ストレイライズ神殿、救護室。後のパーティメンバー・フィリアとの邂逅。
第一夜・混乱——ここは、どこ? わたしは……
「ったく、お前はほんとーにお人よしだな!」
心底呆れたような男のダミ声が、鼓膜に突き刺さる。
嫌な目覚ましで覚醒した彼女だったが、次なる声で癒された。
「ですが、あんな傷だらけなのですよ? ほうっておくことなんてできません」
高音ではあるが耳に優しい、柔らかな女性の声。
憤怒に満ちた怒鳴り声がまったく想像できない、慈愛に満ちた声音だった。
「あのなあ。世の中には金目当てにだまし討ちだってやらかすような奴だっているんだぜ? お前が近づいた途端、ぶすり、なんてやられたらどうするつもりだったんだよ」
「それは……ですが、実際にそんなことはされなかったではありませんか。ひどい怪我で、ぐったりしていて……」
続く会話を一応聞き取りつつ、眼を開ける。そこに目も覚めるような蒼穹はなく、ただ白い天井があった。
一眠りしたせいか、あの倦怠感は綺麗になくなっている。あのときは起き上がれなかった激痛も、今はそれほどではない。
ゆっくりと体を起こして周囲を見回せば、そこは消毒液の匂い漂う救護室らしき場所だった。
遠近感がつかめないと思っていたら、片目に包帯が巻かれている。
そのまま体を見下ろしてみると、患者着を着せられ包帯だらけにされていた。どうやら、誰かが治療してくれたらしい。
治療者はさぞ驚いただろう。何せ、この体には──がいるのだから。
などと考えつつ、自らの身体を見下ろして。彼女は固まった。
「……あれっ?」
かけられていたシーツを蹴る。
着せられた患者着をはだけ、まじまじと自分の腹を覗き込んだ。
「……え?」
どれだけ凝視しても変化はない。それにいぶかり、思い切り頬をつねった。
「……どうして」
つねった頬はじんじんと痛みを訴え、これが夢でないことを切々と訴えてくる。
とうとう彼女は患者着を肌蹴て、巻かれた包帯を取り外し始めた。
乾いた血液はガーゼに張り付いており、べりべりと音を立てては傷口を広げていく。
突如彼女が狂気に陥ったわけではない。
「……なんで?」
命を抱えていた腹。見慣れた古傷。それら一切は、綺麗さっぱり消えていた。
どこのガーゼを剥がしても生傷の治療痕が垣間見えるだけで、古い傷など影も形もない。どれだけ見つめても、ぺたんこになった腹が膨れるわけもなく。
「どういうこと……」
血まみれの包帯に囲まれて茫然自失となっていた、ちょうどそのとき。
遠慮がちなノックが聞こえた。
「あ……」
「失礼しま……きゃああぁっ!」
なぜか聞き覚えのある、ソプラノの悲鳴が今度こそ鼓膜に突き刺さる。
直後、バタバタという粗雑な足音と共に先ほどのダミ声が響いた。
「どうしたフィ……ごっ!?」
「いけませんわバティスタ! 覗きは犯罪です!」
春に芽を出す、若葉色の髪が揺れる。
ふたつのおさげに丸眼鏡をかけた少女は、手にしていた経典らしき本を振りかぶり、バティスタとやらに殴りつける動作をしてから素早く扉を閉めた。
自分の悲鳴を聞いて駆けつけた人間にひどい仕打ちである。
そんな感想など露知らず、少女はふぅっ、と額に浮いたらしい汗を拭った。その手に何も持っていないことから、殴ったのではなく投擲した様子である。
バティスタとやらの頭に角が当たっていないことを祈りたい。
「まあ、わたくしったらお見苦しいところを……って、駄目ですよ! 包帯を取ってしまっては!」
「ああ、えと、ゴメンナサイ」
腰に手を当てて叱りつける少女の仕草が可愛らしい。
一度呆然とした頭はなかなか正気を取り戻さずに、それだけを思う。
「でも、お気づきになられてよかったですわ。ご気分はいかがですか?」
「……悪くは、ありませんが」
思った以上に動揺している自分を抑えて、現状把握に脳を働かせる。
まずは現在地だ。
「ここはどこですか?」
「ストレイライズ神殿です。あなたはすぐ近くの森の中で倒れていたんですよ」
「……すとれ……?」
己の脳を最大限フル稼働させてその名を検索するも、まったく該当しない。
神殿ということは、よく知る宗教団体とは一線を画した、土着の信仰における崇拝対象か何かを祀っている場所なのだろうか。
考えてみても埒があかないため、素直に尋ねる。
「神殿とは、何の」
「女神アタモニ様を祀る総本山です。セインガルドでは国教ですので、名前くらいは聞いたことがおありと思うのですが」
女神アタモニ。別にこれはいい。
聞いたことこそないが、仰々しい名がつけられていない崇拝対象などおそらくない。
しかし、続く言葉を理解しようとして彼女は完全に混乱した。
セインガルドにおいては国教。
国教とはそのまま、国家が認めて国民に対し信奉するべきと指定した宗教を指す。
つまりセインガルドというのは一国家なのだろうが、そんな国など彼女は知らない。
国という言葉さえなければ、地方名か何かだろうと誤解できたが、聞いてしまった以上そんな逃避には陥れない。
「女神アタモニ……? セインガルド……?」
思わず首を傾げた彼女の様子を見て、おさげの少女は驚いたように口元へ手をやった。
「なんということでしょう……記憶を失われているのですね。お可哀想に」
優しげな眉が、悲しげに歪められている。大きな丸眼鏡の奥に鎮座する無邪気な瞳が、ひとつだけ瞬いた。
口元にあったたおやかな手が、素早く彼女の手を取る。
「申し遅れました、わたくしはフィリア・フィリス。このストレイライズ神殿で司祭を務めております。お名前を覚えておいでなら、お教えください」
「……」
考えたのは、ほんの一瞬だけだった。
「……フィオレンシア・ネビリム」
「え?」
「フィオレと呼んでください」
偽名ではない。亡き母が自分にと考えてくれた、本来失せるべき名だった。
フィリア・フィリスはフィオレの沈みがちな様子を、不安のためと受け取ったらしい。「大丈夫ですわ」と声をかけつつ新たな治療を申し出てくれる。
素直にそれを受けながらも、フィオレはさりげなく、左手の甲を撫でた。
手袋越しだが、硬質な存在が確かに感じられる。