We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life.   作:Towelie

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「きゃうううんっ!!」

「……?」

 静寂だったリビングに突然大きな声が響き割った。

 黒髪の少女はめずらしく驚いたように何度も目をぱちくりとさせていた。

 普段から落ち着き払っている少女もこれにはさすがにビックリしたようで、目を開いて口元を両手で押さえていた。

(やっぱり、かしらね)

 どうやら思い当たる節があったようで、座っていたソファーの前にある白いテーブルの下を頭を下げて覗き込む。

 少し困った表情で覗き込んだ先では、空色のスカーフを巻いた白い中型犬がぐーっと気持ちよさそうに横に身体を伸ばして寝そべっている。

 熟睡と言うわけではないようで、時折ぴくぴくと四肢を震わせていた。

「今のって、あなただったの?」

 静かな声でそう尋ねると、犬は惚けた顔をこちらに向ける。

 何を言っているのか分からないとでも言いたげに、眠そうな目で白い犬は見つめていた。

 その表情をみた赤い着物の少女──オオモト様はくすりと苦笑いを浮かべた。

 だが、呆れていたとか、怒っているとかではない。

 むしろ微笑ましく思っているようで。

 まだ全然眠り足りなそうにピンク色の鼻をひくひくとさせているその犬の頭を手で撫でようとしたそのときだった。

「ひゃあっ! ぎゃふん!!」

「これって……?」

 さっきよりも変な声が立て続けにして、オオモト様は不思議そうに周囲を見渡した。

 どう見てもこれは目の前の白い犬──サトくんが出した声ではない。

 サトくんは少女の前で興味無さそうに欠伸を噛みころしている。
 だから、違うのは分かるのことなのだけれど。

 オオモト様とサトくんは顔を見合わせる。

 もしやとは思う、が。
 オオモト様は眉を少し寄せて該当するものがいるところを覗きこんでみる。

 すると。

「これは……何か起こりそうな予感がするクマね……!!」

 一人用のソファーのひじ掛けにだらんとだらしなく足を引っかけながら、ぐずぐずとティッシュで鼻を拭く”くま”が意味ありげに呟いていた。

「さっきのは()()。あなただったのね」

 他にいないのだから自然とそうなるわけなのだが。
 
 一応聞いてみることしたのだった。

「んんっ、そうだけど。なんか用クマ」

 くまは特に悪びれもせずにあっさりとそう白状をすると、新しいティッシュを両手で持ってちーんと鼻を噛んでいた。

「ボクの鼻が、こう……むずむずっとなるのは、何かが起こる前兆みたいなんだ」

「それで、さっきからくしゃみを?」

「これはまあ、一種の生理現象みたいなもんクマね」

「そうなのね」

 それにしては、くしゃみと言うよりも犬の鳴き声のようだったから、てっきり彼のものかと勘違いしてしまった。

「ごめんなさいね。あなたのことを疑ったりしてしまって」

 そう言ってオオモト様は白い犬の頭にぽんと手を置いた。

 本気ではなかったけれど、ちょっとでも疑いを持ってしまったのは事実だったから。

 サトくんは特に気にしていないようで、そのまま頭を撫でてあげると嬉しそうにぴすぴすと鼻を鳴らしている。

「何らかの事象の前兆とかが分かるものなのかしら?」

 オオモト様は小さく笑みを作ると、サトくんの頭を撫でながらくまにそう尋ねる。

「そういうのじゃないっていうか……いや、そういうものなのか?」

「?」

「ボクも自分で言ってて分かんなくなったクマー!」

 くまは首を横に振ると、使い終わって丸くなったティッシュを、リビングの隅にあるくずかごへと放り投げる。

 何も考えずに投げたせいか、丸い紙屑は惜しくもゴミ箱の中には入らずに、ぽとりと床に転がってしまった。

「クマっ!? ボクが外すなんてっ」

 軽く舌打ちをしたくまが、面倒くさそうに体をおこしてそのごみを拾い上げようとするも。

「あっ」

 いつの間にかソファの下から這い出てきたサトくんが、くまの捨てた紙ごみを口で拾い上げていた。

 口で咥えたままゴミ箱の前まで行くと、頭を軽く持ち上げてゴミをすとんと中に落とす。

 そしてくまの前をつっと通り過ぎて、オオモト様の座るソファーへと戻っていった。

「むぅっ、そのあからさまな態度がやけに鼻に付くぅ。犬畜生にも劣る熊だと言いたいクマか!?」

 あからさまな不満を声をあげるくまに、オオモト様は犬の頭をよしよしと撫でつけながら笑みを作っていた。

 ……
 ……

「予兆とか予知とかじゃなくってさ、何か良くない感じがするってだけなんだよね、しかも身近で」

「そう」

「何が起きるのかまでは分からないけど、まあ、()()()()()()クマね」

 ようやくくしゃみが収まったくまが、自分の鼻を指でつまむ。

 オオモト様はとくに何も言わず、ただ黙ってその様子を見ていた。

 二人は先程まで見ていたテレビの方に目を戻した。

 サトくんもじっと画面に視線を送っている。

 リビングの壁に掛けられた液晶テレビの画面には、廃墟のような景色が映し出されていた。

 夜のような真っ黒い背景に、大きな金魚鉢のようなものがライトアップされている。

 その上から水が流れ落ちて、噴水のようになっている。

 さながら、積み上げたグラスに上からシャンパンを注ぎ込むみたいに。

 何と言うか、少し異質な感じがした。

 ──ここが何処なのかは分からない。

 見知らぬ景色であることには間違いないようで、二人とも困惑した顔でその映像を見ている。

「ねぇ、もしかしたらさ、ここに居たのかな。あの子たちが」

 くまは疑問に思っていたことを口にする。

 根拠などはなく、何となくそう思っただけなのだが。

「きっとそうね」
 
 オオモト様もそう答える。

 しかし画面には誰の姿もない。
 それどころか、人っ子一人映ることはなかった。

 その中で動いているものと言ったら、金魚鉢の上からひたすら流れ落ちてくる滝の水の流れだけ。

「うーん。間違い探し……じゃないだろうし。どういうことなんだこれは」

 画面を食い入るように見つめていたくまが低い声で唸る。

 さっきから同じ映像を映しているが、これといった変化は見られない。
 
 彼女らの辿った痕跡をただ映しているだけなのだろうか。

(それは何の為に?)

「あの子たちのことなら大丈夫よ」

 オオモト様の言葉にくまはさらに難しい顔になる。

「またそれかい? まあ、ボクもそう思うけどさ。でもじゃあ何処に行ったのさ」

「それは分からないわ」

 このテレビが再び映るようになったのは、ついちょっと前のことだった。

 くまが一度は壊そうと思ったテレビだったが、前に蛍から教わったことを思い出してリモコンを操作していた。

 何度か試している内に画面にまた何か映るようになった。

 幾つかのノイズの後、画面が切り変わり、そして今の光景を映し出していた。

 水が流れていることから静止画ではないのだろうが。

「あのさ」

 くまが不意に口を開く。

 その口調はいつもとは違って少し重重しいものだった。

 珍しく慎重なくまに、オオモト様はいつもと変わらず柔和な笑みでくまに問いかける。

「何かしら」

「あぁ、うん……」

 その呼びかけに何故かくまは押し黙ってしまった。

 画面からは相変わらず音が流れてこないから、くまが黙ってしまうとリビングの中は静寂に包まれてしまう。

 窓ガラスの外では、変わらない青と白の景色がゆったりと流れていた。

 オオモト様は何も言わずに、湯気の立つ湯飲みを口元へと運ぶ。

 静謐なリビングの中で、茶葉の青い匂いが漂っていた。

(画面は、ずっと同じ景色を映し続けている……)

 定点カメラとかで撮っているのだろうか。視点が一切動いていない。
 
 対象を上から見下ろすような画角だったから。

 どこか高い所からか、空中からということになる。

 巨大な鉢の前にカメラでもあるのか。
 それかドローンでも飛ばしているのか。

 どちらもこの不可思議な世界では違うような気がする。

 そういう”機械”じゃなくて。

 逡巡するような仕草の後、再びくまが口を開ける。

 それはくまがずっと考えていたことだった。

「やっぱりさ、この映像って”アイツ”が見せているものなのかな」

 意を決したようにくまはそう話を切り出す。

 薄々分かっていたことだった。
 
 ただ、証拠と言うか確信がいまいち持てなかったと言うだけで。

「そうね」

 それを肯定するようにオオモト様はそう一言だけ呟いていた。

 そうなるとやはり疑問に思うのは。

「でもさ、それって何の為に? ボクたちにこれを見せてアイツにどんな得があるっていうわけクマ?」

「分からないわ。けれど、これは過去のものではなくて、今のことよ」

「それは、分かってる……だったらどうして、あの”ダイダラボッチ”は何もしてこないんだろう?」

「わたしには分からないことだわ。アレの考えていることも、その行動理念もね」

「ダイダラボッチ」

 山のように大きな巨人の妖怪、ということだったが、姿形も自由に変えられることもできるらしい。

 さらには生物という概念すらも超えるようなことまでできるみたいだが。

(全く、クラゲのくせに飛ぶとか本当に馬鹿馬鹿しい……忌々しい化け物風情が!)

 だが、アイツだったのならある程度は納得がいく。

 何でここのテレビと繋がっているのは分からないけど。

「前に、キミ達のことをこのテレビで見たことがあったんだけど、もしかしてあれもそうだった?」

 くまがそう尋ねてみても、オオモト様は何も言わなかった。

 言えなかったのだろうが。

 消えたと思った()()()が本物かどうか分からなかったときに、この画面に映し出されたものも、今思えばおかしいと思うことだった。

 今と同じように画面は動かず、上の方からの視点のままだった。

 そのせいで肝心の座敷童のその顔が見えなかったから、やきもきしてしまった蛍がこの家から飛び出して行ってしまったのだけれど。

(それも全部、アイツが計算してのことだったのなら……)

 見かけよりも頭は良いのかもしれない。

 ダイダラボッチの本当の姿は未だ知らないのだが。

「わんわんわんっ!」

 不意に激しくサトくんが吠えだしたので、くまとオオモト様は驚いたように目を大きく開けて振り返る。

 まるで画面に注目しろと言っているみたいに、犬はテレビに向かって吠え続けていた。

「これは」

「クマぁっ!?」

 テレビの画面が一瞬変わり、何かがぱっと何かが大きく映ったかと思うと、それを認識する間もなく画面は真っ暗となってしまう。

 あっという間の出来事に、二人どころか、白い犬も声を失って膠着していた。

 誰かが誤ってリモコンを踏んづけてしまったのではないか。
 
 そう疑ってみたが実際はそうではなく。

 むしろいくらリモコンを操作しても画面は真っ暗な画面から変わらず、それっきりTVは映らなくなってしまった。

 これは電源が落ちたというよりも、ちょうど今壊れてしまったみたいに、うんともすんとも言わなくなってしまった。

「役目は、もう終わったということかしらね」

 一息ついたオオモト様はそんなことを口にした。

「役目? それって……」

 くまは手毬を持った座敷童──民子の方を振り返る。

 何かを知っているような口ぶりに、それを問いただそうとしたくまがソファから移動しようしたのだったが。

「……っくしゅん!!」

 意図せずして小鼻がぴくぴくと蠢いてまたくしゃみをする。

「これを使って」

 飛沫が掛かることはなかったが、オオモト様は驚いたように小さく口を開ける。

 そして柄のついたハンカチを袖の中から取り出すと、くまの前にすっと差し出した

「こんなの勿体ないクマっ」

 新品同然のハンカチを受け取ることはせずに、くまは傍にあったボックスティッシュを箱ごと引っ掴むと、それで何度も鼻をかんだ。

 オオモト様は少し残念そうに手の上のハンカチを見つめると、戻すようなことはせずに自身の膝の上にそっと乗せた。

「これもあなたの言う、良くない出来事、なのかしらね」

 オオモト様は静かにそう言葉を紡ぐ。

 確かにテレビは壊れてしまったみたいだから、そうなのかもしれないが。

 ぶんぶんぶん。

 眉をぎゅっと寄せたくまが、ティッシュで鼻を噛みながら首を横に大きく振った。

「そういうのじゃなくって、もうちょっと重要っていうか、ボクの……へ、へっ、へっぐじゅんっっ!!」

 何かを言い終わる前に、くまは犬というよりも何か別の生き物の鳴きまねのような、大きなくしゃみをまた吐き出していた。

 ……
 ……

 ピンポーン

 それと同時に玄関の方からチャイムの鳴る音がした。

 ──
 ──
 ──




Lore-Ley

 

 燐と蛍は廃墟となったパークの地下にあった小さなボートで洞窟の先へと進むことにした。

 

 町の中心にあった大きな水溜まりにふいに流れてきた一つの灯篭が流れてきた先を辿って行っただけなのに。

 

 こんなところにまで来ている。

 

 まあ、今となってはそんなことはどうでも良いというか、多分きっかけだったんだろうとは思うが。

 

 ぎこっ、ぎこっ。

 

 軋んだオールの音が洞窟内に響き渡る。

 

 反響しているせいか、ことさら大きな音に感じてしまうものだったが。

 

 少女達は特に気にする様子はなく。

 

「あの時の蛍ちゃん、すっごく面白かったなぁ」

 

「そうかなぁ、燐の方が変わっていたと思うけど」

 

 二人は小さなボートに向かい合わせで座り、楽しそうに談笑している。

 

 不思議だったのは、都合よくボートがあったことなんかではなく、外の世界よりも地下の中の方が明るいということだった。

 

 地下へと続いていた階段の周りには、何かの作業用と思われる小さな照明が点いていたけど、この辺りにはそう言った人工的な灯りはない。

 

 それなのに、ほんのりと洞窟内が明るいのは。

 

「もしかしたら、この洞窟の中にフローライトでもあるのかも」

 

「フローライトって、紫外線に反応して光る石、だったよね。こんな感じに光るものだったっけ?」

 

 ブラックライトを当てると見つけやすいらしい。

 何かで見た記憶がある。

 

 しかしそんなものは二人とも持っていない。

 

 もし、燐の言うようにフローライトのおかげで中が光ってみえているのなら、外の光がどこからか入ってきているのだろうか。

 

「じゃないと説明がつかないっていうか。鍾乳洞に行ったことはあるけど、きちんと整備されたやつだしなぁ」

 

 そう言って燐は両腕を軽く伸ばす。

 

「色んな山には登ったけど、こんな洞窟探検なんて初めてのことだよー」

 

 アウトドア全般をやったつもりでいたが、こういった地底のそれも全く知らない場所での探索なんて。

 

 それこそテーマパークの続きをしている気分だった。

 

 それは蛍も同じことのようで、オールを漕ぐ手が少し震えているのは、興奮からくるもののようだった。

 

「何にしても暗くないからいいよね。わたし達何も明かりをもってきてないから」

 

 地底湖の水もエメラルドグリーンに光っているように見える。

 

 実際にはそうではなく、底が見えるほどの透明感がそうさせているのだろうが。

 

 真っ暗ではないという安心感があるから、洞窟内においても心細さを感じるようなことはなかった。

 

「何かさ、冒険してるって感じがするね」

 

 蛍は明るい声でそう言う。

 

 怖さよりも興味の方が強いようで、周囲を見渡しては軽く溜息をついていた。

 

 燐は苦笑いを浮かべながら頷くと。

 

「冒険っていえばさ、地下とか地底とかを探検するお話って結構あるよね」

 

「”地底旅行”なんかは特に有名だよね。映画にもなったことあるし」

 

 以前、二人で行った海の近くにあるテーマパークにもその作品をモチーフにしたアトラクションがあったことを蛍は思い出していた。

 

「あのお話って結構エグいよね。最後は噴火の爆発を利用して外に出てくるんだもん。それって、パラシュートなしでスカイダイビングをするみたいなものだもん」

 

 燐の例えに蛍は噴き出してしまう。

 

「確かにね。筏に乗ってたから平気だって言ってるけど、先にマグマで筏が燃えつきそうな感じがするもんね」

 

 そういう荒唐無稽さも冒険譚の面白さだと思うが。

 

「こう静かだと、燐と湖畔でデートしてるみたい。湖っていうか、地底湖なんだけど」

 

 蛍はにこりと微笑む。

 その頬は少し赤味を帯びていていた。

 

「そっちの方がロマンがある気がしない? こんな所で告白なんてされたら簡単に恋に落ちちゃいそうかも」

 

 そう燐は軽口を叩く。

 

 実際、とても神秘的な場所だったから。

 

 他に誰も居ないわけだし。

 現実感がないのも雰囲気的には良いと思う。

 

「でもさ、こういうのって、やっぱりフラグになる感じがしない?」

 

「そのつもりでそう言ったんでしょ。振りで蛍ちゃんは言ってるんだと思ってた」

 

 からかうように笑う燐に、蛍は顔を赤くしながら微笑む。

 

 碧い水面がその表情をことさら幻想的にさせていた。

 

 凪いだ穏やかな水面をボートは滑るように進む。

 

 さすがに蛍一人だけでずっと漕ぎ続けるのは大変だったので、今度は燐がボートを漕ぐことにした。

 

「うちの県にも湖って結構ある方だけど、蛍ちゃんってどこの湖に行ってるの?」

 

 オールを動かしながら燐がそう聞いてくる。

 

 ボートを漕ぐのはそんなに得意ではないと燐は言っていたが。

 何の問題もなく小舟は進んでいる。

 

 蛍の動きを見てコツを理解したのだろう。

 

「わたしはほら、海に近いあの大きな湖だよ。そこでボートに乗ったりしてたんだ。マンションからも近いし」

 

 二人の住んでいる駅前のマンションからはその湖は電車で数駅のところにあった。

 

 かつては有料道路だった湖にかかる大きな橋や、遊園地なんかも近くにあり、週末には地元で人気のスポットとなっている。

 

 代わりに平日はどちらかと言うと空いている方なのだが。

 

「あそこって、スワンボートしかなくなかった? こんなレトロっぽいボートって置いてあったかなぁ」

 

 高校に通っていた頃は部活のみんなとその湖でよく遊んだが、こういったシンプルなボートに乗った記憶がなかったから。

 

「こういう昔っぽいのだけを貸してくれるところがあるんだよ。確かにレトロでちょっと頼りない感じするけどわたしはこっちの方が好きだなあ」

 

「それにこういうボートの方が実は安全なんだって」

 

「なるほどね。スワンボートって大きいから頑丈そうに見えるけど、その分風の影響を受けるもんね」

 

 でも、と蛍は軽く微笑む。

 

「今の燐にはスワンボートは似合いそうな感じするけどね」

 

「もうー、意地悪だなぁ、蛍ちゃんは」

 

 燐は漕いでいたオールをわざと大きく持ち上げた。

 

 その瞬間、ぱっと水しぶきが舞って、困った顔をした蛍がきゃあと苦笑いしていた。

 

 ……

 ……

 ……

 

「蛍ちゃん。よっぽどその靴が気に入ったんだね。さっきから嬉しそうだよ」

 

「燐にはそう見える?」

 

「うん。そんなにあの靴って嫌だったの」

 

「嫌って言うか……やっぱり慣れなかったよね。履けないってわけじゃなかったけど」

 

 蛍がバニーガールの衣装とともに履いていた赤いヒールの高い靴は、この白い靴に履き替えてからは、もう持ってはいない。

 

「やっぱり窮屈だったんだと思う。実際にそうだったんだけど、気持ちの方とかも」

 

(この服もちょっときついんだよね。特に胸の辺りとか)

 

 燐は言わないが、別の服もあれば良かったのにと、蛍は思っていた。

 

「まあ、靴に足を無理矢理押し込んでるみたいなもんだからね、パンプスとかって。わたしも実は履いたことってまだないんだよね」

 

 大学の入学式でも燐はスーツにトレッキングシューズの妙な出で立ちだった。

 

 自分には到底似合わないものの一つだと思っているから、一度も試したことがない。

 

 いまどきのメイクなんかと一緒で、ある程度の”覚悟”のいるのだろうと前から燐はそう思っていた。

 

 まあ、今はこんな姿だから、それ以前の問題なのだけど。

 

 恥ずかしそうに笑う燐に、蛍は人差し指を唇に沿わせて困った顔になる。

 

「無理に履かなくてもいいと思うよ。わたしだって足が痛い感じが残ってるし」

 

 そのことを思い出したのか、蛍は足首の辺りを手で軽くさすっていた。

 

「それにしたってさ、わざわざその箱の中にさっきの靴を入れなくてもねぇ」

 

 新しい靴の代わりというわけではないけど、蛍は履いていたヒールの取れた赤い(パンプス )を白いスニーカーの入っていた箱の中に入れてしまったのだ。

 

 椅子代わりとして備え付けてあったその箱は、今は燐が座っている。

 

「もう要らなくなったけど、置いていったらかわいそうかなって」

 

「まあ、何となくわかるけどね。どちらかと言うと、わたしも物が捨てられないほうだから」

 

 修理できるものは直して使うようにと従兄から教えられていた。

 そのおかげで燐はずっと前からそうしていたのだ。

 

 でもその方が愛着も沸くし物を大切にすることが出来るから嫌ではなかったけど。

 

「あ、でも。わたしのは燐とはちょっと違うかも」

 

「そうなの?」

 

 少し困った顔で蛍がそう言ったので燐は首を傾げる。

 

「映画でさ、こういうのがあったなって」

 

「映画ぁ?」

 

 ますますもって分からなくなった燐はきょとんした顔で蛍を見つめた。

 

「えっとね、宝ものを取ったらその重さで反応してトラップが動いちゃうっていうシーンを思い出したの。もしそうなったら嫌だなって」

 

「あぁ、もしかしてあの冒険(アドベンチャー)映画のこと?」

 

「うん。そう」

 

「あれのことかぁ。蛍ちゃん良く覚えてたね」

 

 その映画のことは燐も知っていた。

 

 考古学者兼、トレジャーハンターの主人公が世界各地にある秘宝を求めて、世界中を飛び回る冒険アクション映画。

 

 シリーズ物の作品で現在5作目まで出ている。

 

 その最初の作品に蛍の言うトラップがあったのだ。

 

 主人公は宝と同じ重さの砂袋を置いたのだが、何故かトラップが作動してしまって、背後から迫る大岩から逃げ回るはめとなっていた。

 

「でも、トラップっていってもねぇ」

 

 燐は今漕いでいる小舟を見渡す。

 

 こんな小さな船にそんな大がかりな罠なんか作れないだろうから。

 

「気にするほどじゃないんじゃないかな。今のところは大丈夫そうだし」

 

「わたしもそれは分かってるんだけどね」

 

 そう言ってはみたものも、蛍もそれは理解しているらしく苦笑いしている。

 

「でも、誰かがこの服を着せてくれたみたいだから、何かの意図があるのかなって思ってはいるの」

 

 蛍は頭のバニーの耳を指で触れる。

 

 作り物の耳はエナメルのような滑らかな感触があった。

 

 レオタードみたいな服の方も同じような光沢のある生地だったから同じ材質のものなのかもしれない。

 

 そこに何の意味があるのかは分からないけれど。

 

「もしかして、カチカチ山を意識してる? 考えすぎかな」

 

「か、カチカチ山!?」

 

 燐は蛍のいっていることが本当に分からないようで、ぽかんと口を開けている。

 

「ほら、わたしがウサギで、燐はタヌキじゃなくてきつねさんだけど。今は一緒に船に乗っているなぁって」

 

(だからカチカチ山? それってどういう必然性なんだろう?)

 

 いまいち結びつかない。

 仕返しをするとかそういうのは微塵も浮かんでないのに。

 

「じゃあこれは泥船かもね。どっかに穴が開いてたりして」

 

 燐はわざとらしくきょろきょろとしてみせる。

 

 船底にいつの間にか穴が開いていて、そこから水がどんどんと入ってくる……なんていうことはない。

 

 目で見えないほどの小さな穴なら別だが、今のところはそんなあからさまな穴は開いてはいなかった。

 

「大丈夫みたいだね」

 

 蛍はほっと溜息をつく。

 

「それに、わたしは燐にそういう嫌がらせみたいな事は絶対しないから。だって大好きだし」

 

 蛍はきっぱりとそういうと、目の前にいる燐に笑顔をみせる。

 

 燐は少し照れながらも返事を返した。

 

「わたしも蛍ちゃんのこと大好きだよ。あ、でも」

 

「どうしたの、燐」

 

「うん、ウサギとキツネって仲良いのかなって?」

 

「さあ……」

 

 互いの頭の耳を見ながら、蛍と燐は首を傾げていた。

 

 ……

 ……

 ……

 

「あれって、何だろう? なんか靄みたいに白いけど……」

 

 先にそれに気付いたのは蛍だった。

 

(まさか雲じゃないよね? ここって地下だし)

 

「ねぇ燐。何か、霧みたいものがこの先に出ているみたいなんだけど」

 

「えっ、霧っ? ウソでしょ!?」

 

 慌てて燐は蛍が指差す方向に振り返る。

 

「何これ、何でこんな所で霧が!? だってここは地底の湖なんだよ」

 

「湿度はちょっとあるとは思うけど、気温が下がったような感じはないよね」

 

「うん……」

 

 困惑する二人。

 

 しかし、事実として霧はボートの周りに立ち込めている。

 

「変な臭いがしないから、ガスが出ているとかじゃないとは思うけど」

 

 息苦しさもないから、その線は大丈夫だと思うが。

 

「何かどんどんと濃くなっていくような気がするよ……!」

 

 蛍の額から焦りのようなものがにじみ出ていた。

 

「このライトじゃダメみたい。どうしよう燐」

 

 階段にあった懐中電灯を巡らせてみても、白い壁で囲まれたみたいに何も見えなかった。

 

「こうなったら、ゆっくり進むしかないんだろうけど……」

 

 しかし、こうなるとどこへ向かって舵をきったらいいのかが分からなくなる。

 

 コンパスがあるわけでもなかったし、灯台のような目印もないわけだから。

 

 それに、そもそもボートで湖を渡ることは考えていても、たどり着く目標みたいなものは決めていなかった。

 

 霧は瞬く間に少女達の乗る小さな舟を覆い、周辺を白く蝕んでいく。

 

 雲海にいるように感じて、蛍は手でそれを払いのけようとする。

 

 だが次から次に霧は周囲に広がっていく。

 

 これでは視界どころか息すらもできないぐらいに、霧は静けさとともに白さを増していく。

 

 水面との境界線すら分からなくなってしまうほどにまでなっていた。

 

「これ、本当に霧なの? こんなに濃い霧って登山でも見たことないよ!」

 

 そう叫ぶ燐。

 

 今度は雪山のときとは違って、この水の上では逃げ場などはどこにもない。

 

 霧が晴れるのを待つことにしたって、どこかで陸地でも探す必要がある。

 

 それだって、気を付けて行かないと座礁する危険があった。

 

「でも、こうしてここに留まっていても仕方ないし、ちょっとづづでも進んでみよう」

 

 暗闇ではないにしろ視界が徐々に失われていく状況は流石に怖いのか、悲痛ともとれる蛍の提案に燐はこくんと頷いた。

 

「わたしが漕ぐから、蛍ちゃんはライトで照らしてて」

 

「うん、分かった。何かあったらすぐに知らせるね」

 

 気休めにすらならないとは思うが、蛍にライトを渡すと、燐はオールを持ちなおしてゆっくりとボートを漕ぎだした。

 

「何だろ……なんかちょっと重いような」

 

 急にずんと肩に重りが乗せられたみたいにオールが重く感じてしまう。

 

 それにのどの渇きも。

 

(この、変な霧のせいなんかじゃないよね……?)

 

 燐はからからになった唇を舌で軽く舐めた。

 

 別に水草か何かがオールに絡んでいるとかではないみたい。

 

 蛍は燐の頭の上の方をライトで照らしながら、何とか視界を確保しようと大きく目を見開いていた。

 

「どこかに、陸地があるはずなんだけど……!」

 

 だが視界は常に真っ白で、こんな普通のライトではこの霧に対して何の役目を果たすことはできなかった。

 

「蛍ちゃん、どう?」

 

「まだ、何も。確かに進んでるはずなのに」

 

 蛍が血走った目で懸命に凝視してはいるのだが、何かの影のようなものですら一向に見えてはこなかった。

 

 白い闇の向こうで何かが不気味に笑っているような、そんな底知れぬ不安はそこかしこからひしひしと感じ取ることだけはできるが。

 

 どこをどう進んで良いのか分からなくなる。

 

 どこまで行っても視界は真っ白で、真下で揺らぐ泉の水ですら、白く濁って見えるほどになっていた。

 

(いざとなったら船を捨てて泳ぐしかないのかな……)

 

 そんなことまで考えるようになってしまった。

 

 だが、こんな状態で泳ぐなんてことは絶対にしたくはない。

 

 それはこのボートに乗っていること以上に危険なことだというのは二人とも分かっていたから。

 

「でも、このままじゃ……!」

 

 不意に燐の脳裡に”座礁”という不吉な言葉が浮かび上がってしまう。

 

 水面はとても静かなのに。

 

(何でこんなに怖いんだろう……)

 

 無意識に蛍は奥歯をぎゅっと噛みしめていた。

 

「どうしよう、燐」

 

「うん……」

 

 焦燥感を含んだ蛍の問いかけに、燐は建設的な意見を言うことができずに、生返事を返していた。

 

 二人とも軽く、思考停止の状態となっていた。

 

 そのぐらい混乱しているということなのだが。

 

 洞窟の中で霧が出てくること自体、相当に珍しいことなのなのだろうが。

 

 それを楽しむ余裕なんて全然なくて、むしろ完全に追い詰められている。

 

 どこまで行っても白い背景だけなのだから。

 

 胸の詰まるような息苦しさを覚えてしまうほど。

 

 しかも、それだけでない。

 

(なんか疲れる……? わたし、そんなに漕いだつもりないのに……?)

 

 この急速な疲労感は何なのだろう。

 

 手の痛みはそれほどではなかったものの、燐は明らかに疲労を感じているようだった。

 

 だが、問題は体力や手の痛みなんかよりも。

 

 どこまで行ったらいいのか分からないということ。

 

 ちゃんとした目標があれば困難でもまだ頑張れるが、今は完全に迷ってしまっている。

 

 霧の迷宮の中に。

 

 さっきの入り口の方へ戻る方角も、もう分からなくなってしまっていた。

 

 こんな泣き言なんかは言いたくはないのだが。

 

 燐は絞り出すように言った。

 

「ごめん、蛍ちゃん。わたし、このまんまじゃ、もたなくなるかも」

 

「燐!?」

 

 周囲を見渡していた蛍は振り向き、燐の傍へと寄る。

 

「大丈夫?」

 

「うん、でも、なんか疲れて」

 

 そうは言うものの燐は漕ぐのを止めようとはしない。

 

 止まるのが怖かったとも言える。

 

 でも、進むのも怖かった。

 

 霧は、何もかも隠そうとしているみたいに、その濃さを増していく。

 

 そのせいで洞窟の天井すらもみえなくなっていた。

 

 底知れぬ焦りばかりがどんどんと体の内側から広がっていく。

 

 このまま進んだところで埒が明かないと思ったのか、とうとう燐はここで一旦停止しようと蛍に提案しようとした、そのとき。

 

 不意に何かの音がした。

 

 からからから。

 

 不快ではないが、そんなに耳障りの良い音と言う感じではない。

 

 だが、何かの音が燐の耳に確かに聞こえたのだ。

 

「ねぇ、蛍ちゃん今の音って聞こえた!?」

 

 漕ぐのを一旦やめる合図として両手でオールを挙げた燐が勢い込んで尋ねる。

 

「えっ」

 

 急に燐が叫んだので一瞬蛍はびっくりしてしまったのだが。

 

「ううん」

 

 不思議そうに首を横に振っていた。

 

「確かに今、変な音がしたんだけど……」

 

 そういって燐は軽く息を止める。

 

 蛍も口を閉じてそれをじっと待った。

 

 からから、からから。

 

「あ、またっ」

 

 燐は目を大きく見開く。

 

 これは自分にしか聞こえない音なんだろうか?

 

 尋ねるように蛍の方を見ても、さっきと同じで無言で首を横に振っている。

 

 やっぱり聞こえないと言っているみたいに。

 

 どうやら、自分だけが聞き取れる音らしいことが分かった。

 

 それも。

 

(この、キツネの耳だけが捉えられる音みたい……それって犬笛みたいなもの?)

 

 その表現が正しいのかどうかは分からないが。

 

 目印みたいなものは一応見つかったが。

 

「燐には分かるの? その、音が」

 

 地上でも燐はそんな事を言っていたからまさかだと思うが。

 

 燐は、返事の代わりに自分の頭の上のぴんと立っているキツネの耳を見上げる。

 

 別の生き物のようにぴくぴくと動くその耳を、蛍はぽかんと口を開けて眺めていた。

 

「まあ、こんなのを付けているせいで変な音が聞き取れるのかもね」

 

 燐は顔を少し赤くして、自身を茶化すようにそう言った。

 

「そうなんだ。結構便利だよね、その耳って」

 

 蛍は困った顔で苦笑いをする。

 

「そういえば、水音が聞こえたときも燐はそんなことを言ってたよね」

 

 自分には聞こえなかったり、見えないものが燐には分かるらしい。

 

 その事は蛍の心に少しの影を落とす。

 

 まだ自分は”座敷童”みたいなのに、それなのにこれといって何の役にも立っていない。

 

 これじゃあ普通の人と変わらないどころか、それ以下にすら思えてしまう。

 

 本当に自分は何なんだろうか。

 

 幸運を呼ぶ力があったことすら何の自覚もないまま、力の殆どが失われているみたいなのに。

 

 人とも座敷童ともつかない存在になってしまっている。

 

 どちらともなれない自分に何の価値があるというのだろうか。

 

(それどころか、何か変なものまで作ってしまったみたいだし)

 

 自分の中から出たものが、世界を終わらせるみたいらしい。

 

 それだってなんの自覚がない。

 

 ずっと胸の中で溜まっていた思いが、それを生み出してしまったらしかった。

 

 きっかけは……何となく分かる。

 

 でも分かるのはそれだけで、後は知らないうちにそんな事にまでなってしまったらしかった。

 

 他人事のような考えになってしまうが。

 

 何でそんな事になってしまったんだろう。

 

(願いなんてもう。そんなもの、いらないことなのに)

 

 でも。

 

 それは、本当?

 本当に、もう必要のないもの?

 

 ──わからない。

 

 分かっているはずのことなのに。

 

 ほんとうのことが分からない。

 

 自分の、本当の気持ちが。

 

「蛍ちゃん、大丈夫? 蛍ちゃんも疲れちゃった?」

 

 燐が心配そうな顔で顔を覗き込んでいた。

 

「あ、ううん。大丈夫」

 

「本当? 蛍ちゃんも無理しないでね。この霧なんか変だし」

 

「そうだね。じゃあ、ちょっと休もう」

 

 蛍がそういうと、急に燐が正面から抱きついてきて蛍は少しびっくりしてしまう。

 

 その反動で小舟が少し横へと揺れる。

 

「ごめん。ちょっとだけこうしてても良い?」

 

「うん。いいよ」

 

 蛍はそれだけを言うと、いつもよりも小さい燐の背中に手を回して抱きしめた。

 

 燐も細い手を伸ばして蛍の背中に手を回す。

 

 次に目を開けたとき、この霧が全て消えてしまわないだろうか。

 

 そう願って軽く目を閉じた。

 

 ……

 ……

 ……

 

「ねぇ、蛍ちゃん。本当に良いの?」

 

 船の後方を一瞬振り返った燐がもう一度蛍に聞き返す。

 

「燐はその音のする方向に案内だけしてくれればいいから」

 

 そう言って蛍はオールをぎゅっと握りしめた。

 

 燐の手には先程蛍に手渡した懐中電灯が再び握られている。

 

 蛍がオールを持つのは最初にこの小舟に乗ったときと変わらないのだが。

 

 さっきとは違い、二人の顔にはもう余裕のかけらすらもない。

 

 それでも蛍が一人で漕ぐと言ったのには。

 

(わたしだって、少しは燐の役に立ちたいもん……)

 

 船上で一息ついている合間にも、霧はその濃さを増していくようだった。

 

 とうとうお互いの顔ですら、近づかないとはっきりと見えないぐらい。

 

 この分だとそれぞれの輪郭すらもこの霧の中に消えていってしまいそうに感じてしまう。

 

「燐はさっき頑張ってくれたんだから、今度はわたしが漕ぐ番だしね」

 

「それはさっきも聞いたよ。でもぉ」

 

 向かう合う燐と蛍の姿も、半身ほど霧の中に溶け込んでいる。

 

 とても幻想的に見える光景なのだが、このまま真っ白な世界に溶けてしまうのではないかとの危惧すらも思い浮かぶほどだったから。

 

 いよいよ最後の手段としては、船を捨てて泳ぐしかないが。

 

(それでもどっちに行ったらいいのかは未だ分からないんだよね)

 

 この地底の水の中では、あの時みたいに息なんかはできないだろうし。

 

 それに、ここの水がどういう成分を含んだものかはわかっていない。

 

 普通の、地下水のようには見えるけれど。

 

 魚などの生き物の影は見えなかった。

 

「一緒に漕ごうか? その方が負担が少なくてすむよ」

 

 そう燐は提案したのだが。

 

 蛍は困った顔で首を横に振った。

 

「この船って小さいから、一人の方が安定すると思うんだ」

 

「それは、分かっているけど」

 

 蛍は、自分だけでボートを漕ぐと言って聞かなかった。

 

「それに、燐の顔を見ながら漕ぐ方が頑張れる気がするし」

 

 そう言って蛍は顔を赤くさせた。

 

「そうなの? 蛍ちゃんにそんな言われると何かすっごく恥ずかしいっていうか」

 

 燐は苦笑いを浮かべるとそっと溜息をつく。

 

(頑固なのはまあ、お互いさまなんだけどさ)

 

 ただ、蛍の様子が少しおかしい感じがするのは気のせいなんだろうか。

 

 何がどうおかしいとかはまだ何も言えないけど。

 

「無理だけはしないでね。いつでも代わるから」

 

「うん」

 

 本当に大事なものがやっと分かったのだから。

 

 もう失いたくはない。

 

 ずっと大好きな──蛍ちゃん。

 

 そして、もちろん自分も。

 

 これだけは我がままになってもいいんだと思う。

 

 他にはもう何もいらないのだから。

 

「燐の言う方に行くから」

 

「うん、分かった。じゃあ失礼して」

 

 燐はそう力強く返事を返すと、蛍の前でそっと瞼を閉じた。

 

 聞こえてくる音だけに意識を集中する。

 

 からから。

 からから。

 

 獣の耳は奇妙なその音にぴくりと反応をしめす。

 

(これって、何かの笑い声? それにしては不気味っていうか)

 

 骸骨が顎だけを動かして笑っているみたい。

 

 そんな風な事を燐はつい頭に思い浮かべてしまったが。

 

「あっちの方から聞こえてくるっ!!」

 

 それだけを鋭く蛍に伝えると、音の聞こえてきた方角に燐はまっすぐに手を伸ばした。

 

 手にもった懐中電灯が細い光の道筋を宙に描く。

 

 白い闇を切り裂くほどではなかったが、蛍はその光の先に微かな希望のようなものを見出していた。

 

「そこへ向かってみるからっ!」

 

 すぐさま蛍はボートを漕ぎだす……そのつもりだったのだが。

 

「何か、オールが」

 

 何故だか重く感じる。

 

 オールがというよりも、水を掻きだす動作がさっきよりも重い。

 

 自分の手が鈍ってしまったのかと思うほど。

 

 水上で停止しているときでもボートは動いていなかったから、水の流れなんかはないのだろうが。

 

 一度失った運動エネルギーを再度動かすには小さなボートとはいえ、相応の力が必要だということなんだろうが。

 

 それにしたって、これは。

 

「蛍ちゃん?」

 

 不思議そうに首をかしげる燐に、蛍はにこりと笑顔を作る。

 

 その笑顔は大分窮屈なものだったが、霧のせいで燐がそれに気づくことはなかった。

 

 蛍は何としても自分だけで動かすつもりのようで、軽く頭を振って気持ちを切り替える。

 

(このぐらい、あの時のことなんかに比べたら……)

 

 大したことなんかない。

 

 失う痛みに比べたら。

 

 可憐な小さな唇をぎゅうと噛みしめて、やる気を漲らせると。

 

「このっ!!」

 

 渾身の力を込めて蛍は二つのオールを手前に引いて動かす。

 

 鉄の塊のように重かったボートが少しづつだが進むようになってきた。

 

 オールの動きはまだぎこちないものだったが、動かすたびにそれはスムーズにそして安定したものとなっていった。

 

「良かった……」

 

 額に汗をびっしりと掻いていた蛍だったが、ボートがまた動き出したことで安堵の表情となっていた。

 

 燐もそっと息をこぼす。

 

 そして再び音へ集中することにした。

 

 蛍も余計な音が出ないように、水面の様子を見ながらオールを動かす。

 

 燐が目を閉じているからボートが進む先に何があるのか分からないのだが、蛍がそれを気にすることは無かった。

 

 それだけ燐のことを信頼していると言えるし、どうせ霧で見えないのだから気にしたところで無駄なことを知っていたから。

 

 迷わずにひたすらオールを動かした。

 

 燐は自分だけが分かるふしぎな音をもっとはっきりと聞き取ろうと、人の耳の方だけを両手で塞ぐ。

 

 これで余計な音を聞き取らずに済む。

 そう思ったのだけど。

 

 ぴくっ、ぴくり。

 

 それまで音の方向に向いていた燐の狐の耳が、奇妙な動きを見せる。

 

 二つの耳がそれぞれ違う方向にぴくぴくと動き出していた。

 

 ダウジングの針のようにそれぞれが別方向に傾いていた。

 

 燐の意思とは別に。

 

 見ていた蛍の方が心配となってしまうほど。

 

(どうなってるのこれ……なんか、音が変わってる……?)

 

 何が起きたかのかすぐに分からず、ぱちっと瞼を開けた燐は困惑した顔のまま周囲を見渡していた。

 

 辺りはやはり真っ白で何の変化もみえない。

 

 それなのに頭のてっぺんあたりが少し重苦しい。

 頭痛を感じるほどではなかったが、何か嫌な胸騒ぎを覚えてしまう。

 

 それを裏付けるかのように、燐の耳に届く音がひどく奇怪なものに変わっていた。

 

「これって……まさか!? はうううっ!」

 

「燐! どうかしたの、燐!?」

 

 突然、蹲って苦しみだす燐に蛍は慌てて声を掛ける。

 

 燐は苦しそうに片目を開けて、険しい顔で答える。

 

「何か、違う変な声が聞こえて……それで……いやあああっ!!」

 

「燐っ!!??」

 

 細い身体を曲げて苦しそうに呻く燐。

 

 蛍はオールから手を離して、燐の元に駆けよろうとするが。

 

「ま、待ってっ、蛍ちゃん!」

 

「燐っ……!」

 

「だいじょうぶ、だから……だから船の方を……うぐぐうっ!」

 

 苦しそうに息を吐きながらも、燐に片手で蛍を制止する。

 

「……」

 

(違う音って……何か変わったっていうの?)

 

 白い霧が立ち込めてしまっているが、ここは洞窟の中だ。

 

 音が反響して大きく伝わったとしてもおかしいことではない。

 

 だが、蛍にはこの音は聞こえないのだから、燐がどうして苦しんでいるのかを理解することができなかった。

 

 しかし、ここで立ち往生していても何かの進展があるどころか、むしろ状況は悪化する一方だろうと思う。

 

 霧が晴れる様子もないことだし、燐の感じている音だって、何らかの危害を燐に加えている可能性もある。

 

 さっきから燐は息も絶え絶えに耳を塞ぎながら身体を震わせている。

 

 どっちの耳を抑えたら分からないのか、手で頭を隠して蹲っていた。

 

 あんな姿でも元気だった燐が急に弱弱しい姿になっていた。

 

 それは蛍に不安を呼び起こさせるもので。

 

「わたしは一体どうしたら……」

 

 蛍は途方に暮れたように握りしめていたオールから手を放していた。

 

 一番大切な人がこんなにも苦しんでいるのに、自分は何もできないなんて。

 

(力が……燐を守ってあげる力が欲しい)

 

 彼女の苦しみを全て解きほぐすだけの強い力が。

 

 こんな意味のない幸運を呼ぶ力なんかじゃなくて。

 

(だからって、こんな所で落ち込んでたって意味はないんだから……!)

 

 そう、燐……燐ならきっと大丈夫。

 

 蛍はぱんと自分の両方の頬を叩く。

 

 そして出掛かった言葉を飲み込むと、再びボートを漕ぎ始めた。

 

 燐の示した方向はちゃんと覚えていた。

 

 だがそれだけではまだ不安はある。

 

(音も分からず、視界も駄目なら……あとは匂いを嗅ぐぐらいしかないんだろうけど)

 

 すんすんと鼻を蠢かせて蛍は周囲の匂いを嗅ぎとろうとしたが、感じ取れるのはつんとしたカビ臭い匂いだけで、状況を分かるようなものは見当たらない。

 

 一方の燐は。

 

「もうっ! 何でこんなにうるさいのよぉ!」

 

 そう叫んで思わず頭を抱え込んでいた。

 

 だが、これにはある種の既視感がある。

 

(小平口町で聞いたサイレンだって……こんな感じで、急に変な声になったんだっけ……)

 

 あの時は気付かなかったが、声の主は多分……あの人なんだろう。

 

 それが分かったところでこの音とは多分関係はない。

 

 そして、似ているのならこの音を止める方法がないことに燐は気付く。

 

 異変の時に聞いた不快な音だって、突然止まったのだから。

 

(じゃあ、わたしはどうしたらいいのよ……こんなのもう耐えられそうにないよぉっ……!!!)

 

 耳が増えて、聞けない音が聞こえるようになった。

 

 だがそのことが逆に仇となってしまったのだろうか。

 

 燐は自分身体の変化を恨めしく思った。

 こんな身体にならなければと。

 

(ううっ、なりたくてなった訳じゃないのに……何でこんなことに)

 

 今の燐に出来ることはただ耐えることだけ。

 

 固く目を閉じてじっと耐え忍ぶことしか出来なかった。

 

 いくら耳を塞いでも音は直接脳にまで届いているみたいに、燐の小さな身体を執拗に揺さぶってくる。

 

(ごめん、蛍ちゃん。わたし……)

 

 そう小声で呟くと、がくりと燐は頭を垂れた。

 

 そしてそのまま気を失っていた。

 

 ……

 ……

 ……

 

「霧が……!」

 

 蛍が叫ぶのが遠くから聞こえてくる。

 

 一緒にボートに乗っているはずなのにどうして。

 

 燐は薄く片目を開けてみた。

 

 霧が何か見えない壁のようなものに阻まれていて、そこで途切れているように見えた。

 

「今のって、なに……?」

 

 燐は軽く頭を振って上体を起こしてみる。

 

 どうやら倒れていたみたいで、傍らで心配そうに見つめていた蛍とちょうど目があった。

 

「あ、燐! 見て、霧が全部なくなってるみたい!」

 

「うん」

 

 まだ上手く状況が呑み込めないようで、燐は蛍に手を貸してもらいながら、辺りを見渡した。

 

 蛍の言うように霧は消えていた。

 

 忘れていた洞窟の岩肌が急に見えるようになっている。

 

「蛍ちゃん、一体どうなったの?」

 

「うん」

 

 燐の瞳を覗き込んだ蛍が安堵の溜息をついた後、その時の状況を話し始めた。

 

「何かね。もやっとした何かをつけ抜けたような感触があったの。そうしたら霧が晴れて視界が開けるようになったんだ」

 

「そうなんだ……」

 

 少し興奮気味に話す蛍に、燐は力なく返事をする。

 

「燐の方は大丈夫なの」

 

「うん……もう平気みたい」

 

 霧が消えたとの同じように、燐を悩ませていたあの不快な音も消えてなくなっている。

 

(何だったんだろう、あれって……)

 

 獣の咆哮と言うか、何かの破壊音。

 そんな感じの叫び声だった。

 

 それが延々とリピートして耳の奥で鳴っていた。

 

 何かを、訴えかけているみたいに。

 

「でも、ごめんね。何の役にも立たなくって。今こうして無事なのは全部蛍ちゃんのおかげだね」

 

 ずっとボートを漕ぎ続けてくれたんだろう。

 

 蛍の綺麗な前髪が少し乱れていた。

 

「そんなことないよ。燐が道を指してくれたから、だからなんだよ」

 

 そう言って蛍は燐の手を握った。

 

 蛍の手のひらは必死にオールを漕いでいたせいで、熱を帯びて赤くなってはいたが、それでも燐の手を強く握った。

 

「ねぇ、燐。あれって……陸地じゃない!?」

 

 不意に蛍が小さく叫ぶ。

 

 燐は蛍が指差した方向を目で追った。

 

「本当だ……!」

 

 そこには対岸と思しき地面があった。

 

 ようやく辿り着いたんだと、二人は喜びをあらわにする。

 

 だが、その顔がすぐに驚愕の表情となっていた。

 

「何なのあれ! 月が……出ている?」

 

 一目見て燐は仰天した。

 

 地下であるはずなのに、なぜか月が浮かんでいた。

 

 それは──半分の月。

 

 天井の上の方に、白い月がこちらに顔をのぞかせている。

 

 けれど、あれは”本当の月”なのだろうか。

 

 単純に見間違いか、もしかすると月とは違うものかもしれない。

 

(どうみても、月にしかみえないけど……?)

 

 それが返って怪しく見える。

 

 そう思った燐は蛍にも聞いてみることにした。

 

(わたしの目がおかしくなったのかもしれない。だって、こんな所に月があるはずもないし)

 

 だが、それは蛍も同じで。

 

「やっぱりあれってあの空に浮いている、月……だよね? どうしてこんなところに月なんかが」

 

「うん……でも外の景色なんかじゃないよね。わたし達、地下にいるはずなのに」

 

 いったい何が起こったというのだろう。

 

 ようやく奇妙な霧が晴れたと思ったら、情景がまた違う空気に変わったような気がした。

 

「ねぇ、あれは……?」

 

 燐は目を見開く。

 

 降り注ぐ月光を浴びるようにして、その真下に何か人の影のようなのが立っていたのだ。

 

 何かはまだよく分からないが。

 

「あれって、人なの?」

 

 小声で蛍はそう呟く。

 燐は訝しげにそれを見つめる。

 

(人? ……何だろうか)

 

 月明かりを浴びているせいか、眩しくて何かは判別できない。

 

 ただ。

 

「人なら、さっきの灯篭を流した人なのかも……」

 

 蛍は戸惑った表情で燐を見つめる。

 

 それは燐にも判断はつかない。

 

 もしあれが人ではなく、人の姿をした”なにか”だったら。

 

「また、変な音が……!」

 

 燐はつい耳を抑えるような動作をしてしまうが。

 

「あれ……これって、わたしにも、聞こえる!?」

 

 今度は蛍の耳にもその音ははっきりと聞こえた。

 

「これって……歌みたいだけど」

 

「うん、女の人の声みたいに聞こえるね」

 

 これはそこまでうるさくはない。

 

 けれど、歌声のようなものが耳に聞こえてる。

 

 何の歌なのかは分からないが、何故だか悲しい感じがした。

 

 これはやはりあの対岸に見える人影のものなのだろうか。

 

 まだ何者だか分からないのに、歌声だけがはっきりと聞こえるなんて。

 

 さっきの耳を塞ぐほどの騒音ではないけれど。

 

 歌はずっと耳に聞こえてくる。

 

「……蛍ちゃん」

 

 燐は蛍に目くばせすると、オールを手に取った。

 

 こくん。

 頷いて蛍ももう一つのオールを両手で持つ。

 

(こんなものぐらいしかないけど……!)

 

 武器としては役に立たないだろうが、身を守ることぐらいならできるかもしれない。

 

 燐のきつねの耳と尻尾がその緊張を表すかのように、小刻みに震えていた。

 

「燐」

 

 蛍は覚悟を決めたように燐の横へと並んだ。

 

 燐と蛍は互いの体温を肌で感じながら、木の板を固く握りしめた。

 

 もし、顔のない”何か”だったのなら、他にもいる可能性がある。

 

 燐と蛍は周囲に目をくばりながら、船の上で低く腰をかがめた。

 

  

 半円の月の真下で、()()()()()高らかに声を響かせている。

 

 一体、誰に聞かせているというのだろう。

 

 口を開けて、体全体を震わせて歌っている。

 

 少女たちを乗せた小舟がまっすぐにそこへと進む。

 

 まるで、その声に吸い寄せられるかのように。

 

 

 ──

 ───

 ────

 

 





Hollow Knight

インディーズのメトロイドヴァニア系では多分もっとも知名度のあるタイトルだと思います。
つい最近6年ぶりにこのゲームの続編が発売されたようで、前作に当たるこのゲームを久しぶり、もしくはこの機会に初めてプレイした人もいるみたいですねー。私はもちろん後者なのですが。

ダークな雰囲気ながら、操作が軽快なのとキャラクターがコミカルなのでとっつきは良いと思います。しかし、難易度が……これでも低めなのですかねぇ? 難易度変更等は出来ないにしては難しめの部類な感じがいたしましたねえ。ただ、プレイヤーも敵も安易に強くさせないようなバランスといいますか。DLCを含めた完全クリアを目指さなければ、そこまで理不尽なゲームバランスではないのかもしれないですねー。
自分の中では凶悪ゲーの一つ、Cupheadと同じぐらいの難易度でしたけれどもー。

続編のSilksongは更に難しいみたいですし、やるかはどうかは未定ですねー。


大分遅くなりましたが、10月13日まで青い空のカミュDL版がFANZAにて1500円でセール中ですー。こちらのゲームも発売からもう6年ほど経過しておりますが、自分の中では現役かつマストなタイトルなのでこの機会に是非にー。



書こうかどうか迷っていた出来事が少し前にありました。
いきなり結論から言ってしまいますと、親戚の猫が今年の4月に亡くなってしまったんですよね。私がちょうど天覧山に登ったときに会ったのが最後でした。
その時毛づくろいをしてあげたのですが、その猫の顔を覗き込むと大きな瞳で見つめてくれるのがとても好きで、自分も見つめ返してましたねー。人の目を見るのは苦手な方なのですが。

ただ、その時はいつもと様子が違くて、目を細めてたんですよ。もう何年も前から知っている猫なのにそれは初めてのことだったのでとても心配したんですよね。ただご飯はちゃんと食べていたから問題ないのかなってその時は思ったんですけど、それから一週間と経たずに亡くなってしまったことを知らされて。

自分の飼い猫ではありませんでしたけどやっぱりショックはありましたねー。もともとは野良猫で3匹いた猫の最後の1匹だったわけですし。普段は愛想悪かったですけどご飯のときだけにゃーにゃーと鳴く愛嬌のある猫でしたけど。

ただ名前が複数あって、その猫を何と呼んだら良いのか最後まで分からずじまいでしたが。

結局自分は、まぐろと呼んでましたねー。マグロの刺身が好きなようだしたので。


それではではではーーー。




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