無印(ps)のデスティニーでは再三船に乗っていたにも関わらず、そういった描写はなかったように思います。彼が乗り物に酔ったと申告があったのは、飛行竜乗船時のみ。
もしかして人知れず苦しんでいたんだろうか……あるいは単に彼の属性≠設定が追加されただけなのか。
真偽は定かでないので、ここのリオンは「極度の船酔い体質である」ということにさせていただきました。
参考までに、胃腸が弱い・自律神経が不安定・貧血・神経質なタイプな人間は乗り物酔いをしやすいと言われています。
彼はきっと、一番最後ですね。
港にて。フィオレは眉間に縦筋を三本ほど刻んだリオンと共に、定時連絡船の到着を待っていた。
港は活気ある喧騒に包まれているものの、リオンの表情は普段以上に無愛想である。
時々思い出したように舌打ちをしたり、陰気な調子でシャルティエに話しかけるその様子は、完全に不審者のそれだった。
彼の機嫌をこれ以上損ねないよう、というよりはあまり関わらないよう「港を見学してくる」と言ってその場を離れ、フィオレは小さくため息をついている。
今朝方のこと。フィオレは一枚の羊皮紙をヒューゴ氏へ提出した。
彼は何も言わずそれに眼を通し──細い眼がフィオレを射抜く。
「聖域の探索か。ここに来て以降何も報告がないから、てっきりあきらめたのかと思っていたぞ」
ヒューゴ氏の言葉も、仕方の無いことだった。
レイクドラゴン討伐以降、フィオレはリオンの剣術指南からストレス発散、客員剣士見習いとして依頼される魔物退治野盗捕縛、時折命じられるオベロン社関連の護衛仕事、と日々活動的な生活を送っている。
資料による聖域探索を忘れたわけではない。身を入れてやっていなかっただけだ。
ところが最近になって、とある資料にかなり有益な情報が載っていた。
思っていたよりは居心地が良かったここの生活に区切りをつけるべく、目的を思い出す意味でこの度遠征を決意したのである。
ちなみに差し出したのは休暇届であった。
「そんなわけで、ちょっくらカルバレイスへ行ってきます」
「カルバレイス? あの土地に守護者がいるというのかね」
「その件に関してかなり詳細な資料を手に入れました。カルバレイスという土地柄に関してはそれなりに予習をしてあります。かなり排他的だそうですね」
第二大陸、カルバレイス。
セインガルドとは大幅に異なる熱帯性気候で、大陸の大半が砂漠で占められているという。
「ああ。天地戦争について知識はあるかね?」
「──彗星の激突により、舞い上がった粉塵が太陽光を覆い氷河期を招いた。生き残った人類は、粉塵より更に上空へ天上都市なる第二の大地を作り上げたが、僅かな特権階級にしか移住は許されなかった。それは地上の民と見下された当時の人々の反感を買い、やがて戦争が勃発した──と、私は認識していますが」
「うむ、それは戦争の発端だな。最終的に地上の民は天上人たちを捕虜とし、戦争は終結した。捕虜となった彼らが追いやられるように移住させられたのがカルバレイスだ。だからカルバレイスの人々は地上側の子孫である他国人を無条件に嫌う傾向にある」
「戦後長く続いた差別と迫害の歴史があって、彼らは心を閉ざしてしまったのではないのですか?」
「そういう解釈もできるな。そして他国人は、排他的なカルバレイス人との交流を避けてしまうという悪循環が存在することも確かだ。従って、現地での聞き込みには期待できないぞ」
承知の上である。そうでなければカルバレイスという土地を知った上で、積極的に行きたい、などとは言い出さない。
そのことを伝えると、ヒューゴ氏はふぅ、と息を吐いた。
「本当は止めるべきなのだろうが、契約でも取り決めてしまったからな。いいだろう、行ってきたまえ。渡航に関してだが──」
「それも調べました。一応カルバレイスには定時連絡船があるらしいですね。今日にもそれで向かおうかと」
当初の目的である許可をもらったにつき、さっさと出かけようとフィオレは早々に退室を図っている。
しかし、ヒューゴ氏に肩を掴まれてそれは阻まれた。
掴まれた瞬間、肩が震える。
「……何か」
「まあ待ちたまえ。全力でサポートすると言った手前、このくらいはな」
さりげなく肩の手を外して睨むフィオレを涼しげな顔で見下ろし、彼は自分の執務机の引き出しを開けた。
分厚い封筒を渡され、開けてみれば定時連絡船の無料招待券と、数えるのが面倒な程度にはガルド札が入っている。
フィオレは無料招待券だけを引き抜いて封筒を突っ返した。
「旅費くらい自分で出しますよ。こっちはありがたく頂いておきますね」
「話は最後まで聞くものだぞ、フィオレ君。カルバレイスに行くなら、チェリクのバルックにこれを配達してほしい。そちらの封筒の中身は旅費兼
そう言われてしまえば、反論もしにくい。
結果として、フィオレの手元には分厚い封筒と、細かい封蝋が刻んである薄っぺらい封書を渡された。
更にヒューゴ氏の支援は続く。
「それと、女性の一人旅は危険だからな。リオンを護衛に連れて行きたまえ」
「本気で言ってるんですかそれ」
「ああ、本気だとも。指南役に招いたとはいえ、君の見た目はか弱い女性そのものだからな。変なトラブルを頻発されても困る」
「……彼の嫌そうな顔が眼に浮かぶのですが」
「嫌がるだろうな。だが、リオンのことに関して一応知っておいてもらいたいことがある。バルックへの届け物を運ぶ任務とでも嘯いて連れて行くがいい」
リオンのことに関してだけは、反論する暇も与えずに。
ヒューゴ氏はもう一枚の無料招待券をフィオレに突き出した。
そして、冒頭へと至るのだが。
時計台で時刻を確認したフィオレは、ごく軽量の荷物とリオンの待つ船着場へと向かっていた。
到着した連絡船の傍らで、憂鬱そうに船を眺めているリオンと、その足元にフィオレの荷物がわだかまっている。
「お待たせいたしました」
「……ああ、待った」
どこか恨めしそうに返事を寄越すリオンと共に連絡船へ乗り込む。
船内は閑散としており、それはカルバレイスへ行く人間はあまりいないことを示していた。
ヒューゴ氏から支給された無料招待券は個室つきで、個別の船室が振り分けられているものの、今フィオレはリオンの船室にいる。
カルバレイスに行くと聞いた瞬間機嫌が悪くなり、任務の内容も何も尋ねてこなかったリオンに説明するためだ。
「今回はカルバレイス支部のバルックという方にこちらの封書を渡して来い、というお使いなんですが……リオン、聞いてます?」
「……聞いている」
彼の船室に入った時点で、彼の異常は察していた。
乗る前はただひたすら不機嫌で苛立っていたというのに、出港して現在、彼はひどく怠惰で憂鬱そうにしている。
色白な顔は青ざめており、一目で絶不調であることが見抜けた。何かあったのか、と尋ねたところで彼は素直に答えないだろう。
ただでさえ弱みを見せたがらない少年のこと、先ほどの不機嫌さも相まって不用意に怒らせるのは得策ではない。
シャルティエに尋ねるのもいいかもしれないが、生憎と彼の声はリオンにも届く。こっそり答えてもらうのは難しいだろう。
従って、何もなかったように接するのがおそらくベストだと思っていたのだが。
「……うぷ」
どこか潮の乱れがあったのだろうか、ぐらりと船が揺れる。
それに合わせて小さく呻くリオンを見て、フィオレは封書を持った手で軽く額を押さえた。
「リオン。ひょっとしなくても、船酔いですか?」
「……」
返事はない。ただ、フィオレの視線から逃れるように座っていた椅子ごとそっぽを向いただけだった。
違うことなら違うとはっきり言うこの少年のこと、こんな態度では白状しているも同然である。
「酔い止め──成分表からしてめちゃくちゃ苦そうですが、飲めますか?」
「嫌だ」
飲めない、ではなく嫌だときた。そっぽを向きながらも、彼は気持ち悪そうに口元を抑えている。
偏頭痛を覚えながら、フィオレはリオンの首根っこを掴んで船室から引きずり出した。
「何をするっ……」
「甲板に強制連行します。吐き出すなら吐き出すで海原のお魚にあげなさい」
弱々しい抗議に耳も貸さず、フィオレはつかつかと廊下を歩いている。
階段になって初めてリオンに振り返り、その細い腰を掴んで担ぎ上げた。
幸いにも人目はないが、当然彼は暴れている。
「やめろ!」
「くやしかったら私が担げないくらいでっかい男になりなさい」
短い階段を登りきり、甲板に至る。絶好の航海日和な空はまぶしく、一面に広がる大海原は思いのほか穏やかだった。
しかし、ここに穏やかではいられない人が一人。
「……!」
解放された瞬間、その場に蹲ってひたすら吐き気に耐える少年を見下ろし、フィオレは小さく息をついた。
ヒューゴ氏が意味ありげに言っていた『知っておいてもらいたいこと』は、これのことだったのだろうか。
「ちょっとこちらへ」
リオンの腕を掴んで立ち上がらせ、手すりによりかける。
彼は苦しそうに手すりにしがみつきながら、フィオレを睨みつけた。
「気持ち悪いからって下ばかり見てると余計に気持ち悪くなりますよ」
「……」
「で、いかがですか? 吐き出せるならさっさと吐き出したほうが身のためです」
「……吐き出せと言われて……吐き出せたら、苦労は無い」
確かに。
今でこそ違うが、フィオレも特殊な疾患によって──正確にはその薬の副作用で吐き気にはさんざん苦しめられていた。気分が悪く嘔吐感はあるものの、内蔵の動きはないということか。
「そうですか。では、歯を食いしばってください」
「……待て。何を、するつもりだ」
「一発殴って胃を刺激します。大丈夫、のた打ち回るくらい痛いだけで内臓に損傷はあたえませんから」
無論のこと、彼は逃げ出した。
「あっ、リオン。どこへ行くんです」
「貴様がいないところだ! 人を無理やり連れてきたかと思えば、何を無茶なことを言い出す!」
「冗談に決まってるじゃないですか。でもそんな風に走り回れるなら、まだ余裕がありますね」
「……お前の冗談は、冗談に聞こえない……」
冗談、の一言に足を止めたリオンは、再び手すりにしがみついた。先ほどの元気はどこへやら、胸を押さえて苦しそうにしている。
そんなリオンを前に、フィオレは自分の水筒を取り出した。備え付けのコップに中身を注ぎ、リオンに向かって突き出す。
「……なんだこれは」
「まあとりあえず飲んでみてください。多少はマシになるはずです」
「酔い止めじゃないだろうな……」
「酔い止めはこっち。これは酔い止めが効かなかったときのことを考えて持参したものです。ちなみにマリアンに淹れてもらいました」
港で売られていた粉末を見せつつ、コップをリオンに手渡した。
彼は躊躇するものの、マリアンが淹れたものと聞いておそるおそる口をつけ始める。
一口、口へ含み飲み込んで。彼はひとつ、目をしばたかせた。
「……ミントティー?」
「ご名答。民間療法ですけどね」
目の醒めるような爽やかな香気が鼻をくすぐり、清々しい後味が口腔に広がる。
引かれるように飲み干す頃には、彼の気分はかなり改善されていた。
その様子を見て、フィオレはぽつりと呟いている。
「……マリアンの愛が効きましたね」
「は!?」
「何か入れましょうか、って聞かれたから、『愛を込めて淹れてくださいね』ってお願いしたんですよ」
リオンからコップを回収し、水筒を再び自分の腰へと下げた。
乗客は船旅に慣れている人種か、それ以外の理由か。二人以外に甲板に出ているのは、黙々と作業に従事している船員だけだ。
「無理やり連れ出してすみませんでしたね。ところで話、聞いていましたか?」
「バルックに手紙を届けるんだろう。まったく、なぜそんなことを僕が……」
「それが終わったら、私はちょっと用事があるのでしばらくカルバレイスに滞在します。あなたは先に帰っていていいですよ」
それを告げると、リオンは唐突に口を噤んでいる。かと思えば、彼はまこと懐疑的な眼でフィオレを見やった。
「……何を企んでいる」
「来週、マリアンの誕生日らしいですね。せっかくだから珍しい花をプレゼントしようかと」
嘘ではない。
しばらく留守にすると彼女へ伝えに行った際の雑談の中で、誕生日が近いことを偶然聞き出したのだ。
そのことは知っていたらしく、リオンに驚くような素振りはない。
その代わり、軽くひそめられた眉が何かどうでもいいことを考えているような、そんな気配があった。
やがて、その薄い唇がいぶかしげな質問を紡ぐ。
「……カルビオラビオラか?」
「は?」
フィオレは一瞬、彼が何を言い出したのかを計りかねた。
そもそも、カルビオラビオラが何なのかもフィオレにはわからない。
「花を採りに行くんだろう? カルバレイス産で珍しくて、保存が効く花といえばそのくらいしか……」
「ああ、植物の名称ですか。じゃあそれも探してみましょう」
「だがお前も物好きだな。そんなもの、取り寄せればいいだろうが」
「……」
唐突に、夕日色の髪を腰まで伸ばした鼻持ちならない青年の顔が浮かんで消える。
フィオレは微妙な笑みが浮かんでいるであろう自分の表情をあえて隠さずに、リオンを見やった。
「……そこはそれ、育ちの差でしょうね。庶民の私には取り寄せるなんて感覚はないし、仮にも贈り物なら自分の眼で確認した最高のものを差し上げたいんです。他人の目で選定されたものを、譲り渡すように贈りたいとは思いません」
そもそもフィオレがついでに探そうと思っていたのはデザートローズ──砂漠の薔薇だ。
あんなものを取り寄せようと思うなら、よほど信頼できる業者でもない限り完璧な形のものは望めないだろう。
生まれながらにして恵まれている彼に、それを理解させようとは思わなかったが。
フィオレの内心が、微妙な笑顔を通して彼に伝わったのだろうか。どこか不機嫌そうに甲板を立ち去る少年を見送って、フィオレは天を仰いだ。
その唇から、大譜歌と呼ばれた旋律が零れ出す。
♪ Toe Rey Ze Qlor Luo Toe Ze──
ミャアミャアと、海鳥が鳴く。
船にぶつかっては飛沫となって消える波間の音を合間に喉を震わせながら、フィオレは手すりによりかかった。
何もない青い空は、ストレイライズ神殿近郊の森で眼を醒ました際の記憶を彷彿とさせる。
これまでのことを思い返しながらも、フィオレは最後の一節を謡いきった。
♪ Rey Va Nu Qlor Toe Rey Rey──
ふぅ、と息をつく傍ら。ふとした疑問が脳裏をよぎる。
守護者と接触するには、聖域にたどり着くだけでいいのだろうか。
シルフィスティアのときは、彼女が導いてくれたおかげで聖域を探索するには至らなかった。
冷静に考えてみれば聖域の場所が明らかになるのを避けるため、尚且つ契約は問題なく結べるように、との配慮だったのかもしれないが、それでも事実は変わらない。
しかし、今回は違う。資料によれば、カルバレイスに聖域があるのは火の守護者・フランブレイブだ。今度は聖域を目指してひたすら突き進むのみである。
果たしてそれだけで、フランブレイブは契約を交わしてくれるだろうか……
言い知れない不安が、フィオレの心を包み込んだ、次の瞬間。
「……!」
左手に急激な疼きを覚え、フィオレは周囲を確認しながらも左手の甲を確認した。
手甲の隙間から覗いたレンズが、黎明の光を放っている。
これは──
『フィオレ、よくわかったね』
『な、何を、ですか?』
『その歌がボクたちを目覚めさせ、活性化させること──偶然にもかなり近くにアクアリムスの聖域があるし』
そういえば、アルメイダでも大譜歌を謡って、その夜シルフィスティアが接触を図ってきた。
ある程度聖域が近い位置で大譜歌を謡えば、あちらからフィオレの位置を探ってくれるというわけか──!
『フィオレ……フィオレンシア・ネビリム……』
明らかにシルフィスティアのものではない、凛とした女声が脳裏に響く。
『呼んでるよ、行かないの?』
『もちろん、行きます!』
シルフィスティアの問いに答えたその瞬間。フィオレの視界は一変した。
視界すべてが青い。まるで全身が海に包まれているような──
否。フィオレは海中にいた。すぐそばを、名前もわからない色とりどりの魚群が悠然と通過していく。
息は問題なくでき、手足が滞りなく動くということはシルフィスティアが風の結界で覆ってくれているのか、あるいはアクアリムスが何か──
『ようこそ、聖域へ』
声がするほうを見やれば、足が大地へついた。まったくわからなかったが、今の今までフィオレは海中を漂っていたらしい。
珊瑚礁が乱立し、魚介類のみならず様々な海洋生物が育まれるその場所に、ところどころか欠け、苔むした祭壇のようなものがある。
祭壇の上には、わだかまる青い光がポツンと浮いていた。それも僅かな時のこと、光は一点に集中し、徐々に人の形を成していく。
やがて現れたのは、蒼穹の長髪を優雅にたなびかせた女性の姿だった。
簡素な白い衣をまとい、シンプルにして長大な槍をその細腕に携えている。
『私はアクアリムス。この世界の水を統べる者。守護者の一柱として、あなたとの契約を望みます』
「シルフィスティアから大半は聞き及んでいます。唐突で申し訳ありませんが、契約を結ぶ代償として答えていただきたい」
『私に答えられることならば……』
「この世界は何ですか? どうして私の知る世界とは、こんなにも異なっているんですか?」
今の今まで、深く考えることを意図的に忌避してきた疑問だった。
深く考えてしまえば、思考の渦に呑み込まれ、二度と浮かんでこれそうになかったから……
『……あなたの想像通り。ここは、あなたが生を受けた世界ではありません』
「じゃあ、何ですか? 同じ時を並行する
『世界樹の幹はひとつでも、そこから生える枝葉がすべて同一であるとは限らない。時間という概念は人たる存在しか見出さない以上、時の川に対する考え方も同じこと』
世界樹ユグドラシルがその巨大な幹に生やす無数の枝、その中に存在する自分が生を受けた一本の枝から、何かの手違いで違う枝へ移動してしまったのではないか──
いつか聞き、そして自分で立てた荒唐無稽な仮説がここへ来て急に現実味が増す。
しかし同時に、それは新たな疑問を発生させる呼び水ともなった。
それを尋ねる前に、アクアリムスは慈愛に満ちた微笑を浮かべながら手をそっと差し出している。
『私は、あなたの質問に答えました。さあ、契約を──』
「……汝らの、意に沿う」
まるで握手に応じるかのように左手をその手に重ね、フィオレは誓いを口にした。
確かに彼女はフィオレの質問にひとつだけ答えている。これ以上無理に聞いても、答えてはくれないだろう。
「汝らの願いがため、我にその加護を。我に力が貸し与えられんことを。願わくば契約が、無事に果たされんことを」
『その意思がある限り、あなたへの忠誠を誓いましょう。限りなき水の恵みが、あなたと共にあるように』
重なった手を軸に不可視の力場が発生し、アクアリムスの姿が除々に薄れていく。
その姿は光の粒子へと姿を変え、左手に張り付いたレンズに吸い込まれていった。
瑠璃の色がレンズに宿る。
『契約完了。これからよろしくお願いします、フィオレ』
『あなたも、力そのものと幻の姿だけ貸してくださるのですか?』
『その通りです。何かご不満が?』
『力はともかく、幻の姿に何の意味があるのかと……』
『よ、用事がありましたら何なりと。それでは』
アクアリムスはどこか慌てたように言葉を詰まらせると、早々にフィオレを船上へ送り返した。
今回は、呼ばれて押し問答を繰り広げなかったからだろうか。太陽の位置はそれほど変わっていない。
予期せぬことではあったが、契約は無事取り交わすことができたのだ。そして彼らの聖域を探すための手段も、確立することができた。
左手の甲に触れ、知らず頬を緩める。これだけでも遠出した甲斐があったと、内心でフィオレは上機嫌だった。
そこへ。
「ねえねえ、どこから来たの?」
「チェリクに行くの? それとも、カルビオラ?」
「大部屋にはいなかったから、個室ですよね? どこのお部屋なんですかぁ?」
姦しい声が聞こえ、くるりと階段を見やる。
そこからは、現地の人間だろうか、よく日に焼けた娘三人と彼女たちに囲まれている誰かが現われた。
女に囲まれているということは男性、それも色男である可能性が高いだろう。
それにしても彼女たちの背が高いのか、囲まれている人間の顔がわからない……
「……ぷっ」
盛大に吹き出すのを懸命にこらえて、再び大海原の側へ向く。
女性三人をはべらせながらも仏頂面で黙り込んでいたのは、誰あろうセインガルド王国客員剣士、リオン・マグナスご当人であった。
幸いにも、彼の視界にフィオレは映っていなかったらしく、彼が何かを言い出す気配はない。
だがしかし代わりに。
『坊ちゃん、いましたよフィオレ』
「……どこだ?」
『ほら、あの甲板のところの……』
シャルティエが要らないことを言って、彼はフィオレの存在に気付いてしまった。
『シャルティエ。どうしてそう目端が利いてしまうんですか。せっかくリオンが逆ナンでうはうはできるチャンスなのに』
『君、坊ちゃんがそういうの好きじゃないってわかってて言ってない?』
『もちろん。でも女の扱いくらい知っておいて損はありませんよ? これから嫌でもそういったトラブルに巻き込まれるでしょうし』
『これから、じゃなくてもう巻き込まれてるよ、現在進行形で! 早く助けてよ、坊ちゃんまた船酔いしちゃったんだから!』
それは一大事である。フィオレは慌てて振り返った。
階段から三人の娘を取り巻いて近寄ってくる少年の顔色は、普通に見える。無理をしているようにも見えない。
フィオレの姿を見、リオンが彼女のもとへ近寄ろうとわかった三人はといえば、面白くもなさそうな顔でフィオレを睨んでいる。
しかし、それを気にする二人でもなかった。
「……?」
「別に船酔いはしてない。少し気分が悪いだけだ。それでお前、今までどこにいたんだ」
「どこって……」
ちょっくら海底らしいところにあったアクアリムスの聖域へ。とは答えられない。
「別にどこでもいいでしょう。気分が悪いなら船室でお休みになられたらいかがです?」
「……あの連中を連れて行けというのか」
シャルティエに話しかけるような、押し殺した声で囁くリオンは横目で彼女たちを見ている。
フィオレを探して船を歩いていたら、逆ナンパにひっかかった、というところだろうか。
「いいではありませんか。いっそ、社会勉強に部屋へ連れ込んで、オトナへの階段を全力で駆け上がってみては?」
「……それを本気で言っているようなら、僕の全力を持って貴様を海の藻屑にするぞ」
その言葉に謝罪を口にしかけて、ふとやめる。
リオンの眼は未だに不機嫌そうな彼女たちを見ていた。ここはリオンと関係があるように見せるよりは、こちらのほうが……
さりげなく、紫電の柄に手を触れる。彼は承知しているとの意思表示に、シャルティエの柄に手を触れた。
彼としては、手っ取り早く彼女たちを追っ払え、気分転換にもなるだろうとの踏んでのことだろう。
「……面白い。できるものならやってもらおうではありませんか」
「上等だ。今度こそ、念話とやらのことを教えてもらう!」
『ちょ、ちょっと坊ちゃん!?』
会話の最中に引き抜かれた得物を手に、二人はほぼ同時に甲板を蹴った。
唐突に始まった剣戟を前に、どう見ても一般人にしか見えない彼女たちは悲鳴を上げて避難している。
それを十分に確認してから、フィオレは通常稽古で行う剣戟を誘った。
これは準備運動代わりに毎回行うもので、彼とは幾度と無く繰り広げられている。
とはいえ、その内容は十合ごとに攻め手と受け手を入れ替える、ただの剣舞とそう変わらないが──素人目では、刃物を振り回した喧嘩にしか見えないだろう。真剣使用につき、気を抜いたら怪我をすることだけは確実なのだ。
「ちょっと、何よアレ!?」
「やばくない? もう関わんないほうが……」
「あ、まずい!」
観衆と化した彼女たちが、何やかやと声を上げている。
いきなり喧嘩を始めた男女を目にした割には、何か違う方向に焦っているように見える──と思っていると。
ドカドカと乱暴に階段を駆け上る音がして、三人の男たちが甲板に現われた。
上半身裸あり、スキンヘッドあり、上背あり、共通して目つきが悪いと一目でカタギでないことがよくわかる。それゆえに、視覚的恐怖効果も十分上乗せされていた。
「おうお前! 俺の女に何手ェ出してやが……あ?」
男たちは現われるなりそんなことをのたまい、激しい剣戟を繰り広げる二人を見て唖然としている。
『フィ、フィオレ、どうすんのこれ?』
『無視です。そのまま続けるよう、リオンに言ってください』
リオンの動きが鈍り、シャルティエが戸惑ったように声を上げる。
続行を促して、フィオレは再びちらちらと娘たち三人、新たに現われたむくつけき男たち三人の観察を続けた。
「おいおい、なんだこりゃ?」
「身なりのいいお坊ちゃん見つけたと思って声かけてたんだけど、一瞥もくれなくてさ。あれよあれよという間にここへ来て、女に話しかけたと思ったらおっぱじめて……」
「こりゃあ無理だな。止めさせて怪我しても割に合わねえ」
次々に、舌打ちやら愚痴やらを吐き捨てつつ、男たちは娘たちを伴ってぞろぞろと階段を下りていく。
剣戟の最中に遠ざかる足音を確認して、フィオレは大きく間合いを取った。
リオンが仕掛けてこないことを確認してから、剣戟終了の合図として刀を納める。それを見て、彼もまた腕を下げた。
「新手の美人局だったみたいですね。鼻の下伸ばさず見破るとは、やるではありませんか」
「別に美人局だとわかったわけじゃない。あんな得体の知れない連中など、言葉を交わす気にもならん」
それについては同意である。
ともあれ、彼女たちのおかげでどこにいたのかを問い詰められなかったのだから、多少はこのめぐり合わせに感謝するべきなのかもしれない。
二人して船室へ向かいつつ、フィオレは内心でほくそ笑んでいた。