We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life.   作:Towelie

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 がたんごとん。

 真っ暗闇の中で規則的な音が響いている。

 何の為の音なのかは分からない。

 ただ、一定の感覚を持って流れるだけで、振動を伴った音は止むことなく続いていた。

「……」

 少し煩く感じる。

 規則的な音というよりも体を揺らす細かい振動(モーター)音の方が気になるのか、うつ伏せだった体勢をくるりと横向きに変えると、拝むように両手をぴったり合わせて、寝ていたベッドと耳との間に差し入れた。

 これで少しは穏やかに安眠できると思ったのか、少女は溜息のようなほっとした息を吐くと、少し体を丸くしながら暗く深い、眠りの世界へとまた落ちていく。

 何者にもこの静かな世界を邪魔されたくはないというように、身を固くしながら安心しきった小さな寝息を再び立てていた。

 がたん、ごとん。

 それでも振動が止む気配がない。
 少女は顔をしかめさせながらムッとした様子で重い瞼を薄く開けた。

「……ん」

 薄暗い視界にぼんやりとした明かりが目に入る。

 目が滲んでいるせいか、それは古い教会のステンドグラスのように見えた。

 そのせいか今は夜なんだと思った。

 もしくは閉じた箱の中か。

 何かの中で揺すぶられていることは間違いない。
 振動が止んでいないし。

 でも動いてもいる??

 箱の中で振動し、かつ動いているものって……。

(んっ……箱……?)

 不意に湧きあがった疑問に自問自答をしてしまう。

 だがまだ完全に覚醒していないからだろうか、特に答えもなく、頭はすぐに別の事に切り替わった。

 とりたてて、今は何時なのだろうと、無意識に左手を上げたときだった。

 背中の後ろから響く轟音と共に四角い光の群れが頭上を掠めて行ったのだ。

(何、今の……)

 あまりにも早く遠くへ行ってしまったので何だかよくは分からず、左手をあげたままただ呆気に取られてしまった。

 それが何なのかをすぐにでも知りたかったが、何かまだ身体が億劫で起き上がることが出来ない。

 重いのは瞼だけじゃないらしく、まるで体全体に固い鉄枷がはめられているみたいに何をするのにしようとも、じくっとした重怠さが全身を付きまとっていた。

 辛いと言うか、気怠い。

 とりあえず亀のように首だけをひょこひょこと伸ばして辺りを窺ってみたりしたのだが。

(あれ? 何か見たことがあるような……)

 薄暗い中で目を凝らす。

 確かに知っている気がする。

 四角い窓があり、天井の照明の下ではゆらゆらしている丸い飾り物。
 つまり、つり革があった。

 硬いと思ったベッドはやはりというか列車の座席(ボックスシート)のようで、どおりでやけに寝心地が悪いとは思ったが。

(じゃあ、もしかして……電車の中にいるの??)

 一体何のために乗っているのか。

 いや、むしろいつ乗ったのだろう。

 意味の分からず、何処に行くのか分からない列車に。

(自分から乗った? けど、そんなつもりなんかはない)

 一切覚えがないのだから、きっと強制的に乗らされていたんだろう。

 誰かは分からないけれど。

 それには何かの作為的なものが多分あるのだろうが、現時点ではそれすらも分からなかった。

 本当に何も分からない。

 ずっと挙げている左手には何も無かったので、とりあえず窓の方にぼんやりとした目を向ける。

 黒い。
 どこまでも真っ暗闇だ。

 まるで世界が闇に包まれたみたいに。

 カーテンは引かれていないようだが、それでも暗いのはやっぱり今が夜なのだからなのだろう。

 もしくはトンネルの中にいるのか。
 
 そのどちらにせよ。

 どうやら電車に乗り込み、そのまま寝てしまったんだろうと憶測する。

 知らない列車に乗って寝てしまうなんで、自分事とはいえ暢気だと思う。
 本当に。

 それすら覚えていないほど寝入っていたということなのか。

 確かに電車の中って心地よい揺れのお陰ていつもよりもぐっすりと眠れるっていうけど。

(流石にそれはないか)

 通学時に電車を利用していた時だって、たまには寝ることはあったけど、そんな記憶を失うようなことは一度もなかった。

 お酒とか飲んでいるわけでもないからそれは当然なんだけど。

(じゃあ、今のこの状況は?)

 乗り込んだ記憶もなければ、そこで寝てしまうような覚えだってない。

 つまり何一つ分かっていない。

 それは明らかに異常だった。

(……とりあえず起きてみようかな)

 色々考えていたら、ようやく目も頭も冴えてきたみたいだった。
 体にも少し力が戻っていた。

 疑問しかないが、とりあえず今の状況をちゃんと把握しておかないと。

 取り返しのつかないことになったら嫌だし。

(うん、しょっと……!)

 誰かの教えを沿うようにしながら、少女は少し無理くりに上体を起こそうとする。

 固いシートで寝ていたせいか、ちょっと動かしただけでも身体がぎしぎしと悲鳴をあげていた。

 緩慢な動きとは裏腹に心の中では焦りを覚えていた。

 さっきまでぼーっとしていた時間が勿体ないと思うぐらい。

 見たところ時計はなさそうだったので、とりあえず天井を振り仰いでみた。

 灰色がかったドーム状の天井に、これといって特徴のない丸い照明が消えかかりそうな薄暗い光を放っているだけだった。

 少し残念そうに息を吐く少女だったが、そのおかげで自分の輪郭と状況を把握することが出来た。

 やはり、良く知るローカル線の中にいるのだろう。
 多分、少し丸っこい緑のレトロな車両の客車に。

 ただそれはどちらのものかはまだ分からない。

 現実か。
 それとも、違う世界のものか。

 どちらにしてもこのまま寝そべっていたって何も始まらない。

 ただ、見覚えのある車両の中なのは確かだったし、他に何か有用な情報なんかがあるはず。
 
 そう思って周囲を良く見渡そうと思ったのだが。

「ああっ!?」

 偶然にもまた閃光が走る。

 それでようやく蛍は重い口を開けた。

 静まりきった車内で音と振動が木霊する。

 窓から零れた白い光は少女がひとり大きく口を開けている姿を煌々と照らし出していた。

 音と光の競演が矢継ぎ早に終わると、車内はまた静かに薄暗くなる。

 一瞬の出来事に、蛍は虚空に投げ出されたみたいに無力感を感じて起こそうとした上体をぱたっと倒すと、恐々とした表情で天井を見つめながら自分の体をぎゅっと抱きしめていた。
 
「どこなの、ここ?」

 ひとりそう呟いた。

 まだ状況は全く飲み込めないものの、とりあえず視界に認識出来うる何かを入れたくて、蛍はしきりに首を左右に動かす。

 薄ぼんやりとした車両の中はさっきのことが嘘のようにがらんと静まり返っていて、人の気配なんてものはどこかしこにも感じられない。

 まるで電車の形をした棺に乗せられているかのように殺風景であり、少し肌寒い感じさえさせた。

 不意に輪郭さえも消え入りそうな感覚を覚えた蛍は意を決したようにがばっと上体を起こす。

 そして誰も使っていない長い背もたれにまだ重い体を預けた。

「はぁ」

 深いため息が零れる。
 改めて周囲を見渡してみたのだが。

「わたしひとりなの? 何でこんなところに……」

 そう問いかけても、がたん、ごとんと音が流れるだけ。

 それは動いているのか止まっているのか。

 視覚から得られる情報が少なすぎてそれすらも分からない。
 
 感覚的には動いているようには思えるけど。

 それは前なのか後なのか。

 さっき光を放っていた窓は再び暗く閉ざされてしまっている。

 蛍は座席の直ぐ横のガラスに目を配りながら首をひねった。

 そして呆れかえったような溜息をまたついていた。

 誰もいない客車の座席で横になって寝ていたのは確かなのだが。

 それ以外が全く持って分からない。
 
 どういった経緯でこうなってしまったのかが。

 分からないということは──怖い。

 それを良く知っているから。

「やっぱり、他に誰もいないのかな」

 軽く呟いてもみたが、それを肯定するかのように辺りは静まり返っている。

 とりあえず姿勢を正してちゃんと座り直してみたりしたのだが。

「…………」

 ちょこんと座席に腰かける自分の姿が黒い窓に映り込んでいるだけ。
 
 前後左右に首を回してみたが誰の姿も確認できていない。

 垂れ下がったつり革が揺れに合わせてぶらぶらと小刻みにスイングしているぐらいで。

 怖いとかそういう以前にあまりにも不思議な状況だった。

 ただ、全く初めてのことではないからちょっと呆れかえってしまったけど。

 周りがあまりにも暗いからもしかしたら、ここは銀河鉄道の中なのかもとちょっと思ったりもしたのだったが、よく考えたらそんなことはあり得るはずないのだと気づく。

 そもそもそんな資格を持ち合わせていないことは大分前から知っていたのだし、何より実在しないものに縋りついたって意味のないことなのは分かっているのだから。

 妄想を繰り返したところで結果は変わらない。

 期待感が膨らむ分、落胆の度合いが大きくなるだけなのだから。

「……ッ……ピ……ッ! ……ヅ……!!」

「な、何!?」

 急に車内にわけの分からないノイズ交じりの声がどこからから聞こえてきて、蛍はびくっと体を強張らせた。

 急に自分以外の声が聞こえてきて、何が起きたのか分からず蛍は動転したようにきょろきょろと忙しなく視線を動かす。

「何が、起きる……の?」

 蛍は自然と声を潜めていた。

 なまじこういった不条理な現象を知っているから、さまざまな事柄が頭に浮かんでしまう。
 
 何が起きるのかが分からない癖にそれに対して漠然とした恐怖を感じているのだ。

 滑稽なことに。

 もしこれが本当の夢だったとしても、それでも怖いものは怖い。

 蛍がどこかに逃げた方が良いのかと一人やきもきしながら思案している間に、それまで振動を繰り返していた列車の動きが急に止まった。

「……」

 膝の上で握った拳がじっとりと汗ばんでいる。

 まるで磁石で浮いていたようにすうっと停止したので驚く間もなかった。

 あまりに急なことだったので何の心構えも出来てなかったのだが、しばらくすると悪寒のようなものを背中に感じるようになった。

 スムーズ過ぎるということはそれだけで十分異質なことだというのに。

「どこかの駅に停車したのかな」

 そんな暢気な感想を蛍は言っていたがその声は震えていた。

 わざわざ口にしなくともいい事だが、何か言っていないと頭がどうにかなりそうだったから。

 黒しか映さないガラスは停車してもなお暗いままだった。

 駅だとしたら何か照明のようなものがあるはずなのに何の情景さえも写し取ってくれない。

 それでも蛍は窓の縁に手を掛けて切り取られた深淵の中を覗き込んでいたのだが。

「ひっ……!」

 音もなく金属製のドアが一斉に開き、蛍は座席の上で転がりそうになった。

 見渡す限りのドアが両方とも開いている。

 蛍しか乗客は乗っていないのになぜ全部のドアを開く必要があるのだろう。

 心臓がどきどきと鳴り続ける。

(ここで降りた方がいい? それとも……)

 決断は早い方がいいと言われてはいるが、それでも何故か躊躇してしまっていた。

 闇しか映さない所に降りたところで、そこは闇なのではないだろうか。

 だったらここに居たって同じはずである。
 まだ照明が点いているから少しだけマシなぐらいだし。

 でも。

 蛍がまごまごとしていると、開いたドアの隙間から何かの姿を見た気がして、蛍は慌てて口を塞いで前だけを見据えた。

(何? 何なの?)

 自分は何も見ていない。
 そう自分に言い聞かせるように正面のみを視界にいれる。

 だが、見たくないと思えば思うほど見たくなってしまう。

 それは抗えない欲求だった。

(うん……落ち着いて……ちょっと見るだけだから)

 胸中でそう言い聞かせると蛍はそれを確認するべくゆっくりと視界を横にずらししていく。

 ゆっくり、ゆっくりと。

 ”アレ”に気づかれないように。

 そうする事にはある種の理由があった。

(もしかして、あの顔のない人達なのかも……)

 根拠はなかったがやはりそう思い込んでしまう。

 あの時のように車内には誰も乗っていないわけだし。
 そう考えたとしても不思議ではなかった。

 状況があまりにも酷似していたわけだし。

 あの異変を体験したものならば誰だってそうするだろう。

 だがそれが出来るのは、ここにいる蛍と……燐だけなのだが。

 燐はここには居ない。

 だから蛍一人だけがそうする必要があった。

 誰も居ないわけだから異質とはとられないのだが。

(燐じゃないのなら、誰も乗ってこなければいいのに……)

 ここまできて蛍はそんな事を考えていた。

 明らかに何かの姿を垣間見てしまったのに、まだそんな往生際の悪いことを自分が考えているなんて。

 途中で引き返してくれればと、蛍は僅かな希望に縋っていたのだが。

 それは簡単に打ち砕かれた。

(ああっ!?)

 期待を裏切るように、にゅうっとドアから入ってくる白いものが視界に映り、目を大きく見開く。

 蛍は横目でそれを凝視しながら膝の上でぎゅうっと手を握って身構える。
 いつでも、立ち上がろうとするために。

 もう遅いのかもしれないが、とにかく逃げようと思っていた。

 ただもう少し、何かを確かめたかった。

 何か分かればもしかしたら対処できるかも知れないと思ったからだった。

 それがもし、もっとも会いたくない、あの白い顔の人の成れの果ての姿だったとしても。

(何だろう……あれ……何か、小さい?)

 まだ少し遠くて分からないが、ともすれば埃のようにさえ見える。

 あの顔のない”何か”ではなさそうだが、かと言ってまだ油断はできない。 

 こちらを目指してゆっくりと移動している様に見えるし。

(危害を加える気、なのかな……?)

 つい最悪の考えが頭をよぎってしまう。

 そのせいで蛍は自分で自分を追い込んでしまっていた。

 見えざるものの恐怖が心臓に牙を突き立てている。

(やっぱり逃げよう!!)

 誰も助けるものがいないのなら自分で何とかするしかない。

 蛍は対象と自分との距離を目で確認すると、一番近い左手のドアから逃げようと考えていた。

 ドアの外は何も見えず真っ暗だが、道のようなものはあるはずだ。
 そうでなければあのようなものが入ってこれるはずもないし。

 まだちゃんと”それ”を確認してはいないが、これ以上は危険だと判断した蛍は近づいて来る前にすっと立ちあがった。

 そしてくるりと踵を返すと決めていたドアから出ようと足を前に出す。
 
 その時だった。

「……!?」

 出ようと思ったドアから別の何かが姿を現していたのだ。

 何だかよく分からないが、その姿はやはり白い。

 蛍はなるべくそれを見ないように下を向きながら、急いで出ようとする。

 だが。

「きゃああぁっ!!」

 見ないようにしたはずのそれが何故か足元に居て、小さな身体をぷるぷると揺らしながら蛍の足元に纏わりつくようにしていた。

 とうとう堪えきれなくなった蛍が叫び出そうと息を大きく吸い込んだのだったが。

「あ、あれっ?」

 蛍は大きく目を見開く。

 足元に居たはずのそれが今度は蛍の頭の上の方に移動していた。

 しかもそれは得体の知れない何かだと思ったそれは、ふよふよと浮きながら蛍の上を越して車内に入り込んでくる。

(えっ? 何これ……お魚?)

 確かにそれは小さな魚の形をしていた。

 魚そのものと言ってもいいそれが、空中を泳いでいた。

 危害を加えるとかそういうのは全く関係なく、ほんものの魚のようにゆらゆらとびれを動かしている。

 何が起きたのか良く分からず蛍は瞬きを繰り返す。

 あまりにも予想だにしていない事態に何度も何度も目を擦った。
 
 だが、これらは目の前で起っていることだった。

 宙を浮く魚は蛍のことが目にもくれないようで、空中を浮き沈みしながら勝手気ままにうろうろと車内を動き回っている。

 そして蛍が確認したもう一匹の魚もいつの間にか傍に居て二匹で優雅に空中を泳ぎ回っていた。

 呆気に取られたようにそれを見ていた蛍だったが。

 それが何かようやく分かった。

「……金魚? 金魚が宙に浮いて……いるの!?」

 蛍の目にはそう見えていた。

 一匹は色鮮やかな赤と黒に縁どられた(ブチ)の金魚で、もう一匹は真っ白でヒレの大きな金魚であった。

 二匹とも普通の金魚と何ら変わらないように見える。

 もしこれがとても大きく、ともすれば蛍と同じサイズのものだったのなら、きっと今頃は飛び上がっていたことだろう。

 普通の縁日なんかでも見かける代わり映えの無い金魚がふらふらと列車内に入り込んできただけだった。

 それを追い払うようなことは無論出来ず、蛍は何とも言えない気持ちで優雅に泳ぐ金魚たちの姿を呆然と眺めていた。

 ぱくぱくと無邪気に口を開けている仕草をみるとむしろ愛おしささえ覚えてしまう。

 ただ金魚達が泳いでいるのは水の中ではなく、列車の中。
 しかも空中だったのだから。

 いまの状況は明らかにおかしすぎるのだろうが、そんなことが気にならないほど、蛍はこの小さな金魚の姿に癒しのようなものを感じ取っていた。

 このような可愛らしい異変ならむしろ現実でもあっても良いぐらい。

 そう楽観視してしまうほど、蛍はこの小さな歪みを楽しんでいた。

 だがそんな淡い思いはすぐに消え去ることになった。

 蛍はさっきから視界の奥にちらちらと映るものを見てぎょっとしてしまった。

 二匹だと思っていた金魚が開かれたドアの間から次から次に入ってくる。

「え、ちょっと待って、なんで、そんなにいっぱい入ってくるの……! この子達一体どこから!?」

 蛍が悲鳴のような戸惑った声を上げている合間にも、左右に開いたドアからふわふわと金魚が浮きながら車内に入ってくる。

 それを静止したくとも蛍一人ではどうにもならない。
 
 あっという間に車内は金魚で一杯になってしまった。

 しかもそれはここ以外の車両にも。

 さっきまで蛍以外の人影が無かった列車は宙を泳ぎ回る魚だけで埋め尽くされてしまった。
 
 まるで新しく出来た住処を喜んでいるように、ぽかんとする蛍の目の前でさまざまな色と形の金魚が縦横無尽に空中を泳ぎまわっている。

 色とりどりの金魚たちはひどく殺風景だった車内をまるで回遊するかのようにぐるぐると意味もなく動き回っていた。

 蛍がその有り様に目を丸くしていると、唯一の逃げ場だったはずのドアがやはり音もなく閉じる。

 開ききっていたドアは全て閉じられてしまった。

「あ……」

 今更ながらに蛍はドアに手をかけようとしたのだったが、無情にも列車はまた静かに動き出した。

 狐につままれたような抑揚のない声色で蛍はつぶやくと、固く閉ざされたドアの前で立ち尽くしていた。

 その周りを金魚達がふわふわと素知らぬ顔で踊っていた。

 ……
 ……
 ……

 がたん、ごとん。

 どこの線路を走っているのか不明だが、列車は無数の金魚を乗せたまま、どこかへと走り出してしまった。

 その中で唯一の人である蛍は、先ほどとは違う座席に腰かけて、気ままに車内の中を泳ぎ回る無数の金魚の群れの姿をただ唖然と目で追っていた。

 映る景色と言えばそれだけなのだから当然と言えば当然なのだろうけど。

 まるでステンドグラスを列車の窓に張り付けたように、どこを見ても色とりどりでキラキラとしている。
 
 金魚鉢の中に閉じ込められて、その真ん中から内側を見ているような、何とも不思議な情景だった。

 だがそれは、完全に思考停止と言っても良い状態で。

 自分の存在さえも忘れたように、蛍はその異常な光景を見つめていた。

 それでも不意に頭に浮かんでくることはある。

 例えば、なぜ()()は空中を泳ぎ回れるのだろう、という単純な疑問。

 列車に乗り込んできた金魚たちはすいすいと空中を泳いでいる。
 
 垂れ下がったつり革をおもちゃの輪っかのようにくぐったりして遊んでいる子もいたり、ただ何もせずぼんやりと空中に浮かんでいるだけの子もいた。

 それらは水の中の金魚ならば割と普通の行為だ。

 そう。
 水の中でならば。

(でも、この中は水じゃない。普通に息だってできるし)

 魚の群れに囲まれながらも軽く深呼吸してみせる。

 ほら、大丈夫だ。

 ただ、何となく情けない気になるのはなぜだろうか。

「……」

 蛍が訝し気に眉をひそめていると、小さなヒレをひょこひょこと器用に動かして目の前の空中を泳いでいる一匹の白い金魚をまざまざと見つめた。

(どうやって浮いているのこの子たち……あんな小さな”ヒレ”なんかで空を飛べるはずなんかないのに)

 蛍の知っている世界の常識では確かにそうだ。

 だが、その常識外のことがこの列車の中では平然と起こっている。

 だからここは……”青いドアの家の世界”であり、そこで起きていることなんだと。

 そうでなければ説明がつかない。
 この奇妙な現象の数々は。

(でもこれじゃまるで水槽……ううん、逆なのかな……?)

 あの子たちは多分、水の中からやってきたわけだし、そして列車の周りが水中だとしたら一応は納得できる。

 周りの景色が全く見えないのはそれだけ深い水中を進んでいるということになるし、金魚はそんなに深い所にいる魚ではないから、この中に入って来たのもまあ、大体何とか頷ける。

 だが、そうなると。

「何でドアが開いた時に水が入ってこなかったんだろう……? それにどうしてこんなところを列車が走っているの?」

 色々結論を出してはいるものの、結局は分からないことばかりだった。

 懊悩する蛍をよそに、その頭上を金魚がひらひらと優雅に舞っていた。

 一見するとそれは蝶のようにも見えるのだが。

 だがやはり金魚なのだ。
 何度、目を擦ってみても。

 しかも鳥が啄んでいるみたいにぱくぱくと口を開け閉めしながら飛んでいた。

(星を目指した鳥が金魚になったとかじゃないよね)

 だが、そんな童話みたいなことが目の前で起こっているのだが。

 無数の不可思議な金魚達を乗せた列車は一体どこに向かっているのだろう。

 ライトも照らさず、ずっと真っ暗な道を進んでいるようだし。

 もし自分の仮定したように水中を進んでいるのなら、この先にあるものとその目的は。

 何かの意味があって走っているのだろうというのは分かる。

 だが肝心のところがまだ分からない。

 この先に金魚達の駅や町があり、そこに帰るために乗っている、とか?

(だったら泳げばいいだけだよね?)

 勝手な妄想をする蛍を尻目に、様々な形の金魚はその行先など気にせず車内を平然と泳いでいる。

「でも、何かわたしの周りに集まってきてるような気がする」

 確かに、宙を泳ぐ金魚たちは、唯一の人間を敵対視している様子もなく、むしろ蛍の周りに集まるようにして群れを形成しているように見えた。

 現に、椅子に腰かけている蛍の周りには無数の金魚達が蛍を取り囲むようにぐるぐると一定の距離を保って回っている。

 まるで大きな洗濯機の中で洗われているみたいに。

 ふと、蛍は思う。

「もしかして、わたしの事を仲間だと思ってる? まあ確かに……金魚みたいにひらひらとした服を着ているとは思うけど……」

 やはり服装はあのイベントの時の衣装のままだったので、蛍は少し安堵したのだが、そのせいで金魚が集まっているのだとしたら何とも呆れかえってしまうことになる。

 危害を加えるような気はなさそうだからまあ良いけれど。

 ともかくだ。

(これってやっぱり夢? だってそうとしか思えないよ……こんな変なのは)

 青いドアの家の世界だとしてもこんな変なのは流石に初めてだ。

 意味も目的も、その説明すらもない。

 だから寝る時に見る夢とよく似ているのだと。

 でも、夢とも現実ともつかない出来事には割としょっちゅう遭っているとは思う。

 因果律的なものが働いてしまったのかあの、町が歪んでしまったその時から、普通の日常にも僅かな異変のようなものが何かの折に差し込むようになってしまった。

 正気と狂気が無造作に現れ出でて、ただ翻弄していく。

 実存と概念の無限のサイクルをしているように。

 だからこうして例え列車ごと水の中に落ちていてもそれほど動揺していない。

(それは諦めているとかじゃないけど、まだマシなほうだから)

 少し前に見ていた夢の方がもっと残酷でそれこそ悪夢のようだった気がする。

 ……その割にそれが何だったのか全然覚えてはいないが。

 ただ、首や手の付け根当たりが少し疼くのは一体何だろう。

 むず痒いというか、言いようのない不快感を覚える。

 さっきから何となく息苦しく感じるのはこの不可解な列車と金魚の情景なんかよりも、そっちの方が影響しているせいなのだろうか。

 蛍はすうっと深く呼吸すると、思い立ったように席を立つ。
 
 それに合わせて金魚達も少し動きを変えた。

 蛍はその事に気付かなかったようで、自分の周りを泳ぎ回る金魚を見渡しながらこう思う。

(やっぱり、綺麗……この世のものとは思えないほどだよ)

 縦横無尽に魚が飛び回っているからこの列車を水槽のように比喩したけれど。

 赤や白、斑の金魚が目の前を行き交う光景は、水族館の水槽(アクアリウム)というよりも、万華鏡(カレイドスコープ)の方が近いような気がした。

 こうして中心に立って眺めるとそれが良く分かった。

 様々な形や色、それが黒い窓に映り込み変化していく様は正しくそうだと思う。

 蛍はそれを僅かなときめきを持った目でそれらを眺めていた。

 こういった異変なら悪くないと思うほど、素敵だったのだから。

 だが、そういった兆候のようなものを前にも見たような気がした。

 それが今のこの現象とをすぐに結びつけるものかは分からないが、ここが前と同じ息ができる水の中ではないかと思う。

 そしてその中を走る列車なのだと。

 だが、それが分かったからといって今の状況に説明がつくものではないが。

(それにしたって……何で他の魚はいないんだろ?)

 さっきから車内を見渡してみても他の魚類の姿はない。

 何故、金魚だけが列車内に入ってきたのか。

 一瞬だけ流れた不可解なアナウンスといい、これは金魚の為の列車……?

 流石にそれはないとは思う、が。

 あれっきり列車は沈黙を続けたまま、古い車体をがたがたと車体を揺らしながら走っている。

 客室の中は小さな生命が溢れていたが、その中で蛍だけが床に足を着けながら、一人ぽかんと浮いていた。

 孤独という波に小さな身体を揺られながら。
 どこに流されていくのだろう。

 行きつく先なんてどうせみんな一緒なのに。

 そんな時だった──。

 かんかんかんかん。

 蛍の耳朶に不意に甲高い音が響かせてきたのは。

 我に返ったように蛍は音の方を振り向く。

 中からは聞こえてこない。
 金魚は喋れるわけがないし。

 だったら、やはり。

(──もしかして踏切なの!? そんなものが”ここ”にも?)

 特徴的なその音から、恐らくこの列車が踏切に差し掛かろうとしていると思った。

 蛍は薄くなった大きく目を見開くと。

「ちょ、ちょっとごめんねっ!」

 蛍は透明なヴェールのように空中で漂っている金魚波をかき分けもっとも見通しが良さそうな座席に飛び乗ると、黒いガラスに顔をへばり付かせた。

 電車用の信号の一体なにがそんなに気になるのか、蛍は目の前を通り過ぎる瞬間を待ちわびている子供みたいに、胸の前で無意識に握りこぶしをつくっていた。

 かんかんかんかんかん。

 どんどんと音が大きくなっていく。
 蛍の鼓動もつられて早くなっていく。

 その刹那だった。

 夜よりも暗い、漆黒のガラスの向こうにぼやっとした赤いシグナルが点滅を繰り返しているような様子が見えたのは。

 一瞬の出来事。

 蛍は少し遅れてそれを目で送る。
 
 猛スピードで離れて行く赤い光を寂しそうに眺めていた。

「こんなところにも踏み切りなんかが本当にあったんだ……」

 遠ざかっていく音が車内から完全に消え去った後、蛍は自分に言い聞かせるようにぼそりと呟いた。

 どういう目的の元で踏切(と多分遮断機も)が立っているのかは分からなかったが、常識外の事が色々起きている中、これに対してだけ妙に現実感というか切なさみたいなものを感じとっていた。

 飛び回る金魚なんかよりも良く聞いた警報器の音の方がよっぽと現実そのものを思い起こさせるのだろうか。

 蛍はちょこんと座席に座り直すと、小さく溜息をつく。

 金魚達は踏切に差し掛かっている最中も優雅に泳いでいたようで、何の反応も示してはいないようだった。

(そういえば、さっき見た強い光……)

 ふと、起き抜けのときに何度か見た、矢のように流れる光の軌跡を思い返す。

 あれは恐らく列車同士が通過した後だったのだろう。

 だとしたら他の列車があるということになる。

 ただ、その証明が出たとしてなんの意味があるのか。

 だが蛍は、他の列車が走っていることに少し安堵しているようだった。
 何故だかは分からないが。

「どこまで行くのかな……わたしは」

 戻ってくる列車があるなら終点はあるということだ。

 それを誰かに訊ねてみたいが、周りにはひらひらと揺れる金魚しかいない。

 アナウンスのようなものは目的の駅がまだ遠いのか、上部に付いたスピーカーからは一向に声は流れてはこなかった。

 ただ、もしかしたらあの行けなかった場所──この世界の果ての方まで行くのではないかと思った。

 こじつけかもしれないが、この大群の金魚の光景には微かに見覚えがあったし。

 それはあの時、不思議な水溜まりの中で見た”色とりどりの光の球”とよく似ていたから。

 光の球の群れはどこかに行ってしまったけど、こうして金魚となって戻ってきたとも言える。

 ちょっと、思い込みの強すぎる妄想なのかもしれないけど。

(でも、あの光る球って今思うとお祭りなんかで良くある水の入ったヨーヨーに似ていた気がするんだよね……色とりどりでぷわぷわしてたと感じだったし)

 近くにひらひらした金魚がいるせいだろうか、そんな考えを思い描きながら、蛍は目の前で舞い踊る金魚達を懐かしいものでもみるように微笑みながら眺めていた。

 根拠のない妄想を浸っていると、不意に欠伸が出てしまい蛍はつい大きく口を開けていた。

「ん……なんだろ、急にまた眠気が……」

 再びぶり返した睡魔に蛍は無理くりに口を閉じて噛み殺す。

 とろんとなった目を指で擦りながら、湧きあがった眠気を覚ますようにピンク色の唇をぎゅっと噛んだ。

 この先どうなるか分からないが、せめてその行く末ぐらいは知っておこうと思った。

 今更、足掻いたってもうどうしようもないし、どうせこの列車に運転手なんてものはいないのだろうから。

 このまま電車に乗り続けた挙句、結局最後はどうなるのか。

 それが知りたい。

 誰かの為などではなく、自分でそうしようと決めた。

 このことを伝えようとかそういう使命感のようなものは一切なく。

 ただそうしようと思っただけだった。

「でも、燐……」

 蛍は憂鬱そうに窓にこつんと頭を乗せて重いため息を吐く。

 きっともう会えないだろうけど、あれから燐はどうなったのだろうと思った。

 彼女だけは幸せになって欲しい。
 それだけの資格をもっているんだ、燐は。

 決して届かない思いを心の中でそっと紡ぐ。

 もう口に出すことのない想い。
 届けたくとも届かない思いは一体どこへ行ってしまうのだろう。

 あの時は紙飛行機がそれを伝えてくれた。

 けれど、今は。

 蛍は滲んだ目尻を指でそっと拭うと、少し遠くの方を見た。

 そこでは金魚たちが顔を向き合わせて何か楽しそうな話をしている、そんな風に見えた。

 きっと。

 終点はこの世界の果ての果て。

 全ての終わりと始まりがそこにはあるんだろう。

 でも、以外にも恐れなんかはなかった。

 多分、ひとりじゃなかったから。

 人じゃないけどこの金魚たちも多分、目指すところは同じなのだろうと思う。

 彼らも何かの思いがあってそこへ行くのだろう。
 何にも考えてなさそうだけど。

 でも、生きるとはそういうものだから。

(何もなく生まれて……臆病さで生き抜き……偶然によって、そして死んでいく……)

 蛍の脳裏に不意に浮かんだ言葉に誰かの面影を見た気がしたが、誰かまでは思い出せなかった。

 多分そんなに重要なことではなかったんだと思う。

 記憶とはそういうものなんだから。

「でも……ごめん」

 何に対しての謝罪なのか、蛍は自分の口から出た言葉に驚いていた。

 ちょうどその時、何の気なしに近寄ってきた赤い色の金魚の小さな丸い口を蛍はそっと指で触れようとしたのだったが。

 金魚はさっと蛍の指を躱し自分の進みたい方向へと去っていく。

 拍子抜けしたように唖然となる蛍。

 少しだけ悲しい気持ちになったが、それでいいのだとすぐに思った。

 背を向けて優雅にヒレを動かす金魚に向かって小さく微笑んだ。

 多分、こういう気持ちだったのだろうと思ったから。

 ──燐も。

 だから、許してくれるだろうと思う。

 だって。

「うぐっ……!」

 急にぐらりと頭が揺らぐ。

 列車の振動に頭が揺られたのか、強い眩暈のようなものを感じた蛍は、細かく目を眇めながら長い背もたれにどさっと身体を預けた。

 意識が深い底に沈む瞬間、閃光のような強い光がぴかぴかしながらこちらに向かってくる不思議な現象に襲われて思わず手のひらでそれを受けとめた。

 ぱっと、何かが弾ける。

 天井も座席も何もかもが無くなって、辺りには虚空を漂う金魚だけが残されていた。

 ──沈む。

 上か下かは分からない。

 引かれた方向へと身体も心も沈み込んでゆく。

 散り散りになった意識が集約したのはたった一つの言葉。

 それだけを頼りに蛍はまた深い深い夢の狭間に落ちていく。

 穏やかで落ち着いた場所(ところ)へ。

 だって。

(覚えていても、忘れていてもそれは一緒……なんだから……)

 ……
 ……
 ……

「蛍ちゃん、蛍ちゃん! 大丈夫!?」

 すぐ目の前に心配そうにのぞき込む燐の顔があった。

 蛍は一瞬自分がどこにいるか分かっていないような顔で辺りを見渡す。

 さらさらと静かに流れる水音に、どこかに置き忘れたままの懐かしい情景のようなものを感じとった。

「うん……平気」

 なぜか頬を赤くしてそう答える蛍に燐は一瞬眉をしかめたが。

「急に黙り込んだからちょっと心配しちゃった」

 そう言って燐はぺろりと小さく舌をだした。

「でも……蛍ちゃん、あんまりびっくりさせないでね。何でも話して良いから」

 燐はそっと蛍の首に手を回してぎゅっと抱きしめる。

「燐?」

 何事か分からず蛍はきょとんとするばかり。
 それどころか。

「そういえば燐、何で裸なの?」

 今度は燐がきょとんしていた。

 まさかそんなことを蛍が言ってくるとは思わなかったのか燐はつい噴き出していた。

「くすっ、暑かったから……からかな?」

「じゃあ、わたしと同じだね」

 蛍はそれで納得したのかそれ以上は何も言わず、蛍も燐の腰と肩に手を回してお互いに抱きしめ合う。

 何も遮るもののない肌と肌の触れ合いに、確かな温もりと心地よさを体全体が伝えてくる。

 確かに生きているんだと思った。

「でも、裸なんかよりちょっとは服を着た方がいいんだよ、その方が体温調整し易くなるし」

 そうは言うものの、自分だけ服を着ているのは悪いと思ったのか、燐もまだ下着さえも身に着けてはいなかった。

 やわらかな燐の温もりに蛍は深い安堵の息を漏らす。
 
 やっとたどり着くことが出来た。

「ねぇ、燐、わたし、思い出したことがあるの」

「思い出したって……どんなこと?」

「うん」

 蛍は静かに空を見上げる。

 その黒い瞳が白く輝いていた。

「なんで魚が、苦手だったのかってこと」

 星を散りばめた黒い空に白い月がその顔をまた覗かせていた。

 ──
 ──
 ──




Every existing thing is born without reason, prolongs itself out of weakness, and dies by chance.

 

「えっとぉ、”銀河鉄道”……だったっけ? 蛍ちゃん、今そう言ったよね」

 

「うん。それに乗ってたと思ったんだけど……」

 

 蛍が口にした言葉に燐は大きな目を丸くさせた。

 

 唐突に言うものだから、それに纏わる童話か創作の話をしているのかと思ったのだが。

 どうもそうではないようで。

 

 蛍は、自分でも変な話をしていると思いながらも燐に夢とも現実ともつかない出来事を話していた。

 

 燐は何でも聞いてくれるって言ってたから。

 蛍はそれに甘えてみることにした。

 

 もしかしたら、この付いた痣ともなにか関係があるのかもしれないし。

 

 ただ何か、とても大事なことがすっぽりと抜けている気がする。

 そんな喪失感のようなものが胸にひっかかっているけど。

 

 話していればそのうち思い出すだろうと思った。

 

「あ、でもね。結局、海底を走っている列車だったみたい。でも……金魚しかいなかったから海じゃなくてここみたいな湖だったのかもね」

 

 ここのダム湖も結構な広さがあるが、あそこは更に広くて深かったような気がする。

 

 その中を列車が走っているぐらいだったし。

 

「ふーん、それじゃあ”水中鉄道”だね。何だか涼しそうで今の時期には良さそうだね」

 

「確かにそうかもね。そういえばその列車の中、金魚で一杯だったんだよ。何か途中で入ってきちゃったみたいなの。しかも何もない所を泳いじゃってた」

 

「へぇー、何か変わってるね、それ。だって列車の中には水は入ってこなかったんでしょ?」

 

「それだったら不思議でも何でもないんだけどね。あ、でもわたしが溺れちゃうのか……」

 

 自分で言って蛍はちょこんと首を傾げていた。

 それを見て燐は苦笑いする。

 

「でも、”青いドアの家の世界”の水溜まりの中なら息ができるんじゃない? あそこの事なんでしょ、蛍ちゃんが言っているのって」

 

「うーん、多分、そうだとは思う」

 

 確信はないけど多分そうだ。

 そうでなかったのなら今の話は全部夢の出来事だと思うから。

 

 自分でも滑稽に思うほど変なことだらけだったから。

 

「んー、じゃあ問題ないのかもね。ついでに蛍ちゃんも一緒になって泳いだら良かったんじゃない。ちょうど夏だし」

 

「それは何かなぁ……水着もないし」

 

 それにあの時の事はそんなに良い思い出がない。

 全身筋肉痛になってしまって、数日間全然動けなかったわけだし。

 

 だが、今思うとあれは、ほんの少しの間だが魚になれたのだと思う。

 

 不思議だったのは、水だったのか自分たちだったのかは分からないけど。

 

「でもなんか、天使みたいかもね。空を飛ぶ金魚って」

 

 燐は蛍の言葉からトビウオみたいに金魚が飛び跳ねている様子を想像して、一度は見て見たいなとは思った。

 

 蛍は困ったように微笑むと小さく首を横に振った。

 

「でも、いっぱいの魚に見られているって、そんな気分のいいものでもなかったよ。確かに燐の言うように小さな天使みたいに空中でひらひらとはしてたけどね」

 

 蛍が手のひらをちょこちょこと動かしてその時の金魚たちの様子を説明すると、燐はまたしてもへぇーと唸った。

 

 それって、水族館の飼育員みたいな感じなのだろうか。

 

 慣れれば何てことなさそうだがいきなりは流石に怖いような気もする。

 しかもその金魚は自分から列車に乗り込み、宙も飛んでいたようだし。

 

 話の上でなら楽しそうに思えるが実際となると……。

 

「何か蛍ちゃん、竜宮城へ行ってきたみたい。玉手箱とかはもらってはこなかった?」

 

「流石に、それは」

 

 燐にそう言われて蛍は少し困った顔になった。

 

 でも、と思う。

 

 確かにあの中では時間の流れは感じなかったから、実際は結構な時間が流れていたのかもしれない。

 

 最後は結局寝てしまったようだから、どの程度の時間まであの電車に乗っていたのかは分からないのだが。

 

(だからって、いきなりお婆ちゃんになっちゃうのは流石にちょっと嫌だけど……白い煙なんか被ってなかった……よね?)

 

 蛍はこそっと湖岸に揺れる水鏡に自身の顔を写し込んでみた。

 

 普通のいつもの顔だと思った。

 首に縄のような跡をつけてはいるが。

 

「あ、それでかぁ」

 

「うん?」

 

 急に燐に尋ねられて少し間の抜けた顔を蛍はしてしまっていたが。

 

「さっき、蛍ちゃんが魚を触るのが苦手って言ったのは。まあ……周りがちょっと変な魚ばっかりだったら流石にちょっとは怖くなっちゃう気がするもんね」

 

(あ……)

 

 蛍は内心ほっとしていた。

 

 気を使ってくれたのかもしれないが、それでも燐が理解してくれたことは素直に嬉しかった。

 

 ひとりでいた時間がやけに長かったように感じられていたから、いつもよりも余計にそう感じてしまう。

 

 少し頬が緩んでしまったけど、変な子と思われてないだろうか。

 

 近くで見られているわけだし。

 

「それで、他にはどんなことがあった?」

 

「えーっと、ねぇ」

 

 燐が続きを促してくれたことに気を良くしたのか、蛍は夏の夜風に揺れる長い髪を手で押さえながら楽しそうに話を続けた。

 

 その隣で、燐は蛍の方を向きながら静かに耳を傾けている。

 

 彼女が向こうの世界の狭間に何を垣間見たのかは分からないが、だが仮に空想の話だったとしてもそれについて茶化すようなつもりはない。

 

 大事な人が自分に向けて話してくれているのだし。

 それに。

 

(わたしだって、同じようなこと……多分、”事象”みたいな事になっちゃったんだから。流石に銀河鉄道には乗らなかったとしても)

 

 かんぺきな世界。

 

 そこに行こうとしていた時もあった。

 いや、確かに行ったと思ったのだが。

 

 結局、行きたいと思った所には行けず、そうではない場所に行きついていた。

 

 それが良いとか悪いとかではなく。

 

 何事も思い通りにはいかないのだというのが良く分かった。

 

 求めれば求めるほどそれは遠ざかるものだし、もう諦めたと思ったことが急に近づいてくることだってあるのだと。

 

 蛍の話がひと通り終わったタイミングで燐はそっと口を開いた。

 

「何か、蛍ちゃんの話聞いてると、綺麗な海のある島にでも行ってみたくなるよ~。最近は夜だって暑くてずっとクーラー入れっぱなししてるぐらいだしさ。海外の、誰もいないビーチのある島なんか良いよねぇ。今すぐにでも避暑に行きたいぐらいだよぉ」

 

「あはは、確かに最近は異常に暑いもんね。今だって裸で大丈夫ぐらいだし」

 

 そう言って少し肩を落とす燐に蛍は苦笑いを浮かべた。

 

 高校の卒業旅行には行けたが、それだって国内だったし。

 

 海外には燐も蛍も一緒には今のところ行けていない。

 その目処すらも立ってもはいない。

 

 今はそれぞれ忙しいから、まとまった時間があまりつくれないのもあるのだろうが。

 

 なんかこう上手くいかない。

 色々と。

 

 燐はそう考えていた。

 

 今だってまだ解決していないことがまだあるぐらいだし。

 

 ついちらりと蛍の首元に視線を落としてしまう。

 

 そのつもりだったのだが。

 

「燐?」

 

 偶然にも燐は蛍と目を合わせてしまった。

 

 きょとんした顔で燐を見つめる蛍。

 

 燐は少しぎこちない笑顔を作ると、小さく首を横に振って肩をすくめた。

 

「あははっ、ごめんね。まあ……今は蛍ちゃんもわたしもちょっと忙しいけど、もう少ししたら多分落ち着くだろうから、その時は海外じゃなくてもどこかに一緒に行こう? わたし、新しい水着とかちゃんと用意しておくからっ」

 

「うん。わたしもその時に備えて何か用意をしておくよ。燐と一緒だったらどこだって楽しいしね」

 

 そう言って蛍はにこっと微笑む。

 

 燐も笑顔を向けると、違う景色でも見ているみたいに蛍の姿を少し遠くに見ていた。

 

(やっぱりあの、首や手に付いた(あざ)ってそう簡単にとれないみたい……いったい何が原因でそうなったんだろう)

 

 蛍が語ってくれた話はどっちかというと寓話的で聞いていて楽しいものだったが、結局、身体についた傷跡とは関係がなさそうだった。

 

 きっと何か、他の要因があるのだと思う。

 

 燐は自然と眉をよせた難しい表情をとっていた。

 

「ねぇ、燐?」

 

 蛍は思い切ってぱっと燐の腕をとった。

 

 燐が振り向くと少し意地の悪そうな顔で覗き込んでいた。

 

「わたしの事……嫌いになっちゃった? さっきからちょっと怖い顔してる」

 

 燐は一瞬きょとんとなったが、すぐに元の顔に戻って言った。

 

「そんなことないよー。もう蛍ちゃん~。倦怠期のカップルみたいなこと言わないで。何かわたしが悪者みたいじゃん」

 

 燐からの抗議を受けて蛍はくすっと小さく笑う。

 

 肩にかかった黒髪を指先でさらりと流すと燐の目を見ながらこう言い切った。

 

「そうだよ。燐がいけないよね。こんな可愛い彼女が傍にいるのにそれを放っておいてひとりで考え事をしてるなんて」

 

 蛍はそう素直に答える。

 燐は流石に面食らった顔になったが。

 

「可愛いって……それって、自分で言っちゃう? それに彼女って……わたしたちそんなんじゃ……」

 

「そんなんじゃない、の?」

 

 じっと蛍が見つめる。

 

 燐はその曇りのない瞳に見つめられて二の句が継げず、愛想笑いを浮かべながら次の言葉を探していた。

 

「じーっ」

 

「ううっ」

 

 何故か蛍は自分でその旨を口にしていたが、それでも燐には効果的のようでたまらず声をあげていた。

 

「だから、そうやってじっと見つめるのやめてぇ! もう、蛍ちゃんはわたしにどうして欲しいのよぉ……」

 

 ただ見つめるだけの蛍に燐はとうとう白旗を上げていた。

 

 蛍に見られていることはやぶさかではないが、こういう状況だと何というか少し圧のようなものを感じてしまう。

 

 目は口ほどに物を言うの言葉は知っているけれど。

 そんなにじっと見つめなくたって。

 

(どっちかっていうと蛍ちゃんは一途だから)

 

 燐は頬を少し赤くしながらそっとため息をついた。

 

「だからさ、燐もいっぱい話してほしい。燐だってわたしと離れている間、色々あったんでしょ? 燐のお話も聞きたいな」

 

 蛍はけろりとした顔でそう言うと、お互いの鼻が当たりそうなぐらいまで顔を近づける。

 

 素肌が密着する面積が増えて、少女の良い香りが鼻腔に届くぐらいになった。

 

 きっと蛍の視界には燐以外の景色は映っていないのだろう。

 

 そう思えるほど、蛍は燐だけを見ていた。

 

「話すって、それはまあいいけど……」

 

 燐は答えとは裏腹に少し目を逸らす。

 

 蛍はそれが分かっていたように、小さく笑顔を向けた。

 

「燐の話したいこと全部言って欲しい。やっぱりその、気になるんでしょ、わたしのこの首のアザのこととか……」

 

 少し顎を上げて自分からその痣を燐に見せるようにする蛍にぐっと言葉がつまった。

 

(蛍ちゃん……)

 

 心配しているのは燐の方なのに蛍の方にばかり気を遣わせてしまっている。

 

 その無償の優しさが燐の心を柔らかい痛みとなってぐさりと突き刺していた。

 

 蛍の純粋さはいつまでも変わらない。

 ずっとずっと綺麗なままだ。

 

 なのに何でこんな傷がついているのだろう。

 

 こんなにきれいな蛍ちゃんなのに。

 

「燐、どうかしたの?」

 

 何も言ってくれない燐を少し訝しく思ったのか、蛍がその大きな瞳で見つめながら声をかけていた。

 

「あ、ええっと、うん」

 

 燐は言葉を濁す。

 

 わたしは助けなくてはならない。

 

 多分苦しんでいる。

 顔には出さなくとも。

 

(けど、わたしに何が出来るんだろう……こんなわたしに)

 

 とても情けなく思ったが無理やりに頭を捻った。

 

 微妙に重ならない二つの鼓動は互いの気持ちのすれ違い、ではなくそれぞれの個性なのだと思う。

 

 同じようで違うから良いんだと。

 

 ぴったり全部同じだったらきっと気味悪く感じるだろうけど。

 ちょっとだけ同じなら受け止められるし共感だって出来る。

 

 それを分かっていたはずなのに。

 

(わたしは、いったい何を青眼鏡でみていたのだろう)

 

 疑う理由なんて、最初からなかった。

 

 今ここに彼女が居て、そして。

 

 ずっと笑顔を向けていてくれる。

 

 それをずっと守ってあげたい。

 

 わたしの望みとはそれなのだから。

 

 ─

 ──

 ───

 

「……」

 

 一度終わったものと。

 これから終わるもの。

 

 そこにどれほどの差があるというのだろう。

 

 きっとこうやって受け継いでいく。

 

 意味のない終わらないループを。

 

 何度も何度も。

 

 ずっと永遠に。

 

(わたしはもうこれ以上燐の手は握れない……例えどんなに心から欲しても)

 

 こんなに近くにいるのに胸が苦しくなる。

 自分から拒否したはずなのに。

 

「蛍ちゃん……?」

 

 さっきまで楽しそうだった蛍の顔色が急に変わったことに燐は不安を覚える。

 

 理由は何となく分かっていたが。

 

 蛍はそんな燐の思惑に気付いていないのか、じっと静かに痛みに耐えていた。

 

 直接、鋭い痛みが走るのならともかく、こうして真綿で首を絞めるように針で刺したようなじっくりとした痛みが首や手足に流れるのはことのほか苦しい。

 

 いっそ楽にして欲しいと思ってしまうぐらいに。

 

 さっきまで我慢出来ていた痛みが急に主張を訴えてきた。

 

 ずっと隠し通せるものだと頑張ってきたけど、それだってもう限界なのかも。

 

「はあぁぁ」

 

 蛍は諦めの混じった吐息を吐く。

 

 だがこうした所で全く楽にならない。

 むしろ痛みが鋭くなってきている。

 

(どうしよう……やっぱり燐に言った方がいいのかな? でも……)

 

 とうとう身体の痛みに耐え切れなくなった蛍が燐にどう切り出したものだろうと難しい顔で思案をしていた時だった。

 

「えっ? きゃあっ!!」

 

 不意に蛍の身体がふわっと浮き上がったのは。

 

 でもそれは。

 

 あの、意思を持った黒髪なんかではなく、もっと柔らかくて温もりのある燐の手が彼女の身体を優しく持ち上げていたのだった。

 

 女の子ひとりの力でそんな事、到底出来るはずないのに。

 

 燐はどうしてそんな事が出来るのだろう。

 

 蛍はそんな疑問を持った目で一生懸命に抱きかかえる燐の顔を見た。

 

「り、燐、危ないからっ! 早く下ろしてっ」

 

「大丈夫大丈夫。蛍ちゃん羽みたいに軽いから、わたし簡単に持ち上げられちゃったよっ」

 

 あわあわとする蛍に向けて燐は声を上擦らせながら平静を装うようににこっと笑いかけた。

 

 その割にはがくがくと足は震えていたが。

 

(これって、やっぱり運動不足なのかなぁ……これぐらいのことは部活の時にはやれてたはずなのに)

 

 高校の頃の部活の練習の時、遊びで部員同士を持ち上げ合うなんてことは休憩のときに良くやっていたはずのに。

 

 正直、蛍を持ち上げている燐の細い手足よりも、負荷がいちばん掛かりそうな腰の方が大変なことになりそうだった。

 

 折れそうとはいかないとしても、腰をやってしまいそうになる。

 

 燐はぐっと腰を上げて少しでも負荷を減らそうと試みる。

 

(ちょっと怖いけど、これなら何とかなりそう……かな)

 

 絶対に落とすような真似はしないけど、これがどのぐらいもつかは分からないが。

 

「もう、燐ってば……」

 

 蛍の方も少し怖かったが、燐が少しでも持ちやすくなるようにその細い首にぎゅっと手を回した。

 

 得てしてお姫様だっこのような恰好をする燐と蛍。

 

 だがこれに何の意味があるのか。

 

 蛍は強がる燐の顔を見て少し呆れたような顔になったが、急にはっとした表情になって唇を片手で押さえた。

 

「ど、どうかしたの蛍ちゃん?」

 

 少し崩れたバランスを元に戻しながら燐が問いかける。

 

 大丈夫だとは思うが、急に片手を離した蛍が落ちてしまわないか心配だった燐は気遣った表情を向けた。

 

 蛍はそんな燐を見て目を大きく見開いていたが。

 

「あ、ううん。何でもないよ……」

 

「そ、そう?」

 

 明らかに繕った顔をしていたが、それ以上燐は何も聞かなかった。

 

「それよりも燐、本当に大丈夫なの? 無理しないでいいからね」

 

「へーきへーき、これぐらいはしてあげないとね」

 

「これぐらいって、何のこと?」

 

 話の意図が見えずに蛍は内心首をかしげた。

 

「だって、蛍ちゃんがちゃんと戻ってきてくれたんだよ。胴上げじゃないけどちゃんとしたお祝い位してあげたいじゃない?」

 

「そんなの……別にいいよ。そんなに大したことじゃないし」

 

「そんなことないよっ。わたしにとっては全然大したことなんだからっ! それにもし……蛍ちゃんが立てないっていうのなら、わたしがこうして立たせてあげる。わたしにはそれぐらいしか出来ないから……」

 

「燐……」

 

 燐の首に手を回しながら蛍は目を赤くしながらその人の名を呼んだ。

 

 今にもこぼれ落ちそうなほど大きな瞳をさらに見開きながら。

 

 本当に愛しいその人の名前を。

 

 燐はぷるぷると脚を震わせながらも、それを諭させないように努めてにっこりと笑顔を向けてた。

 

 声も少し震えていたが、もうそれは仕方がなかった。

 自分でもどうしてこんなことをしたのか良く分かってなかったし。

 

「あっ」

 

 驚いた声を上げて下を覗き込む燐。

 

 不意に顔を覗き込まれたような気がして、蛍も慌ててそっちの方を向いた。

 

 あまりに近すぎて目を合わせづらいのか、少し伏し目がちに蛍が目を向けると、ぱっとした明かりが目に飛び込んできた。

 

「ほらみて、蛍ちゃん! わたしたち今、すっごく輝いてない!? まるでひとつの星みたいに」

 

「えっ!?」

 

 燐にそう言われて蛍は改めて自分の体を見つめる。

 

 裸のまま燐に抱き抱えられた自分の輪郭が確かに白く光っていた。

 

 もちろん燐の体も光で照らされている。

 

 染み一つ無い身体で自分よりも少し大きな蛍の身体を一生懸命に支えているすがたが光に浮かび上がっていた。

 

 まるで良く出来た少女の彫像のように。

 

 けれどそれは、特別そんな不思議な事なんかではない。

 

 レジャーシートの上のLEDの明かりと白い月、それらが二人を上下に照らしているだけだった。

 

 だが偶然にもその明かりはぼんやりとした強い明かりを放っていた。

 

 まるで星が地上で瞬いているかのように。

 

 もしこの場に蛍と燐以外の人がいたのならばきっとこの光景に目を奪われていたであろう。

 

 ただでさえ魅力的な少女ふたりが、幻想的な光を纏って湖岸の前で抱き合っていたのだから。

 

 だが、幸か不幸かここには蛍と燐以外の人間は存在しない。

 

 二人だけの世界でお互いの姿を見て微笑み合っている。

 

 だからなのか、二人はそれほど恥ずかしがることもなく、くすくすと笑い合っていた。

 まるで全てを受け入れるかのように。

 

「お帰り、蛍ちゃん」

 

 何故か出てこなかった言葉を今紡ぎ出す。

 小さく微笑んだ燐が蛍の身体をぎゅっと掴み自分の方に少し引き寄せた。

 

 瞬間、蛍はふわっとした甘い香りに包まれる。

 

 本当に欲しかった温もり。

 それが今、崩れかけた蛍の心と身体にやわらかな心地よさをを確かにあたえていた。

 

 ずっと欲しかったものは今ここに全部あったのだ。

 

「ただいま……燐」

 

 蛍も想いと一緒に燐の首にかけた指を強く握る。

 

 二人の間には月や人工的な光では届かない、小さな明かりが灯っていた。

 

「あのね燐、わたし……わたし、たぶんだけど、死んじゃうんだと思うの」

 

 蛍がまるで日常会話のようにそう呟くから、燐はつい噴き出してしまった。

 

 それがあまりにも可笑しくって。

 

「わたしだってそうだよ。だっていつかはみんな死んじゃうんだよ」

 

 ころころと笑う燐に蛍は触れることなくその話を続ける。

 

「そうじゃなくて今すぐのこと。この変な痕だってそのときに出来たものだと思うの」

 

 蛍は燐の腕に抱かれながら今初めて自分の全身を見渡していた。

 

「もしかして蛍ちゃん、痛みとか、あるの」

 

 そうではないかと思っていたが、聞けずにいた。

 

 でも今の蛍の表情からそれが分かった。

 

「うん……ごめん」

 

 蛍はそう言って俯いてしまった。

 

 黙っていたことを燐に怒られると思ったのか、蛍は足元でまだ淡い光をだしている四角いランタンを黙って見つめていた。

 

「だったらさ」

 

 燐は困った顔で笑うと、何を思ったのか蛍の腹の肉を指でぷにっとつまんだ。

 

「きゃぁっ! 燐、なにするの?」

 

 完全に不意をつかれた蛍は、可愛らしい声をあげて飛び上がりそうなった。

 

「あはははっ、蛍ちゃん可愛い!」

 

 ずっと笑い転げる燐を顔を赤くして見つめる蛍だったが、お返しとばかりに燐の無防備な両方の脇に手をさっと入れると、つるんとした腋の付け根の辺りを指でこしょこしょとくすぐった。

 

「きゃははははっ! ほ、蛍ちゃんすとっぷぅ!! 危ない、あぶないからぁ!!」

 

「えいっ」

 

 燐の静止が耳に入らないのか蛍は細い指をさらに蠢かせて これでもかと燐のことをくすぐる。

 

「やっ、やあぁっ! ご、ごめんっ、わたしが悪かったからぁ~~!」

 

 燐は情けない声をあげて蛍に対して降参の言葉を述べた。

 

「最初にした燐が悪いんだからね」

 

 そう言って蛍はくすっと笑うと、ようやく燐をくすぐるのを止めた。

 

 だが、その手は腋をするっと抜けて燐の小さな背中にまわされる。

 

 月明りに照らされた二人の身体が一つになっていた。

 

「どう? 少しは痛みが治まった?

 

「うん、ありがと」

 

 お互いの体をきつく抱きしめる。

 

 柔らかい温もりが触れ合う感覚に、痺れのようなものを全身に感じていた。

 

「ねぇ、燐どうしてこんなことをしたの? やっぱり重いでしょ、わたし」

 

「だからそんな事はないって、蛍ちゃんは軽いし柔らかいしそれに……」

 

「それに……なに?」

 

 燐は顔を赤くすると、蛍から目を逸らして白い月を振り仰いだ。

 

 ぽっかりと浮いた月は端の方が少し欠けているようだった。

 

「何かさ、連れて行っちゃうような気がしたの」

 

「連れて行くって? もしかして月のこと?」

 

「うん。蛍ちゃんやっぱり綺麗だから」

 

 振り向いて燐が微笑む。

 

 それを受けて耳まで赤くなる蛍。

 

 何か言いたいことがあるのか、小さく唇を開くと燐の前で少し体をもじっとさせていた。

 

「燐……わたしね……」

 

 蛍が意を決して話そうとしたのだったが。

 

「ごめん蛍ちゃん。もう限界~」

 

「ちょ、ちょっと燐」

 

 燐が急に力のない声を上げたと思ったら、よろよろと身体を崩して蛍の身体をシートの上にぺたんと下ろした。

 

 強い衝撃が無かったから特に痛みはないけど。

 

「燐っ、大丈夫?」

 

 座り込んだ燐に蛍は肩をゆすって呼びかける。

 

「う、うん……大丈夫、だと思うよ」

 

 燐はどこか痛くしたのか、少しひきつった笑みで小さく笑っていた。

 

 ……

 ……

 ……

 

「燐、本当に大丈夫なの、どこか折れたりしてない?」

 

「あ……うん、大丈夫……だよっ……んっ」

 

 蛍はうつ伏せになった燐の体を擦っていた。

 そんな燐は吐息交じりの声で蛍の呼びかけに答える。

 

 何だか艶めかしい声を上げているようだったが、蛍の行っているのはただのマッサージだった。

 

 蛍の身体を持ち上げたのまでは良かったが、日頃の無理がたたったのか燐は腰の痛みを訴えてきたので蛍がマッサージしてあげているのだが。

 

「はぁ、わたしももう歳かなぁ……こんなんで音を上げちゃうなんてねぇ……」

 

「歳って……卒業してまだ2年も経っていないよね?」

 

 蛍は困り顔でマッサージを続けた。

 

「それでも歳は歳だよー。あー、あの頃に帰りたいなー」

 

「燐ってば子供みたい」

 

 くすっと笑って蛍はちょっと強めに燐の細い腰を肘で押す。

 

「あいたたたたっ! ほ、蛍ちゃん! わたしの腰……折れる、折れちゃうぅぅ!!」

 

 ばんばんとシートを叩く燐に蛍はくすくす笑いながらマッサージを熱心に続けた。

 

 うんしょっ、うんしょっ。

 

 燐にやってもらったことはあったけど、自分が燐の身体をマッサージすることになるなんて。

 

 稀にもないことだから結構頑張ってやってしまう。

 

 だからか余計な力が加わってしまい、ときおり燐は眉をしかめることもあったが、それでも一切文句は言わなかった。

 

 燐だって蛍が一生懸命なのを知っていたし、やっぱり嬉しかったことだったから。

 

 好きな人にしてもらうことは何だって嬉しい。

 例えそれで傷ついたとしても。

 

 いつか分かるだろうと思っているから。

 

「それにしても燐ってこんなに華奢だったっけ? ちゃんと、ご飯は食べてるよね?」

 

「うん。三食ちゃんと食べているよ。それは蛍ちゃんだって分かってる……ことでしょっ……あううう……」

 

 腰を肘でぐりぐりされると少し情けない声で燐は返した。

 

 それがまた面白く、燐が変な声で反応するたびに蛍はくすくすと笑みをこぼした。

 

 ぐりぐり。

 ぐりぐり。

 

「うーっ、ふみゅ……むぐーっ」

 

 腰や背中に蛍が力を掛ける度に猫とも犬ともつかない鳴き声を出す燐。

 

 本当に動物にマッサージしてるみたいだなと蛍は思う。

 

 小さくて柔らかいし。

 可愛らしい声色で鳴いてもくれるし。

 

 だけど。

 

(燐は、こんなに細い体でわたしの事を持ち上げてくれたんだよね)

 

 本当に凄いと思う燐は。

 

 自分が何をしてもかなわないと思うぐらい、燐は何でもできるから。

 

 それは大学へ進学しても変わらない。

 

 まだ将来の事は全然決まってないと本人は笑って言っているが、ある程度の目処が立っていることを知っている。

 

 そしてその目標は自分ではまず到達することの出来ない、とても尊いものだということも知っている。

 

 燐だからこそ出来るものだということも、だ。

 

 そう、何でもテキパキできるし本当にしっかりしている。

 

 ”込谷燐”はいつだってそういう女の子だった。

 

 けど、嫉妬なんかはしたことがない。

 むしろそんな燐を誇らしく思う。

 

 繊細な心を隠しながら誰よりも頑張る燐が大好きだから。

 

 そんな”燐”と知り合えた奇跡。

 

 それは偶然のようであり、多分必然だったんだと思う。

 

 わたしに足りないもの。

 それを全部燐は持っていたから。

 

 けれど。

 

(わたしは燐に一体何をしてあげることができるんだろう……)

 

 ずっとずっと、考えていること。

 

 でも答えは未だに出ない。

 

 燐は何だって出来るし、自分は今だってできない事だらけだったから。

 

 コレ! って言うのが無い状態が何年も続いている。

 

 だから写真なんかもちょっとやってみたんだけど……。

 

「…………」

 

「?」

 

 急に疲れたようなため息をつく蛍に燐は振り向いて首をかしげた。

 

「大丈夫、蛍ちゃん。もしかして疲れちゃった? わたしの方はもう平気だよ。蛍ちゃんがマッサージしてくれたおかげで大分楽になったと思うから」

 

 これ以上は負担になると思ったのか、燐が立ち上がろうとする。

 

 我に返ったようにはっとなった蛍は、上体をあげようとした燐の腰を両手で思いっきりぎゅっと押し戻した。

 

「ふみゅうっ!?」

 

「あ、ごめん! 燐、大丈夫?」

 

「う、うん。だいじょぶ……」

 

 燐は引きつぶされた蛙のようにだらんと両手を伸ばしながら、少し無理して笑顔をつくっていた。

 

 そんな燐に蛍は両手を合わせて謝る。

 

「ごめん。ちょっと考え事してただけだったから。本当にごめんね、燐」

 

 そう言って蛍はもう一度燐に謝った。

 

 燐は目を丸くすると、両手を顎の下に置いてまるで独りごとのように呟いた。

 

「蛍ちゃんのマッサージ、折角気持ち良かったからもうちょっと続けて欲しいなぁー。延長料金支払ってもいいからっ。なんて」

 

 やや演技がかった言葉を吐く燐に、蛍は呆気に取られていたのだったが。

 

「えっと、燐。続けてもいいの?」

 

「うん。もちろんだよ。あ、でもぉ……ちょぉっとだけ手加減してね。蛍ちゃんって意外と力があるから」

 

「そう、かな? 自分では全くそうは思ってないけど……」

 

「ふふっ、結構パワーあるんだよ蛍ちゃんは。そーゆーところは伸ばしていってもいいと思うよ。パワー系女子路線も意外にありだと思うー」

 

「……そうなんだ」

 

「どうしたの?」

 

「何か……燐に言われるとすぐその気になっちゃうなって、わたしってただ、単純なだけなのかな」

 

 蛍は自問するように言うと少し肩を落とした。

 

 急に動きを止めてしまった蛍を燐は不思議そうに横目で見ていたのだが。

 

「蛍ちゃん早くぅ~。わたしだって裸でこの体勢は流石に恥ずかしいんだよぉ~。蛍ちゃんに大事なところ全部見せちゃってるしぃ」

 

 そう言って足をバタバタとさせる。

 

 駄々をこねるような仕草をとる燐に、俯いていた蛍はビックリしてしまった。

 

「でも、燐。わたし……」

 

「くすっ、大丈夫だよ」

 

 顔を向けてにっこりと笑う燐。

 

「わたし、からかって言ってるんじゃないからね。それだけ蛍ちゃんにはいろんな才能があるってこと。だからもっと自信もっていいからっ」

 

「それはわかってる……うん。ありがとう燐」

 

 自分では気づかないことをそれを分かってくれる人がいる。

 

 それが本当に好きな人なんだろうと蛍は今、そう思った。

 

「じゃあ、もうちょっと続けてみることにするね。あ。燐、痛かったらちゃんと言ってね」

 

 蛍は指の腹を使って燐の背中から腰にかけてのラインを重点的にもみほぐす。

 

 それは燐の予想よりも強い力だったので。

 

「ほ、蛍ちゃんっ! わたしっ、手加減してって言ったよね?」

 

 さっそく痛みのようなものを言ってくる燐。

 再度確認をするように蛍に問いかけたのだが。

 

「うん。だから手加減しながらじっくりと燐の体をほぐしてあげる。ちゃんと隅々までね」

 

「い、い、いやーっ!!!!!」

 

 燐の断末魔の叫びが静かな夜の湖畔に木霊していた。

 

 その声に驚いたのか、木の影からじっと様子を窺っていた二匹(つがい)の獣はガサガサと微かな葉音を立てながら漆黒の森の奥へと消え去っていった。

 

 ……

 ……

 ……

 

「はふぅん……」

 

 奇妙なため息を一つ吐くと、燐は腰に手をあてて、ゆっくりと左右に回す。

 

 ズキズキとした痛みもなく、腰を伸ばしたりしてもぎこちない感じはない。

 

 心配していたようなものは特になさそうだった。

 

「……うん。大分マシになった気はするね。ありがとう蛍ちゃん。蛍ちゃんの献身的なマッサージのおかげだよ」

 

「ふふっ、どういたしましてだよ。燐が元気になって本当に良かった」

 

 燐はぺこっと頭を下げる。

 蛍もぺこりと頭を下げ返していた。

 

「でもね、燐」

 

 蛍は少し真面目な顔で言う。

 

「やっぱり無理をしちゃダメだと思う。もし、腰をやっちゃったらしばらく動けなくなるって良く聞くし」

 

「わたしも、それは良く分かっているんだけどねぇ」

 

 確かに、何であんな無茶をしてしまったんだろうと自分でも思う。

 

 部活もそうだが、トレッキングの時なんかでも散々言われたことでもあるから、燐だって良く知ってはいることではあった。

 

 あの頃に比べて運動量だって落ちていることぐらい知っているのに。

 

「ねぇ、燐。まだ横になっててもいいから、もうちょっとここにいよう? わたしもずっと付き添ってあげるから」

 

 難しい顔をしている燐に蛍がそっと声を掛ける。

 燐は顔をぱっと戻すと蛍に向かっていつもの笑顔を向けた。

 

「もう大丈夫だと思うよ。痛みも残っていないし、やっぱりマッサージが効いたんだと思う」

 

「そう? なら良かった」

 

 蛍はほっと一息つく。

 

 あんな事で怪我なんてさせたら、本当に申し訳なくなってしまうし。

 

「それよりもさ、蛍ちゃん」

 

 燐が裸のまま顔を覗き込んでくる。

 

 考えて見たら二人共ずっと裸のままだ。

 

 まあ、裸の方がマッサージし易かったからそれは良かったのかもしれないけれど。

 

「うん? どうかしたの?」

 

 蛍は妙に意識してしまったのか冷静な言葉とは裏腹に、耳まで真っ赤になっている。

 

 何かを期待している。

 とかではないと思う、多分。

 

 実際、燐もそういうつもりは無いみたいで。

 

「蛍ちゃんのさ……体の方の痛みの方は大丈夫なのかなって……さっきまですごく痛がってたみたいだから」

 

「あっ」

 

 燐にかかりっきりになっていたせいか、自身の体の痛みの事をすっかり忘れていた。

 

「えっと」

 

 蛍は胸に手を当ててみる。

 

 脈拍はさっきよりかは落ち着いてる。

 でも肝心の痛みは……。

 

 ……何となくだが、少し痛みが和らいでいるような気がする。

 またすぐにぶり返しそうな気配もするけれども。

 

 だが、そこはまでは口に出す必要はない。

 これ以上、余計な心配を燐はかけられないし。

 

(だけど……)

 

 燐が心配そうにこちらを見ているのは目を閉じていても分かる。

 

 これ以上黙っておくことはもうできないと判断した蛍は、とりあえずさっきのことを燐に聞いてみることにした。

 

「今のところは、大丈夫みたい。そういえばさっき薬みたいなのがあるって燐、言ってなかったっけ? もしあるなら塗ってもらったりした方がちょっとはいいのかも」

 

 それは隠さずに言った。

 

 どうしたって燐に迷惑をかけてしまうのなら、すっぱりと話した方が少しは楽になると思うし、何か対応策みたいなものに繋がるならと思ったからだった。

 

 だが、求めていた燐の答えは蛍の予想とは違って何故か歯切れの悪いものだった。

 

「あー、薬ねぇー。ううーん」

 

 燐は急に気まずそうな顔になっていた。

 

 燐の様子が変わった事に蛍は内心首を傾げる。

 何でだろうと。

 

(そういえば……)

 

 燐が何かの薬を持ってきているのなら、マッサージなんか頼まずにそれを使えば良かっただけなんじゃないだろうか。

 

 蛍は今更ながらにそう疑問に思った。

 

(じゃあ燐は本当は持ってこなかった? だったら何であんなことを)

 

 蛍が不思議そうな顔で小首をかしげて考え込んでいると。

 

「えっと、大丈夫、ちゃんと薬はあるから」

 

 蛍の懸念を感じ取ったのか燐はあっけらかんと言った感じでそう言ってくる。

 

「……燐?」

 

 何かを感じとったのか、燐が顔を近づけるのと同時に蛍は腰を少し引いていた。

 

 ちょっと怖いというか、今の燐からはいつもと少し違うものを感じたからだった。

 

「蛍ちゃん」

 

 ぺろりっ。

 

「ちょ、ちょっと、燐!?」

 

 燐が顔を近づけてきたと思うと、座り込んだ蛍の首筋にピンク色の舌を這わせて痣のあるところを舐めてあげてきたのだ。

 

 全く予想だにしていなかったことをされて、蛍は大きく目を見開いて燐の事を見る。

 

 まさかとは思った。

 さっきとは少し声色が違うとは思っていたけど。

 

 慌てて後ずさりするも、その手を燐にしっかりと捕まれる。

 

 そんなに強い力ではないけれど、何故か有無を言わさぬような、少し強引なものを燐のその手から感じ取っていた。

 

「……っ」

 

 燐にぎゅっと手をつかまれると蛍としてはもう動けなくなってしまう。

 それに悪気はないことを知ってるから。

 

「動かないで蛍ちゃん、わたしがちゃんと癒してあげるからっ、ちゅっ……」

 

 燐は蛍の耳元で囁くと、柔らかい唇を首筋に押し当てて、囲むように広がっている黒い痣の部分を口で吸った。

 

「んんっ……!」

 

 刺激に蛍が吐息を漏らす。

 

(何、これ……むずむずして……何か、変な感じ)

 

 蛍は未知の感覚に身もだえする。

 

 燐はその反応に良くしたのか、上目遣いに蛍の顔を見つめると少し強めに舌で舐め上げた。

 

「ん、ちゅぷっ……ちゅっ、ぺろっ……」

 

 燐は余計な事は一切考えずにただ一心に舌を動かす。

 

 その動きは蛍の傷を癒すと言うよりも何か別の目的があるみたいに熱のこもったものだったから、たまらず蛍は口元を手で押さえていた。

 

 意図しない変な声が口から漏れそうになっていたから。

 

「ね、ねぇ……り、燐……そんな、こと……しなくて、いいからぁ……!」

 

 蛍はそう抗議の声を上げるも、本気で嫌がるような素振りは見せていない。

 

 むしろ所在無げに宙をかいていた蛍の左手を燐がぎゅっと握ってくれてたことに安堵してしまったぐらいだったのだが。

 

 燐の手に違和感を感じた。

 

(あれっ? もしかして……燐も緊張してる、の……?)

 

 燐に手を握られたとき、自分の手が震えているのかと思ったが、確かに燐の手が震えていた。

 

 強く握るとそれが良く分かる。

 

 確かに手のひら全体が小刻みに震えている。

 それに少し汗をかいているのか湿り気も感じる。

 

 けれど燐はそんなことはおくびにも出さずに瞼を伏せて好意を続けていた。

 

(燐だって、怖いはずなのに……)

 

 そうまでする意味があるのだろうか。

 蛍にはそれが分からなかった。

 

 その想いの程が知りたくて、蛍は瞳を滲ませながら燐の事を見つめる。

 

 首を舐めているからか、ここからでは頭しか見えないが。

 

(あっ)

 

 ふと、燐と目があってしまう。

 想いが通じたのだろうか、そう蛍は思ったのだが。

 

「すごく綺麗……今の蛍ちゃん。このまま全部食べちゃいたいぐらい」

 

 燐はその言葉の通り、かぷっと蛍の首に噛みついた。

 

 無論、歯を立てるようなことはせず、蛍の白い首筋を口の中で包み込むようにしながらはむはむと、あたかも食べているみたいに唇と舌を上下に動かしていた。

 

「も、もぉっ……っ!」

 

 そういう事じゃないのに。

 

 燐に理解してもらえず蛍は胸中で不服を訴えたが、痛みとも快楽ともつかない感覚に燐の手を握りしめながら身悶えする。

 

(燐の気持ち、を……知りたいだけっ……なのにっ……)

 

 じれったくなったのか、蛍は燐の手をぐっと握りながらその手を強引に自分の左の胸に乗せた。

 

「……!」

 

 不意に手がむにゅっとした柔らかいものに包まれる。

 

 燐は再び顔をあげて蛍の方を向いた。

 

 どくんどくん。

 蛍の豊かな乳房のその下で、心臓が早鐘を鳴らしているのが燐の掌越しに伝わる。

 

 それでようやく蛍が何を伝えたいのかを理解することができた。

 

 蛍の方を見ているつもりで実際は何も見ていなかったのだと。

 

「あのっ、蛍ちゃんっ」

 

 まざまざと燐はその顔を見つめる。

 

 あどけない、まだ少女のままの瞳で。

 

「……燐」

 

 どくんどくんどくんどくん。

 

 改まって見つめられるととても恥ずかしい。

 変な声なんかもいっぱい聞かれちゃっているし。

 

 でも。

 

 今の正直な気持ちを伝えたいから。

 

「わたしだって、すごく緊張してるんだから……燐と同じで」

 

 自身の胸に燐の手を押し付けるようにしながら、蛍は精一杯の顔で微笑み返す。

 

 燐は急に熱が冷めたようにはっとなると、少し視線を逸らしてぼそっと呟く。

 

 蛍よりも顔を真っ赤にさせながら。

 

「ごめん、わたし……こういうのしたことがなくって……」

 

 燐の告白に蛍は意外そうに首を傾げる。

 

「そうなの? 燐はそういう経験があるんだと思ってた」

 

「そんな事はないけど……あ、もしかして。蛍ちゃん、わたしのこと遊んでるって思ってた!?」

 

「うん。ちょっとだけ、うふふ」

 

 もう、と拗ねた顔で口を尖らせる燐に、蛍は困った顔で微笑んでいた。

 

 ついさっきまで少し怖い顔をしていた燐がいつもの調子に戻った事に蛍はちょっとだけ安堵していた。

 

(燐、別人のようだったもん……けど、何だろ?)

 

 胸のドキドキが収まらないのは。

 

 疼きが……止まってくれない。

 

 むしろ強くなっている気さえ、する。

 体の内側が脈に合わせて甘い疼きを訴えてくる。

 

 まるで、もっとと言っているみたいに。

 

「あ、あのさっ……蛍ちゃん……」

 

 上目づかいで見ながらおずおずと燐が訊ねる。

 蛍は夢見心地のような目で燐を見ていた。

 

 さっきよりも息が荒くなっている気がする。

 燐はそう思ったが、構わずに聞いてみることした。

 

「そのっ、まだ、これ以上しても……大丈夫? もし嫌だったらすぐに言って欲しいの。わたし、蛍ちゃんの嫌がる事したくないから」

 

 燐はそう言って蛍の胸の上に乗せられたままの手を解くと、今度は蛍の手首に舌を伸ばした。

 

「えっ、燐?」

 

 蛍は驚いて燐に何か言おうとしてたのだったが、燐がまるで子犬のように自分の手の付け根辺りをぺろぺろと熱心に舐め回すものだったから、つい言葉が止まってしまった。

 

 言葉の代わりに開いた手で燐の髪を優しく撫でる。

 何だか変な光景だと思った。

 

(犬っていうか、”サトくん”と遊んでるみたい)

 

 ぺろぺろ、ちゅうっ。

 

 燐の小さな舌が蠢くたびに、蛍は内心そう思ってしまう。

 

 ──蛍は長い事サトくんの姿を見ていない。

 

 ”幸運をもたらす白い犬”の話はいつしかあの町であまり聞かなくなってしまった。

 

 一説ではどこかへ別の場所に行ってしまったとか、あるいはもう死んでしまったとか色々言われていたが、実際に見ていないのだからどれも分かりようがなかった。

 

 もしかしたら燐なら何か知っているのかもと思い、後で聞こうとしていたのだが。

 

(はうっ……燐……サトくんっ……!)

 

 ピンク色の舌が這いずり回るたびに意識が白くなる。

 

 甘美な痛みを伴いながら。

 

 燐も奉仕からくる快楽のようなものを感じ取っているのか、蛍と同じく息づかいがどんどんと荒くなってきていた。

 

「んっ……蛍、ひゃん……そっちの手も、じゅる……出して……」

 

 燐にそう懇願され蛍は燐の頭を撫でていた手を放し、両手を揃えて燐の前に差しだしていた。

 

 とてもいけないことを燐にされている気がして、蛍は頬を紅潮させながら、恥ずかしそうに顔を横に背けていた。

 

(何かこうしていると燐に拘束されているみたい。黒い鎖に繋がれているみたいに……)

 

 蛍が両方の腕を反対側にしてぴったり合わせると、確かにそこには黒い一本の線が出来ていた。

 

 その痛々しい様子に燐は胸が張り裂けそうになったが、それでも舐めることは止めないらしく蛍の顔色を窺いながらぺろりと舌で舐める。

 

「ひゃあぁっ!」

 

 ぞくっとした刺激に蛍は小さな叫び声をあげる。

 

 だが、強い痛みを覚えたという訳じゃない。

 

 むしろ、甘く痺れるような、ちくっとした痛みが電流みたいに身体全体に広がって、蛍の脳裏に甘い痺れを起こさせていた。

 

(わたし……気持ち、いい……の? こんなの……が……?)

 

 まだ良く分からない感覚。

 

 首が舐められた時もそうだったが、燐が何かをするたびに動悸が早くなっていく。

 

 吐き出す熱い吐息が止まってはくれない。

 

 針で刺されたような鋭い感覚と綿毛で包まれているような甘い快楽が交互に身体を襲ってくる。

 

 そういう体質なのかと自分自身を疑ってしまうぐらい。

 

 燐は、蛍の反応を見ながらぺろぺろと強弱をつけて蛍の手首に付いた黒い痣の上で舌を転がしていた。

 

 舐めるだけじゃない、吸い取ったり、軽く歯の先端をあてたりもして、動きに緩急をつけていく。

 

 それは、付いた汚れを落とすと言うよりも、絡みついた糸を優しく解くような繊細な舌づかいだった。

 

 手首に落ちた水を舐めとるように、丹念にその痣を舌でなぞる。

 

 穢れた鎖を断ち切るような激しい感情は胸に秘めたままで。

 

 癒すというよりも愛撫に近いであろうその行為に、蛍は唇を軽く噛んで耐えていた。

 

「あ、あっ……り、燐! りん……ん、んんっ!」

 

「んっ、ちゅっ……ほたる、ちゃん……ちゅう、じゅるっ」

 

 裸の体を寄せ合いながら艶めかしく嬌声を上げている二人の少女の姿が、黒い大きな水鏡に映り込んでいた。

 

 全てが死んだように静かな夜の中において、燐と蛍の声だけが唯一のものであるように。

 

 止むことなくそれは続けられていた。

 

(わたし……どうしてこんな事してるんだろう……?)

 

 燐だってさっきから頭では分かっていたが、自分でもその行為を止めることができない。

 

 止めるだけの理由が頭に浮かんでこなかったんだと思う。

 

(きっとわたし、怖いんだ。それを忘れるために蛍ちゃんに一方的に思いをぶつけているだけ)

 

 蛍が向こうの世界(かんぺきなせかい)へ向けた言葉を呟いたとき、燐は言い様のない不安を感じた。

 

 それは蛍という存在だけでなく、この世界自体のことにも。

 

 そう。

 

 ──もう、にどと朝は来ないのではないだろうか、と。

 

 あの時だってそうだったから。

 

 夜が来れば朝が来る。

 当然だと思っていたことがあの日には起きなかった。

 

 代わりに出てきたのはあの、顔のない白い人影の群れ。

 

 町の住民の成れの果てのようだったけど、それだっておかしすぎる事象だった。

 

 あれに至るまでのプロセスが未だに全く分からない。

 

 そう、分からないと言うことは──怖いんだ。

 とても。

 

 今だって果たして町は自分たちの知っている町のままなのかは不明なのだし。

 

 このまま町に戻ったらあの時の歪んだ夜の日が再現されているとも限らない。

 

 もう終わったと思った奇妙な現象がまた起き、それが立て続けに起こってしまったとなると、臆病じゃなくともやはり疑ってしまうのは当然だろうと思う。

 

 そして多分、”座敷童”というのは人を指しているのではなく……。

 

(あの町そのものが”座敷童”なんだと思っているから)

 

 きっと終わりようがない。

 

 幸運もそして、不幸も。

 

 それが先か後かというだけで。

 

 ずっと繰り返し続けるのだろう。

 

 何度も何度も。

 

(蛍ちゃんについている”コレ”もきっとそういう類のものなんだろうと思ってる。だから)

 

 運命とか宿命とかでこういう”酷い痣”が付いたのなら、それを取り除いてあげたい。

 

 例えどんなことをしてでも。

 

 傷つけてしまったとしても。

 

 ぺろっ、ぺろっ。

 

 燐は蛍の両手を逃げ出せないようにしっかりと手で掴みながら、細い首と手首の痕の両方を、それぞれ交互に舐め回した。

 

 臭いを嗅ぐようにして鼻を押し付けながら舌を必死に動かす。

 

 ぴちゃぴちゃと自分の発する水音がやけに大きな音となってに耳に届くが、あえてそれに蓋をして舐めとる行為だけに集中する。

 

「こうしてれば……うちゅっ……少しは、ちゅっ……気が紛れるからっ」

 

 燐は独り言のように呟いていた。

 

 あの町はどうなっているかは分からないが、ここだけは何も起こっていない。

 

 そう、せいぜい僅かな異変というか、裸の少女二人が真夜中の湖岸で折り重なって吐息を吐いているだけのことが起きているだけだった。

 

(わたしが今やっていることは現実? それとも夢……?)

 

 自分が分からなくなりそうになる。

 

 夢にとらわれ過ぎない方がいいとずっと前に言われたことがあるけど。

 

 それはどっちも同じだと思う。

 

 どちらかに固執し続けるから戻れなくなってしまうのだと。

 

(じゃあわたしは蛍ちゃんという夢に囚われているんだね……本当に欲しかった甘い夢に……)

 

 燐は唇を蛍の窄まった臍に這わせる。

 

「り、燐っ……そこは……はうっ!」

 

 そのまま一気に足首まで舌を這わせようとしたのだが、つい可愛かったから唇をちょんとつけてしまった。

 

 そこは不思議と樹の蜜が滴っているような甘い香りがした。

 

 ぺろりと舐めると蛍は背筋をのけぞらして可愛らしい喘ぎ声をあげる。

 

 まるでそこが性感帯であるかのように。

 

(このまま溺れたっていい、もしこのことで二人の関係が壊れたとしても、わたしは全然構わない……)

 

 後悔なんてものはもう頭にはない。

 

 ずっとずっと、奥深くまで沈み込みたかった。

 

 どこまでもどこまでも。

 

 ”三間坂蛍”という少女の中の奥にまで。

 

 暗く透明な意識の底に。

 

 たとえもう、戻れなくなったとしても。

 

 それはきっと本心で求めていたことだったのだから。

 

「わたしがこの痕……全部消してあげる……綺麗な蛍ちゃんの肌にこんな酷い痣なんかは似合わないもん」

 

 そう言って燐は蛍の足首に付いたミミズのような黒い痣を舐め回した。

 

「燐……そんな所……汚いよっ……ううっ……」

 

 蛍は薄く瞼を開きながら、また月が隠れてしまった事に小さく感謝をする。

 

 見られていたらきっと恥ずかしかったし、それにこんな姿、誰にも見せたくはなかったから。

 

 燐だけにしか見せない、二人だけの時間を。

 

「んんっ……」

 

 燐に舐められたところが甘く痺れる。

 蛍はくすぐったそうに少し身をよじった。

 

 それを逃がさないように燐は蛍の脚を両手で抱え上げをぎゅっと掴みながら丹念に足首を舐めまわす。

 

 拭き取るというよりも毒素を吸い上げるように唇をすぼめて、蛍の両方の足に何度も唇の雨を降らせた。

 

(燐、わたし……心臓が……パンクしちゃうよ……胸のドキドキが、ドキドキが強すぎて……)

 

 それでも蛍は燐の行為を受け入れていた。

 

 同情とかではなく、確かな愛情を感じ取っていたから。

 

 もしかしたら欲情もあったかもしれない。

 

 ずっと奥深くに隠しておいた、自分すらも自覚できていない秘めた願望が、不意に表に出てきてしまったのかもしれないと。

 

(わたしはっ)

 

 そう理解した瞬間、心の中でぱっと火花のような熱い想いが湧きあがるのを感じた。

 

 文字通りぱあっと胸の奥から全身に向かって一気に広がって、さあっと跡形もなく消えてしまうものかもしれない、衝動的な想い。

 

 例えそれでも良かったのだ。

 

 この瞬間だけは、自分の意識を燐だけにしておくことができるから。

 

 だから、独り占めできている。

 

 彼女の母親でも無論、”彼”なんかでもなく、自分が全てを独占していられる。

 

 もし、幸福というものが目に見える形になるのなら、きっとこんな滑稽なものになるのだろう。

 

 刹那的な快楽をただぶつけ合うだけの、もの。

 

 これがよく分からない男の子相手だったら、多分拒絶してただろうけど。

 

(けど、それが燐だったら……)

 

 そんな妄想を蛍はわりと良くしていた。

 

 実際、燐はそういった意味合いでの女子の人気なんかもあったし、本人も男の子のような恰好をしていた時期があると言っていたから。

 

 そんなに逸脱した妄想ではないと思う。

 

 それがこんな形で叶うとは思わなかったが。

 

 想像していたものとはちょっと違う気はするけど。

 

 これはこれで良かったと思う。

 

 好きな人に好かれるのはこの上なく幸せなことなんだと理解できたから。

 

 身も、心も。

 

「燐っ……! 燐っ……!!」

 

 ただ名前を呼ぶだけでこんなにも心が熱くなるのに、こんなことまでしてくれるなんて。

 

 心の奥底の産声。

 それを聞いた気がした。

 

 その音は熱い吐息となって蛍のお腹の奥の大事なところを響かせていた。

 

 そこはまだ誰にも一切触れられていないのにとても熱く、脈打っている。

 

「燐……そこは、だめだよ……流石に恥ずかしい……から……」

 

 蛍は顔を真っ赤にしながら弱々しい懇願の声を上げる。

 

 多分燐は違うことをしようとしている。

 

 とても恥ずかしくて本当に好きな人にしかさせないようなことを。

 

「蛍ちゃん……やっぱり、ダメ?」

 

 燐の囁き声に蛍は無言でこくこくと頷く。

 

 でもそれは拒否じゃないむしろ逆の……いみあい。

 

 男の子だったら多分わからない。

 

 けど、燐なら分かる。

 

 だって同じ女の子だし、それに。

 

 燐にだったら分かってもらいたかった。

 

 わたしの本当の気持ちを。

 

「……っ!!」

 

 見られて、触れられて、そして舌が動く。

 

 嬌声が静寂に響き渡る。

 

 疵を癒すという行為は完全に別のものへと変わっていったが、それは成り行きからのものだったのか、ただ蛍からの強い抵抗はなかった。

 

 何をされても快楽と歓喜しか感じなかったし、羞恥は確かにあったがそれ以上に強い想いの前では特に意味をなさなかったのだ。

 

 愛の前には何も成り立たないように。

 

「……蛍ちゃん?」

 

「わたしも……燐にしてあげたい」

 

 蛍は燐の手をすっと放すと、今度は蛍の方から燐を求めた。

 

 蛍だって同じ思いだったから。

 

 ふたりは体勢を変えたりしながら互いに想いを高め合っていく。

 

 こうして慰め合うことに何の意味があるのかは分からない。

 

 でも、だからこそ止められなかった。

 

 意味がないのは最初から分かっていたことだったから。

 

 何かのスイッチが入ったように、燐と蛍はの輪郭さえも擦り合わせる。

 

 どんなに願おうとも一つのものになることなんかは出来ないと分かっているのに。

 

(でも、身体が……)

 

(……想いが)

 

 求めあっていたことだったから。

 

 燐と蛍は絡み合い、重なり合って溶けていく。

 

 お互いの名を切なそうに何度も何度も呼びながら。

 

 いくら指を組み合わせてもまだぴったりとはならない。

 

 それでも、たったひとつの存在となるべく。

 

 どこまでも深く繋がっていく。

 

 撹拌されてぐずぐずになるまで。

 

 どろどろに溶けあっていた。

 

 時間も場所も忘れた世界で。

 

 少女は一つの完璧になるべく、どこまでも交じり合っていた。

 

 暗い空が真っ白くなるまで。

 

 ずっと。

 

 …………

 ………

 ……

 

 山から下りた風が静かな湖面を揺らす。

 

 裸のまま隣で眠る蛍に上着を掛けると、透き通った朝の風が蛍を起こすまで、燐は長い黒髪をずっと撫でていた。

 

 ずっとずっと。

 

 このまま撫でてていたかったけれど。

 

「やれやれ。結局、野宿になっちゃったね」

 

 解けた長い黒髪の感触を楽しみながら、まだ寝ている蛍にごめんと謝っていた。

 

 昇った光がたおやかな少女達の肢体を白く照らす。

 

 朝から日は強く、少し痛いぐらいだった。

 

「あのさ、蛍ちゃん」

 

 燐は初夏の風のような声色で問いかける。

 

 その声は眠る蛍の耳には僅かに届いていないようだった。

 

「わたしが、向こうに行くよ。もともとわたしが行く所だったんだ。だから本当の帰り道はそっちだと思うの」

 

 蛍の長い黒髪を指先でくすぐる。

 

 この温もりでさえ届かない所に行くはずだったのに。

 何故、戻ってこれたのだろうと今でも思う。

 

 答えは結局分からなかったけど。

 

「やっぱり、体の(あざ)、全部消えてるね」

 

 蛍が眠っている間に身体のあちこちを見てみたが、あの黒い棘のような傷あとは蛍の肌の上から跡形もなく消えて無くなっていた。

 

 もっとも酷く蛍の首に纏わり付いていた跡も一切合切無くなっており、いつものように細くすらっとした蛍の首筋が戻ってきていた。

 

 まるで、全ての問題がクリアになったみたいに。

 

 何もかもが元通りになっていた。

 

 たった一つの事。

 燐が付けた唇の跡だけはちょっとだけ残ってしまったが。

 

 でもそれはすぐに消えるだろう。

 

 自分の事を忘れてしまうように。

 

 でも、と燐は思う。

 

「やっぱりさ、わたしが付けたのかなぁ、あの痕って。だって蛍ちゃんのこと誰にも渡しなくないって思ってたから」

 

 蛍が寝ていることを良いことに燐はそう告白をした。

 

 結局こういう形でしか伝えられなかったけど、きっと届いていると思う。

 

 例え今でなくとも。

 

 いつか、ずっと後に。

 

「でもね、わたしは全然後悔なんかしてないよ。だってわたしは蛍ちゃんから色んなものをもらっちゃったんだし」

 

 燐は屈託なくにひひと笑ってそっと蛍の頭を撫でる。

 

 ちょっと下品な言い方をしてしまったが、それでもいいと思う。

 

 もう伝えられるだけの事は全部伝えたと思っているし。

 

 結局自分にできる事なんて大したことはなかったけど。

 

「大好きだよ蛍ちゃん。いつまでもいつまでも、ね」

 

 燐は起こさないよう、蛍の顔にそっと近づく。

 

 やわらかい頬に唇をちょんと当てようと思った。

 

 最後の、別れの挨拶として。

 

 だが、その時ふとある物が目に入り、燐は首を傾げた。

 

「ん、あれ、何だろ?」

 

 蛍の荷物の上にあったネコの顔のポシェットの隙間から何かがはみ出ていた。

 

 なにかの紙切れのように見える。

 

「蛍ちゃん、ちょっと、ごめんね」

 

 燐はついそれを手に取ってしまっていた。

 

 勝手に見たら悪いとは思ったが、その前に手が勝手に動いていたのだ。

 

 好奇心からくるものだろうか、それとも別の……?

 

 ただの白紙のように見えるその紙きれを燐は不思議そうに眺める。

 

 だが、すぐにはっとした表情になる。

 

「これって、写真?」

 

 何でこんな所でと思ったが、燐はその写真をくるっと裏返した。

 

 ただ、蛍は写真を撮るのを趣味にしていたから、最初燐はそれほど驚かなかった。

 

 だが、そこに映っているものを見た途端、燐は大きく目を見開き、まるで凍り付いたように固まってしまっていた。

 

 そして何かを逡巡するように考え込んでいたのだが、はぁと深いため息をつく。

 

「なるほどね。そういうことだったんだ……」

 

 ようやく納得出来た気がする。

 

 なぜ自分だけが青いドアの家の世界へ行けず、あんな変な痣が蛍に付いてしまったことにも。

 

 写真に写っていたのは蛍だった。

 

 ただ、その写真は蛍一人では()()()()()()()()()()()()()()()()()()() ()

 

(じゃあ、蛍ちゃんはたった一人で)

 

 燐は一瞬、悲しそうな目で天を振り仰ぐと、小さな呼吸音を立てながら丸くなって眠る蛍を複雑そう顔で眺める。

 

 生まれたままの姿で無防備に眠る蛍を見て、燐は小さく笑みをこぼした。

 

 いつまでも変わらないなぁ蛍ちゃんは、と。

 

「でも水臭いよ。ちゃんと言ってくれればいいだけなのに」

 

 そういって燐は柔らかな蛍の頬を軽く指でちょんとついた。

 

 本当に大事だったもの。

 

 それはすぐ近くにあって、本当に壊れやすいものだった。

 

 だからその手を離した。

 

 これ以上触れなければ、関わり合うことが無くなれば。

 

 ずっとそのままでいられるだろうと思っていたから。

 

 ずっと綺麗なままの形で。

 大事な思い出の一部として。

 

 ずっとずっと。

 残り続ける。

 

 でも、そういうことじゃなかった。

 

 手が実際に触れていなくとも、心が、想いがそれを縛り付けてしまう事だってある。

 

「それを分かっていたはずなのに、ね」

 

 あの時分かっていたこと。

 それをもう一度繰り返しているだけかもしれない。

 

 でも、それでも。

 

「楽しかった、ずっと。それは本当だよ」

 

 やり直したかったわけじゃない。

 ただ、確かめてみたかっただけ。

 

 でも、もうそれももう分かったから。

 

 燐はもう一度柔らかい目で蛍を見やると、すっと立ち上がった。

 

 空は青く、日は燦々と登っている。

 

 絶好の日和だと思った。

 

 あの時と、同じように。

 

「やっぱり、わたしが居る場所はここじゃなかったよね」

 

 そう。

 

 ずっとずっと、空の上の向こう。

 

 燐は宙の上に描いた道筋を辿るように、透明な視線を上へと向ける。

 

 行くべきところはもう分かっていた。

 

 一度行きかけた場所なのだし、迷うことはもうない。

 

 ただ、無責任なことをしているとは思う。

 

 想いをぶつけるだけぶつけて勝手にひとりで居なくなるのだから。

 

 好意を抱いていることはお互いわかっている。

 

 でも、そうしないと今度こそ本当に大事なものを失ってしまう。

 

 色々なことがあったけれど、それでもかけがえのない時間を過ごせたんだと。

 

 だから本当に良かった。

 

 いつか絶対に来るものがほんの少し早くなるだけ。

 

 ──そうだ。

 

(わたしの大事なものは、蛍ちゃん。ずっとずっと蛍ちゃんだけだよ)

 

 たったそれだけ。

 

 色々な人々と関わりを持ち、様々な出来事に巡り合ったとしても。

 

 ほんとうに大事なものはただ、一つだけ。

 

 複数のものはもってはいけないし、それは多分ほんとうに欲しいものなんかではない。

 

(あの日、線路の上で手を離した瞬間(とき)から)

 

 僅かに残っていた残滓の欠片。

 

 それは本当に些細なことだったけど、それでもずっと思い続けることができたのだ。

 

 それだけの為にここまで来たんだと思う。

 

 本当に、長い夢を見ていたんだと。

 

 長くて、そしてとても幸せな夢の時間を。

 

「じゃあ、もう行くね」

 

 燐はそう言って軽く手を振った。

 

 悲しくなんかはない。

 寂しさも心を打ち震わせるものではなかった。

 

 ただ、もう一度だけ振り向こう、そう思った。

 

 蛍の方を。

 

 本当に往生際が悪いのだと心底呆れてしまったが、それでも最期に一目だけ見ておきたかった。

 

 それだけで大丈夫だと思うから。

 

 本当に好きだった人の姿を目に焼き付けていればきっと……。

 

「ふえっ!?」

 

 振り返ろうとした燐の指が柔らかい何かに包まれる。

 

 ぎゅっとした強い感触。

 それは。

 

「ダメ」

 

 ぐっすりと寝ていたはずの蛍が膝を立て、這いつくばるようにして燐の小指を握っていた。

 

 折れそうに細い指で。

 

 だが、その力はとても力強く、起き抜けとは思えないほど、しっかりと燐の指を握りしめていた。

 

 燐は小さく首を振ろうとしたのだったが。

 

「燐、ダメ、なんだから……! この手はもう絶対に離さない……離さないんだからっ!」

 

 蛍はピンク色の唇を小刻みに震わせながら言葉を紡ぐ。

 

 揺れる瞳の奥に蛍の強い決意の色を感じ取った燐は何も言うことができず、黙ってそれを受け止めていた。

 

 蛍の強い欲望の色。

 

 燐はそれを初めて見た。

 

 誰よりも強い欲望を秘めた蛍の本当の灯火を。

 

(でも 蛍ちゃん……)

 

 大きな目を赤く腫らしながら燐だけを見つめている蛍。

 

 燐も蛍だけを黙って見ている。

 

 二人の少女の瞳の奥には一つの共通しているものがあった。

 

 それは──傷だらけであること。

 

 燐も蛍も同様に深く傷つき、それはどんなに互いを癒しても決して消えるものではない。

 

 細かい無数の引っ掻き傷と、裂けるように深い一つの傷。

 

 そのどちらとも少女の心を簡単に打ち砕くだけの強い傷だった。

 

 それでも完全に砕けなかったのは。

 きっと。

 

「……」

 

「……」

 

 澄み渡った空が、遮るもののない少女達の輪郭を白く縁取っている。

 

 伸びた影が二人の間に黒い奇妙な線を作っていた。

 

 視線を遮る壁のように。

 

 けれど、蛍と燐の視線は変わらない。

 

 互いの姿をいつまでも見つめていた。

 

 雲間から射した光が視界を困難にさせたとしても。

 

 ずっと、ずっと。

 

 ただ見つめ合い、互いに手を握り合っているふたつの肢体は、光を浴びてきらきらと輝いていた。

 

 現実というひとつの世界から切り離された幻想の絵画のように。

 

 ふたりだけの青い空の世界(カミュ)が。

 

 

 いま、ここにあった。

 

 ──

 ───

 ────

 





今年の夏は大好きなチョコミント系のものを食べたり飲んだりする機会が結構あった気がしますねぇ。特にチョコミント系のアイスは割と食べたような気が……その中でもほんの少し前に食べた”チョコミント胡麻豆腐”が思いのほか忘れられないと言いますか、名前の割には? 美味しかったんですねぇ。見た目はチョコプリンかババロアにしか見えないのですけど、しっかりミント感が残っていてすうっと胃の中まで爽やかになりましたよー。リピートしても良いぐらいです──が、豆腐感はほぼ無く完全にスイーツでした。

それしても今年の夏は猛暑続きでしたねー。本当に大丈夫なのかとたまに疑ってしまうぐらいに暑かったです。原付とか乗っててもアスファルトから蒸気のような暑さが立ち登ってくる様子が見えてしまうぐらい。そのせいなのか今年の夏は割と事故のようなものが多かった気がします。あまりの暑さに機械類なんかも故障が出てしまうのかもしれないですねー。

そんな暑さにもこんなに続くと流石に少し慣れたなーって思ってたのですが……そろそろ涼しくなってくる時期のはず──なんですけどねぇ。どうやらまだ暑さは遠くに行ってくれないようです……もう残暑という言葉が形骸化しているような気も? この分だと9月も暑くなりそうですしねー。一般的な寒暖差適応レベルがわたしにはまだまだ寝苦しい夜が続きそうです。かと言って昼間は更に暑くてもっと寝れないのですがー。
本格的に暑さが終わるころには秋を飛び越えて冬の気配が来ていそうな気がします。


そういえば”つなキャン△”まだやってはおりますが……何かもう凄く進化っていうか短い期間で別のゲームになっている気がしますねー。メインだったキャンプは更に簡素化されて、今では艦これの遠征みたいな事になってしまいましたねぇ。とても楽ですけどキャンプをするという概念すら無くなってしまったというか……スマートなのはいいのですけれどもー。

代わりに充実されたのは期間限定のイベントですねー。特にいきなり始まった松ぼっくりを集めるイベントは思いのほかやりまくってしまいましたよー。PCなのでマウスとキーボードでやっていました。コントローラーも使えたら良かったんですけどねー。
でもこういった遊べるミニゲームがあるのはいいのですけれど、何か別ゲーとなりつつある予感が。その内アクションメインのゲームになってしまったり……とか? 流石にそれはないかー。

で、ゲームと言えば”ヤマノススメ”もゲーム化しますねぇ! 最初知った時はまさかとは思いましたが。
原作アニメともに結構前から始まった作品でしたし、ここに来てこんなことになるとはー。しかもスゴロク風ゲームみたいですし、若干、ゆるキャン△のコンシューマーゲームに似ている気もしますけどどうでしょうか。ただ販売元のサイトを見て見ると……何か、ヤマノススメだけが若干浮いているような気がしますね……絵柄というか、(全体的な)雰囲気的意味合いで。
そう言えば最近、外国人の富士登山でのことが少し騒がれていましたね。観光バスで大量に乗り付けていきなり登山をしてしまうという所謂、”弾丸登山”のことが。手っ取り早いと言えばそうなんでしょうけれども。で、その報道を聞く度にどうしても”ヤマノススメ”の事が私の頭をよぎってしまうのですよー! アニメでは大丈夫だったんですけど、原作では一回目の富士登山のときに主人公たちは弾丸登山で登る計画をしてしまうんですよねー。そのせいで主人公のあおいは途中でリタイアすることになってしまうんですけども。あ、別にこの作品の影響のせいと言っているわけではないのですが、やっぱりそれだけ弾丸登山は危ないですよー。ということでー!!


まだまだ暑さに気を付けつつ──それではではではではではー。


追記ですが。

★青い空のカミュDL版が10月10まで70%OFFセールの2574円になっておりますですねーー!! これまでの最大級の値下げ額かもしれないです。しかも9月28日まで使える初回購入者クーポンと併用すると何と2000円程度で”青い空のカミュ”が購入できるようなので、この機会に是非プレイしてみるのも良いかと思われますー。
更に、KAIの他のゲームは何とワンコインの500円セールとなっているみたいですので、そちらも合わせて是非是非~。


にしても、今回はいつも以上に遅筆だった上に、ちょっと微エロが入っちゃったような気がするので、もしかしたら後半部分は修正するかも……? やっぱりしないかもですが。

結局修正はしないでむしろ加筆しちゃったわけですが。


相変わらず気まぐれ且つ怠惰すぎてすみません。


それではーーではーではー。


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