We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life.   作:Towelie

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「ここで良いんだよ、ね?」

 恐る恐るといったかんじで燐はそう尋ねた。

 蛍はちょっと困った顔で返す。

「うん、多分。だってさっきからサトくんはこの家の前でほえているし」

「それはそうなんだけど……」

 ここまで案内をしてくれたサトくんが急にこの家の前で立ち止まり、呼ぶように何度も吠えているのだからきっと間違いではないのだろう。

 だからと言ってこれは……。

(まるで、お伽話とかに出てくる魔法の使いの家みたいだね。これじゃあ)

 燐にはそうとしか見えなかった。

 白い犬──サトくんの案内するままに車を走らせていた先は、全く人気のない峠道だった。

 とても狭い山の道であり、おおよそ車一台がぎりぎり通れる道幅しかない。

 向こうから対向車なんか来たらまず避けられないだろう。

 ガードレールなんかは当然なく、その道の片方は崖だったのだから。

 まだまだ初心者の蛍はおっかなびっくりでハンドルを握るはめになってしまった。

 更に雨も強く降っていたのだから、少し余裕のあった蛍の顔にも次第に顔を緊張に漲らせることになる。

 けれど、蛍は決して弱音を吐くことはなかった。

 それでも何とか道の途中までは行くことが出来たが、そこからは軽自動車でも無理そうなほど狭苦しい、殆どけもの道と行ってもいい山道だったので、そこに車を置いて徒歩で登ることにしたのだった。

 それにしたって、犬が導く方に車を走らせるなんてことは、まず普通はしない。

 サトくんを良く知る、蛍と燐だからこそできる芸当であった。

 しかもそれを提案したのは運転をしている蛍だったのだから、燐は何も言わずにそれに従っていたのだ。

 サトくんはひょこひょこと、それこそ何も恐れずに軽快に前へと進むが、少女たちの胸中は複雑なものあった。

 こんな所に一体なにがあるのかと。

 ざくざくと、濡れそぼった枯れ葉の絨毯を踏みしめた先にあったのは、ある建物。

 むしろその成れの果てと言ってもいい廃墟と化した家が一軒あるだけだった。

 それを見つけた燐は、嬉しそうにこちらを振り返るサトくんに内心ため息をつきながら、とりあえずその家の玄関に声を掛けてみることにしたのだった。
 
 もしかしたら、中に人がいる可能性だってなくはなさそうだし。

 まともな人ならここに人が住んでいるとは思わないだろうが。

「えっと、こんにちはー。誰か、いますか~? えっと、オオモト様って……います?」

 冷たい雨が降りしきる中、燐はボロボロになっていた家屋の前で少し曖昧に外から呼びかけた。

 呼び鈴のようなものはあったが、蔦が絡まっておりとてもじゃないけど使えそうにはない。

 それだけ長い間放置されているとも言えるのだが。

「……」

 当然、返事はない。

 それが必然であるかのように、その家からは人の気配なんてものは一切感じ取れなかった。

(まあ、こんな所にいるはずがないよね? いくら何でも)

 だって、この家も柱もあまりにも朽ちてしまっている。

 もし仮に住む場所がなくなったとしても、こんなぼろぼろの家で寝泊まりする理由なんてないはずだ。

 何か重いものでも落ちたのか、家の屋根だって大きく傾いているし、外から家の中が丸見えになってしまうぐらいに窓枠もなければ壁だって所々穴だらけなのだから。

 おおよそ人の住めるような環境ではない。
 ましてやこの天気では尚更だろう。

 多分中は雨漏りだらけだろうし。

 それにしたって、見知らぬ県境の町まで来て、こんな雲をつかむようなことをやっているなんて。

(まあ、偶然会えればいいかなって位だったし、ここから何が出来るわけってでもないけどさ)

 流石に滑稽に感じてしまう。

「ねぇ、サトくん。本当に()()()()()()にオオモト様がいるの?」

 蛍は半信半疑といった表情で案内してくれた白い犬に訊ねる。

 普通の犬ならそんな人の言葉なんて理解できるはずもないのだが。

 サトくんはわんと一声答える。

 無邪気にほえるサトくんに、燐と蛍は思わず顔を見合わせた。

 騙されたなんてことは全然思ってはいないが、流石にこれは間違いであってほしいとの思いは多少ある。

「犬の鼻って、雨が降っているとあんまり利かないとかいう話じゃないんだっけ?」

 そういうようなことを本か何かで見たような気がした蛍は燐にそう尋ねる。

「わたしもそういうのは耳にしたことはあるけど……実際はどうなんだろね」

 まともに犬を飼ったことがない二人にはその程度の知識しか持ち合わせていない。

 尻尾をふるサトくんの頭を撫でながらそれとなく尋ねてはみるが、答えは当然返ってはこなかった。

「もしかして、ちょっと前までオオモト様がここに居たけど今はいないとか?」

「その可能性は普通にあるかも」

「他に周りに何かありそうな感じはないしないよね」

「うん。きっとここだけだね」

 知らない土地だからだろうか、この家を見ているだけで何となく心細く感じる。

 蛍は無意識に自分の二の腕の辺りを軽く擦っていた。

 燐はもう一度周囲をぐるりと見渡してみたが、ここ以外の民家はなさそうだった。

 ただ、ぽつんと一軒取り残された家屋があるだけで、周りには木が生い茂っている。

 表札もなくなっていたことから、一体誰が何の目的で建てたものかは分からない。

 それを知った所でどうなるものでもないとは思うのだが。

 狭い道の先に建っていたのだから、相当な変わり者が立てた家なのだろう。

 例えば、他の人に住んでいる所を知られたくはない理由があるとか。

 割と大きめの家のようだったから、ただ単に住むためだけの家でなく、何か事業でもやっていたような可能性もある。

 もっともその辺りの事を示す様なものは取り立てて見当たらないけれど。

「えっと……お邪魔します~」

 燐は一応そう言ってから、持っていたペンライトで中を照らしながら廃墟へと足を入れた。

 軽く部屋の中を照らしてみたが、やはり何も見当たらない。

 良くある落書きや、誰かが忍び込んだような形跡を示す様な痕跡のようなものは見当たらなかった。

 全くもぬけの殻のように見える。

 使わなくなって捨てられた、かたつむりの殻のように。

 ただ、何か布団のようなものが無造作に部屋の隅に置かれてはいたが、これはおおよそ布団と呼べるような感じの代物ではない。

 まだあの時、燐と蛍が入った保養所に残されていた布団類の方がよっぽどマシなぐらいだった。

 こんな所で寝泊まりなんかしていたら、今朝みたいな寒い時には凍り付いてしまうことだろう。

 今だってこの雨のせいか、この家の中に居ると悪寒を感じてしまうぐらいだった。

 多分、この辺りは朝でも夜でもぐっと冷えるのだろう。
 レンガで作ったような暖炉の残骸もあったし。

 標高の高い山ばかりに囲まれている地域の山の中腹にあたる場所みたいだから、他の家屋が見当たらないことから、やはりここは人の住む環境にはあまり適していないようだった。

「やっぱり誰も居ない?」

 蛍もペンライトを片手に家の中に入ってきていた。

「まあ、見れば分かると思うよ。これだと」

 燐は肩をすくめて首を横に振った。

「だよね」

 わざわざ確かめる必要もないことだろうが、自分の目で確認しておきたかった。

 万が一という事もあるし。

 足の踏み場もないということはないが、部屋の中はガラクタが散乱していた。

 家具が残っている所を見ると、持ち主は引っ越しをして居なくなったという訳ではないらしい。

 そのほとんどが朽ちてはいるが。

「それにしても、アンティークっていうのかなこれ。ここの家具とかちょっとモダンな感じがして割と好きな方かも」

 恐らく、家の内装に会うように洋風のものを使っていたのだろう。

 だが、それもここまで崩壊していたらそれはもう見る影もない。

 それに触っただけで崩れてきそうなほどだったから。

 家の内も外も見た目以上にボロボロだった。

 建物としての体制は殆ど果たしていないし、家具だってその役目を果たしてなどいない。

 ましてや雨露を凌ぐことすらできていないのだから。

 それは雨漏りなんてレベルではなく、どこかしこもびっしょりと濡れている。

 それっぽい建物の残骸が積み重なっているだけで。

(何か、どこかで見覚えがあるような?)

 既視感のようなものを不意に覚えた蛍は、周囲をペンライトを照らしながら内心首を傾げていた。

「本当、これじゃ誰もいるはずがないよね。空き家にしたってこんなボロボロじゃ」

 蛍は諦めたように深いため息を吐いた。

 先に中を覗いた燐の様子と、この建物の外観からしてそうではないかとは思っていたが、自分の目で見てそれが良く分かった。

 一応、家の中を一通り見てみたが、やはりオオモト様はここには居なかった。

 二階なんかもあったが、上に続く階段は使い物にならない程朽ちていて、とてもじゃないが登りたいとは思わない。

 むしろ天井が剥がれ落ちてきそうな気すらしてくるので、探索もそこそこに退散してしまったが。

 結局──何も分からなかった。

 もう少しこの辺りを調べてみてもいいのだが……多分、何も得られるものはもう何もないだろう。

 折角サトくんが案内してくれたと言うのに。

「あのさ、この家、なんだけどさ……」

 家の外から出た燐が唐突に口を開く。

 それが少し重い感じの口調だったので蛍は黙って耳をかたむけた。

「多分なんだけど、随分と前からこうなっていたみたい。朽ちた感じとか劣化の具合とか見てるとそう思えるの。だからさ、もしかしてここは」

 その先の言葉を燐は言わなかったが、蛍には言いたいことが分かった。

「森に住む動物とかが使ってるんじゃないか、ってことが言いたいんでしょ」

「うん、そう考えるのが妥当なのかもって」

「まあ、そうだよね。人の住んでいた感じはしなかったものね」

 以前は違ったのだろうが、あの荒れ具合だと精々キツネかタヌキの小動物がねぐらに使っているぐらいにしか考えられない。

 もし、サトくんが今の自分の住処を案内してくれたと言うのならある意味では納得のいくことなんだけど。

 これは仕方ないことなんだと思う。

 間違っているかどうかなんて行ってみたいと分からないものなのだし。

 蛍ははぁっと息を吐いた。

 吐き出した息が、雨と周りの空気のせいなのか、一瞬すうっと白くなる。

 少し、気温が下がってきたように感じた。

 ……
 ……

「ねぇ、燐。これからどうしようか? ここでオオモト様がくるのを待ってみる?」

「うーん、それでも良いけどさ」

 こんな人気のない所に本当にオオモト様が来ているのだろうか。

 町や人からも取り残されたような寂しい場所に。

 しかもここには廃墟となった家屋しかないのだ。

 いくら普通の人とは違う存在だったとしても、こんなうら淋しい場所に居なくてはならないことなんてないはずだ。

 ただ、現実から剥離された場所という意味ではあそこと少し似ている気もする。

 ここではない世界にぽつんと立っていた、あの”青いドアの家”と。

(でも、ここまで朽ちてもいないし、中はちゃんと整理整頓されているけどね)

 比較する事自体が間違っている気もするが。

「確か、オオモト様ってお金持ってるんだよね? 蛍ちゃんの話だと」

「うん、前に公園であった時に渡したの。だって、オオモト様のおかげでみんな栄えたんだから、オオモト様に渡すものでしょ? そう言ったんだけど」

「全部は受け取ってくれなかったんだっけ」

「うん、少しの路銀だけで十分だからって……」

 蛍は寂しそうに笑う。

 欲のないオオモト様らしいと言えばそうなのだろうが。

「でも、民宿とかに泊まれるぐらいは持ってるんだよね?」

 そこまで少額ではないとの思いで燐が訊ねる。

「うん、そのぐらいは受け取ってもらったけど……無駄遣いとかはしそうにないしね、オオモト様は」

 蛍はその時の様子を思い出す。

「確か、お財布に入るぐらいでいいって言われたんだけど……」

 そう言ってオオモト様が見せてくれたのは、本当にこじんまりとしたお財布だった。

 蛍は自分が前に使っていた、可愛らしいきつねの柄の付いた巾着に入るだけのお金を詰め込んで渡したのだった。

 でも、それだってもうかなり前の事だ、無駄遣いなんかは到底しそうに見えないオオモト様だから、多分まだ残っているはずだが。

「さすがに電子マネーとかは使ってくれそうにないもんね。今はそっちの方が色々と便利なんだけど」

「まあそれは無理っぽいよねぇ」

 燐の軽口に蛍は困った顔で笑う。

 燐は内心ほっと胸を撫で下ろすが、ある別の疑問を口にした。

「じゃあ、やっぱりこんな所に居る理由なんてないとは思うんだけど」

「確かにね。何か別の理由でもあるのかもね」

 流石にこの辺の人達はオオモト様を見て、座敷童とは思うわけがないし。

「その辺はどうなの、サトくん? オオモト様もときおり来るのかなぁ?」

 燐は犬用のおやつを食べさせながら、それとなくサトくんに聞いてみた。

 だが、サトくんは食べるのに夢中で燐の声が耳には届いてはいないのか、こちらを仰ぎ見ることなくむしゃむしゃと貪り続けていた。

 さっきご飯は食べさせたばかりなのだが、とても食欲旺盛だった。
 
 もっともきちんと答えてくれるとは思ってはいないけれども。

「とりあえずさ、サトくんがどうするかで決めてみない? サトくんがここに留まるならわたし達も一緒にってことで」

 蛍はそう燐に提案する。

 実際、当てになるのはサトくんだけなのだし、今はこれしかないと思った。

 それがどこまでのものかはまだ分からないが。

「うん、わたしもそれに賛成。むしろ蛍ちゃんが言わなくてもわたしからそう提案するつもりだったよ」

「そっか、燐とわたしって考え方が一緒だよね」

「まあ、一応、相思相愛なんだもんね」

 燐は特に意識せずに言ったつもりだったが、その言葉に蛍は顔を真っ赤にしていた。

(燐と一緒に暮らすようになってもう随分と経つけど)

 未だにこんなことぐらいで胸が高鳴るなんて。

 とても大切な人だから全然悪い気はしないけれど、いつまでこういうのが続くのだろうとふと考えてしまう。

(できればずっとこのままが良いな。燐と一緒に色んな所に行ったり、一緒に何かの商売なんかも始めたりして……)

 それこそパン屋さんを一緒にやってもいい。
 未だに就活の方は迷っているけれど。

 それこそ永遠という言葉がもっとも近いところにまでも続いて行けばいいと思う。

 きっと叶わないことだという事は誰よりも良く分かっているのだから。

「それじゃあ、サトくん。今の内にいっぱい食べててね。地面が濡れてて臭いを辿るのは難しいと思うけど、サトくんのお鼻だけが今は頼りなんだから」

「うんうん、頑張ってサトくん」

 少女ふたりの応援が自分に向けられているの事が分かったのか、サトくんは嬉しそうにしっぽをぶんぶんと振って見せる。

 いまいち伝わってなさそうとは思ったが、それでもサトくんなら何とかしてくれそうに思えた。

 サトくんはいつだって味方だったし、それに。

(このまま黙って帰るなんてことは到底できそうにないから……)

 ここまでこれたのは偶然だったとしても、それだけを頼りにすることはできない。

 それこそまたあのような歪みを引き起こしてしまうことになる。

 縋ることの出来なくなった最後に残った希望。

 座敷童の存在……その幸運という概念を。

「わんわんっ!」

 突然、白い犬が吠えたと思ったらそのまま走り出してしまった。

 突然のことに、燐と蛍は呆気に取られてしまい、つい呆然と見送ってしまった。

 二人は思わず顔を見合わせた。

「多分、そっちの方にいるじゃないかな」

 蛍はサトくんの行動に納得できたように呟くと、行ってしまった方を振り返る。

 瞬間、雨粒がぱあっと横に広がったようになり、蛍と燐との間に小さな虹がかかったみたいになった。
 
「燐、行こう! きっとそこにいるよ」

「う、うんっ!」

 蛍の言葉に燐は力強く頷く。

 もう消えかかってしまったと思ったものが、しっかりと繋がれた。

 それは薄氷のようなものであったとは思う。

 幾つもの傷がつき、ひび割れ、そして壊れたものかと思っていたのだけれど。

 まだ──繋がっていた。

 多分目を凝らさないと見えない程の細い糸のせいなのだと思う。

 何か言葉にするほどの強さは持っていないけど。

 確かな温もりが、小さな掌を返してはっきりと伝わるから。

 二人は手を取り合ってその後を追う。

 何があってももうこの手は離さないだろうとの強い思いで、燐は蛍の手をぎゅっと握った。

「待ってよサトくん~!! 何処まで行くつもりなのぉ!」

 燐はつながれた手の温もりを感じながらを白い犬の背中に呼びかける。

 どうやらサトくんは一緒に来た道の方ではなく、全く別の、森の中の方へと入って行きそうになっていたのだから。

「このままだと、森の中に……あれっ」

 少し先を走っていた蛍は声をあげた。

 深い森の中と入ってしまいそうなその手前でサトくんがぴたりと立ち止まっていたのだった。

 その前には何か、人だろうか誰かがいた。

 どうやらサトくんの知っている人の様で、警戒することなくその人物の前で座り込んでいるように見える。

「何か、見えるの?」

 燐ははぁっと息を吐きだすと、蛍の隣に並んで走る。

 その方向に燐も目を向けた。

 確かに誰かいる。
 だがそれは。

「ねぇ、蛍ちゃん。あれって誰だか分かる? オオモト様じゃないみたいだけど……」

 燐は指を差しながら、蛍にも確かめてみるよう促してきた。

「えっと」

 蛍は必死に足を動かしながら燐と同じようにそこにもっと目を凝らす。

 そこまでの距離ではないのだが、走りながらだと視界が少しぶれて、対象への判別がしにくい。

 荒く息を吐きだしながらも目を眇める蛍。

「なにかさ、子供みたいにも見えない? サトくんと比べても背が小さくみえるよ」

「言われてみればそうかも」

「ただ、燐の言うように、オオモト様とはちょっと……違う感じはするけど……」

「うん。地元の子なのかな?」

 サトくんがとても懐いているようにみえるから、面識自体はあるのだろうが。

 普通の犬と比べても賢い子だとは思うけど、一目見ただけで走り出したのなら余程知っている間柄だと言える。

 何やらサトくんに話しかけているようにも見えるし。

 そう考察する燐のすぐ横で蛍が走りながら驚愕の声をあげた。

「ねぇ、燐? 今のって聞こえた?」

「えっ、何のこと」

「今ね、”クマ”とか言っていたような気がしたの。それって、もしかして”あの熊”の事かなって……」

「……っ!」

 燐は軽く呼吸を止めて声のする方へと意識を集中してみた。

 確かに何か話し声がする。

「……から……くま…………くまが……」

 まだ遠くて上手く聞き取れないが、蛍の言うようにそれっぽい単語を言っていることが燐の耳にも届いた。

 まさかとは思うが、あの子がこの付近に熊がいることを知らせに来た、とか。

 だがそれをサトくんに言って分かるものなのだろうか。

(ともかく、何処かに避難しなくっちゃならないよね!)

 さっきの古い家屋でもいいのかもしれないが、出来れば車まで戻ったほうがいいだろう。
 その方が色々と安全だし。

 そう燐は結論を出すと、素早く背中のバックパックを下ろして、中から少し大きめのスプレー缶を取り出す。

 それはクマ除けのスプレーで、まだ一回も使ったことはないが、きっと役には立つのだろうと思う。

 使い方を誤らなければだが。

「あっ、そうか!」

 蛍はようやく思い出したように腰に着けたポーチからキーケースを取り出す。
 そこにはクマ除けの鈴が括られていた。

 蛍はそれごと手にもって思いっきり上下へと振る。

 真鍮で出来たベルからリンリンと音が鳴る。

 こんな綺麗な音色で本当に熊が居なくなってくれるのだろうか。

 蛍は半信半疑の思いでそれを懸命に振った。

「早くこっちへー!!」

 その隣で燐はそう呼びかける。

 もし熊がこの辺りまで降りてきたのなら、一秒だって惜しい。

 もうちょっとサトくん達に近づいても良いが、森に近い場所にいるから変に動くと刺激してしまうことになる。

 いくらサトくんだとしても野生の熊とはまともに戦えるものでもないし。

 それに。

(もう、お兄ちゃんでも何でもないしね。今のサトくんは)

 仮に彼であったとしても熊なんかとはやらせるわけにもいかないわけだが。

 二人の声と音に気付いたのか、サトくんともう一人の子がこちらを振り向く。

 こちらに気づいてくれたのは良かったが、戸惑っているのか、こちらを見ているだけで一向に動いてはくれない。

 また何かをサトくんと話しているみたいだったが。

「ほら~、こっちまで走ってきて~!」

 カラカラと鈴を鳴らしながら蛍も声を張り上げる。

 緊急事態だからか、蛍は滅多に見られない大声をあげていた。

 ただ、熊を除けるために鈴を鳴らすというよりかは、群れから逸れてしまったヤギや羊を呼び戻すような呼びかけの仕方だった。

 だが、それが功を奏したのか、それまで動かなかったサトくんがこちらに走ってくる。

 そのすぐ後ろにはその子もついてきていた。

 とりあえず安堵の息をつく二人だったが。

「やっぱり車まで戻る?」

「その方がいいよね。流石にあそこだと心もとない感じがするし」

 蛍も同じ思いであったようで、やはりあの家では頼りにならないと思ったのだろう。

 確かに、あんな古い空き家なんかでは熊は何事もなかったかのように入ってくるだろうし、家の周りに門みたいなものも全くなかったのだから。

 だったら乗ってきた軽自動車の方が全然マシだと思うのは当然だ。

 サトくんともう一人ぐらいなら乗せることが出来るスペースはある。

 ただ。

「オオモト様はやっぱり居ないよね」

 蛍はきょろきょろと辺りを窺うが、その姿は当然ない。

 まさかだとは思うが、熊と遭遇していなければ良いとは思う、そもそもこの辺りに居そうな感じはしないけど。

「とりあえず今はここから離れよう。蛍ちゃん走れる?」

「それは大丈夫」

 ちょっと息が上がった程度だから車を停めた所までは走れるとは思う。

 あの峠道をまた通らなくてはならないのが一抹の不安ではあるが。

「あのさ、今度はわたしが運転するよ。結局蛍ちゃんばっかりにさせちゃっていたし」

 燐は助手席から蛍の運転を黙って見ていたが、内心ではずっとはらはらとしていた。

 まだ初心者なのにひどく無茶なことをさせてしまったと。

 だが、燐の申し出に蛍は軽く首を振る。

「ううん。今日はわたしが運転するって決めたから」

「そう、でも無理しないでね」

「それは分かってる。でも……隣に燐がいるからここまでちゃんと運転できているって思ってるの。だから」

 申し訳なさそうに言葉を作る蛍に燐は小さく微笑んだ。

「それこそ大丈夫だよ。わたし蛍ちゃんのこと誰よりも信じているから」

「うん。ありがと、燐」

「わんわんわん」

 二人が笑みを交わしているところに、サトくんが向かってきていた。

 そのすぐ隣にはサトくんと話していたその子が張り合うようにして全速力で駆けてくる。

「わわっ」

「きゃあぁっ!」

 あまりの迫力に蛍も燐もつい身を固くして抱き合っていた。

 そのまま激突するのではないかと思った蛍はつい瞼を閉じる。

 だが。

「ゴールっ!!! これはボクの勝ちクマねっ」

 そこでは少女が一人ぴょんぴょんと両手をあげて飛び跳ねていた。

 無邪気に喜んでいるところを見るに幼い少女のように見える。

 その横でサトくんが抗議の声をあげていた。

 少女は人差し指をぴょんと立て小さな口元で横に振る。

「甘いクマ。勝負はつねに非情なんだクマよ。今のはどうみてもボクのほうが先に到着していたもんねっ。ねぇ、ボクの勝ちだったよね?」

(まさかだとは思うけど……サトくんと競争でもしてたの? この子が??)

 それは本当にあり得ないことだ。

 サトくんの全速力に人間のそれも幼い少女が着いてこれるどころかそれを追い越すなんてことは。

「え、えっと……?」

「……」

 どうやら自分たちに結果を聞いているようだが、蛍も燐も戸惑ったように膠着している。

 突然やってきて、そんな事を言われても何がなにやら分からない。

 実際、この子は一体何なのだろうか。
 やたらと人懐っこい少女だなとは思うけれど。

「あ、そうだ、聞きたいことがあるの」

「?」

 立ち直ったのは蛍の方が早かったのか、急に声をあげた。

 そんな事はどうでもいいことで。
 もっと肝心なことがある。

「熊が来るって言ってなかった? さっきそんな事を言ってたのを少し耳にしたんだけど」

 急を要しているせいか蛍はいつもよりも早口でそう少女に捲くし立てる。

 問われた少女はぽかんとした顔で蛍の顔を見つめていたが。

「そ、そうクマよ。だからこうして”ボクがここまでやってきた”んだクマぁ!」
 
 どんと小さな胸を張る少女。

「えっと……」

 蛍は少女の言っていることの意味が全く分からず口をポカンと開ける。

「もう、そういう事じゃなくってさあ、”野生の熊”がこの辺りに出没したんでしょ? だったら早く何処かに逃げなくちゃ」

 そう言って燐がちょっと強引に少女の手を掴む。

 折れそうに細い手の体温はとても高く、燃えるような熱さがあった。

 少女の方は平然といった感じで目をぱちっとさせる。

 そして燐の顔を見てにこっと笑うとこう言ってのけた。

「だからさっきからそう言っているクマよ。みんなのアイドルくまちゃんがこうしてやってきたクマぁ! あ、ねぇ、キミ達って観光客だよね? もう何か美味しいものでも食べたクマか」

(何にこれは……言葉は通じるのに)

 言っていることの意味が何一つ分からない。

 燐も蛍と同様に茫然と立ち尽くす。

 
 風に揺られたのか、蛍の手の中の鈴がちりんと鳴った。

 
 ──
 ──
 ──
 



These Are The Days Of Our Lives

 

「じゃあ、喧嘩しちゃったからオオモト様を置いてきちゃったの?」

 

 燐はその女の子と目線合わせながらそう聞いた。

 

 ようやく落ち着くことの出来た燐だったが、この少女から聞いた話はまだとても信じられるものではなかった。

 

 だが、それで大よその事を飲み込むことができた。

 

 この少女のこととか、オオモト様の行方なんかを。

 

「別に、ケンカしたとかじゃないクマ。ただ、急に変な事を言いだしたのは確かだったから……」

 

 少女は初め燐に問われて語気を強めてそう言っていたのだが、終わり際の方は歯切れが悪くなったように少し言葉を落としていた。

 

 この少女の言葉だけでオオモト様との関係性を大体伺い知れたとも言える。

 

 きっと悪気があってのものではないのだろう。

 少し言葉が噛み合わなかったというだけで。

 

(何か微笑ましいっていうか、ちょっと懐かしい感じがする)

 

 自分にもこんな頃があったんだろうと。

 

 それに、この子ならオオモト様の友達になりそうっていうか、もう十分なっているような気がするし。

 

「その、”変なこと”って」

 

 二人の頭上に傘を差し掛けながら今度は蛍が質問をする。

 

 何だかちょっと変わった感じの子にみえたから最初はちょっと戸惑っていたけれど、今はもう大丈夫。

 

 頭に熊の耳のようなものを着けているというだけであとは至って普通の子……だと思う。

 

 どうせ作り物だろうし。

 

 ただ、さっきのサトくんとの駆けっこみたいなのはよく分からないが。

 

 それにこの女の子は、ついさっきまでオオモト様と一緒にいたと言っていたから、ちょっとは安心できる。

 

 その少し変わった少女は両手をばたばたとさせながら質問ばかりする二人に対し、こう話をした。

 

「なんかさ”青いドアの家”がどうこうって言いだしたんだよね。そしたらさ、なんか自分でも良く分からないんだけどぉ、急に背筋がゾクゾクって走ったんだクマよ。ぴゃぴゃってぇ」

 

 ”くま”と名乗った少女は形容しがたい言葉を並べると、自身の腕を二人に見せつけた。

 

 これが少女の言う”ぴゃぴゃぴゃっとしている”ということなんだろうか。

 きめ細やかな肌に小さな鳥肌のようなものがぽつぽつと立っているけれど。

 

 要するに何らかの嫌悪を感じとったということらしい。

 

 この少女独特の言い回しに燐と蛍は何とも困惑した表情を浮かべた。

 

 最近の子はこういう言い方をするのだろうかと。

 

 でも。

 と蛍が話を続ける。

 

「そんなに嫌なの? その、青いドアの家のことが」

 

 少し身を乗り出してくまにそう問いただす。

 

 何か圧のようなものを今の蛍から感じ取ったのか、くまは燐の方にすすっと近寄るとコソコソと耳打ちをした。

 

「なにか、怒らせるようなことを言ったクマか?」

 

「あー、ええっとぉ」

 

 どう説明したらいいのかなぁ。

 

 燐は何とも言えずつい頭をかいていた。

 

「えっとね、それだけ蛍ちゃんは”青いドアの家”のことが好きだったってことだよ」

 

 多分間違ってはいない。

 そう思って燐はくまにそう答えたのだが。

 

「燐、そうでもないよ。むしろ今は、少し怖いっていうか」

 

(あの世界を、わたしは信じきれていないのかもしれない……)

 

 蛍は意外な歯切れの悪い言葉を口にした後、少し寂しそうに俯いてしまう。

 

 何かを堪えるように。

 

「蛍ちゃん? えっと……」

 

 何故か燐は自分が悪い事をしてしまった気分になり、自身の鼻の頭を指で撫でたりしながら、何とかこの重くなった空気をとりもどそうと頭の中でもがいていた。

 

「さ、サトくんは”この子”と友達なんだよね? それでさっき仲が良かったんだ」

 

 とりあえず手短な所でサトくんに話を振ってみる。

 

 どうやらこのくまという少女もオオモト様を探しているようだったから、自分達とは利害は一致しているはずだ。

 

「きゅううん」

 

 サトくんは申し訳なく鳴くと首を左右にふるふると横に振ってみせた。

 

 やはりこの雨では犬の鼻は利かないらしい。

 

「ボクの方も全然ダメなんだよね。やっぱりこの雨いつもとちょっと違う気がするんだよ」

 

「……? 雨に違いとかってあるの?」

 

 変わった事を口にしたので燐はすかさず口を挟んだ。

 

 この少女の背丈と言い、口調と言い。

 

 かなり年下の、それこそ低学年の少女に話しかけているようだったが、そんなことはどうでもいいことだろう。

 

 今大事なのは現在の事実だけだ。

 

 オオモト様が居なくなってしまったという事象の。

 

「そういえば”ざっきぃ”が言っていたクマ。これは意図的に作られた気象かもしれないって」

 

 ざっきぃとはオオモト様のことらしい。

 

 ”座敷童”と言われるよりかはマシなのだろうか。

 

 オオモト様が許可しているらしいから多分良いのだろうけど。

 

「じゃあこれはさっき言ってた”変なの”が降らせている雨だっていうの?」

 

「多分……まあその辺りは本人に聞くしかないクマね」

 

 燐と蛍はまた顔を見合わす。

 

 どうにもこの少女の話も分かりづらい。

 

 少し変わった子は言葉の選び方も独特な感じがする。

 

 それにしても、気象を操るなんてそんな現実離れしたようなことが本当にあるのだろうか。

 

 一時的ならまだしもずっと雨を降り続けさせることなんてそれこそ不条理すぎる。

 

 荒唐無稽にも甚だしいことだから。

 

「でも、何でそんなことをしたと思っているの?」

 

 もっともな疑問を燐はくまにぶつける。

 

 割と現実的でないことには慣れてしまっている燐と蛍だったが、そこには何らかの意図のようなものがある気がしていたから。

 

 今回の件ももし”そういうこと”なら何か理由があるはずだ。

 

 おおよそ理解できないようなことであったとしても。

 

 だがくまの答えはそうではなかった。

 

「全然分からないクマ。肝心な事は何も教えてくれなかったし」

 

 その答えに燐はう~んと唸ってしまった。

 

 オオモト様の話が難しいのか、この子の話の理解度が良くないのか。

 

 確かにオオモト様の言葉は理解できるのにちょっと時間を有する事は知っているけれど。

 

 蛍もどうしていいか分からず、自身の長い黒髪を弄んでいる。

 

 実際、何らかの手掛かりが欲しかったから、突然現れた不思議な少女にも何とか対応することができたけど、これではなしのつぶてと同じだ。

 

 くま少女の方も何か手掛かりが欲しくて使っていた空き家までわざわざ戻ってきたようだったから、そこに居た二人の人間に対して少なからず警戒心みたいなものはあったようだった。

 

 その割にはとても無邪気に振舞っていたようだったのは、やはりサトくんのお陰らしい。

 

 だが、結局オオモト様の行方は分からずじまいだった。

 

 一応の出会いはあったことから、決して徒労ではないのだろうけど。

 

「でもまさか本当にあそこに住んでいたとはね。先に見つけたのは”くまちゃん”の方だったの?」

 

 とりあえず燐も蛍も少女をそう呼ぶことにした。

 

 いくら名前を聞いても”くま”としか言ってくれないし、本人もそう呼んでもらうことを望んでいたようだったから。

 

 本名はちゃんとあるとは思うが、今はそれほど気にするべきことではない。

 

「そうクマよ。あれはくまが見つけた家なんだクマっ。誰も使ってないみたいだったから住み家として使ってあげてたんだクマ」

 

 そう言い切る”くま”。

 

 自信満々な言い草に蛍はつい噴き出してしまった。

 

(何となくだけど、この子も普通とはちょっと違う気がするんだよね。何か特別というか)

 

 蛍はその思いが湧きあがった事に少なからず戸惑いを持っていた。

 

 それは自分と境遇というか思いが似ているように感じたから。

 

「じゃあさ、オオモト様といつ頃別れたの? ちょっと前まで一緒だったんでしょ」

 

 このままだと埒が明かないと思った燐は具体的な方向へと話を変えた。

 

「うーん、本当にちょっと前のことクマよ」

 

 燐の質問にくまは人差し指をほっぺにむにっと押し付けて少し上の方を見る。

 

「ボクがトイレから戻ってきたらもう居なくなっていたんだよね。店員さんに聞いたら先に支払いを済ませて出て行っちゃったって言われたから、慌てて後を追ったんだクマぁ」

 

 でも何処に行ったのか分からなかったから、とりあえずここへ戻ってきたのだと。

 

 そこにサトくんも居たからきっと一緒だろうと思ったら、代わりに自分達がいたということらしい。

 

 なるほどね、と燐は胸中で呟いた。

 それなりに理由はあったらしい。

 

 とても単純な理由だけど。

 

「なら、見つかるはずだよ。急に居なくなるなんてありえないもん」

 

「そうクマかっ」

 

 燐にそう言われてくまの瞳が輝く。

 

 宝石のような無垢な少女の瞳に燐は何故か懐かしさのようなものを感じた。

 

(わたし変なこと言っちゃったかもなぁ。急に居なくなるなんてないなんて……)

 

 自身に起きたことを思い返し、燐は自分で言ってて恥ずかしくなった。

 

 あり得ないと思う事すらがそもそもの発端だというのに。

 

 震える燐の肩を蛍がそっと手を置く。

 

「蛍ちゃん」

 

「大丈夫だよ。わたし達も一緒に探すから、ねっ、燐」

 

「あ、うん」

 

 ささくれ立ちそうだちそうだった心が少しだけ温かくなったような気がした。

 

(そういえば、また、”雨の日”なんだ……)

 

 夏頃に起きた出来ごとを蛍はふと振り返る。

 

 あの時も急に振り出した雨に驚いていたら、いつのまにか青いドアの家の世界にいた。

 

 雨の日ばかりに何かが起きるという訳ではないが、随分前に向こうに飛ばされた時も、雨がふっていたような気がする。

 

 前は好きだった雨の日が、少し憂鬱な感じに思えるようになったのはきっとそのせいだろうと思うが。

 

(狐の嫁入りなんて言葉があるけど……流石に偽物の雨が降っているとかはないと思う)

 

 さっきあの子が妙な事を言っていたように。

 

 だけど。

 

 あの異変の起こったときに降り続いていた雨なんかにも同じことがいえるのだろうか。

 

 ……

 ……

 ……

 

「──で、キミ達は何をしているクマか?」

 

「うん? 何って……」

 

 二人が何処からか大きな荷物を持ってきたと思ったら金属製の杭をカンカンと地面に叩きだしたので、不思議そうにくまが問いかけた。

 

「今ね、わたし達が入るテントを立てているんだよ」

 

 小さな子に説明するように言う蛍の言葉にくまはなるほどと手を打って合点した。

 

「やっぱりここで待ってようって思ってね」

 

 雨が止んでくれたおかけでテントを張りやすくなったのは良かったが、地面が流石にぬかるんでいるので、この廃墟と化した敷地の周辺にテントを立てることに決めた。

 

 この家の周辺の土は案外状態はよく、これなら金属製のペグを打ってもテントがヘタレる心配はないと思う。

 

 何もないと思った所に意外とも言える副産物があった。

 

「流石にこの家の中で待っているのはねぇ。車の中で待っているのも何か違うし」

 

 蛍がため息を吐きながらその家を見る。

 

 実際ここまで車を運ぶことはできそうにないから、これしか方法がなかった。

 

「それにしても、よくこんな所で寝泊まりなんかしてたよね。寝心地とか最悪じゃなかった?」

 

「わたしだったら多分無理かも」

 

 燐も蛍も感心したように頷いているが、以前この二人もこことは違う廃墟で寝泊まりしたことがある。

 

 もっともあそこはちゃんとした保養所の後のようだったし、そこまで年月も経っていない。

 

 それに、床はともかくシーツなんかも一応残っていたから、ある程度の居心地は確保できていた。

 

 だが、この空き家はその基準すら満たせてはいないと思う。

 

 多分、野宿とあまり変わらないだろう。

 

「そんなことないクマ! ここだって住めば都なんだクマー!!」

 

 不満げに頬を赤くしたくまがほえる。

 

 この少女の言いたいことはよく分かるが、残念なことに燐と蛍には到底当てはまりそうにない。

 

 だからこそのテント設営なのだが。

 

「わたし達はもともとキャンプをしにこっちの方に来たんだよね。だからテントなんかの一式も車に入れてあったんだけど」

 

「ちゃんとキャンプ場にも予約をとってたんだよね。車がつかえるオートキャンプ場で」

 

「じゃあ、それはどうしたんだクマ?」

 

「さっき予約を取り消してもらったからその辺は大丈夫。あ、蛍ちゃんそっちをもってて」

 

「うん」

 

 蛍にテントを支えてもらいながら燐はアルミ製のハンマーで残りのペグをうつ。

 

 かんかんと小気味よい音が閉ざされた暗い森の中に響き渡る。

 

 結局ここまで人らしい人といったら、この”くま”と名乗った少女ひとりだけだった。

 

 雨が降っていたせいもあるだろうが、それにしたってここまでこの辺の人を見かけることがないなんて。

 

 何となく焦燥感に駆られた燐は、いつもよりも早めにテントの設営を済ませることにした。

 

 いつ雨がまた降ってくるとも限らないわけだし、それに。

 

(嫌な予感っていうか、何かが起きるようなそんな気がするんだよね……不吉な事かどうかはまだ分からないけど)

 

 この手の勘が働くことが割と多くなった。

 

 全部の事が分かっているというわけじゃないけど、大筋での予感が的中してしまうことが多々あったのだ。

 

 自分では対策の立てようがないので、せめてなるべく悪い方向には考えないようにしているのだけれど。

 

 それだって意味のある行為とは思っていない。

 

 どうしたって思考は自分では完全に制御できるものではない。

 訓練を積めば出来るのかもしれないけど、その方法が分からない。

 

 大学の授業で心理学科を専攻してみたけれど……特に有用な手立てはまだ見つかっていない。

 

 授業が難しいという弊害があっただけで。

 

 だからもし悪い予感を想像してしまった時は”そうならないように”自分で努力するしかないのだ。

 

「最後にフライシートを被せてっと。うん。これでいいよね。とりあえずテント一つ出来たね」

 

 今回は簡単に立てられるテントは持ってこなかったからちょっと手間取ったけど、こっちの方が大きさも強度も満足できるものだった。

 

「燐、今回テント立てるの結構早かったんじゃない?」

 

 この少し硬めの地面のせいだろうか割とスムーズに設営出来た気はする。

 

 風もそんなに強く吹いていなかったことから、思ったよりも早く出来たのだろう。

 

 それに。

 

「だったら、蛍ちゃんが手伝ってくれたおかげだね。早く出来たのは」

 

「わたしはただ支えていただけだから。燐が頑張ったからおかげからだと思う」

 

 そう言って蛍は微笑んだ。

 

「はいはい、クマクマ」

 

 苦笑いする蛍と燐を見て、くま呆れたため息をついた。

 

「それにしても、結構大きなテントを立てたんだクマね」

 

 くまは設営し終えたばかりのテントをぐるっと見渡す。

 

「まあ、これでも定員は四人のテントなんだよ。簡単に組立てられるのもあるけど、多少手間がかかっても大きい方が快適なんだよね。スペースはちゃんと確保できるし、中に色々とものが持ち込めるから」

 

「車だったから立てる手間を考えなければ大きくても問題ないわけだしね」

 

 このテントの中に、持ってきた荷物全部とシュラフを横に並べてもまだまだスペースに余裕はありそうだった。

 

「どう? あなたも一緒に中に入る?」

 

 テントに目が釘付けになっているくまに蛍はそう声を掛けた。

 

 そわそわとしているところを見ると興味はあるとは思うのだが。

 

 くまは意外にも首を横に振った。

 

「ボクはこっちの家でいいクマ。せっかく見つけたねぐらなんだし無下にはできないクマ」

 

 明らかに今のテントよりも居心地が悪そうに思えるのだが、言葉の通り特別な思い入れがあるようで、くまはぼろぼろの家の方を指さした。

 

「まあ、あなたがそれで良いって言うのなら良いんだけど」

 

「全く問題ないもん。余計な気遣い無用クマっ」

 

 蛍の呟きにくまは大きく頷く。

 

 表情を見る限り、どうやら本気のようだった。

 

「だったらまあ、無理にとは言わないけどね。じゃあ蛍ちゃん、中に荷物運んじゃおっか」

 

「うん。じゃあくまちゃん。わたし達テントの中にいるから、何かあったら遠慮なく声を掛けてね」

 

「やっぱり入りたくなったら、遠慮なく声かけていいからね」

 

 くまのような小柄な少女が入るぐらいは全く問題ない。

 

 もし仮に、ここにオオモト様も一緒に入ることになっても、それほど苦労はないだろう。

 

 ()()()が快適に過ごせるだけの共有はこのテントには十分にあったのだから。

 

「それは絶対にないから。くまはあの家を一人で守るって決めたから」

 

 再度の呼びかけに意固地とも言える態度をとる少女。

 

 何というか、こうなると梃子でも動きそうにない感じにみえる。

 

 無理強いをするのは良くないわけだし、仕方なく二人は諦めることにした。

 

「サトくんはどーする? お外でオオモト様を待ってるつもりなの?」

 

「わんっ」

 

 燐が軽く頭を撫でるとサトくんは元気よく吠える。

 

 どうやらそれぞれお気に入りの居場所があるらしかった。

 

 侵害されたくはないテリトリーみたいなものが。

 

「じゃあ燐、わたし達はどうしておく?」

 

 心配そうにのぞき込む蛍に燐はう~ん、と軽く腕を組んだ。

 

「まあ、まだすぐに寝るわけでもないし、テントの前のドアは開けておこうか。何かあったらすぐに分かるし。あ。今すぐ着替えるのならちゃんと閉めておくけどね」

 

「着替えはまだいいよ。だからまだ閉めずに開けておこう」

 

 これでようやく三者三様の腹づもりは決まったらしかった。

 

 共通していることは、オオモト様をここで待つということだけ。

 

 どこかに探しに行くわけでもなく、あくまでここにやってくるという憶測の上で待ち続けることになる。

 

 それに異論はなかった。

 

 ただそれが何時の事になるのかが分からないというだけで。

 

「ねぇ、燐」

 

「うん?」

 

 とりあえず一通りの荷物をテント内に運び入れたところで蛍が話しかける。

 

 もう雨は今は降っていないが、灰色の雲はあいかわらずどんよりと空を覆い隠していた。

 

「そういえばさ、あのお話のゴドーって結局来なかったよね」

 

「その”ゴドー”って……もしかしてあれのこと?」

 

 それが何に対して言っているのか燐はすぐには分からなかったが。

 

 ちょっと考えたら直ぐに分かることだった。

 

「そっか、蛍ちゃん最近劇を見たんだっけ?」

 

「あ、うん。それでさ、この状況ってそれと少し似てるのかなって思ったの」

 

「まあ、確かにね。待っているわけだしね。わたし達みんな」

 

 蛍が最近観たというのは”ゴドーを待ちながら”の演劇のことだった。

 

 前にこの話をしたのは随分前のあのバス停でのこと。

 

 その時は話の概要は知っていても実際に作品を見たことがなかったから、興味を持った蛍は一度演劇の方を観て見たいなと思ってのことだった。

 

 それがようやく叶う日が来たのだが。

 

「やっぱりさ、ちょっと変わっていたと思うよ、内容は。でも、演劇向けだと思う。重くも軽くもない平坦なテーマって感じで」

 

「それ何となく分かる。不条理劇って言われているけど基本はコメディだしね。見せ方っていうか演じ方次第な所があるのかもね」

 

 テキストを勝手に改変したら怒られるらしいし。

 

 燐はこの作品が劇としてなるなんておかしいと思っていた口だったが、それから見方が変わったのか肯定するような意見を今はだしていた。

 

「わたしが観た劇もそんな感じだった。悲壮感なんかはなくて、くすっと笑えちゃうような演じ方をしてたね。見終わった後、すぐに誰かと感想を言い合いたい感じだったよ」

 

「実際にそうしてたじゃない?」

 

「まぁ、そうだったね」

 

 蛍はその時、すぐに燐の携帯にかけた時の事を思い出し軽く笑った。

 

「でも、結局さ、ゴドーって何だったのかな。神様とかそういうのでもないみたいだし」

 

「そうみたいだよね。解釈を求めちゃダメな作品って批評もあるぐらいだし、本当に受け取り方次第の作品なのかもね」

 

「そうだね」

 

 ……

 ……

 

「ねぇ、蛍ちゃん。ゴドーじゃないけど、オオモト様ってここに来ると思う?」

 

 今度は燐が蛍に素朴な疑問をぶつける。

 

 ゴドーのお話とは別として、オオモト様は本当に現れてくれるのだろうかと。

 

「うーん、どうだろうね。でも燐はあの時に見たんでしょ? オオモト様がサトくんと一緒に歩いて行くのを」

 

「そうなんだけどさ。今思うとちょっと自信ないのかも」

 

 記憶なんて常に曖昧なものだし。

 

 ましてやあの人の場合、それが幻想だとしても何もおかしくはないことだから。

 

「じゃあさ、賭けでもしてみるとか?」

 

「賭けって……?」

 

 蛍にしては珍しい事を口にしてきたので、燐は少し驚いた。

 

「もちろん、オオモト様が来てくれるかどうかって事柄で、だよ」

 

 悪戯っぽく笑う蛍。

 

 所謂、賭け事とは全然無縁のように見えるけれど。

 実は好きだったとか?

 

「でもさ、それでは賭けにならないと思うよ」

 

「どうして?」

 

「だって、わたしも蛍ちゃんも同じ答えじゃないのかなあ。だから賭けにならないってこと」

 

「それは、まだ分からないかもよ」

 

 そう言った蛍のすぐ後ろから声がした。

 

「そうクマっ。何事もやってみないと分からないクマよ」

 

「ふえっ?」

 

「やっぱり、来ちゃったじゃない」

 

 驚いた蛍のすぐ横で、少し呆れた目をした燐がくまを見る。

 

 あの信念のようなものは何だったのかと問いただしたいが。

 

「まあ、どう見ても居心地悪そうだから仕方がないよ。じゃあ、くまちゃん。何かお菓子でも食べていく?」

 

 蛍がそう言ったので燐は肩の力を抜いた。

 

 そんな事にムキになったってどうなるものでもないし。

 

「ほら、温かいココアも作ってあげるよっ」

 

 歓迎するような燐と蛍の口ぶりに何故かくまはむむっと頬を膨らました。

 

「もう、さっきから子供扱いしないで欲しいクマっ。こう見えてもくまは──」

 

「くまちゃんって……本当は幾つなの?」

 

 見た目通りなら小学生ぐらいだとは思うけれど。

 

「まあ、細かい事は言いっこなしクマよ」

 

 くまは自分から言って振って置いて誤魔化すように咳ばらいをひとつした。

 

 何ともあからさま過ぎるくまの態度だったが、蛍も燐も困ったように顔を見合わせるだけで特に何も言わなかった。

 

「わんわんわんっ」

 

「あ、サトくんも中に入って来ちゃったね」

 

 やはり一人は寂しかったのか、くるっとなった尻尾を振りながらサトくんがテント内にとことこと入り込んでくる。

 

「あっ、ずるいぞサトくんっ。くまが先にテントに入って豪遊するんだからっ」

 

 さっき言っていたことは何だったのか、白い犬を押しのけてでもくまが先にテントに入ろうとする。

 

 サトくんも負けじとくまに張り合うようにテントの入り口で身体をぶつけ合っている。

 

 この二人はいつもこうなのだろうか。

 

 燐は怪訝そうな目でくまとサトくんをの様子を見守っていた。

 

「何なのこれ。別にどっちが先でも同じなのに」

 

「サトくんと、張り合ってるね」

 

 同じレベルで争う二人に蛍と燐はほとほと呆れるほかなかった。

 

 ……

 ……

 ……

 

「何かさ、こうして見てるとフツーの女の子って感じしかしないね」

 

 テントの中で大の字で寝るくまを見ながら蛍がくすりと笑う。

 

 その寝ているくまにブランケットをそっと掛けてあげた。

 

「まぁ、見た目はそうだよね。何か変な事を口走ってたようだけど」

 

「熊の神様とか言ってたよね? それか王様とか?」

 

「何かさ、話だけ聞いてると、昔話のキャラみたいだよね、くまちゃん。そういう設定とかなのかな」

 

 お菓子の食べっぷりとその速さだけみれば確かに熊というか猛獣そのものだとも言えるが。

 

「でも、くまちゃんさ、サトくんと本当に仲良さそうだったよね」

 

「うんうん、何か似た者同士って感じがするよね。さっきだって一歩も譲らない感じだったし。実は親友を越えたライバル関係なのかも」

 

 何だか漫画みたいな言い方になっていたが、今のこの二人にはぴったりだと蛍は思った。

 

 サトくんもくまのすぐ隣で一緒に寝ているわけだし。

 

「確かに、見た目よりもワイルドだったしね。初めは外国人の女の子なのかなって感じしてたけど」

 

「わたしも、もしかしたら日本語通じないんじゃないかなって、ちょっと思っちゃった」

 

 そう言って燐はぺろりと舌をだす。

 

「でもさ、あの子。親と一緒じゃないみたいだったね」

 

「うん、遠くの山から来たって言ってたからね。どこまで信じて良いものか分からないけど」

 

「でも、悪い子じゃないと思うよ。サトくんと仲がいいし」

 

 サトくん基準で考えて良いものかは分からないが、確かにそんな悪いような感じはしない。

 

 むしろ無邪気すぎて危なっかしく思えてしまう。

 

 無知というか天然的すぎて。

 

「燐も昔はあんな感じだったのかな?」

 

 蛍は燐の顔を見てくすりと笑う。

 

 何となく蛍に馬鹿にされているように思った燐は抗議の声をあげた。

 

「えー、流石にそんなわけないよぅ。わたしあそこまで図々しくなんかないもん」

 

 燐はぷいっと横を向く。

 

 そんな子供っぽい仕草が何か似ているなあと蛍は思った。

 

「それに……変な語尾だってつけてなかったし」

 

 燐はぼそっと呟く。

 

 くまの言葉遣いは聞いているこっちが恥ずかしくなるような、妙な羞恥を覚えてしまう。

 

 だが、蛍は燐とは少し違うようで。

 

「可愛いよね。”クマクマ”って言ってて。小さい子ってクマのことが結構好きだよね。わたしもクマのグッズ結構持ってるからその辺ってちょっと分かるかも」

 

 くすりと笑う蛍に燐はやや呆れたようにいった。

 

「子供っぽくすぎない? わたしが同じぐらいの時でも、いくらなんてもそんなことは言わなかったよ」

 

「えっ」

 

「うん?」

 

(つい最近でも、燐とそんな言葉のやり取りをしてた気がするけど……?)

 

 きょとんとなって見つめる蛍に燐は小首をかしげた。

 

 

「そういえばさ、蛍ちゃん」

 

「なぁに、燐」

 

「あぁ、うん……そのさ……」

 

「うん?」

 

 何故か恥ずかしそう言い淀む燐に蛍は首を傾げる。

 

「その……ちょっとお腹空かない?」

 

 その言葉に蛍は目を大きく見開いてきょとんとする。

 

「だってさぁ。あの子達、美味しそうに食べるんだもん。せっかくわたし達がもってきたおやつだったのに全部食べちゃってるしぃ……」

 

 満足そうに寝ている二人を見ながら燐が恨めしそうにつぶやく。

 

 サトくんはともかく、この少女も何も食べていなかったのだろうか。

 

 一人でこんな所にまで来て、満足に食事もできないなんてちょっと可哀想な気もするが。

 

「でもさ、オオモト様と一緒にファミレスに居たって言ってたよね? それでももうお腹が空いちゃってたとか?」

 

 流石にファミレスで何も食べてない事なんてないだろう。

 

 だが、まだ日暮れ前だからもしお昼を食べたとしたら、そこまで時間が経っていないことにはなるが。

 

「まあ、一応”クマ”みたいだからね。わたし達とは胃袋の性能が違うのかも」

 

「くすっ、そうだね」

 

 燐と蛍は顔を見合わせてくすくすと笑った。

 

「実はね、わたしもちょっとお腹が空いたなって思ったの。そういえばお昼はコンビニのおにぎりしか食べてなかったじゃない? だから小腹が空いちゃったかもって」

 

「なぁんだ良かったぁ。てっきりわたしだけかもって思っちゃった」

 

 燐はほっと胸を撫で下ろす。

 

 そのタイミングでお腹の虫がぐーとなった。

 

「ふふっ、燐のお腹も催促してるみたいだね」

 

「もー、そんな事言わないでよぉ!」

 

 蛍にからかわれて燐はつい大きな声を上げてしまっていたが。

 

「燐、しーっ。くまちゃんたち起きちゃうから」

 

 燐の唇を蛍の指先が止めた。

 

「あ、ごめん……そうだったね。じゃあさ、蛍ちゃん。外で何か作って食べようか。もうお腹ぺこぺこだし」

 

「うん。そうしよう」

 

 二人は頷くと、犬と少女を起こさないよう、そっとテントから抜けだした。

 

 テントの前のファスナーを閉めてから、料理の作業に取り掛かった。

 

 だが、料理と言ってもそんな大層なものではないが。

 

 ──

 ──

 ──

 

「何をしているクマか」

 

「わあっ!?」

 

 カップの中のお湯の具合を見ている時に不意に話しかけられたので、蛍は心臓が飛び上がるほど驚いてしまった。

 

 何もこぼしたりしなかったから幸いとはいえるが。

 

 蛍ははぁっと安堵の深いため息をつく。

 

(こういうドキドキは本当に心臓に悪いよ……サプライズとか苦手だし)

 

 まだドキドキといってる。

 

 蛍は自分の胸に掌を当て、何とか高鳴りを抑えようとした。

 

「だ、大丈夫クマか?」

 

「う、うん。なんとか」

 

 くまが心配そうに声をかける。

 

 どうやら驚かせすぎたと思ったようで、ちょっと申し訳なさそうな顔になっていた。

 

「それにしても起きちゃったんだ。随分とぐっすりと寝てたと思ったけど」

 

 少し落ちついた蛍はそう少女に訊ねる。

 

 どうみても熟睡していたように見えたから、そうそう起きないとは思っていたのだけれど。

 

「何かいい匂いがしたから起きてしまったんだクマ」

 

「えっ、そうかな?」

 

 お湯を沸かしていただけなのに。

 どこにそんな臭いがしていたのだろう。

 

「ほらっ、それクマ」

 

 くまがテーブルの上を指さす。

 

「ああ、これのこと? でもまだこれビニールがかかっていると思うんだけど」

 

「ふっふっふ、くまの鼻は誤魔化されないクマっ。ずばりお蕎麦を食べるつもりクマね! くま達に黙って」

 

 そうびしっと言われた。

 

 確かにそうなのだが。

 

「あはは、まあ確かにそうするつもりだけど、でも凄いねこの蕎麦からは全然臭いなんかしないよ」

 

 蛍はまだビニールにかかったままの蕎麦の袋を鼻に当ててみた。

 

 やはり何の臭いも感じられない。

 

 こんなに鼻に近づけても分からないのに、何故この子には分かったのだろうか。

 

「どうしたの蛍ちゃん。何か変な声が聞こえたような気がしたけど?」

 

 そう言って燐が駆けてくる。

 

 燐はまた軽自動車まで戻り、別の荷物を取ってきたのだった。

 

「って、げげっ!」

 

 燐はつい口から出てしまった。

 

「もー、げっ、はないクマっ! 内緒でご飯を食べるなんてずるいクマぁ」

 

 そういってくまに睨まれる。

 

「だってもうお腹いっぱいでしょ? わたし達軽い食事しかとってなかったから」

 

「そんな事はないもん。ご飯は別腹なんだクマっ」

 

「それってスイーツなんじゃ……?」

 

 たまらず蛍はツッコミをいれた。

 

「はあ、もう仕方ないなぁ。じゃあちょっとは食べさせてあげるっ。でも全部食べちゃダメだからね」

 

 一応念を押してから燐はしぶしぶ了承をした。

 

 くまは両手をあげて喜んでいるが。

 

(本当に分かってるのかなぁ? わたしも相当甘いみたいだよね)

 

 蛍に自分に似ていると言われたことを引きづっているのか、燐は少し後悔の入った吐息を吐きだした。

 

「折角だからくまも手伝ってあげる。食べてばっかりじゃ熊が廃るって言うからねっ」

 

(そんな言葉ってあったっけ?)

 

 蛍はもう突っ込むこともせず、困った顔で苦笑いしている。

 

「手伝わなくても大丈夫だよ。お湯が湧いたらお蕎麦と材料をいれて少し煮込むだけだから」

 

「そうクマか……」

 

 くまはやや大げさにガックリと肩を落とす。

 

 だが。

 

「それにしても材料といってもちょっとショボい感じがするクマね。お肉とかは入れないクマか?」

 

 テーブルの上にあるのはお湯を沸かしているバーナーとクッカーとメインであるお蕎麦。

 それとスーパーで買ったような竹輪と葱が少しあるだけだった。

 

 確かにくまの指摘のように少し貧相な感じもするが。

 

「でも、このお蕎麦は途中の道の駅で買ったものなんだよ。ほらこっちの方ってお蕎麦が有名なんでしょ?」

 

 実際はお蕎麦が有名な場所はここより少し離れた場所のようだったが。

 

 この辺りの地域で買ったものだから美味しければ問題ないだろう。

 

 燐の話に納得したようにくまはうなずく。

 

「確かに地元っぽい人に聞き込みをしたときにそんな話を聞いたような気がするクマ。どーやらソースカツ丼だけじゃなかったみたいクマね」

 

 いつの間にかくまはこの辺りのグルメ情報に詳しくなっていた。

 

 そういう趣味でもあるのかと蛍は少し訝しんでくまのことを眺めていた。

 

「本当はさ鴨肉やキノコなんかも入れれば良いんだけど。今回はこれを入れようと思ってさ、今持ってきたんだ」

 

 そう言って燐が見せたものとは。

 

「それって缶詰クマかっ!?」

 

「そう鯖の缶詰! これを入れるとぐっとコクがでて美味しくなるんだよぉ。ほらほら~」

 

 燐は鯖の缶詰を両手に持ち、くまの目の前で揺らしたりしてみせた。

 

 それを見て、おぉーとくまが叫ぶ。

 

 蛍は柔和な表情で二人のやり取りを見ていたが。

 

「でも、燐。それってネットからの知識なんでしょ? さっき熱心にスマホを見てたみたいだけど」

 

「あはっ、バレたぁ。でも本当に美味しいみたいだから試してみようよ、ねっ」

 

「まあ、燐がいいっていうなら良いんだけどね」

 

 蛍は諦めたようにそう言うと、沸騰したお湯の中に蕎麦と一緒に付いていた()()と麺、そして具材をまとめて入れた。

 

 二、三分ほど茹でた後、器に盛り、最後に鯖缶の中身を半分ほど入れると……簡単鯖缶蕎麦(さばかんそば)の完成ー!!

 

 そうなるはずだったのだが。

 

 ずるずる。

 

「うんっ、確かに鯖の風味がきいてて結構おいしいクマね。鯖缶を入れただけでこんなに変わる物なんだ」

 

「そうそう、お好みで七味や卵を乗せても美味しいよね……って、何でくまちゃんが先に食べてるの? しかもそれってわたしの分なんだよっ」

 

 そう言ってくまの食べている器を取り上げようとする燐。

 

 だがくまは素早く身を翻すと、蕎麦と箸を持ったままささっと逃げ出してしまった。

 

「ボクは毒見係だから仕方がないクマっ!」

 

「仕方なくなんかないのっ! 返せー、蕎麦泥棒ー!」

 

 ぐるぐるとテントの周りで追いかけっこをする燐とくま。

 

 そんな二人の様子を蛍は静かにお蕎麦啜りながら楽しそうに眺めていた。

 

「やっぱりあの二人って似てるよね。サトくん」

 

「わんっ!」

 

 いつの間にか起き出したサトくんと一緒に蛍は今のこの情景を楽しんでいた。

 

 オオモト様がいないことだけが残念だけれど、それでも今は。

 

 秋なのに春のようにふんわりとした緩い暖かさを肌に感じ取っていた。

 

 

 ──

 ───

 ────

 

 

 






むぅぅぅぅ~。
ということで、まさかの年末なのにコロナに感染してしまいましたよーー!!! 医者からもこの時期珍しいとか言われる始末だったのですが?? 第五類になったっていうのはそういう事なんでしょうか? 外どころか家でもマスクをしていたのにこれはないですよねぇ……で、五日ほど苦しんだ後、何とか熱は下がったのですが、未だに咳が続くんですよねーーー多分、これは今年中には完治しそうにないのかも。ただでさえ風邪が長く続いてしまう体質ですし。
それにしても、まさか本当にコロナを罹ってしまうとは思わなかったから結構ショックだったですねー。

皆様もどうか体調には気を付けて、暖かくしてお過ごしください。そして何か異常を感じたら直ぐに病院で診てもらうことをおススメします。今はコロナや風邪、インフルエンザも検査ですぐに分かるようですしねー。

それでは今年もお疲れさまでしたーーーではではでは、良いお年をーー。




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