この行いが後に黒歴史と化すことを、このときはまだだれもしらない(笑)
一方その頃。険しい顔で王城を出たフィオレは、屋敷に戻らず街中に出てきていた。その足で向かったのは、以前市街探索に出て眼をつけていた大型楽器店である。
ささくれた気分のまま店内を物色し、とある一角でフィオレはようやく足を止めた。
小さなもの、大きなもの、むき出しのまま飾られたもの、ケースに入れられ、ずらりと並んだもの……以前シストルを触っていて、そのうちに手に入れようと思っていた数々の音叉である。
手頃そうな音叉の品定めを始めつつも、指先の痛みは追憶を引き起こした。
(…………負けちゃった)
白羽取りした際、大剣に軽く指を食い込ませて作った裂傷は、無論のことそうひどいものではない。
敗北した事実は変わらないが、それを気にするのはヒューゴ氏の仕事で、フィオレがいつまでもうじうじ悩むことではないはずだ。
勝負に横槍を入れてきたリオンのことも、今は何とも思っていなかった。考えてみれば、事実はどうあれ屋敷から一歩外へ出れば彼はヒューゴ氏の息子ではなく、雇われの身なのだから。いつクビにされても構わないフィオレとは立場が違う。そんな背景を考えれば、彼やシャルティエに怒りを覚えたところでどうしようもない。
フィオレの心をもっとも刺激したもの。
それは、フィンレイとの手合わせにおいて促されるまで決着がつけられなかった、フィオレ自身にあった。
あの場で──フィンレイだけでなく七将軍たちとの手合わせで判明したことだが、彼女の体は思った以上になまっていたのである。
ここ最近平和な暮らしに浸りきっていたせいだろう。リオンとの手合わせなど運動のうちに入らないし、神殿を出た直後の旅路でこれといった苦労をした覚えもない。
神殿近隣の森で眼を醒ます以前までは、そこそこ命のやり取りをしていたのだから、必然だと思う。
しかし、これからそんなことではいけない。ジルクリスト邸の蔵書によって、いくつか守護者たちの聖域に目星をつけつつあるのだ。
シルフィスティアは友好的にも自ら聖域へ招き、契約を交わしてくれたが、他の守護者たちが必ずしもそうだとは限らない。
死力を尽くさねば聖域にはたどり着けないのかもしれないし、守護者が必ず平和的に契約を交わすことを望むとも断言はできない。
非常事態が発生したとき、自分の力不足で切り開けないというのは、フィオレにとって最大の屈辱だ。後悔したくないと願う以上は、それが可能な限り叶えられるよう、努力をするべきなのである。
進まなければ。一歩でも、這いずってでもいい。立ち止まらないために。
そんなことを悶々と考え込みながらも、フィオレは小型の音叉を購入した。
まずするべきは──謁見やら手加減を強いられた手合わせなど、慣れないことをして疲れた自分を、癒すことだ。有体に言えばストレス発散に当たる。
音叉を手にしたフィオレは、以前にも来た噴水のところへやってきていた。詰め所を背にする形──以前腰掛けた場所とは正反対の場所を陣取る。流石のフィオレも、警備隊の詰め所目の前で騒音公害をやらかす度胸はない。
そう。フィオレはこの場所で、シストル片手に歌唱をするつもりでやってきたのだ。
まずは、痛みの薄れない裂傷を癒す必要性がある。
「命よ、健やかであれ。心安らかな癒しを、あるべき姿を」
♪ Luo Rey Qlor Luo Ze Rey Va Ze Rey──
控えめな歌声は、噴水の奏でる単調な音色にかき消された。
しかし、浮かび上がった譜陣はフィオレの指先に刻まれた裂傷を跡形もなく消し去っている。
彼女がこの場所で歌唱練習をすると決めた理由はここにあった。
噴水による流水の音があるのだから、多少は騒がしくしたところで大丈夫だろうという腹積もりである。最も、制止されれば無理に続けるつもりもなかったが。
シストルを取り出し、音叉の二股部分を指で弾いて、取っ手を耳の穴へ差し込む。和えかな響きが尾を引いているうちに基礎となる音階を合わせ、調律を済ませた。
キャスケットをひっくりかえして自分の眼前に放る。おひねりが欲しいわけではないが、これで小銭稼ぎ目当てか何かに見えることだろう。
♪ 世界はもろくて 人は弱くて 時間は慈悲を知らなくて──
シストルをかき鳴らし、数節の伴奏の末に、フィオレは細い喉を振るわせ始めた。
「フィオレンシアと言ったな。あの娘を、客員剣士として招きたい」
国王の提案は、ヒューゴ氏のみならず、その場に居合わせさえすれば予想可能なものであった。
七将軍相手に堂々たる戦いぶりを披露し、大将軍フィンレイに敗れはしたものの、互角の戦いを繰り広げた強者。おまけに物腰優雅にして端整な麗人なのである。
大規模にして国内外唯一の企業総帥、国王の信頼に足るヒューゴ氏とはいえ、彼だけの手駒にしておくには惜しいと考えるのは、造作もないことだった。
暗にお前の手下を寄越せと言われたヒューゴ氏は、内心の思いを欠片も出さず、軽く考えるような素振りを見せている。
「陛下がそのように所望したと、伝えてはおきましょう。しかし、嫌がるようでしたら別の手を考えねばなりますまい。何事も無理強いはよくありませんからな。その方法、私めに任せてはいただけませんか?」
「うむ、許そう。従来の指針に触れぬことを期待する」
ようは、客員剣士としての待遇を変えず、口八丁手八丁で説得しろという意味だ。しかし、それは彼にとって許容範囲内の達しである。
自分の目論見がうまく通ったことに誰からも見えぬよう唇を歪め、ヒューゴ氏は慇懃に頭を下げた。
「時に総帥、その彼女についてだが……出身地すらも聞き出してはいないのか」
一度は終わった話題を、浮上させたのはイスアードである。
どこかピンポイントな彼の質問に、同僚であるアスクスが口を開いた。
「そういえば、あいつが入ってきた時点でなんか驚いていたな。あの顔に覚えでもあるのか?」
「……顔や姿の特徴だけを挙げれば、私は彼女を知っています」
驚きの証言に、国王やヒューゴ氏はもちろんのこと、一同が彼の言葉に耳をそばだてる。
「しかし、私の知る限り彼女は刀を振り回すことはおろか、虫も殺せぬような深窓の令嬢でした」
「令嬢……なら、あのような礼節を知る態度にも納得がいくな。イスアード、なぜそれを早く言わない」
ミライナの咎めるような視線を受け、イスアードは言葉を重ねた。
「おそらく別人だと思ったのだ。髪の色は違う、あのような眼帯に覚えもない、様子が違いすぎるし、あの剣技の冴え……現年齢を考えれば、少々幼すぎるようにも見える」
「髪の色は染められる。眼帯は、まあ、こけおどし。様子の激変は記憶障害のせいにするとして……やっぱりあの強さだけは説明できないかな。ミライナちゃんみたいな事情もなかったんだろ?」
そんな推測を並べ立てるも、リーンの意見はイスアードの首肯によって推測の域をでない。
一方でアシュレイは、フィオレの携えていた武器のことを思い出している。
「でもあの刀は、アクアヴェイル産の剣のことですよね? あの人は二振りも持っていたじゃないですか」
「基本的に刀を扱いが学べるのはアクアヴェイルだけだ。私の知る女性でなくとも、アクアヴェイルの出身ではないかとは思っていた」
「ときにイスアードよ。お前の知る女性の名、素性は?」
国王の質問を受け、彼は多少ためらいながらも、自分の唯一当てはまる彼女の素性を述べた。
「名は、エレノア・リンドウ。数年前に命を落とした、アクアヴェイル連合公国モリュウ領子息の婚約者だった女性です」
♪ 望んだように 微笑むだろう 「私は星のもとに逝く」と──
一曲歌い終わって。フィオレは居心地悪そうに、それでも大きく息をついた。
アルメイダの村でもそうだったように、フィオレの眼前には足を止めた聴衆がわだかまっているのである。
その数は、アルメイダのときと到底比較にならない。流石セインガルドの首都、暇人が多いとでも思うべきか。
他人に聞かせるために、あるいはガルド稼ぎに歌ったわけではないが、それでも形式は保っておくべきだと思われた。
「……御静聴、ありがとうございました」
上ずる声を抑えて、聴衆に向かって頭を下げる。
今まで不気味なくらい静かに聴いていたのだ。文句をつけるために集まったわけではないだろう、と予測したのだが。
ぽふっ、と音を立てて、キャスケットの中に何かが収まる。それは、10ガルド硬貨だった。
それを皮切りに、いくつもの硬貨がキャスケットの中に投げ入れられる。
始まった拍手は漣のように広がるものの、謁見の間で感じたような不快さはない。聴衆による、単純な、本当に単純な賞賛の印だった。
聞いていて心地のいい波音の間から、「アンコール!」という掛け声のようなものまで聞こえる。
「暇人ですね、こんな素人の歌を更に聞きたいと叫ばれるとは」
本気でそう思いつつ、フィオレは聴衆に向かってそう言い放った。
途端、拍手が鳴り止む。
「でも、褒められて悪い気はしないので、違うものを歌いたく思います。それでもよろしいですか?」
返事の代わりだろうか、拍手が聞こえてきた。
「拍手を肯定とお受けします。違うのでしたら、文句なり立ち去るなり、なんなりと」
勝手にそう決めつけて、フィオレは再度、シストルを構えている。
響き始めた歌声を前に、文句も、立ち去る人間も、少なからずフィオレは気付かなかった。
──そして。異なる三曲を思う存分熱唱したフィオレは、空腹を覚えた時点で噴水の前から立ち去っている。
気付けば太陽は中天を通り過ぎ、後は傾く一方だ。
大声を出してすっきりした、と言えばすっきりはした。しかし何とはなしに、重いものがある。
それはフィオレの腕に抱えられた、キャスケットの中身だった。
違う曲を披露したせいなのか、大きめのキャスケットから零れんばかりに小銭がひしめきあっている。しかも、これがすべてではない。
静聴に感謝し、帰ろうとしたフィオレの前に、数人の若者が小銭の入った袋を差し出したのである。こんなには受け取れないと言ったフィオレに、彼らはキャスケットまで届かなかった分を拾ってきた、と言い出したのだ。
フィオレにはわからない話だが、それだけ人が集まっていたのだろう。噴水の音で聞きづらかったろうに、物好きな話である。
ともかく、フィオレは若者らを労い、労働の対価と称してその小銭を押し付けてきた。受け取るべきフィオレがどう使おうと、それこそフィオレの勝手である。
路地裏でキャスケットの中身をハンカチで覆い隠して、彼女は屋敷へと帰りついた。正面玄関を開こうと手を伸ばし、勢いよく開いた扉を前に思わず飛び退る。
現われたのは、漆黒の猫毛に凛とした切れ長の瞳を持つ少年──リオンだった。
「あ──と。ただいま戻りまし……」
「どこに行っていたんだ」
フィオレの姿を認めるなり、半眼になって彼女を睨む少年に挨拶をしようとして、不機嫌な声に尋ねられる。
正直に行動を報告する義務もなく、フィオレは適当にぼかして答えた。
「街中にいましたが、それが?」
「治療はどうした。帰宅許可を出せば自分で手当てをすると抜かしていたのは誰だ」
そういえば、そんなことを言ったような気がする。
それに合わせて謁見の間でのこと、腕試しのことを思い出して、フィオレは嫌な気分を振り払うように軽く首を振った。
「治療に関しては済ませてあります。そんなことを気にするなんて、心配してくれたんですか?」
「誰が!」
「そうですか。安心しました」
打てば響くようなリオンの返事に、フィオレは心から安堵している。
──アレの息子に心配されるなんて。恥なんてものじゃない。
奇妙なその返事に、リオンはいぶかしげに眉をひそめている。
「……どういう意味だ」
「雇い主の命令とはいえ、迷いなく不意討ちを仕掛けるような人間に、心配なんか願い下げだという意味です」
「!」
辛辣な言葉を浴びせられ、硬直するリオンの隣をすり抜け、私室へと戻った。
まずは、この重たい荷物をどうにかしなければ。
「マリアン。両替とかってどこで出来るんでしょうか」
「ど、どうなさったのですか、この小銭の山。噴水から、お拾いに?」
※原作においてエレノア・リンドウさんは過去の方として存在します。しかしその容姿は明記されておりません。
世の中には自分と同じ顔の人間が三人はいるとも言いますので、そんな感じの解釈をお願いします。