We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life.   作:Towelie

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 いつからだろう。

 眼前に映るものすべてに色なんかないと思えるようになったのは。

 カラフルに彩られているように見えるのは実は錯覚で、ほんとうは引っかき傷だらけのモノクロの世界なのだと。

 この時はずっとそう思っていた。
 
 表面的には上手くいっているように見えていたとは思う。

 実際は逆だったけれど。

 どこから歯車が狂ってしまったのだろう。

 最初は目立たないほど小さな傷だったのが、時間をかけてゆっくりと広がっていって、気付いた時には取り返しのつかないほどのものになっていた。

 あれだけ楽しみにしていた家に入ることすら躊躇するようになったけれど、結局、帰る家はここしかなかったから。

 ──憂鬱だった。

 ずっと。

 分厚い灰色の雲に覆われた空を見上げていたときみたいに。

 何でもっと器用に出来なかったのだろう。

 妥協することも、それを納得しようとする自分も。
 認められなかったし許せなかった。

 本を読んだりして、いくら知識をつけてもそれを解決する術はなく、せいぜいやり方を覚える事しかできなかった。

 つまり模倣。
 それをすることしか出来ない。

 かんぺきを求めているとかではないはずなのに。

 ──それでも、どうにもできないことはある。

 特に家庭の問題は日に日に深刻化していって、母と父は言い争いをするようにまでなってしまう。
 
 それだって最初の内は子に配慮してくれていたのか、短い時間のそれも夜中にしているようだった。

 いつの頃からかそれすらももう我慢がいかなくなったのか、割と堂々とするようになっていた。

 そして、些細なことでも言い合うようになった。

 そんな自分に出来る事と言ったら。

 言い繕うことか、見て見ぬふりをすることだけ。

 それを両親が望んでいると思っていたし、そもそも子供が大人との間の仲裁などできるはずもないわけで。

 それが終わるのをじっと待っていることしかできない。

 目と耳を塞いで息を殺し、部屋の片隅でじいっと蹲り、その嫌な時間が過ぎるのをひたすら耐えていた。

 だが、ある日それが急に終わる。

 わたしはそれをとても喜ばしいことだと思った。
 やっと、終わったのだと。

 当事者たちは自分では到底出来ない、()()()の妥協や折衷案を見出したと思っていたから。

 やっと、普通の日常が戻ってくれたんだと本気で喜んでいた。

 真実も、何も知ることもなく。

(本当に、バカみたい……)

 そして今、何故かその直前の状況を目の当たりにしていた。

 見たくも聞きたくもないことをまた……見せられていた。

 燐がいくらその事を両親に説明しても、なしのつぶてだった。

 結局、無理矢理に自室へと追い立てられて、バタンとドアを閉じてしまう。

 ”関係ないからひっこんでなさい”と。

「もう子供じゃ、ないんだけどなぁ」

 だが、そう思っているのは自分だけのようで、姿は明らかに幼い頃の自分そっくりだった。

 手だってやけに小さく、背だって少し足りなくてそれをなんとかしようと無駄に頑張っていた頃の自分。

 色々なことに興味津々で、世界はきらきらとした希望に満ち溢れているんだと信じていた、無垢で無邪気で、本当に馬鹿だったと思う。

 でも、回帰するというのは、大なり小なり誰だってそういうものだと思うから。

「だからって、これはねぇ……本当に、どういう事なんだろう」

 燐は誰に言う訳でもなくそっと言葉をこぼす。

 ”青いドアの家”にいたと思ったら、まさか昔の自分の家(マンション)にいるだなんて。

 しかも、自分は当時のままの姿で。

(確か、これってパジャマだったよねぇ? この頃ってこんなの着てたんだぁ)

 それはちゃんとした寝間着(パジャマ)ではなく、アウトドアでも使える子供用のチェックのワンピースを燐は好んで着ていた。

 だが、もう持ってはいない。

 流石にサイズが合わなくなったから誰かに譲ったか処分したと思う。
 懐かしい思い出と一緒に。

「でも、これはタイムスリップっていうか、違う時間軸でのこと、なの?」

 もっとも、正しい時間の流れと言うのをよく知らないのだけれど。

 まるで何も分からなかった。

 今、ここに居る意味も状況も、何もかも全て。

 ドン!

 と、いう物音がドア越しから聞こえてきて、燐は目をぱちぱちとさせてそっと聞き耳を立てた。

「……!!」

「──ッ!!??」

 薄いドア一枚隔てた向こうでは、父と母による言い争いが延々と続いていた。

 何処の家庭でもこういうのは起こっていることだから、そんなに珍しいものじゃないと、部活の友達には言われたけど。

 多分、そうなんだろうとは思う。

 従兄にそれを打ち明けた時にも、同じようなことを言われたと思ったから。

 だけど。

 自分は、それをすぐには割り切れない。

 納得がいかないからこんなにも苦しいんだと思う。

 もっと楽にできたらいいのにと思っているんだけど。

(今だって……さ)

 小さな掌を胸に当てるとドキッドキッってなってる。

 もう分かっていて、終わっていることなのに、なんでこんなにも動揺しているのだろう。

 それは、多分。

「弱いから……だと思う」

 このころの方がまだマシな方だった。

 何もしらないせいで弱さに気付くこともなかったわけだし。

 じゃあ、今は。

(今でもわたしは、やっぱり弱いままなんだろうか)

 自分の事を大事に出来ていないから、こういう事になってしまったのかも。

 想いのわだかまりのような残滓がまだあるから。

(あの時の……オオモト様みたいに)

 ”過去の記憶の残像”。
 あの人はそう言っていた。

 それが自分の身にも起きたという事なのだろうか。
 
 前触れも脈略もなく唐突に。

(でも、不条理ってそういうことだよね。世界なんてものはきっと……)

 いつだって思い通りなんかはなってくれない。

 抗えば抗えるだけ苦しくなるものだから。

 だったら、せめて。

 燐はさっきから自分の手の感触を確かめるみたいに掌を開いたり閉じたりしていた。

 体が動いているという事実は分かるが、その実感が未だ掴めないみたいに。

(じゃあ……オオモト様が、わたしを……?)

 直前の記憶を掘り起こしてみても、そうとしか思い浮かべない。

 確か、あの手毬に触れた途端に何かがおきて世界が変わってしまった。

 それは周りだけじゃなく、自分自身の方にも。

 単純に、景色が切り替わったというのではなく、どこか違う世界に飛ばされてしまったようなとても不可思議な感覚。

 例えるのなら、SF小説なんかでよくある瞬間移動(テレポーテーション)をしたときみたいに。

 自分の体が一度粒子に分解され、再構成されて戻っていくような。

 どうにも事象と空想がごっちゃになってしまって、上手く考えがまとまらない。

 とにかく。

(わたしはここで何をしたらいいんだろう)

 さっきから頭を捻っているのだが、何も思いあたるものがなかった。

 知っていることを繰り返し見せられているというだけで。

「だったら」

 別のところにあるのかも。

 燐は以前まで使っていた、中古のマンションの一室の自分の部屋の中を見渡してみた。

 狭いマンションながら自分だけの部屋を親は用意してくれていた。

 そこには机と椅子、壁には時間割表なんかも張られている。

 良くある子供部屋といった様相なのだが。

(けど、こんなに殺風景な部屋だったっけ……?)

 ポスターとか写真とかをもっといっぱい部屋中に貼ってたような気がする。

 壁とか机とか天井とかにも。

 おぼろげな記憶を無理やり呼び覚ましてみたのだが、その辺りの事はよく分からなかった。

 剥がした後みたいなものもなかったし。

「あ。これって、こんな昔からあったんだ」

 燐は部屋の一角を見て、ぱっと目を輝かせる。

 そこには、アウトドアで使うシューズやウェア、バックバックなんかのグッズが部屋の隅のスペースに整理した形で置かれていた。

 その中で燐は小さなバックパックを手に取ってみる。

 これだって兄から譲って貰ったものだが、その割にはきちんと手入れされていた。

 だが当時の燐にはこれでも大きいサイズだった。

(確か、これが欲しいって、おにいちゃんに無理言って譲ってもらったんだよね。同じものじゃなくて……お兄ちゃんの使っているものが欲しかったから)

 切なさが懐かしさが燐の胸に同時に去来する。

 もう戻らなくなったものばかりが、この空間とリビングにあった。

(お父さんだって、もうこの頃には……)

 別に今更それを非難するとかではなくて、きっと疲れていたんだと思う。

 父も、母も。

 ちょっとの思いのすれ違いが積み重なった結果、なのだろう。

 それが遅いか早いかというだけのことで。

 従兄の──聡との事もそうだ。

 ほんの少しの違いというか、全部が全部ぴったりじゃないと収まらないはずなはのに。

 互いにそれを求めてしまった。

 想いはずっと同じだったのに。

 ……
 ……

 ここで自分が何をしたって、きっと何も変えられないし、変わらないだろうと思う。

 歪みはもうちょっとづつ前から起きていて、それは簡単なものなんかじゃないから。

 皆、引っ掻きだらけで、大事なものを傷つけあっていた。

「そんな事は分かってる……分かっているけど」

 流れでた涙を燐は手の甲でそっと拭う。

 やけに涙もろく感じるのはやっぱりまだ小さいからだろうか。

(お母さんとお父さん。まだ喧嘩なんかしているのかな……)

 ぴったりとドアに耳を付ける。
 
 聞きたくない言葉だけが洪水のように流れ込んでくる。

 燐は開けることのないドアの前からそっと離れると、馴染みのある小さな椅子に腰かけた。
 
 まだ綺麗な学習机の上に無造作に置いてあった、手鏡を手に取り自分の顔をそこに映す。

 あれっ?

 鏡を覗き込むなり燐は首をかしげていた。

「これが今のわたし? そ、そっかぁ……でも」

 ちゃんと鏡の中の”わたし”もちょこんと首を傾げてるから見間違いではないようだけれど。

 背丈が低かったりするぐらいしか変化がないだろう思っていたから、つい面食らってしまった。

 鏡面をみて分かることは幼くなっているという事実。

 ただ、ビックリしたのはそっちの方ではない。

 今の自分の顔立ちとはまるで違ってみえたという事の方だった。

(この頃は自分が後にメイクするなんてことなんか全然考えてなかったなぁ。まあ、そういうのを本格的に気にするようになったのは、ずっと後の高校の時からなんだけどぉ)

 それに今だってそれほど大したメイクなんかしていない。

 大学生になってもその周りは全く変わっていなかった。

 周りは大人びて見えるのに、自分はまだ全然子供のままだ。
 外見も中身も。

「髪型だって、こんなんだったっけ? 何だか覚えていないことばっかだなぁ……」

 燐は鏡面の外の方で揺れている、綺麗に巻かれた二つの髪に手で触れた。

(これって三つ編み、だよね? 自分でやったんだろうけど……)

 指先でくるくると弄る。

 この髪型をしていた頃を覚えていないのは多分、一時的なものだったんだろう。

 友達内で流行っていたとか、もしくは。

(お兄ちゃんに、褒められたとか……)

 思いつくのはその辺りだろうか。

 まあ、覚えがないのだから早いうちにやめてしまったんだとは思うけど。

(そういえば、この鏡……わたしこんな鏡って持ってたんだっけ?)

 鏡面から顔を外して、よくよく見てみることにする。

 どこかで見覚えがある気はする。

 ただ、ぱっと見た感じそれこそなんの変哲もない、どこにでもありそうな手鏡なのだが。

「何かとても大事な……でも、なんだろ?」

 燐は小声で呟いてみるも、思い当たるものがなかったのか、疲れたような息を一つついてまた鏡を覗き込んでいた。

「やっぱり、わたしって子供なんだ」

 鏡の中で赤くなった目を見ながらそう呟く。

 手や体つきを見た時から薄々気付いてはいたことだったが、改めて燐はそのことを実感した。

 ともすれば、この世界は自分の記憶から作り出されたものではないかと思っていたが、両親だけでなく自分の背恰好もその当時のままであるという事は、それは少し違うようだった。

「わたしにどうしろっていうの……いまさら」

 一度組み上げたパズルをもう一度組み立てる?
 今度は違うピースを使って?

 それこそ意味のないことだ。

 だって変わりようがないことを変えようとは思わない。

 そうすることに意味がないという事はもう、知っているから。

「じゃあ、一体、何なの」

 同じような疑問を頭の中でぐるぐると回しながら、燐は背もたれに体を預けて手を頭の後ろで組んだ。

 思えば、両親がこうして言い合っているときに、色々なことを考えていたんだっけ。

 それは妄想の類のものだったが、そうでもしないと耐えられなかったから。

 それは夜でも朝でも。
 どっちも辛かった。

 燐はふうっと深い息をつくと、無意識に自分の頭を掻こうと手を回した。

(あれっ?)

 さわっ。

 何か変な感触が指にあたる。

 自分の髪とは違った、もっとふわっとした柔らかい感触が指先を触れていた。

「この時もカチューシャ付けてたよね? 確かリボンの」

 誕生日の時に従兄からプレゼントされたものだったはず。

 でも、今のとは違ってもっと派手な色でついているリボンももっと大きいものだった。

 同級生にからかわれたりもしたが、おにいちゃんが選んだものだったからまったく気にしないで、お風呂の時や寝る時にまで着けていた。

 だから、それだろうと思い燐はそれほど気に留めなかったが。

(でも、何かちょっと変な感じがしたんだよね。暖かいっていうか……)

 まるで、生きているみたいに。

「……」

 燐はもう一度確かめようとして、今度は両手で頭に触れる。

 さわさわさわっ。

(…………!!??)

 そこに指が触れた瞬間、脳髄から背筋にかけてぞくっとしてしまった。

 燐は出掛かった悲鳴を何とか押し殺すと、急いで自分の頭の方を鏡に映し込む。

 暗くてよく分からなかったので、傍に合ったスタンドで照らしながら。

 綺麗な栗色の燐の髪には、その時の大きめのリボンのついたカチューシャ……と。

 ぴょこん。

 見慣れぬ、”ふたつの耳”がいつの間にかついていた。

「な、な、何なのこれっっ~~!!!」

 思わず椅子から立ち上がると、燐はつい大きな叫び声をあげてしまった。

 それなのに、両親が部屋の前に来る様子も、ドア越しに声を掛けてくることもない。

 それを何故こんなに息苦しく思えるのだろう。

 静寂が少し怖かった。

 燐は手で口元を塞ぎながら、その気配がないことを知るとほっと胸を撫で下ろした。

 だが問題はそこではなくて。

「これって、玩具かなんかの作り物、だよね……?」

 燐は小声でそっと呟くと、再び椅子に座り直して鏡を覗き込む。
 やはりそれは今でも頭の上にあった。

 恐る恐る頭に手を伸ばすと、さっきよりも少し強く頭の上の耳を指先で引っ張ってみた。

(いっ、いたぁっ!?)

 頭皮ごと引っ張られたような痛みと感覚に燐は顔をしかめる。

 だとすればこれはカチューシャに張りついているのではなく、本物の……耳?

(う、嘘だよね、こんなの……)

 試しにと、燐は両手で握りこぶしを作って力を込めると、その頭の耳の方だけを動かすように神経を集中させてみた。

 ぴくぴくっ。

(ほ、本当に動いちゃった……!?)

 とてもじゃないが信じがたいことだったが、獣のような耳は燐の意識だけで動かすことも出来ている。

 実際の耳ですら、個人差に寄るがそうそう動かせるようなものでもないのに、何故こんな変な耳が自分の意志で動いてしまうのだろうか。

 燐は頭の上の方を見ながら、もう少し動かしてみようと試みた。

 ぴくぴくぴくっ。

 何かで縫い付けられているような、ちょっとした神経の痛みを覚えて燐は途中で止めた。

 ただ、まだ上手くは動かせないが、もう少し訓練してみればもっと動かせそうな気はする。

 それに何の意味のあるのは分からないけれど。

(けど、こんな耳を付けたところで一体……)

 その時、燐の脳裏にあの不思議な少女の姿が浮かび上がる。

 同じような耳を付けた、あの”くま”のことを。

(でも、くまちゃんとは違うものっぽいよねぇ……どっちかっていうと)

 くまのものとは違い丸っこい形をしていない、これはどちらかというと。

(これって、もしかして、キツネの耳なのかも?)

 ネコにしては結構大きい感じみたいだし、毛並みもふさふさだしとんがっているようだから多分そんな気がする。

 まあ、こんなのどっちだっていいのだろうけど。

 燐は、もう一度鏡を覗き込んでみた。

 やはりこれは幻なんかではない、現実のものとして燐の頭に獣の耳がついていた。

 頬の上にもよく知っている耳もあるから()()()()()()ということになる。

 それは気持ち悪いというよりも、何故だか呆れかえってしまう事だったが。

(でも、これって……もしかすると)

 燐は自分の細い肩を抱く。

 もしかして、ヒトでなくなったということ、なんだろうか。
 たったこれしきの事ぐらいで。

「……」

 燐は神妙な顔つきになって、自分の腕や脚を明かりに照らして見た。

 獣の毛、なんかはどこにも生えていない。
 もちろんヒゲなんかも。

 この辺りは安堵できるものなのだが。

(ま、まさかだとは思うけど……)

 燐は首を後ろに傾けて、自身の腰の辺りをよく見ようとした。

 椅子に座っているせいか暗くてよく分からない。

(直に触れて見れば、すぐに分かるんだろうけど……)

 燐は両手を腰に当てると、一旦そこで動きを止めた。

 さすがにそれまではないだろう。いくらなんでも。

 言い聞かせるように脳裏に言葉を反芻させる。

 だが、緊張をしているのだろうか、燐は思わずごくりと唾を飲んだ。

 なんでこんなことでこんな思いをするのだろうと、その事を不条理に思ったが。

 それでも気になってしまう。

 この手のキャラクターなんかでは割とよくあることだし。

(これは現実なんだよ……?)

 夢の話ならいいなとは思った。

 それならこんな変な耳をつけていたり、両親のことも含めて幼い頃の当時の姿に戻ってもそれほど不思議がるようなことでもないのだが。

 燐は悴んだみたいに指先を小刻みに震わせながら、折れそうに細い腰のラインに沿って指の腹をゆっくりと這わせた。

 もし。
 もしもだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()椅子に腰かけた時すぐに分かっていたはずだ、と。

 楽観的にそう思ったのだったが。

 ふさふさふさっ。

「──ッ!!!」

 あるはずのないものがそこにあり、それは頭のもの以上にふさふさっとした手触りのものだったから。

 キツネの耳を付けた幼い燐は、言葉にならない悲鳴をまた上げることになってしまった。

 ──
 ──
 ──





Savin' the Day

 

 どんどん!

 

 流石に声には気付いたのか、静かだった燐の部屋のドアが叩かれた。

 

「!!」

 

 その音に燐の頭の耳と尻尾がぴんと逆立つ。

 

 何とも形容しがたい感覚に燐は怪訝な顔をしながら、獣になってしまった耳と尾を無理やり手で抑え込みながら、ドアの向こうにいるであろう両親に対して返事をした。

 

「え、えっと……何でもないからっ! ちょっと椅子から落ちちゃったってだけでっ」

 

 間違ったことは言ってない。

 

 ただ、落ちた理由があまりにも特殊というか、言えないようなことだったというだけで。

 

(けど、これも、ぬいぐるみとかじゃないんだよね、やっぱり)

 

 頭に耳があること以上に、しっぽが生えてる方がショックが大きかった。

 

 やけにお尻の辺りがすーすーしていると思ったが、こんな事が理由だったなんて。

 

 だがこの事で、きつねの耳と尻尾を燐が持っていることがはっきりしてしまった。

 

 臀部の辺りから生えている尻尾は、ふさふさとした毛で覆われており、先端の辺りが白くなっていた。

 

 燐は一目見た時、植物のコキアを思い浮かべていた。

 

(ていうか、これはどう頑張っても誤魔化しようがないよね。耳は良くてもこのしっぽじゃ学校だって行けそうにないし)

 

 燐は今の置かれている状況をすっかり忘れているのか、この時通っていた学校へ登校できるかどうかを気にしているようだった。

 

(手触りは悪くないんけどねぇ、友達に触らせたら意外と人気でるかも?)

 

 そんな暢気な事を考えながら燐は軽く苦笑いをした。

 

 どんどんどんどん!!

 

 また激しくドアが叩かれる。

 

 まるでこちらの声など聞こえていないように、さっきより強くドアが叩かれる。

 

 あまりの騒々しさに燐もびくんと身を竦ませていた。

 

(あちゃー、相当怒っているのかなぁ、もしかして。面倒なことになっちゃったかも)

 

 このままドアを開けたら間違いなく両親に叱られるだろう。

 まあ、それは開けなくともそれは同じだろうが。

 

 それにしても、こんな格好をしているのを両親に見られたら、それこそどうなるだろう。

 

 夜中にコスプレをしていて変な子だと思われれるのならまだ良くて、最悪、前に読んだ小説のように変貌した子の姿に忌憚の目で見られる可能性もある。

 

 とくに母はこういう、自分の理解が及ばぬところに怒るタイプだったから。

 

 もしかしたら、父との関係が悪化したのもそう言う所からきているのかもしれない。

 

 ”職業病的”なものもあるのかもしれないが、そういうちょっと融通がきかないところは自分にも受け継がれているような気はしていた。

 

 譲歩できない所と言うか。

 普通に頑固だと思う。

 

 だが、自分とは違い一本芯が通っているような気はしていた。

 

 この後に起きる離婚の事も、その後の処理も、全部自分だけで解決してみせたのだから。

 

(ただ、その度に実家に戻って行っちゃうのはちょおっといただけなかったとは思うけど)

 

 どんどんどんどんどん!!

 

 本当にドアが壊れるのではないかと思うほどの激しい轟音が、燐の部屋の中にまでも鳴り響く。

 

 確かに夜中に大声を上げてしまったのはとても悪い事だろうとは思うけど。

 

(だからってこんなに怒らなくても良いのにぃ。こっちの方が近所迷惑になっちゃってるよぉ)

 

 かなり築年数の経っている中古のマンションだったせいもあり、床も壁もとても薄い作りになっていた。

 

 ただでさえ、家の中での電話の会話が丸聞こえするほどだったから、こんなに激しい物音をそれも夜中に出してしまったのだから、隣の人とかが怒鳴り込んで抗議をしてきても文句は言えないだろう。

 

 それなのに、ドアを叩く激しい音は一向に止むことがない。

 

 何かがあったのだろうか。

 言葉を一切発してくれないようだけれど。

 

 それに何故こちらの言うことが向こうに届いていないのだろうか。

 

(仕方ない。やっぱり開けるしかないか)

 

 ドアの外でカンカンになっている両親の姿が目に浮かぶが、このまま部屋に籠っていても埒が明かないだろうから。

 

 燐はそう覚悟を決めると、この状況も含めたもう少しましな言葉を伝えようとドアノブに手を掛ける。

 

 鍵なんかは掛けていない。

 

 それでも両親が入ってこない所をみるに、自分からドアを開けてくるのを待っているようだった。

 

 自らの力で卵の殻を破るの待っている──。

 

 それこそが本当の親のあるべき姿なんだろうか。

 今でもそういうのはよく分からないが。

 

「……」

 

 ドアノブに手を掛けたまではよかったが、燐はそこから動けなくなっていた。

 

 自分でもそれをよく分かっていない。

 

 ただ、このドアを開けた先に何かとてもよくないことというか、とても大事なものを失ってしまうような、そんな予感がしただけだった。

 

 これは理屈じゃなくて、本能なんだろうか。

 

 以前、同じような獣の耳を付けた少女がそんな事を言ってたようだが。

 

 あの子(くま)のことばかりがやけに頭に浮かんでくる。

 

 ちょっと恰好が似ていたからかもしれない。

 

 それか何か別の要因とか。

 

(……蛍ちゃん)

 

 燐はずっと一緒にいる、かけがえのない人の名を思い浮かべて、そっと目を閉じた。

 

 青と白の情景に佇む、黒髪の少女。

 

 どこにいるのかはまだ分かっていない。

 だからこそ、見つけてあげなくちゃ、わたしが!

 

 燐は軽く深呼吸をすると、閉じていた目をぱちっと開けて、意を決したようにドアノブをぐるっと回した。

 

 バキバキバキッ!

 

「えっ!?」

 

 その時だった。

 

 ドアノブを回す音とほぼ同時に、何かが壊れるような音がしてそれが燐の耳朶を打ったのは。

 

 いくらなんでもドアを開けようとしただけでこんな音がするはずもない。 

 

(だってちゃんとここに……)

 

 手のひらの中にある金属製のドアノブを見つめる燐。

 

「あれっ」

 

 だが、それがいとも簡単に引っこ抜けてしまった。

 

 これは。

 

 燐がそう頭で考える前に目の前のドアが、激しい轟音とともに真っ二つに砕けた。

 

「わああぁっ!?」

 

 ドアの前で立っていた燐はその衝撃に思わず体をのけ反らして、尻餅をつくかたちで転んでしまう。

 

 咄嗟に両手をついたから、幸いそれほどの痛みはないのようだが。

 

「あ、あ、あ……」

 

 無くなったドアの間からぬうっと入ってきたものを見て、燐はきつねの耳としっぽを隠すことも忘れて幼い可憐な唇を小刻みに震わせていた。

 

 コイツらは一体、誰なの??

 

 ……

 ……

 ……

 

(えっ!? 嘘……!!)

 

 目を大きく見開くも、燐はまともに声を出すことすらできなかった。

 

 てっきり入ってきたのは両親だと思っていたから、その時のショックは計り知れないほど大きく、燐は目を見開いて膠着している。

 

「……」

 

 燐のその態度にソイツ等は一切気にすることなく、べちゃりとした象のような太い足が、壊れたドアを踏んづけて部屋の中にずかずかと入ってきた。

 

 燐はその様子を呆然と見ているだけで抵抗らしい抵抗をみせていない。

 

 動きたくとも動けないのか、がくがくと小さな身を震わせているばかりで。

 

(だって、お父さんとお母さんのはずだった、のに……)

 

 年が少し違っているとはいえ、肉親を見間違えるなんてことはあるはずはない。

 

 確かにちょっと若いとは思うけれど、それでも別人というほどはなかった。

 

 じゃあ、なんで?

 

 なぜ両親は居なくなって、代わりにあの時の”白いナニカ”なんかが何でこんな所にいるのだろう。

 

 それも、父と母と同じ服装をしてまで。

 

(ドアを壊したのもコイツらで……それで……親は居なくなっていて……)

 

 燐は頭の中でぐるぐると同じ言葉を反芻させていた。

 

 今すぐにでも考えねばならないことなのに、その考え方を忘れてしまったように。

 

 確かに、これを全く知らない人が見たら、顔のない人の形をしたバケモノが扉を壊して中に入ってきたと、恐れおののきすぐさま逃亡するか、叫び声をあげていただろう。

 

 ひび割れた顔面には目も鼻もなく、頬の辺りまでざっくりと裂けた紅い口があるだけだったから。

 

 見た瞬間、昏倒したっておかしくはない。

 その位醜悪で、実際、吐き気を催すような臭気も放っていたのだから。

 

 しかし、燐はそうではなかった。

 

 これを──知っていた。

 

 正体を知っていたからこそ、動けなかったのだ。

 

(じゃあ、もしかしてお母さんもお父さんも、これに?)

 

 そうとしか考えられない。

 

 だが、異変なんてものはどこにも。

 

「ウルサイ……!」

 

 白いナニカの一体がおもむろに壁を叩く。

 

 ずしんと、地鳴りのような音が響いて、燐は息をのんで身を竦ませた。

 

 人影の際限のない暴力性を思い出したのかその顔は青ざめている。

 

 二体の何かは、ふらふらとした動きで、へたり込んだままの燐の前に立ちはだかると、赤い口をにやつかせて見下ろしていた。

 

 口からはあの甘い臭気とねばっとした液体が零れ落ちていた。

 

「嫌ぁっ……ひぃっ……」

 

 燐は必死に悲鳴を出そうとするも、声が形を作ってくれない。

 

 それは一種のトラウマのように、燐の心を体をがんじがらめにしていた。

 

「……悪イ子……悪イ子ガ、ココニイル……」

 

 父の姿をしたナニカがそう言った。

 

「コンナノ、ワタシノ子ジャナイ……イラナイ……イラナイ……」

 

 母の格好をした人影がそう言葉を吐き捨てる。

 

(なっ!?)

 

 違う。

 

 こんなのは両親なんかではない。

 

 仮にこんな醜い姿になったとしても、こんなことを言う人達ではない。

 

 燐は自分と取り戻してソイツ等をキッと睨みつけた。

 

 だが。

 

「本当ニ悪イ子ダ……親ニ迷惑ヲカケルナンテ……オマエガ育テテタセイダゾ……!」

 

「何ヲ、ソッチコソ!……他所ニ別ノ女作ッテイタクセニ……抜ケ抜ケト!」

 

 白い人影は燐を放っておいて喧嘩を始めてしまう。

 

 互いを詰り合う光景はその風貌よりも醜いものに見えた。

 

 燐はそれをただぼんやりと見つめている。

 

 まるで酷い幻でもみているように目にうっすらと涙を溜めながら。

 

「マッタク、生ムンジャナカッタ……コンナ子……ワタシダッテヤリタイ事ガ一杯アッタノニ……」

 

「あっ、あぁ……」

 

(これが本音? お母さんとお父さんが言いたいことはこれだったの?)

 

 それにどれほど真意が含まれているのか、今の燐にはそれを確かめるほどの正常な判断が出来ていない。

 

 そうしている間にも悪意のもった言葉が容赦なく頭上から殴りつけてくる。

 

 聞きたくない、言われたくなった言葉が無遠慮に幼い燐の心をズタズタに抉っていく。

 

 燐は思わず耳を塞いでしまう。

 

 けれど言葉は一向に止まってはくれない。

 

 それは何故?

 

(そうか、頭の上の……!)

 

 確かに燐の頭に付いた獣の耳はナニカの言葉を無意識に拾っていた。

 

 燐はぺたりと座り込んでその耳を見られないよう両手で頭ごと覆い隠した。

 

(何なのこれ……わたし、こんな事の為にこんな姿になったっていうの……!)

 

 ただ、悪意を浴びせられるためだけに、こんな……人でない姿に。

 

 燐は耳だけでなく目もぎゅっと閉じた。

 

 こうしていれば嫌な言葉もその姿をみることもないし、それに次に目を開けた時には元に戻っているかもしれない。

 

 あまりにも子供じみた考えだが、今の竦み上がった燐にはそれぐらいしかできなったのだ。

 

(でも、やっぱり、お父さんもお母さんもそう思っていたんだ。自分はいらない子だって……きっと、おにいちゃんだって……)

 

 酷い言葉の雨を嫌というほど投げつけられた燐は、もう何も考えられなくなっていた。

 

 涙を流し必死に許しを乞うだけで、まるで捨てられた人形のように思考停止した状態になっていた。

 

 だがそれでも人影は燐を許してくれないようで。

 

「オシオキヲシナクテハ……悪イ子ハ、チャントシツケル必要ガアル」

 

 男の姿をした人影はそういうと燐の肩を掴んで強引に床に引き倒した。

 

 それでも燐は何も反応を示さない。

 

 ただぼんやりと天井を見つめているだけで。

 

(わたし、悪い子だからおしおきされるの……? けど、何をするつもりで……)

 

 虚空を見つめていた少女の頭部ががしっと手で掴まれる。

 その力はとても強く、みしりと嫌な音がするほどだった。

 

「コンナ変ナモノハ、チョン切ッテシマイマショウ……! 無駄ダシ、ゴ近所ニ顔向ケデキナイ……」

 

 もう一人の女の人影が燐の頭を押しつぶすように片手で掴みながら、もう一方の手で持っていた鋏を燐の頭の耳に当てた。

 

 虚ろなガラス玉のような燐の瞳はそれを映すことは無かった。

 

 四肢をだらんとさせて、されるがままになっている。

 

(切られちゃったら……きっとすごく痛いんだろうな、でもおしおきなんだから……仕方ないよね?)

 

 抵抗などできるはずもない。

 

 何より”親”のやることだし。

 

 幼い自分が逆らう事なんかできるはずなかった。

 

(わたしは悪い子だから……)

 

 燐は小さな胸でそのことを受け入れようとする。

 

 親のいうことは絶対、と教えられたわけではないけれど、そうするのが流れなんだとは思っていた。

 

 父も母も兄も、みんな自分の事を思って言ってくれたり、何かしてくれているんだと思っていたから。

 

 その期待を裏切ることなんかできない。

 

 学校や部活の友達だってそうだ。

 期待されていると思うからそれに全力で応えることができる。

 

 ずっとずっと、そうしてきたから。

 

 けれど。

 

(ともだち? ともだちって……)

 

 一体、誰の事だったんだろう。

 

「邪魔ナモノハスッキリ取リ外サナイト……!」

 

 人影は放心状態の燐に覆いかぶさると、ネイビーのワンピースを下からまくり上げた。

 

 ふわっと白い柄の入ったショーツが丸見えになる。

 

 それを見て人影は下卑た笑みを満面に浮かべていた。

 

 口からなにか液体を垂らしながら、生地に覆われた臀部を掴みその先にある、燐の獣の尻尾に狙いを定めた。

 

 だが、この人影は何も道具を持っていない。

 

(もしかして……)

 

 その予想は当たってしまう。

 

 白く薄汚れた手が、がっと燐の尻尾を掴んでいた。

 

「い、痛いっ!!」

 

 どうやら手で引き抜くつもりのようだった。

 

 その激しい痛みで燐の目にまた光が宿ることになったが、もう身動きは全く取れない状況だった。

 

「やっ、嫌っ! 放してっ!!」

 

 燐は拒絶を示そうと脚をばたつかせようとするが、ふたりの人影にのしかかられた上、すごい力で身体を押さえつけられて、藻掻くことすらもできない。

 

「駄々ヲ、コネルンジャナイッッ!!!」

 

 バシッ!!

 

「嫌っ、痛いいいっ!!」

 

 下腹部を抑えていた人影に尻を思いっきり引っぱたかれて、燐は背中を逸らして絶叫した。

 

「止めてっ!! お願い……!」

 

 無駄な抵抗をする燐に業を煮やしたのか、人影は燐の小ぶりな幼い尻を分厚い手のひらで何度も何度も叩いた。

 

「いぎっ! やあっ!! 許してっ!」

 

 少女の悲鳴と乾いた打撃音が狭い部屋の中に何度も響き渡る。

 

「痛いっ! ”お母さん”助けてっ!!」

 

 痛みから燐はそう叫んでしまった。

 

 だが、そこには母親の姿はなく、その代わりに母の服を着た人影がその下卑た口を開いた。

 

「躾ヲ受ケナサイ……アナタノ為ダカラ」

 

 躾? これが?

 

 こんな痛くて苦しいものが何の躾だっていうの。

 

 燐の瞳が絶望の色に変わる。

 

 ここには誰もいない。

 

 自分の好きだった人はみんな居なくなってしまった。

 

 ──たすけて。

 

 誰か。

 誰か、助けて。

 

 燐がそっと涙を零しながら懇願の声をそっと絞りだしたその時だった。

 

 ばあんと何かが弾けたしたような音がまたもリビングの方から聞こえてきたのは。

 

 その直後、黒い靄のような煙が燐の自室に流れ込んできた。

 

「ウウッ……ナンダ!?」

 

 人影の一人が首を伸ばして周囲を覗ったときだった。

 

 ガン!

 

 ものすごい音がして、その人影が部屋の壁に吹っ飛んでいた。

 

(な、なに?)

 

 下腹部の重しが急に無くなったことに不思議がった燐だったのだが。

 

「大丈夫!? とにかく早く逃げるクマっ!」

 

 不意に暖かいものが燐の手をとった。

 

 同じような背恰好の少女が、手を握りこちらを急かしていた。

 

 訳がわからないまま燐は反射的にこくんと頷く。

 

 だが。

 

「ドコニ行ク気……? ワタシの子ヲ攫ッテ……!」

 

 もう一つの人影は燐の手を掴みながら、突然現れた少女に向けて鉄の鋏を振り回す。

 

 熊耳を付けた少女は巧みにそれを躱すと。

 

 やっ、とその白い顔面に鋭いパンチを見舞っていた。

 

 たった一撃見舞っただけなのに、まるで糸が切れたように人影はがくりと崩れた。

 

「えっと……」

 

 よろよろとしながらも何とか自分で立ち上がった燐は呆然とした顔でその少女を見た。

 

 視線を向けられた少女は少し怪訝そうに燐の顔を覗き込むと。

 

「キミは”燐”だよね? ボクのこと分かるクマか?」

 

「あ。うん。確かくまちゃんだったよね。助けてくれてありがとう」

 

 燐は曖昧な素振りで頷くと軽く頭を下げた。

 

 状況はよく分かってはいなかったが、とにかくこの少女に助けられたことには間違いないと思った。

 

「じゃあ、とりあえずここから出よう。ここは何か危ない感じがするクマ」

 

 そう言って燐の手をくまは軽く引く。

 

「……」

 

「ん? どうしたクマか」

 

 後ろめたそうに口を引き結ぶ燐にくまは首を傾げた。

 

 燐の視線は転がったまま動かない白い人影達に注がれていた。

 

 それでくまは理解ができたのか、あははと愛想笑いを浮かべた。

 

「ちょっと気絶させる程度にしたから、多分、大丈夫クマよ」

 

(何か、べとっとしたのが手に付いちゃったけど)

 

 くまは胸中で苦い顔をとった。

 

「そっか、ありがとう」

 

 その言葉にくまはちょっと変な感じがしたが。

 

「お礼を言われることのほどではないクマ! それにしても燐、キミって……」

 

 くまはまた燐のことをじろじろと見る。

 

 視線は顔だけでなく、体全体を見ているようだったが。

 何か、あるのだろうか。

 

「ま、まあいいクマ、それは追々話すとして……」

 

「?」

 

 きょろきょろと目線を動かすくまに今度は燐が首を傾げた。

 

「えっと、どっちが出口なんだクマ?」

 

 出ろと言ったけれど、どうやらくまはそれが分かっていなかったのか、顔を赤くしながら燐にそう尋ねた。

 

「リビングからすぐだけど……いちおう案内したほうがいいよね」

 

 燐の方からくまの手を引いて自分の部屋を出る。

 

 リビングの中はぐちゃぐちゃになっており、テーブルの上に合ったグラスや食器は無残にも割れており、そのテーブルは横倒しになっていた。

 

 だがその中でも一番の被害は。

 

(あれ、テレビまで……壊れちゃってる?)

 

 何かをぶつけたような大きな穴が液晶の中央部分にぽっかりと開いていた。

 

 ただその破片のようなものが、リビングの中に散らばっていた。

 

 まるで外側からでなく、内側から液晶が壊れてしまったような感じ。

 そんなことってあるのだろうか。

 

「うーん、足の踏み場もないぐらい散らかってるから、早く出たいクマ~、なんて」

 

 何故か誤魔化し笑いをしている、くま。

 

 燐はそれをちょっと訝し気に思ったが。

 

(まあ、いいか)

 

 どうせ空っぽの家だったし、多少汚れたって特に変わらないだろうと思った。

 

 それに、ここから出ていくんだし。

 

 燐は下駄箱から自分の靴を出す。

 

「これだよね、多分……」

 

 燐は子供用のシューズを取り出す。

 

 部屋に置いてあったものよりも更に子供っぽかったが、そのあまりの小ささに玩具みたいとつい微笑んでしまったが、履いてみるとそれは燐の足にぴったりとフィットした。

 

 紐を縛る前に玄関でこんこんと踵を叩く。

 

 そうするときちんと踵があって疲れずに履けると、従兄に教わったものだった。

 

 燐はもう一度、リビングの方を振り返る。

 

 あれは、本当に自分の両親が変化したものだったのだろうか。

 

(何の納得も、理解もできていないけど)

 

「何をしてるクマ? ボクはもう準備万端クマよ。」

 

「わああっ!!」

 

 急に目の前にくまの顔があったので燐はつい飛びのいてしまった。

 

 まだ心臓がどきんどきんと言ってる。

 

「ねぇっー。こんな所早くでようでようクマー」

 

 駄々をこねる子供みたいにくまが後ろから抱きつく。

 

 体温が高いのかくまが抱き付いたところからぽかぽかとした確かな温もりを感じた。

 

 それにミルクみたいな甘い香りも漂ってくる。

 

(何か、お菓子に包まれているみたい。もしかして普段から甘いものばっかり食べているのかな)

 

 ちょっと変なことを考えてしまうが。

 

 でも、今こうして危機を脱したのも全部、この子のおかげなんだ。

 

「ねぇ、くまちゃんってどうしてここに来れたの? この家のことなんて全然知らなかったみたいなのに」

 

「えっと、それは」

 

 耳元でごにょごにょ言うクマに燐は不思議そうに首を傾げた。

 

「言いたくなければ言わなくてもいいよ。助けに来てくれたことは本当に嬉しかったから」

 

 燐は振り向いてにこっと微笑んだ。

 

 ……

 ……

 ……

 

「そっか、じゃあ家のテレビから、くまちゃんは出てきたって事?」

 

「うん。ボクにもよく分からないけど、青いドアの家のテレビのチャンネルの替えてたら急にぱあっと光が広がって、それで……」

 

 少女たちは玄関口で顔を見合わせて話をしていた。

 

「向こうではサトくんも一緒だったって言ってたけど、こっちには来ていないのかなぁ?」

 

「その辺も良く分からない。ただこっちにはいない気がするクマ」

 

「そうなの?」

 

「クマクマ」

 

 くまは何故か自信をもって頷いていた。

 

「それにしても……」

 

 くまはおもむろに手を伸ばして燐の頭にぺたっと触れた。

 

 もちろんそれは頭に触れるのが目的でなくて。

 

「わっ! な、なに?」

 

「……その様子だと()()()()()()()()()みたいクマねぇ。その耳と尻尾ってどうしたの? ボクの真似とかじゃないよねぇ」

 

 今度はくまが燐に質問をする。

 

 一目見た瞬間から気になっていたことだった。

 

「ち、違うよっ」

 

 すぐさま否定する燐だったが、少し顔を俯かせた。

 

「わたしも良く分からない。気付いた時にはこうなっていたの。こういうのって何なのかな? オカルト的なことはあんまり信じたくないけど」

 

 今さらそんな事を口にするのはおかしい気はするが、認めたらそれが現実になってしまいそうだから、燐はあえて否定の形をとった。

 

「うーん、ボクにもなんとも……」

 

 くまは一言そう言っただけで考え込むような素振りで黙ってしまう。

 

 同じような”耳”を付けているのだから何か知ってそうな気はするのだが。

 

(何か、言いたくないことがあるとか……? 呪いとかそういうのじゃないよねぇ?)

 

 狐に対して何か悪い事をした覚えなんかないし。

 

「まあ、普通に可愛いとは思うクマよ、今の燐に良く似合ってて」

 

「……そんなこと言われたって全然嬉しくないんですけどぉー」

 

 くまだけが頼りだったから、突然暢気なことを言われて燐は呆れた声を漏らす。

 

「あれれ、照れ隠しクマか? 燐ちゃんはとっても可愛いキツネの子クマよ~」

 

 くまがそう褒めるたび、燐の顔が真っ赤になっていく。

 

 実際にこれぐらいの年頃だったら、そこまで悪い気はしないだろうけど、中身はもう大学生なのだから。

 

 さっきの人影じゃないけどいますぐにも切り落としたいぐらいに恥ずかった。

 

 流石に痛いだろうからしないけど。

 

(それにしても……)

 

「そういえばさ、よく、”わたし”って分かったよね。変な耳とか尻尾だけじゃなくて、背だって随分違うから流石に別人だと思ったんじゃない?」

 

 矢継ぎ早にそう問われてくまはくりっとした目をさらに大きくさせた。

 

 だが、すぐに口元をにこっとさせると。

 

「ボクはそーゆーの間違えないクマよ」

 

「そうなの? くまちゃんって意外と物覚えがいい?」

 

 この場合洞察力が高いと言った方がいいのかもしれない。

 

 まだ出会ってから全然間がないわけだし、それに自分の幼少期の頃なんてこの子が知っているはずもないのだから。

 

「うー、以外は余計クマっ。でも、まあ確かにそういうのでもないんだけど」

 

「じゃあ一体?」

 

 今度は燐が首を傾げる。

 

 それと同時に頭のキツネの耳もぺたんと下がったが、燐がその変化に気づくことはなかった。

 

「それはね。キミの──」

 

 理由を教えてあげるとばかりにくまが自分の頬に指を押し付けて、ぱちりと片目を閉じたときだった。

 

 バンと大きな音がして家の玄関のドアが勝手に開かれていったのは。

 

 扉が開いた瞬間、ふたりの目の前に、白い顔のない人影がぬうっと飛び込んできた。

 

「……っ、いやぁっ!!」

 

 燐は驚きのあまり大きく目を見開いて、口を開けて叫んだ。

 

「こいつぅ!!」

 

 だがくまは不意の出来事にも動じることなく、躊躇なくその白い影に対してか細い足で回し蹴りを食らわせた。

 

「ガァーッッ!!」

 

 激しい金属音と共にソイツの身体が外のフェンスにまで張り飛ばされた。

 

「まだ他にもいるって言うの!?」

 

 呆然としながらそう叫ぶ燐にくまは答えることもなく乱暴に家の玄関を閉じると、燐の手を握りしめて外に出た。

 

 このマンションは建物の内側に階段があり、その横にはエレベーターが一基ついているのだが。

 

「エレベーターじゃなくて階段で行こっ!」

 

 こくんと頷くとまだ安全そうな階段を下りることした。

 

 だが、普通に階段を駆け下りるのかと思ったのだが。

 

「ここから飛ぶクマよっ!」

 

「飛ぶって……ここからっ!? って、ひゃぁっ!!??」

 

 そっちの方が早いと睨んだのかくまは燐の手を固く握りしめながら階下まで飛び降りる。

 

 つい燐もその勢いに釣られて階段を飛び降りてしまうことになったが。

 

 だんっ!

 特に痛みもなく、普通に下の階まで着地することができた。

 

 無事に飛び降りられたことに安堵すると同時に、くまに一言抗議をしようと燐がその口を開く前に。

 

「ねぇ、嘘でしょ……!」

 

 くまはすぐさま身を翻すと、次の階段も普通に飛び降りた。

 

 だんっ! だんっっ!

 

 靴に穴が開くほどの激しい音が、螺旋の階段の吹き抜けに何度も鳴り響く。

 

 この方が確かに早いはずなのに、燐には何故かこっちの方が長い時間に感じられた。

 

 追ってくるのかと、背後ばかりを燐は気にしていた。

 

「や、やっと……降りれた」

 

 どうやら、エントランスまでは追いかけてはこないようだった。

 

 急いでマンションの外に出ると、少し生ぬるい風が高揚した頬を軽く撫でる。

 

 それは夏の夜風のようではあったが。

 

「やっぱり、なんか違う……」

 

 こっちの世界に来たときは秋の山の冷たい空気が流れていたのに。

 

 季節がそっくり入れ替わるなんてことはない。

 

 それはつまり。

 

(ここは過去でも現実でもないってこと、なんだ)

 

 両親があんな姿になることなどないし、自分だってこんな獣のしっぽや耳が生えるはずもない。

 

 きっと、よく分からない世界に迷い込んでしまったんだ。

 惑う星のように。

 

 薄々感づいてはいたことだったけど、ここにきてそれを実感してしまった。

 

 辺りは夜の帳がおりたように真っ暗だったが、見下ろす景色の下の方にいくつか町の明かりが灯っているようだった。

 

「ねぇ、燐はこの辺のこと詳しいクマか?」

 

 不意にそう尋ねられる。

 

 確かに、燐は前はここに住んでいたからよく知っている場所のはずなのだが。

 

「えっと」

 

 口を開きかけた燐をくまではない別の言葉が遮った。

 

「イタッ、イタッ、イタァッ!!」

 

「……っ!?」

 

 今出てきたばかりのマンションの上の方から声がしてくまと燐は振り返った。

 

 上の方の階の窓から何かがこちらを見下ろしながら指を差していたのだ。

 

「アァ、獲物ダ……ソレモ極上モノノ……!」

 

 隣の窓からもそんな声がしてこちらを見て叫んでいる。

 

「ぼ、ボクたちは獲物なんかじゃないクマっ!!」

 

 くまがそう叫び返すも。

 

「フヒヒヒヒ……!」

 

「ヘヘヘヘ……!!」

 

 マンションの窓のどこからもそいつらが見ていて、こちらを見て奇声をあげている。

 

 意味不明な言葉の羅列が四方八方から二人の少女に降り注ぐ。

 

 呪詛のような棘の嵐にふたりは内心で耳を塞ぎながら、訝しそうに睨む事しか出来なかった。

 

「あ、あれっ!」

 

 そして、それだけではない。

 

 他のマンションの棟の入り口から、奇怪な言葉を発しながら白い人影の群れがわらわらと這い出してきていたのだ。 

 

 敷地内の駐車場や、ごみ置き場、隅の暗がりからもピタピタと嫌な足音がいくつも流れてきている。

 

 そこはもう、燐の知っているマンションなんかではなかった。

 

(マンションの住人全部があの白い化け物に……!?)

 

 そう思うしかなかった。

 こんな状況を目の当たりにしてしまったから。

 

 それどころか町全体すらもこうなっている可能性もある。

 

 それは最悪のシナリオであったが。

 

 前の事例のこともあるから、燐がそう結論付けるのも無理ないことだった。

 

 まるでこちらが外に出てくることを待ちかねていたみたいに白い影がわらわらと集まってくる。

 

「カラカラカラカラカラ……!!」

 

 それらは巣を壊されて怒り狂った昆虫のように、不快な音を立てながらこちらだけを真っ直ぐに目がけて向かってきていた。

 

「まるで、あの時みたいクマねぇ」

 

 白い何かがどんどんと増えていく状況にくまは何故か悠然とした態度で笑みを浮かべていた。

 

「蜂の巣からはちみつを捕るときは大抵こうなるクマ。だからちょっと……がううっ! 似てるクマねぇ」

 

 説明しながらも何故か楽しそうに舌なめずりするくまに、燐は不安がるように眉根をぎゅっと寄せた。

 

「でも、それって”盗る”の間違いでしょ? それより、これからどうしたらいいと思う?」

 

 今頼れるのはこの少女しかいない。

 これまで見たところ普通じゃない事はよく分かった。

 

 くまはふふんと鼻を鳴らして、燐の方に向き直る。

 

 ふたりの少女は互いの違いを確認するかのように、まざまざと顔を見合わせた。

 

「な、何?」

 

 戸惑った表情を見せる燐にくまはにこっと笑う。

 

「やっぱりボクたちってよく似ているなぁって」

 

 こんな状況で悪意のない笑みを向けられて、燐はなぜか少し照れていた。

 

「それは……まあ、何というか……こんなのそのうち元に戻るとは思うけど」

 

 燐は恥ずかしそうにふさっとした毛並みのもうひとつの耳にちょんと指で触れた。

 

「んー、それはどうかなぁ」

 

 燐の言葉を遮るみたいにくまがにやっと笑みをみせる。

 

 何だかそれが意味ありげに見えたのか、燐は疑り深い目でくまのことを見つめた。

 

「……もしかして、くまちゃんがこれを?」

 

「そんな事、ボクに出来るはずないクマよ」

 

「だったら、こんなの誰が──」

 

「まあまあ、そんな事よりもさ」

 

 苛立ったように声を荒げようとした燐の唇をくまの指がやわらかく塞ぐ。

 

「もっと周りを気にした方が良いんじゃないかなぁ。ボク達を目指して団体さんが集まってきているみたいだし」

 

 小声でいうくまの言葉に燐ははっとなって周囲を見渡した。

 

 くまの言う通り、周辺の道路からも大量の人影が辺りを囲みだしている。

 

 その数まではよく分からないが、かなりの数になりそうな気はした。

 

 皆、なにか訳の分からないことを口ずさみながらこちらにやってくる。

 

(もしかすると、あの異変の時よりも数が居る?)

 

 もし町全体がそうなら、その可能性は否定できない。

 

 それにしても、だ。

 

 幸運が消えた今、何を目的にしているのだろうか。

 いったい彼らは。

 

(ま、まさか……!)

 

 燐は先ほど受けた行為を思い出して、はっとなった。

 

 もしそうだとしたら本当にそれこそ悪夢だ。

 

 だが、燐のもっている知識と人影達の行動を鑑みると、あり得ない話ではない。

 

 むしろそれしか無いと言えた。

 

「このぐらいの数ならまあ、ボクが本気になったらへっちゃらどころか物足りないぐらいなんだけどね」

 

 燐の唇からちょんと指を離すと、くまはその細い指先をぱきっと鳴らして、握りこぶしを作った。

 

 そして、周囲にいる人影に対して威嚇するような強い眼差しを向ける。

 

 だが、連中は一切たじろくようなことはなく、白い顔に唯一ある口を大きく開けながら、下卑たような笑みを浮かべて、まるで機械仕掛けの人形のようにこっちに近づいていた。

 

 ソイツらに軽んじられていると思ったのか、くまは一瞬むっとした表情をする。

 

「まあ、コイツら目も鼻もないようだから、何もわかってないんだろうねぇ。これから自分がどうなるかを」

 

 小さな肩をすくめてやれやれと呆れた息をついた。

 

 その余裕の態度に燐はようやく気付いた。

 

「ねぇ、もしかして。これだけの人数を相手に戦うつもり……なの?」

 

 燐の問いに、意外ともとれる質問をされたみたいにくまは大きな目を何度もぱちくりとさせた。

 

「それは、もちろんクマ。まあ、その為にボクがきたようなものだからねぇ。燐は大船にでも乗った気持ちでここで見ているといいクマよ。百獣の王の活躍ぶりをねっ」

 

 そう言ってクマは小さな胸をドンと叩く。

 

 燐は何というか、すぐに言葉が出てこなかった。

 

(戦うって……もしかして素手だけで? けど……)

 

 燐は”くま”がまだどういう子なのかを分かっていない。

 

 けれども、あの自信満々の態度と言葉には嘘偽りなどはなさそうにみえる。

 

(そういえば、さっきだって何事もなかったみたいに人影を相手にしていたし)

 

 実際、くま一人で人影を簡単に倒してしまっている。

 

 燐は初めて認識したみたいに、くまをまざまざと眺める。

 

 頭につけている”耳”以外は普通の少女と変わりない。

 

 なのになぜ、あんな凄い力が出せるのだろう。

 

 燐は人影の力の強さと執着をしていたから余計に感嘆してしまう。

 

 でも、それだけに。

 

「ちょ、ちょっと待って、くまちゃん!」

 

「燐、どうしたの? 怖いのならその辺で隠れていればいいクマ。あれぐらいの数ぐらいならぱぱっと終わっちゃうから」

 

(まあ、最初見た時はコイツ等、顔がなかったからちょっとビックリしちゃったけど……)

 

 群れを成して襲ってくるということは個々が弱いということになる。

 

 実際に相手にして分かったが、それほどではないね。

 まだ狼の方がよっぽど厄介なぐらい。

 

「つまり、あの”のっぺらぼう達”は最初からボクの相手ではないということクマっ」

 

 くまの言葉尻からは相手を侮っているような感じはない。

 むしろ確信があってのもののようだった。

 

 だからこそ燐は言う必要があった。

 

「でも、アレって……元は、その人間なの。だから……」

 

 燐はそこで言い淀んだ。

 

 あの町で幸運を求めた結果、歪んでしまった人達の鳴れの果てがあの姿であることを燐は知っていた。

 

 何でここでそんなことが起きて、そして両親までもがあの姿になってしまったかは分からないが、その元が人間であることには変わりはない。

 

 悪い夢の話をしているのだけなのかもしれないが。

 

 だが、くまはまるで関心がなさそうにふーんと言葉を流すと。

 

「それで。それがどうしかしたの?」

 

「えっ?」

 

 思いがけない冷ややかな言葉に、燐は何を言っているとばかりにくまの目を覗き込む。

 

 だがそこには燐の知らないくまの目があった。

 

(くまちゃん……瞳の色が?)

 

 穢れを知らぬ天真爛漫な少女のものだと思っていた綺麗な緋色の瞳が、まるで血に飢えた獣ののような鋭い目つきに変わっていた。

 

 それは初めてこの少女から人とは違ったものを燐に垣間見させていた。

 

 だが、それは見覚えのある目でもあった。

 

(これって、まさか、あの”ヒヒ”ものと……!?)

 

「残念だけどボクたちに敵意を向ける相手なら、それがニンゲンとかどうかは関係ないクマ。ただ打ち倒すだけで。場合によっては致命傷を与えるかもしれない」

 

「け、けどっ! それだと人殺しになっちゃうかもしれないよっ!?」

 

 抑揚のない声でそういうくまに燐は思わず反論の声を上げていた。

 

 だがくまは静かな声でいった。

 

「それは、仕方のないことだよ。そうしないと野生では生きていけないんだし。それに人間ってやつは……ちょ、ちょっと燐! 何処にボクを連れて行く気クマ? その手を放すクマーっ!!!」

 

 くまが真剣な顔で何やら言い終わる前に、燐はくまの手を強引に掴み取るとそのまま走り出していた。

 

(ごめんね。何か言いたいことがあるみたいだったけど)

 

 今はそれどころではない。

 

 こんな変な世界から抜け出すことの方が先だ。

 

 それに、蛍やオオモト様、サトくんが今どうなっているのかはまだ分かっていない。

 

 それをようやく思い出したから、あんな人影などを相手にすること自体が勿体ないと思った。

 

 とにかく、今は。

 

「もし、ここが本当にわたしの知っているところならっ!」

 

 とりあえず、隣の町まで逃げるようにするのが多分得策なのだろう。

 

 どこまでこの世界(あくむ)が続いているのかはまだ分からないけれど。

 

 燐は敷地内から出る最短のルートを瞬時に頭に浮かべると、ぎゃんぎゃんと喚くくまの方を振り返ることなく、そのまま真っ直ぐに──ではなく、捕まらないようにジグザグに動いて、マンションとの間の細い路地に入る。

 

 いわゆる抜け道なのだが、この辺は現実での燐の記憶と一緒だった。

 

「ガアッッッ!?」

 

 そんな所を行けるとは思っていなかったのか、人影達は虚を突かれたみたいに喚き散らすと、逃げる少女達の後を急いで追おうとする。

 

 だが、上手く隙間を抜けられないのか、白い影は強かに身体をぶつけるだけで燐と同じようにマンションとの隙間を通ることができない。

 

 それなのに後から後から次々と押し寄せてくるものだから。

 

「オイ!」

 

「イタッ、ヤメロヨ!!」

 

 そこだけに白い怪物の渋滞が出来上がり、ついには将棋倒しとなって複数の人影が一斉に倒れ込んでいた。

 

 別の道で追う連中もいたが、それはもう既に遅く、燐とくまは一目散にマンションの敷地の外へと抜け出していた。

 

 声を聞くことも周りを見ることも無視して、燐はそれだけを目的に走る。

 

 走る感じが何かいつもと違ってやけに軽いような気はしたが、燐はそれも無視した。

 

(……わたしに出来る事なんて、ほんの些細なことだけだから)

 

 多分これはあの頃も今も変わっていない。

 

 とても大事な人はいるけど、その人が変わらない日々のままでいられるのならそれでいいと思っていた。

 

 けれど、そういう事じゃなかった。

 

 ”あなたがいるからわたしがいるんだと”。

 

 だから、その人と──蛍ちゃんとの時間があればそれだけで。

 

 それだけで良かったんだ。

 特別な時間なんか必要なんかなく。

 

(わたしは、それが欲しい……他の全てを敵に回したとしても……!)

 

 平凡な日常がたまらなく欲しかった。

 

 その為にこんな嘘の日常から抜け出さなくてはならない。

 

 例え、この耳としっぽが元に戻らかったとしても。

 

(だって、わたしは──)

 

 

「もうっ、なんでキミ達はボクの話をぜんぜん聞かないのかクマっ!」

 

 かなり強引な形で燐に引きずられたくまだったが、それでも手を放すこともなくちゃんと足を前に動かして一緒に走っていた。

 

 けれど、それにはちゃんと理由があって。

 

 実際、くまが想定していたよりもあの白いヒトモドキの数は多かった。

 

 もし、一気に押し寄せてきたりしたら、自分は何とかなっても燐はどうだったかは分からない。

 

 つまり、燐が最善の策をとったんだと思ったから、くまはそれに従ったのだった。

 

(でも、それもこの辺りでいいクマね! もう我慢の限界クマっ)

 

 ちょうど頃合いとばかりに開けた場所に差し掛かった時だった、くまが繋がれていた手にぐっと力を込めて振り解こうとしたのは。

 

 化け物から逃げ回る自分に嫌気がさしたのか。

 それとも力を持つもの故のプライドがそうさせたのかは分からない。

 

 ただ、もうこの鬼ごっこにはうんざりで到底付き合いきれないと、くまは不意に足を止めて、この場で足を踏ん張ろうとしたのだったが。

 

「く、クマッ!?」

 

 くまは渾身の力を全身に込めたはずだったのだが、それでも燐の手が離れることもなく、足も一時も止まってくれなかった。

 

(なんで……? ボクの力が出ないってわけでもないのに)

 

 くまは不思議そうに首を傾げながら、走る燐に合わせて揺れるきつねの耳としっぽを眺めながら惰性で足を前へと動かした。

 

 ……

 ……

 ……

 

 

 





ゆるキャン△SEASON3終わっちゃいましたね~~お疲れ様です。

何か、本当にあっという間だった気がします。

新キャラ二人の出番もあっという間に……けど、最終話にも出番があったのは良かったです。さてさて、新入生、絵真とメイの今後の出番は果たしてあるのでしょうか? アニメ四期があるのでしたら……いいなあ。

そういえばお花見キャンプの回で終わったわけですけど……あんなお話でしたっけ? なぜかぼんやりとしか覚えてなかったです。どうやら12話後半部分は殆どアニメオリジナルになっていたようですし、それが原因なのかもせです。でもきっちり最終回っていうより後もう1話あるんじゃないのって思わせる展開でした。
この続きは四期、もしくは0VAでしょうか? それか劇場版とかとか? ……とにかく今後の動向が楽しみな所です~。


そういえば、とうとう先月マウスも壊れてしまったのでとりあえず予備のものを使ってみたら、小さいし軽いしで何だかもう変な感じにー。
それまでかなり重くてでかいマウスを使ってたんだなーって再認識しちゃいましたよー。
壊れた原因はシーシュポスのやりすぎではない、と思う。まあ酷くマウスを酷使してしまうゲームだとは思いますけれども。
ちなみに結構長く使っていたスピーカーとチェア用クッションも壊れてしまい、今年はディスプレイの故障から立て続けにものが壊れていくので、今年はそういう年なのかなぁと。
もうこうなったら全部IKEA!? でもマウスは売ってないようでそれは別に用意する必要が。まあでも、それなりな代替品は持っていますからまだ暫くは買い替えはいいかなーとか思っています。

追記なのですが、サマーセールで”青い空のカミュDL版”が8月13日まで85%OFFの1500円になっていますね~~!!
夏といえば青い空のカミュ! と言っても過言ではないぐらい自分の中ではベリーマストなゲームなのでこのセール時に是非是非お試ししてみてください。

それではではではーーー。

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