We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life.   作:Towelie

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 あの町の儀式とは何だったのだろうか。

 わざわざ厳かなものにしたり、見栄えよい衣装に着飾ったとしても、やっていることには一切変わりがないのだから。

 いつからそうなってしまったかは分からないけど。
 
 ──本当に意味のない行為。

 ただ、もしあの日見たものが最初の儀式なら、初めからそうだったのではないのだろうか。

 仮面で顔を隠した男たちが少女を孕ませるという、儀式という名の、性行為。

 どう見てもあれは強姦(レイプ)だろうと燐は言っていたけど、わたしだってそう思う。

 少女は涙を流して嫌がっていたし、どうみても望んでいたものじゃなかったはず。

 それなのに何故この人は。
 こんなに、澄んだ瞳をしているのだろう。

 あんな酷い目に遭っても。

 浮世離れしているだけとは言い切れない雰囲気が、オオモト様にはあった。

 血縁とは関係なくもっと別の、その人個人のものというか……強い”芯”みたいなものが。

「ねぇ……蛍?」

「えっ。は、はいっ!」

 ずっと呼びかけてくれていたのだろうか、オオモト様が少し困った顔をして蛍の方を見つめていた。

(あっ……!)

 改めてオオモト様のことをまざまざと見てしまった蛍は、不覚にもまたどぎまぎとなってしまった。

 ”大人の女性の姿のオオモト様”は、今は白い着物一枚しか身に着けていない。

 白装束のような感じに見えるけど、服の端端に施された刺繍はとても精巧なものであり、見た目以上に手間とお金が掛かっているように思えた。

 だが、その割には生地は厚いものではなくて、むしろ体の線がはっきり分かるほど身体に密着していて、そのほとんどの部分がレースのカーテンのように透けていたのだから。

 しかも大事な場所ほど丸見えになってしまっている。

 同性である蛍でも目のやり場に困ってしまうほどだった。

(だって、オオモト様ってすごくプロポーションがいいから……)

 それは普通に感嘆の言葉であったが、何となく口にするのは憚れるような気がして、蛍は口内でその言葉を留めることにした。

 疚しいというわけではないが、蛍はオオモト様の首から上だけを見ることに決めて、きっちりと姿勢を正した。

 だが、そう思えば思うほど視線がずれていってしまうのは何故なのか。

 それに。

(これって、わたしが着る予定の衣装だったんだよね。床の間に飾っていたこともあったし……)

 随分と昔の事を思い出す。

 あの時は本当に分からずに、皆と一緒にお祝い事をしていた。

 こんなものを着る儀式に自分が祭り上げられるなんてことは全然思わずに。

 蛍は先ほど頭に浮かんだ、儀式のことを思い返していた。

 座敷童の血を絶やさないようにする為の儀式らしいが、蛍の場合その相手が。

(これはもう、考えたくはない)

 蛍は頭からそれを打ち消すと、身を正してオオモト様と真っすぐに向かい合った。

 自身が今、着させられている、バニー服のことなんかは一切頭にも入らずに。

(そういえば。オオモト様は何て言ったんだろう……? もう一度お願いしますとはちょっと言えない感じだよ……)

 何故だか大学の講師か教授を相手にしているみたいになってしまうが、自分だってもしかしたらそっちの道に進む可能性だってある。

(だったら、戸惑う必要はないよね? こういうのは対等であるべきだから)

 蛍はもし自分が小学校の教員になるとしたらそういう心持ちであることを密かに決めていた。

 生徒と友達になる教師はあまり良くない事のようだし、それにすぐに教師を辞めてしまうと聞いた事があった。

 その理由は何となく分かる。

 距離が近すぎるから、対等になりきれないんだろうと。

 生徒と向き合っているようで、実際は何とも向き合っていない。

 マニュアル通りならまだ良いが、それすらも出来ていないのだから、そういう人は最初から教師になるべきではないと豪語している人もいた。

 それでも自分はそうなるだろうと思っている。

 その方がきっと楽しいし、その方が自分らしいと思っているから。

 蛍はふぅ、と小さく唇を開けると、恥ずかしさをのみ込んでオオモト様に再度言葉を訊ねようとした。

「あの、わたし……あの」

 しかし蛍が発した言葉はあまりに拙い言葉だけ。

 意を決したはずなのにと、自分で自分を軽蔑してしまう。

 肝心なところの意気地のなさに呆れかえっていた。

 色々逡巡してみても結局何も変わっていないのだと。

 胸中で猛省しようとしたときだった、柔らかく穏やかな声が俯いた蛍の耳朶をそっと鳴らしたのは。

「いいのよ。遠慮することなんかしなくても」

「でも」

 それでも言い淀む蛍にオオモト様は青空のような澄みきった笑顔を向けた。

「ねっ」

「あ、はい……」

 オオモト様にそう言われてしまっては蛍もそれ以上何も言えなかった。

 けれど、内心ほっとしていた。

「それであなたはどう思っているの?」

「えっと、儀式の事ですか? それともこの場所の」

「そうね」

 オオモト様はつっと遠くに視線を伸ばした。

 蛍の後ろにはなにも存在していない。

 ただ真っ黒い、渦を巻いた星雲のような何もない空間が広がっているというだけで。

 そこに目をやる理由も、意味も存在などしていなかった。

 しかし、それで何かの答えを得たのか、オオモト様はひとり小さく頷く。

(えっ?)

 蛍はその様子を不思議そうに見ながら首を傾げていた。

 たったそれだけの事なのだが、蛍にはそれが何かのサインを送っている様に感じたからだった。

 もし、例えるとするならば、何かからの別離のように。

「あなただってもう、分かっているはずよ。自分の中に残っている座敷童としての力の根源が何処にあるのかを」

「それは」

 蛍は何も答えられなかった。

 答えを用意していなかったという訳ではない。
 その必要性がないと感じたからだった。

 その問いに関する答えを出すという行為そのものが、何かとても重いものに思えてしまったから、蛍はそっと唇を閉じた。

 オオモト様は小さく息を吐く。

「あなたには、ここがどういう所かもう分かっているのでしょう?」

「えっ?」

 急に思ってもいないことを聞かれて蛍は目を丸くしたが。

「はい」

 強く頷いてそう返事を返した。

「そうよね。あなたがあの時切り替えたのよね。あの、スイッチを」

 オオモト様は見ていない筈だが、何故だかそれを知っていた。
 けれど、蛍がそれに驚くようなことはなかった。

 何となくだが、この人は知っているだろうと思ったから。

 蛍はオオモト様に聞かれる前に自分から話した。

「えっと、じゃあ、()()()あの時のものと同じなんですね。あの日、小平口町にあったのは廃線跡の古い転車台でしたけど」

「そうね」

 蛍の問いにオオモト様は表情を変えずにそう答えた。

「燐は、知っていたみたいでした。わたしは直ぐに気づなかったんですけど、後になってからそれを知りました」

「そう……だったらここがどういう為にあるのかを知っているということね」

 こくり。
 蛍は確信をもって頷く。

 燐があの時に言っていたように、転車台とは本来、列車を上に乗せた状態で回して転回させるものだ。

 今だって使われている路線もあるようだから、もう全て無くなってしまったというわけではない。

 ただ、あの時あったものは本来の用途とは違う働きを持っていたのだ。

 決して、偽装されていたとかではないと思う。

 たまたまあの時はそういう用途としてあそこにあったというだけで、最初から用意されていたとかではなかった。

 あの日の県境の道を塞いでいた、枝と緑で出来た巨大な柵と同じなのだろう。

「あの時のあれって、多分なんですけど、円形の”量子加速器”の一種だったと思うんです。だからあんな事がたまたま起きてしまったんだと……」

 蛍の語尾が小さくなっていったのにはある理由があった。

 それには少しの誇張が含まれていたからだった。

 各地にある量子加速器を稼働した所であの時みたいな、あんな不可思議な現象が起きるとは流石に思ってはいない。

 それは燐とも何度も議論してみた事だったのだが。

 あれは、偶然が引き起こした”稀で特異な現象”なのだろうという結論になった。

 そうそう滅多に起こらない、所謂奇跡の賜物なのだろうとの見解に燐も蛍もなっていた。

 もちろんお互い意論を挟むことはなかったし、ある意味での納得も二人共できていた。

 ただ、一つの疑問があるとするのならば。

「何で、彼らはわたしと一緒になって転車台を押してくれたのでしょう? 欲望を持っていたはずなのに」

 そう、あの人影は欲望のみで行動していた。

 それは幸運であったり幸福であったりと、それぞれニュアンスは少し違っていたようだが。

「変わりたいというのは、欲望でもあるから。そういう意味では彼らと利害が一致したとも言えるわね」

「それは、分かっているんですけど」

 どうしてあの時だけ、こちらの言葉を理解してくれたのだろう。

 動かすのを手伝ってくれたことよりも、そちらの方を蛍は気にしていた。

「確かめればいいと思うわ」

「それって、どうやってですか」

 少なくともここにはあの白い影はどこにも存在していない。

 もし仮に居たってそれはもう別のものになっている気がする。

 あの夜にみんな、変わっていってしまったのだから。

「とりあえず、ここで待ちましょうか。その時が来れば分かるとは思うわ」

「え、でもっ」

 蛍の言葉を遮るようにオオモト様の指がすっと伸ばされる。

 それは蛍の方ではなく、その横の何もない空間を指さしていると思ったが。

「ずっと立ちっぱなしなのも疲れたでしょう。そこにお掛けなさいな」

 そう言われ振り向いた蛍の視線の先にはちょうどひとり座れそうな円柱型のスツールがぽつんと置いてあった。

 いつこんなものがと不思議に思ったが、せっかく勧めてくれたのだからと、蛍は何の疑いもなくそこに腰を下ろす。

 ちょっと固いかなと思っていたが、それは見た目以上に柔らかい素材で出来ているようだった。

 少し硬い大きなマシュマロにでも座っているような、そんな柔らかい感触が尻にあった。

「蛍はこういうのってどうかしら? わたしはあんまり得意ではないのだけれど」

「何がって……あれ?」

 これもいつの間に用意していたのだろう。

 蛍の目の前に白いレースのテーブルクロスを引いた楕円形のテーブルが置かれており、その上には色とりどりの花が生けられた小さな花瓶とカトラリーのセットが向かい合わせに置いてあった。

 テーブルの中央には大きめのケーキスタンドが鎮座されていて、お皿にはリンゴやプラムなどのフルーツや焼いたばかりのスコーンなんかが乗せられていた。

 オオモト様は蛍と同じような椅子に向かい合って座り、陶器で出来たティーポットを持って、カップに何かを注いでいる。

 蛍は思わず両手で目を擦った。けれどそれは幻でも何でもなくて。
 
 まごうこと無き現実のことだった。

「さぁ、どうぞ。あなたのお口に合うといいのだけれど」

 オオモト様はなぜか自信なさげにそう言うと、紅茶を淹れたティーカップを蛍の目の前のテーブルにそっと置いた。

 カップからは芳しい紅茶の香りが漂ってくる。

「は、はい、頂きます……」

 蛍は無下に断るようなことはせず、お皿ごとカップを持ち上げると添えてあった小さなスプーンで中をすくって一口飲んでみた。

 これは、アールグレイだろうかすっきりとした味わいが舌いっぱいに広がる。

 淹れた温度もちょうどよく、砂糖を無理に足さなくても問題のない感じがした。

 だが、蛍は一口飲んだだけでカップをテーブルの上にそっと戻した。

 蛍の口に合わなかったというわけではない。
 むしろ、好みの味なのだが。

「やっぱり、合わなかったかしら」

 それを見てオオモト様は困ったように頬に手を当てていた。

 流石に酷いことをしてしまったと、胸の痛い思いが蛍の胸中にあったが。
 それ以上に。

 何なのだろうかこれは。

 オオモト様と一緒にこういったティーパーティーを嗜むのには悪い気はなかったが、あまりにも唐突過ぎて。

 何故バニーガールの格好をしてこんな何もない所で暢気にお茶を飲んでいるのだろうか。

 そもそも自分はここに一体何しに来たのだろうか。

 蛍はお茶を楽しむとか以前に、その意味の方が気になってしまって、思考停止したように固まってしまった。

 茫然とこちらを見つめる蛍に、オオモト様は小さく笑みをつくると。

「だったら、そっちのケーキならどうかしら? それならきっとあなたのお口にも合うと思うわ」

 そう言って中央のケーキ台を指さすオオモト様。

 それでも蛍はぼーっとした様子をしていたのだが、スタンドの中央のお皿に乗っていたカップケーキを見たとき、何かに弾かれたようにぱちっと目を見開いた。

 それに見覚えがあったとかの問題ではなく、むしろ作った人まですぐに分かってしまったからだった。

 ケーキにこれと言った特徴があったわけでない。
 
 それこそ普通のカップケーキ(ココット)なのだが。

「これってもしかして、”燐”が!?」

 蛍は自分でもびっくりしてしまうほど声をだして立ち上がる。

 突然行われたティーパーティーに蛍は戸惑いをもっていたが、このケーキにだけは現実感というか、懐かしいものでもみたような気持ちになってしまい、思わずオオモト様に問いただしてしまった。

 それがどういった感情のうねりからきたものなのかは蛍も良く分かっていなかったが。

「ええ、そうよ。このケーキは燐が作ったものなのよ。あなたの為に」

「わたしの?」

 オオモト様がそう肯定してくれたおかげで、蛍はようやく安堵を得ることができた。

 この何もない世界もそうだったが、唐突に現れたオオモト様にも疑いの目を内心持っていたのだ、蛍は。

 けれど、それがようやく晴れた気がした。

 燐の名前を口にするオオモト様を疑う必要はないと思ったから。

「さぁ、食べてごらんなさいな。蛍のために作ったものだからきっと美味しいと思うわ」

 そう。満面の笑みで勧められた。

「はいっ」

 蛍は頷くと、台からケーキをひとつ取り、何も置かれていない小さな皿の上にそっと置いた。

 ちらりとオオモト様の方をみるとにこにことこちらをみて微笑んでいる。

 もう一度、尋ねかけそうになってしまうが、それをぐっとのみ込んで持っていたナイフでケーキを縦に切った。

 その半分をフォークで刺すと、そのまま口へと運んだ。

(あっ……!)

 一口食べただけでそのケーキのスポンジの舌触りが心地いいというか、蛍の心が一瞬で温かくなった。

 蛍の奥底でぽろりと雫がひとつ落ちる。

 ふわっとした甘さと口当たりが蛍の大事にしていた心の琴線に触れたように。

 決して美味しくなかったというわけではない、むしろ好きだったからこそ、一口だけで全部分かってしまった。

(燐はそう……そうだったよね? わたしが甘いのが好きなのを分かっているのに、ちょっと甘さを控えめにして作ってくれる)

 彼女なりの気遣いなんだと思う。

 沢山食べても空きがこないように。それとダイエットの為なんかにも。

 マドレーヌの話じゃないけど。
 
 幾つもの言葉を並べるよりも悠然と物語っているというか。

 ケーキを一口食べる度に、彼女の思いの断片を切り取っていくような。

 好意と言う名のナイフで少しづつ切り刻み、ゆっくりと咀嚼していく。

 バターの甘い香りとミルクと砂糖の味わい以外のものがそこには溶け込んでいた。

 それは彼女の想いであったり、愛情だったりした。

 ”会いたい”。

 何よりも今すぐに。

 それが答えだった。

 彼女の想いをこんな形で知ることになるなんて。

 この美味しいケーキの味わいが舌から完全に消え失せてしまう、その前に。

 わたしも、会いたいよ……燐。

 ……
 ……
 ……




The Dream of the Blue Turtles

 

 くまはふぅとため息をついた。

 

「……アイツら、どうやら向こうに行っちゃったみたいクマね」

 

「うん、そうだね」

 

 こくんと頷く燐。

 

 二人は電柱の影に身を潜めながら、あのナニカの群れが通り過ぎて行った先をこっそり見守っていた。

 

 手を繋ぎ合わせながら、身を低くして通りの方をじっと窺う。

 

 べちゃりとした水音のような足音が徐々に遠ざかっていった。

 

 何人かの白い影たちが、燐とくまの後を追ってきたのだが、途中で見失ってしまったようで、一度辺りをぐるりと見渡した後、諦めたのかふらふらとした足取りのまま、道の先の暗がりへと消えていった。

 

 燐とくまは顔を見合わせる。

 

 不快な臭いと音をだす影がいなくなると辺りに静寂が戻った。

 

 でも何故か、それが不気味なものに感じられた。

 

 二人は溜めていた息を一気に吐き切った。

 

 ──高く黒い電柱の影は小柄な少女達にはちょうど良いセーフティーポイントとなっていた。

 

 いつまでこうして隠れられているかは分からないが、アイツ等がすぐさま戻ってくることはなさそうだ。

 

 とりあえずは一安心という所なのだが。

 

「まあ、別に隠れる必要なんかなかったんだよ。あんなやつらなんかボクの指先一つで……」

 

 そう言ってくまは指をひとつ立てるが。

 

「って、聞いているクマか?」

 

「あ……うん」

 

「その顔は、明らかに聞いてなかったくまねぇ……はぁ」

 

 上の空の返事を繰り返す燐に、くまはまた大きく息を吐いた。

 

「あ、ねぇ、それよりもさぁ、一体何なのここはっ。さっきから同じような家ばっかりだし、ここの町って元々迷路で出来ているわけじゃないよねぇ? ボクだってそこまで方向オンチじゃないよっ」

 

 確かにくまの言う通り、あのマンションの敷地からから出た先では入り組んだ迷路みたいな地形になっていて、どの家も塀も同じような形でしかも全部真っ黒になっていた。

 

 それは燐も疑問に思っていたことであり、この町のあの中古のマンションに割と長く住んでいたはずなのに、まるで違う土地に来たみたいに戸惑っていた。

 

 本当に燐の知っている町だったのなら、すぐさま隣町や駅の方にまで簡単に逃げていたことだろう。

 

 なのにいまこうしてぐるぐると町の中を彷徨っているということは。

 

「閉じ込められたのかもしれない。町によく似た、変なこの世界に」

 

「閉じ込められって……!」

 

 ぽつりと零した燐の言葉にくまは一瞬ゾッとした寒気に襲われた。

 

 土地勘のまるでないくまならともかく、この町に住んでたことがある燐がそう言うのだから、反論のしようがない。

 

「やれやれ、そう簡単にはいかないという事クマねぇ」

 

 お手上げとばかりにくまは軽く肩をすくめると、腕を組んで電柱によりかかる。

 

 と、そこで。

 

「ねえ、さっきからどうしたクマ? もしかしてどこか痛む?」

 

「そんなことはないけど」

 

 やんわりとそう燐は否定するも、それでも自分の身体をしきりに気にしている素振りをみせている。

 

 くまがそう指摘しても、燐は一向に止めようとしないので流石に気になってしまった。

 

 見たところ目立った怪我とかはなさそうなのだが。

 

「どっか痛いならみせて見るクマ。ボクが傷をぺろぺろしてあげるっ、クマー」

 

 そう言ってなぜかちょっと楽しそうにくまが両手を上にあげ、掌をわきわきと蠢かせる。

 

 急に突拍子もない事を言われて、燐は身を捩ると両手で身体を覆い隠した。

 

「もう、何をするつもりなのっ!?」

 

「くまくまくま~。くまの唾液には消毒効果があるクマよ。軽い擦り傷なんかはこう……ぺろぺろって舐めちゃえばたちまちすぐに治っちゃうクマぁ」

 

 くまがそう説明をするも、燐は訝し気な目で首を横にふって拒否した。

 

「え~、何か”ばっちぃ”感じするなぁ。よけいに傷が酷くなるような気がするぅ」

 

 茶化すような燐のその言葉にくまはすぐさま反論をした。

 

「失礼なことを言うクマっ! キミ達だって傷を負ったときまず唾を付けたりするでしょっ。それと同じクマっ!」

 

 そう喚くくまに燐は余計に訝しくくまを見つめていたのだが。

 

(わたしと、同じ……?)

 

 不意にきょとんとした顔になった。

 

(そういえば、わたしも前にこういう事を……?)

 

「…………」

 

「……燐? どうしたクマか? 急にぼーっとして。やっぱり傷が……」

 

 急に電池が切れたように燐が止まってしまったので、くまがちょっと困った顔で顔を覗き込む。

 

「あ、大丈夫だよ。どこも痛くないからっ。えっと、心配かけてごめんね。これでもくまちゃんよりも大人のつもりなのにね」

 

 燐は慌てたようにぱっと顔を明るくすると繕った笑みを返す。

 

 その言い回しに少し気になったが、とりあえずくまは話を元へと戻した。

 

「まあ、いいクマ。で、それで結局燐は何を気にしているんだクマ?」

 

「あ、うん……だってさぁ」

 

 燐はまた言い淀む。

 

 それでもくまは黙って燐の話を聞いた。

 

「これってもしかして、わたしが望んだ姿なのかなって……」

 

「望んだもの?」

 

「うん。そう」

 

 燐の言葉を反芻しても全然話が見えてこない。

 

 一体何が、彼女の望んだものだというのだろうか。

 

「ごめん、もうちょっと分かりやすく言ってほしいクマ。ボクでも分かるように」

 

 最早姿だけでなくその背丈すらも殆ど同じだったから、くまは気遣うことなく問いかけた。

 

 前から知っている友達に聞くように。

 

 燐は軽く笑って頷くと、雨粒のようにぽつんと言葉を紡いだ。

 

 普段の燐が滅多には出さない、とても消え入りそうな声色で。

 

「そのさ、この恰好だったら、ずっと、一緒に居られるのかなって」

 

「それって、キミと一緒にいた、あの子(ほたる)のこと?」

 

 分かりやすくって言ったのに抽象的だったけれど。

 多分そうだろうと思ってくまは聞いてみる。

 

 頭からはじき出された答えがそれしか思い浮かばなかった。

 

 燐は静かに頷いて続ける。

 

「わたしもね、同じ気持ちだったの。身体なんてもういらなくて……意識とか情報だけになってもいいからずっと一緒にいたいなって」

 

「それが、思っていたものとちょっと違うのは……まあ、仕方がないとは思うけれど」

 

 口に出した疑問に呼応するかのように、燐のふさっとした毛で覆われた耳と尻尾がぴくぴくっと小刻みに揺れた。

 

 奇妙なアクセサリー程度だと思った獣のものが、もう自分の意思である程度動かすことができているようだった。

 

 それは順応というか、燐の感情に合わせて動いているみたいだった。

 

「ねぇ、燐。キミは……」

 

 くまはつい燐の手をぎゅっと握っていた。

 

 彼女の望みとは、そういうことなのだろうか。

 

 それは自分とは”真逆”のようだけれど。

 

 それでも気持ちは良く分かる。

 きっと、誰よりも。

 

 でも、こうして欲しいのは多分、自分なのでないだろうが、それでも今出来ることはこれぐらいだから。

 

(だからちょっと、この手をボクが借りるね)

 

「あ……」

 

 その思いが伝わったのか、燐の頬がほんのりと紅くなる。

 

 燐は素直な気持ちでくまと向かい合った。

 

「ありがとう。くまちゃん」

 

 燐が恥ずかしそうに口にしながら微笑んだ。

 

 その表情に何故だかくまは少し胸の痛む思いがあったけど、それを誤魔化すように上を向いた。

 

 黒い空には月も星もない。

 

 雲さえもなく、視界に映るのはべったりとしたコールタールのようなどす黒い空がとめどなく広がっているだけ。

 

 町並みも同じように黒一色に塗りつぶされている。

 

 まるで目に映るもの全てが闇に閉ざされているみたいに。

 

 その中でぽつんとか細く光る儚げな街灯に安堵してしまう。

 

 家の窓からこぼれる灯りもあるけれど、そこには誰かいるのだろうか。

 こんな怪物だらけの町で。

 

 日中と夜では町の景色が違ってみえることがあるけれど、それにしたってこれはおかしい。

 

(何ていうか……全てがからっぽみたいだ)

 

 全部がハリボテで出来ているみたいに、空も町並みも同じ気色を繰り返しているみたいに思えた。

 

「この町の出口って、どっか他にないクマか?」

 

 さっきからそれを探してはいるのだが、一向に見つからない。

 

 それだけならまだしも、あの白い何かも追いかけてくるものだから、方向感覚は完全にマヒしてしまっている。

 

 それは地に足がつきながらも虚空を彷徨っている感じにすらなっていた。

 

「ごめん、分かんない……もうわたしの知っている町とは全然違うから」

 

 本当に何なのだろうかこの世界は。

 

 あのマンションの自室のクローゼットやタンスを開けて見たけど、サイズの小さい子供用の衣服や下着ばかりが入っていた。

 

 それは今の自分の背丈にぴったりなものばかりだったが。

 

 なのになぜ、現実感が全く感じられなかったのだろう。

 

 衣服だけでなく部屋の中にも、外にも現実味というものがとても遠いものに思えてならない。

 

 アイツら……あの白い化け物が、こっちの町もいるはずない。

 

 座敷童などいない町なんかに。

 

 本当に、迷い込んでしまったのだろうか。

 

 迷路のように入り組んだこの変てこな世界の中に。

 

 一度入ったら抜け出せない町なんてゲームの中ぐらいしか思わなかったけれど。

 

「何か、空気が違うように思えたの……これはね、わたしの仮定なんだけど……何て言うか”次のステージ”になったような感じに思っちゃったんだ」

 

「それって、ゲームみたいな感じクマね、何か」

 

「そう……かもね。けどアイツ等の目的だって、そんな感じみたいだったし……」

 

「それって、どういうことクマっ」

 

 振り向いてくまは尋ねる。

 

 燐は複雑な顔で話を続けた。

 

「あのマンションの時にさ……くまちゃんも知っていると思うけど、わたしあの顔のない人影に襲われたの」

 

「それで、何で襲うんだろうと思ったけど……あの何かはわたしのことを”狩ろう”としているみたいだった……”迷惑”だからって。好きでこんなのになったわけじゃないのに、さ」

 

 そう言うと燐はそっと目を伏せる。

 

 しかもそれを、よりによって両親の格好をした連中にされていた。

 顔は無かったけれど。

 

 でも、考えだけでぞっとする思いがある。

 

 こうして少し落ち着いた今だからこそ理解してしまうことだけれど。

 

 くまは憤りを隠さずに言った。

 

「全く、随分と身勝手な話だねぇ……まあ、ヒトってそういう所があるクマだから。他とちょっと違っていただけでその存在ごと外へとはじき出してしまうような、排他的なものが」

 

 あの顔のないのっぺらぼうを元は人だとは到底信じたくはないが、本質はそんなに変わっていないような感じはする。

 

 あまりにも野蛮で、品性に欠けているところは人間と変わりなかったし。

 

 まあ、流石にあそこまでの変な格好を人はしていないと思うが。

 

「ふぅ」

 

 燐は息を吐くと、その場にぺたりと座り込んでしまった。

 

 驚いたくまは慌てて声を掛ける。

 

「ちょ、ちょっと、燐。どうかしちゃったのぉ! やっぱりどこか──」

 

 くまが見たときには燐は酷い暴行を受けていたみたいみえたから、隠しているようだけど、やはりどっか痛むのは間違いないだろう。

 

 動物だって傷を受けた時には、他の連中に狙われないよう身を隠して休むものだし。

 

 ねぇ、とくまは軽くちょんと肩を叩こうとしたのだが。

 

「ごめん。ちょっとだけ」

 

「えっ」

 

 燐のその顔を見た時、くまは爪先から頭の耳までびくっとさせた。

 

 ほんの一瞬のことだったが、()()()()()()()に見えたからだった。

 

 ただ、それは錯覚だったようで、普通に燐が俯いて座っているだけ。

 

 複雑そうな表情で苦笑いしながら。

 

「ちょっとだけ……ここで休んでもいいかな? こういうのは我儘だって思っているんだけど……でも、あんなのだって、わたしのお父さんとお母さんだったんだよ」

 

 今にも泣きそうな顔で燐はそう呟くと、膝の上で顔を隠して蹲ってしまった。

 

 くまが何か声を掛けようと手をのばしたが、この様子ではきっと何も答える気はないだろうと思い、その手を元へと戻した。

 

 心身ともに疲れ切ったその表情からは分かったものは。

 

 自分よりも幼く、儚げな少女の姿だった。

 

 ……

 ……

 

「……」

 

 燐の傍でくまは立ち尽くしていた。

 

 ただ、この事に少し既視感も覚えてはいた。

 

(あの時、”蛍”がボクの前からいなくなったときも……)

 

 ”青いドアの家の世界”そのものがマヨヒガだと思っていたけれど、それはこっちの世界でもそうだったんだろうか。

 

 一度入ってしまったら、もう出られない場所。

 

 だから迷い家(マヨヒガ)

 

 言い伝えのような家ではなくそれは閉ざされた世界。

 

 もうここから出れないのだろうか、ボクたちは。

 

 こんな、バケモノしかいない迷宮に閉じ込められたままで。

 

(この世界全体が、ボクたちのことを嗤っているみたい……)

 

 迷路のような世界に閉じ込められた哀れな自分たちを嘲笑っている。

 悪意を持った目でじっと覗き込みながら。

 

 不気味さを覚えたのか、くまは心底不快そうに顔をしかめた。

 

「ごめん……わたし、子供っぽいよね?」

 

 燐は顔を上げずにそう謝罪の言葉を口にした。

 

 不意の言葉にくまは目を軽く見開いたが、すぐに小さく首を横にふった。

 

「別にいいよ。ボクだってちょっと考えたいなーって、思っていたことあったから」

 

 笑いながらそう言うと、くまは燐の隣にすとんと腰を下ろした。

 

「それに、今のキミはどうみても子供クマよっ。だから我がままだとかそういうのは気にすることはないクマ。ボクだって子供だし、ね」

 

 くまは屈託なくにこっと微笑んで燐の手に自分の手を重ねる。

 

 黒い地面はコンクリートとも違って冷たくも熱くもななかったが、重なった掌からは確かな体温を感じた。

 

 暖かい。

 本当に。

 

 その温もりがとても愛おしく感じたのか、手の腹で手繰り寄せるようにすると、きゅっと指を絡めて握った。

 

 それにくまはぴくっと反応を示したが、それ振り解くようなことはせず、代わりに少し強く握り返した。

 

 くまの”ちょっと”は実は結構な力なのだが、燐にはその加減具合が今は心地よかった。

 

 薄暗い街灯の下、しゃがみ込む少女たちの周りで、夏の夜のような生ぬるい澱み切った静寂が流れる。

 

 くまも燐も口を引き結び、それぞれ別のことを考えていた。

 

 一刻も早くここから出るという目的とは別の取り立てて意味のないことであったが、それゆえにとても意味のあることでもあった。

 

 互いが互いを認識し合うための沈黙が、今の少女達には何よりも必要な時間だったのだ。

 

 目指すものも分からず、見知らぬ街を闇雲に走り続けることは、体力よりも精神のほうが先に疲弊してしまう。

 

 ふたりにもそれは嫌というほどよく分かっていたから。

 

 互いの手を握りながら、意識は内面にだけに向けていた。

 

 危ないかもとは思っていても。

 

 ……

 ……

 ……

 

(本当におかしくなっちゃった時は、その事にすら気付かないとか言うけど)

 

 今の自分も、そうなっているんだろうか。

 

 なにかの指針のようなものが、この世界の中ではまるで見当たらない。

 

 暗礁の広がる真っ暗な夜の海を延々と泳がされているような、不安と焦燥感ばかりが膨らんでいってしまう。

 

 ただ唯一、はっきりとしていることがあるとするのならば。

 

(あの時の、記憶……)

 

 燐は旧小平口町で起きた異変の事を考えていた。

 

 あの時だって町から抜け出す方法なんかないと思い込んでしまっていた。

 

 その中で知りたくなかった真実にも触れ、秘めていた想いは絶望に変わっていって……最後には自暴自棄にすらなっていた。

 

(あの時も、出口という概念はなかったけど……)

 

 現実に戻ることだけは一応だけどできることができた。

 

 ただ、その後のことはあんまり口にはしたいことではないが。

 

 これもあの時と同じようでもあるし、何か根本的な違いがあるようにも感じる。

 

 今だって、自分の事ももちろんそうだが、この世界に対しても何一つ分かっていない。

 

 現実との違いはもちろんあるのだが、そこにどういった理由や目的があるのかが未だ不明のままだった。

 

 ここが本当に青いドアの世界の一部なのかすらも疑わしく感じるほどに。

 

 もし、夢と現実の境界がこんな場所だというのなら、なんて空虚で暗い所なのだろう。

 

 暗闇と欲望しかない世界なんて。

 

 こんな変な邪魔なものを体につけているぐらいだし、もう自分ではない別の()()()に変わってしまったのかもしれない。

 

 まだぎりぎり正気のようであったり、存在が二つに分かれたりしていないというだけで。

 

(もし、これが誰かの見ている夢の中……とかだったらまだいいんだけど)

 

 そのほうがまだ少しは救われるような気がするから。

 

 一方のくまも珍しくぐるぐると考え込んでいた。

 

(う~ん、いくら考えても何も答えがでないよぉ! こんなのはボクの中でも前代未聞のことだし)

 

 全く前例がないというか完全にお伽話の世界だ。

 

 夢ならば一刻も覚めてくれと願うばかりだったが、むしろぱっちりと目も頭も冴えてしまっている。

 

 もしかして興奮しているんだろうか、こんな奇妙な世界なのに。

 

(まさかだとは思うけど)

 

 くまは片手で自分の腰を辺りに触れてみた。

 

 安心したようにそっと息を吐いた。

 

 それにしても、自分自身もそのように不思議な存在だと思われたことは良くあるけど、世界の方がそうなるなんてことは流石になかった。

 

(そういえば、どこかの町にもとても奇妙な事が起きたっていう話しを聞いたことがあるけど……それって、まさかねぇ)

 

 くまはちらりと隣を見やる。

 

 燐はまだしゃがみ込んだままで一度も顔を上げようとはしない。

 

 その時の生き残りのひとりが彼女だと聞いてたけれど。

 

(でも、本人は否定しているんだよね。じゃあ一体何が真実なんだろ……?)

 

 分からない事だらけなのはこっちの方なんだよね、実際には。

 

「はぁ……」

 

 燐とくまは同時にため息をこぼした。

 

 少女達の視線が重なり合う。

 

 そのタイミングでくまは燐に話を振ってみた。

 

「ねぇ、ひとつ聞かせてもらってもいいかな」

 

 こくりと燐は頷く。

 

「さっきのさ、あの顔のない白いのが元が人間だったって言ったよね? もしかしたらアレに前に出会ったことがあるの? まぁ、答えたくないのなら無理には聞かないけどさ」

 

 くまは、ちょっと気になったものだからと言って軽く微笑む。

 

 一方的に喋るくまだったが、燐はそれを黙って聞いていた。

 

 だが、言葉尻に違和感のようなものを覚えたのか、燐は少し顔を持ち上げてくまを見つめた。

 

「あのね、ボク……アイツらから悪意のようなものをひしひしと感じるんだ。だから、襲ってくるようなことがあれば今度は容赦しないつもりだよ。そのせいでアイツ等が死んじゃったとしてもボクは何とも思わない。争いっていうものはそういうものだから」

 

 くまはぎゅっと拳を握って静かな声でそう言った。

 

(くまちゃん……)

 

 とても意志のある強い言葉だと燐は思った。

 

 この子はとても強い子なのだろうと思う。

 

 きっとこうしてひとりで何にでも戦ってきたんだろう。

 

 自分とは違って。

 

 この幼い少女は、見かけ以上にずっとずっと強くて逞しくて優しくて……。

 

 それゆえに孤独でもあるようだった。

 

「そっか、凄いねくまちゃんは。”クマ”だけのことはあるね」

 

 燐は否定することなく頷く。

 

 きっと何を言ったとしても聞かないだろうし、それにその強い意思の前では自分の言葉なんてずっと軽いものだと思ったから。

 

 それに。

 

(ここは、多分夢の世界なんだから……きっと何らかの罪に問われるようなことはないと思うし)

 

 もっとも、ちゃんと目が覚めてくれればの話なのだけれど。

 

「ねぇ、くまちゃんはどう思う? この世界って夢なのかなぁ、それとも現実のことだと思う?」

 

 そう聞かれたくまは首をうーんと捻ると、ちょっと煮詰まったような声をあげた。

 

「ボクにもよく分からないクマよ。何だか分からない内に変な世界に連れてこられてきたわけだし」

 

「そうだよね」

 

「でも、夢とだと言えば夢なのかもしれない。けれど、それを否定するだけのものがないっていうか……」

 

 夢から覚めなければそれが現実となる。

 

 あの時、自分が望んでいたものとそれは同じもので。

 

「全部が曖昧なんだよね。なんか」

 

 ぼそっと燐が呟いたときだった、不意に手がぐいっと引っ張られる感覚があったのは。

 

 燐は目を丸くする。

 

 くまが不意に立ち上がって燐の手を引っ張っていたのだが。

 

「もうっ、ここはキミの世界なんだから。もうちょっと頑張れクマ。ずっと夢に囚われ続けるのも、ここから出るのも燐の自由なんだからっ」

 

「わたしの、世界……?」

 

 燐はくまの方を向く。

 

 街灯に照らされたくまの顔は星のない夜空に浮かぶ、あるはずのない月のようだった。

 

「……じゃあ、もし、わたしがそれを望まなかったら?」

 

 小声で燐が訊ねる。

 

「その時は……まあ、その時だよっ」

 

 そう言ってもう片方の手をしゃがみ込んでこちらをみる燐に差し伸べた。

 

「ほ~らっ、早く立つクマっ。こんな所で座り込んでいたって何も解決しないクマよ。”熊の道も一歩から”ってよくいうクマ」

 

 燐はその手を取りながら苦笑いする。

 

「そんなのって、わたし聞いたことがないけど」

 

「そうクマ? まあいいじゃない。あ、でも勘違いしちゃ駄目クマよ?」

 

「?」

 

「ボクの為とか思っちゃ駄目だよ。燐が自分の為に動くって決めなくちゃ」

 

「どうして?」

 

「それはね。そうじゃないとね──」

 

 くまがそう言った瞬間だった。

 

 燐の瞳には別の人物の姿が唐突に浮かび上がっていた。

 

 それはこちらを見つめながら、耳もとにそっと告げる。

 

 聞き覚えのある、とても優しい声色で。

 

”あなたはまた、同じことを繰り返してしまうわ。自分を好きにおなりなさい”。

 

「どうしたの? 燐?」

 

 様子がおかしいと感じたくまが燐の小さな肩を揺さぶった。

 

 だが、それに反応をしない。

 燐はぽかんと口を開けたまま、虚空を見つめている。

 

 ガラス玉のようになってしまった燐の瞳を覗き見たくまは流石に声を荒げた。

 

「ねぇ、燐……燐……!! どこに行っているクマっ!!!」

 

 必死に呼びかけるも、燐は瞬き一つもなくずっと目を開いたままになっている。

 

 息をしているかも疑わしいぐらいに身体から力が抜けていた。

 

 瞳の奥は空と同じで真っ黒になっている。

 

 戦慄を覚えたくまだったが、最悪これでダメなら頬の一発でも叩こうかと思ったのだが。

 

 くまがそう決意するその前に。

 

「あ……れ……?」

 

 燐がぷはっと肺の奥から空気を吐きだしたみたいに、言葉を発したのだった。

 

(い、今のって……!?)

 

 ぱちぱちと燐は何度も瞬きを繰り返す。

 

 しょげていた燐の頭の耳と尻尾も。その目覚めとともに元のふさふさしたものにピンと戻っていた。

 

「ふおおぉっ……!」

 

 くまは思わず嘆息の声を漏らすと燐の首元に抱きついた。

 

「ちょ、ちょっとくまちゃん……!」

 

 くまがぎゅっと強く抱きついてくるからとても暑苦して、息苦しい。

 

 密着した箇所から香る甘い匂いはお菓子みたいだから好きだけれど。

 

「もぉっ! 一人でいっちゃ駄目クマよっ! キミはそういうの引き付けやすい感じするからっ」

 

 背中に手をぎゅうっと這わせられて、くまに強く抱きしめられる。

 

 燐は呆然とした様子で耳元の言葉をまだからっぽの頭で聞いていた。

 

(そうなのかな……わたしって、そんな変な体質だったの?)

 

 自分ではよく分かっていないことだけど。

 

 霊感とかそんなオカルトチックなのは今まで誰からも、蛍からだって聞かれたこともないけれど。

 

「とにかくっ、一刻も早くこんな変な世界からでよう! ボクはまだあのケーキを一切れも食べてないクマよっ」

 

(ケーキか……そういえばわたし、この世界に来る前には作ってたんだった)

 

 もう随分と前のことみたいに思える。

 世界が変わっていく瞬間までやっていたはずの事なのに。

 

 味身すらもしていなかったけれど、上手に出来ていただろうか。

 

(確か、オオモト様と一緒に作ったと思ったけど)

 

 彼女もこちらには来ていないみたい。

 

 向こうとは異なる世界に飛ばされてしまったのは、この子と自分だけのようだった。

 

 燐ははっとなって目を大きく見開くと。

 

「ごめんね。もう大丈夫だから」

 

 そう言ってくまから少し身を離すと、くまの手を取ってゆっくりと立ち上がった。

 

 くまがじっと見つめていることに気付いて燐は声をかける。

 

「えっと、わたしの顔に何かついてる?」

 

「べ、別に、クマ……」

 

 ぴくぴくと少女達のキツネとクマの耳が左右に揺れ動く。

 

 触れるようで触れ合わない何とももどかしい動きではあったが。

 

 それが少女たちの距離感でもあった。

 

「ごめん」

 

「えっ?」

 

「ダメだよね、こういうの。わたし、慣れてるとばかり思ってたんだけど。でも、ありがとう、わたしのこと一生懸命に呼んでくれて」

 

 燐は赤くなった目を手の甲で拭って軽く頭を下げた。

 

 くまは一瞬きょとんした表情になる。

 

「うんっ。クマっ!」

 

 けれど、そんな燐を見てくまも微笑んだ。

 

「あ、そういえば、さっきの変な諺って、もしかしてくまちゃんのオリジナルとかなの? そういうのを創るのが好きとか?」

 

 とてもワザとらしい誤魔化し方だとは思ったが、くまは一瞬口をぽかんとさせると、ややあって照れ笑いを浮かべる。

 

「まあ、割と好きかもね、今度燐も教えてあげるクマ」

 

 得意げにいうくまだったが、それを燐は軽く笑うと。

 

「くまちゃんって本当に面白いよね。きっとこの先もずっと変わらないんだろうなぁ」

 

 そう言って少し遠くを見る。

 

 黒い塀に囲まれた道の向こうでは夜の海のような漆黒が、波のように流れていた。

 

 それは風で揺れる葉の流れというよりも、黒い棘みたいな岩山が連なっているように見えた。

 

 その上にはとても巨大な……それこそどの位の高さがあるのかも分からないほどの黒い山脈のようなものがそびえていた。

 

 黒一色で距離感は掴めないが、かなりの標高のある山に見えた。

 

 何でそんなものがここにと、燐は不思議に思ったのだが。

 

 その中腹辺りに目をやったとき、その目が止まった。

 

「……!!」

 

 ごくりと息をのみ込む。

 

 黒しかないと思われた背景に違う色を見つけたからだった。

 

 たった一つの──白色。

 

 そしてそれは、燐も知っている形をしていた。

 

「あ、そうか……そういうことなんだ」

 

 燐はようやく最後のパズルのピースを見つけたような、そんな気持ちになてつぶやく。

 

 そういえばそうだった。

 

 あの時だって、全部あそこからだった。

 

 それを見つけた時も、知った時だって。

 

 そこから始まって、そして……。

 

「ねぇ、くまちゃんっ」

 

「う、うん」

 

「わたし達が行くべきところが分かったの。きっとそこに出口もあると思うんだ」

 

 少し陰っていた顔をぱあっと明るくして燐はくまにそう言った。

 

 くまは何が何やら分からずに戸惑った表情を浮かべていたが。

 

「さあっ、行こっ!」

 

 燐がくまの手を引いて再び走りだそうとする。

 

 その変貌ぶりに一抹の不安をくまは覚えて思わず声を出した。

 

「ね、ねぇ、行くってどこに?」

 

 燐は複雑な表情のまま答える

 

「ほら、あそこに見える風車のところに行きたいんだ」

 

 苦笑いして微笑んだ。

 

(風車? そんなのものがどこに?)

 

 くまがきょろきょろ辺りを見渡している内に、燐は大きな通りに出る周囲を窺う。

 

 あの変な臭いも、音も今はしない。

 

 しばらく待っても何もこなかったのだから、今なら通りに出ても安全な気はした。

 

 まだどこからか”何か”が出てくるかもしれないが、これ以上待っても何も変わらないだろう。

 

 今がチャンスだと思った。

 

(そうだ。あそこにさえ行ければ……きっと!)

 

 蛍ちゃんにだってきっと会えるはず。

 オオモト様やサトくんにも。

 

 きっと、きっとそうなんだ。

 

 それがここに来た目的であり、そしてこの世界の出口でもあるはず。

 

(もしかしたら、この歪みすらも……)

 

 燐は頭の耳を軽く触る。

 

 柔らかい毛並みは、とても自分のものとは思えないぐらい。

 

 サトくんの身体に触れていた感触と少し似ていると思った。

 

 ……

 ……

 ……

 

「白い、風車……クマか?」

 

 くまは燐の横で走りながらもう一度不思議そうに首を傾げた。

 

「そこが、多分出口なんだと思う、この世界の」

 

「そうなの? でもボクにはよく分からないクマよ」

 

 くまは正直にそう言った。

 

「ほら、あそこの事だよ! ねぇくまちゃん、見える?」

 

「えっと、ボクには……」

 

 燐にそう言われても、くまがどう目を凝らしたところで、その大きな瞳には黒い切り立った背景しか映っていない。

 

 燐の言うような、白く細い鉛筆のような風車はどこにも見当たらない。

 

 真っ黒い背景に影絵のような山が張り付いているというだけで。

 

「あれ、そう? あ、ここからはどうかな。ここからならさっきよりもはっきりと見えるかも」

 

 燐はそう言って不意に立ち止まると、黒いアスファルトの端の方にまで寄った。

 

 その先では奈落の底のような崖がぽっかりと口を開けている。

 

 一応ガードレールもあることにはあるが、それも真っ黒で周りの景色との見分けがつかなかった。

 

「まだちょっと遠いけど、さっきよりも大きく見えるよっ」

 

 なぜだか楽しそうにそこに指を差す燐。

 

 だがくまは困惑した表情のままで細い首を横に振っていた。

 

「それでも見えないのかぁ。うーん、おかしいなぁ」

 

(もしかして、青いドアの家の時と景色と同じで、わたししか見えないものなのかも……)

 

 くまのその様子からするとそれが推測される。

 

 あれは未来のものではないと”あの人”は言っていたけれど、それは視てしまったことへのものだったのだろうか。

 

 燐はふむと言って軽く腕を組む。

 

 そして不思議そうに見ているくまに苦笑いをすると。

 

「ごめんね、ちょっとだけいいかな?」

 

 何の事かは分からなかったが、とりあえずくまは頷いた。

 

「クマっ?」

 

 燐は顔を近づけてくまの瞳を覗き見る。

 

 突然そんな事をされて、無防備だったくまは一歩たじろいだ。

 

 まるで小さな宝石をちりばめたようなくまのその瞳の奥を見て、燐は一瞬はっとなったが。

 

「ありがと。大体分かったから」

 

 そう言ってくまから顔を離した。

 

「どーゆーことクマ」

 

 うんうんとひとりで納得している燐に、くまは不満の表情を見せる。

 

 何かを確認してたように見えたが、それが何なのかくまにはイマイチ把握できなかった。

 

「あ、そうだね……ごめんね、前にもさ、こういう事があったの。わたししか見えないようなものが、まだあるんだなぁって」

 

 燐は視線をまたその黒い山の方に向けた。

 

 黒々とした木に覆われているように見える山には、燐が言うような白い風車など、山のどこを見てもない。

 

 ただ、嘘を吐いているようにはみえなかったから。

 

「そういえばさっきも」

 

 何もない所を燐は見ていた。

 

 もしかしたらそれと何か関係があるのかとくまは思ったのだったが。

 

「まあ、でも。わたしが見えているから大丈夫だよ」

 

 あの時みたいなコンパスはないけど。

 

「変なこと言ってごめんね。きっとそこまで辿り着けると思うから」

 

 そう言ってくまの前に燐は手を差し出す。

 

 全く不安がないというわけではなかったが。

 

「おーけー。こうなったら、行ける所まで行ってやるクマっ!」

 

 くまはぱっと燐の手を取ると、くまの方から走り出していた。

 

「わっ!」

 

 これには流石の燐も慌ててしまったが。

 

 脚がつんのめって転びそうになってしまいそうだったけれど、何とかバランスを整えてくまについて走り足す。

 

 くまはそれを見てくすくすと笑いたした。

 

「ボクを出し抜こうなんて十年、いや千年早いクマよっ! クマの方がキツネなんかよりもずっと強くてかしこいんだからねっ!!」

 

 そう言って心底楽しそうに笑うくまに燐は呆然としてしまうが。

 

「ねぇ、それよりも、行く方向って分かるのっ!? 風車が見えてないのに」

 

 燐のその指摘にくまはぴっと自分の顔を指さした。

 

 何のことか分からず燐は首を傾げた。

 

「ボクはキミよりも鼻が利くってことクマよっ。”案ずるよりクマが易し”ってね!」

 

 笑いながらそう言うくまに燐は困った顔ではぁと息を吐いた。

 

「また、変な言葉言ってるぅ。けど、それってさっきから全然意味通じていないから」

 

 二人は顔を見合わせて笑った。

 

 走りながらこういった普通の会話を続けられること自体とてもおかしなことのはずなのに、くまどころか燐すらもそれを変とも思わなかった。

 

(まあ、でもこれはこれでいいのかもね)

 

 くまは、ほっと胸を撫で下ろす。

 

 一体何があったのかは分からないが、行先が決まったのなら問題ないはずだ、と。

 

 ぐずぐずと迷っているよりかはこっちの方が自分にも合っている。

 

 それにもし、目指す先が見えないままでも、自分が守ってあげればいいのだろうと。

 

 そう思っていた。

 この時までは。

 

 燐は前だけをまっすぐに見ながら、さっきよりも少し足を速める。

 

 くまも負けじと燐の横に並んで、同じ速度で足を前に動かした。

 

 ……

 ……

 ……

 

 

「で、何でアイツ等がこんな所にわらわらとたむろっているクマか?」

 

「そんな事、わたしに聞かれても……」

 

 小声で憤るくまに燐もぼそぼそと囁き声で言葉を返した。

 

「多分だけど。待ってたんじゃないかな、わたし達がここを通るのを」

 

「つまりこの先にキミの言う出口があるってことクマか?」

 

「出口っていうか……風車のある山へ行く道だと、思う」

 

 ぼそりとこぼした燐の言葉にくまは成程と同意を示した。

 

「それにしても」

 

 くまは塀の影から覗き見ながら、少し離れた所でうろうろと徘徊をしている白い影達を見て呟く。

 

「あんなのでもそれなりに知能はあるんだクマねぇ。かなりの数がそこに集まってるみたいだし」

 

「そうだね」

 

 くまの言う通り、この町に居る全ての人影がここに集中しているみたいに、街のその一角だけが白い者たちでぎゅうぎゅうになっていた。

 

 足の踏み場もないというほどというわけではないが、ざっと見ただけでも2、30人程度はいるようだった。

 

 ただ、それほど広くないところにあれだけの数がいたら、こちらを捕まえるどころか身動きすら満足に取れないだろうに。

 

 やはり見た目通り見えていないのだろうか。

 感覚のようなものが優れているだけで。

 

「まるで明かりにたかる昆虫みたいクマね、連中は」

 

 だが、ヤツラが惹かれるのは単純な明かりなんかではない。

 

 多分、自分達の方だ。

 

 何としても捉えて、それで抵抗をするなら暴行までして、そして……。

 

「大丈夫? ちょっと顔色が悪いクマよ?」

 

「え、えっと」

 

 すぐ隣で心配そうに見るくまに燐は軽く手を振って見せた。

 

「大丈夫、気にしないでもいいよ。それよりもさ、くまちゃんはどうしたらいいと思う?」

 

 何となくその答えは分かっていたが、それでも燐は聞いてみることにした。

 

 自分ひとりだけがそれを下せるものでもなかったから。

 

 だがやはり、くまは予想通りのことを言った。

 

「まあ、強行突破しかないクマね。ついにボクの実力を見せつける時がきたってことクマ!」

 

 案の定の答えに燐ははぁと息を吐いて、おでこの辺りを手で押さえた。

 

 ある程度好戦的であるのは、野生動物のもつ生存本能である……そうくま本人が語っていたけれど。

 

(まだよく分からないんだよね……あの白い影の事が。あの異変の時に現れたものとは何かが違う気はするんだけど)

 

 それがなんなのかが未だはっきりしないから、最後の一線の踏ん切りがつかなった。

 

 ただ、前にアレを、生白く動くさまから”蛆虫”みたいだと思ったことがあったけれど。

 

 その正体を知ってもなお、その考えは燐の中で些かも変わっていない。

 

 むしろ数年ぶりに見てしまったせいか、よりおぞましいものに感じてしまう。

 

 人が蛞蝓でも寄生された姿みたいな。

 ひどく醜悪なものに。

 

「いっそ、車でもあればなぁ。あんなの簡単に突破できちゃうのに」

 

 あり得ないことを燐はつい零していた。

 

 あの日、軽自動車を無免許で初めて運転したときはすごく怖かったけど、同時に頼もしくも思っていた。

 

 ライトグリーンの軽自動車の鉄の車体は、あの日の蛍と燐を人影の脅威から確実に守ってくれていたのだから。

 

 ガス欠になってしまうまでは。

 

 その言葉に隣のくまがむっとした表情になる。

 

「もう、何を言っているの? そんな都合よく車なんかがあるわけないでしょ。もっと現状に目を向けるクマ」

 

 可愛らしい熊の耳を付けた少女に、そうぴしゃりと言われてしまった。

 

 確かにこんなところで現実逃避している暇なんかはない。

 

 こうして隠れられている内はまだ良いが、もし見つかってしまったら流石に面倒なことになる。

 

 連中は数だけは多いのだから。

 

「じゃあ、やっぱり行くしかないってこと?」

 

 念を押すようにくまに聞く。

 

「燐だってさっきそう言ったじゃないか」

 

「でもさ、隠れていればまたどこかへ行くかも?」

 

 燐はこそっとくまにそう耳打ちした。

 

 あの異変の時も何度もこうやって隠れてやりすごしたから、今もそうするつもりだったのだが。

 

「くまはもう我慢出来ないクマっ!」

 

 そう小さく叫ぶと、燐の隣でしゃがんでいたくまが突然立ちあがる。

 

 慌てた燐はくまを制止しようとその手を引っ張ってしゃがませようとしたのだが。

 

「あっ」

 

 だがくまはそれをぶんと振り払うと。

 

「強者が弱者にこそこそ隠れ回るなんてこと、ボクはもう我慢できない」

 

 そう言って人影達を睨みつける。

 

「で、でもっ」

 

「燐はここで待っているクマ。すぐに片づけてくるからっ」

 

 くまはにこりと笑う。

 

 けれど振り向いたときに見えた瞳は、血のように真っ赤になっていた。

 

(さっきのときと一緒だ……)

 

 ひとつ誤算があった。

 

 燐と一緒にいたのは、蛍でもサトくんでもない。

 くまというまだよく知っていない少女だった。

 

 少し興奮しやすい感じというか、危なっかしく思っていたが。

 これほどとは思ってはいなかった。

 

 どうやら測りそこねていたのかもしれない、この少女の事を。

 

 幼さというものは時として残虐であるということを燐は理解できていなかった。

 

「よく見ておくクマ。百獣の王がアイツ等をぎたぎたに無双するところをねっ!!」

 

 くまはアイツ達に聞こえるようにそう吠えると、物陰から飛び出して、こちらをまだ認識していない人影達に向かって行く。

 

「ぐおおおおおぉぉっ!!!」

 

 華奢な体に似遣わない声を上げながら、くまは果敢にも白い人影の群れに突進していく。

 

 実際の熊は犬のような鳴き声を発するようだが、この少女は違う様だった。

 

 それこそライオンのような雄叫びをあげている。

 

 腹の底から響かせるように出したその声は、見た目幼い少女が発した声だとは分からないだろう。

 

 燐だって目をぱちくりとさせているほどだったわけだし。

 

 だが連中は耳が遠いのか、くまの存在に気付いていないみたいに口をあんぐりと開けたまま挙動不審に首だけを動かしている。

 

 目や鼻だけでなく、耳のような器官もないから分からないのかもしれないが。

 

「えっ!?」

 

 くまの後ろ髪を見た瞬間、その長い金色の髪にまるで星が降り落ちたように髪の先端からきらきらと輝いていく様を燐はこの目ではっきりと見た。

 

 どこからか降ってきた光が髪だけではなく少女全体を包んでいる。

 

(これが、くまちゃんの本当の姿なの? すごく綺麗だとは思うけど)

 

 まるで、他所の星から来た人みたい。

 

 時間の概念が無くなってしまったようにすら思えるほど、燐はくまのその変化した姿に見とれていた。

 

 これから始まるであろう惨劇のことを思ったら、そんな幻想めいたものは一瞬で消え失せてしまう事だろうと思うが。

 

(──そうだ、くまちゃんは本気でアイツらを……!)

 

 それまで分からなかった、その人の持つ”力の強さ”みたいなものが何故か今の燐ははっきりと分かるようになっていた。

 

 これは感覚なのだが、あの白い人影の集まりよりも、彼女一人の方が圧倒的に強いだろう。

 

 それは決して悪いことではないのだろうが。

 

(きっと、手加減なんかはしない。容赦なく叩き伏せるつもりなんだ……!)

 

 その瞬間燐の脳裏にあの時のヒヒの姿が浮かぶ。

 

 血で濡れた鋸を振るい、楽しそうに白い影たちを蹂躙していた……従兄の片割れの姿とくまがダブって見えてしまう。

 

 殺戮を繰り返したあげく、積み重なった白い死体の前で、ひとり血の池に立つ少女の姿を燐は想像してしまった。

 

「だ、ダメぇっ!!」

 

 燐はそう叫ぶと、くまの後を追って猛然と走りだした。

 

 どうしてそうしたのかは自分でも良く分からかったが、先に飛び出したくまを必死に追いかける。

 

 それは先ほどなんかよりも比較にもならないスピードで。

 

 それこそ、目にも止まらない速さでくまに追いつくと、今にも振り上げようとした手を取ろうと思ったのだが。

 

「あぁっ!」

 

 掴もうとしたその手がするりとすり抜けてしまう。

 

 手が滑ったとかではなく、勢いがつき過ぎた燐は思わずくまのスカートの端の方を掴んでしまった。

 

「うわわっ!!??」

 

 後ろから引っ張られたくまは無様にも顔から地面に転倒してしまう。

 

 何か起きたのか分からず、つい大きな声を上げていた。

 

「……? ナンダァ……!」

 

 その声に気付いた何かがこちらを振り返ってしまう。

 

 つられて他の人影もこちらを振り向いていた。

 

 燐とくまはもつれ合った状態で地面に突っ伏していたが。

 

「ご、ごめん。大丈夫?」

 

 先に起き上がったのは燐の方だった。

 

 頭を手で押さえているが、特に痛みはない。

 何かがクッションになってくれたのだろうか。

 

 燐がそれを確かめようと手を伸ばすと、掌に何かとても柔らかいものが触れた。

 

 一体何だろうと燐が目をこらすと、そこでは。

 

「い、いつまでボクの上に乗っているんだクマかぁ……! 早くどいてよぉ」

 

 地面の上に大の字でのびているくまの上に燐はまたがっていた。

 

 涙目のくまに凄い顔で睨まれた燐は、慌ててそこからぴょんと飛びのく。

 

「ご、ごめんねっ、立てる? あ……」

 

 そう言ってまたすぐに謝って手をかそうとしたのだったが、その際にくまのスカートがめくれ上がってしまったことに気付く。

 

 燐はそれをすぐに直してあげようとしたのだが。

 

 あるものが目に入ってしまった。

 

「あれっ? くまちゃんって……尻尾が無いんじゃなかったの!?」

 

 一緒に温泉に入った時になかったくまの尻尾が、小さなベージュのパンツのその上に、腰の下あたりに綿毛のようにぴょこんと生えていた。

 

 燐は我を忘れたようにそれを凝視してしまう。

 

 視線を感じたくまが、ばっと跳ね起きると。

 

「ちょっとぉ……! もしかして、ぼ、ボクって見た、クマか……?」

 

 くまはスカートごと手で尻を押さえて、慌ててしっぽを隠した。

 

 もう十分遅いことなのだが。

 

「う~~っ」

 

 くまは大きな瞳を潤ませながら燐を睨みつける。

 

 怒っているというよりも羞恥で顔を真っ赤にしているようだった。

 

「ご、ごめんねぇっ。そんな事をするつもりはなかったのっ」

 

 再度、燐はくまに手を合わせた。

 

 くまはまだ顔を赤くさせながら、ぺたんと地面に座り込んで頬をむくれさせている。

 

 燐はあははと作り笑いを浮かべる。

 

「でも、やっぱりくまちゃんも、しっぽって生えているんだね。今まで分からなかったけど」

 

 つい燐は素朴な疑問を口にしていた。

 

 くまは恥ずかしそうに小さく口を開けて答えた。

 

「ふ、普段は隠しているクマ……”能ある熊は尻尾を隠す”って言うから……」

 

 また聞いたことがない単語をくまは口にしていた。

 

 けれど燐が気になったのはそこではなく。

 

「ねぇ、どうやってしっぽって隠すの? わたしも是非教えてもらいたいな~。やっぱりこんなの生えてたら恥ずかしいし」

 

 どうせそれを見るのは目の前の少女ぐらいしかいないのだが。

 それでも燐はくまに頼み込んだ。

 

 思ってもみないことを燐に訊ねられて、くまはぽかんと口を開けた。

 

 そんな事を聞かれたことなどくまはこれまでなかった。

 

 もっとも、自分と同じような”半獣”な人間を今までに見たことがなかったせいでもあったが。

 

「燐……やっぱりキミは……」

 

 くまは差し出された燐の手を取りながら立ち上がると、スカートについた汚れを振り払った後、燐の事を見つめた。

 

「……くまちゃん?」

 

 燐が戸惑った声を上げた時だった。

 

「モシモシ」

 

「へっ?」

 

 不意に声を掛けられて、燐はちょっと変な返事をしてしまった。

 

 だがその声はくまなんかではない。

 

 こんな奇怪な嫌な感じの声を出すものと言ったら。

 

 燐とくまはおそるおそる声のした方を振り向いた。

 

 そこには。

 

「自分モ、混ゼテモラッテモ、イイスカ……?」

 

 不快な臭いと下品な声の白い顔の主が、耳までざっくりと裂けた赤い口をにやつかせて立っていたのだ。

 

 元は若者だったのだろうか、よれよれの派手な柄のシャツを着て、足には踵のつぶれた薄汚れたスニーカーを履いている。

 

(あっ!?)

 

 二人の視線がいっぺんにそこに注がれた。

 

 いつの間にこっちに来たのだろう。

 くまも燐もそう疑問に思ったが。

 

 実際に人影が現れたのは少し前のことだったが、二人には突然現れたように見えたのだった。

 

「ぐっ、コイツらっ……!!」

 

 鋭い視線でくまがにらみつける。

 

 少女達の周りにはいつの間にか顔のない、あの白い人影たちが続々と集まり、周りを取り囲もうとしていた。

 

 驚く二人の前に白い人影が路地の裏側からも現れる。

 

「オイ、コッチダ……!」

 

「SSR……イヤ、URカ? 滅多ニ見ナイ超レアモノダゾコレハ……ケモ耳ナンテ!」

 

 人影たちは口々に意味不明な言葉を発しながら、きちんと横にならんでこちらに向かってくる。

 

 無駄に身体が大きいせいか、数人並んだだけでも狭い路地を完全にふさいでしまっている。

 

 それらは二人の前方からだけでなく、横の小径や後ろの路地からも湧きだしていた。

 

 この分だと、この”何か”に掴まってしまうのも時間の問題だろうと燐は思ってたのだが。

 

(でも、これって……まさか)

 

 アイツらの罠、とかだったのか?

 

 到底、考えたくはないことだったが、欲望しかないと思われていた連中にも、知性の欠片のようなものが備わっていたみたいだ。

 

 それが燐の感じていた違和感の正体だとするのなら。

 

 燐はまだうまく状況をのみ込めないくまの手を無理やり取ると。

 

「こっちに逃げるよっ!」

 

 燐はくまの手を握って、指示を出す。

 しかし、くまは。

 

「ちょ、ちょっと待つクマ、ボクは逃げるなんて言って……い、痛っ……!」

 

「くまちゃん!?」

 

 くまは言葉を言い終わる前に苦悶の表情になっていた。

 

 よく見ると、くまの右足首の辺りが腫れてしまったように真っ赤になっている。

 

 さっき倒れた際に足でも捻ったのかもしれない。

 

 立つことぐらいはできるようだが。

 

「キミはボクに構わず行くクマっ。ボクならこんな奴ら片手でも大丈夫だから……」

 

「そ、そんなのっ! 出来るはずないよっ。くまちゃんを置いていくなんてっ!」

 

 とりあえず燐はくまに肩を貸すと人影から背を向けて歩き出した。

 

 だが、その間にも人影達はゆっくりと間合いを詰めてくる。

 

 一気に襲い掛かってこないのは、狩りを愉しんでいるようだった。

 

 手負いの獲物がじんわりと弱っていく様子を眺めるように。

 

「どうせ、ボクは見えないんだから、だから燐は先に行ってっ……!」

 

 額に汗を浮かべながらくまは苦しそうにそう言葉を出す。

 

 だが燐はそれに耳を貸さず、横の狭い路地の間を抜けようとした。

 

 これならマンションの時みたいに追ってくることはできないだろうと、そう思ったのだが。

 

「嘘でしょっ!! こ、こっちからも来てるっ……!」

 

「このままじゃ、ボク達、囲まれちゃうよっ!」

 

 白い人影はその細い道からも現れ、その節くれだった太い指を蠢かせながら下卑た笑みを浮かべている。

 

 四方を取り囲まれてしまい、燐とくまは万事休すとなってしまう。

 

「くそっ、こんな所でっ……!!」

 

 くまが悲痛な叫び声をあげた。

 

 悔しそうに奥歯を噛みしめながら、こぼれそうに大きな瞳を見開いていた。

 

 燐も覚悟を決めたのかもう逃げることはせずにこくんと頷いた。

 

「そうだよね……もう逃げるのには疲れちゃったもんね」

 

 そう静かに呟くと、燐はくまの小さな体をぎゅっと抱きしめた。

 

「ちょ、ちょっと燐!?」

 

 抱きしめ合ったまま動かなくなった少女達に、顔のない人影が液体のようなものをだらだらと垂らしながらゆっくりと近づいてくる。

 

 くまと燐を品定めするかのように、上から下までじっくりと眺められる。

 

 人影達には目のような器官はないというのにその表情は歓喜に溢れていた。

 

「獣ッ子……イイ……!!」

 

「ヒヒヒ、調教シテ、俺様ノペットニシテヤル……」

 

 下品な言葉を掛けられても燐は身じろぎもせずに震えるくまの体をぎゅっと抱きしめた。

 

「くっ、こんな足の傷なんか大したことないのにっ……!」

 

 くまはそう言うが足の痛みは相当なものなのか燐の腕の中で震えていた。

 その痛みに耐えながらも、目線だけはソイツらに向けられている。

 

 だが、さっきまでの威勢のよさはなんかはどこにもなく、燐の身体にしがみつくのが精一杯のようだった。

 

 一方の燐も動けないでいた。

 

 自分がしてしまったことへの後悔の念に囚われているのか、困惑した顔で、怪我をさせてしまったくまと人影を見比べている。

 

 今できる事と言ったらを少女を強く抱きしめることしかできない。

 

 二人がまごついている間にも白い影たちは無慈悲にも詰め寄ってくる。

 自分たちの欲望を満たす為だけに。

 

 ──もう、マンションの時のような抜けられそうな隙間はどこにもない。

 

 暗く狭い路地の中は無数の人影で埋め尽くされていた。

 

 その数はマンションの時よりも多く感じる。

 

 皆一様に赤い口をぱっくりと開けて、抱き合う燐とくまを貪りつくそうと白く太い手を伸ばす。

 

 手とは違う器官をだらりと伸ばしているものいた。

 

 混乱した少女達がその区別すらつくことはなかった。

 

「サァ、ゲームオーバーノ時間ダ……! ヒヒヒッ!」

 

 前ににじり寄った、人影の口元がくちゃあっと開いたその瞬間の出来事だった。

 

「……!!」

 

 二人の姿は今まさに捉えようとした人影達の前から忽然と消えてしまったのだ。

 

 白い影達は時が制止したみたいに、だらりと口を開けたままその場で凍りついていた。

 

 何が起きたのかまるで分からない。

 そんな珍妙な仕草で。

 

 実際、くまと燐の姿が消えてしまったわけではない。ただ、人影達の手が届かない場所へと素早く移動しただけのことだった。

 

 少女たちは異形の者たちのそのずっと先の所の……上空にあった。

 

 黒いキャンバスを背景に抱き合う少女達の姿がふわりと空に浮かぶ。

 

 それは神秘的とも呼べる光景だったが、燐はくまの身体を離さないよう強く抱きしめながら、自分自身に対して内心疑いの目をもっていた。

 

(わたし……空を飛んでる!? ただ、ちょっと……身を翻そうとしただけだったのに!?)

 

 燐は自分でも信じられないほどに目を見開いていた。

 

 しかしこの浮遊感と景色は現実のものとして肌で感じとっている。

 

 ヤツらが襲い掛かってくるタイミングで、身をかわそうと燐は地面をトンと蹴っただけだったのだが。

 

 それがこんな事に、それもこんなに高い所にまで飛び上がれるなんて。

 

 原因となったのは、きっと自分の力ではない。

 

 多少は運動神経に自信がある燐でも、こんな芸当ができるほどのものは、いくら何でも持ってはいなかった。

 

(でも、”キツネ”ってこんなに高く飛び上がれるものなの? 確か、イヌ科だって聞いたような気はしたけど……)

 

 燐はそこまで生物の生態には詳しくはないのだが、でもイヌ科だからって、狐がそこまで飛べるようなイメージはない。

 

 だが、眼下にはあの白い影達が小さく映っていたのだから、紛れもなく飛んでいたんだと思う。

 

 比喩なんかではなく、物理的に飛んでいる。

 

 助走らしい助走もなしに。

 

「あ、もしかしたら……」

 

 あまりに高く跳んでしまったので、その手が空に届きそうに感じたのか、燐は片手を上へと伸ばした。

 

 ずっと思い描いていたあの空の向こうに、一歩でも近づくことが出来たらと、淡い思いで反射的に手を伸ばしてしまった。

 

 だが。

 

「なぁんだ。やっぱり、この空って偽物なんじゃない……」

 

 ふうと息をつくと、燐はたんっとそこに着地した。

 

 そこはどこかの家の屋根の上。

 

 急に飛び上がって驚いてしまったが、どうやら無事に着地できたみたいだった。

 

 不思議と着地したときの足の痛みとかはない。

 

 それにパラシュートもなしにそのまま着地したのに、その家の屋根瓦一つすらも割れてはいなかった。

 

 家のすぐ下ではあの人影達が狭い路地を右往左往している様子が見て取れた。

 

 燐はくまを自身の背中に背負うと、ようやくほっと胸を撫で下ろした。

 

 ……

 ……

 

「まったく、キミってやつは本当に……とんでもないやつクマよ」

 

 くまは燐の背中におぶさりながら心底呆れた声を出していた。

 

 これは──普通の人では到底できない事だ。

 

 どんなに訓練や練習をしたとしても。

 

 走るスピードも跳躍力も、普通の人の範疇を超えている。

 

 燐はそれを気付いているのかいないのか、塀の上を歩きながら振り向いてくまに話しかけた。

 

「やっぱり、()()()()みたいだね、アイツ等って」

 

 ひそっとした声で燐が笑う。

 

 こうして人影達のすぐ傍の塀の上をとことこと歩いてみても、連中はこちらに全く気付いていない。

 

 ()()()は少し賢くなったようだが、肝心の視界は狭いままのようだった。

 

 口以外のものが顔には無いのだから、それは仕方がないんだろうけど。

 

「にしても……むぅっ」

 

 くまは相変わらず不満気味のようだったが、燐におぶされてたままではどうすることもできない。

 

 憂さ晴らしでもするつもりなのか、くまはあさっての方向ばかりきょろきょろとしている異形の、醜く肥大化した頭部目がけて、怪我をしてない方の足を使ってガンと蹴り飛ばした。

 

 鈍い音がして数名の人影が地面に倒れ込む。

 何だか分からないままふらふらと立ち上がるが。

 

「ガッ……!? 何ヲスル、コノ野郎!」

 

「ソッチコソ! 痛カッタゾ、今ノハ……!」

 

 普段とは違ってそれは大した力はでないが、それでも人影同士を喧嘩させるほどの威力はあるようだった。

 

 その様子にくまはある確信を得ることができた。

 

(ボクの力が落ちているというわけじゃない……! なのに、どうして……?)

 

 どうしてこう、燐に力負けばかりしているんだろう。

 

 さっきだって不意を突かれたとはいえ、躱せないはずはなかった。

 

 それに自分は本気であったし。

 

 なのにこう易々と振り回されてしまうというのは。

 

 くまは首を傾げて考え込んだ。

 

(これは、さっきも思ったことだけれど……)

 

 これは単純な力の問題だけのことではない気がする。

 

 自分の方が、動物的にも(戦いの)経験知的に優れていると思っている。

 

 それなのに燐はこんな的確に、それも瞬時に判断を下すことができるのか。

 

(野生に、目覚めたから……? いやそんなものじゃない。きっとこれは……)

 

「ねぇ、くまちゃん……足の方の怪我は大丈夫? どれぐらい痛むの?」

 

 燐はくまの足を気遣って、あいつらに見つからない家の塀や屋根の上だけを選んでこそこそと早足で歩いていた。

 

 自分と同じぐらいの背丈の少女を背中に背負って歩いているのに、その足取りはとても軽いものだった。

 

 それこそ飛び跳ねられるぐらいに。

 

 幼い頃から燐にはアウトドアの経験があるから、こういう事態には慣れていると言うのもあるのだろうが。

 

 それにしたって、疲労のようなものは表情には全く出ていないし、汗だって全くかいていない。

 

 結構な早歩きなのに僅かな足音すらも出てはいなかった。

 

 しっかりと足にトレッキング用のシューズを履いているのだから、いくら体重が軽いとはいえ少しの音ぐらいはでるはずである。

 

 しかし燐は何事もなくそうしていた。

 まるで普段の歩行のように。

 

「それは……さっきもボクは言ったクマよ。ぺろっと舐めれば、たちどころに傷は治っちゃうって」

 

「確かにそう言ってたけどさ。じゃあ、もうちょっと安全そうな場所まで進んだらそうしようね。それまで我慢できる?」

 

「そんなの、わざわざ聞くまでもないクマよ」

 

 こちらを振り返って聞く燐に、くまはふいっと顔を横に背けた。

 

「もしかして、怒ってる? ごめんね、あんな事しちゃって……」

 

「別に、怒ってないクマっ」

 

 そう言ってくまは少し頬を膨らませて口を横に引き結んだ。

 

 どう見ても怒っているようにしか見えない態度だったが、それに燐は苦笑いをかえすと。

 

「ねぇ、わたしがさ、その傷舐めてあげようか。もしかしたらその方が早く治るかも」

 

「ちょっ、別にいいクマよっ! ボクがひとりでやるからっ」

 

 突拍子もない事を言われて、くまはつい口を開いて大きな声をだしてしまった。

 

 慌てて口を手で塞ぐ。

 

 だが、人影達には声は届いていないようだった。

 

「だってさ、これってわたしの責任だし。それに……」

 

 燐は少し俯き気味になって話す。

 

「前にもね、似たようなことをやったことがあるんだ。そしたらね深い傷痕みたいなものがぱぱっと全部なくなっちゃったんだよっ。だから、試してみてもいいかなって」

 

 ちょっと恥ずかしそうに話す燐にくまは訝しそうな目を向けていた。

 

「それって本当のことクマかぁ? それに()()()()() ()ボクに変な事するつもりじゃない?」

 

「んー、変な事って?」

 

 燐は立ち止まってくまに疑問を投げる。

 

 くまはかあっと耳まで顔を赤くすると。

 

「へ、変なことは変なことクマっ! ともかくっ、こんな所で立ち止まってたらアレに見つかってしまうクマよっ!!」

 

 くまは抗議の代わりに、目の前でぷらぷらと垂れ下がっている燐の髪の毛をぎゅうと引っ張った。

 

「痛っ! ちょっともう、何で髪を引っ張るのよぉ!」

 

「い、いいから、とっとと行くクマっ。”熊は急げ”クマっ!!」

 

「まったくもう、クマ全然関係ないじゃん……そんなことのために髪の毛を伸ばしてたわけでもないのにぃ」

 

 燐はやれやれと呆れたように肩をすくめると、三つ編みの髪を片手軽く整えた。

 

(もしかすると、こういう事をされたことがあったから切っちゃったのかもしれない……どうでもいいことだけど)

 

 燐は言われた通り、さっきよりももう少しだけ足を早く動かして進む。

 

 なるべく揺れがこないよう、こっそりと息を潜めながら。

 

 ──月も星もない偽りの夜の中。

 

 二匹の獣の耳を付けた少女達はあてどもなく暗い夜道を歩いている。

 

 夜風は知らぬ間にぴたりと止んでおり、湿気を含んだ生ぬるい気怠さだけがむき出しの手や足にじとっとへばりついていた。

 

 まるで熱帯夜のジャングルにでもいるような気分になったが。

 

(けど……なんだろう……これは。さっきもちょっと感じたことだけど)

 

 やけに身体が軽いのは、この変な耳としっぽのせいなんだろうとは思うのだが。

 

 心のほうもちょっと浮足立っている?

 

 興奮っていうか、はしゃいでいるようなうきうきが止まらない。

 

 それに身体の内側からぽかぽかと膨らみ続けているみたいに、全身がかっと熱くなっていた。

 

(これって、高校の時の部活の感じにちょっと似てる……?)

 

 迫る敵をかわして敵陣にシュートを叩き込む。

 

 あの女子ホッケーをやっていた頃の何とも言い難い高揚感と少し似ているような感じがする。

 

 けどそれよりももっとスリルっていうか、アレに捕まったら終わりだという点が違うけれど。

 

「それでも、何か……」

 

 何かちょっと楽しいのかな?

 こんな最悪の状況だっていうのに?

 

 ちゃんと自分の脚を使って歩いているのに、何か違う乗り物に乗っているみたいに、見ている景色がぐんぐんと流れていく。

 

 まるで、世界の全てがスローモーションみたいに止まってさえ見えた。

 

(動物の視界ってこんな感じなのかな……全部が全部こうだとは思わないけど)

 

 塀の上だったり、屋根の上を登ったりしているからせいからか、ケモノというよりも何かの鳥になった気に覚える。

 

(小さい頃の鬼ごっこでもしているような感じとも、ちょっと似てるかも)

 

 燐は無意識に唇をぺろりと舐めた。

 

 ……

 ……

 ……

 

「ねぇねぇ、くまちゃん。あれを見てっ!」

 

 燐が後ろのくまにそう言った。

 

 くまは燐におぶされながらもどうやらちょっと寝ていたみたいで、目を擦りながら浮かび上がった欠伸を軽く噛みころす。

 

「あ。ごめんね。疲れて寝てたんでしょ? でもほら、あれってどう? 今度は見えるかなぁ?」

 

 燐はこの辺で一番高い家の屋根の上に登って、その方向に指をさしていた。

 

「んんー?」

 

 どうせ風車のことだろうと、くまは緩慢な動きでそちらに視線を向けた。

 

 山の方は相変わらず真っ暗なままであり、風車どころか目ぼしいものは何も視界には入らない。

 

 諦めたくまが心地よい眠りに再びつこうとしたときだった。

 

「そこじゃなくて、その下の方。ほら、あったでしょ?」

 

「あったって……?」

 

 どこのこと?

 

 どのあたりの下の方なのだろうか、くまは半ば投げやりになりながら燐の肩に手を掛けて、その身体ごと下の方へと向けた。

 

 危うく落ちそうになってしまったが。

 

 くまは小さくあっ、と叫ぶと。

 

「あれって、何クマ?」

 

 すぐさま燐に聞き返す。

 

 何か光っているようには見えたけど。

 

 あれは一体何なのだろう。

 

 灯台とはちょっと違うような。

 

 燐はこくんと頷くと、背中にくまを担ぎ直しながらゆっくりと話しを始めた。

 

「多分、あれは、”駅”なんじゃないかな……こんな所にあるのはやっぱり変な事だけど」

 

 高い所に登ったから分かった事だったが、駅舎のようにみえる建物は黒い山のちょうど真下の方にぽつんと立っていた。

 

 よくみるとその前後には黒いレールが引かれているようにも見える。

 

 だから燐はそれを駅だと認識することができた。

 

 ただ。

 

(あの町はこんな所に駅なんかはなかったよね。それに、鉄道って……)

 

 現実での駅舎と線路はもっと高い所にある。

 

 それこそ、あの中古のマンションからほど近い場所に。

 

 それに、一体何の列車がここに走っているというのだろう。

 

 青いドアの家のホームから、このレールがここまで続いていたとでも言うのだろうか。

 

 こんな幻想のような世界にまでも。

 

「きっとこの世界の駅、なんだと思う」

 

「そうだね」

 

 燐の呟きにくまは頷いた。

 

「ねぇ、燐。あそこに行ってみるクマか。あの駅の方まで」

 

「うん……じゃないとあの風車にまでは辿り着けない、そんな気がするんだ」

 

「風車、クマか……」

 

 そんなものが本当にあるのだろうか。

 

 未だ発見することのできないくまは、そのことについてだけは懐疑的であったが。

 

「分かった。けどきっと駅にはアイツらがいるクマよ」

 

「それはわたしも予想してる。けど」

 

「もう、行くしかないってことクマね。この世界から出るために」

 

 くまは肯定するかのように燐のその背中にしっかりとしがみついた。

 

「でも、あそこならくまちゃんの傷の具合も良く分かると思うから」

 

 頼りなげに灯っていた街灯や家の窓からの明かりも、いつの間にかすべて消えてしまっていて、その駅の周りだけが強い光を出していた。

 

 これもさっきみたいな罠などではないかと、燐は一瞬思ったが。

 

 だが、二人ともその懸念を一切口にはしなかった。

 

 人影すらも消えてしまった路地に燐はぴょんと飛び降りると、くまの方を振り返る。

 

 燐とくまは顔を見合わせた。

 

 確かに──似ているとは思う。

 

 背丈や姿だけなく、もしかしたらその胸中さえも。

 

 

 迷路のような路地のその先の向こう。

 

 本当に真っ暗で何もない所にしかみえなかったけど、そこに光があって、二人の行き先もそこだった。

 

 視えていたとか、理解していたとかじゃない。

 

 ただ、何となく。

 

 何となくそこなんじゃないかと思った。

 

 一基の白い風車、あれこそが。

 

 この世界を変えるスイッチ。

 

 なのだろうと。

 

 ──

 ──

 ──

 

 






そんなにイヤホンを使っているとは思わなかったのですが、どうやら軽度の難聴のような状態になってしまったようなので、耳に入れないタイプのワイヤレスイヤホンを試してみることにー。

結構、いろいろと種類があって骨伝導のものなんかもよさそうにみえたのですが、繋がっているリングみたいなのが邪魔になりそうに思えて、結局わたしは最近よく見かけるようになった”イヤーカフタイプ”のイヤホンを使ってみることにしました。

うーん、何か、耳がちょっと痛いかも……? 普段イヤーカフとかピアスとかしないせいでしょうか? 付けていると耳の裏側の辺りが少し痛かったです。
イヤホンをつけるポジションがよく分かっていないのもあると思います。耳たぶの上あたりに引っ掛けるといいらしい? こういうのは個人差というかモノにもよるのかもしれないです。使うたびに試行錯誤していますが、未だベストポジションは分からないカンジです。ただ、何度か使っている内に痛みにも少し慣れましたけど。

そして、気になる音漏れは……これも良く分からないですねー。直接耳に入れないから空気振動になってしまうんですけど、どうしても少しは音漏れはするとは思います。ボリュームをそんなに上げなければ大丈夫な気はしますが、静かな場所とかでは注意した方がいいのかもしれないですねー。
肝心の音質もそんな悪くない気がします。さすがに普通のイヤホンとかに比べたら多少落ちるとは思います。高音質というか没入感は流石に劣るとは思いますし、その辺を求めなければ全然普通に使えますね。耳を塞がないから周囲の音が聞こえるという利点もありますし。

半信半疑の思いで買ってみましたが、思っていたよりかは全然良かったです。もっと早く試してみても良かったかも。ただ耳をピンチで軽く挟まれているような異物感をまだ感じてしまいますが。


で。あまりにも暑い日が続くので、無糖の炭酸水を箱で買ってほぼ毎日飲んでいます。
なんかまだ咳が続くのでのど飴を口に入れながら炭酸水を飲んでみたりー。強炭酸の刺激とのど飴の爽快感が喉をじゅわっと刺激して……割といい感じなのかも? 喉に良いとはそれほど思いませんが。
まあ、普通に飲むとちょっと味気ないからしているだけなのですけれどー。お酢とかを入れてもいいかもしれないです。

それではでは~~。

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