We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life. 作:Towelie
ざっ、ざっ、ざっ。
「まったく、何でこんなウサギみたいな真似をしなくちゃならないのさっ!」
雪が深くて、走るどころか普通に歩くことさえままならない。
だから、飛び跳ねて進むことにした。
それはとても屈辱的なことなのだけど。
全部、アイツのせいだ。
空に浮く、デカい
「……」
白と黄色の混じった、ぶよぶよとした身体をもった生物が、高い空から見下ろしていた。
言葉はもっていない。
その代わりといっていいのか、空に浮いていた。
冷たい雪が降っていても、平然とした様子でふよふよと泳ぐように空を
飛んでいる。
一体何を頼りにあのように何もない空中で漂っていられるのだろうか。
水中にしか棲めない生き物が、真っ暗な空にぽつんと一匹浮いていた。
それがあの──巨大なクラゲ。
”ライオンのたてがみ”とも”幽霊”とも呼称されている種のもので、数十種類以上あるクラゲの中でも最大級の大きさをもつとされているものだった。
特徴的なのはその形や大きさだけでなく、危険性もかなりのものがあって、このクラゲに刺されるとミミズ腫れのような痕と激痛を伴うとされている。
最悪、死に至ることもあるとか。
そんなものが、実際の数百倍の
それだけでも十分非現実的すぎるのに。
このクラゲには普通と違うところがまだ幾つもあったのだから。
複数ある、瞳に相当する器官をぎょろりと動かして、自身よりも遥か下にいる小さいものの様子を眺めている。
脳も心臓もないのに、一体何を見ているというのだろう。
全身から淡い光を発しながら、クラゲはゆっくりと移動していた。
通常、この個体はこのように発光するようなことはない。
なのに
何のためなのかは分からない。
ただ、逃げる獲物がどこに行くかを照らしているみたいにも見えた。
けれど、日が昇ることのないこの世界においては、このクラゲの光こそが最大で。
それを放ち続ける唯一の存在となっている。
全てのものに威圧でもするように、クラゲは巨大な体を禍々しく光らせていた。
「本当に、ふざけた奴だクマっ……!」
くまは空を見上げながら憤慨していた。
気配も音もなく、ワープでもしたようにいきなりすっと近づいてくるだなんて。
ここは水の中じゃないっていうのに。
あんなの、生物でもなければ何かの機械でもない。
まぎれもなく化け物だ。
それも、とびっきりの悪意をもった。
(そもそも、ここは何なんだ……)
噂で聞いた”マヨヒガ”とは、あんな化け物ばかりが跳梁跋扈する世界だったのか。
酷くおぞましいというか、なんか馬鹿馬鹿しい。
ちょっとは期待してたところがあったから。
「クマ、くま、クマっ!」
雪原に小さな足跡を付けながら、熊の耳を頭に付けた少女が化け物から逃げるように懸命に走っていた。
こんな雪しかところでは、逃げるにしてもどこに行ったらいいというのだろう。
例えどこかに身を隠したところで、あんな上からではすぐに居場所が分かってしまうだろうし。
だが、その少女はむしろそうしてもらいたいように、木の間ではなく、わざと何もない雪の上だけを選んで走っていた。
手には火のついた木の棒を持ち、雪上を跳ねるように駆けている。
こうでもしないと足が雪の中にうずまってしまうから。
落ちてきたばかりの柔らかい新雪で作られた白い大地は、体重の軽い少女でも雪の中に沈み込んでしまう。
だからその前に、足を前に踏み出さないといけない。
スキー板のような便利なものなんかはないのだから。
「あんなのが、最後に見る光景なんてのはぜーったいに嫌クマだけどっ」
あのクラゲに勝てるような兆しは今のところ見えてはいなかった。
あんなに高い所にいるわけだし、それに。
(アイツめっ……稲妻なんか落としてくるなんてッ……!! 前代未聞も肌肌しいっ)
あの時、
もっと速くて、そして威力の高いもの。
直撃を食らわなかったのは不幸中の幸いだったけれど、今思うとそれだってワザと外した可能性もある。
少しでも長く、この狩りを楽しむ為だけに。
”くま”はこの人の姿になる前はよくある”普通の熊”だったから、その事を嫌というほど知っていた。
(アイツ……また、笑ってる)
あの化け物クラゲの発光現象そのものが、こちらを嘲笑っているようにくまには見えていた。
小さくて哀れな獣が必死に藻掻く様をみて嘲笑している、と。
実際に、白く大きなクラゲは浮遊しながらくまの後ろをついてくるけれど、何もしてはこなかった。
追い抜くようなこともせず、一定の間隔を保って後を追ってきているように見える。
それだけをみれば、昆虫の習性なんかと似ているけど。
(きっと、そうじゃないんだろうな……こっちが疲れるのを待っているんだろう……だってその方が確実に獲物を仕留めることができるから)
疲れるタイミングを見計らって襲ってしまえば、どんな獣だっていともたやすく狩ることができる。
逃げるものを追うのは人間も含めた動物の本能だろうが、あれは多分違う意味合いのものなのだろう。
圧倒的な体格差を持って獲物を追い詰める様は何物にも代えがたい快楽があるのだと、空に浮かんでいるアイツがそう言っているようで。
そう思うと。
「何か、すっげームカつくんだがううっ!」
物理的だけでなく、生きもの的にも下に見られているということなわけだし。
あんな化け物風情なんぞにこのくまが。
くまは自分で思ったことに対して酷く憤っていた。
もし、アレが言葉も出すこともできたのなら、侮辱するような言葉の雨を高い所から浴びせ続けていたことだろう。
(けど、人型だった時は確か喋れたはずだったけど……)
喋らないのはやはり、
まあ話したら話したでそれはとても不気味すぎるしムカつくから、このまま喋らなくていいんだけど。
それにしても。
──ずっと、ずうっと逃げてばかりだ。
山に住んでいた時にはそんなことなんか全然なかったのに。
こんな風に手も足も出ずに、逃げ惑うしかないなんて相手は今まで出会った事がなかった。
(これはやっぱり、いつもと世界が違うから、なの? こんなんじゃ百獣の王の名が泣いちゃうっ!)
くまは奥歯をぎゅうっと噛みしめると、本来の目的の事だけを考えるようにした。
(とにかく、今はアイツの目をこっちに引き付けておかないと……!)
アレをどうこうするのはその後だ。
今のところは上手くこっちについてきているようだが。
あのクラゲは熱を感知する能力を有しているのだろうか?
こうして松明を手にしたくまの後を、あの海月はまっすぐに浮遊しながら追ってきている。
(この火が燃え尽きるのが先か、それともボクの方が……)
さっきの衝撃と一緒に吹き飛ばされた木の枝にくまはライターで再び火をつけていた。
松明とは言っても、かなり単純なものだったが、今はこれでアイツを誘導できている。
ただ、先ほどのような雷が落ちたら、すぐに消えてしまうだろうけど。
じゅっ。
「うあっちちちっ!!??」
松明の火の粉が手に落ちてきて、くまは悶絶して手をぶんぶんと振る。
それでも火が消えることはなかったが。
もう少し長い木の枝なら良かったのだろう。
思っていたよりも火に勢いがあったみたいで、そんなに長くはもたないのかもしれない。
かと言って火が消えてしまえば、それこそ意味のない事になってしまう。
別の枝に火をうつすか、燃やせばいいのだろうが、辺りには雪が被った木々しか生えてない。
なので、枝を折って新たに火を起こすとしても相当な時間がかかることは予想できることだろう。
それに、そのような余裕を与えてくれるような相手ではない。
もし、立ち止まってしまったら最後またあのイカヅチが降ってくるだろう。
さっきは間一髪のところで避けることができたが、次も同じように避けられるかと言われたら。
(……無理っぽい感じはする。まだ良く分かってない部分が多いし、今度食らったら、流石のボクだって……)
雷が頭の上に落ちてくる瞬間、全身がびりりと震えてしまった。
クラゲに刺されるとしびれるような痛みが走ることがあるようだが、実際にあんな電気的なエネルギーが出るわけがない。
相手は化け物のクラゲなのだから、そのような一般的な常識が通用するはずもないのだろうが。
(やっぱり、違和感ある……)
くまは松明を持っていないもう片方の手の感触を確かめるように手のひらを何度も走りながら開閉させていた。
(さっきから手のしびれが取れないよ……利き手じゃないほうだからまだいいのだけれど)
避けたと思った落雷だったが、どうやら少し腕を掠めていたらしい。
左の肘から下の感触がほとんどなくなっていた。
動かすことぐらいはできるけど、何かを持ったり、ましてや殴りつけたりなんかのことは当分できないだろう。
まあでも、かすり傷ってぐらい。
くまはそれを敵に悟らせないよう、痺れてしまった方の腕をむしろぶんぶんと回していた。
そんなハッタリがあのクラゲにどう見えているのだろうか。
ただ滑稽なだけに見えているだろうが。
(それにしてもあの”ダイダラボッチ”があんな姿になって、しかもあんな事までできるなんて……せいぜい姿を変えられる程度だと思っていたのに)
聞いた話とは全然違っていた。
もっともそれを自分に教えてくれたのも、同じような妖怪のような奴だったから、そこまでの信ぴょう性はないのかもしれないが。
それにしたって、これはおかしい事だ。
あれがクラゲの姿をしている事ではなく、能力的なものが疑問だった。
(もしかしたら、他の化け物がいるとか……?)
くまは宙に浮くクラゲの更に上方の空にちらりと視線を向ける。
そこには漆黒しか見えない。
月も星もない真っ黒な空には、化け物みたいなクラゲが雪の中悍ましく漂っているだけ。
でも。
(何か、気配って言うか予感がする……とても嫌な感じのものを……)
現時点でも結構ヤバイ状況なのに、これ以上の何かがあるとでもいうのだろうか。
考えただけで震えがくる。
体力にはまだ全然余裕はあるけれども。
ただ、どこまで走ったらいいのだろうという焦りと疑問はあった。
山の中なのに、この真っ白な雪はどこまでも広がっているような感じがしていた。
今までとはまた違う空間に飛ばされてしまったみたいに、目に映るものすべてが疑わしく思えてしまう。
このモヤモヤを解決するためにこうして走っている。
そういう風にくまは結論付けた。
(そうしていれば、いつかはあのダイダラボッチも、この世界もすべて元に戻るはずなんだ──)
そしてそれは、自分の役割ではなくて。
そう。
(燐、キミに……!)
ボクにはそのスイッチとやらが見えないのだから、キミに頼るしかほかない。
風車をとっとと見つけて、この世界を変えるスイッチを切り替えてもらうことしか。
この悪夢は、終わらないだろう。
例えダイダラボッチを倒したとしても。
(本当に……ここは夢の中なんだろうか)
現実との違いが良く分からなくなる。
あんな無人の列車が走っていたり、人っ子ひとりいない町を顔のない化け物が徘徊をしてたりなんてことは現実にはないだろうが。
あんな馬鹿でかいクラゲも空にいないし。
それ以外だったらどうだろう。
それでも現実とどこか違うのだろうか。
彼女たちに聞いた話だと、もっと不思議な世界なんかもあったようだが。
普通に寒さや痛みも感じ取れるし、さっきからお腹もぐーぐーと鳴っている。
情景だけが夢の中で、自分たちだけが現実の中……そんなことがあるもんなんだろうか。
それって、都合がいいだけ?
この場合は、悪い方だろうか。
考えるたびに頭がこんがらがりそうになる。
この変てこな世界に来てからは野生の勘もなにも全く動いてはくれない。
何かしらのもどかしさをずっと感じている。
縛られているというか、何らかの制限が掛かっている。
そんな風に感じてしまうのは何故なのだろう?
ずっと見られているように感じるのも、ただの気のせいなんだろうか。
分からない。
何も。
ただ今は走る事だけと、空腹を紛らわす為に美味しいもののことだけを頭で考えることにした。
余計にお腹が減ってしまったけれど。
……
……
……
「がううぅっ!!」
木々がざわざわと横に揺れて、真っ白い雪がぶわっと顔面に降りかかってくる。
また吹雪のような状況となってしまって、薄く目を開けるのがやっとのことだった。
こんな悪天候のなかをひたすら走らなくちゃならないなんて。
だが、あのクラゲは凍りつきもせずに平然と飛んでいる。
頭からっぽのくせに何であんなに余裕しゃくしゃくに浮かんでいられるんだろう。
むしろそうだからだろうか。
(頭がある方がこんな思いをするだなんて!)
不条理を覚えたくまはジタバタと暴れだしそうになっていた。
(まったくもうっ……!! これでもクマだっていうのにさぁ!)
あのクラゲのほうが生物、いや妖怪として優れているとでもいうのか。
そんなのは断固認めない。
誰かが認めてもこのくまだけは。
絶対に。
だから、こんな程度のことでへこたれてしまうとか、情けないクマにもほどがある。
(化け物クラゲがっ……! 後で刺身にして食ってやるっ)
くまは痛いほどに唇を噛みしめた。
あんまり美味く無さそうだけど。
半端な半妖の姿でも、それでも”熊”だという自覚はもっているつもりだ。
もう半分の人間の方よりもちょっとだけ強く思っている。
だから、まだ大丈夫。
片手はまだ動かなくとも、足は両方ともこんなに激しく動かせているのだから。
でも、と思う。
「だから、罠を仕掛けておけばいいって……そう言ったのに」
くまはぼそりと呟いた。
しかし、あんなバカでかい空飛ぶクラゲ相手にどういった罠を作ればよかったのだろう。
餌として木に大きな魚でも吊るして置いたら、引っ掛かってくれただろうか?
まず、無理だろうと思う。
あの大きさでは餌や罠があったところで、デカすぎて釣り上げる事なんてできるはずもないし、それに正体はただの化け物なのだから。
(鯨を釣るよりも難しい……きっと)
くまは自分で思い浮かべた空想の産物に対してふふっとせせら笑ってみせた。
「おおっとぉ!」
つい油断して足がもつれて転びそうになったが、くまはくるりと空中で一回転して雪の上に華麗に着地をしてすぐに走り出した。
ふふん。
くまは小さな鼻を鳴らすと笑みを見せた。
(まだ、ボクの
とうとう頭が馬鹿になったのだろうか。
それか、興奮している?
こんな危機的状況に陥っているのに?
いや、むしろ……だからなのかも。
もしかしたら、この時がそうなのかもしれない。
獣も人も超越した……”かんぺきな存在”となるのは。
そうだ。
「手負いの熊の方が……より狂暴なんだっ……!! それを、アイツに証明するまではっ」
だからまだ止まれない。
例えこの足が折れてしまったとしても。
あの何を考えているか分からないデカクラゲに一撃をお見舞いするまでは──。
とにかく逃げるだけだ!
クマの……獣の生存本能を取り戻すまで、どこまでもどこでも。
「ほらっ! ちゃんとボクのお尻についてくるクマっ!!!」
くまは天に向かって大きな吠え声をあげた。
(今はこれでいい……! ボクに与えられた役割を全うできている。でも)
咄嗟のことだったから、詳細な打合せなんかはできなかったけれど。
目で合図を交わしたというだけで、どこまで動けているのだろう。
まあ、でも、そこまで心配するようなことはないとは思う。
自分と”同じようなもの”なんだし。
(まだ、自覚はないようだけど……ひょっとしたらボクよりも近いのかもしれない)
境遇か経験か、何が関係しているのかは分からないけれど。
(人であることが嫌になってしまった? あの子と同じように)
その方向を、くまは走りながら横目で見やる。
降り続く雪がその姿を消してしまったのだろう。
燐が行ったと思われる木々の向こう側は、白い雪のヴェールで隠されていた。
くまがこちらに注意を引き付けている間に、燐は雪の中に紛れるようにして別の方向へと行ってしまったのだったが。
(本当に、風車なんてものがあるのだろうか? 見えなくなったって言っていたけど)
その割には迷うことなく進んで行ったようだから、何かが垣間見えたのかもしれない。
風車の先端とか影とかの、そう言ったものが。
枝に雪を乗せた木や幻なんかと見間違えていなければいいのだけれど。
くまは軽く息を吐く。
(表面的にはしっかりしているように見えるけど、どこか儚い感じがするんだよね……)
”燐”だけでなく、もう一人の”蛍”の方も。
一見、違うタイプに見える二人だけど、性格的には似ているような気がする。
とても頑固というか、自分を曲げない感じが。
それ故に、二人とも儚く透明に見えるのだけれど。
(あの、座敷童の方だって……)
”民子”と名乗っていた座敷童も、一体何を考えているのやら。
座敷童いって言ったって普通に妖怪なんだから、そんなに関わり合うものではないんだろうけれど。
(ボクは、呼ばれてしまったのだろうか)
儚い少女たちと座敷童。
そして、空にいる”アイツ”にも。
偶然にしては、いろいろと出来すぎている。
この世界といい、気掛かりなことばかりだが。
「まあ、考えても仕方ないことクマね……今は」
走りながらでは、どうにも頭が回りそうにない。
くまはふうっと白い息を吐きだすと、首だけを上へ向けた。
真っ白い雪がひらひらと黒い空からつぎつぎに降り落ちてくる。
追ってくる化け物なんかよりも、止まない雪の方がよっぽど厄介だった。
さっきみたいに雪に足が取られて転んでしまったりしたら、すぐさまクラゲの餌食となってしまうだろう。
陸にいながら小魚やプランクトンのような心配をしなくてはならないことに憤慨してしまうが。
(とにかく、足を止めるようなことだけはしないように……!)
そうくまが腹づもりを決めたときだった。
「んなあぁっ!?」
雪で積もった前方の道が何かおかしくなっていることに、くまは一早くそれに気付いた。
まさかだと、思う。
雪で真っ白になっているからとても分かりづらいけれど。
使えなくなったと思っていた野性の勘がこの先に進むことへの危険を教えてくれていた。
(まさかっ崖なのっ……! よりにもよってこんな時に)
せめて看板ぐらい立てておけばいいのにと一瞬思ったが、常識などないこの世界でそんな淡い期待を抱くだけ無駄だった。
(んじゃあ、飛ぶしかないってことか……)
足を止められない以上、そうする他ない。
迂回するルートを探そうにも、崖はどこまでも続いてそうだし、その間にアイツに追いつかれてしまう可能性がある。
しかし、この崖はどの程度の深さがあるのだろう。
崖の反対側は一応見えているから、目視とはいえある程度の距離は測れそうだが。
(5メートル……いや、10メートルぐらいはありそう……!)
飛んでいけるだろうか……いや、もう行くしかないっ!!
”飛べないクマは、ただのクマ”だ。
それに。
(燐に出来て、ボクに出来ないはずがないよっ……!!)
「がうううううッ!!!」
くまは小さな体で雄叫びのような咆哮をあげる。
その瞬間、くまの髪色が金に変わり、隠していた
幼い少女の身体の内側から光が溢れ出していた。
その光に周囲の雪が反射して金色にきらきらと輝いている。
「……」
その様子を空からクラゲが見ていた。
それに呼応するかのようにクラゲは体色を変化させながら、全ての目を使ってくまを見ていた。
「行くっ、クマああぁ──!!」
そう吠えると、くまは勢いをつけて崖の端からジャンプをした。
跳躍した瞬間、風にでもなったように全身が冷たさと浮遊感に包まれる。
光を纏った少女が空を駆けていた。
それは本当に一瞬の出来事なのに、とても長い時間、宙に浮いているように感じられるものだった。
「飛べた……!! くまは飛べたんだよっ!!」
そのことに確かな興奮と歓喜を覚えたが、目線は前ではなくその上を飛んでいる崖下に向けられていた。
(……っ!!!)
くまの呼吸が一瞬止まる。
崖下は巨大なクレバスとなっていたが、その奥は黒く塗りつぶされていた。
空も真っ暗だったから、それだけならこの世界での許容の範囲内というところだったが。
落ちてきた雪が、そこに落ちた途端、ぱっと消えてなくなってしまったのだ。
溶けたのではなく、吸い込まれたという表現がしっくりとくるように。
(ここって……奈落の底なんじゃ……!?)
もし落ちたら無事に済まないだろうとかいう、そういう次元ではない。
こことは違う別の空間にでもつながっているみたいに、理解しがたい空間が崖下の深淵に黒くどこまでも広がっている。
そのようにくまには見えていた。
「ヤバっ!」
驚きの束の間、崖の向こう側がすぐ目の前に迫っていた。
「がうっ!」
くまは一声そう吠えると、両足で地面を踏もうと決めた。
流石にたたらを踏んだが、それでも転ばずに着地することが出来た。
雪のおかげでどこにも痛みとかはない。
だが、そこは崖のまだ先端の方だったらしく、くまが着地したと同時に雪の地面がぱっくりと二つに割れてしまった。
「にゃーーにゃーっ!!」
慌てたくまは思わず変なことを口走るも、とっさに地面を蹴ってもういちど飛ぶ。
さっきと比べたら全然大したことのないものだったが、今度はちゃんとした所に地面に着地……することはなく。
頭から転がり、でも止まることはできた。
おかげで体中雪まみれのくまとなってしまったが。
「ふぅ~」
何事もなく、くまはむくりと起き上がると、身体についた雪を落とすのも忘れて、今飛び越えたばかりの崖の方を指さす。
「見たか! くまちゃんの渾身の野生パワーを! 百獣の王はこのボク、くまただ一人だけなのだっ!!!」
そう大声で笑うくまだったが。
肝心なことをすっかり忘れてしまったようで。
「あれれっ?」
くまが気付いた時は辺りは真っ暗になっていた。
そこだけ雪も落ちてはこない。
(これは、もしかすると……)
止まっていた思考がゆるゆると動き出す。
傍で転がっていた松明をくまは素早く拾い上げる。
火はまだ消えてはいない。
なのにこんなにも周りが暗いということは……。
(アイツがまた……!)
上にいるというのだろうか。後ろを追いかけていたはずなのに。
瞬間移動でもした、とか。
悪寒とは違った、ぞくぞくしたものを背中越しに感じとって、くまは恐る恐る頭上を見上げた。
くまは忘れていたのだ。
崖を越える必要があるのは、自分だけということを。
「そうだった、アイツは空を──」
つまりこれは隙が出来たということ。
攻撃をするための。
くまがそう認知した瞬間、ごろごろと獣の唸り声のような音が頭の上から鳴り響く。
それは正しく前兆であった。
察知したようにくまの頭の耳がぴくぴくと左右に激しく動く。
「そんなものっ!!!」
くまは激しく舌打ちをすると、身を翻してその場から飛び退いた。
それとほぼ同時に、地面が割れたような、ものすごい轟音と衝撃が大地を貫いた。
白い雪の
……
……
……
「……っ!?」
耳をつんざくような轟音に、燐は足を止めてそちらを振り返った。
足跡が残らないようにと、なるべく木立との間を抜けるようにしてきたけれど。
どうやらこっちに雷が落ちたわけではなさそうだ。
燐はほっと胸を撫でおろすも、その音のした方を心配そうに見つめる。
「あっちの方からした音みたいだけど、大丈夫なのかなくまちゃん……」
互いにやるべきことは分かっていた。
一緒に逃げたって、空にいる化け物相手ではどうすることもできない。
あの誰もいない町の時の、燐の常識外れの
あれっきりのものだったのかは不明だが。
アイツと同じ高さにまで上がれたとしても多分意味なんかないだろう。
何かするまえにあの雷が落ちてくるだろうし。
(でも、大丈夫だよね? だって、くまちゃんだし……)
自分よりもずっと強い子だと思ってるから任せてしまったことだった。
化け物クラゲ相手に、ひとりぼっちにしてしまったことには今だって心苦しく思うことだけど。
別れる際にくまはこう言っていた。
”ボクは最強だから!!”と。
それを当てにするというわけではないが。
燐は拳をぎゅっと握りこむ。
手には、あの折れ曲がってしまった鉄パイプが握られていた。
自分の目にしか、風車は映らないようだったから。
燐は軽く首を横に振ると。
「ごめんね!! もうちょっとだけ待っててっ! 必ず戻ってくるからっ!」
燐はくまのいる方角を見ながらそう呟くと、身を翻し自分が思う方向へと走っていった。
辺りは雪と暗闇しかないけれど。
それでも燐は迷うことなく、白い息を吐き出しながら雪の降り積もる大地を一直線に駆けていく。
「想っていれば、きっと……!!」
だから燐は思い浮かべる。
自分を行かせてくれるために囮となってくれたくまと、この世界で今だ姿を見ていない蛍。そしてサトくんとオオモト様のことを。
そして、白い風車の輪郭を強く思い浮かべた。
きっとそこにある。
世界を変えるスイッチが。
そう信じて──。
降り続く雪の中を、燐はひたすらに前だけを向いて走った。
……
……
……
「やっぱり、これって刀剣の類だったんだ」
袋に入っていたものを一目見るなり蛍はそう呟いた。
だが、すぐに鞘から抜くようなことはせず、蛍は布袋から出した鞘の付いたままの刀をまたテーブルの上へと戻した。
(何だろうこの感じ……こんなもの初めて見たはずなのに……)
何故だか少し覚えがあるような、ちょっと懐かしいような感じがする。
既視感というほどはっきりとしたものではなく、ふわっとしたものだけれど。
蛍は言葉に出来ないもやもやとした思いを感じとっていた。
こうして刀を手にしたのも初めてのことなのだから、それは不思議なことなのだけど。
まだ鞘に入ったままなのに、もし刀を抜いてしまったらどうなるのだろう?
(けど、綺麗な刀だと思う、少なくとも怖いとかの感じはないんだけど)
光沢のある綺麗な鞘に収められた刀剣は、見事な反りを持っていた。
刀の長さは、それほどでもない。
ただ、鞘に入ったままだから実際の長さや大きさのほどはまだよく分からないが。
袋からそれを取り出した途端、蛍の背筋に悪寒のようなものが不意に走ったが、これは生地の薄いこのバニーガールの衣装のせいだろう。
蛍は不意に顔を上へとあげた。
その視線がある一点に注がれる。
漆黒の天井で光る輪の方に。
その光が、テーブルの上のつるりとした木製の鞘の表面に映り込んでいた。
蛍は不思議そうに首を傾げる。
(結局、あれって、何のためのものなんだろう……?)
どこまでも続いていそうな真っ暗な天井のその上で、光の円環がくるくると回っている。
光が集って輪を作っているだけの不思議な光景なのだけれど、それがどこか物悲しく思えてしまうのはなぜなのか。
(たぶん、似ているからだと思う)
ぼんやりとひかりを見つめながら、蛍は記憶からある情景を思い浮かべる。
旧小平口町で起こった異変の最後の時に、顔のない異形の人々が突如として光へと変化し、真っ黒い空へと飛んでいったあの光景と似ている気がした。
あの時は星のように空へと浮かんでいったけど。
今のこの、幾つかの光るテルテル坊主が重なり合って輪を作っている光景が少し似ているような気がしたのだ。
顔のないテルテル坊主たちは、手を取り合っているみたいにぴったりとくっついて回っている。
手はついていないのにそう見えてしまうのは何故なのだろう。
皆同じ大きさで同じ色の光を出しているからだろうか。
そうなるように作られたというよりも、自然とこうなってしまったかのようにみえる。
どのテルテル坊主にも顔なんかはないけれど、どこかしら個性のようなものが垣間見えるような、そのようなものを蛍は遠くからでも感じとることができていた。
詳細はさすがに分からないが。
適当に拵えたというものわけではないような気はする。
(人形には、持ち主の想いが宿るとか聞いたことはあるけど……あれもそうなのかな)
だったら、あのテルテル坊主の本当の想いとはいったい何なのだろう。
「……」
蛍はしばらく上を見上げた後、不意に視線のようなものを感じてそちらに目線を戻した。
黒檀のような黒い瞳がこちらを見ている。
やはりというか、オオモト様が何も言わず蛍の方を柔らかい眼差しで見つめていた。
返事を、待っている。
そのような印象を蛍に抱かせていた。
──この人との出会いは偶然だったんだと思う。
青いドアの家でオオモト様はひとりで待っていた。
何をというか、自分を見つけてくれる誰かを。
(それはわたし達だったけど、異変が起こっていなかったらどうなっていたんだろう)
変な事を考えてしまい、一瞬戸惑った表情を見せる蛍だったが、小さく息を吐くと、ゆっくりと唇を開いた。
「あの、オオモト様」
「何かしら」
「何故、これをわたしに」
蛍はテーブルの上を指差す。
どうしてこんなものを、自分に渡したのだろうか、と。
そう蛍が問うとしたその前に。
「わんっ」
いつの間にか、白い犬が蛍の足元に来ていた。
「サトくん?」
蛍は小さく口を開けたまま、サトくんの方を見る。
近寄ってきたサトくんも蛍をじっと見ている。
そう思ったが。
(サトくんが見てるのは、わたしじゃなくて……もしかしてテーブルの上……?)
多分、間違いないだろう。
サトくんの瞳には蛍の姿は映っていなかった。
どうやらサトくんはテーブルの上で納刀されたままのあの
でもそれは何故なんだろう。
男の子だから気になってしまうのだろうか。
サトくんは犬なのに。
「それはね、あの町の……いちばん大きな家の中にあったものなのよ」
オオモト様が静かな声でそう言った。
(……っ!!)
あまりにもざっくりとした言い方だったが、蛍にはそれだけで何のことか分かってしまった。
(それって……
蛍もサトくんと同じく視線をまたテーブルの上の物へと向けた。
新品同様といってもいい、綺麗な鞘に収まった刀が横たわっている。
少し長めの持ち手には紫色の紐が括られていて、
歴史を感じさせそうなものでありながらとても状態は良く、このまま資料館に展示した方がいいのではと、蛍はつい思ってしまうが。
むしろ。
(あの家に関係のあるものなら、いっそのこと処分した方がいいような気もする)
蛍は本気でそう考えていた。
あの家からはあの異変と関係がありそうなものが幾つか見つかったが、蛍としては複雑な思いがあった。
「その刀はね、あの家からなくなってしまったものなのよ。ある理由からとある山中の祠に安置されていたものだった」
「でも、祠はある日なくなってしまった。刀は無事だったけど、もともと人が立ちいることがほとんどなかった山だったから、誰にも気づかれることがなかったのね」
オオモト様のその言葉に蛍ははっとなる。
「その山って……もしかして」
燐と度々訪れるようになった、あの”ナナシ山”のことではないだろうか。
だがそれよりも、もっと気になることがある。
(三間坂の家のものってことは、もしかしたら……座敷童と関係のあるものなのかも)
あの家では、座敷童を模したと思われる人形や地図なんかも見つかったわけだし。
この刀にだって座敷童と何らかの関係があってもおかしくはない。
全ては、あの家から始めたことだったのだから。
町のことなんか何も知らなかった蛍は、座敷童のおかげで家も町も栄えたのだという話を繰り返し聞かされていたせいで、半信半疑ながらもその時までは信じてしまっていた。
実際は、座敷童を無理やりに孕ませて、それで町に幸運をつなぎとめるという歪な形であったわけだけど。
そのせいであのような異変が町に起こってしまった。
その事実を知ってからは、三間坂の名前どころか自分の存在すらも嫌になってしまった。
自分の中に座敷童の血が流れていたから尚更。
だから何故、こんなものをオオモト様は自分に渡すのかが分からない。
三間坂家と……座敷童。
因縁というか、呪われた関係というやつなんだろうか。
そう言った類のものは信じてはいないけども。
(それだって、もう、わたしには関係のない事だよ……)
まだ三間坂の姓は変えてはいないが、あの家にはもう住んではいない。
改築を繰り返した結果、旅館のように無駄に広かった三間坂家は、今では町の郷土資料館となっていた。
だからもう、蛍と一切関係はなくなったかと言われれば……実際のところは微妙ではある。
(まだ、
いつになったら
はぁと大きく息を吐くと、蛍は座っていたベッドの縁からすっと立ち上がり、テーブルの上に置いた鞘付きの刀を手にとって、オオモト様の前に差し出した。
「……」
オオモト様は何も言わず、複雑な表情で刀を手に立ち尽くす蛍を見つめる。
「その……わたしには、これを受け取る理由がないです。もとは三間坂家のものであったとしても」
蛍の中にあの家に対する憤りというか拒絶のようなものがあったのだろう。
唇を震わせながら、でもきっぱりとオオモト様にそう言っていた。
「……そう」
しばらくの沈黙の後、オオモト様は小さく一言そう言った。
長い睫の瞼を閉じて、諦めのような吐息を一つ吐いている。
蛍の胸に針で刺されたような小さな痛みがあったが。
(オオモト様がせっかく渡してくれたのに、無下に断るようなことをして悪いとは思ってるんだけど……でも、こんなの)
話を聞かなければ良かったことなんだろうけど。
あの家のやったことは到底許されることではない。
誰の記憶からなくなっても、自分だけは覚えているから。
だから、こうして手に持っているということにすら嫌悪感を覚えてしまう。
幸運を、そこにとどめておくためだけに座敷童にあんな酷いことを、それも何度もしたわけだし。
同じことを何度も繰り返し、更には隠ぺいまでしていた。
今にして思えば、町の歪みが起こってしまったのは当然のことだったのだろう。
一部とはいえ、町ぐるみで隠していたことだったわけだし。
しかもその相手は今、目の前にいる人なのだから。
尚のことそう思ってしまう。
(でも、なんでオオモト様は刀が三間坂家のものだって、話してくれたんだろう?)
蛍は眉を寄せてオオモト様を見つめた。
「でもね、蛍」
オオモト様は何故か悲しそうな顔で小さく口を開く。
そのことを蛍は少し疑問に思ったが。
「それでも、蛍が持つべきものなのよこれは。ここから出たくばね」
オオモト様のその言葉に蛍は軽く目を見開いた。
「あの、どうやったらこれでここから出る事なんてできるんですか? それにわたしは──」
「蛍にね、一つお願いしたいことがあるのよ」
思わず反論しようとした蛍の言葉を遮るかのように、オオモト様はそう言葉を続ける。
「わたしにですか?」
さっきの話を聞いても、蛍としてはこの刀を手放したかったのだが。
「ええ。あなたにしか頼めないことだから」
オオモト様は軽く微笑むと蛍に頭を下げてしまう。
「そんな……そんなのって」
先にオオモト様にそうされてしまっては蛍としてはもう断りようがない。
(でも、オオモト様……ここから出るためって、また言ってたけど)
やはりこれが出るためには必要なものらしい。
三間坂の家のものなんかには頼りたくはないけど、ここから出るためだと思えば。
(そうだよね……”もう一人のわたし”の事もあるし、それに燐がここにいたらきっと……)
助言はするだろうが、反対こそはしないだろうと思う。
だって、見ている方向は二人とも同じなのだから。
(それで良いんだよね? 燐)
胸中で蛍は言い訳めいた言葉を何度も呪文のように唱える。
そうすることで自分を納得させるつもりのようだった。
「ねぇ、蛍」
「えっ、はい」
驚く蛍にオオモト様は人差し指を自身の唇に添えると。
「その刀を鞘から抜いてみたらどうかしら。あなたにならできるはず」
「わたしなら?」
どういう意味での言葉なのだろう。
蛍はオオモト様の方を見ながら不思議そうに首をかしげる。
「でもわたし、剣道とか習ったことってないんです」
中学の時の授業であったバトンを使った体操もあまり得意な方ではなかった。
包丁だって燐と一緒に暮らすようになってから家で初めて握ったくらいだったし。
(それなのに、何であの時は消火器なんかを振り回したんだろう……?)
今でも不思議に思ってしまう。
自分のことじゃないみたいに。
恥ずかしそうに頬を赤らめて、蛍がそう正直に話すも。
「大丈夫よ。蛍なら」
そう言ってオオモト様は小さく笑みをつくる。
「でも」
持つのも嫌なのに刀を抜けと言われても。
渋る蛍にオオモト様は困ったように眉根を下げて見つめている。
呆れてはいないようだが、蛍にはオオモト様に見限られてしまったように感じた。
(だからって、嫌いになるとかじゃないけど……)
こういった俗っぽいものとは無縁な人だと思っていただけに、蛍は少し残念な気持ちになってしまった。
(ここまで来たら、剣を抜いてみるしかないんだろうけど)
ものがものだけに、言われたからといってそう易々と刀を抜くというわけにもいかない。
何か悪いものを感じるとるとかではないが、これはいわば凶器を抜くようなものなのだから。
あの時の燐じゃないけれど、刀剣を扱うのにはその為の資格か免許のようなものが必要だった気がした。
(確か、銃刀法違反とかになっちゃうんだっけ? 刃渡りとかもあったような気がするけど)
まあ、こんなところではそんな常識など意味のないことだとは思うが。
車の免許なんかと同じで、使い方次第ということなのだろう。
どちらも危険を伴うものだし。
(変なところを触っちゃったりしたら怪我とかしそう)
下手したら指が切断、とかもありうるのかもしれない。
どうしたものかと蛍が視線を宙に彷徨わせていると。
(あ……)
白い犬と目があってしまった。
サトくんは黒曜石のような黒く大きな瞳をくりくりとさせてこちらを見つめている。
さっきもこの刀を見ていたから、気になっているのだろうか。
牙をむき出しにして威嚇している、とかのこともなく。
蛍とこの剣のことをただ眺めている。
そんな感じだった。
「こういうのが気になるのはやっぱり、サトくんも男の子だから?」
蛍にそう聞かれてもサトくんはわけが分からないとでも言うように、ちょんと小首を傾げている。
無関心ではないのは分かるが、すぐさま何か蛍の助けになるようなものをしてくれるような素振りは白い犬からは見受けられそうにない。
ここで動きを求められているのは、蛍ただひとりのようだった。
もしも、燐だったらこの状況でどうするだろうか。
(燐……)
大好きな人の顔を脳裡に思い浮かべながら、緩慢な動きで蛍は刀を左手に持つと、オオモト様の方を向いて問いかけた。
「えっと、これを使えば燐に会えたりするんでしょうか?」
蛍は質問する言葉を少し変えてそう問いかけた。
緊張しているのか、声色が少し上ずっていたが。
「そうね、蛍の願いはきっと叶えられるとは思うわ」
「願い、ですか?」
「あなたが強く願っていれば、きっとね」
「……そうですか」
(何か、引っ掛かりみたいなものはあるんだけど……)
こうして躊躇していても、それこそ何の意味もないことだろう。
じっとしていればいいと言ったオオモト様が、出るための提案をしてくれているのは良く分からないが。
「ねぇ、サトくん」
蛍はオオモト様ではなく、なぜか白い犬の名前を呼んでいた。
すぐ傍にいたサトくんはとことこと近づいて蛍の足元でしっぽを振っている。
本当に賢い子だと思う。
”彼”の一部などなくとも、最初から人の言葉が分かっていたのではと思うぐらいに言うことを聞いてくれている。
蛍はサトくんの頭を手でそっと撫でた。
「もし、わたしに何かあったら後のことをお願いできるかな? サトくんになら燐の事とか任せられると思っているから」
もしゃもしゃと頬のあたりや首なんかをいっぱい撫でてあげる。
サトくんは小さな鼻をふすふすと鳴らしながら、蛍にじゃれつく様子を見せている。
「サトくんも、可愛いお洋服を用意してもらえばよかったのにね」
ピンクのフリフリのドレスで着飾ったサトくんを想像して蛍はくすっと微笑む。
「そうね。あなたならどんな衣装でもきっと良く似合うと思うわ。とても綺麗な顔立ちをしているから」
そう言って、オオモト様もサトくんに触れた。
自分たちの格好のことは気にせずに、サトくんに似合う恰好を二人は笑いながら話し合っていた。
そんな蛍とオオモト様をサトくんは、きょとんした眼で眺めていた。
……
……
サトくんのおかげで緊張が解れたというか。
久しぶりにちゃんと笑うことができた気がした。
「じゃあ、やってみるね」
蛍はいま目覚めたように白い犬に笑顔でそう告げると、柔らかい毛並みから手を放して、傍に立てかけておいた重く固い刀を再び手に取って立ち上がる。
改めて持ってみると、重量はあるが意外と持ちやすいものなんだということを急に実感した。
ゲームや漫画なんかでよく見かけるお侍なんかが腰に差しているのをよく見るけれど、自分にはそれはできそうにないだろう。
両手で持つだけでも今結構大変だし、ましてやそれを振り回して何か斬るなんてことなんか。
恐らく、一回振っただけでも手が痺れてしまうだろう。
最悪、肩が外れてしまうかもしれない。
(でも、両手で持って構えることぐらいなら)
刀の型なんかは全く分からないけど、それぐらいの事ならできそうな気はする。
漫画なんかではよくみるし。
実際に、この刀で何をするかまではまだ聞かされてはいないけれど。
(とりあえず、鞘から引き抜いてみるしか)
何も始まりそうにはない。
「っと」
納刀された状態の刀を蛍は左手に持ちかえる。
まるで鉛を片手で持ったみたいに、左腕がずしんとくる。
鞘の下部分の紐が括ってある所を握っているから、指からすっぽ抜けるようなことはしないと思うけど。
(ちょっとでも油断すると、指から離れていっちゃいそう……!)
指先に変な汗が出てしまう。
真剣を握るというのは、こんなにも緊張してしまうものなんだ。
さっきから蛍の手の震えが収まらないでいた。
(でも、抜くって決めたんだからっ……!)
小刻みに震える手に構わず、腰骨の辺りで構えた刀の柄に右の掌を乗せた。
やり方などはまったくわかっていない。
映画かドラマで見たお侍が、こんな風に剣を抜いていたようなイメージが頭の片隅に残っていた。
蛍は見よう見まねでそのようにしてみたのだが。
「あ、あれっ? 何か、全然抜けない……!?」
柄をギュッと手で握って力任せに刀を引っ張ってみるも、かたかたと小刻みに音が鳴るだけで、肝心の刃の部分が鞘からでてこない。
焦った蛍はえいっ、と掛け声をあけて強引に刀を引き抜こうとしたが。
やはり抜くことはできなかった。
少女が鞘からを抜くことを、刀自体が拒んでいるみたいに。
びくともしてくれない。
やはり、やり方が間違っているのかもしれないと思ったが、知識のない蛍はさっぱりだった。
(こんなことなら、時代劇をちゃんと見とけばよかった)
見たことはあったけど、覚えているのは役者とか話の内容ぐらいで。
刀を擬人化したゲームアプリなんかもあったが、全く興味のなかった蛍は話どころか、インストールすらしていない。
つまり、蛍はうろ覚えの知識で抜こうとしている。
多分、ほんものの剣を。
どうしよう。
思わず蛍が頭を抱えそうになった、そのときだった。
(──えっ!?)
暖かく柔らかいものが蛍の手に不意に乗せられた。
「刀を抜く時は、指で柄を押し上げるようにして、腰で抜くのよ」
「オオモト様……」
背後から柔らかい声が響いたかと思うと、鞘を握っている左の手に陶磁器のように白いオオモト様の掌が蛍の手の上に添えられていた。
蛍はあっけにとられてしまい、刀をもっていることすら忘れたようにぽかんとなっていた。
「手元を見るのではなくて、顎を引いて前をしっかり向いていた方がいいわ。変なやり方だと刀を抜くだけで怪我をしてしまうこともあるのよ」
(あっ……)
右手にもオオモト様の手が乗せられる。
その瞬間ふわりと花の香のような香りが、蛍の鼻をくすぐった。
こんな風にこんな近くでオオモト様と触れ合ったことなど、蛍にとって初めてのことだった。
「……はい」
いつの間にか背後に立っていたオオモト様が蛍の手をやさしくとって、刀の扱い方を教えてくれていた。
武器という概念のものを一度も握ったことのない蛍にとっては、とてもありがたいことだったが。
(そういえば、オオモト様とこんなに密着したことってなかったのかも……)
しかもお互い下着とそんなに変わらない格好をしているのだから、肌と肌が直接触れ合っているようにすら感じてしまう。
それを意識してしまったのか、蛍の顔が真っ赤になっていた。
「えっと、ゆっくりでもいいんですか?」
前を向いたまま、たどたどしく後のオオモト様に尋ねる。
こくりと頷いたようだが、蛍にはそれは見えない。
オオモト様は小さく微笑むと。
「ええ、扱い慣れていない蛍にはその方がいいわね」
こくん。
蛍は顔を紅くしながら何とか顎を動かして返事をすると、そうオオモト様に言われたように、左の親指を鍔の内側に添えてゆっくりと押し上げてみる。
かちっと何かが外れたような金属音がして、鞘が持ち上がった感覚が折れそうに細い蛍の指先越しに伝わる。
指先が緊張の汗でべとべとになってしまったが、それでも止まることなく手を動かした。
「ここから左手を上にあげて……そう、上手ね。蛍は呑み込みが早いわ」
腰に添えた刀を水平に持ち返すと、柄を上から包み込むように右手で持って、ゆっくりと鞘から引き抜いていく。
暖かい声が、蛍の耳の上の方からやわらかいテンポで降ってくる。
オオモト様の吐息交じりの声色に、蛍はとても落ち着くと同時に耳まで真っ赤にさせていた。
ここで気を抜くと危ない事になるのが分かったのか蛍は軽く噛む。それで剣を抜くことだけに集中することができた。
ちりん。
(今、なにか……!?)
鞘から刀を抜いたと同時に何か弾むような音がした。
小さな鈴の音みたいなとても微かな音だったけれど。
「緊張した? でも、あなたからできるって分かってたから」
どうやら、うしろのオオモト様の声ではない。
あれは刀が発した音だったのだろうか。
まさかだとは思うが。
だが、そう思い込んでしまうほど綺麗な音だった。
それは刀の方も。
鞘から抜いてみてそれが良くわかった。
「……本当に、わたしが」
蛍の瞳に、すらっとした白い刀身が光の柱のように白くまっすぐに写り込んでいた。
オオモト様のおかげでそこまで苦労することなく引き抜くことができたその刀は、模造刀なんかではなく本当の真剣だった。
ほとんど使われていないみたいに、刃こぼれ一つしていない。
鏡面のように美しい刀身には、水で濡れたような模様が刃の上辺に施されている。
まったくの素人の蛍でも、息を呑んでいる。
それだけ美しい刀だったのだ、これは。
人の命を奪う鋭利な道具だなんて考えもしないほど見とれていた。
しかもそれが今、自分のこの手に握られている。
そのことに実感が湧いてこない。
だが、非現実的なものとして胸中では実感はしている。
その事を表すように、蛍の手の震えはまだ完全には止まってはおらず、これが現実であることをまざまざと思い知る形となっていた。
肺の奥のほうから出したように大きなため息を蛍は吐いた。
その息すらも切ってしまいそうなほど、大きな刃が否応なしに目に入ってしまう。
今すぐにでも投げ出してしまいたい思いはあったが、何故か指が離れてはくれない。
刀と指が一体になったみたいにぴったりと張り付いている。
それに蛍が戸惑っていると。
「受け入れてあげればいいのよ」
手の上に添えられているオオモト様の指先に力が少し加わる。
実際、蛍とオオモト様の二人で刀を持っているようなものだった。
(けど、こんなのでどうやってここから出ることができるって言うんだろう……? あ、もしかして……!)
蛍は首だけをオオモト様の方へと向けた。
「もしかして、これでもう一人のわたしと戦う……そういうことですか?」
この刀を渡された意味にもそれなりに合点がいく。
ただ素人である蛍に武器があったところで、本当に戦えるのかの根本的な疑問はあるが。
オオモト様は首を振った。
「そうではないのよ。でも、もしかしたらもっと面倒なことかもしれない。あなたにとってはね」
「…………」
蛍は刀剣を握りしめながら、小さく首を傾げた。
てっきり、もう一人の自分の影を斬る為だと思ったのだけれど。
オオモト様が言うような面倒なことが他にあるのだろうか。
(例えば……この刀でここの空間を切って出るとか?)
想像してみたがあまりにも荒唐無稽な事だと思う。
それこそ漫画じゃないか。
だったら、何だろう?
面倒なことと言うオオモト様が言うぐらいなのだから、相当難しい事なのかもしれない。
(でも、
慣れていない素人だからという意味ではない気がする。
それよりももっと狭い、個人的な事柄のような気がした。
一仕事終えた安堵からくる高揚感が、蛍の全身から熱を引いたようにさっと冷えていく。
代わりに、ざわざわとさざ波立つ気持ちが体の奥の方からふつふつと沸き上がってくる。
よく考えてみたら、相手が例え怪物やその類のものだからって、これは命を奪うものには変わりないのだから。
(やっぱり、抜かない方が良かったのかもしれない……)
つい手渡されてしまったから、そんなに深く考えずに受け取って、そうしてしまったけれど、もっと慎重になるべき事柄だった。
蛍は今更ながらに刀を抜いてしまったことを後悔し始めていた。
だからと言ってオオモト様を責めたりするつもりはないけど。
自分の思慮の浅さに呆れ返っているというだけで。
「それで。蛍に頼みたいということは」
疲れたように深い息をつく蛍にオオモト様は耳元で囁いてくる。
その声色はとても落ち着いていて優しいものだったから、沸き上がった疑念など忘却するぐらいだったが。
放たれた言葉はことのほか衝撃の大きいものだった。
ハンマーで直接頭を殴られたみたいに。
「ええっ!!??」
思わず手にした刀を取りこぼしそうになった。
蛍の背後からオオモト様が支えてくれるおかげで、何とかそれは回避することができたようだけど。
蛍はぽかんと口を開けたまま、虚ろな表情となっている。
頭の中が急に真っ白になったように、ふらふらとおぼつかない挙動で佇んでいた。
(今……なんて言ったんだろう、オオモト様……だってこんなの、わたしの耳がおかしくなったとしか……?)
そうでなくてはあんなことを、それも自分に言うなんて、とてもじゃないが信じられない。
しかしオオモト様は自分の言った言葉を肯定するように、それっきり黙ってしまった。
そんな事の為に、こんなものを渡しただなんて。
本当に有り得ないことのはずなのに、どうしてわたしはそれを手に持っているのだろう。
こんなもの、返すか捨ててしまった方がいいのに。
(……だって)
それが彼女の”ほんとうの願い”であったとしても。
──できるわけがない。
だって、わたしはこの人の。
最後の
それで、分かったことがある。
あのナナシ山にぽつんとある石碑。
何のためにあるものなのか分からなかったけど、それがようやく分かった。
(あの山の石碑は、この為のものだったんだ……)
消えていった座敷童を祀る為のものだとてっきり思っていたけど。
そうではなくて。
この、刀を隠しておくためだけに作られたものだった。
だからこれまで誰にも見つからなかったんだということが、分かった。
……
………
…………
どもです。
遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。
でももう1月もおわりなんですよねー。なんか早すぎませんか? まあ、今頃新年のあいさつをしているわたしが言うとこではないんですけどねー。相変わらず怠慢です。ですます。
monoのアニメ、4月放送ですか~こっちも早いー。公式では壁紙やアイコンも配布されておりますねぇ。でも、先中では一番の推しのクロクマ先生の壁紙がまだないみたいですが? もしかしてアニメには登場しないとかとか?? それに原作では同じ作者である、ゆるキャン△のキャラがちらほら出ている描写がありましたけど、それもアニメで再現されるのでしょうか? 続報が待たれるところです。
まあ、初詣に行ってみたら、人混みがすごくって結局お参りもせずに帰ってしまいました。しかも2回も……今年はなんかいつもよりも参拝する人が多い気がしたしますねぇ。コロナ渦からどうも世相が落ち着かないからでしょうか? もしくは外国人旅行客が多く訪問している影響もあるかもしれないですねー。様々なところで見ますし。
相変わらず物ぐさで遅筆なTowelieですが、今年もどうかよろしくお願いします。
ではではでは~。