馬なる生き物に触れることを諦めたフィオレが、リオンに先導される形でヒューゴ邸へと帰路につく。そのまま沈黙を伴って歩く二人だったが、双方それを何ら苦としていない。
リオンはもちろん、「馬を知らないフィオレ」という存在に記憶障害の恐ろしさを痛感しており、フィオレは初めて眼にした馬についてのことを考えているからだ。
記憶障害と偽るフィオレの記憶には、本当にあの生き物に対する知識がない。
リオンとシャルティエの手前、あまり表には出さなかったつもりなのだが。その内心では腰を抜かさんばかりに驚いていた。
何故なら、フィオレも馬と称される生き物を知っていたからだ。ただしフィオレの知る馬は、頭が大きく図太い尻尾を持ち、二足歩行で足は速いが気性は大人しいというトカゲモドキである。先ほど見た『馬』とは似ても似つかない。
あえて眼を背けていた『この世界』に対する興味が湧き起こる。
凄まじいまでの不安と、比例してくすぐられる好奇心。
やはりヒューゴ氏の提案を受け入れたのは早計だったか。それよりもまず知るべきことがあったのでは、と考える内。
「……おい」
耳に心地のいい低音が、鼓膜を震わせる。
フィオレを先導していたリオンが妙に歯切れの悪い口調で尋ねてきた。
「お前、昨晩ヒューゴ様と酒を飲んでいたらしいな」
「ええ。それがどうかしましたか?」
そういえば、常識として飲酒はどのくらいの年齢から許されるのだろう。例え見逃せない年齢であったとしても、一応雇い主から誘われた身として、彼から咎められる謂われはないはずなのだが。
などと、彼が何を言いたいのか予測を立てていたフィオレだったが、思いもよらない事柄を聞かれて、返答に窮した。
「何瓶か、空けていたようだったが……大量に飲むほど美味いのか? あれは」
……正直な感想としては、彼はこっそり飲酒した経験があるのでは、と疑いたい。それも、昨晩フィオレがヒューゴ氏と共に嗜んでいた蒸留酒に近いものを。
個人差もあるだろうが、初めて蒸留酒を口にして美味い、と思う人間は稀だろう。その前に高いアルコールが口の中、喉の奥を灼くような感覚に襲われる。
どうにか飲み下したところで、待っているのは臓腑に染み渡るような灼熱感だ。味だのなんだの考える前に気分が悪くなること請け合いである。
空いた片手で軽くこめかみを押さえて、フィオレはどうにか口を開いた。
「……個人的には、美味しいと思いますよ。ただあれは舌で味わうというより、喉の奥で味わう感覚が強いですけど」
「だが、それだと喉が熱くて気分が悪くなるじゃないか。どうすれば飲めるようになるんだ、あんなもの」
「あなたの場合はアルコールよりも偏食をどうにかしたほうがいいと思いますけど……」
やっぱり飲酒経験があるのか、と心の中で突っ込みつつも、本音をブチまげる。
リオンはもちろんムッとしたようにフィオレを睨むが、それに言及するより早く、彼女は言葉を続けた。
「アルコールを飲み慣れていない人間は、大概そうです。初めから蒸留酒なんて嗜もうものなら、慣れるころには立派な中毒になっていると思います」
「どうすれば慣れることができるんだ?」
「度数の低いもの、例えば
フィオレの言葉に珍しく素直に頷いていたリオンだったが、最後の一言を聞いて唇を尖らせている。
その仕草は、これまで見ていた彼のどの仕草より、年相応のものだった。
「僕を子供扱いするな。そんなことを言うならお前にだって、悪影響とやらが出ているんじゃないのか」
「私にも、ですか。私はいくつに見えますか?」
『うーん、坊ちゃんよりちょっと年上に見えるから、18とか、19とか』
「僕も同意見だ。それがどうかしたのか」
「……いいえ、どうぞお気になさらず」
在りし日の仲間たちに聞いた年齢より若干上がっていなくもない、が……それでも外見だけサバを読みまくっているのは明らかだ。
ただでさえこの世界、一年が巡るのはフィオレの親しんだ暦より半年分早い。単純計算で、フィオレはこの世界において実年齢の二倍、生きていることになる。つまり、この世界においてフィオレは御歳54歳。
完璧な老婆、とまではいかないが、ただでさえ中年増の身。おばさんと呼ばれることは構わなくともおばぁさん、は少々傷つく。
『で、結局いくつなの?』
「さあ」
とりあえず、年齢の話は保留にすることにした。世の中にはタイミングというものがある。
「個人的には、身体的な成長が完全に終わるまで飲酒をお勧めできません。でも、どうしてそんなことを?」
「……別に、何だっていいだろう」
今度はリオンが口ごもる番だった。
何となく予想はつくが、彼の言うとおりである。「それもそうですね」と、フィオレはあっけなく食い下がった。
そのまま、特に会話をかわすことなく高級住宅街を抜け、ヒューゴ邸へと帰還する。その時、再びフィオレが口を開いた。
「ところでリオン」
「なんだ」
「いつまで私の腕に握りしめているおつもりで?」
どうも無意識であったらしい。指摘された途端、リオンは即座にその手を離した。さっそく皺がよってしまった袖を伸ばしつつ、開かれた門から庭園へと至る。
昨日フィオレをいぶかしがっていた警備員二人だったが、今日は中から出てきたせいもあるだろう。当たり前のように通してくれた。
庭園の中ほどへ差し掛かったところで、フィオレは彼を呼びとめた。
「リオン」
「今度はなんだ」
「今この場で手合わせを望みます。構えてください」
勢いよく振り返ったリオンはひどく驚いたような顔をしているが、フィオレはもちろん本気である。
その頃にはもう、漆黒の刃を持つ短刀を抜いていた。
切っ先はリオンをしっかりと捉えており、途端に鋭さを帯びたその眼は油断なく彼の所作を余すことなく観察している。
「これで僕が勝ったら、念話とやらの正体を白状するんだな?」
「構いませんよ。私はあなたの実力が知りたいだけなので、積極的な攻撃は仕掛けません。ただし、咄嗟の攻撃は私にも制御しかねますのでご了承ください」
多くの戦士がそうであるように、フィオレとて常に考えて攻撃しているわけではない。
普通に攻撃を仕掛けるならともかく、カウンターの類はほとんど反射的な行動で、意識して抑えられるものではなかった。
「勝敗のつけ方ですが……どんな手段を使ってもかまいません。私に血液と同等のものを流させたら、あなたの勝ちとします。制限時間は、あなたの体力が続く限り」
納得したように頷き、麗しの少年剣士は愛剣を抜き放つ。
それが、突如持ちかけられた手合わせの始まりだった。
「いくぞ!」
曲刀が風を切り裂き、フィオレに迫る。街角で行ったのと同じように、刃同士を合わせることでリオンの動きを封じようとしたフィオレだったが、それはリオンの予想範囲内のことだった。
漆黒の刃からわずかに軌道をそらし、火花を散らしてシャルティエの切っ先は防御を突破する。しかし。
「ぐっ!?」
切っ先が火花を散らしたのを見るや否や、フィオレは半歩踏み込みながら体勢を半身に切り替えていた。
そして突っ込んできたリオンの首元へ懐刀を握った腕の肘を突き出し、彼の喉を盛大に詰まらせている。
「……ふむ」
耐え切れず咳き込むリオンに追撃することなく、フィオレはただ距離を空けている。
刺突そのものの速度に関しては申し分ない。以前の失敗を繰り返さない、その判断も悪くはない。ただし、彼は見かけ通り打たれ弱いようだった。今も患部に手を当てて咳き込むだけで、それ以外の行動が見受けられない。
迎え撃つ角度を見て、突きの角度を瞬時に修正したその動体視力に文句はない。が、回避、あるいは防御されたらどうするべきかを考えていないように見える。
あの時とは違って冷静なのだから、考えられないわけではないと思うのだが……
首へのダメージから立ち直ったらしいリオンが、今度は下段へと構えなおす。
「たああっ!」
気合も高らかに繰り出された斬撃を、フィオレは冷静に捌いて退けた。
やはり、斬り込む速度は一定水準以上のものがある。手数の多さ、切り返し、踏み込みなども、荒削りながらも磨けば更なる向上が期待できると断言できた。しかし、ここに至るまで決定的なまでに、悲しいまでに彼の弱点は見てとれる。
斬撃の手数は多いものの、拍子抜けするほどに軽いのだ。
これでは肉体に刃先が到達したところで、皮を裂くのが精一杯だろう。肉を、骨を断つことはできまい。その軽さときたら、フィオレが鼻歌交じりに片手でどうにかできるほどである。
この速さに加えて手数の多さなら、二流剣士程度はきりきり舞いにさせて翻弄し、相手の消耗程度で本命の一撃を確実に入れてしまえば、それで終わるのだが……ある一定以上の相手には通用しない。
むしろ派手に動き回る相手をそのまま、自分は最小限の防御で持久戦を続ければ、勝手に相手は体力を消耗してくれる。まことにあしらいやすいといえよう。まさに今、フィオレはそれを実践しているのだから。
これは腕力の問題だけではない。致命的なそれに重ねて、重心や体重のかけ方、タイミングなど、全く考慮がされていない──我流の域を出ていないのだ。
こうしている間にも、リオンの息は上がっていく。見る間に消耗の色が見て取れ、前髪の間から垣間見える額には、汗がじわりと浮いていた。
彼にとって都合が悪いことに、フィオレはリオンの様子だけを見ていたわけではない。その太刀筋を余すことなく観察してはいくつかのパターンがあることに気付いており、一見複雑に見える斬撃の連なりは、彼女にとって決まった型をなぞらえる剣舞と化していった。
こうなると、捌く側のフィオレも単調に踊るのと大差なくなる。
そのことに気付かぬまま終わるか、それとも気付いて戦況を変化させんと目論むか。結果として、彼は後者を選んだ。
「……っ!」
攻撃が通じないことにか。形のいい唇を噛み締め、一度大きく間合いを取る。
上がった息を深呼吸ひとつで整え、彼は口元を忙しなく動かし始めた。
『坊ちゃん!?』
シャルティエの反応は、それだけ威力の大きな晶術を使うつもりなのか、はたまた違う理由か。
どちらにせよ、呑気に傍観するわけにはいかなさそうだ。同時に、フィオレもまた詠唱を始める。
今彼を仕留めるのは容易いが、積極的な攻撃はしないと断言した以上、フィオレには防御か回避しか選ぶことはできない。
「母なる抱擁に覚えるは安寧──」
♪ Qlor Luo Ze Toe Luo Rey Nu Luo Ze──
譜歌を紡ぐフィオレと同時に、彼の晶術も完成した。
『つぶては空を駆け、我が敵を殴打せん!』
「ストーンブラスト!」
どこからともなく現われた拳大の石が数個、四方八方からフィオレに向かって殺到する。
どれだけ素早く振り回しても、所詮は短刀でしかない得物ですべてを叩き落とすのは至難の技だろう。
その直後、【第二音素譜歌】
驚愕にリオンが目を見開く間にも、譜陣は消滅した。彼は半ば独り言のように、かすれた声で今の現象の説明を求めている。
「……今のは、なんだ」
「手品では納得できませんか?」
「当たり前だ!」
『ぼ、坊ちゃん、落ち着いて……』
ここに至って、彼はとうとう癇癪を起こした。シャルティエの、混乱しつつもなだめるその言葉も、さっぱり耳に入っていない。
「先ほど当たり屋を眠らせた時といい、今といい! 一体何をしたんだ、今のは晶術ですらなかったはずだ! そもそも、普通の人間が晶術を使うなど聞いたこともない!」
彼が混乱するのも無理はないだろう。何せ今使ったのは、フィオレが生を受けた世界でさえマイナーなものなのだから。だが、それを答えてやる義理はない。
声を荒げる彼に対し、フィオレは殊更冷静に言葉を放った。
「それで終わりですか」
「……何だと」
「私はあなたの技量が見たくて、手合わせを申し入れたのです。あなたはあなたの保有する実力を、出し切りましたか?」
彼の疑問に答えてやる義理はない。条件を満たせない以上、先ほどの疑問に答える義務すらない。
あえてリオンの言葉を無視する形で、フィオレは手合わせのことについて言及した。
「自らの常識に縛られることが、どれだけの油断を招くのか。今の経験に基づいてそれを学習することを望みます。それと、今の質問にお答えすることはできません。理由はどうぞ、勝手に解釈してください」
そう言って、フィオレは懐から鞘を取り出し、短刀をその中へと納めている。
その光景を前に、リオンはその眉間に縦筋を刻んだ。
「何のつもりだ。まだ僕は戦える」
「承知の上です。ですが──「お二方!」
屋敷の正面玄関が開き、丈の長いエプロンドレスに身を包んだ女性が姿を現した。そのまま彼女は、二人のもとへ駆け寄ってくる。
彼女の姿を認めて、リオンは眉間に刻まれた筋を綺麗に消し去っていた。
「マリアン?」
「おかえりなさいませ、リオン様、フィオレさん。昼食の用意が整っておりますので、広間へどうぞ」
ふと見やれば、太陽は中天に座している。これ以上昇ることはなく、あとは地平線へ向かって降りゆくだけだろう。
「まあ、そういうことです。勝負なしということにしましょう。実際がどうなのかは、あなたがよくご存知であるはずですから」
「っ!」
現実として、リオンは息を荒げているのに対し、フィオレは汗ばんですらいない。
息を乱した彼に対して、フィオレは涼しい顔でマリアンに昼食の内容を尋ねている。
あまつさえ、汗を流すようマリアンに促され、素直に頷くリオンを横目で見て薄笑みを浮かべる始末。
運悪くその瞬間を見てしまい、激昂したリオンが声を張り上げようとしたのを知ってか知らずか、フィオレはとっとと屋敷へ向かっていってしまった。
「フィオレさん宛てに小包が届いておりましたので、お預かりしてます」
「ご苦労様です」
「よろしければ、こちらのお荷物もお預かりしますが」
あまつさえマリアンに話しかけ、リオンの苛立ちを増幅させる始末。
ひとり庭園に残ったリオンは、嘆息しつつも軽く前髪をかきあげた。
『坊ちゃん、行かないんですか?』
「シャル、心当たりはないか? あの女が何をしたのか──」
『いえ。僕にはただ歌みたいなものを歌って、そうしたらバリアーみたいなものが展開したように見えました』
聞きなれない単語を耳にして、愛剣にその意味を問い質す。
「バリアー?」
『水の属性を持つ防護系の晶術です。昔の仲間が得手としていた晶術ですが、彼女はソーディアンを持っているようには見えないし……あんな風に全方向じゃなくて、前方のみだったはずですから、やっぱり違うんじゃないかと思います』
「謎だらけか……なぜあんな胡散臭い奴を雇い入れたんだろうな、ヒューゴ様は」
『坊ちゃんが気絶している間に色々と調べていたようですけど……彼女強かったですねー。人は見かけによらないとは、よく言ったものです』
「……マリアンの気配も、感じ取っていたようだしな」
フィオレが短刀を納めたタイミングは、単なる偶然とは言いがたい。前後の言動といい、明らかにマリアンの接近を知って、彼女は手合わせの終了を告げたのだ。
リオンとて、気配の探り方を知らないわけではない。しかし、あのような激しい稽古直後において他人の気配に気付けるほど、熟達しているわけでもなかった。
「胡散臭いからこそ、正体を暴くために雇い入れたのかもしれない……ヒューゴ様の目も、節穴ではなかったということか」
『……言い方はアレですけど、まあ不思議な人ですよね。強さといい言動といい』
「怪しいことに変わりはない。記憶障害……は、本当かもしれないがな」
『あれだけ不思議な反応をされると、むしろ牧場とかに連れて行ってみたくなりますね』
「……面白そうだな」
その分質問攻めにされそうだということを、彼らは気付いているか否か。
この様子だと、多分考えていないだろう。
『だけど珍しいですね。坊ちゃんが、他人に興味を示すなんて。いつもは必要以上に遠ざけようとするのに……』
「別に興味なんか……!」
言いかけて。彼は唐突に口を閉ざした。
リオンが来ないことをいぶかった誰かが近寄ってきたから、ではない。
「あんな胡散臭い女、どうすれば興味を持たずに接することができるんだ。念話とやらのこと、手品各種のこと、そしてあの強さのこと……知れば知るほど謎が増えていく。こんなに好奇心が刺激される生物はいないだろう」
『生物……』
年頃の女性に向かってひどい言い草ではあるが、否定できないのはリオンが彼の主人だから、だけではない。
「ともかく、まずはあの女に一泡吹かせて念話とやらのことを聞き出すんだ。とぼけられる前に決着をつけたい……午後に再戦するぞ、シャル」
『はい!』