We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life.   作:Towelie

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 ひとりの少女が走っていた。

 どこかへと向かう為に一生懸命に線路の上を走っている。

 走る少女の背中で、二つに結われた長い長い黒髪が、爽やかな初夏の空気を纏って風になびいていた。

 そんなに急いで一体どこへ行くというのだろう。
 
 苦しそうな息づかいをしながら、額からとめどなく汗を流して。

 吹き付ける風が辺り一帯に広がった大きな水たまりに反射して燐光を作っていた。

 それらは空中で交じり合って雫となり、少女と反対の方向へと落ちていく。
 
 少女の着ている制服はところどころ薄汚れており、片足には痛々しい包帯も巻かれているのに、それを気にする風はなく脇目もふらずに全速力で駆けている。

 紙切れった一枚を手に、レールの上をただひたすら真っ直ぐに駆けて行った。


 辿り着いたのは──いつもの町のいつもの最寄り駅。

 そこは山間部にあるけれど、寂れた町の印象はない。

 必要なものは大体町中で大体買えるし、海沿いの大きな町まで列車が通っているからわりと不便と感じたことはなかった。

 これといった観光資源もないし、町の特徴なんてたかが知れているほどだけれど。

 暮らすにはまあまあ平凡な、どこにでもよくある山あいの田舎町。

 住民もどこかのんびりとしていて、風土と似合ったものであるのだろうと、そう思っていた。

 好きも嫌いもなく、普通程度のものなんだろうと。

 町も、その住人も。
 精々その程度なんだろうと、何の疑問も持たずにずっと思っていた。

 それらの全てが、たった一つのことをきっかけに全部嘘だったことに気付くまでは。

 ──結局は。

 何もかもが全て嘘で塗り固められていた。

 嘘と言っても漠然とした悪意とかではなく、ただそれが”幸運”によるものであったというだけのことで。

 それを努力して掴み取ったとかではなく、作られた偽りの幸運がこの町と人を形作っていたのだった。

 生まれた時からずうっと住んでいたのに、町がそんな歪んだ事で成り立っていただなんて分かってなかった。

 しかもその当事者が自分だったなんて。

 無意識の事だったとはいえ、間抜けにも程があると思う。

 何年ものあいだ膨らみ続けた偽物の幸運は、町も人も歪めさせて、たった数日の間に何もかもが雨とともに流されてしまった。

 町も、人も、その幸運すらも。
 全部綺麗にさっぱりと流れていってしまった。

 けれど、そんな事はもうどうでもよくて。

 大事なのは、わたしの。

 わたしの、一番大事なものまでなくなってしまったことだった。

 いつも元気だった()()()()は、見た目よりもずっと繊細で壊れやすいものだったから、ずっとずっと大切にしておきたかった。

 ただ、それだけだった。

 それだけだったのに。

 空はこんなにも綺麗で眩しかったのに。
 流れてくる風は冷たくて心地よかったのに。

 彼女だけが世界から、いなくなってしまった。

 それなのにわたしは何もできずにただ戻ってきただけ……。

 あの場で留まることも出来たはずなのに。

 どうして?
 なんで?

 一体、何が悪いのだというのだろう。

 わたしの大切な人を、殺したのは一体誰だというのか。

 誰というか……それは世界が、そうだからだろうか。

 世界と言う、見えない大きな力がちっぽけなわたし達を振り回していく。

 どこまでも、どこまでも。

 抗う術なんかどこにもなくて。

 そんなのは分かりきっていることだけど。

 でも、それでも。

 返して……欲しい。

 わたしから奪っていったものを返して欲しい。

 世界が。
 もう誰でもいいから、返して。

 ただ一枚の紙きれだけを残したところで、そんなものに何の意味があるというの!?

 こんなものが、彼女の代わりになるはずがない。

 返して欲しい。
 
 彼女とあの、青い空を。

 二人で見上げた青空と温もりを全部全部返して!!

 もし──それが出来ないというのなら……全部なくなってしまえばいい。

 偽りの町だけじゃない、せかいのぜんぶがなくなってしまえばいい。

 彼女を、わたしを、拒絶した世界なんかもう、いらない、から。

 みんなみんななくなってしまえばいい。

 その為だったらわたしは。

 わたしは……。

 ……
 ……
 ……

(……これは夢? もし、これが夢じゃないとするなら)

 蛍は薄く目を開ける。

 うっすらと開いた視界では、青空でも夜でもない、ただ黒い空間がどこまでも広がっていた。

 遥か上の方では薄ぼんやりとした光の輪が、真っ黒な天井に浮かんでくるくると奇妙な光景を描いていた。

 まるで何かを塞ぐ栓みたい、だと。

 まだぼんやりとした思考で蛍はそんな事を思っていた。

「どう、大丈夫?」

 すぐ傍でとても柔らかい声色がして蛍はそちらを振り返った。

「えっと……オオモト、様?」

 ()()()()()が困ったように眉根を下げて顔を覗き込んでいた。

「わんっ」

 その反対側で短い犬の鳴き声がする。

「サトくん……」

 蛍はその犬の感触を確かめたくて、細い指を滑らせて白い犬の首筋の辺りの毛の中に埋めた。

 あったかい。

 自分なんかよりもずっと高い温もりのおかげか、徐々に思考が回復していく。

 どうしてこんな事になっていたんだろうか。

「あの、オオモト様。わたしはどうしていたんでしょうか」

 床で横になっているようだけど、頭は柔らかいものに包まれている。

 自身の頭がオオモト様の膝の上に乗せられていることに気付くと、蛍は羞恥で顔を真っ赤にさせた。

 お礼か謝罪の言葉を述べようと、そう蛍が口を開く前にオオモト様がやんわりとした口調でそれを遮る。

「わたしがそちらを振り向いたときにはもう倒れていたみたいね。サトくんがそれを教えてくれたのよ」

「サトくんが」

 二人の視線が白い犬に向けられる。

 それを受けてサトくんは一声鳴くと、くぅんと鼻を鳴らした。

 どうやらまたサトくんに助けてもらったみたいだ。

「ありがと、サトくん」

 健気な犬に対して蛍はお礼を言うと、サトくんの頬や首筋を柔らかく撫でてあげた。

 それだけで犬は嬉しいのか、黒く大きな目を細め、くるんとなったしっぽをぱたぱたと横に振っていた。

 その仕草に蛍も自然と笑顔になっていた。

「どこか痛むようなところはないかしら?」

「ええっと、その、大丈夫……みたいです」

 蛍が恥ずかしそうにそう言うと、いつまでもこうしていることが申し訳なくなって、急いで起き上がろうとした。

 オオモト様は柔和な表情で微笑みながら蛍の胸の上のあたりにそっと手を置いた。

「ごめんなさいね。色々なことをあなたに言ったせいかもしれない。これまでの疲れもあったんでしょうし、もう少しこうして休んでいなさいな」

「けど……」

「あなたさえ迷惑でなければ、ね」

「はい」

 念を押すようにオオモト様にそう言われてしまい、それを蛍が断れるはずもなく、小さく頷いた。

 迷惑なんて思うはずもない。
 
 実際、こうしてこの人に甘えたい気持ちはちょっとはあったから。

 前にも似たようなことをあの”青いドアの家”でされたようであったけど、蛍はその時の熟睡していたせいであまり覚えていなかった。

(今だって、また眠りそうになってるけど……)

 こうしていたい。
 できればずっと。

 オオモト様は蛍を膝枕したまま、その長い黒髪を柔らかく手で軽く梳いた。

 その手の感触と優しさに蛍は胸が温かくなるのを感じる。

 オオモト様はいつもの着物とは違い、とても生地の薄い白い着物を着ていた。

 確かこれはあの町の儀式のときに、()()()着せられるはずの衣装だと聞いた。

 そうなる前にあの異変が起きたので、多分もう二度と着ることはないと思うが。

 そういう自分もやはりあの、変なバニー服を着せられたままだ。

 こっちの方がそっちの着物よりも恥ずかしいと思うのは、わたしの気のせいなんだろうか。

 それにしても。

(これ、どっちのほうが夢なのかな……)

 さっきまで見ていた夏の情景と、今のこの不思議な景色。

 どちらも現実であって現実でないような気がする。

(それはそう。だって、いつの間にかもうひとりの自分がいて、それが世界を終わらそうとしてるだなんて)

 荒唐無稽すぎて頭が追いつかない。

 倒れてしまったのはきっとそのせいで頭がショートしたせいなのだろう。

 何もかもがあやふやで境界線が見当たらないから。

 ──ダイダラボッチ。

 それは一体なんなんだろう?
 妖怪だとあの子は言っていたけれど。
 
 そもそも、妖怪とは一体何なのか。

 自分だってそういうのではないのだろうか?

 違いがまだよく分かっていない。

 実際に何度か遭遇したみたいだけど……。

 イメージと実存がいまいち結び付かないでいる。
 それを認めたくないだけかもしれないけれど。

 確固たるものというか、確証のようなのがまだ得られてない。
 そんな気がするから。

 まだ自分の中では。
 自分の問題なのに。

 そんなあやふやなことでは駄目なのは分かっているけど、今はちょっとだけ許して欲しい。

 でも許すって……誰に対して?

 そんな時、綺麗な栗色の髪の少女の笑顔が、蛍の脳裏にぱっと浮かんだ。

 そうだ──燐。

 燐は、どこに行ってしまったのだろう。

 青いドアの家にいるのか、それとも別の世界か。

 どこに行ったとしても無事だったらそれでいいのだけれど。

 それに、自分のもう一人の存在とやらも、一体どこにいて何をしているだろうか。

 それを頭で考えようとしたとき、睡魔が再び蛍を眠りに誘おうと、その甘美な鎌をゆっくりと振り下ろしてくる。

 蛍はそれに対して抵抗するようなことはせず、微睡みに目を細めながらも、ある一つのことだけを思い浮かべた。

(こんなんじゃダメだよね。ごめん、燐、わたし……)

 蛍はまだ混乱している頭を片手で押さえながら贖罪の言葉を胸中でそっと流した。

 ……
 ……

 そうだった。

(行く当てが見つからず町に戻ってみたら、()()()()()()()()()()()()んだよね……)

 あの時は本当に呆気に取られてしまった。

 あれは全部夢だったんだと、そう思い込んでしまうぐらいに。

 でも実際は違って。

 だから。

 本当に願っていたんだよ、わたしは。

 世界が終わってしまう望みを。
 心から。

 だってあなたの居ない世界なんて、存在する意味なんかないと。
 
 それを表すように、手に持っていたものを握りつぶしてもいた。
 やるせない思いと共に。

 あの時、二人で一緒に飛ばした紙飛行機には、何のメッセージも意味も残されてなんかいなかった。

 そんなものが何か希望のようなものになるとは到底思わなかったから。

 握りつぶしてゴミ箱へと捨てた。

 残り香のようなものはもしかしたら残っていたのかもしれないけど、そんなものは何の慰めにすらもならないのは分かっていたから。

 もし、あの時、彼女が傍にいたのなら、その丸めた紙を髑髏(どくろ)みたいに見えると言って、からかうように笑っていたことだろう。

 そうでなければあのような出来事がこの後に起こるはずもない。

 実際は、手毬だったみたいだけど。

 それに、カナブンを足で潰したことはあっても、黄金虫(こがねむし)との違いぐらいは分かっているつもりだったから。

 それら全て、偶然なのかもしれない。

 でも……わたしにとってそれは奇跡みたいなものだったから。

 多分、忘れてしまってたんだと思う。

 暗鬱とした思いを簡単に上書きしてしまうほどの衝撃と喜びがあったのだから。

 一方で、心の片隅でくすぶっていた小さな箱の蓋がいつの間にか開いていた。

 もう中にはなにもない。

 からっぽの箱だけがぽつんと残されている。


 意識が暗闇に再び落ちる瞬間、蛍は諦めとも安堵ともつかない息を小さく吐くと、全身の力をすうっと抜いた。


 ……
 ……
 ……




TANSTAAFL

 

「ほらっ、くまちゃんっ! ちゃんとお外に出れたよっ!」

 

 列車のドアがするっと開くと、燐は外を一目見るなり振り返ってそう叫んだ。

 

 その後ろからくまがヨタヨタをしながら電車を降りてくる。

 

「おぉ~、でも、お腹が空いててボクにはもう何も見えないから、燐だけが外に出るクマよ~」

 

「はぁ、何を言っているのよもう。さっきまで一人で喚き散らしていたくせに」

 

 何故か芝居がかったクマの呻き声に燐は呆れかえったように小さく肩を竦めた。

 

「ひとりとか寂しいこというもんじゃないクマ~。燐も一緒だったもんっ!」

 

「わかった、わかったから。もう、いちいちくっつかないでよぉ!」

 

「もう一歩も歩けないよクマー。さっきみたいにボクのことおぶってぇ」

 

「普通に歩けてるじゃないの」

 

 燐は冷ややかな視線でそう言うと。

 

「ほらっ、おんぶはもうしないけど肩ぐらいは貸してあげるから」

 

 そう言ってくまに向かって手を差し出していた。

 

 確かにくまと燐はぎゃあぎゃあと言い合いながら、他に誰もいない駅のホームにおりていた。

 

 もしかしたらもう開かないかと思った列車のドアから、少女達は無事に出てくることが出来ていたのだが。

 

「はぁ、どこかにコンビニかファミレスでもないもんクマかねぇ」

 

 その言葉通りにくまは燐に肩を貸してもらいながら、おぼつく足取りで駅舎から出ると、周囲を見渡して情けない声をあげていた。

 

「そんなものあるはずないでしょ、もう。一体誰がお店をやってくれるっていうのよ」

 

 それはさっきの、燐の知っている町に良く似ていた町中にも、お店のようなものは何処にも見当たることはなかったから、今ここにもないのは当然だと言えた。

 

 駅の周囲には真っ暗な背景と、山と森しかない。

 

 地元のローカル線によくある、乗降するものが殆どいないしなびた田舎の無人駅といった様相がこの世界にも存在していた。

 

 ()()()()()にもあった動いていること自体が不思議な古い街灯が、駅舎の周りで二基ほどぼんやりと灯っているだけだった。

 

 ここが目的地である駅なのかと問われても、正直よく分からない。

 

 誰も運転していない奇妙な列車が、偶然停車した駅というだけで。

 

 その為、列車がこの駅で停車することになったたときは、何の前触れもなくブレーキがかかったので、車内で追いかけっこをしていた燐もくまも、不意を突かれて倒れ込みそうになっていた。

 

 燐は金属製のポールに何とか手を掛けることができたが、くまは手が滑ったのか掴まることが出来なかった。

 

 それでも蛙みたいにぴょんと飛び上がって、掴まっただけでも切れそうな古めかしい天井の手すりに、手でなく両足を器用にその輪っかに引っ掛けて、逆さでそこにぶら下がって何とか耐えていた。

 

「まだ頭がくらくらとするクマ~!」

 

 そう燐の耳もとで言われて少しうるさく感じたのか、燐は眉根をしかめた。

 

「逆さで掴まるとは思わなかったよ。よくあんな格好で落ちなかったよね」

 

 燐はそれを見てクマというよりも、何だかサルみたいだなあとちょっと思ってしまった。

 

「それはそう。熊だって木ぐらい登れちゃうクマだからね」

 

 何の例えにもなっていないが、とにかく二人とも無事ではあった。

 

 燐は停車した駅の看板を確かめようとしたが、その必要がないことに気付いて自虐するように苦笑いをした。

 

 相変わらず空には星も月はない。それはもう分かっている事だけど。

 

 ちかちかと点滅を繰り返している街灯のおかげで、目の前に聳えた黒い山の中腹に、白い建造物が立っているのが分かったから。

 

 それだけでここに来る目的は十分達したと言えた。

 

 後はそこへ行くだけなのだけれど。

 

 燐はそれで問題なかったのだが、くまの方はというと未だ切実な問題を抱えたままだった。

 

「ねぇー、ちょっとだけでいいから食べさせてくれクマぁー。片耳かしっぽの先っちょでいいからさぁー。別に、減るもんじゃないでしょー」

 

「いや、普通に減っちゃうからね、これ」

 

 列車内でしつこく追いかけているときもくまはずっとそう言っていた。

 

 これには流石に燐ももううんざりとしていて。

 

 だが、車内を走り回っている内に遂に体力がなくなってしまったらしく、元気だったくまの声も枯れだして、みるみるうちに覇気がなくなっていった。

 

 本当に空腹で力がでないというのは良く分かったけれど。

 

(何か嫌な予感がするんだよねぇ……まあ、噛み切られなきゃいいんだろうけど……?)

 

 結局、燐はくまの空腹を満たすために文字通り身を切ったというか、絶対に噛まないことを条件に少しの間頭の耳をしゃぶらせてあげることにした。

 

 何故か人間の肌は駄目らしく、それはくまの方から断ってきていたけれど。

 

(なんでこっちの方だったら良いわけ? わけが分からないんだけど)

 

 獣の方の耳かしっぽならどっちでもいいからと本人は言っていたし、それにこれ以上は本当にくまの理性が無くなりそうな気がしていたから。

 

 とりあえず燐は耳にしたのだ。

 

(やっぱり無謀だったのかなぁ、これって)

 

 頭を下げてまで頼み込むものだから、根負けしてしまった形なのだけれど。

 

 自分の選択を燐は今さらながら後悔していた。

 

 もぐもぐもぐもぐ。

 

「ほ、本当にちょっとだけだからねっ!? ちょっとでも歯を立てたりなんかしたら本気で怒るからっ!」

 

 くまは燐の獣の耳の片方を口に含んでもぐもぐと咀嚼している。

 

 あくまで甘噛みで、(キバ)を立てない条件をつけてのものだが。

 

 燐とくまは駅の方へと戻ると駅舎の外にあったベンチに並んで腰かけて、片側の耳をくまにしゃぶらせていた。

 

 どうも燐は落ち着かないのか、くまの様子を横目で見ながら両膝を擦り合わせていた。

 

「あむあむ、わがってる、わがってるクマぁ~」

 

 本当に分かっているのだろうか、変な口調で返事をするくま。

 

 こんな事で少しは空腹が和らぐのか、目を細めてその食感を愉しんでいるようだった。

 

「全くもう、人の耳をはんぺんかなにか見たいにさぁ」

 

 でも、これは人の耳じゃない。

 

 別の、獣の耳としっぽが体に付いている。

 

 とても奇妙で、それこその夢だとしか思えないことなのに、それにもう馴染んでいる自分がいる。

 

 こんなありえない、こどもの姿にも戻っているというのにだ。

 

(これって、魂だけそのままで器が変わった……? けど、そんなの、あまりにも非現実的すぎて……あううっ!?)

 

 くまの歯や息が耳に当たるたびに、燐はびくりと身を振るわせる。

 声がでそうになって、片手で口元を抑えていた。

 

 燐にとっては迷惑極まりないことだったが、くまはこんなのでも腹の足しにでもなっているのか、不満げな様子は特には見れなかった。

 

(だって……くまちゃん、泣いて頼み込むだもん。だったらまあ、甘噛みぐらいならなんとかいいかなって思ったけど……)

 

 今思うとそれは浅はかというか、甘い考えだったのかもしれない。

 

 いきなりがぶっと噛みつくようなことはまだされていないけれど、いつそうなるかは分からない。

 

 本物の野生の熊なら、耳なんかすぐに噛み千切られていそうだし。

 

 そう考えるとこのむず痒いくすぐったさが、何かの前触れみたいに思えて、燐は想像をして背筋をぞおっとさせた。

 

 ときおり、くまの八重歯の先端が燐の耳に当たる。

 

 その度に燐はびくびくと小刻みにしっぽを震わせていた。

 

「ね、ねぇ、こんなの全然美味しくないでしょ? まだ自分の手でも噛んでたほうがいいんじゃないのぉ?」

 

 ついに耐え切れなくなったのか、今更な代替案を燐は口にしていた。

 

「そーでもにゃいにゃいクマよぉー、この耳は結構イケるクマ。ボクが保証するっ。あうあう~」

 

 この少女にそんな事の保証をされても嬉しくもなんともない。

 

 空腹のあまりその辺のものを口に入れるよりかはまだましかと思ったってだけで。

 

「それにしても本当に食べる気だったなんて、はぁ……」

 

 しかも物理的に。

 

 自身の耳を無邪気にしゃぶるくまを横目で見ながら、燐は大きなため息をついた。

 

(けど、こうしてると何だか、赤ちゃんといるみたいだよね?)

 

 今や、燐の体の一部となってしまったもう一つの耳の先端を一心不乱にはむはむと口で咥えている所を見ると、本人は悪いがそう見えてしまった。

 

 そういった事柄には、もう一切興味がないというわけではないけれど。

 

 前ほどには、そういった願望みたいなのは湧きあがってこない。

 

 特定の相手が今はいないからだとは思うが。

 

 大学なんかでも、どこまでのものを考えてかは分からないが、男性にそう良い寄られることも度々あった。

 

 こんな田舎者の自分のどこに興味が湧いたかは分からないけれど、いやむしろソッチだからだろうか。

 

 妙な事に巻き込まれたりする前に上手い事をいってそそくさと退散するようにはしているけれど。

 

(そういうのだっていつまでかは分からない……今は興味がないって、言っているけど……)

 

 本当にそうなのだろうか。

 

 傷だらけになって、もう壊れてしまったと思っていたものだけど。

 

 それはゆっくりとだけど過去のものになっていってるような気はする。

 

 でも、壊れたものは完全には元に戻らない。

 

 引っ掻き傷だらけだったものが、形を少し変えて歪なものになり替わったというだけで。

 

 どんなに頑張ってももう、元には戻らないものだから。

 

(それに、戻ったところでわたしは……)

 

「何を、ぼーっと考えているクマかぁ? もしかして……キミ、耳が感じちゃうタイプクマかぁ?」

 

 耳をしゃぶりながら妙なことを口走るくま。

 

「か、感じるって……!? そ、そ、そんなわけがないじゃないっ!!」

 

 燐は思わず顔を赤くして否定の言葉を出していた。

 

 けれどそれでは、そう認めたことになってしまうと思ったのか、小さくあうっと唸って俯いてしまった。

 

「むぅー? どうかしたクマかぁ」

 

 くまは不思議そうな顔をしながらも、今度は燐の隣の耳を甘噛みしていた。

 

 そっちは許可した覚えはないのに、くまは勝手に口の中に入れていた。

 

 さっき自分の言った言葉の意味が分かっていないのか、それとももうどうでもいいのか。

 

 この少女の今の関心事は燐の耳を乾物のようにしゃぶりつくすだけのようだった。

 

「はあ、もう。何でもないよ……それよりさ、もういいでしょ? さっきからずっとやってるんだからぁ……なんか、変な事になってる気がするんだよね」

 

「変なって? あっ」

 

 燐は強引に自身の獣の耳をくまの口内から引っぺがすと、身を守るように手で耳ごと頭を押さえた。

 

「もう、おしまい!」

 

「う~っ、程よい塩加減が癖になり始めてきたの所クマなのにぃ~」

 

 名残惜しそうにくまはそう言う。

 それが誉め言葉かどうかは眉唾ものであったが。

 

「癖ってどういうことよ。こんなに味なんかしないよ、もう」

 

 ため息をこぼすと、先ほどまで口に入れられた耳に燐は恐る恐る手を触れた。

 

 ふさふさで手触りのよかった色鮮やかな()()()()()()()()が、今やくまの唾液でべしょべしょとなっており、そのねっちょりとした感触に燐は思わず眉を寄せて顔をしかめた。

 

「ほら、やっぱりぃ……! もしかして溶けてなくなっちゃってるとか、ない?」

 

 自分からはよく見えないので、手を伸ばしてわしゃわしゃと再度触ってみる。

 

 一応、まだ耳は頭に付いているようではあったが。

 

 両方の掌がくまの唾液でびっしょりと濡れてしまった。

 

 痛みを覚えなかったのは一応良い事だとは思うけれど。

 

 それにしても、要らないと思っていたものがまだ付いていることに安堵してしまうのは何だか、変な感じがした。

 

「でも。どうしよう、これ」

 

 ここまでしゃぶるとはさすがに思っていなかった。

 拭くものなんかは当然持ってはいない。

 

 それはくまも同じようであり。

 

「だったら、その辺の草を使って拭いてみたらどうクマ?」

 

 そう軽口をくまに言われた。

 確かにそれは妙案ではあるけれど。

 

「誰のせいだと思ってるのよぉ、まったく……」

 

 じとっとした目つきで燐はくまを軽く睨むと、ぶつぶつと言いながら背の高い草を数枚ほど抜くと、その葉っぱで耳を拭きとることにした。

 

 がさがさとした葉の感触が少しこそばゆく感じたが、それでもさっきよりかは大分マシになったみたいで、燐はほっと息をつく。

 

 まだ全部は取れていないが、それを示すように、さっきまで唾液でふやけていた両耳が、頭の上でピンと立っていた。

 

 それにしても。

 

「これって何の草かな。あんまり見たことが気がするんだけど?」

 

 葉の形状から羊歯(しだ)類の感じはするのだが、何がが違うような気がする。

 

 こういうよく分かっていない植物に触れたり、近づいたりしないのがアウトドアでの基本であることは燐だって分かっていた。

 

 それでも耳への不快感が強すぎて、つい触れてしまい、しかも拭くのに利用してしまっている。

 

 今のところは耳に棘が刺さった感じだとか、手に変な液とかが付着した様子は見られないのだが。

 

(まあ、一応大丈夫だとは思うけど)

 

 まざまざと見ても、葉をもいだ指は何ともなかった。

 

「そうだ。ねぇ、くまちゃん。試しにこの草、食べてみたら? 一応、熊みたいなんだからこれぐらいは食べられるんでしょ」

 

 燐は軽く笑ってくまにそう尋ねる。

 

 くまは眉根を寄せると。

 

「もう、キミはボクを何だと思っているのっ!? くまをバカにするのも大概にするクマっっ!」

 

 そう言ってぷんとくまはそっぽを向いた。

 

 分かりやすいその仕草に燐は声を出して笑った。

 

 ……

 ……

 ……

 

「ねぇ、この山って、ほんとうに登れるものなのかなぁ」

 

 これから山登りをするのに最適そうな場所を見つけたまではよかったが、燐は唐突に不安げな言葉を漏らした。

 

「やれやれ、ここに来て怖気づいたの? キミは山登りが得意って聞いているクマよ」

 

「得意っていうか……今はそれほどでもないんだ……まあ、たまには登るけどね」

 

 燐はそう言って苦笑すると。

 

「やっぱり、こんな格好で真っ暗な山中に入るなんて、無謀すぎるっていうか」

 

 普通に怖く感じる。

 

 単純なこの暗闇と格好の無謀さが。

 

 そこまで高い山ではないみたいだけど、ハイキング程度では済まなさそうな感じはする。

 

 それに。

 

 燐はそっと胸に手を当てる。

 さっきから心臓がどきどきと脈打っている。

 

 緊張だって当然しているし、やっぱり真っ暗だから怖いんだと思う。

 

 でも。

 

 この山にあるはずの、風車が何なのかは知りたい。

 

 それが本当にスイッチになるのか、見て見ない事には何も始まらないだろうから。

 

 異変の時に見たものと同じなのか、それとも全く別の違うものなのか。

 

 遠目からでは確認できなかったけど、近づいてみれば何かが分かるかもしれない。

 

 陽炎のように揺らいで消えてしまう可能性もあるけど。

 

(やっぱり、行ってみるしかないか)

 

 燐は今の自分にピッタリなサイズの子供用の水色のトレッキングシューズの爪先をおもむろに地面につけると、がりがりと何度もそこをかいていた。

 

「燐? 一体何をしているクマか」

 

 不思議そうに首を傾げるくまにそう聞かれる。

 

「まぁ、山に入る前のジンクスみたいなものかな。登山の前にこれをしておくと少し気持ちが落ち着くんだ」

 

 要するに自分は怖がっていると白状していることになるのだが、それでも燐は良かった。

 

 隠し通すようなことでもないし、それにちょっとは気が楽になったから。

 

「人間も色々と大変クマねぇ。そんな迷信に縋らないといけないなんて」

 

 そう言ってくまは苦笑いを浮かべた。

 

 だが、何故かくまも燐の真似をして、スニーカーの先でがりがりと地面に擦りつけていた。

 

 何か、変な模様を描いているだけにか見えなかったが。

 

 

 ──少女達の目の前には、鬱蒼とした黒い森があり、その森の向こうでは三角形の黒い山が静かに佇んでいる。

 

 誰かが整備したような道も指し示す看板も当然ない。

 

 ただ真っ黒い山が、漆黒の背景に浮かび上がっているというだけで。

 

 こちらの駅舎の中にも使えそうな目ぼしいものはなかった。

 

 せめて懐中電灯ぐらいあればと燐は思ったが、そんな都合よくものがあるはずもなく。

 

 選択肢はもうなくなっていた。

 

 それはもしかしたら、この変な世界に来てしまった時点でなくなっていたものかもしれないが。

 

 あの不思議な列車は二人だけの乗客を車両から吐き出すと、役目を終えたようにすぐに扉を閉め、何も告げることなくレールのその先へと走り去ってしまった。

 

 あのレールにはまだまだ先はありそうだったが、その先は真っ暗闇であり、先には何もなさそうに思えた。

 

 でも、ここのような目的も意味もない駅が幾つかあるのだろう、きっと。

 

「ねぇ、あのままさ、電車に乗ってた方が良かったのかな……」

 

 燐はその時、胸中だけで留めておけばいいことを敢えて口に出してつぶやいていた。

 

 くまは小さく鼻を鳴らすだけで、特に何も言わなかった。

 

 ただ、列車の行ってしまった方向を燐と一緒に見送っているだけで。

 

 けれど実際、どうなったのだろうと今更思ってしまう。

 

 あのまま乗り込んでいれば、ひょっとしたら元の世界にまで行く可能性もあったのかもしれない。

 

 しかし、下車することを選んでしまったのだから、もう分からないことだろうなんだけど。

 

 今、大事なことは、そんなもう過ぎたことなんかではなく。

 

 この山を登る事しか道がないということだけ。

 

 そしてそこにある風車を目指すだけなのだ。

 

「まあまあ、何とかなるクマよ!! ボクには風車は見えないけれどキミには見えているわけだし」

 

 あんな妙なことで少し元気が出たのか、くまはまるで鼓舞するかのようにわざと大きな声を出していた。

 

「それはうん……それにもう、後には戻れないもんね」

 

 燐は上を見上げる。

 

 ちょうど山の中腹の辺りに、小さくだが風車のような白い何かの影がぽつんと浮かび上がっているのがみえた。

 

 まるで何かの照明にでも照らされているみたいにそこだけがぼんやりと光っている。

 

 実際に照らされている可能性もあるのかもしれないけど。

 

「それじゃあ、燐。行くクマよっ! 覚悟はできてるクマか!?」

 

「うん!!」

 

 くまと燐は顔を見合わせて頷くと、手を取り合いながら、薄暗い山道にその細い足を踏み入れた。

 

 極力、余計なものに手や足に触れないよう出来る限り身を寄せ合いながら、鬱蒼とした茂みに覆われた山中の奥へと入っていく。

 

 月明りすらもなく、辺りは真っ暗闇だったが。

 

 それでも二人は立ち止まるようなことはせず、ゆっくりとだけど歩を前へと進めた。

 

 ……

 ……

 ……

 

 誰も登ったことがないであろう深い山中に、何の装備ももたない無防備な格好の少女たちが、無謀な山登りをしているわけなのだが。

 

「それにしてもまた夜の登山かぁ。まあボクの方は問題ないけど」

 

 ちらりとくまが振り向く。

 燐は息をひとつ吐いて答えた。

 

「わたしもまあ、まだ大丈夫って言うか、割と歩きやすい感じするよねこの山。道のようなものは見当たらないはずなのに、そんなに険しくないっていうか」

 

 山だから傾斜のようなものはあるけど、登り始めだからかまだ汗をかくほどのものではない。

 

 こんなので音を上げていたらそもそも山になんて入らないだろうし。

 

「それは、ボク達が”クマとキツネ”だからだよ」

 

 さも当然とばかりに指を立ててくまはそう言った。

 

「何かそれって関係があるの? 変なのをつけてるってだけじゃない」

 

 燐はつい振り返って自分のしっぽを見ていた。

 

 見た目ほど邪魔だとはもうそれほど思っていない。

 それは何故なんだろうか。

 

 自分でもよく分からないけれど。

 

(だけど、こんなに真っ暗なのになぜか目がきくんだよね。どうしてなんだろう?)

 

 それがくまの言うような理由なのだろうか。

 

 燐は敢えてその事には触れずにくまにある事を訊ねた。

 

「ねぇ、くまちゃんってさ」

 

「クマぁ?」

 

 クマが呼ばれて振り返る。

 

 大分元気が戻ってきたのか、くまは頭の”熊耳”を左右にぴょこぴょこと振りながら、鼻歌を軽く口ずさんでいた。

 

 低い傾斜のある山道を軽やかな足取りで燐よりも少し先を歩いていた。

 

 時折スキップのようなものも踏んでいたが、これは元気の表れというよりも調子にのっていただけのようで、何かに足を取られて危うく転びそうになっていた。

 

「もしかして、ヒルにでも噛まれたクマか?」

 

「そうじゃなくてさ……くまちゃんってさぁ、ずっと山にいたんでしょ」

 

「まあ、そうクマクマね」

 

 ややぶっきらぼうに言ってくまはこくりと頷いた。

 

「だったらさ、山の中で何かに襲われたりしたときの対処法とか、何か知っているのかなって……」

 

 少し不安げな口調で燐はそう呟く

 

 山の中は街中よりもずっと暗くて見通しが悪い。

 

 木の影や草むら、灌木の裏なんかも。

 ここにはいくらだって隠れる場所はあるのだから。

 

 ただでさえ、この森は真っ暗だから、何が潜んでたっておかしくはない。

 

 それにしてはやけに辺りが静寂すぎるとは思うが。

 

「燐はどうクマ? こんな所で不意に襲われたらどうするつもり」

 

 くまは質問には答えずに何故だか燐に質問を投げ返した。

 

「えっと、そうだねぇ」

 

 一瞬、戸惑った表情となるも燐はしばし考え込む。

 

 燐だってそういった知識は全く無いわけではない。

 

 ただそれは一般的なものであるから、山に住んでいるというくまに聞いてみたのだけれど。

 

「まあ、色々あるけど……大体が危ないことはしない、になるね。山とか水辺とかは見た目よりもずっと危ないところだから」

 

 ちょっと上をみながら、アウトドアをする際に教えられたことを燐は指折り数える。

 でも結局はそういうことになっていた。

 

「まあ、普通だとそんな所クマね」

 

 くまは両手を後頭部に回してからかうように頷いていた。

 

「だからくまちゃんには何かいい考えがあるの?」

 

 燐はちょっと皮肉っぽい言い方をするくまにそう聞き返した。

 

 だが、くまは全く気にするどころかむしろ待ってましたとばかりに、声を張ってこういった。

 

「山の中にいるんだから、それを利用しない手はないクマ!」

 

「利用って?」

 

「逃げ回ってばかりじゃなくて戦うってことクマね。逃げ回るだけではいずれ限界がきてしまうクマよ。山の上の方に行けば行くほどそのスペースはなくなってしまうから」

 

「それはまあ、確かにそうだけど」

 

「あののっぺらぼうは集団で襲ってくるクマ。つまり遭遇してから考えるから行動が遅くなるということになるクマね」

 

 まあ、それもそうだと思う。

 

 しかしあの白い人影はどこからでも現れそうな気がする。

 

 人の気配みたいなものが一切感じられないせいだろうか、くまの言うようにこの世界での燐達の行動は全て後手後手にならざるを得なかった。

 

「だからここは、奴らにゲリラ戦を仕掛けることにするクマっっ!!!」

 

 くまはそう言うと小さな拳を上に突きあげた。

 

「げ、ゲリラって……何をいっているの!?」

 

 さすがに燐もそんなことまでには頭が回らなかったのか、くまの発した言葉に素っ頓狂な声をあげていた。

 

「よーするに、そこら中にトラップを仕掛けるってことクマよ!! そうすれば敵が何人こようとも問題ないってことクマっ!!!」

 

「いやいや、トラップって……そんなのもう映画とかじゃないんだから……」

 

 燐が呆れた口調でそう言うも、熱弁するくまの耳にはまったく届いていないようで、もっと具体的な提案まで言い出していた。

 

「削った木材を敷き詰めた落とし穴を作ったり、蔦を張った丸太をぶつける仕掛けなんかを作るクマよ!」

 

「あぁ、そう……」

 

 燐は他人事のように呟いた。

 

 だってこんなのそれこそ現実的な事じゃない。

 

 連中に狙われているのは確かだけど、だからって罠なんか作るなんてことは。

 

(そういえば、昔の戦争ものの映画か何かでそんなの見たような気がするけど……)

 

 燐としてはそんな薄ぼんやりとした知識しかない。

 

 なのでピンとこないのも仕方がないことだった。

 

 それに、誰かを罠に嵌めるなんてことは一度も考えたこともなかったし。

 

「大掛かりな仕掛けだと結構時間は掛かると思うけど、ボク達なら大丈夫だと思うクマ! ナイフなんてない代わりに爪や牙を使って木や地面を削ったり掘ったりすればいいわけだしぃ!」

 

 くまは本気でやらせるつもりなんだろうか、指の爪を立てて歯をむき出しにして笑ってみせた。

 

 だが、見たところくまの指の爪は言うほど鋭く尖ってなんかいない。

 

 歯の方だって、整然と並べられた真っ白い歯並びがあるだけで、その中で小さな八重歯がちょんと見えているだけだった。

 

 こんなのでそんなのを今作るつもりなんだろうか。

 

 燐は手で頭を押さえていた。

 

「ねぇ、そんなことよりも先へ行こう。アイツらが現れちゃう前にさ」

 

 その方が話が早いとばかりに燐はくまの横をすり抜けてさっさと先へと進んで行く。

 

 今のところアイツらが現れる様子はない。

 

 罠なんてつくる暇があるのなら、風車の所にまで早く言ったほうがまだマシなはずだ。

 

(どうせアイツ等の目的は自分達なんだし、それに)

 

 この少女とは見ているものというか、方向がちょっと違う気がする。

 

 薄々感じていたことだけれど。

 

 急に燐に置いてきぼりにされて、くまは慌てて声を掛けた。

 

「ちょ、ちょっと燐~。まだくまの説明(プラン)は全部終わってないクマよ~。ここからが面白くなるところなんだクマ~! だから待ってぇ~」

 

 わたわたと両手をふり回しながら燐の後をくまは追いかけて行った。

 

 ……

 ……

 ……

 

「あれっ」

 

 不意に燐は立ち止まった。

 

 あの何かに遭遇したとか、途中から道がなくなったとかの事ではない。

 

 それなのに、燐の足は完全に停止していており、しかも何かを受けとめているみたいに手のひらを上にかざしている。

 

「どうかしたクマぁ?」

 

 何ごとかとぴょこんとくまが近寄ったときだった。

 

 ぴちょんと、小さな鼻に何かが当たったのは。

 

「やっぱり、これは雨……?」

 

 呟いて宙を振り仰ぐ。

 

 こんな変な世界でも天候という概念があったのか、と燐は訝し気に眉をひそめた。

 

 まっくろい空からぽつぽつと冷たい滴が落ちてくる。

 

「鳥か蝉にでも引っ掛けられたんじゃないクマか?」

 

 からかうようにくまがそう軽口をたたく。

 

「ちょっとお、変なこと言わないでよ。これはどうみても雨だって」

 

 ほら、と自身の手のひらを見せた。

 

 濡れた燐の掌をくまは指でつっとなぞると、何を思ったのか、その指を自身の口へといれていた。

 

「ねぇ、知ってると思うけど、雨って結構汚れているものなんだよ?」

 

 そう言って燐は顔をしかめる。

 

 その言葉を聞いていないのか、くまは赤い舌をぺろりと出すと、空に向かって大きく口を開けていた。

 

「ちょっとぉ、嘘でしょ……!」

 

 信じられないとばかりに燐は絶句していた。

 

 だがくまは気にする様子もなく、落ちてくる雨粒を口内で幾つか受け止めると、むぐむぐと小さく唸った。

 

「ふむふむ、確かにこれは雨みたいクマねぇ」

 

 そこまでしないと分からないものなんだろうか、燐は訝しげに思ったが。

 

「でも、まあこんな小雨程度では特に問題はないクマね。気にせずに先に行くクマよ」

 

「う、うん……けど、お腹の方とかは大丈夫? 雨水って降ってくる途中で汚れてきちゃうものなんだよ」

 

「そんなのはボクだって知っているクマ。それでも、水が飲みたくなったときはついやっちゃうことだけどね」

 

(ついって……そんな頻繁にしてるのぉ?)

 

 燐はあえてそれを聞かない事にした。

 

 ……

 ……

 

「ねえ、ちょっとこれ、本降りになってきちゃったクマよっ、やだなあっ、もう……!」

 

 小雨程度では気にしなかったくまがとうとう悲鳴をあげていた。

 

 ぽつぽつと降っていた雨が、ちょっともしないうちにざーざーと線のような大雨を振らせていた。

 

 よほど髪が濡れるのがいやなのか、くまがわちゃわしゃとしながら両手で頭を押さえる。

 

「確かに、こんなに降ってくるなんて想定外だったよ……!」

 

 燐が思っていたよりも雨足は速く、より激しくなってしまった。

 

 燐もくまもあっという間に頭からつま先までずぶ濡れとなっていた。

 

 頭を手で押さえた程度ではどうしようもなく、薄い生地の服しか纏っていない二人は、衣服どころかその下着までびしょびしょ濡れとなった。

 

 山の上の方まで行くと天気が急変することはわりと良くあることだが。

 

(気圧の変化ってわけじゃないと思うけど……体が重くなってきた?)

 

 それは気のせいじゃないみたいで、燐の臀部の上の方に生えているキツネのしっぽが水分をたっぷりと含んでぐっしょりと重くなっていた。

 

 そのせいなのか、それまで軽かった燐の足取りが急に重いものになって、バランスが崩れて転びそうになっていた。

 

 邪魔なものだとは常々思っていたけれど、こんな予期せぬ弊害まで起きるなんて。

 

「……っくちゅん!!」

 

 ちょうど服との間に雨粒がすうっと入り込み、くまはぶるぶると身を震わせた。

 

「どこか、雨宿りできるところを探したほうがいいかもねっ」

 

 燐も体を震わせながら慌てて周囲を見渡す。

 

 しかし、そうこうしている間にも雨足はますます強くなっていく。

 

 温度差のようなものがあるか、霧のようなものも立ち込めてきて、辺りを真っ白く染めていく。

 

 視界にうつる物すべてが、真っ白いヴェールに包まれていた。

 

 燐はぱちぱちを瞬きを繰り返す。

 

(でも、おかしいよねこれ? こんな真っ暗な中で雨なんか降ってきたら、いくら霧が立ち込めたって視界は真っ暗なはずなのに……)

 

 まるでライトで照らしたみたいに、真っ白に見えている。

 

 これもこの姿と関係していることなのだろうか?

 

 燐の目には黒と白の入り混じったグレースケールの幻想的ともいえる風景が広がっていたのだったが、今はそんなのはどうでも良かった。

 

「と、とにかくどこか木か穴の中にでも逃げ込むんだクマ~!!」

 

 くまはそう叫ぶといきなり走り出してしまった。

 

「ちょ、ちょっとくまちゃん……!?」

 

 突然くまが走りだすとは思わなかったので、燐は不意をつかれる形でその後を慌てて追いかける。

 

 豪雨の中、少女たちはばしゃばしゃと水を跳ね飛ばしながら細い脚を動かして駆けていく。

 

(このしっぽのせいなのかな、やけに身体が重く感じるよっ!)

 

 中々くまに追いつけないもどかしさに、燐は奥歯を噛みしめてその重くなった尻尾を睨みつけていた。

 

 その時だった、燐の視界の奥に何か大きな影のようなものが遠くに見えたのは。

 

 ほんの一瞬のことだったが、あれはきっと。

 

(もしかしたら、大きな木でもそこにあるのかも)

 

 目当てだった風車ではなさそうだったが、雨宿りにできそうな場所なら何だっていい。

 

 だが、それには。

 

「くまちゃんっ! そこっ!! そこなら大丈夫かもっ!」

 

 ちょうどくまが走る方向にそれが見えたので、燐は指をさして叫んだ。

 

 だが降りしきる雨のせいで届いていないのか、くまはわあわあと叫びながら、それを素通りして先に行こうとしていた。

 

「ちょ、ちょっとぉ!! そっちじゃないってぇ!!」

 

 くまはそのまま真っ直ぐに進めばいいだけなのに、何故か避けるように曲がって行ってしまう。

 

 燐はこの雨のせいか苛立った表情になると。

 

「どこまで行く気なのよ、全くもうっ!」

 

 雨のせいで視界が悪いのは分かるが。

 

 燐は眉をぎゅっと寄せると、あらぬ方向へと駆けていくくまを引き留めるべく、全速力でくまの後を追った。

 

 こんな変な姿になってしまったけど、その代わりに身体は軽くなり、信じられないぐらいに足も速くなったからすぐに追いつけると思った。

 

(それなのに、何でこんなにっ!)

 

 追いつけそうで追いつけない。

 

 それどころか、さっきから息が段々と荒くなり胸も苦しくなってくる。

 

 全身に重しがかかったみたいに足も手も上手く動いてくれない。

 

 しかもそれはくまも同じようで、くまの小さな体がまるで何かに引っ張られているみたいに鈍重となり、燐との距離はそれほど開いてはいなかった。

 

「くっ……!」

 

 焦燥感に駆られた燐は、雨のせいですっかり重くなったしっぽを手で抱え上げながら、全速力で駆けだした。

 

「くまちゃん、こっちっ!!」

 

 ぬかるんだ地面に足を取られそうになるも、今度はくまの手をちゃんと取る。

 

 そして、その木がある方へ促すように強く引っ張り上げたのだが。

 

「ひゃぁっ!!??」

 

 勢いがつき過ぎたせいか、燐が滑った拍子に小柄なくまの身体は一瞬ふわっと浮き上がり、大きく水しぶきが上がる。

 

 燐はくまの手を握ったままくるりと身を翻すと、尻尾をぶるんと振って、手が地面に付く直前に態勢を立て直した。

 

「……燐?」

 

「とにかく、走ってっ!!」

 

 どことは言わなかったが、代わりにくまの手をぎゅっと引いて駆け出す燐。

 

 くまはわけがわからない様子だったが、それでも燐に手を引かれるがままに後をついて走った。

 

 暖かだったくまの手はちょっとの合間に氷のように冷たくなっていた。

 

 それでも燐は手を離すようなことはせず、むしろ強く握った。

 

「はぁ、はあ、はあっ」

 

 少女たちの口から白い息が漏れる。

 

 このまま倒れてしまいかねないぐらいに、2人の挙動はとても危なげなものになっていた。

 

(さっきまで、疲れなんか全然なかったはずなのにっ……!)

 

 くまがぎりっと歯ぎしりをする。

 

 ちょっとの距離を走るのにも呼吸を荒くしていた。

 

 くまも燐も弱々しく息を吐きながらも、その大きな木のもとにまで何とか辿り着いていた。

 

 そこは燐の予想した通り大きな木が一本立っていたわけだったが。

 

「はぁ、すっかり、ずぶ濡れになっちゃったね」

 

 見た時以上に大きな木の下で座り込むと、燐はようやく安堵の息を漏らした。

 

「はぁ、はぁ……クマあぁぁ……」

 

 くまは答える余裕もないのか、樹の根元にぺたんと座り込んで、荒い息を繰り返していた。

 

 とりあえず無事に着いたことにほっと胸を撫で下ろすが。

 

(でも、これって、何の木なんだろ……? すっごく大きいけど)

 

 見覚えがあるような……ないような?

 

 何の木まではか燐には分からなかったが、遠くから見えるほどの高木(こうぼく)なのは分かる。

 

 何かのCMでも出てきそうな幹の太い大木に、燐はしばし目を奪われていた。

 

(もしかしたら、この山で一番高い木かもしれない)

 

 針葉樹のようだが、葉もよく生い茂っていて幹だってかなり太い。

 

 年数までは分からないけど、ずっと前からこの山にあったと思わせる樹に思えた。

 

(でも、何でだろう。何か変な違和感っていうか、ちょっと変わった感じがするんだけど……?)

 

 それが一体何なのかの説明はまだつかないけれど。

 

 何かの既視感のようなものをちょっとだけだけど覚えてしまうのは。

 

(やっぱり変だよねこれ……初めてきた場所のはずなのに)

 

 そう感じるのは何もこの木や山の植物だけのことではない。

 

 この世界に来た瞬間から感じ取っていたことだった。

 

 纏わりついていている違和感が先へと進むたびに段々と強くなっていく。

 

 何かの確信へと変わっていくようで妙な胸騒ぎを感じてしまうけれど。

 

 ただ、あのままずっと雨に打たれているのは今は良くない感じはしていたから。

 

 そういう意味では、走り出したくまの判断は間違ってないと言えた。

 

 どこまで行くつもりだったのかの疑問は確かにあるけれど。

 

「こんな大雨だと風車だって流石に見えないし、ちょっとだけここで雨宿りしてよっ」

 

「ん。了解クマ」

 

 くまは意外にも素直に頷くと、木の根が張っているところに脚を曲げてちょこんと座った。

 

 少女たちは雨足が弱まるのを願って、ここで待つことに決めた。

 

 燐は服に付いた水分を少しでも取ろうと、ワンピースの裾を少しまくり上げ両手でぎゅうっと絞る。

 

 ぼたぼたと衣服の端から水が垂れてくる。

 

「はあ、完全にびしょ濡れだよね」

 

 絞ったことが意味ない程にワンピースは上から下までずっぽりと濡れていて、燐は憂鬱そうな顔つきで空を振り仰ぐ。

 

 いつまでも雨を落とし続ける空を睨みつけていた。

 

 無論、そんなことで雨が止むはずもなく、むしろまたちょっと雨足が強くなった気さえする。

 

 重い重い息を燐は吐くと、いっそのこと服を脱いだ方がまだマシかもと考えたそのときだった。

 

「うにゃあっ!!」

 

 急に後ろからしっぽを掴まれて、燐はその場で飛び上がった。

 

 それは、先ほど街中で見せた時よりも全然低く跳ぶものであったが、燐は怪訝な顔で振り返ると、くまが驚いた顔でびしょ濡れになった燐のしっぽを手で掴んでいた。

 

「何? もう、驚かせないでよぉ」

 

「ご、ごめんクマ……」

 

 やけにしおらしいくまのその様子に、燐は一瞬きょとんとなる。

 

「くまちゃんって、雨が苦手なんだっけ?」

 

 燐は小声で尋ねる。

 その問いにくまはこくりとうなずく。

 

「苦手っていうか……嫌いなんだと思う……クマ」

 

「そう……」

 

 理由は特に聞かなかったが、余程嫌なんだろうというのは分かる。

 いつも元気だったくまが珍しくしゅんとなっていた。

 

(もしかして……耳とが濡れるのが嫌、とかなのかな……)

 

 同じような格好になったせいからなのか、何となくそれが分かってしまう。

 

 気持ちというか、生態みたいなものなのだろうか。

 こういうのは。

 

 生々しい感じがするけど。

 

(そういえば、わたしも、さっきみたいな力が出なかったみたいだし……)

 

 きっとそうなのだろう。

 

 だったら、やることは一つだった。

 

「ともかく、こんな状態じゃ本当に体調が悪くなっちゃうものねっ、と」

 

 燐はそう言って軽く微笑むと、くまの目の前でやわら服を脱ぎ始める。

 

 突然のことにくまは目と口を大きく開いて抗議した。

 

「り、燐!? キミは、な、何してるクマかっ!!??」

 

「えっ、何って?」

 

 急にくまに大声で叫ばれて燐はきょとんした顔のまま、濡れてぐしょぐしょになったワンピースを脱ぎ捨てていた。

 

「な、な、何で服を? それにハダカになんか……!」

 

「服を脱いだんだから裸になるのは当然でしょ? もちろん下着だって……って、パンツもやっぱりぐちゃぐちゃになってるじゃない、全くもー、これって最悪だよねぇ」

 

 今の自分が子供用のパンツを履いていることはとても恥ずかしいことではあったが、濡れているものを履いていることへの不快感の方が強いのか燐は躊躇なく、ストライプ柄の小さなパンツを脱ぎ捨てていた。

 

「靴の中だって水が入ってぐちょぐちょとしてる。これじゃあ水泳したのと変わらないね~」

 

 なぜか少し嬉しそうにそう言うと、トレッキングシューズを靴下ごと脱ぎ、逆さにして中の水を地面に返していた。

 

 脱いだ靴を木の根元のところに並べて置くと、頭の上の燐の手がちょうど届くところの木の枝に下着と衣服を一緒に掛けていた。

 

 裸だからやはり肌寒さを感じるけど、濡れたものを着るよりかは、はるかにこっちの方が良いと思っての燐のその行動だったのだが。

 

 くまにそれがとてもショックであったらしく。

 

「き、キミには、恥じらいというものが全くないクマかっ!?」

 

 くまは顔を真っ赤にしながらぱくぱくと口を開けている。

 

「そんなことはないけどさぁ。あ、ねぇ、くまちゃんも今の内に服を脱いでおいたら?」

 

「ぼ、ボクも!? ど、どうしてさぁ?」

 

 動揺した声でそう言うも、くまの視線はなぜか燐の裸体ばかりを追っている。

 

 自分との違いを確認しているのかもしれないが、くまにじっと見られていることが分かったのか、燐はそのしっぽで大事な所を隠してしゃがみ込んでいた。

 

「だってぇ、そのままだと風邪を引いちゃうかもしれないじゃない? それに女同士なんだから別に恥ずかしがることなんかないんだよー。温泉の時だって一緒に入ってたじゃない」

 

「それはそう、クマだけどさぁ……」

 

 燐にそう促されても、くまはまだ踏ん切りがつかないのか、ずぶ濡れのスカートの端をぎゅっと掴むだけで一向に脱ごうとはしない。

 

 燐は困った顔でくまに微笑むと。

 

「だったら、木の影ですれば脱げばいいんじゃないかな。そうすればわたしからは見えないから恥ずかしくないと思うよ」

 

「まあ、確かに」

 

 その言葉に合点がいったのかくまは手をぽんと叩くと、そそくさと樹の後ろへと回った。

 

「燐、ありがとクマ」

 

 雨音よりも小さな可愛らしいその声を聞いて、燐は照れたように指で鼻を啜っていた。

 

 ……

 ……

 ……

 

 それからしばらくの間、ふたりは互いに口を開かなかった。

 

 聞こえるのは雨粒が葉に当たる音と、ノイズのようにざーざーといつまでも鳴り続ける雨音だけだった。

 

 燐は葉っぱを毟ってまだ濡れそぼっているしっぽの水分を丁寧に取っていた。

 

 誰も見ていないことを良い事に、試しに燐は頭に葉っぱを乗せてみるも、ただ恥ずかしいというだけで何かが起こるはずもなかった。

 

 いくら現実離れした世界であっても、漫画のようなことはさすがに受けつけてはくれないらしい。

 

 洗車の後みたいにぼたぼたと、しっぽや狐の耳から水がしたたり落ちて、木の筋を通って出た水と一緒になって土へと流れていく。

 

 真っ黒い空から針のような雨がざあざあと無造作につぎつぎと降り落ちてくる。

 

 偽物ばかりの世界だったから、この雨だってどうせと思っていた。

 

 それなのに本物みたいに普通に濡れてしまっているし、ずっと浴び続けていたせいで身体だって冷たくなっている。

 

 その感覚こそが偽りかもしれないけど。

 

 ただ真っ暗なのに霧のようなものが立ち込めてきたことが分かってしまうのはやはり異常なことだ。

 

 雨が降ってきた瞬間からまるで昼夜が逆転したかのように、今度は白い闇に辺りが染まってしまっている。

 

 燐は自分が今どこにいるのか分からなくなっていた。

 

 どこかの山中で雨宿りしていることだけは分かっているが、それ以外の情報は何も分かっていない。

 

 うっすらと見えていたはずの風車の姿がこの霧のせいで完全に掻き消えてしまった。

 

 最初から存在などしていないみたいに、何処へかと行ってしまった。

 

 まるで幻想であったみたいに。

 

(でも、あるんだよね何処かに。あのときと同じ、白い風車が)

 

 くまも燐とは反対側の木に同じように裸で座りながら、呆然と白い景色を眺めていた。

 

 同じような高さに張り出した枝に衣服と下着を掛け、少女達はそれぞれ生まれたままの姿で反対の方角を見ていた。

 

 あの人影は真っ白い体をしているから、この雨の中ではすぐには気付きづらいだろう。

 

 なので、燐とくまはこの木を境にして、それぞれ反対の方角を注意し合っていたのだった。

 

 単に裸を見られたくないとの単純な思いもちょっとはあったようだが。

 

 ──雨は、一向に止む気配を見せない。

 

 そのせいか、辺りの気温が少し下がっていっているような気さえする。

 

 だが、燐もくまも膝を抱えてこの雨がやむことをじっと待っていた。

 

 視界がきかないこの状況で闇雲に動き回ることは、危険だということは何も言わなくとも二人とも分かっていたから。

 

 くまの鼻だって雨のせいで利かないようであったようだし。

 

 とりあえず衣服がある程度まで乾くまでは、動きたくとも動きようのない状況だった。

 

(そういえば、前にもこんなことがあったような気が……)

 

 何の時だっただろう。

 

 その都度切り取られた情景は脳裏に浮かぶも、これだというものがなぜか見当たらなかった。

 

 視界だけでなく思考までこの雨に隠されているみたいに、思考がぼんやりと白く溶けていっていく。

 

(それはとても怖いこと……なんだけど)

 

 それにしたって、何でこんな変なことばかりが起こるのだろう。

 

 普通に暮らせていければそれでいいだけのはずなのに。

 

 そんな些細な願いを裏切るみたいに、身の回りで起こる異変は止まってくれるどころか段々と大きく、そして歪んだものになっていっている気がする。

 

 その原因は……何となく分かっている。

 

 それなのにそれを解決できていないのは。

 

(多分、甘えなんだと思う。何が起きたとしても、蛍ちゃんと一緒だったから)

 

 離れてもそれは同じことだった。

 最後には必ず会うことができた。

 

 どんなに不条理な目にあったとしても。

 

(だから今度も……)

 

 この期待するという行為そのものが、きっと良くないのだろう。

 

 強すぎる想いは互いの大事なところに、引っかき傷をつけてしまうようなものだから。

 

 それが分かっているのにわたしは、まだ……。

 

「燐──!!!」

 

「えっ、えっ? どうしたのっ!?」

 

 激しい雨音を切り裂くほどの大きなくまの叫び声が聞こえて、燐ははっとなって呼びかけた。

 

 服を着ることすらも忘れて、反対側にいるであろうくまの方へと急いで向かう。

 

 いくら大きな木と言ってもそこまでのものはない。

 あっさりとくまの姿を見つけられた。

 

 くまは燐の姿を見るなり、裸のまま抱きついて指をさした。

 

「あ、あれを見てっ!!」

 

 くまは燐の腕にしがみつきながらぶるぶると唇をふるわせている。

 

 白い人影達がついにこっちにまで現れたのだろうか、燐はぎゅっと眉を寄せてくまの指す方向を見る。

 

「あっ!?」

 

 そこには人影の姿はなかったが、燐はその光景にショックを覚えたというよりも、確かな見覚えがあったのだった。

 

「地面が、赤く……?」

 

 降り続く雨が流し込ませたのか、くまの居たほうの木の地面だけが、真っ赤に染まっていた。

 

 赤いペンキの入ったバケツをひっくり返したみたいに、赤色の水溜まりが広がっていた。

 

 燐は震え続けるくまをなだめるように、ぽんと頭に手を置くと。

 

「わたし、前にも見たことがあるんだよ。大雨のときに土の成分の影響で色がたまにでることがあるんだって。その時もこんな風に地面が真っ赤だったんだ」

 

 あの”ナナシ山”で起きた出来事を、とつとつと燐はくまに説明をした。

 

 始めてみたときはくまと同じように、燐と一緒にいた蛍も凄くびっくりしていたことを思い出す。

 

 その後で調べて見たら本当になんてことの無い、それこそ自然現象の一部であることがわかったのだけれど。

 

 でも、このずっと山にいたであろう少女(くま)がこの現象を知らなかったのだろうか。

 

 その事にちょっと疑問に思ったが、くまが唇を青くさせてわなわなと震わせているところをみると、そう思うのが妥当である。

 

 そう燐は思った。

 

「単に色がついているってだけで何も影響はないみたいだから大丈夫だよ」

 

 安心させるように燐はそうくまに言ったつもりだったのだが。

 

 くまの全身の震えは止まらなかった。

 

 それどころか、燐の手をぎゅっと掴んで離さない。

 

「ねぇ、燐」

 

「何?」

 

「その時のその……この赤い水に触れたことってあるの」

 

「えっと、触れたことは、確か、ないかも」

 

 色が色だけに、そこに肌とかをつけようとは思わなかった。

 

 後で再びその地を訪れたときに、すっかり乾いてしまった土のところに指をちょっと触れたような気はしたけど。

 

 やはり何の影響もなかった。

 

「じゃあ、それなら……」

 

 くまは目を大きく見開くと、何を思ったのか真っ赤に染まっている水たまりに向けて、震える指を伸ばしていた。

 

「ちょっと、くまちゃん!?」

 

 これには燐も驚いてしまった。

 

 赤い水につけたくまの白い指の先が真っ赤に染まっていた。

 

 まさかだとは思うが、さっきの雨みたいに指についたものを舐めるなんてことをするのではないかと思ったので燐はそれを止めようとした。

 

 だが、くまはそんな事はせず、むしろ慎重に真っ赤になった指先をしげしげと見つめていた。

 

「ねえ、くまちゃん、大丈夫?」

 

 燐は心配そうな口調でそう声を掛けた。

 

 何か危ないような感じがしたからだったが、くまは指先を鼻に近づけてその匂いを嗅ぐ素振りを見せると。

 

「やっぱりこれは……そういった土から出た成分のものじゃないクマよ」

 

「えっ」

 

 何を言っているのかすぐには分からず、燐は首を傾げて聞き返していた。

 

「ボクには……分かるんだ。これはキミの言う”赤土”とかから出たものなんかじゃない。もっと濃くてどろっとした液体がどこからかこっちに流れてきているんだクマ」

 

「赤い液体って、まさか……!」

 

 くまが神妙な声色でそう言ったので、燐は瞬間血の気の引いた表情となった。

 

 確かに、あの時は燐も蛍も真っ先にそれを疑っていた。

 

 なのでこれも、くまの勘違いではないのかと思ったのだが。

 

「こんなの舐めたりしなくても分かるよ。だって、こんな匂いがするのって、”あれ”ぐらいしかないし。燐には分からないの? この鼻を刺すような臭いをするものが」

 

「……臭い?」

 

 くまにそう言われて燐は小鼻をひくひくとさせた。

 

 雨が降っているせいか、草木の湿った匂いしかしないだろうと初めはそう思ったのだが。

 

(何、この強烈な臭いは……)

 

 不意にその臭いを認知することになった燐は戸惑った表情になっていた。

 

 ただ、どこかで嗅いだことがあるような臭いな気はするのだが、何故だか判然としない。

 

 あの白い人影が全身で発している、不快感のあるあの甘ったるい臭いではなく。

 

「もっと強烈な……そうだ。これは鉄錆の臭い……」

 

 燐は小声でそうつぶやいていた。

 

 くまも自然と声を潜めて燐の耳もとで話す。

 

「これは、きっと何かの()()()()クマ……もしかしてこの先で何かが」

 

 そこでくまは言葉を止めた。

 

 代わりにその赤い水が流れて来た方角に視線を送る。

 

「何かって」

 

 燐もそちらを振り向く。

 

 降りしきる雨が強くて視界は白くなっていて、それ以外は今はなにも見えない。

 

 ただ、くまが息を殺してその方向を真剣に見つめていたせいだろうか、燐は握りこぶしを作ってしまっていた。

 

 不安に駆られたのか、燐はくまの手を自然と握っていた。

 

 不思議そうにくまはこちらを一瞬振り返る。

 

 だが、固唾を飲んで見ている燐を見て、その手を柔らかく握り返していた。

 

(まさかだとは思うけど、この山って……あの現実の山と同じ!?)

 

 まさか、あの”ナナシ山”に来ているのだろうか。

 

 これといった特徴がないからまだ判断はつかないけれど。

 

 それに、あんな小さな駅舎なんかはあの山の麓にはない。

 

(そもそも線路が……あっ!)

 

 燐は不意にあることを思いだした。

 

 かつて、旧小平口町では林業が盛んだった時があり、その時はあの山の中にまで線路が引いてあったのだと。

 

 蛍からそんな話を聞いていたことを今思い出した。

 

(じゃあ、あの山に過去の姿を見ているの? でも、何かおかしい気がする……)

 

 どうにも考えがまとまらない。

 

 でも実際に、今の自分は現実とは違った世界にいて、そして馬鹿馬鹿しいとしか思えないような恰好をしているのだから。

 

 何が現実で、何が虚構だというのか。

 

 だが、その答えは自分の中でもう出ているような気がした。

 

 

 赤い水が流れてくる向こう側で何がが山のように積まれている。

 

 鮮やかな色の液体は異臭を放ちながらも、雨煙が作り出す白い景色の向こう側にまで、果実のジュースでも絞り出すみたいにどぼどぼと流れていく。

 

 その傍らで孤影のようなものがゆっくりと動き、流れていくその方向を眺めていた。

 

 

 ──

 ───

 ────

 

 

 





良さそうなチェア用クッションがないかなーと色々物色していたのですが、その前にチェアそのものが壊れてしまい……結局IKEAで椅子を買い替えることにー。

割と最近になって値引きされていたものを買ってみたのですが、値段相応な分まあまあ悪くない感じですかねー。少なくとも前の壊れた椅子を使い続けるよりかは全然マシです。
デザインはまあシンプルですし、機能も高さ調節と角度の浅いリクライニングぐらいしかないですが。前のものよりも背もたれが低くて薄いのがちょっと気になる感じです。
ただ。ひじ掛けの触り心地は結構いい感じかもですねー。前のものは結構長く使えてたのですが、ひじ掛けと本体を繋ぐところが割れてしまって、全体に歪みを出してましたから。

ただ、アウトドア用のチェアを室内用に使っても良かったかなーってちょっと思ってます。値段も手ごろなものが結構ありますし、基本が外用のものですからしっかりとしている印象があるんですよねー。
以前、とあるスーパー銭湯の屋上でも、裸のまま利用したことがあります。
景色と開放感でとても贅沢な気分となりましたねー。ちょっとだけ罪悪感みたいなのもありましたが。

もう大分遅れてしまいましたが、現在、”青い空のカミュ”のDL版が1500円でのセール価格となっております。10月15日までのようですのであまり期間もないですが、もしまだお買い上げになってない方がおりましたら、長い夜のお供としてこのお得な機会にぜひお試しになってみてください~~。


ではではでは~。


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