思うとちょっと泣きそうになった。
「蛍ちゃん……どうしてるかな」
現実感を覚えたことで少し安堵が生まれたのか、燐は何の気もなしに携帯を取り出していた。
スマートフォンはもう蛍とは繋がらなくなってしまった。
燐がどんなに願ったって”青いドアの家の世界”には行けなかったけれど。
結局、取り残されるのはどちらか”ひとり”なんだ。
やるせない思いをこねくり回すように黒い画面をたどたどしく指でなぞる。
無駄な行為だというのは頭で分かってはいても指が勝手に動いていた。
いつもしていたことだったからもう癖になっているのかもしれないが。
「……やっぱり通じない、よね」
呼び出し音すらならない携帯を眺めて、燐は諦めの混じった吐息を吐く。
やっぱり現実なんだ。
こことは違う、別の世界に蛍が行ってしまったのは。
たかが電話が繋がらないぐらいでと思うだろうが、そういう事ではなく。
その事実が分かるのがこの携帯電話だったというだけのことだった。
「……痛っ!」
燐は側頭部に手を当てる。
何かが頭にぶつかったとかの記憶はない。
転びなんかもしなかったし。
だったら、疲労からくるものか。
「何か、全身が痛いかも……嫌だなぁ、何か”歳”みたいじゃん」
実際、高校を卒業してからもう二年もたってしまっている。
それに時間は分からないが、ほぼ半日ほど山の中を走り回っていたとは思う。
前はこれ以上、山とか走り回っていたような気がしたから、このぐらい平気だとおもっていたけど。
「やっぱり、ブランクがあるのかなぁ。確かに最近は運動量は全然落ちちゃってるし」
そう言って燐は自分の二の腕の辺りを軽く触っていた。
だからか、駅やキャンパス内ではなるべく階段を利用するようにしているけど。
それだけじゃやっぱり足りないらしい。
やれやれと、燐が本当に疲れからくる深いため息をつこうとしたそのとき。
「!?」
絶え間なく響く夏の虫の声に混じって、自分以外の誰かの足音を聞いた気がして燐は心臓が急にどきまぎと鳴った。
こつり……こつり……。
やっぱり、気のせいなんかじゃない!
”何か”が燐の方へとやってこようとしていた。
燐は咄嗟に腰を屈めると、近くのコンクリートの柱の影にその小さな身を無理くりに隠した。
急に激しく動いたから体中が痛みを訴えてくる。
それでも息を殺して状況を見守っていた。
燐は無機質な灰色の柱に背中をくっつける。
冷たいコンクリートが火照った身体にちょうどよかった。
(やっぱり警備の人……なのかな……見つかっちゃったらきっと怒られるよね、やっぱり)
ダム施設に勝手に入ったんだからそれは当然のことなんだろうけど。
できれば穏便に済ませたいから見つかりたくはない。
もっともここで見つからなかったとしても、監視カメラで見られている可能性が高いのだが。
(わたし、また、こんなことしてる)
前に人身事故の様な形で電車を止めてしまったときもそうだったけど。
何でこういうことばかりになってしまうのか。
自分が原因なのだとしても。
だからこそ良く分かる。
特別な力なんかはない。
自分は──”座敷童”なんかではないと。
だって、こんなトラブルばかり起こす座敷童なんか聞いたことがない。
普通は文字通り”座敷”で大人しくしているものだろうし。
(だったらわたしは、どうしたら幸せに出来るんだろう)
幸せとは、もちろん自分のことじゃない。
周りの人、でももっとピンポイントな事だけを示していた。
(こんなことで蛍ちゃんをしあわせに出来るのかな)
実際に何も達成できていない自分が情けなくなる。
何も出来ていないばかりか、更なる迷惑をかけようとしているなんて。
自分の行動理念に疑問をいだいてしまう。
実は、何もしない方が良かったのではないのかと今更ながらそう疑ってしまうほどに。
(でも、こういう一方通行な想いはダメなんだよね。蛍ちゃんを幸せにする、じゃなくて。わたしも”蛍ちゃんと一緒に幸せにならないと”だよね)
どっちみち出来ていないから、言い換えたって同じなのだが。
叶わない願いに燐が蹲りながら
少しふらふらとした動きで歩いているのか、燐のいる所までとても長い時間を感じる。
(早く通り過ぎちゃってよぉ! そして出来れば見つけないで欲しい!)
自分勝手な願いだと思うが、それでもそう祈るしかなかった。
そんな燐の頭上で急に明かりがさし込む。
消えていた照明が点いたというわけではなく、雲間から白い月が顔を見せていた。
月光が全てを照らす。
それは柱に隠れていた少女の姿も赤裸々に暴いていた。
(このままじゃ絶対見つかっちゃう!)
燐はぎょっとなったが、それでも動くことが出来ずにただじっと月と時間が流れ過ぎるの待っていた。
足音が近づくたびに心臓が早鐘を鳴らす。
いっそのこと、このまま飛び出して一目散に逃げようかなんて、そんな考えを胸中で模索していた。
それだけで済めばいいが、警察とか呼ばれたらとても厄介なことになる。
(せっかくの大学生活が刑務所でぱあになるとか冗談じゃないよ、ほんと)
飛躍した考えを頭の中に浮かべていると、燐のもっとも近くを”それが”通り過ぎようとしていた。
燐は恐る恐る柱の影からそっと覗き込む。
別にみる必要はないのだが、それが何かを確認することで安堵したかった。
あの白い人影であるかもしれないし。
だが、燐がその”靴”を一目見た瞬間、ハッとなって限界まで目を見開いた。
(この、靴って……!)
それは良く知っているトレッキングシューズ。
今、燐が履いているものと同じデザインのものでそれの色とサイズ違いのもの。
限定品とかそういった特別なものじゃなく、割と普通に買えるものだが。
だが、燐が本当に驚いたのはその顔を見た時だった。
(…………!!??)
月明りが照らすその人物の横顔を一目見た燐は、すぐさま物陰から飛び出した。
「ほ、蛍ちゃんだよねっ! どうしてこんなところに!?」
「えっ? あっ……燐……?」
急に燐が出てきても蛍は特に驚いた表情を見せずに、可愛らしくちょこんと首を傾げた。
まるで他人事みたいな仕草で。
燐はその姿を改めて見る。
式典の時の格好をしているし、それにどうみても蛍本人以外しか見えない。
少し汚れているというか、髪がもつれているようにも見えるが……?
そんな事はどうでもいいことで。
燐だってそうなのだが、なぜこんな場所に蛍が一人でいたのだろう。
青いドアの家の世界にいると言っていた蛍が。
燐は蛍に尋ねる。
初めて出会ったときのように少し言葉を選びながら。
「えっと、”蛍ちゃん”だよね? ……その、本物の」
とても失礼なことを聞いていると思ったが、それでも聞かずにはおられなかった。
胸の中のもやもやがどんとんと膨らんでいくようだったから。
蛍は不思議そうに首を傾げたが、すぐに答えた。
「うん? そうだけど……何か燐、変なこと聞くよね?」
普通に蛍の声色だったので燐はほっと胸を撫で下ろす。
いつもの蛍だと思ったから。
「ごめん~。ちょっとからかってみただけ。だって急に蛍ちゃんが出てきたんだもん」
「もう、急に出てきたのは燐の方でしょ」
そう蛍に返され、燐は誤魔化すように苦笑いを浮かべた。
二人はいつも通りのやり取りを交わす。
ちょっと変わった所で再会することなんて、青いドアの家の世界の世界や、あの不思議な緑のトンネルでのことに比べたら全然大したことない。
そう思っているのに。
(何でわたし、まだ蛍ちゃんのことを疑っているんだろ。目の前にいるのは”蛍ちゃん”なんだよ!)
そう思っているのになぜ、胸の中で不安が募っていくのか。
蛍のことは誰よりも良く知っているはずなのに。
無事に戻ってきてくれてとても嬉しいはずなのに。
「燐。今日も月も綺麗だね。まるで燐みたいに真っ白で、ピカピカしてる」
「えっ? あ、うん」
無邪気に微笑みながら蛍は視線を空に向けた。
その実在が確かなように白い月は冷たい光を発したまま何も言わずに浮かんでいる。
燐は蛍の問いかけに上手く答えることが出来ずに口を開けたままになった。
「どうかしたの、燐。何かさっきからちょっと様子が変な気がするけど……」
少し怪訝な顔をした蛍が顔を覗き込む。
吸い込まれそうな蛍の瞳には一切の澱みなどは見受けられない。
本当に綺麗だった。
不自然なぐらいに。
「……かもね。ちょっと疲れちゃったのかも。ほら靴、こんなに泥だらけになっちゃってる」
燐はこれ見よがしに履いているトレッキングシューズを指さす。
洗う間もなかったのか靴は未だに黒い塊がこびりついていた。
蛍はそれを見てくすくすと笑った。
「何か、泥遊びした後の子供みたい」
「あはは、それは確かだね」
顔ではそう笑っていたが、湧きあがる不安は拭い去れない。
一体何を気にしているんだろう、わたしは。
「あっ、ごめんね蛍ちゃん。さっきは変なこと……いっ、くしゅん!」
湖面からの風が涼を運んできたのか、燐がもう一度ちゃんと蛍に謝ろうとしたのだったが、途中で何故かくしゃみが出てしまった。
恥ずかしさに燐の顔が真っ赤になる。
それを見た蛍は一瞬きょとんとなったが。
すぐに小さく笑って燐の両手を取った。
「燐、すごく疲れてるんでしょ。わたしなんかの為にずっと頑張ってくれたみたいだし。だからさ……もう帰ろう? こんなところに長くいたら本当に風邪ひいちゃうよ」
蛍は心配そうに燐の顔を覗き込んでいる。
気遣うようにかけられるその声色が燐の胸をちくりと刺す。
それは一体何故なんだろう?
(わたしは今……一体
何もなかったみたいに手を握りながら真っ直ぐに燐を見つめる蛍。
その手はいつもよりも少し冷たい感じがした。
燐は問いかけるようにそっと夜空を振り仰ぐ。
白い月が二人を照らし続けているだけで、何の答えなどなかった。
確かに綺麗だった。
本当に何も起こっていない夜、だったのなら。
──
───
────
▪つなキャン△ (ゆるキャン△ つなげるみんなのオールインワン!!)
つなキャン△ は始めスマホアプリ専用だと思ってたんですよー! でもリリース直前になってPC版があることを知って、何とか事前登録しましたよー!! で、もう二週間ほど遊ばせてもらいましたが……色々書こうと思いましたが、バージョンアップが結構頻繁に行われていまして、その都度プレイ感が結構変わるんですよねー。特に今の6月30日のバージョンアップは結構劇的に変化した気がします。
プレイしたての頃はアニメのOP再現凄いーとか、ストーリー1話分がアニメ見るのと変わらない長さでクォリティー高いなーとか思ったものだったんですが、流石にそれには慣れきってしまいましたねぇ。
今の所キャンプ場は4つですし、これからのアプリということでしょうかねぇ。まだ一月も立っていないですし。ただ何故かなでしこメインのキャンプがまだ無いのがちょっとだけ気になったり。
とか言ってたら、7月入ってすぐになでしこメインの海キャンプがーー!!常駐されるキャンプ場じゃなさそうですが、これで一応5人全員のメインキャンプが出そろいましたねー。
それに少し前まではプレイ時間を結構取られるアプリだったんですけど、これもバージョンアップで改善されましたねー。ただ、個人的に早送りは3段階制の方がいいかと思います。今の仕様ですととても早くてすぐに進みますが、隠しイベントなんかが起きても爆速で駆け抜けてしまいますしねぇ。
それと、自分の環境のせいなんでしょうか。PC版の高ボッチ高原とイーストウッドのキャンプ画面がバグって表示されるんですよねー。その辺りもいつか改善されるんでしょうかー。
さてさて、長々と書いて見ましたが、つなキャン△で一番ビックリしたことは……。
DMMのランチャーの中で、DL版”青い空のカミュ”と“ゆるキャン△”のアプリが並んで表示されていることですよーー!!! これはとても感慨深いことですっっ!! だって、二つの推しコンテンツがマイゲームの中で並んで表示されているのですよー!? これはもはや奇跡と言うほかないです!!
PC版をリリースしてくれてとても感謝しております。私的な理由が大きいのですがー。
そういえば今DMMのサマーセールで青い空のカミュDL版が8月の半ばまで3000円となってますよー!! 透明な初夏の寂しさとせつなさを感じられる、素敵なゲームですので未体験の方はこの際に是非是非~。他のKAIのゲームも大変お安くなっているようですー是非にー。
ではではでは。