We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life. 作:Towelie
ごうごうと、何かが流れていくような。
低く重たい川の流れるような音が、耳孔から入り込んで頭の中枢にまでしみ渡っていく。
何だっけ、これ?
ここが何処で、一体何がどうなっているのか。
なにも理解できない。
(夢、の話……?)
どうにも判然としない。
揺蕩っていた意識をもとへと戻すように、勇気を出して瞼を開けてみる。
まっくら。
だけど、全く見えないってわけでもない。
薄っすらとだけど、辺りを見ることぐらいはできる。
インクの消えかかりそうなペンで描いたみたいに景色は鉛色だけど。
どうやら、どこかの
ふわふわと揺れているようだから、”それ”は動いているようだけれど。
どうしてこんな事になってしまったのだろう。
前後がわからないでいた。
(くううっ……)
なんか重たい。
体全体が軋んでいる、というか。
気だるさとかではなく、痛みのようなものを覚える。
激しいものではないようだけど。
とりあえず手を動かそうとした。
そのとき、指が何かに触れて、思わず少し離した。
冷たいものに触れたような感じではない。暖かみというか温もりみたいなものを指先から感じ取れた。
まだ重い視線をそこに合わせる。
すると、そこには。
「燐……?」
まだ頭ははっきりとはしていないけれど、燐の顔がすぐ目の前にあったのは普通に嬉しいことだったらしく、蛍は薄く微笑んでいた。
やっぱり安堵できるものだったし、それに、燐の肩が小さく上下に動いていることから、一応無事であるらしい。
(いつもの……燐の匂いがする)
マンションに越してからというもの、二人一緒に寝起きすることが至って当たり前になってしまったけど。
煩わしいなんて事は一度も思ったこと無い、むしろ逆の思いしかなかった。
「燐」
蛍は微睡んだ瞳のまま、燐の名前を呼んで、その手に触れる。
とても小さな手。
知らない掌ではあったけど、燐であることに間違いはない。
だって。
──ずっとずっと好きな人。
なので、疑いようがない。
例え、”燐”という概念から外れていたとしても、自分は”燐”として認識できるだろう。
きっと、これ以上好きな人なんかはそうそう出ないんじゃないかと思う。
もしかしたら一生。
だからとても安心する。
どんな状況においても好きな人が傍にいるという事実に感謝する。
誰に向けてというわけではないけれど。
(きっと、わたしの幸運は、燐に出会えたことなんだろうな)
きっと、そうなんだろう。
そうとしか考えられない。
ずっとずっと、おかしな状況に見舞われているようだけれど、それでもそんなに怖くもないし、腹が立ったりもしないのは、きっと。
(例え、世界がどうにかなってしまったとしても……燐と一緒なら)
「おはよう、蛍ちゃん」
そう言って優しい声で手を握り返してくる。
いつの間にか目覚めた燐が蛍の方を向いて微笑んでいた。
瞬間、蛍はぱっと晴れやかな気持ちになった。
良い匂いのする柑橘系の香水を降りかけられたような。
驚いたように口を開いていた蛍だったが、その唇がゆっくりと動いて言葉の形を作る。
眠っていた鼓動がようやく動き出したような、そんな気がした。
「おはよう燐。体とか大丈夫」
「うん、蛍ちゃんの方は?」
「わたしも平気みたい」
蛍はもう少し強く燐の手を握る。
子供みたいな手だったけど、それでも燐は同じような強さで蛍の手を握り返していた。
「そっか、なら良かった」
どういう状況かはまだ分からないけれど。
二人一緒だったから。
その事実だけで今は満足できた。
「ねぇ、燐、ここって何処なんだろうね」
「どこって……」
二人は顔を見合わせると、首を動かして辺りを見渡した。
「ここって、どこだったっけ? 確か、わたし達って地下にいたはずだよね?」
「うん」
どうやら燐もその辺りのことを忘れているのか、首を傾げている。
蛍はそんな燐の言葉を呆然と聞いていた。
「ねぇ、燐、ちょっと……触っても、いい?」
「触るって」
そう蛍は呟くと、燐の返事を待たずしてたどたどしく腕を伸ばす。
蛍の手は燐の頭のその上のキツネのようなふさふさとした耳に触れていた。
「あったかいね」
手のひらよりもずっとあたたかい。
蛍は顔を紅潮させながら、撫でるように触れていた。
いまの燐は、獣の耳としっぽがついただけでなく、随分と見た目も幼くなっていた。
でも──変わっていないものもある。
蛍の好きな燐の瞳と、その匂いは変わってはいなかった。
「……蛍ちゃん」
驚いたように燐は目を見開いている。
けれど、拒絶するような仕草をみせるような事はなく、むしろ開いた手で蛍の頭を撫で返していた。
「燐……」
蛍の細い指が燐の頬に触れる。
どうして、そうしたかったのかは分からない。
ただ実存を知りたかったのかもしれない。
偽りではなく、ほんものの感触を。
「蛍ちゃんも、まだまだ子供だね」
なでなで。
艶やかな黒髪の頭を撫でながら燐が苦笑いしていた。
「燐の方がずっと子供なんだもん……こんなになっちゃってるし」
蛍は拗ねたようにそう言うと。
自分の頭に置かれている燐の掌に、蛍は上から手を重ねた。
「まあ、まだ子供だよ。わたしたちは」
そう言うと燐は困った顔で小さく息をついた。
「今、思い出したんだけど、わたし達、さっきの変な電車の中にいるのかも!? 蛍ちゃんもそれ覚えてるよね?」
「うん」
蛍はそう頷くも。
むにゅむにゅむにゅ。
「あの……さっきから、蛍ちゃんは何してるの」
放っておいても良かったのだけれど、やっぱり気になってしまう。
燐は蛍の方を向き直した。
「やっぱりしっぽ、気持ちいいなって」
「だからってねぇ」
蛍の言葉に燐は呆れ返る。
その燐の獣の尾っぽを蛍が両手で弄っていた。
耳を触ることを止めたと思ったら今度はしっぽ。
燐はもうため息すら出てこないようで、口を開けて自身の臀部の辺りに生えたキツネの尻尾を触る蛍を眺めていた。
「この尻尾って、パンの生地よりも柔らかい感じするね。ほら、指が吸い込まれていく」
ぐいぐい。
何故か蛍の方から指を差し入れているようにみえるが。
「それ、誉めてるつもりじゃないよね? わたしは、”これ”ってそんなに好きじゃないんだけど」
まだ少し寝ぼけているのだろうか。
何か会話がいまいちかみ合っていないような。
それに。
(そんなにいっぱい触られるとくすぐったいっていうか)
何かちょっと変な感じがしてしまう。
悪寒にも似た感覚を覚えて燐はいっしゅん背筋がぞっとなった。
「そうなの? こんなに可愛くて柔らかいものなのに」
羨ましいぐらいなのになぁ。
そんな事を呟きながらも蛍はしっぽを触り続けている。
「蛍ちゃん、わたしのしっぽ好きだよねー」
少し皮肉を込めて言ったつもりだったのだが、蛍は素直に頷くと。
「うん。もし燐がもとに戻ったとしてもこのしっぽだけは残ってほしいなぁ」
そんな無茶苦茶な事まで言いだし始める。
触るだけじゃ飽き足らないのか、キツネのしっぽにをすりすりと頬っぺを擦り寄せてくる蛍に、燐はもう何も言わずにちいさな肩をすくめていた。
ともかく、今はそんな些細な事に構ってなどいられない。
状況を確認する必要があった。
「きっと、電車のなかにいるんだと思う。わたしも蛍ちゃんも引きずり込まれちゃったんだよ」
「引きずり込まれたって」
蛍がきょとんとなっていることを感じ取ったのか、燐は優しい声色で説明をする。
「ほら、何か変な路面電車がホームに来てたことって覚えてる? きっと、その中にいるんだと思うよ。もう電車は走っちゃってるみたいだけど」
燐と蛍が気を失っている間に列車は動き出したのだろう。
逃げ道はないという事になる。
どうせドアは開かないだろうし。
「路面電車……そうか、あの時に」
思い出したのか燐の言ったことを反芻していた。
そうだ。
電車がやって来ていた……いや、いつからかそこに
白い霧と共に、あのプラットフォームに。
「じゃあ、燐と一緒にそれに乗っているってこと?」
こくり。
燐は頷く。
「そういう事になるみたい。今のところ何ともなってないみたいだけど」
拘束とかされているわけでもないみたいだし。
まだゆるやかだけど、止まっていた蛍の思考が徐々に戻ってきているようだった。
「あの変な”黒い手”がわたし達を?」
「多分ね、消えちゃったみたいだけど」
「そっか……それで」
燐の言葉にはっとなった蛍は大きく口を開けていた。
(確か、列車のドアから伸びてきたんだったよね)
少しづつ記憶が鮮明になっていく。
それを認知すると同時に、蛍は恐怖のようなものを感じたのか身を強張らせていた。
「わたしたち、変なのに捕まったんだね……」
「うん、でもわたし達一応無事みたいだから、まあ」
一瞬、燐は口ごもる。
どこか痛みでもあるのか左肩をさすっていた。
その仕草に疑問を持った蛍だったが、不意に自分の脇腹の辺りがずきずきと痛むのを感じて、そこに手を回した。
ひどい怪我ではなさそうだけれど、軽い打ち身にでもなったのだろうか鈍い痛みのようなものを覚えた。
蛍は誤魔化すように苦笑いすると。
「けど何でそんな事をしたんだろう?」
「それは分からないけど」
そう言った燐が視線を横へと向けた。
視線の先には格子戸のような四角い窓があって、窓の外は真っ黒い背景だけが見てとれる。
「さっき、ごーって音がしてたから、トンネルに入っちゃったんだと思う」
「わたしも聞いたけどその音だったんだ」
地底にいたわけだから、窓の外が真っ暗だっとしてもそんなに不思議な事ではないけど。
「こっちも世界にもトンネルとかあるんだね」
この電車もそうなのだが。
世界が壊れてしまった後みたいだったから、ちゃんと動く乗りものがあるという事にすこし驚いてしまう。
さっきのボートみたいに、良くて人力で動かせるもの位しかないと思っていたから。
この世界を全部は見ていないけれど。
まだ他にもこういった普通に動くものがあるのだろうか。
これが普通かはまだ分からないが。
それは燐も同じようで気持ちであるようで。
「期待しない方が良いんだろうけどね」
そう言って苦笑いしていた。
とりあえず電車は動いているようだから、どこかの駅へと向かっているんだとは思うが。
「思っていたよりも静かな感じがするね。路面電車ってこんな感じなんだ」
蛍は素朴な疑問を口にする。
あまり大きい車両ではなかったようだから、ガタガタと揺れるものかと蛍は思っていた。
燐はうーんと唸ると、難しい顔で腕を組んでいる。
「燐、どうかしたの?」
「うん。路面電車ってその名の通り、普通の道路も走ったりするんだけど、これは電車のレールを走ってるみたいだからもっとうるさくても良いんだけど」
耳を澄ませてみればレールの次ぎ間を渡る音は微かにするけど。
「何か静かだよね? それってどうしてなんだろうね」
「うん……」
路面電車の事を良く知らない蛍では分かりようもない。
燐だってそこまで知識があるわけではなかった。
「そういえば、わたし達以外にこの電車に乗客っているのかな」
気配というか話し声すらもない。
「どうだろ。わたしもさっき目が覚めたばかりだから」
やはり誰も乗っていないのだろうか。
こくんと燐は頷くと。
「まだドアは開けない方が良いと思う。その前にやる事があるの」
二人が寝っ転がっていたのは、車両へと続くドアのある狭い廊下のような所だった。
金属製の床は眠りこけるには少々固いけれど。
「やる事って?」
何気なくそう問うと、燐は口ごもって少し頬を紅潮させた。
「ほら、前に蛍ちゃん、さっきの”黒い手”みたいなのに捕まったことがあるって言ってたじゃない? あの時みたいに変な痣なんかがついていないかなって」
「痣……?」
蛍はしばし考え込む。
(前にもあったって言ってたけど、それって……)
もしかしてあのダムの時のことだろうか。
蛍はがばっと上体を起こすと、自分の身体をまざまざと見つめた。
「そういうのは……ないみたいだけど。燐の方は?」
「わたしもちょっと確かめてみたけど、無さそう……だよね、うん」
ただ自分じゃ背中などは見えないから。
「だからさ、蛍ちゃん」
「うん、分かってるよ、燐の言いたいこと」
「えっ?」
蛍は理解したようにこくりと頷くと、おもむろに燐の服に手を掛けて脱がせようとする。
「ちょ、蛍ちゃん!?」
驚いて燐は顔を真っ赤にさせていた。
蛍はきょとんとなる。
「だって脱がないと分からないんじゃない」
「まあ、それはそうなんだけど」
急にされると流石に恥ずかしくなる。
「あの時のわたしってちょっと変だったんでしょ? だったら見てみないと」
それはそうなのだが。
「あ、じゃあわたしの方が先に服を脱ぐから、燐は確かめてみて」
首に巻いていたリボンをぱちんと外して、蛍はバニーガールの衣装を脱ごうとする。
それでもやはり恥ずかしいのか、蛍はみるみるうちに顔を真っ赤にさせていた。
「ま、待って蛍ちゃん!」
燐はそれを制止させると。
「わたしが先に脱ぐよ……やっぱり気になることだし」
「燐」
「今更、恥ずかしがるようなことでもないんだけどね」
それでも、この電車の中で服を脱ぐという行為に何か異常性というか、罪悪感みたいなものを覚えてしまう。
燐の表情には多少の戸惑いと、それとは別の感情があった。
「じゃあわたしも一緒に脱ぐから、二人で確かめあえばいいんじゃない?」
「う、うん」
確かにそうなのだが。
二人一緒だと余計に変な感じがするのか、蛍と燐は顔を赤くして俯いている。
このまま固まっていても埒が明かないと決めた二人は、背中合わせで服を脱ぐことした。
思春期を思い出して少しむず痒い感じになってしまう。
(でも、あの時の蛍ちゃん、やっぱりなんか変な感じだった)
心ここにあらずというか。
今だって上手く説明はできない事だけど、いつもとは違う感じに思えたから。
それは自分だってどうなるかは分からない。
ただでさえ、こんな耳と尻尾をつけているわけだし。
これ以上変なことになったりしたら、わたしがわたしじゃなくなってしまうような気さえする。
そういう意味では恥ずかしがってなどいられる問題ではないのだった。
(そうだよね。じゃあ……)
燐は一気に服を脱ごうした、だがその前に背後から声が掛けられる。
「と、とりあえず脱いじゃったから、何か変なところがないか、燐……見てみて」
蛍が恥ずかしそうに横を向きながら、燐にそう懇願した。
振り返った燐の目の前には真っ白い蛍の背中があって、大事なところは手で隠して座り込んでいる。
耳まで真っ赤に染まっていた。
それを見た燐は。
「……っ」
暗闇の中で白く光る蛍の裸体を背後から見つめながら、燐は無意識に唾を飲み込む。
とても綺麗だった。
まるで初めて見たみたいに。
「は、早くして……」
「ご、ごめん」
固まってしまった燐を見てじれったく思ったのか、蛍は唇を軽くかんで急かすようにそう言う。
「じゃあ、見ちゃうね」
燐は申し訳なさそうにそう言うと、蛍の首筋に背後からそっと手を置いた。
「………っ」
(なんでだろ? 何でこんなに恥ずかしく思えるんだろう?)
そのことがとても不思議だったのだが。
蛍は目をぎゅっとつむって沸き上がる羞恥心に耐えることした。
「ごめんね蛍ちゃん、ちょっとだけ手をどけてもらえる」
「う、うん」
どこまで調べるつもりなんだろう、燐は。
あの時みたいに体の隅々まで見るつもりなのだろうか。
「あっ」
「な、何? どうしたのっ」
不意に蛍が小さく叫んだので燐は慌てて顔を覗き込んでいた。
「ごめん、何でもない」
そう一言だけ言うと、また俯いてしまった。
「そ、そう」
燐は不思議そうに首を傾げる。
さっきよりも蛍の顔が赤くなっているような気がするけど、気のせいなんだろうか。
とりあえず嫌がるようなことは言っていないので、燐は蛍の体を調べるのを再開した。
(やっぱり恥ずかしいよね。ごめんねすぐに見ちゃうから)
胸中でそう謝罪すると、燐は蛍の裸のあちこちに視線を向けた。
その行為に蛍は小動物のようなか弱い鳴き声をあげて耐え忍ぶ。
だが蛍が顔を赤くさせているのはそれだけではない。
(あの時って、燐は見るだけじゃなくて舐めたりなんかもしてたし……それに、それに……!)
あの夜のことを思いだすと、口から心臓が飛び出しそうになってしまう。
何であんなことをしてしまったんだろう。
恥ずかしさで困惑で顔から火がでそうになる。
自分はあの時、狂っていたんだろうか。
じゃなければあんな事……。
(…………っ)
胸の奥からかあっと熱くなっていく。
けれどそれは悪い感情とかの動きなんかではなく、むしろ逆の……純粋な想い。
恥ずかしい、だけど、でもそれはちょっと甘くて切なくて。
また味わいたいとすら思えてくるような甘美なもの。
そう言う事があったのだ。
あの夏の夜の湖の畔で。
心臓がどんどんと高鳴っていくのが分かる。
鼓動を早まらせているのは、羞恥心と少しの、期待。
(燐……)
蛍はぎゅっと握りこぶしを作ると、唇へとそっと当てた。
……
……
……
「じゃあ、次は、燐を見る番ってことだよね?」
ほっと息を吐いた蛍がまだ顔を赤くさせながらそう言う。
「蛍ちゃんが大丈夫だったんだから、わたしも大丈夫なんじゃないかなぁ」
そう言って燐は苦笑いした。
そんな燐の手を蛍ががしっと掴む。
「それでも、見てみないと。だって何かあったら大変だし」
にっこりと微笑む蛍。
「そうかなぁ? でもわたしはもう変なのがついているからねぇ」
これ以上はもうないだろうと思う。
訝しげな視線で、燐は自身の頭と臀部の辺りを交互に見ていた。
「ほ、蛍ちゃんなんか……」
燐は少しひきつった笑みを返す。
それは蛍の表情が少し怖かったからだった。
「でも燐だって強引にわたしのことを見たんだし」
蛍が一歩にじり寄ってくる。
逆に燐は後ろへと下がった。
「それに、わたしだけ裸を全部見られるなんて不公平なことなんだもん。燐のことだって、余すことなく見ないと」
言葉すらじれったく感じたのか、蛍はまだ裸のまま燐のことをぎゅっと抱きしめる。
蛍はウサ耳のカチューシャ以外何も身につけていない。
一糸まとわぬ姿の蛍が、幼い燐を全身で包みこむ。
とても柔らかくて暖かい。
抵抗する気すらなくなってしまうほど。
「わたしも、燐の体のすみずみまで見てあげる……さっき燐が、わたしにしてくれたように」
「ちょ、ちょっと蛍ちゃん……? まだ心の準備が……」
そんなものが必要なのだろうか。
そう言っているかのように、蛍は無言のままてきぱきとした動作で燐の服を脱がしていく。
自分の着替えすら割とゆっくり目な蛍なのに、この時ばかりは普段とは違って無駄のないスピーディーなものだった。
燐が目を白黒とさせている合間に、服が全部脱がされてしまう。
大事なところを手で隠すことすらも忘れて、燐は呆然となっていた。
燐はわっ、と我に返ったように小さく叫ぶと、蛍の手から何とか逃れようとするも。
「だーめっ」
手ではなく尻尾を蛍に掴まれてしまった。
「うにゃあっっ!!??」
たまらず燐は、キツネではなく猫みたいな甲高い叫び声をあげていた。
……
……
……
「うんうん。燐も変なものはなかったみたいだね」
蛍はさっぱりしたように何度もそう頷くと、燐の背中をぽんと軽くたたいた。
「うーっ!」
燐は少し背中を丸めながら、不満を訴えるように蛍のことを睨んでいるようだった。
「まあ、大事には至らなかったんだし」
蛍はごまかすようにあははと笑みを燐に向ける。
「それにしたって、見すぎなんじゃないのぉ? それに……あんなことも……」
蛍に背を向けたまま燐はごにょごにょと口を濁らせると、緩慢な動きでもぞもぞと服を着る。
その顔は耳まで真っ赤になっていて、首筋の辺りには花びらのような小さなあとが幾つか付いていた。
「燐、大丈夫?」
背中越しに投げられたその言葉に燐はむぅっと唸ると。
「もう、そこまで見なくてもよかったじゃない。わたしだってちょっとしか見てないのに、蛍ちゃんってば」
ぷいっと横を向いて風船のように頬を膨らませる燐。
「あはは、ごめん。燐が可愛くってつい」
その言葉に偽りはないようで、今だって燐の頬をつつきたいのか、蛍はわきわきと指を蠢かせていた。
「蛍ちゃんがただ見たいだけだったんじゃないのぉ」
見るだけでなく、
燐は小さく息を吐いていた。
「まあ、多分燐と同じ理由かな」
「何、それ」
「燐、可愛かった。全部」
そう言って蛍も顔を赤くしていた。
結局、身体のすみずみまで見られてしまった。
服だって全部脱がされてしまってまで。
「だからって、
そう喚き散らす燐に、なだめるように蛍は手をかざす。
「でも、本当にちゃんと燐の体についているんだね。わたしびっくりしちゃった」
「そう、言ってるじゃない」
確かに燐自身から聞いていたことだったが、実際に目の当たりにするとショックがあるのも事実のようで、蛍は複雑な表情を浮かべていた。
だからと言って嫌いになるとか、拒絶するとかではないけど。
(やっぱり、今の燐って違うんだ)
身体が幼くなった件も含めて、事実を確認できたという点では良かったのだろうけど。
燐の身に起きた不条理さを改めて認識することとなる。
「ちゃんともとに戻れればいいんだけど」
ようやく服を着終えた燐が、ぼそっとそう呟いていた。
……
……
二人ともとりあえず何ともなってなかったことは分かったけど。
さして状況は好転しているというわけではない。
悪化しているというわけでも、今のところはないようだけど。
ふと、燐はある事に気づく。
(あれ……確か、わたし達って……電車の中にいるんだよね)
急に何処にいるのか分からなくなってしまった。
燐は座り込んだまま、手のひらを床につける。
木の床の感触を確かめるように指の腹で擦ると、状況を整理するべく小さな頭を巡らせた。
この電車は確か、一両しかなかったはず。
それに、なんかやけに広く感じる。
路面電車はこんな構造だっただろうか。
「何か変だよね、この電車」
「うん」
蛍も同意するように頷くも、それが何なのかが分からずにいるようで。
扉を開けて客室の方に入ればいいのだろうけど。
燐も蛍も、それには躊躇していた。
目の前の黒い扉は二人を拒んでいるかのように、列車の揺れにも動ぜず固く閉ざされている。
(開けようと思えば、開けられるんだろうけど)
(それをしちゃいけないような気も……)
二人して扉の前で考えこんでいた。
どちらかが手を伸ばせば、それは簡単なことのはずなのに。
蛍も燐も何故か手が出てこない。
この扉を開けてしまったら何か大変なことになる。
そんな予感がひしひしとするから。
「ねえ、燐」
「何で、あっちの方にも電車は続いているみたいなの? 確か一両しか電車はなかったよね」
「うん……」
意を決したように言う蛍の言葉に燐は軽く頷くと、扉の上の窓から中を覗き込んだ。
客車には長い座席ようなものと、天井にはつり革が垂れ下がっている。
持ってきた懐中電灯はなくしてしまって、窓越しに中を照らすことはできないけど。
「何か見えるよね……列車の”続き”みたいなものが」
薄っすらとだけど反対側にも扉があって、そっちの窓からもう一つ車両があることが分かる。
「鏡とかじゃなさそうだよね」
列車の揺れと少しずれて動いているようだから、鏡に映し出されたものではないようだが。
だが、まだ車両の中の全体像はまだ掴めてはいない。
「何か、光っているようにみえるけど」
蛍は扉の端っこの方から零れる光を見てそう言った。
「なにがあるんだろう」
あまり良いものではないのかも。
燐は車両の端を食い入るように見つめてみたが、何かがつかめるような事はなかった。
「何の光なんだろうね」
「もしかしたら、非常灯が付いてるのかも」
燐の言葉に蛍は目をかるく見開く。
「確かに、その可能性はありそうだよね。でも、どうしてあそこだけが点いているんだろう?」
「それは、分からないけど」
蛍の素朴な疑問に燐はすぐには答えられず、腕を組んで首をかしげていた。
扉を開けてみれば、すぐに分かることのだろうけど。
(やっぱり、目印なのかな……あの時みたいに)
風車の中で見た光を燐は思いだしていた。
遥か上まで続く梯子の両端に並んでいたあの赤い光を。
「こっちにこいって言っているのかな、わたしたちに」
多分、その可能性は高いのだろう。
これまでのことを踏まえると、光は何らかの目印になっているみたいだし。
「燐もやっぱりそう思う? そういう類のものだよね。あれって」
真っ暗な空間に落とされた時、白い獣のような光に導かれて抜け出せたことを蛍は思い返していた。
(あの光は、サトくんだったみたいだけど……)
これも無関係ではない気がする。
こうしてずっと見つめていると、光に吸い込まれそうな気さえする。
ガラス越しだし、まだ距離はありそうなのに。
「ここでさ、待っててもいいのかも」
燐は困った顔でそう苦笑いする。
どうせ行先はどこかの駅なのだろうし。
わざわざ別の車両に移ったりしなくとも目的地とやらには勝手についてくれるだろう。
「まあ、そうだよね」
そう言って蛍も苦笑いした。
「でもさ、それで良いのかな? このままここでじっとしていたらそれで……」
「蛍ちゃん……」
蛍の言いたいことは燐にもよく分かっていた。
起こることのない変化を待ちづづけていても、きっと意味なんてものはない。
そんな事の為にこんなところにまで来たわけではないのだと。
「やれやれ、行くしかないってことかぁ」
いつしか重くなっていた腰をぐっともち上げると、燐はそう言って立ち上がる。
蛍もその隣ですっと立った。
列車はまだ動いている。
目指しているのはまだ分からないが、自分達をどこかへを運ぼうとしているのだろう。
切符も資格もない。
だけど、この電車はこちらが迷っている間も進んでいる。
今、やれることをやるしかない。
「燐、足元には気を付けてね」
「分かってるよ蛍ちゃん」
以前だったら燐の方からそう心配するようなことを言ってきたものだった。
いまは蛍の方から言ってきていた。
それは素直に嬉しい事だった。
気遣われている事は負担ではなく、その人の事を本当に心配しているからのものだと。
最近になってそれがようやく分かった。
それを、心から理解できている。
理屈ではなく、純粋な想いとして受け止めて。
差し出された蛍の手を燐はそっと握った。
この温もりだけはどんなことがあっても離さない。
決意をもって扉をあけた。
淀んだ空気を押し流すように、すうっと横に扉が開く。
一見、何の変哲もないように見える客車だけど。
それがかえって不気味であり、同時に違和感でもある。
燐はこくりと唾を飲みこむと、蛍の手を少しだけ強く握りしめていた。
「誰も乗ってないみたい」
「そうみたいだね」
分かっていることを確認し合う二人。
人の気配のようなものは感じられない、が。
「じゃあ、燐、あの明かりを目指して進んでみようよ」
そう指を指して歩き出そうとした蛍。
だが。
「あっ!?」
蛍が一歩前へと進もうとした瞬間、足元がぐらっとなり足がもつれて倒れ込みそうになる。
「よっと。大丈夫蛍ちゃん」
すかさず燐がその手を引っ張って、倒れる寸前の所の蛍の体を支えた。
何とか倒れずに済むことができたのだが。
「ありがとう、燐」
顔を赤くして蛍は苦笑いした。
「蛍ちゃんもしかして、まだどこか痛むところでもある? だったらまだ休んでてもいいんだよ」
走行している列車の中だし、しかも薄暗いわけだから。ただ歩くだけでも危険を伴うものとなる。
(それに、この暗闇の中に何が潜んでいるのか……)
燐がすぐには動かなかった理由の一つがそれだった。
さっきの、黒い触手のようなものが二人を捕らえて、この列車の中に入れたのだから。
なので、ソイツは”ここにいる”と言う事になる。
この列車も含めて不明な点ばかりだが。
その事だけはハッキリと言えた。
さっきのものは幻なんかではなく、ちゃんとした物理的な手のようなもので体を掴んできたのだと。
(痣はなかったみたいだけど、まだ残っているというか)
背筋が震えるようなひやりとした感触が体のあちらこちらに残っている。
残滓というか、身の毛がよだつようなおぞましい感触で。
口には出さなかったが、相当に気持ち悪かった。
「ごめんね」
蛍は燐にそう謝罪の言葉を述べると立ち上がってまた歩き出そうとする。
それを燐の言葉が遮った。
「わたしが先に行くよ」
「燐、でも」
蛍が何か言おうと口を開きかけるも、その前に燐は蛍に笑顔を向けた。
「ほら、今のわたしってちょっとだけ変みたいだから。さっきも言ったけどちょっとぐらいは見えるの」
アピールでもするように、燐はぴょこんとその場でステップを軽く踏んだ。
「燐」
変な耳としっぽがいつのまにか生えていて、更には子供の頃にまで戻されてしまって。
でも、それにも慣れてきた燐ではあったが。
不意に自分の存在が分からなくなる時がある。
何か大事なものを失っていくような喪失感と、体の中の一部が研ぎ澄まれていくような感覚もまたあったのだから。
どっちが本当の自分か分からなくなる。
自分のなかの事なのに。
それでも今は。
「わたしが先に行くね。蛍ちゃんは後をついてきて」
これに頼るしかない。
例え、人として大切な何かを失ってしまったとしても。
それでたいせつなものが守れるのなら。
「そうだよね……燐、さっきもそんな事をいってたよね」
「うん」
燐は軽く笑って頷く。
だがその手が引っ張られた。
「蛍ちゃん?」
驚いて横を見ると蛍が燐の手を握ったまま立っている。
膝が小刻みに震えているようにも見えるけれど、それでもまっすぐに前を向いていた。
「でもね。わたし、燐の後ろを歩くつもりってないから」
「けど」
燐の問いに、蛍は首を振って返すと決意を表すように少し強く手を握る。
「ね? 行こう。足手まといにはならないから」
そう言って蛍は笑みをうかべた。
燐の好きな、飾りのない透き通った笑顔でこちらを見つめている。
燐は小さく息を吐くと、その手を握り返した。
「わたしだって分かってるつもりだよ。蛍ちゃんは頑張り屋さんってことはね」
そう、どんな時だって。
「それは、燐だって」
「そうかもね」
少女達は微笑んで顔を見合わせる。
もう、この電車から二度と降りられないかもしれない。
けれど今は二人なんだから。
「何か、前にもこういう事ってあった気がしない?」
「うん。わたしもそう思った」
単純な他愛もない言葉だけを交わすと、ふたりは手を取りあって真っ暗な列車の中を手探りでゆっくりと進む。
閉鎖されたモノクロの中の世界では、時間すらも止まっているかのような事柄に思えてしまうのはなぜなんだろう。
カタタン、カタタンと。
とても静かなんだけど確かにこの列車は動いている。
振動が少ないのもそうだし、走行音なんかは耳を澄まさないと分からないほど静かだ。
(それってやっぱり、路面電車だから?)
動いているはずなのに止まっているようにも感じられるのなんかは。
蛍は、空いた手で握りこぶしを作ると祈るように胸の間で握り込む。
「確か、トンネルの中なんだっけ?」
「そのはずなんだけど、地下をずっと走っているのかも……」
輪郭すらも曖昧になりそうなほどのまっくらの中で、二人は声を交わす。
ぽつんとだけど光るものがあるからまだマシなんだろうけど。
(でも、何が光って見えているというんだろう?)
燐の視界の中では、車内の景色は窓の外からみたものと同じではあった。
両側の窓に長い座席のある、よくある列車の風景なのだけれど。
先にみえる小さな光を見つめながら燐は首を傾げる。
これまでの事もそうだったけど、何かの為に発している光なんだろうとは思う。
何かを知らせるためか、或いは。
一両であったはずの電車に、その先があることも不思議であった。
その光以外には照明らしきものはなにも点いていない。
次の車両のある方向だけがぼんやりと白く光っているというだけで。
「……ッ」
それから二人は、無言のまま歩を進めた。
そこまで長い距離ではないはずなのだが。
せいぜい数百メートルもない車両のはずなのに、やけに遠くに感じるのは。
燐は息が詰まる思いでありながらも前へと進んだ。
蛍は燐の手の感触を確かめながらも、何とか燐と歩調を合わせて歩く。
足音すらも潜ませて。
……
……
「何もなかったみたいだけど」
「うん」
蛍はすっかり喉がからからとなっていた。
走った訳でもないのに、ひどく疲れ切っている。
燐も同じのことのようで、額に汗をかいているようだった。
燐と蛍が、次の車両のドアの前までたどり着いたときには、二人とも激しく息を切らしていた。
「あの、変な手みたいなのって、どうしちゃったんだろう……」
そんな事を気にかけながら、蛍は大きく息を吐きだしている。
「てっきり暗がりから襲ってくるのかと思ったんだけど」
「わたしもそう思ってたんだけど」
周囲に神経を配っていたせいで大したことのない距離なのに余計に疲れてしまった。
互いの息が整うのを待ってから、ゆっくりとドアを開ける。
本来はあるはずのない車両へと足を踏み入れた。
「お邪魔します~」
何とも間抜けなことを言ってから燐は周囲を見渡す。
どうやら、ここもまた普通の車両のようだった。
真っ暗な中に薄っすらとだけど座席のようなものが確認できる。
異質な感じとかは感じられないが。
「変な匂いとかも、ないみたい……だったら一体ここは何のために?」
当然の疑問を蛍は口にする。
前の車両もそうだったが、普通の電車だったから何とも拍子抜けしてしまう。
理由というよりもその存在に心底あきれてしまう。
警戒していたことが滑稽に思えるほど普通すぎて。
「光って、ここの事だったのかな」
燐がそこに指を指す。
そこには別のドアがあって、その上あたりにランプのような小さな灯りがついている。
少女達はそろって上を向いた。
「燐、これって何のドアだと思う?」
入ってきたドアのすぐ近くにあったもう一つのドアには、ハンドルみたいな金属製のドアノブが付いているだけだった。
燐は小さな頭を捻ると。
「ここ、トイレかも」
そうぽつりと言った。
「わたしも、そんな感じがしたんだけど」
そう言って蛍は苦笑いをする。
「こんな所に運転席があるのも変だしね……ねえ燐、どうする?」
扉には客室のドアのような小窓はない。
なので、開けて見るまではこれが何のためのドアで、そして中に何かあるのかは分からなかった。
「じゃあさ、せーので開けてみようか?」
燐の提案に蛍はこくんと頷く。
「このままって放って置くのもなんか気持ち悪いもんね」
少し怖い気はするけれど、それだってもう今更だ。
むしろ、行き止まりじゃないので希望すら感じるほど。
「じゃあ、行くよー」
「うん!」
「いっ、せーのーっ!!」
燐と蛍は一緒にドアを開ける。
少し大きめのドアノブに両手を乗せて体重をかけて、ドアを開けた。
がちゃり、と、思っていたよりも軽い音がして、銀色のドアが横にへとスライドして開いていく。
燐の言うように、やっぱりここはトイレなのかもと蛍は思っていたが。
「これって、シャワー
正面の壁に掛けられていたもの見て燐は驚愕した。
それは、シャワーヘッドのようだった。
水が出るのかは分からないけど。
「凄いね。こんなのが付いてる電車って本当にあるんだ。わたし初めてみたかも」
蛍はぱんと手を叩いて感心するようにうなずいている。
こういった施設は特別な観光列車や、海外の長距離列車などにはあるようだったが。
二人ともそれを見るのは初めてのことだった。
「わたしも。でも、どうしてここだけに明かりがついてたんだろう?」
「やっぱりそれって変な事だよね。あからさま過ぎるって言うか……」
部屋の左右には鏡のようなものが付いていて、訝しげに見つめる蛍と燐が映り込んでいる。
「お湯って、出ると思う?」
燐は軽くシャワーヘッドを振ってみる。
予想通り、一滴の水もでてはこない。
「使われてなかったみたいだし、流石にそれは無理そうだよね」
それ以前に、そもそも使う気が起きないというのが普通の感覚だろう。
まだ良く分からない列車なわけだし、ここだけに照明があるのというのはどう考えてみても。
「まあ、とりあえず試してみようか」
「そうだね」
試す分には問題はない。
そう思ったのか、いささか無謀ともいえる燐の提案に蛍は曖昧に頷くと、シャワー室の中にその足を入れた。
「これを回せばいいのかなぁ」
「それっぽいもんね」
燐にシャワーヘッドを持ってもらいながら、蛍は壁際に備えてあった、少し大きめの丸いハンドルを回してみることにした。
万が一、水が出た時に体にかからないよう、燐はシャワーヘッドを壁の隅へと向けた。
「いくね」
「うん」
「あっ、結構固い……かもっ、でも」
何とかハンドルを回すことには成功したが。
「……やっぱり、出ないみたいだね」
きゅっきゅっ。
最後まで回してみたが、雫の一つすら零れてはこなかった。
やはり無駄なことだった。
そう思い蛍はハンドルを元の位置へと戻そうとしたのだったが。
その瞬間。
「わぁっ!?」
突然、ヘッドの頭の方から勢いよく水が噴き出してきて、慌てた燐はシャワーヘッドを取り落としそうになる。
「燐、大丈夫っ?」
シャワーを持って慌てふためく燐。
その小さな体ごと蛍はぎゅっと抱きしめた。
そうしている合間にも水は勢いよく噴き出し続けていた。
だが、次第に周囲がもうと湯気のようなものに包まれていき、狭い部屋の中にいっぱいとなっていく。
「これ──お湯になってる?」
錆びた鉄の匂いとともに、シャワー室の中があったかくなっていく。
燐は、片手でシャワーの勢いを少し落とすと、細い水の線に指を触れさせた。
「これ、お湯みたいだよ、蛍ちゃん」
「本当?」
蛍も恐る恐る手を差し出してみたが、燐の言うように確かにお湯が出ているようだった。
「じゃあ、使えるのかな、ここ」
一旦、元に戻すと、ぐるりと中を見渡してみる。
こじんまりとはしているけど、ドライヤーやシャンプーなどの、道具一式そろっている。
(元々使われていた? でも、これは路面電車だったよね?)
それにこの車両は外から見たときにはなかった気がする。
何とも奇妙というか、あまりにも不気味すぎて思考が停止しそうになる。
それを表すかのように、蛍は妙な事を呟いた。
「燐、わたし……シャワー浴びてみたいかも」
「嘘でしょ!? だって……」
そんな事を急に蛍が言い出したので、燐は目を点にしてびっくりした顔となっていた。
「でも、危なくないかなぁ……ほら、ここって薄暗いから、何か出るか分からないわけだし」
「危ないのは分かってる。でも」
そう燐が言っても蛍は頑なに意見を変えようとしない。
明らかな脅威がこの列車にはある。
自分らを列車に引き入れた張本人の黒い触手の存在が。
それに、白い化け物なんかも見かけたわけだし。
そんな所で暢気にシャワーを浴びるなんてことは、どういうことなのか良く知っているはずなのに、だ。
「ねぇ、蛍ちゃん、ちょっと脚を洗うぐらいじゃダメかな?」
許容範囲なのは精々その位だろうか。
燐が妥協をもってそう提案するも、蛍は困った顔をするだけで。
気持ちが変わることはなさそうだった。
どうにも、不気味な感じが拭い去れないでいる。
さっきから何かに見られているというか、胸がざわつくような感じがするのは何故なんだろう。
「ちょっとの時間だけだから。5分だけでいいの」
「うーん」
どこにも時計はないから、それは目安なのだろうが。
どうやら蛍は本気でシャワーを浴びたいらしく、懇願するように燐を見つめている。
「まあ、シャワー室にまで来て浴びていかないのはちょっともったいない気はするけどね」
燐だって、蛍と同じ気持ちはある。
ここまでずっと走り回りすぎてさすがに汗だくだったし、それに。
「何かさ、あちこち触らってこなかった? あの変な黒い手に」
「燐もそうなの? わたしも結構、触られちゃってたみたい」
特に胸とかお尻とかの、大事な所ばかり触れられたり掴まれてしていた気がする。
どういう意図があったにせよそれは少女達からすればとても不快で不潔なものだった。
そういう意味では、二人とも一刻も早く体を洗いたかったのだと思う。
なので、蛍のしたいことに燐は無下に否定できないでいた。
でも。
(やっぱり、それは危ないよね、どう考えてみても)
リスクしか頭に浮かんでこない。
燐が腕を組んで首を傾げていると、その目の前で。
「な、何しているの蛍ちゃん!?」
「えっ、何って」
焦燥感を含んだ燐の問いかけに、見れば分かるとばかりに蛍はきょとんとした表情となっている。
蛍が、いつの間にかいそいそと服を脱ぎ始めていた。
バニー服だから割と簡単に脱げるらしいのか、上半身はすでに何も着てはいない。
残るは下半身を包む黒いタイツと下着だけとなっていた。
燐はやや大げさにため息をつく。
「蛍ちゃん。本気なのぉ」
「うん。燐だって言ったでしょ? ”勿体ない”って」
「それは……」
蛍にそう言われて燐は押し黙ってしまう。
だが、ともすればこの列車というのは、何かの腹の中にいるようなものなのであり、そんな悠長なことなどしている暇はないはずなのだが。
「すぐに出てくるから」
そう言って蛍は困った顔で、燐ににこりと笑みを向けていた。
観念したように燐はぱんと軽く手を打つと。
「分かった。じゃあ、ちょっとだけね」
根負けする形で了承をした。
「わたしは、外で待っているから、蛍ちゃんは先に入っちゃってて」
蛍の後で燐もシャワーを浴びるつもりなのか、そう言うと先にシャワー室から出ようとする。
何か起こったとしてもドアの外で見張っていれば、ある程度ぐらいなら対処できるだろうと。
そう思っていたのだが。
「あれ? 燐は一緒に入らないの?」
蛍はそう言って燐の手を掴む。
「どうして?」
燐は困った顔で振り返る。
「だって、いつお湯が出なくなるかも分からないよ。それに、燐だってシャワーを使いたいわけでしょ? だったら二人一緒の方が効率がいいと思う」
「それは……そうだけど」
唖然となった燐だったが、蛍の意見を聞いて複雑な顔となっていた。
燐は首をふるふると横に振ると。
「わたしの事は気にしないでいいから、蛍ちゃんだけで体を洗っててね」
そっと蛍の手を離した。
でも、それは仕方のないことであって。
(だって、蛍ちゃんを危ない目に合わすわけにはいかないよ……!)
あの夜のような出来事はもう真っ平御免なんだ。
誰も傷つけたくないし、それを見たくもない。
(特に蛍ちゃんには、綺麗なままでいてほしい……)
身も心も全部。
その為だったら、わたしは。
「そんな事言わないで、ほら燐も」
「ちょ、ちょっと何してるの蛍ちゃん!?」
燐が呆然となっている間に蛍が燐の服を脱がせていた。
さっきの事で慣れてしまったのか、躊躇いのようなものは微塵も感じられず、衣服を全て剥ぎ取られてしまった。
「もーっ、こんな状況でシャワーもなにもないでしょっ!」
燐はとうとう蛍にその事を言ってしまった。
だが蛍は特に気にする様子もなく。
「でも……燐、ちょっと匂うかも」
「う、嘘っ!?」
そう言われて燐は、自分の腕を鼻にこすりつけて、くんくんとその匂いを嗅いでみるも。
「ごめん。冗談だったんだけど」
困った顔で小さく舌をだす蛍。
燐はもう恥ずかしいやら何やらで、顔を紅くさせていた。
「蛍ちゃんの言う事は分かるよ。でもこんな狭い部屋の中じゃ」
何かに踏み込まれたりしたらひとたまりもない。
どうしたらいいものか。
そう燐が悩んでいると。
「悩むよりも体を洗っちゃったほうが早くないかな? ねえ燐。石鹸だってちゃんとあるんだよ」
蛍がピンク色の四角い石鹸を燐にみせる。
どこにあったものだろうか、新品みたいに綺麗で一度も使われていない感じがする。
「燐の体、わたしがちゃんと洗ってあげるから」
蛍はそう言うと掌で石鹸を泡立てる。
「蛍ちゃん。わたしのこと子供扱いばっかりしてるよね。それに、洗うのは”身体”じゃなくて”背中”でしょ」
すっかり呆れ返ってしまった燐は、断る気持ちはとうに失せてしまったように腰に手を当ててため息をついていた。
「燐の全身を洗ってあげたいなって。ほら、ママの言う事は聞くものだよー、燐」
「ま、ママぁ!?」
どこから出てきた単語だろうか。
燐は素っ頓狂な声を上げてあんぐりと口を開けていた。
「いくら冗談でもそれは……蛍ちゃん本気で……?」
「だって、燐は一人で入るのが苦手みたいだから、だから、わたしが一緒に入ってあげないと」
どこまでも子ども扱いのようで、蛍は楽しそうに声を弾ませて手招きしている。
「それは蛍ちゃんの方でしょー。わたしはひとりでも大丈夫だもん!」
「はいはい。水がこぼれていかないようにドアを閉めるからね」
「あ、ちょっとぉ!」
結局、蛍に言いくるめられる形で、燐と蛍は一緒にシャワー室に入ることになってしまった。
「誰も来なればいいんだけど」
「きっと大丈夫だよ。少なくとも今は」
「?」
意味深なことを呟く蛍。
燐は不思議そうに首を傾げた。
「きゃっ、熱っ!」
「結構、お湯熱いよね、水のほうも回した方がいいかも」
「これかな……あ、ちょっと良くなった」
久しぶりとも思えるお湯を浴びる感触に、二人とも生きた心地を肌で感じていた。
ここがどこで、何の為にあるのかをすっかり忘れそうになってしまうほど満たされている。
花のような石鹸の香りと雲みたいな柔らかな泡に全身を包まれて、幸福感すらも覚えてしまっていた。
それに何より、確かな心地よさを感じるのは。
「今の燐の肌って、本当にすべすべだよね。石鹸なんかいらないぐらい透き通ってるよ」
泡まみれの蛍の掌が燐の肌をゆっくりと擦る。
蛍の優しい手の動きに、燐は羞恥ともどかしさで、全身を赤くさせていた。
「でも、蛍ちゃんだって、とっても綺麗だよ。顔も髪も、全部」
ずっと思っていたことを口にして、燐は泡まみれの手を伸ばす。
むにゅっ。
燐の小さな手が蛍のとても敏感な所に触れ、その感触を楽しむように蠢かす。
あんな生地の薄いバニーの衣装の下で包まれていたとは思えないほど、蛍の身体はみずみずしく張りのあるものだった。
さすがに、
豊穣で柔らかくて、指が心地よくなる。
「もう、燐ってば……そんなところばっかり……もしかして燐」
「それは絶対にないから」
それだけはきっぱりと燐はそう言った。
……
……
「本当に気持ちいいね」
「うん。極楽って感じ」
「何か、おばあちゃんみたい」
狭い室内に漂う甘い匂いは、ただ石鹸だけのものだったのだろうか。
がたがたと揺れる列車の事が気にならないほど、今のこの時間を二人とも享受している。
それは燐も蛍も同じ気持ちだったから。
この時が止まってほしいと願うほど。
とめどない充足感が、二人の間に流れては落ちて行く。
泡まみれで笑い合う蛍と、燐。
二人のいるドアの向こうで、何が待ち受けているとか。
そんな事など頭の片隅にすら考えることもなく。
少女達は、現実は違う
──
──
──
少し前にあったCloudflareの障害の影響なのでしょうか、KAISOFTおよび、青い空のカミュの公式HPが一時期見れなくなっておりましたが無事復旧したみたいですー。
で、そんな”青い空のカミュ”が2026年1月13日まで1500円セールに突入しておりますねー。DLですがその分、お手軽に始められるという利点がありますし特典の壁紙も付いてますので相当お得だと思いますよー。驚異の83%OFFなのでぜひぜひこの機会にお試ししてみてください。
Immortals Fenyx Rising
ゼルダの伝説にギリシャ神話を掛け合わせた感じのオープンフィールドのゲームです。広めのマップをあちこち動き回れて成長するたびに多彩なアクションができるようになりますね。戦闘よりもパズル要素の方が強めなのもゼルダっぽいかもです。
事あるたびに展開される”ゼウスとプロメテウスの掛け合い”が一番の特徴だったりするのかも?
それではではではーーー