「くそ……!」
ぐっ、と両腕に力を入れて。リオン・マグナスは己の身体を起こした。
これでもう、何度目になるだろうか。徐々に傾きつつある太陽を背に、少年は疲労の色を隠しきれなかった。対して、対峙する相手にそんな気配は微塵もない。
リオンが身動きを始めた時点で腰かけていた木箱から立ち上がり、非常に億劫そうに手にしていたものを置いている。
少年の望んだ再戦のため、二人は花壇のような障害物がなく、他人の眼もない中庭へ移動していた。
彼女が出した条件。それは、今度は仕掛けもするし、反撃もする、というものだった。
宣言の通り、彼女はシャルティエを振るう少年に対し生真面目に応戦し──当て身を打ち込んではリオンを気絶させ、その間に持ち出した蔵書の読書にふけっている。
蔵書を五冊ほど抱えてきたり、庭の隅に転がっていた木箱をわざわざ持ってきた辺りおかしいとは思っていたが、まさかこんなことに使うとは。
「私はできるだけ早くここの蔵書を読破してしまいたいんです。雇い主のご子息とはいえ、あなたに費やす時間はありません」
一度目、昏倒したリオンがシャルティエの声で目覚めた時。彼を放置して読書に集中する彼女に、抗議した彼に寄越されたのは、そんな無味乾燥な返答だった。「ちょっと浅かったかなー」とのたまいつつ、今度はリオンを投げ飛ばす始末。
薄い胸板に受けた衝撃で、一瞬ではあるものの、肺が叩き潰されている。地面へ叩きつけられた彼に待っていたのは、フィオレによる追撃──当て身だった。
彼が昏倒している間にも、フィオレはきびすを返して少し離れた場所に放置された書物の交換に行っている。そんなことが何回も繰り返され、現在フィオレは五冊目の書物を読破中だった。
書庫より持ち出しを願い、彼女に許可されたのは五冊まで。今この場において、もう彼女が眼を通すべき書物はない。
一方で、幾度も地面へ叩きつけられ転がされたリオンは、土埃にまみれていた。
「……そろそろ、わかる頃だと思うんです」
起き上がったリオンに対し、連なる文章の羅列に視線を釘付けたフィオレが唐突に口を開く。
書物を片手に立ち上がった彼女は、そのまま短刀を引き抜いた。鞘をくわえていた口から、ぽろりとそれが地面に転がる。
「戦術も立てず、がむしゃらに仕掛けることがどれだけ無意味で危険なことか。これが実戦だとしたら、あなたは幾度お亡くなりになられていることでしょうね?」
「……っ」
「そんなことは承知と仮定して。大切なのはその教訓を、どうやって生かすことか」
右の手に短刀、左手に書物。視線を書物へ釘付け、短刀を絶えずリオンに向けたその状態を維持したまま、フィオレは一端口を閉ざした。
体中の土埃を払いもせず、リオンは愛剣を握りしめたまま、次の言葉を待っている。
彼女の言葉を聞こうとしているのではなく、悠長に話している隙を突こうという魂胆か。
「どうして私に勝てないのか、そろそろ考えてみませんか?」
「……僕がそのことを欠片も考えていないような口ぶりだな」
「まったくその通りです。本当に考えていたなら、そんな無様な姿にはならなかったでしょうに」
紛れもない侮辱が、リオンの憤怒に油を注ぐ。
これまで眼を背けてきた敗北という屈辱と、幾度もあしらわれ、力が及ばないことに対する怒りが、彼の中でない交ぜとなった。
屈辱と怒りが憤怒の炎を燃え立たせ、リオンの理性を徐々に焼き焦がしていく。
ふと、フィオレが口を噤んだ。書物の頁に視線を走らせていた彼女の眼が、書物から切り離される。パタン、と音を立てて書物は閉じられた。
それを後生大事に抱えてきびすを返したのは、読破し終えた証拠である。一見無防備な後姿は、明らかなリオン軽視の印だった。少なくとも、彼はそう感じている。
考えるよりも早く、リオンは弾かれたように特攻した。気配も足音も隠さなかったが、何しろ距離が距離だ。気付くよりも前に、シャルティエは彼女の背を捕らえていることだろう。
視界はあっという間に彼女の背中で埋め尽くされ──
「それなんですよねー」
刺されたことによる悲鳴でもなく、咄嗟の回避による呼吸音でもなく。のんびりとして、どこか呆れさえ含んだ声音が耳朶を打った。
気がつけば、フィオレの背中が右端に移動している。
軌道修正ができないリオンは、シャルティエを構えたまま、すんなり突進を回避した彼女の隣を通過して。
「!」
咄嗟に止まれない足が勢いよく何かにひっかかり、盛大に転んだ。何度も横たわることになった地面が、急激に近づいてくる。
顔面から硬い地面に突っ込むことを覚悟して、リオンは強く歯を食いしばった。
「屈辱、怒り、劣等感。それがある限りは、何も考えられないでしょうね」
急激に首が絞まり、「ぐ」と勝手の喉の奥から音が零れる。状況はすぐにわかった。
リオンが地面と接吻寸前であることを知ったフィオレが、彼の首根っこを捕まえて説教をかましたのである。子猫のように掴まれて、リオンは当然暴れだした。
「離せ!」
「いいですよ」
フィオレは淡々とその要求に従っている。彼を捕まえる手を離し、地面に膝をついたリオンを省みず、悠々と書物を置きに向かった。
そうして、帰りは手ぶらで戻ってきて……立ち上がろうとしないリオンの眼前に、腰を下ろす。
「立てますか?」
覗き込むように尋ねられ、リオンは返事もせずに立ち上がった。そのまま顔を背け、彼女から逃げるように走り去っていく。
その背を見送って、立ち上がり──フィオレは後ろを見やった。持ち出した五冊の本は、中庭の端に放置されていた木箱を持ってきて、その上に置いてある。
そのすぐ前に、丸い飾りを刀身の根元にあしらった曲刀──シャルティエが転がっていた。転んだ拍子に手放した愛剣を、彼はそのまま屋敷へ戻ってしまったのである。
普段ならば置いていかれたことに悲鳴を上げるだろう彼は、リオンの心情を思いやってだろうか。終始沈黙を貫いていた。
フィオレの仕打ちに何かを思ってか、彼女にも何かを話しかけようとしない。とはいえ、この場に放置するのはいただけない。
後で彼の部屋に届けてやればいいと、フィオレはシャルティエを拾い上げた。
『思っていた以上に、守ることが苦手なんですね』
戯れに、シャルティエへ話しかける。殊更返事が欲しかったわけではない。
ただ、リオンの相棒たる彼に話しておきたいことではあった。
『攻撃は最大の防御、という理論はけして間違っていないと思いますし、私も大概同じ戦法をとっているんですけど。何であれひとつのことに囚われすぎるのは、危険です』
『……どうして?』
押し殺したようなシャルティエの言葉に、フィオレは書物を回収しながら答えている。
『それが崩れたときの衝撃は私たちに多大な影響をもたらすからです。その影響に乗じて、自らを高めることができるのであればそれでも構わないのでしょうが、生憎私はそれに耐えられるほど強くない。人という生き物の大半がそうだと、私は思っています』
『坊ちゃんもそうだ、って言いたいの?』
『あなたは彼が、数少ない例外に属すると思いますか? 私は思いませんね』
転がる短刀の鞘を拾い、屋敷へと戻る。
抜き身のシャルティエを伴って書庫へ赴き、丁重に書物を本棚へと戻した。
『……あの、さ。さっきは何で、いちいち坊ちゃんを怒らせるようなことばっかり言ったの?』
『意図して怒らせようと試みたから、ですが』
あっけらかんと自分の目論見を告げるフィオレに、シャルティエは嘆息と共にその真意を聞き出そうと試みている。
『やっぱりそうなんだ……おかしいなとは思ってた。だけど、どうして坊ちゃんを怒らせる必要があるのさ』
『彼が私を倒すほどの実力を身につければ、私の役目はお終いです。弟子より弱い指南役など、何の役にも立ちませんから。そして私は、晴れて自由……もとい解雇』
『それで、坊ちゃんをやる気にさせるために? 意味あるのかな、そんなの』
シャルティエの声はどこまでも懐疑的だが、フィオレには自信があった。それはすべて、彼女の経験則によるものである。
もちろん「彼」の場合と異なる点は多々あるだろう。それでも、これだけは言える。
『私をより憎たらしく思わせれば、それなりに上達は早まるでしょう。ましてや成長期の男の子ですから、特に身体能力は思うように伸ばせるはず』
『……なんで、そんな風に断言できるの?』
ふと、シャルティエの声に含まれた懐疑の念が一層強まった。
記憶障害を自称した彼女にしては、あまりに違和感のある発言だと思ったのだろうか。
『怒り、悲しみ、憎しみ、嫉み……その他負の感情は、時に抱いた本人をも破滅させるほどの力を持つと、知識の塔で学びました。人体についての仕組みも多少ね』
『ふぅーん……』
どこまでも疑わしげなシャルティエの態度に苦笑しつつ、リオンの私室へと赴く。
書庫で新たな書物を借り、それを私室へ置いてきたために夕日と化した太陽は半分以上沈んでしまっていた。
「リオン、入りますよ」
「……」
「リオン?」
三回ほど扉を叩き、返事はないが突入する。在室は気配でわかったものの、返事がないのは先ほどのことを引きずっているせいか。
何にせよ、罵詈雑言を浴びる前にシャルティエを置いてさっさと戻るつもりでいた。
扉を閉め、薄暗い部屋を見渡す。許しも得ずに踏み入った先は、フィオレの私室とさして変わらない殺風景な部屋だった。強いて違う箇所を挙げれば、本棚にみっしりと書籍が詰まっているところか。
『坊ちゃん?』
そして部屋の主はというと、無言のまま寝台でうつぶせになっていた。着替えた際に汗を流したのか、華奢な体はシンプルなバスローブに包まれている。
シャルティエが常に収まっている鞘は、机の上に置かれていた。気配からして、寝ているわけではない。
フィオレに侵入されたとわかっているはずなのに、先ほどから大人しいのはなぜか。
……何となく、心当たりはあった。
『坊ちゃん、どうしちゃったんですか、坊ちゃん!』
心配するシャルティエを鞘へ収め、彼の枕元へ向かう。リオンの肩を強めに叩けば、彼はびくりと体をすくませ、のろのろと顔を上げた。
気だるげだった瞳が、自分を覗き込むフィオレを目にして即座に力を帯びる。
「……何の用だ」
「シャルティエをお届けにあがりました。鞘に収めておきましたから」
「……用が済んだら、さっさと「出て行きますよ。でも、後もうひとつ。明日、私のせいで起きられないと文句をつけられても嫌ですから」
横たわりながら虚勢を張る少年の枕元を離れ、「失礼」と一声かけると、彼女は寝台に上がりこんだ。
ギシッ、と寝台が、二人分の体重を受けて苦情を零すかのように鳴る。
「なっ、何を──!」
「やらしい誤解をなさらぬように。そのガチガチに強張っているであろう筋肉をほぐして差し上げるだけです」
言うなり、フィオレはうつ伏せになったリオンの胴にまたがった。
それ以上の抗議が上がる前に、まずは背中を揉み解し始める。
「う……」
──以前にも、こんなことがあった。
とある事情でフィオレが教えていた少年が、彼女による修練を初めて受けて迎えた翌朝。体中が痛くて起き上がれないと少年は訴えたのだ。
当時のフィオレは、それを怠慢による仮病だと思っていたのだが……彼の体の強張りようを知って、重度の疲労を引き起こしていたことを知る。
それからというもの、少年の体が修練に慣れるまで彼女は毎夜、酷使させた筋肉を丁寧にほぐした。もちろん素人であったがゆえ初めはかなり手間取ったのが、試行錯誤を経て、最終的には一国の王女も気にいるような腕前に仕上がっている。
今のリオンが筋肉痛を起こしているかは定かでないが、少なくとも慣れない手合わせで精神はおろか、身体的にも消耗しているのは明らかだ。施しておいて損はないだろう。などという目論見のもと、彼に按摩を施し始めたのだが。
嫌がって暴れるだろうと予想していたリオンの反応だが、意外にも大人しく揉み治療を受けている。抵抗する気力もないのか、それとも早くも効果が上がっているのか。
特に強張っている腰の辺りを押す際、艶っぽい吐息を零したのを聞くと後者だと判断していいのだろうか。不気味なほど静かにしているリオンの太腿、ふくらはぎに按摩を施し、足の裏のツボをいくつか押していく。
「……っ」
「痛いですか?」
「痛い、ような、気持ちいい、ような」
「正常な感覚です」
足の裏全体を揉みこむようにしてから、細い両肩に手をやった。思った以上に弛緩──リラックスしている。
両肩から二の腕、肘から先にかけて筋肉そのものをほぐすように揉んでやり、最後に頭に手をかけた。
「頭、触りますよ」
「?」
柔らかい猫毛の、艶やかな黒髪がフィオレの指先に絡まる。伝わってくる彼の戸惑いに答えるかのように、指の腹でツボを刺激し始めた。
押されるたびに、抑えきれない吐息を零すリオンが、彼に被る。最も「彼」は、心地がいいという素振りを見せたがらなかったが……
「まだどこか、強張っているような箇所はありますか?」
「……肩」
「ん?」
「肩が少し、張っている感じがする」
リオンの体からどき、フィオレは彼に起き上がるよう指示した。とても素直に従う少年をちょっぴり不気味に思いながら、寝台に腰掛けさせ、肩だけを揉んでやる。
フィオレが彼を起こしたのには、とある理由があった。しかしリオンのほうは、そんなことはまったく考えていなかったに違いない。
だんだん反応が鈍くなってきた少年が眠りこけてしまうことを恐れていたのだが。彼はあろうことかフィオレにもたれかかり、船をこぎ始めたのだから。無論のこと、彼女はそれを許さなかった。
「リオン、目を開けて。夜眠れなくなりますよ」
「……」
「リオン! シャルティエも何とか言ってください。主の危機ですよ、このままじゃ発情した私の餌食になってしまいますよ!」
『……いや。本当に餌食にするなら、そんなことは言わないでしょ』
まったくもってその通りである。フィオレにショータ・コンプレックスの趣味はない。
説得に飽きたフィオレは、ついに実力行使にうって出た。
「起ーきーろー!」
先ほどまで揉んでいた肩を乱暴に揺すぶり、少年の覚醒を計る。功は見事に奏し、リオンはうっすらと、紫闇の瞳を開いた。
ぱちぱち、と繰り返された瞬きの先で、険しい眼をしたフィオレの姿が眼に入る。
「……なっ!?」
彼女の姿を認めるや否や、リオンは両肩の手を振り払って距離を置いた。
いくらなんでも、今しがたの出来事を忘れているとは思いたくないが……顔が赤くなっているところを見ると、心配はいらないだろう。
「これで私の用事は終わりです。それだけ機敏に動けるなら、もう大丈夫ですね」
リオンが口を開くよりも先に、フィオレは身軽に寝台から飛び降りた。そのまま速やかに扉に手をかけている。
「あ、おい……!」
「それでは、失礼いたします」
怒鳴られるのはごめんとばかり、フィオレは扉をくぐり抜けた。
雪色の髪が翻り、その姿が視界からなくなる。リオンは片手を伸ばしたその状態から、ゆっくりと片腕の力を抜いた。
切れ長の瞳が軽く伏せられ、くるりときびすを返す。彼の視線の先には、鞘に収められた自分の愛剣が鎮座していた。
『坊ちゃん。体の調子はいかがですか?』
「……悪くは、ない。さっきまであんなに体が重かったのにな……」
これまで、リオンは他人に触れられることを嫌がり、按摩や揉み治療を受けたことがない。それゆえの効果なのか、施術者がフィオレであったからなのか。
体中を包んでいた倦怠感は、熟睡後の爽やかな目覚めであるかのように霧散してしまっている。
「記憶喪失のくせに、どうしてこんなことまでできるんだ?」
リオンの疑問には答えられない。そんなことは、彼女でなければ答えられないだろう。ただ、彼女が言っていたことと今やったことは、多少の矛盾が生じている。
何せ、口ではリオンの指南役など単なる厄介ごと程度にしか考えていないようなことを言っていた。
それなのに実際は彼の不調を気遣い、丁寧な治療まで施していったのだから。それも、他人に触れられることを嫌がったリオンが暴れる可能性を考慮して、だ。
手合わせでの態度だけなら、彼女の言葉は信用に足るものである。しかしこうなると、考えられるのは。
『……やっぱり、飴と鞭ってやつですかねえ』
「シャル?」
『あ、いえ。何でもありません』
そのとき。コンコンッ、というノックが聞こえ、静かに扉が開いた。
リオンの私室から廊下へ出たフィオレは、うーんっ、とその場で大きく伸びをした。
書庫の鍵を返却すべく保管室へと赴きながら、軽く肩を鳴らす。他人に揉み治療を施すなど、久々だった。
リオンとの手合わせのこともあってか、少々腕がだるいような気がしないでもないが、これくらいなら睡眠で回復するだろう。
彼のことはこれでいいとして、まだフィオレ自身の問題が残っていた。
蔵書の読破のこともそうだが、ヒューゴ氏いわく精霊結晶と呼ばれているらしい、彼らの聖域探索である。
リオンとの手合わせ中、とある一冊に気になる記述があったのだ。その一冊だけそのまま、残り四冊を交換して私室においてある。
そんなことを考えつつ、夜は大概保管室に詰めているというレンブラント老に鍵を返却し、私室へと戻った。
すっかり暗くなった部屋の中、レンズ式の照明スイッチを押すと、部屋の中はまるで昼間と同じくらい明るくなった。これなら、本を読むにも支障はない。
現在、フィオレが聖域を確認し、契約を結んだのはシルフィスティアのみ。その中で、特に探すのが困難だと思われるのは光を司るソルブライトと、ルナシェイドという闇を司る守護者たちだった。なぜなら、彼らはどこにでも存在するからだ。
故に、彼らの聖域とはどこにでも可能性があるため、資料もなしに探すならばそれこそしらみつぶししかない。
逆に特定がしやすいのは、火を司るフランブレイブ、水を司るアクアリムスである。
火は自然界においてそうそう発生しやすいものではないため特定は容易いし、水とて範囲は広いが、ある程度絞れることは絞れる。そんなことをいちいち挙げていけば、大地も風も探しにくくてたまらないのは同じだ。
今回フィオレが発見したのは、おそらく大地の守護者アーステッパーについての記述である。
残念なことに聖域のことについてはカケラも記載はないが、かの精霊結晶を崇め奉っていたとかいう部族についてのレポートだった。
さっそく、書物に挟んでおいた髪を外し、問題の記述をじっくりと読み返す。
事務机の中に装備されていた筆記用具を遠慮なく取り出し、問題の精霊結晶について触れてある部分を書き出し、その特徴を挙げていった。
……何分古い資料で、更にレポートを書いた学者の個性が文章に溢れて垂れ流さんばかりになっているが、推察するにこうだ。
アーステッパーはシルフィスティアのような個体ではないらしい。複数の小人の姿をした精霊たちの集団を、総じてアーステッパーと呼ぶようだ。あるいは、意志を持つ小人一人一人がアーステッパーなのか。
更に突き詰めていけば、部族が生活を営んでいたのは、温暖な気候に恵まれた地であるという。
この時点で雪国ファンダリア、大半が砂漠だという第二大陸カルバレイスは除外された。
半漁半農が可能という辺りセインガルドが当てはまらないことはないが、辺境の大陸という記述を鑑みれば、地図上では南西に位置するフィッツガルドという第三大陸が唯一該当する。島国密集地域であるアクアヴェイルを大陸と呼ぶような学者はおそらくいない。
以上のことをまとめて持ち歩いている手帳に書き記し、息をつく。
見つけた記述からわかるのはこのことくらいだが、こうして記録しておけば似たような記述を見つけたとき、比較することもできる。記しておいて損はないはずだ。
読書で疲れた眼を揉みつつ、筆記用具を引き出しの中へ放り込む。
そしてフィオレが次に手をつけたのは、届けられた小包だった。フィオレが自主的に購入した裁縫箱と生地類数種である。
サラシに使用する生地がこちらでも普通に販売されていたのは僥倖だった。そのままならとんでもない長さのそれを裂き、端のほつれを整えて手頃な長さにまとめておく。
問題は普段着の方だ。『制服』案が通ったのはいいとしても、このままにはしておけない。
見栄え重視で間接部位に遊びがないその場所に鋏を入れて、目立たない箇所に同じような色味の生地を当てて、地道に縫い付けていく。ただ縫い付けるだけではいけない。あの目敏いヒューゴ氏に難癖つけられぬよう、慎重かつ丁寧に。
一度袖を通して出来具合を確認していた、そのとき。
コンコンッ、というノックが聞こえた。
「失礼します、リオン様」
一人の
その姿を認めて、リオンは無意識に微笑みかけた。
「マリアン」
リオンとは似て異なる長い黒髪が、照明の光を受けて天使の輪を描く。
この屋敷にて
立場をわきまえているがゆえに、人前では敬語を貫く彼女を前にして、リオンは年相応の素顔に戻った。
「そんな呼び方はやめてくれ。今は、誰もいないんだ」
──そう。フィオレが推測してみせたように、リオン・マグナスは彼の本名ではない。
ヒューゴ・ジルクリストの実子たる本名を、彼は自分の慕うマリアンにだけ、呼ぶことを求めていた。
「エミリオ。大丈夫?」
エミリオ・カトレット。
ジルクリスト姓の戸籍が抹消されて以降、彼に残されたのは母クリス・カトレットの第二子であることを示す、その姓だけだった。
普段の刺々しさが消えてなくなり、無邪気に首を傾げるリオンとは正反対に、マリアンの瞳は焦りにも似た光が宿っている。
「大丈夫って、何が……」
「隠さなくていいのよ、エミリオ。今、あの……フィオレ様が、いたでしょう?」
何故彼女がそれを知っているのか、考えることもなく、リオンはひとつ頷いた。
そもそも彼は、目の前の彼女が何を言おうとしているのかも、察していない。
「いたけど、それがどうかしたのか?」
「……何も、されてない?」
それを聞かれて、リオンは回答に迷った。何もされていないことはないが、素直に告げるには何となく恥ずかしく感じたのだ。
フィオレにマッサージをしてもらい、それがとても気持ちよかった。
その事実を他人に告げるのは、想い人相手だからこそ、思春期の彼には戸惑うにあたう内容だったのかもしれない。
しかし、マリアンはその沈黙を、違う意味としてとらえたようだった。
「やっぱり、何かされたのね? あなたの剣を持って入って、しばらく出てこなかったから……」
つまりマリアンは、フィオレがリオンの私室に入室してから出てくるまで、見張っていたということか。
そんなことに気付けないほど、リオンの思考は彼女のことで占められていた。なぜなら、マリアンは何とも言わない彼に抱擁を送っているからである。
しかし、次の一言で、リオンは冷水をかけられたかのように我に返った。
「いやなヒト、本当にいやな女ね」
「……マリアン?」
「エミリオを何度も地面に突き飛ばして、アザだらけにして。怪我をさせても謝りもしない。今度は一体何をしたの?」
彼女の口から他人の悪口を聞いたのは、初めてのことである。いつもならリオンが愚痴を言い、それをなだめるのがマリアンだったはずなのだが。
他人の目がない中庭での出来事を彼女が知っていることにも驚いたが、何より彼女が他人への中傷を口走ったことに、彼は驚いていた。
リオンの驚愕に気付かぬまま、マリアンはそのまま、言葉を続けている。
「あなたが望むならあんなヒト、追い出すこともできるのよ? ヒューゴ様に頼んで、今までと同じように……年端もいかないあなたに良からぬことをしたなら、尚更」
「マリアン!」
耳元で囁くマリアンの言葉を大声で遮り、リオンは困惑したように抱きしめられたまま首を振った。
リオンの声は、普段とはまるで違う彼女に脅えるかのように、震えている。
「違うんだ。あいつはただ、僕が筋肉痛で苦しんでいたからそれを治しただけで、良からぬことなんかされてない。あいつのことは確かに気に食わないけど、そんなこと言わないでくれ。マリアンからそんなもの、聞きたくない……!」
「エミリオ……」
リオンの叫びに近い懇願を聞いて、彼女は戸惑ったように、彼から身を離した。
瞳を潤ませ、興奮に頬を染めているリオンに、マリアンは優しく微笑みかける。
「ごめんなさい、エミリオ。私、勘違いをしていたみたい」
その笑みは、間違いなく本来のマリアンのもので。リオンは安心したようにほっと一息ついた。
「でも、つらくなったら必ず教えてね。私はいつでも、あなたの味方だから」
そして彼女は、本来の用事であろう夕食の準備ができたことを告げ、一礼して退室した。
「──失礼します」
フィオレの返事を受けて入ってきたのは、茄子紺のワンピースに純白のフリルつきエプロン、同じく純白のヘッドドレスをまとった
リオンと同じ用件を手短に告げられ、フィオレは端的に答えている。
「わかりました。すぐ向かいますので、どうぞお先に」
あとほんの僅かな工程を終わらせようと手を早めて、彼女はとある違和感に気付いた。
扉を開けたまま入り口に立つマリアンが、なかなか動こうとしないのだ。
「先に行っていてください、マリア……」
「リオン様に、何をしたのですか」
強く問い詰める調子で、マリアンは口を開いた。そのあまりにも聞きなれない声音に、フィオレは眼を見開いて彼女を凝視している。
よくよく見ればそのつぶらな瞳には強い批難が浮かんでおり、ある種の怒りまで感じられた。
「何って……」
「答えてください。あなたは指南役の立場を利用して、リオン様に何を……!」
「……何をしたと思っているんですか、あなたは」
頭を抱えて、逆に問い質す。態度からして、妙な誤解をしている可能性が高い。
「先ほど、あなたがリオン様の愛剣を持ってリオン様の私室に入っていくところをお見受けしました」
「確かに」
「その後なかなか出てこず、しばらくしてからようやく出てこられましたね」
「その通りです。それで、あなたはその間、私が彼に何をしたと思っているんですか?」
「とぼけないでください!」
そして彼女は、やっと自分の推測を暴露してくれた。
「あなたに何度も突き飛ばされ、痛みに呻くリオン様が動けないことをいいことに良からぬことを……!」
「揉み治療が、ですか」
「え?」
やはりそういうことだったか。
途端に押し寄せる頭痛と戦いながら、フィオレはえっちらおっちら説明を始めた。
「私は、普段使わない筋肉を酷使されて、筋肉痛だか疲労だかで身動きが取れなかった彼に按摩、揉み治療を施しただけです。それ以外は何もしておりません、断じて。大体、あんな子供に、一体何をしろというのですか」
半眼になって真相を告げるフィオレの勢いに押され、マリアンが半歩ほど引く。
その顔を隠すように背け、ついに彼女は深々と頭を下げた。
「も、申し訳ありませんっ、失礼いたしました!」
そのまま脱兎の勢いで走り去っていくマリアンを、うんざりとした眼で見送り。
フィオレは長々とため息をついていた。
「……密度濃かったな。今日」
「彼」の詳細につきましては、「The abyss of despair」四十四唱辺りご覧ください。でもできれば全部読んで下さい(宣伝)