We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life. 作:Towelie
半ば諦めかけていたものが急に目の前に現れたことに、燐は凍り付きそうになっていた
「あった……本当に……!」
まだ信じられないといった様子で燐はそう呟く。
実際、吹雪のせいで風車と思しき影は白く霞んでいて、雪を被った木や山と見間違うほどだった。
まだはっきりと断定できるものではないが。
「もうちょっとだけ前に行けば、きっと何かが分かるはずっ」
高く降り積もった雪の壁をかきわけるようにして、燐は体ごと前へと進む。
だが、少女のその思いを打ち消すかのように、真っ暗な空から雪はどんどんと降ってくる。
露骨に顔をしかめる燐。
「もう、何でこんなに雪が降ってくるのよぉ! ってわぷっ!!」
燐がそう文句を言った矢先に、口の中に雪が入り込んだ。
雪が口に入ってしまうのを最初は嫌がっていた燐だったが、流石にもう気にならなくなってしまった。
髪の毛だってとっくにそうだが、まつ毛すらも凍りそうになっていたのだから。
この吹雪の中でこうして動けていること自体、奇跡みたいなものだった。
(それは本当に。よく無事だと思うよ、自分でも)
それがこの変な格好のおかげだとするのならば、それは感謝するべきことなのかも。
本当にちょっとだけだが。
だが、それももう限界になりそうになっていた。
気持ちでは焦っていても、身体が思うように動いてはくれない。
燐の小さな身体は、この白い世界の中ではその半分以上が雪の中に埋もれてしまっている。
辺りは銀世界どころか、それを消し去ってしまうほどの雪の雨と激しい風が暴風のように吹き荒れていて、少女の行く手をことごとく阻んでいた。
吹きすさぶ風はとても強く、気を抜いたら吹き飛ばされてしまいそうなほど。
綺麗だと思っていた雪の情景は、まともに目も開けていられないほどの厄介な猛吹雪へと変化していて、積雪は燐の腰よりも高くなっていた。
周りの木々には葉の一枚もなく、細黒い枝には雪がツララが垂れ下がっているだけ。
そんな、歩くことすらままならない状況だったのに、どうして少女の目に急に風車が映ったのだろう。
それまで何もなかったところに突然現れたかのように、唐突なものだった。
これには燐も訝しく思ったが。
(樹氷とかがこんな所にあるわけはないよね? ……とにかく、行ってみるしかないわけだけど)
天候は最悪そのものといった様相で、燐が何かと見間違えたとしてもそれほどおかしい状況というわけではない。
どこまでも空は真っ暗で、ほとんど何も見えないようなものだったのだから。
それにしても。
従兄の聡は、天候が最悪の時の雪の登山をしたことがあると言っていたが。
それでもここまで激しいのは、遭遇したことはないんじゃないかと思う。
雪の台風が起きているようなものだったわけだし。
遭難をしていないのが不思議なぐらいだった。
(この雪でまともに目を開けられないどころか、息をするだけでもこんなに苦しいだなんて……)
空気が冷たすぎて、肺の中までも凍ってしまいそうになる。
実際、燐は口に手を当てて歩いている。
もう雪を食べてしまうのも嫌だけど、冷たい空気が喉を通り抜けるだけで身震いをしてしまうから。
なので鼻だけで呼吸をしているわけだが。
「ふーっ、ふーっ、ふっ」
こっちだって息苦しい。
燐がいくら小さな鼻をひくひくと動かしてみたところで、十分な空気は得られないし、辛い思いをするのには何も変わりなかった。
このままでは、力尽きて雪の上に倒れて込んでしまうか、雪ダルマとなってしまう可能性もある。
その、どちらも恐ろしいことなのだが。
(もし、キツネそのものになったって……こんな雪の中で耐えられるものなの?)
狐なんかの動物はふさふさの毛皮を身に纏っているようなものだから、今よりかはちょっとはましな感じはするけれど。
でも、キツネはすべて寒さに強いのだろうか?
こんな吹雪の中では、あんな小さな身体ではすぐに凍ってしまうのではないかと思ってしまう。
今だってそんなに変わりないのかもしれないが。
(それにしても……何か、すっごく遠くにあるみたいに感じるんだけどぉ……)
自分ではさっきから一生懸命に足を動かしているつもりなのだが、一向に進んでいるような気配が感じられない。
目に映るものが、黒か白しかないせいもあるのだとは思うけれど。
それにしたってこれは。
(だからって……蜃気楼とかじゃないよね……)
近づいているという実感がないからか、燐はついそんなあり得ないことを思い浮かべてしまっていた。
痕跡というか、靴が脱げそうになるほど深い雪道に、ここまで燐が通った足跡は一応残ってはいるのだが。
そんなもの。
すぐにこの雪の下に消えてしまうことだろう。
あの風車だって、実はもうすでに消えてしまった後で、その残滓しか残っていないのかもしれない。
願望から生まれた妄想の産物として。
「ふっ、ふっ、ふうっ」
とても寒く、そして眩暈がするほど息苦しい。
ちかちかと目の前が輝いてみえているのは、雪の結晶のせいなのだろうか。それとも?
見た目で分かりやすい変化なんかよりも、見えない身体の異常の方がよっぽど怖く感じる。
多分、体があるせいなんだろう。
でも、あるのだから仕方がない。
(どうしよう、本当にヤバいよ……!!)
大分限界が近いのだろうか、燐の吐き出す息とその挙動がとても不規則なものとなっていた。
ふらふらとなっている足取りで、懸命に雪を踏みしめて進んでいる。
だがどこまで進んで行っても、いつまでも真っ暗い空と果てしなく続く白く冷たい雪原しかみえてこない。
それは、少女に残った一縷の望みすらも打ち砕かせようとしているほどだった。
こんな黒の地平線の先にそんな現実的な建造物が本当に立っているというのだろうか。
すぐ傍に誰もいないせいか、余計に絶望感を抱かせてしまう。
──あれは、幻なんかではない。
何度もそう言い聞かせている自分自身を疑ってしまうほどに。
燐の心も体も限界を迎えようとしていた。
「うむむぐうっ!?」
口どころか、とうとう鼻の中にまでも容赦なしに飛び込んでくる雪の結晶を、燐は無理やりに手で振り払う。
それすらも億劫になってきていた。
いくらやってもきりがないのだから。
(もし、風車がわたしの見間違いだったり、幻影だったとしたら……)
ここまで一体何のために来たのだろう。
燐の脳裡にはげしい後悔の念が浮かびあがる。
あの、化け物じみたクラゲを何とかしてから風車を探すべきだったのだろうか。
今更引き返すようなことももう出来ないけれど。
その戻る道すらももう分からなくなっていた。
今作ったばかりの足跡は辛うじて残ってはいたが、それ以外の跡は燐が危惧したように無情にも白い雪が隠してしまっていた。
それは、獣の耳を付けた少女の輪郭やその概念すらも。
何もかも真っ白く。
(でも、まだ動けるよ……わたし……)
そんな今の燐に出来ることといえば、とにかく前へと進むことだけ。
不安と恐怖しかない道行だが、それはあのクラゲに追いかけられているであろう”くま”の方も同じなのだから。
(もう行くしかないんだ……さっき見た風車と……変えるスイッチが、そこにあるって……!!)
体の奥の方まで心底冷え切っているはずのに、頭の中だけは燃えるように熱くなっている。
それは興奮というよりも、多分焦りからくるものだろう。
待ちわびていたものを見つけたはずなのに、なぜこんな焦燥感を抱いてしまうのだろうという不思議はあるが。
(見えた以上は、”ある”としかもう考えない……! 馬鹿な考えだとは思うけど)
こんなぺらぺらな服だけで吹雪の中にいるせいだろうか、頭の回路が一本や二本ぐらいは切れていてもおかしくはない。
もしくは全部切れてしまったか。
「……っ!!」
雪まじりの突風に体を煽られて、燐は氷のように冷たく強張ったむき出しの二の腕を揉み擦る。
(大丈夫! わたしはまだ人間なんだから……だからまだ……)
四肢だけでなく思考でさえも麻痺してしまいそうだったから。
燐は何度も胸中でその言葉を反芻させた。
腰骨の上あたりまで降り積もった雪をふらふらの足で蹴とばしながら、ひたすら前進を続ける。
「もう、こうなったらっ!!」
燐は半ばヤケクソ気味に周りの雪を手で引っ掴むと、その塊を口の中へと入れた。
じゃりじゃりと音を立てて雪氷を噛み潰すと、最後の力とばかりに全速力で駆けだした。
雪よりも尚、白い風車──。
それだけを目指して。
……
……
……
「これが……その風車なの?」
吐き捨てるようにそう呟くと、燐は辺りを軽く見渡した。
真っ黒い空を突き刺すかのように、白い風車がぽつんとそびえ立っている。
幻などではなく、現実のものとして。
それ以外は何もない殺風景な所だったが。
木や岩のような山でよく見かける自然物すらも見当たらず、羽根のような薄い粉雪だけがしんしんと降っているだけ。
「あるのかな、こんなところに」
確かに風車はあったが、これが目当てではない。
スイッチこそが本当の目的だった。
あの町の異変の時と同じような、この世界の理を変えるスイッチが、ここにあるのだろう。
風車はその目印だろうと燐はそう思っていたのだが。
「うーん、と」
燐はかるく深呼吸をすると、顎を少しあげて改めてその風車の姿を眺めた。
──白い風車はその動きを停止している。
古のウインドミルのようなものではなく、現代的な発電用の背の高い風車が一基あるだけ。
まるで燐を待ち構えていたように静かにそびえたっていた。
(待っていたって言うのは、多分間違ってないんだろうけど)
ここで、自分は一体何をしたらいいんだろう。
何らかの目標が欲しかった。
指示なんかではなく。
「とりたてて何か、動かせそうなものもない、か……」
見たところ普通の、あの町の山にあった風車とほとんど変わりないように見える。
まったく同じものかどうかまでは分からないが。
「むむむっ」
燐は顎に手を当てると、とりあえず風車の周りを歩いてみることにした。
辺りはまるでいま雪が降ってきたみたいに、地面には少量の雪しか積もっていない。
おかげで普通に歩きやすかったのだが。
(何ていうか……)
心なしか暖かく感じるのは自分の気のせいなのだろうか。
風車に着く前まではがたがたと震え、青ざめていた燐の顔に薄っすらと赤みが差してきている。
その事に本人は気付いていないようではあったが、少し元気が戻ってきているのだけは分かった。
「でもやっぱり、ちょっと変だよね」
周囲を見ながら首をかしげる燐。
地面と同じく、風車にも雪が積もっているような様子はない。
「風車自体が、雪が積もりにくい構造になっているとかって、聞いたことがあるけど」
そういうものとはちょっと違う気がする。
遠くに行ってしまい、もうすっかり疎遠となっていた、従兄の聡の言葉を燐は思いだしていた。
聡はかつて測量をする会社で働いていたことがあり、このような発電用の大きな風車を山に建てる際の業務を担当していたことがあった。
休みが少ない割に残業が多くて、聡は燐と会うたびに会社の愚痴をこぼしていた。
辞めたいとまでは思っていなかったようだったが。
話のなかで聡は、燐に自分が取り掛かっている業務の一部、例えば風車の構造や役割なんかを話すことがあった。
関係者しか知らないようなことまで言ってしまうものだから、燐としては少しひやひやすることがあったが、その事は聡には言わなかった。
せっかくの従兄との楽しい時間をそんな些細な心配事で水を差したくはないと思っていたし、実際聡の話は燐にとって面白いと思うものが多かったから。
まあ、実際の所は単純に好きだったからだとは思う。
今頃になって従兄のことを思い返してしまうのは、そう言うことではなくて。
心細いせいだと思う。
こんな所に一人ぼっちでいるわけだし。
「割と、新しい感じがするね。最近建てた風車なのかも」
風車の表面のところどころには緑の苔が生えたりはしているが、ヒビがあったり朽ちたような感じはない。
少なくともあのブルドーザーなんかよりはずっと状態は良いだろう。
風車を見ながら、燐はふと思う。
(そう言えば、あの重機が置いてあった作業場だけど、あれってもしかしてこの風車を建てるためのものだった?)
そう考えると納得できるような感触は多少あるが、同時に違和感を覚えてしまう。
もし作業用のプレハブだとしたら、中の人たちは一体どこへ行ってしまったのだろうか。
白い人影はあれから一度も姿を見てはいないし、もしくまの言うようにあの巨大なクラゲの正体が人影たちでできたものだったとしたら。
「…………」
燐は首を振ると、別のことを考えることにする。
実際、この山のことだってまだよく分かっていない。
全く別の山のようにも見えるし、見知っているあのナナシ山の方ではないかとも思ってしまう。
燐の中に言いようのない不安が波紋のように広がっていく。
だが。
「こんなところでいろいろ考えたって仕方ないよね」
分かっていようがいまいが、そんなことが問題なんかではなく。
風車の周りを一通り見てみたが、スイッチどころか目ぼしいものは何もなかった。
もしかしたら雪に隠れてしまったのかもしれないが、そんな小さなものだとは思っていない。
(あの時は列車の転車台みたいだったし)
もっと分かりやすく大きいもののような気がする。
ただの直感でしかないが。
それに。
「くまちゃんが……待ってるから」
くまをあのクラゲを相手にひとりで置き去りにしてしまったことを思い出し、燐は白い息を漏らす。
ここまでこれたのは決して一人だけのもではない。あの子もいたからだということが良く分かっているからよけいに胸が苦しくなる。
(わたしって、誰かに寄り掛からないと何も出来ないのかな)
燐は俯いて地面の白い雪を見つめた。
自分は何をする為にこっちの世界に戻ってきたのだろう。
世界を変えるため?
それは本当にやりたい事なんだろうか。
(わたしは望まれていない……きっと誰にも……)
燐の髪にもキツネの耳にも
淡い雪の結晶が、大地に吸い込まれて消えていく。
それは儚くも美しい自然の光景であった。
どれぐらいそうしていただろう。
燐は不意に目線を上へとあげた。
「……行こう」
どこに行ったら良いかはもう分かっていた。
もうそこにしか行くべきところは残されていなかったのだから。
「前の風車にもあったものだけど……」
入ったことなどは一度もない。
どうせそこには鍵が掛かっていて、関係者にしか入れないだろうと思ってたし、それにあの時はそんなのものはどうでもよかった。
ただ、ノートや日記帳なんかが置いてはなかったのだから。
そこに入るしか選択肢はなかった。
──風車の中に入る為のドア。
もうここにしか道はなかった。
「だったら」
このドアを開けるしかない。
中には風車を動かすための装置やメンテナンスの道具なんかも入っているらしいが。
聡がそう話していた。
さすがに細部の事までは燐には言わなかったが、いたずら防止のこともあって扉には厳重に鍵がかけられているらしい。
意外にも中は広いよ、とか言っていたような気がしたが。
「お兄ちゃんはああ言ってたけど、それって本当かなぁ」
まあ、入ってみれば分かることだけど。
ただしこのドアが開くという前提条件があるが。
冷たい金属製のドアノブを掴んだ瞬間、燐は唾をごくりと飲み込んだ。
どうみても鍵が無ければ開きそうにもない、重そうなドアなのだが。
ぎいいっ。
「開いたっ……!」
分厚い鉄の扉には、鍵はかかってはいなかった。
ドアが開いた瞬間、燐は軽く目を見開いてはいたがそれほど驚いた様子は見せずに、ドアノブからぱっと手を放す。
中は薄暗くて何も見えないが、何かが出てくるとかのことはない。
その事にほっと安堵したが。
(そういえば……あのダムの時だって)
以前、”小平口ダム”に勝手に忍び込んでしまった時のことを思い出す。
何を思ってなのか、自分でもよく分かっていないかなり迂闊な行動だった。
でも何故か立ち入り禁止のはずのダムの中に燐は入ることができた。
(そのおかげで、蛍ちゃんと会う事ができたけど……)
これもそういうことなのだろうか。
一切鍵は掛かっていなかったし。
風車の中も外と同じく真っ暗だったが、この中にスイッチなんかが本当にあるのだろうか。
人ひとりが通れるだけの小さなドアのその先なんかに。
「広いとか言ってたけど」
中に入るなり燐は腕を組んでしまう。
予想通りというか、風車の中は思ってた以上に狭かった。
その中で風車の制御する為のパネルのついた機器が一つ置いてあるだけ。
装置には電源が入っているような様子はなく、小さな部屋の中はしんと静まり返っていた。
外から見たときに風車は止まっていたから、当然のことだとはいえるのだが。
「ここで、風車の調整とか色々するんだろうけどぉ」
もちろん燐に使い方なんか分かるはずもない。
その辺りの事までは聡から何も聞いていなかったし、恐らく彼自身も知らないことだろう。
あの重機の置いてあったプレハブ小屋の中にも、風車の資料なんかはなかったはずだ。
(見た覚えはないよね……うん……)
そもそも管轄が違うんだろうと思う。
風車を建てるのと、それを制御する方とでは。
燐はうんうんと何度も首を捻ってみるが、やはりそれらしいものをみた記憶はなかった。
仮に分かったところで、いきなり風車を動かしてみようとは流石に思わないだろうけど。
「けど、ここに何かがあるはず……あっ」
燐の視線がそこで止まる。
制御パネルよりもその奥の真っ暗な行き止まりの方に。
「これって梯子……だよね」
金属製の梯子を下から覗いてみると、それは遥か上の方にまで続いているように見える。
下から上にまでハシゴは真っすぐに伸びている。
多分、これで風車の中を上まで登るのだろう。
点検とか何か異常があったときなんかに。
しかし、風車の上にまでと言っても結構な高さがある。
「まあ、エレベーターなんかあるはずもないし」
簡易的なエレベーターが備わっている風車もあるらしいが、ここには無さそうだった。
燐は今入ってきたばかりの方を一度振りかえる。
ドアの外では相変わらず雪がちらちらと降っていた。
風で舞い上がった雪が、ふわりと風車の中にまで入り込んでくる。
燐は思わずばたんとドアを閉じた。
「あれっ?」
中が完全に真っ暗になってしまうと一瞬思ったが、先ほどのハシゴの辺りだけがぼんやりと赤く光っていることに気付いた。
非常用の明かりが点いていたのだろう、梯子の先の上の方にも同じような明かりがぽつぽつと灯っているのが確認できた。
ただ、燐が風車の中に入ってきたときには、この非常灯は確か点いていなかった。
それはつまり。
「昇って来いって言っている……?」
確かに、ここにはスイッチとなりそうなものはないみたいだけど。
これも、罠なんだろうか。
それでも、行くしかないみたいだが。
他に進む道やドアなどはないみたいだし。
(罠だと思って行くのは、やっぱり怖い感じはするけど)
燐は胸元できゅっと握りこぶしをつくると、そっとハシゴに触れてみた。
しっかりとした作りの金属製の梯子だったが、錆びついたようなところはどこにもなく、普通に登る分には問題無さそうに見えた。
梯子が冷たくて手で掴めそうにない、とかもない。
外が雪だから少し気になっていたことだったが。
これなら登れそうな気はする。
何かがない限りは。
「んっしょ……と」
燐は覚悟を決めたように梯子の上を一瞥すると、両手で梯子を掴んで登り始める。
細い手足を使って一歩ずつはしごを上っていく。
カン、カン、カン、カン。
金属の棒を踏みしめる無機質な音だけが、ここでの唯一の音となっていた。
赤い光に照らされた長い長い梯子は、どこまでも続いているみたいに感じられる。
さながら異界へと続く不気味なトンネル。
燐はついそんなどうでもいい事を考えてしまう。
それでも、雪の中をあてどなく彷徨い歩いていたときよりかはよっぽどマシなのだけど。
(この上に、本当にあるのかな……)
疑問に思ったところで何も分かるはずもない。
自分の持っている常識なんてものは、もうとっくになくなってしまっているのだから。
燐は軽く頭を振ると、梯子を無事に上りきる事だけに意識を集中した。
……
……
……
「あっ」
いつもよりもほんの少し体が軽いせいだろうか、燐が予想していたよりもずっと早く上へとついてしまった。
それほどの疲れはない。
外から見た時はものすごく大きなものに見えたのだけど。
あっけないぐらいに辿り着くことができた。
でも。
「何も、動かしようがないっていうか」
ざっくりとは言え燐は風車の構造を知っていたので、何かをするということもない。
スイッチとなりそうなものはここにも無かった。
燐がたどり着いたのは風車の心臓部とも言える場所で、その中で要ともいえる大きなブレードを動かすためのモーターや発電機などがこの一か所に集められている。
それぞれがあまりにも大きすぎて、とてもじゃないが手動で動かすとかのものではない。
そもそも風を受けて羽根が回る仕組みとなっているので、今現在、風車が回っていないということは、完全に停止させられているということになる。
「壊れているとかの感じもないみたいだし。単純に動いていないだけかな」
燐ははぁと息を吐いた。
専門的な知識とまでは持ってはいないが、分かりやすい異常は見たところ無さそうだ。
だが、また下にまで戻ったところで、操作が分からない燐ではどうしようもない。
それに。
「この風車ってどこかの変電所とくっついているのかな」
風車がいくら電気を作った所で、それを送る変電所がなければなんの意味もない。
この不思議な世界の風車もどこかの変電所と送電線でつながっているのだろうか。
そんな素朴な疑問が頭に思い浮かんだ。
「ここから外にも出れるとかって、聞いたような?」
燐はちらりと上に視線を送る。
梯子はまだ少し先まで続いていて、燐の頭の上の天井にまで伸びているようだった。
そこには小さな扉のようなものがある。
入ってきたドアよりもずっと小さいものが。
燐が背伸びをしてもさすがに手が届きそうな高さではないが、さっきの梯子を使って風車の上には出れそうな気はする。
こんな雪が降っている時なんかに風車の上になんか出たら、それこそ自殺行為としか思えないことなのだろうが。
「でも、一応確かめてみないと」
単なる遊びや興味本位でここまで来たわけではない。
自分を待ってくれている人がいるのだから。
できることは何でもやってみるつもりだ。
そうではなくてはわざわざ二手に分かれた意味がない。
「よいしょっと」
燐はまた梯子を上る。
天井まではそんな大した高さではない。
ただ、この扉にもふつうに鍵が掛かってそうな気はするのだが。
ばくん!
一際大きな音と共に天井のドアが開く。
「やっぱり、外は……って、えっ!?」
てっきり冷たい風と雪が中にびゅうっと入り込んでくるだろうと思った燐は、梯子をぎゅっと握ってすぐに身構えたのだったが。
その必要はなかった。
「え、ええっ! な、なんでっ……!!」
上半身だけを外に出して周囲を見渡した燐は口を大きくあける。
鍵はなく、ここから風車の上にまで出ることはできたのだが。
これは、何なのだろう。
燐は目を手で覆いながら瞼を薄く開けて空を見上げた。
真っ黒い夜のような空なんかどこにもなく、そこには眩しくて目が開けていらいほどの青空が広がっていたのだから。
「くうっ……」
燐は今初めて目が覚めたみたいに瞬きを繰り返していた。
──空が青い。
雪なんかはもう本当にどこにも無くて。
あるのはただ青い青い空と、ゆっくりと流れる白い雲。
それは、ずっと待ち望んでいた情景だったけれど。
どこか信じ切れないのは何故なんだろう。
夜が明けたとか、ようやく晴れたとか。
そういった概念がこの世界にないことはもうとっくに分かっている。
だって、月も太陽もこっちにはないのだから。
いくらそれを望んだところでかなえられるはずはない。
(だからこれは、嘘なんだろうけど)
それでも安堵というか自然とため息がこぼれてしまうのは、それだけ暗い世界に長くい続けたせいなのだろうか。
「なんでこんなに蒼くて……眩しいんだろう」
どうせこれも嘘なのに。
まだ目が慣れていないのか、燐は焦点の会わない瞳で青と白の空を呆然と眺めていた。
「一体、何が……」
起こってしまったというのだろう。
風車の上に出た途端、そこだけが別世界のように夏の景色のようなものがどこまでも広がっている。
ずいぶんと高い所にいるはずなのに、まったく足が竦んでいないのは、きっと。
「わたしが、知っている場所だから……」
多分そうだと思う。
首を回して辺りを見渡しても、やはり青空と白い雲しかみえない。
天気の境目のようなものも見当たらない。
ここだけが晴れているのなら、雲の切れ間のような光景が見れるかもしれないと思ったのだが。
「もしかして、ここって」
燐は蹲っていた体をゆっくりと持ち上げ、風車の上に両足で立ってみた。
どうやら風車もこの一基だけしか立っていないみたい。
(それじゃあ、ちょっと違うのかな)
燐は髪をぽりぽりと掻く。
てっきりあの
そことは少し違う世界のようだ。
でも、おかしいことには変わりはない。
まるで、風車の上だけが違う世界に変わったみたいに感じられて、燐は一時思考停止の状態となっていた。
(何なの、これ……どうしてこんな事に?)
様々な事が起こったから、何がどうおかしいのとかは比較なんかはできないけど。
まだスイッチも見つけていないのに、情景がこんなに変化してしまうのはとてもおかしいことだ。
とても高い所にいるのだから、くまとあのクラゲがどうなったのかも分かるのかもしれないと思ったが、違う世界ならそれだって分からない事だろう。
燐がいくら考えてみても何一つ分からない。
風車の外にでたこと自体がスイッチだったのだろうか。
(他に、何か目に付きそうなものは……)
藁をもつかむ思いで、燐が周囲に目を凝らしたそのときだった。
「あっ」
つい、声が出てしまった。
風車の先端の方に何かの影のようなものを燐は見てしまった。
ここで出会った人らしき影は、あの
(まさか……!)
燐は服の背中に突っ込んでいた、折れ曲がった鉄パイプを反射的に握ろうとしたのだが。
その手をぱっと放した。
諦めたとかではない。
その必要がないことがすぐに分かったから。
鉄パイプを掴みかけた手を燐は上にあげるとそのまま横へと大きく振る。
そしてそれに向かって叫ぶ。
「おーい、蛍ちゃーん! ねぇ、蛍ちゃんだよねぇ!!」
燐は大声でそう呼びかける。
何ですぐに気づかなかったのだろうという残念な思いが一瞬あったが、それはどうやら向こうも同じだったようで。
おーいと、申し訳なさそうに小さく手を振り返しながら、人影はこちらへと一直線に駆けてくる。
何やら少し奇抜な格好をしているが、二つに結わいた艶やかな黒髪は正しく彼女のものであり。
その声色も耳に馴染みのあるものだとすぐに気付いた。
もし仮に、違った髪型や声であったとしてもすぐに気付けるだろう。
彼女の方もこちらを見て一瞬驚いたようにぎゅっと眉を寄せていたが、すぐにぱっと笑顔となっていた。
「はぁ、はぁ、燐……!!」
すぐに息が整わなかった蛍は途切れ途切れに名前を呼ぶ。
「蛍ちゃんっ」
燐の方も言いたいことは色々あったが、先に満面の笑顔で迎えた。
少女達は互いに顔を見合わせる。
まだ、世界はおかしいままだし、何の理解も解決なんかもしていない。
どうしてこんなところに居たのとか、これまでどうしていたかとか。
そんな事はどうでもよくて。
蛍と燐。
ふたりの少女がこうしてまた一緒になったのだから。
互いににこりと微笑み返した。
……
……
……
「本当、ビックリだったよ。まさか燐がいるなんて」
蛍はしみじみとそう言った。
「それは、わたしの方もだよ~。こんなところで蛍ちゃんと会えるとは思わなかった」
うんうんと頷く燐。
蛍と燐はそう言葉を交わすも、驚いていというよりも、安堵と喜びがあったようで。
二人とも笑顔になっている。
とても不思議な世界ではあったが、まさかこんな風車の上でなんて。
いい意味でのサプライズだなぁと燐は思った。
「あ、ごめんね。それだけじゃなくってね」
「どういうこと?」
蛍が少し複雑な表情で燐に謝る。
きょとんとした顔で燐は不思議そうに首を傾げた。
「はじめね、燐じゃなくて、天使かなって思っちゃったから、ちょっと驚いちゃったの。だからごめん」
蛍は恥ずかしそうにそう言った。
自分のことを指差す燐。
「えっ、わたしが天使ぃ?」
「うん」
どうやら本気で言っているみたいで、茶化すような燐の言動にも蛍はこくりと頷いている。
軽く燐は苦笑いをすると。
「それって逆なんじゃない? 蛍ちゃんの方がずっと天使だと思うよ。わたし、昔っからそう思ってたもん」
そう言って燐は少し頬を赤くした。
久しぶりに顔をみたせいか、つい思ったままの事を口走ってしまった。
だがそれは、蛍も同じだったようで。
「わたしも、ずっと前から燐のこと天使とか女神様みたいだなあって、思ってたよ。だって何でもできるし、優しいし」
そう言う蛍も耳まで真っ赤になっていた。
「蛍ちゃんの方がずっと優しいよ~」
燐も蛍も、お互いを褒め合っている。
それはそんなに珍しい事ではないけれど。
傍から見ればなんとも微笑ましい光景としか言えないものだった。
「あっ! じゃあさ、二人ともそれなりに天使ってことで」
そう言って燐は人差し指を立てる。
こうでも言わないと収まらないような気がした。
他に誰もいないことだし。
これぐらいは言っても罰は当たらないだろう。
「うふふ。うん、そうだね」
いつものように笑い合う蛍と燐だったが。
「何かさ、わたしの顔を見て笑ってるみたいだけどぉ……何か顔についてる?」
「え、えっとぉ……」
蛍は言葉を探すような仕草を一瞬みせると。
「燐と、また会えて嬉しかったって思っただけ」
そう言ってまた笑みをつくる。
作り笑いに見えないよう、蛍としては割と頑張ったものだったが。
「そ、そう……まあ、わたしも蛍ちゃんと再会できて普通にうれしいよ」
ややぎこちなく笑う蛍に、燐は困った顔で曖昧な笑みを浮かべていた。
……
……
……
「ねぇ、燐」
「うん?」
燐と蛍は風車の上で並んで座っていた。
寒いだとか、暑いとかの事はない。
むしろちょうど良い感じ。
それは、二人がいま手をつないでいることと同じ性質もので。
完璧な状態──充足感。
足りないものを探す方が難しいほど。
なので、この状況にそこまでの疑問はなく、燐と蛍はいつもの感じでいつものように他愛もない会話を交わしていた。
空はどこまでも蒼く、二人の声しかない。
風はゆるやかに流れていて、軽く頬を撫でる程度のもので、長い髪を押さえるほどのものではない。
とても心地よい。
こんな場所にいながら波の上で浮いているように。
「あのさ、わたしたち元の世界に戻ってこれたんだと思う? こうして空が晴れているわけだけど」
そう言って蛍は軽く上を見上げる。
蛍がそう思うのも無理はない。
こんなに高くて凪いだ青い空なのだから。
例え嘘だとしても気持ちの良いものだ。
「多分、違うんじゃないかな、これは」
燐は軽く苦笑する。
自分だって信じたいけれど、きっとそうじゃないだろうという思いで。
「やっぱり、そうだよねぇ」
蛍だってそれは分かっていた。
だけど、どこかで信じたい気持ちもあったから燐にそう尋ねたのだった。
お互いにどこに居たかはまだ話してはいなかったが、目に見えるものに対してどこか懐疑的な目を持っていることは共通している。
現実とは違うものを見すぎたせいなのかもしれないが。
「じゃあ、わたし達って今どこにいることになるのかな」
青空を見ながら蛍は首を傾げる。
他人事みたいな考えだなとは思ったけど、そう思わないとこんな状況は理解できないだろうとも思っていた。
「わたしもよく分かってないんだよね。さっきまで雪が降っていたし」
今とは真逆ともいえる快晴の青空なのだが、燐が風車の上まで来る前は確かに雪が降っていたのだ。
幽かな形跡すらどこにも残ってはいないが。
「えっ、雪!? 燐、それってほんとうの事なの!?」
何気なく言った燐の言葉に、蛍は大きく目を見開いて燐のことを見つめる。
「うん」
燐ははっきりと頷く。
体のどこにももう雪は残っていないから、証明しようもない。
「そうだったんだ……燐のほうも色々あったんだね」
蛍は同意を示していたが、なぜか視線は燐の頭の上のほうに向けられていた。
そのことに燐が気付くことはなかったが。
「ねぇ。蛍ちゃんは今までどうしていたの? もしかして……青いドアの家にいたとか?」
「その、わたしは」
蛍はそこで口ごもった。
絶対に言えないというわけではない。
ただ燐に理解してもらえるかどうか。
そのことにちょっとの躊躇があった。
「何て言ったらいいのかな……ちょっと不思議なところにいたよ。でも、オオモト様とサトくんも一緒にいたんだよ」
「それなら、安心だね。仮に変なところだったとしても」
軽口を叩く燐に蛍は困ったように苦笑いを浮かべた。
(間違ったことは言っていない、だけど)
つい言葉を選んだ言い方をしてしまった。
隠すようなことはないはずなのに。
燐は、何事もないように笑ってくれている。
多分、気を使われているんだろうと思ったが、それは口にせず蛍は胸中でそっと謝罪と感謝をした。
「燐の方は? 雪以外に何か変わったことってあったの」
「あぁ、こっちはね……うん……」
燐のほうも歯切れの悪い言葉で返してしまう。
悪い知らせというわけではないが、ほんの少し前までは一人ではなかったのから。
「あの子と……くまちゃんといっしょだったんだ。でも、途中で別れたっていうか……」
(何て、言ったらいいんだろう)
どう言っても言い訳みたいになってしまう。
ただ、あのクラゲの話はまだしない方が良いような気はする。
変に不安がらせるだけだろうし。
こっちへ来るような感じは今のところは無さそうだから良いんだけど。
でも。
それは本当にいいことなんだろうか。
(くまちゃん……本当に大丈夫なんだよね? もし、何かあったら……)
あの時の決断が燐の心に重くのしかかる。
少し変わっているけれど、見た目は自分と同じ女の子なのだから。
(燐……)
少し顔を下げる燐を見て、あまりよく知らない蛍でも大体のことは分かってしまった。
蛍は燐の手を少し強く握る。
「そう。くまちゃん、無事だったらいいね」
それだけを口にした。
(くまちゃんに、何かがあったんだろうけど……)
燐が自分から言い出さないのならそれ以上は聞くつもりはない。
自分だってまだ燐に話していないことがいろいろとある事だし。
「何か、さ」
「うん?」
先に蛍が口を開く。
小さく可憐な唇をみながら、燐は黙って蛍に話の先を促した。
「こっちの……いつもと違う世界でさ、燐と離ればなれになることが多くなったなあって」
あまりにも他人事すぎる疑問ではあったが、それは一体何故なんだろうとは蛍はずっと思っていた。
「それは……確かに」
燐も同意するも小首をかしげる。
あの町での異変の時とは違い、こちらの世界に来ることはそこまで頻繁なことではない。
それでも思い返してみると、確かにそんな感じの出来事が続いているような気はする。
常識では測れない世界だから、考えてみたところで無駄なことなのだろうが。
「もしかしたらさ……嫉妬してるのかもよ。わたし達のことを」
蛍の突拍子のない言葉に燐は目を丸くさせる。
「嫉妬って、誰が?」
それはもっともな意見だった。
「それに……何に対してよぉ」
訝し気に眉を寄せて呟く燐に、蛍は小さく笑みを作ると。
「世界が、かなぁ。わたしと燐の仲の良さに」
燐は一瞬時が止まったみたいに凍りつく。
「そんな事で?」
蛍はピンク色の舌をちろりと小さく出すと。
「そういう感情のエネルギーって結構すごいものなんだよ。それこそ世界を壊しちゃうぐらいに」
「……」
燐は口を開けたまま唖然となっている。
だが、蛍はあっけらかんとした口調でそう言ってのけていた。
……
……
……
「そうだ。ねぇ、燐は元気だった?」
不意に蛍にそう尋ねられた。
燐はまだ少し戸惑った表情をしていたが。
「まあ、それなりにね。蛍ちゃんの方は元気いっぱいって感じみたいだね」
燐はついちょっと前まで、吹雪のせいで危うく雪だるまとなってしまいそうになったことを思い返して身震いしていた。
「うん。燐の顔を見たら元気になっちゃたかも」
そう言って口元を緩める蛍。
「そっか、それはわたしもそうかも」
燐の場合実際にそうだったのだから。
蛍の言動がちょっと気になったが、そこは問わず話を続ける。
「わたし達、本当に同じだよね」
「うんうん」
蛍と燐は顔を見合わせて笑う。
何の変哲のない、それこそ意味のない会話だったが、それこそが本当に求めていたものだったのだろう。
身近すぎてつい忘れてしまうことだけど。
当たり前と思うこの時間こそが大事にしたいものだった。
ずっとこうしていたい。
二人とも本当にそう思っていたのだから。
何でもいいから話を続けた。
とりとめのないことでもいいから何でも。
どんなことでも耳を傾けてくれる。
それを知っているから。
それに、こんなに高い場所なのだから何かの邪魔が入るようなこともなさそうだし。
もう少しだけこの時間を楽しみたかった。
「ここってさ、風車の上だよね。どうして燐はこんなところにいたの?」
「それは、蛍ちゃんこそ」
いまさらに蛍に言われて、燐はぽかんとした顔になったがすぐに質問を質問で返した。
蛍は困ったように眉をよせると。
「わたしは、よく分からないの。気付いたらここにいたんだ……ねぇ燐は?」
糸を紡ぐようにぽつりとそう呟いた。
きらきらとした薄い硝子のような可愛らしくも儚げな蛍の声色に、燐はなつかしさと同時にときめきのようなものを密かに胸の奥に感じとっていた。
「えっと、わたしはねぇ、この風車を目指してここまで歩いてきたんだよ。途中でブルドーザーなんかにも乗ったりしたけど」
「燐。ブルドーザーも運転したの? 何か凄いことになってたんだね。大冒険って感じじゃない」
蛍は胸元で手を握り合わせて感心しているようだった。
「うーん、大冒険かどうかは分からないけどさ」
謙遜をするように手をぱたぱたと振りながら燐は話を続ける。
「ここに、”スイッチ”があるかもって思って」
「スイッチ? 何それ?」
いったい何のことを言っているのだろう。
分からないというように蛍は首をかしげる。
その瞬間、花の髪飾りの下の結わいた長い黒髪がさらりと揺れた。
「あのね、見えたの。この風車が山の上に」
何だか抽象的な言い回しになってしまったが、蛍はうんうんと真剣に話を聞いてくれている。
「それでスイッチがあるって思ったの?」
「うん。でも……なかったみたい。そのスイッチでこの変な世界から出られると思ったんだけどなぁ」
そう言って燐は小さく肩を落とす。
これまで、この”もう一つの世界”に長くいた記憶はない。
多分、青いドアの家の世界なのだろうが。
(やっぱりちょっと違う気がする……何がとははっきりとは言えないけれど)
構造というか、世界の在り様が違っているような気はする。
「それは残念だね」
燐の言っている”スイッチ”が何を示しているのか、蛍にも大体の見当はついていたが、具体的にはまだよくは分かっていない。
(もしかしたら、わたしと関係のある事のかもしれない……それは”これ”とも……)
すぐ傍に置いていたものに蛍は指先でそっと触れた。
結局、持ってきてしまった。
無理やりに渡されてしまったものだけど。
(これは自分のものだって言われたって……こんなものわたしは)
「ねぇ、蛍ちゃん」
いつの間にか燐が蛍の顔を覗き込んでいた。
「な、なぁに?」
蛍は反射的に燐の手を握る。
急に手を握られて燐は驚いた顔をしていたが、同じような強さで握り返してきた。
「あのさ、もしかしてだけど……」
何やら深刻そうに燐がそう話しかけてくる。
ごくりと蛍は唾を飲み込んだ。
「う、うん」
「蛍ちゃん……何か変なバイトとか、してる?」
「ええっ!」
まるで思ってもみなかったことを燐に聞かれて、蛍は変な声をあげて瞳を丸くさせていた。
動揺した蛍が口をぱくぱくとさせていると、燐が少し顔を赤くしながらぼそぼそと呟く。
「だって、蛍ちゃん。すっごく大胆な格好してるよぉ……? それってバニーガールの格好でしょ? だからバイトか、何かかなって……」
「ああっ」
蛍は思わず両手で体を隠していた。
燐に言われて今気付いた。
そう言えばこの変な衣装のまんまだった。
(ううっ、燐にだけは、見られたくないと思ってたんだけど……)
燐にばっちり見られてしまったようだ。
最初っから知っていたんだろう。
着替えてなんかないからそれは当然のことなんだけど。
(はうぅっ……!!)
蛍は穴があったら入りたい気持ちとなってしまい、顔中が真っ赤になる。
燐はまだ言いたいことがあるようで恐る恐る指を差して言った。
「それに、蛍ちゃんの持っているそれって……日本刀みたいにみえるけれど、それってコスプレか何かの小道具だよね?」
やはりこれにも気付いていたらしい。
だが燐は取るようなことはせずに自身の見解を述べていた。
「わたしもよくわかんないんだけど、こーゆーのってギャップ萌えっていうのかなぁ? 格好とのミスマッチというか……意外な組み合わせがいいのも」
なにやら曖昧なことをぶつぶつと燐が言っているようだが、蛍は顔面蒼白というか、何も頭には入っていないようで呆然となっている。
(そんな風に燐に見られてたんだ……)
確かに妙なコスプレをしているとしか思えないだろう。
もしくはバイトみたいなもので。
こんなの早く脱いでしまえばよかった。
燐にこんな風に思われてしまうのなら。
(裸の方がまだ良かったのかも……)
そっちの方がよっぽど恥ずかしくない気がする。
一緒に暮らしているんだから、お互いの裸は知ってるわけだし。
変な趣味を持ってると思われる方に比べたら。
「あっ、でもぉ、蛍ちゃんに良く似合っていると思うよ。蛍ちゃんスタイルすっごく良いし」
頬を紅くしたまま俯く蛍を見て、燐は慌ててそう言った。
(頑張って、フォローしてくれているんだろうけど)
その言葉に余計に意識をしてしまって、蛍は顔を上げるどころか燐の顔をまともに見る自信すらもなくなってしまった。
「……っ」
蛍は頑な表情で固まってしまっている。
それを見て燐は申し訳なさそうな気持ちになってしまったが。
(似合ってるって言ったのは本当のことだったんだけどなあ。どうやら蛍ちゃんを余計に恥ずかしがらせちゃったみたい)
燐と知り合う前から蛍は、自分の容姿や性格に自信がもてないようだった。
なのでクラスから孤立していた時もあったのだが。
引っ込み思案な性格というよりも、周りからの影響があったんだと思う。
(蛍ちゃんにもっと自信をつけさせてあげようと思ってたんだけど)
容姿も性格もとっても綺麗で、ずっとそのままでいて欲しいって今でも思っている。
(でもそれじゃあ、きっとダメなんだよね。でも、わたしに出来ることって結局そのぐらいのことなのかも)
些細なことというか、ちょっと背中を押してあげるぐらいのこと。
それはもう叶えられたことだと思っていたんだけど。
ここにいるということは何かするべきことがあるのだろう、きっと。
それまでは、まだ一緒にいたい。
例え何が起きても。
(蛍ちゃんだけは……幸せになってほしいから……)
燐が自分の役割を確かめたその時だった。
不意にぞわりとした感覚がお尻の方から脳髄にまで一気に駆け上がってきたのは。
さわさわさわっ。
「……!!!」
とてもむずがゆい感覚が背筋を駆け抜ける。
燐は驚いてそちらを振り向くと。そこには。
「あっ」
蛍と目が合ってしまった。
その手にはふさふさと柔らかいしっぽが握られていた。
それは燐のスカートの端から出ていたものだったが。
つまりは燐のしっぽだったわけだが。
「あのー、蛍ちゃん?」
何でなのかは大体察しがつくが。
(なんでみんな、しっぽを触りたがるんだろう……)
燐はため息を吐いた。
「ね、ねぇ、燐のこれってやっぱり作り物じゃないんだ……! もしかして、燐のお尻とつながっているの?」
矢継ぎ早に蛍に質問をされて、燐は何かを言うどころか口を大きく開けたまま固まっている。
「この耳の方は?」
蛍は無造作に燐の頭の耳にも触れた。
「うわっ、こっちもまるで本物みたいにふわふわっとしてるよ! それに背だって……ね、ねぇ、燐。もしかして子供になっちゃったんじゃない!?」
そう言って蛍は自分との背比べをするように燐の頭にぽんと手を乗せた。
何故か頭の耳の方から計っていたようだったが。
それでも蛍よりも背は低くなっていた。
(そっか、わたしもそんなリアクションになっちゃんだ……)
燐としてはもう苦笑いをするしかない。
人の事なんか言えたものではなかった。
「あははは、えっとぉ、何から話したらいいのかなぁ」
興味津々の蛍とは対照的に、燐はしどろもどろとなって作り笑いを浮かべる。
(説明したとしても納得するとは思わないよぉ、こんなの。わたしだって戸惑っていることだしぃ)
それこそ雪崩のように色々なことが起こりすぎて、自分の身を心配する余裕もなかったが、蛍に認知された上にそこに触れられたことで、燐は否応なしに自覚することとなっていた。
自身の身体に起きた異変に。
「そんなに見られちゃうと……ううっ、やっぱり恥ずかしいよぉ!」
今度は燐が恥ずかしがることとなってしまい、先ほどの蛍のように両手を使って身体を隠くす。
今の燐の小さい手では尻尾も耳も隠しきれるものなんかではなかった。
蛍のはまだ衣装だから良いが、燐の場合は明らかな異常だったと言えた。
似たような姿の”くま”と一緒にいたこともあり、それに他の人の目もなかったのだから、そこまで気にするようなことでもないと思っていたのだが。
「やっぱり、これって相当おかしいことだよね。はぁーっ」
燐はため息の交じった涙声をあげる。
羞恥とかよりも、情けない気持ちの方が大きかった。
こんな無様な姿を蛍に晒してしまったことに。
(蛍ちゃんのことを言っている場合じゃなかったねぇ……はぁ、もういっそここから飛び降りたい気分だよぉ……)
火が出るのではないかと思うほど燐の顔は赤くなっている。
そのせいかは知らないが、燐の身体に纏わりついていた雪はきれいさっぱりなくなっていた。
異物というか、キツネの耳と尾っぽはしっかりと残ってはいるが。
「やっぱり変だよね、これ。いつの間にかついてたんだよ。こんなの邪魔だけなのに」
頭の上の
「そうなんだね……」
(最初見た時からずっと気になっていたことだけど)
改めて見るとやっぱりすごいことだと思う。
漫画とか映画ぐらいでしか見たことはないし。
それが現実というか、大事な人の身に起こるとは想像だにしないことだった。
ただ、燐は自分から言わなかったから。
もしかしたら、ショックを受けるかもと思って黙っていたことだった。
(でも、燐は知ってたんだね。それにちゃんと繋がってるみたい)
わざではなかったが、ただこれが本物かどうかが分からなかったというだけで。
(それは分かったけど、燐が子供みたいになったのは、何でなんだろう)
そっちもよく分からない。
蛍の視線に気付いたのか、燐は肩をすくめてため息をついた。
「こっちもよくわかんない。耳が付いてたのと同じみたいなの」
軽く俯いて自分の身体を見つめる姿は、見た目通りの幼い少女の頃の燐にしか見えない。
それでも蛍にはすぐ燐だと分かった。
何故なら。
(わたしが燐を間違えるわけがない。たとえどんな姿になったって)
輪郭がなくなったとしても、きっとすぐに分かる。
あの時のような思いは絶対にさせたくはないし、したくはもうないから。
「ホントにバカだよね」
「燐?」
「こんな子供の姿になったって、過去に巻き戻るとかできるはずないのに」
父も母も、そして従兄の聡も。
みんなバラバラになってしまった。
それなりに上手くいっているなんて、そんなのはただの結果論だと思う。
(みんなただ純粋に幸せを求めて……それで)
小平口町の人たちもそうだったのではないのだろうか。
幸運や幸福なんてものはいつまでも続かない。
だからその手段として座敷童を囲って、孕ませてまで幸運を繋ぎとめていたかった。
非道なことだとは分かってはいても。
(わたしには……そこまでする覚悟はもってなかった。だからあのときだって)
ただ──消えてしまいたかった、それだけなのに。
どうして。
「……えいっ」
ふわりと柔らかいものに急に全身が包まれて、燐は目を白黒とさせる。
理由はすぐに分かった。
やや大げさに燐は溜息をつくと、困ったように顔をそちらの方へと向ける。
「んもー、蛍ちゃーん。急にそんなことされるとびっくりしちゃうよ」
「あははっ、ごめんね」
口を尖らせる燐に蛍はにこっと微笑む。
「それにさっき、えいって言ってたよね? もしかしてわざと抱きついてきたとか」
「まあ、そんなとこかな。たまにわたし抱き着きたくなる衝動があるんだよ」
「そんなの……初めて聞いたけどぉ」
「そうだっけ?」
「まったく、もう……」
とぼけた風に言う蛍に、燐は呆れたようにそれだけを言うと、抱き着く蛍を押しのけるようなこともせずされるがままとなっていた。
むしろ蛍に身体を預けているようにも見える。
(あれっ、燐……?)
驚いたのは蛍も同じことだった。
燐に抱き着いた瞬間、まるで全身が冷気に包まれたようにひやりと感じたからだった。
冷蔵庫のドアを開けたときみたいに。
(燐は、さっきまで雪が降ってたとか言ってたけど……)
こんなに体が冷たいのはそのせいなのだろう。
燐と手を握った時も少しびっくりしてしまったが。
燐の手はもっと暖かかったと思っていたから。
冷え切った体を暖めてあげようと蛍は小さくなった燐のことを抱きしめる。
幼い燐の身体はとても軽くて、本当に折れそうなほど細くて。
(こんな小さな燐だったらわたしでも守れるのかな? それって傲慢なのかもしれないけど)
蛍は小さく笑みを作るともう少し強く、燐のことを抱きしめる。
蛍の柔らかい胸元が心地よい圧迫感を燐に与えてきて、ほのかな温もりと安堵を覚えた。
「えと、蛍ちゃん、ちょっと苦しいかも……何かいつもよりも激しくしてない?」
異議を唱える燐だったが、その口調はとても弱弱しいもので。
その証拠に、燐の狐の耳はぺたりと垂れ下がっていて、しっぽはぱたぱたと横に振れていた。
分かりやすいその仕草に、蛍はくすくすと微笑む。
燐は眉を寄せてむうっとなっていた。
「だってしょうがないじゃない。自分ではどうすることもできないんだしぃ」
感情を止めれば動かないのかもしれないが、そんな事できるはずもないし。
(こんなんじゃ秘めた想いだってすぐにバレちゃうよ……! でも、犬や猫なんかもきっとそうなのかなぁ)
燐は妙なことを気にしていた。
一方の蛍もあることが気になっているようで。
「そういえば、燐。可愛い髪形になってるよね。自分でやったの? それに、何かいい匂いもするし」
くんくんくん。
可愛らしいお下げを手で持ちあげながら、蛍はそっと燐の髪に鼻を寄せる。
この髪型をしていた時の燐を蛍は知らない。
でもなぜだか懐かしい気持ちになっていた。
キャンディミルクのような甘い香りは、普段の燐のものとはちょっと違っていて。
それが蛍にいつもとは少し違った感情を引き出せさせていた。
(本当に、妹ができたみたい)
それとは別に気になることがある。
「ねぇ、燐。こっちの耳もちゃんと聞こえるの? それに……冷たくなってる」
そういって蛍はむき出しにした燐の小さな
ふううっ。
蛍の暖かい吐息が小さな耳元に柔らかく届く。
それがこそばゆくて、燐は全身が総毛立っていた。
「んもう、蛍ちゃんっ。わたしの事そんなにいろいろとしないでよぉ! これでも気にしてるんだからぁ」
さすがに耐えかねたのか、燐は泣き言のような声をあげていた。
「あっ、ごめんね」
つい、してしまった。
まだ燐の許可ももらっていないのに。
(もしかしたら、子供になっちゃったから、燐は色んなところが敏感になってるのかも)
だとしたらもう少し気をつかってあげないといけない。
「ごめん、今度何かするときはちゃんと燐に聞いてからにするね」
もう一度謝る蛍だったが、何かを誤解しているようだった。
燐は呆れた息をつく。
「……わたし、そこまで子供じゃないからね。今はこんなんでも」
そんな蛍を燐はジトッとした目で見つめていた。
……
……
「まったくもう、何でみんな触ったり、食べたりとかするんだろう? そんなに珍しいのかな」
まあ、ちょっとは分かるけれども。
「え? 食べるって……」
何気なくつぶやいた燐の言葉に蛍は目を丸くさせる。
「あはっ、え、えっとぉ……な、何でもないぃ」
変なことを言ったらまた蛍に何かされそうと思ったのか、燐は慌てて言葉を濁す。
「そう……?」
蛍はまだ何か言いたそうにしていたが、その前に。
「あ、あのさぁ」
「なぁに、燐」
「もし、わたしがこの姿のままだったら、蛍ちゃんは、どうする?」
「どうするって……」
突拍子のないことを燐に聞かれ、蛍は首をかしげる。
「もう、一緒にはいられないよね……こんなの化け物っていうか、妖怪なんかとそう変わらないし」
そう言って燐は膝を抱えて蹲ってしまった。
少女がするようなその仕草は、燐のことをより幼くか弱いものに見せていた。
「そんなことはないよ、燐」
蛍ははっきりとそう言うと燐の手の上に自分の手を重ねる。
「それに、わたしだってまだ座敷童なんだから。燐とそんなに変わんないと思う」
「だから、そんなに気にしないで」
そういって蛍は苦笑いする。
(こんな形で、燐と同じことを望んだわけじゃないけど)
自分が座敷童であることを嫌悪したことはあったが、助けというか慰めになることがあるとは思わなかった。
喜ぶべきことじゃないんだろうけど。
「そのおかげで、燐の気持ちが分かる気がするから」
「蛍ちゃん」
燐は蛍の方を振り向く。
その瞳にはまだ迷いがあったが。
「そうだったね。でも、蛍ちゃんは大丈夫だよ。普通の人になれると思ってる」
「それなら、燐だって大丈夫なんじゃない」
そう言ってまた蛍にぎゅっと抱きしめられてしまう。
「どうして?」
少し顔を上げて蛍の方をみる。
いつもよりも大きく感じてしまうのは多分、気のせいじゃないのだろう。
そのことに燐は少し寂しく思えた。
「ねぇ、燐、覚えてる? サトくんと出会う前に結構有名な神社に行ったこと」
「神社?」
「うん」
急に何のことを言ってるんだろう?
燐はふしぎそうに首を傾げる。
「ほらっ、”しっぺい太郎”が祀られているっていう神社に二人で行ったじゃない。ここに行くことと温泉が目的で出かけたんだよ」
蛍のその説明でようやく分かったようで、燐はぽんと手を叩いた。
「そう言えば、そうだったよね。何でかすっかり忘れてたよぉ」
元々はそういう目的で、蛍と一緒に隣県までドライブしに来たのだった。
その際に偶然にもサトくんと出会って、あの不思議な少女とも会い、そしてオオモト様とも……。
燐は思い出したように言葉を紡ぐ。
「でもさ、変なのにも追いかけられて、とうとう青いドアの家の方にも来ちゃってたけどね」
「でもさ、蛍ちゃん。それがどうかしたの? まさか、神頼みするとか言うんじゃないよねぇ?」
ちょっと意地悪そうに燐は口元で笑みを作る。
蛍は分かりやすく口を大きく開けていた。
「まあちょっとだけ、燐の予想は当たってるかも」
そう言って頬を赤くする。
変なところで予想が当たってしまって、二人の間に微妙な空気が流れてしまう。
「ええっと、それで?」
微妙な空気を絶とうとして燐の方から聞き返す。
蛍はほっと息をつくと。
「その時に、おみくじを買ったんだけど、燐は覚えてる? 今はもっていないけど、燐も一緒に買ったんだけど……」
「そう言えば、そんなものを蛍ちゃんと一緒に買ってたような……」
すごく前のことのように思えるのは、きっと二人とも同じことだろう。
燐は蛍と一緒に神社に訪れた時の事を思いだす。
(蛍ちゃんの言ってるおみくじって、あの犬のおみくじのことだよね)
その神社で祀られている犬を模したマスコットの中に、小さなおみくじが入っていた。
蛍と燐が同時に開いてみたところ、偶然にも同じものが出たのだった。
「おみくじは、わたしも燐も”大吉”だったの。だからね」
蛍は少し残念そうな顔になる。
もし持っていたら見せることが出来たのに、と。
もちろん今はそのおみくじを持っていない。
車の中に置いてきたか、多分バッグの中にでも入っているだろう。
その事を急に言われても、何と言うか。
もじもじとする蛍を見て言いたいことが分かった燐は、微笑んで言葉を返した。
「だから、わたしたちは大丈夫なんだって、蛍ちゃん、そう言いたいんでしょ?」
蛍はこくりと頷く。
「こういうのって単純すぎるのかなぁ。ごめん、気の利いた言葉が思いつかなかった」
何とか燐を元気づけたかったのだが、結局、こんな単純なことしか言えなかった。
(出たのが”凶”じゃなかったから、まあ……)
悪い結果じゃなかったのは良いことなんだろうけど。
「えっと、蛍ちゃん、よく覚えてたよね。わたしはすっかり忘れてちゃってたよ~」
燐は言葉に困ってしまって、そういって苦笑いした。
実際、幸運なことなんてそれほど起こってはいなかった。
むしろ不幸というか、アクシデントの方が多いくらいだったわけだから。
蛍が黙っていると、ぽんと柔らかく手が頭に乗せられた。
「燐……」
背伸びをした燐が目いっぱい手を伸ばして、蛍の頭を小さな手のひらで撫でていた。
「わたしこそごめんね、変なこと言っちゃって」
「そんなことは」
「蛍ちゃんがそう言ってくれるだけでわたしは幸せだよ。多分、その為に戻ってきたんだと思う。蛍ちゃんの声をもっと聞きたかったから」
そういって燐は笑顔を見せた。
だが、蛍には燐が無理していることが分かってしまう。
けれどそんなことは一切顔には出さずに、蛍も燐の頭に手を乗せた。
「よしよし、燐も偉いね。そんなことが言えるようになって」
可愛らしい耳ごと燐の頭を撫でる。
小さな燐の頭と柔らかいきつねの耳の感触の心地よさに、蛍は何度も頭をなでていた。
「だからもう、子ども扱いしないでって……いってるじゃない」
「うふふ、そうだったね」
そう言う割に蛍は燐の頭から手を放そうとはしない。
とりあえず燐は蛍の気が済むまで撫でられてあげることにした。
……
……
「ごめんね。あとでお金払うから」
ようやく手を放した蛍がそんなことを言ってくる。
「そういう商売はしてないから」
ほっと息をついた燐が掌を向けてそれに拒否をすると、話を本題へと戻した。
「ねぇ、蛍ちゃん。”世界を変えるスイッチ”って分かる? さっきから探しているんだけど。オオモト様は何か言ってなかった?」
「ううん」
蛍は軽く首を横に振る。
「そんなの初めて聞いたよ。燐はそれをさがして風車に来たんだっけ?」
「うん。この辺のどこかにあるはずなんだけどなー」
燐は改めて風車の上を見渡した。
停止したままの長い羽根以外は特に何も見当たらない。
風車を動かすしかないのだろうか。
(でも、どうやったら?)
この場所ではできそうにない。風車を動かす為の装置は内部にあるのだから。やはり中へと戻る必要があった。
(まあ、蛍ちゃんがここにいたわけだし)
ちょっと遠回りしただけと思えば。
「蛍ちゃん。ちょっとこっちへ来てっ」
燐は手招きをして、さっき入ってきた扉へと蛍を導こうとしたのだが。
「あれっ!?」
「燐、どうかしたの?」
風車の表面をまざまざと見つめる燐を、その上から蛍が覗き込む。
燐の見つめる先には、風車の表面と言える白い壁のようなものがあるだけ。
「確か、ここにあったはずなのに、無くなってる……!?」
「何が、ないの?」
パニックになった燐はペタペタと白い床を触っていた。
そんな燐を落ち着かせようと蛍は柔らかい声を投げる。
「わたし、ドアを開けてきたんだけど、そのドアがなくなっちゃってるの!!」
「そんな……でも、燐はそこから来たんだよね?」
「金属の扉があって、そこを開けたんだけど……」
それが綺麗さっぱり無くなっていた。
どうして入ってきた扉がなくなってしまったのかはよく分からないが。
「燐。手分けして探そうよ。そんなに広い場所でもないんだからきっと見つかると思うよ」
蛍は燐の手をそっと取った。
それはまったく根拠のないことだったが。
燐のことを安心させてあげたかった。
「そうだね。ありがとう蛍ちゃん!」
燐は手を握り返してお礼を言うとすぐに立ち上がる。
二人ならきっと大丈夫。
そう信じて。
「でもね。わたしは燐と一緒ならどこだっていいんだ。もっとも、燐が良ければだけど、ね」
そう言って蛍は、あっけに取られている燐の頬に自身の唇を柔らかくちょんと当てた。
──
───
────
「どこにもないっぽいね」
「うん……」
燐と蛍は手分けして風車の上を探し回った。
落下することを恐れて、風車の端の方には行かなかったが、それらしい扉はどこにもなかった。
二人はまた風車の上に座り込んでいた。
「ごめんね」
「えっ?」
不意に燐に謝られてしまう。
蛍は戸惑った顔で燐を見つめた。
「わたしがドアを開けたままにしておけば、こんなことにならなかったのに」
だが、それだけで忽然とあのドアが消えてなくなってしまうのだろうか。
分かりやすいようにドアには、風車の表面とは違う色が付けられていたような気がするのだが。
(それが思い出せない……)
覚えがないということは、消えてしまったとしか言いようがない。
それは自分の落ち度であることだと燐は思っていた。
「だから、ごめんね蛍ちゃん」
「そんな……燐は悪くないよ」
「でも」
蛍は隣にいる燐の手をしっかりと握る。
折れそうに細い指はまるで別人のようだけれど。
その持ち主である燐は複雑そうな顔で蛍を見つめていた。
「思ったんだけど……ここって、燐が上ってきた風車とは少し違うんじゃないかなあ」
「それってどういうこと?」
「うん……」
蛍は空を眺めながら、思っていたことを口にした。
「燐は、風車を見つけたときには雪が降ってて、夜みたいに真っ暗だったって言ってたよね」
「うん」
「でも、ここには雪は降っていないし、夜じゃなくて青空になっている。だから、違う風車のある景色にでちゃったんじゃないかって」
「違う景色……?」
蛍の見解に燐は頷いて同意する。
普通だったら到底あり得ないことだが、この摩訶不思議な世界ではそういうこともあるような気はする。
「じゃあ、どうしたらいいのかな、わたし達」
結局それが問題だった。
これが全部夢だと思えばここから飛び降りて脱出することだって、容易に出来るとは思うが。
「…………」
「? 燐、どうかしたの? わたしのことをじっと見てたみたいだけど」
燐は、心臓のかわりに耳としっぽをピンと尖らせる。
(だって、蛍ちゃん急にあんなことしてくるんだもん……そりゃあ驚いちゃうよ)
まだ右頬が熱を帯びたように熱くなっている。
官能的ともいえる蛍のバニーガール衣装と相まって、さっきの事をどうしても意識してしまう。
ただ、こういうのも子供として見られているせいからなのだろうか。
(もしかしたら、くまちゃんもこんな風に子ども扱いを周りから受けてたのかも)
燐は今頃になって、くまがどういう気持ちであったのかが少し理解できた気がした。
「ねぇ、蛍ちゃんは、どうしたらいいと思う?」
「う~ん」
何やら考え込む蛍。
燐は蛍に握られている手の方ではなくて、もう片方の手のひらが添えられている
(蛍ちゃんは、言葉を濁していたようだけど)
刀には鞘がついているように見えるけれど、やはりそういう刀剣の類なんだろうか。
コスプレ用としてはやけにしっかりと作られているように見えるし、まだ持たせてもらったことは無いが結構重いものではないかと燐は思っていた。
(蛍ちゃん……ずっと大事そうにもっていたよね)
扉を探している間でも、蛍はあの刀を肌身離さずに持っていた。
そのぐらい大事なものということなんだろうけど。
何か、引っかかる感じがする。
なんていうか、蛍に似つかわしくないのだ。
蛍の無垢で透明な感じと、あの刀はアンバランスに思えてしまう。
蛍が虫も殺さない箱入りのお嬢様、というわけではないのは燐だって知っているけれど。
(それとなく、聞いてみた方がいいのかも)
やっぱり気になることだし。
蛍との間に僅かとは言え、もやもやしたものを抱えたくはないから。
「あのさぁ、蛍ちゃん」
燐はなるべく穏やかな表情で話しかけようとしたのだが。
「ねぇ、燐、ここで待っていようよ」
ぱっと目を開けた蛍がそう言っていた。
何ともタイミングの悪いことだったが。
「もしかしたら、誰か……サトくんとかオオモト様が来てくれるかもしれない。くまちゃんだってここに来るかもしれないし」
蛍はぱっと顔を明るくして燐にそう提案してくる。
燐としてはそれよりも先に蛍に聞きたいことがあったのだが。
「そ、そうだね。無闇矢鱈に動き回ったって意味なんかないもんね」
結局、燐はそんな無難な事を口にしてしまっていた。
蛍に気を遣ってしまったというよりも、単純に言い出すことができなかった。
(そこまで日が浅くないはずなんだけどなぁ、わたし達って)
久しぶりに顔を見たように思えたから、互いに気を遣い合っているだけなのかも。
でも、本当にそれでいいんだろうか。
「でも良かった。燐と一緒で。わたし一人だったらやっぱり心細いと思うもん」
「それはわたしの方だよ。蛍ちゃんと一緒で素直に嬉しい!」
燐は両手を空にあげた。
まだどこかおぼろげで、不安はいっぱいあるけれど。
蛍も燐も。
お互いを見つめて微笑んでいる。
それだけでよかったのだ。
この時は。
もし、ここから一緒に空へと跳ぶことになったとしても。
後悔なんてものは微塵もなかった。
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・かなり遅い報告となってしまいますが、”青い空のカミュDL版”が3月10日まで1500円で販売中みたいですー。
新規でプレイされている方もまだいるようですし(もちろん私もまだプレイしています)発売6周年前のお買い得の時に是非ーーー!!!
・ぼっち・ざ・ろっく! のアニメ2期が決定したみたいですね~。やった~!!
総集編の映画を上映している時に発表になるかと思ったのですが、まだ予定は未定状態のようですし、スケジュールが合わなかったような感じですかねぇ? 何にせよ放送が楽しみですねぇ。
・”終末ツーリング”という漫画もアニメ化にするようですねぇ。
こちらも結構好きな作品ですので、楽しみだったりします。
二月は体調悪くしてしまって、ベッドの上でスマホを見ながらごろごろしてるだけだったです。ゲームとかはあまりやれてない感じですねぇ。
やっぱり寒いのは苦手傾向なのかも。
これでも北国生まれなのですが??。
それではではでは~。